操船の域内と域外 間宮林蔵「樺太調査」のルート
 操船の域内と域外 間宮林蔵「樺太調査」のルート

 形は緩やかな曲線ながら、実は<丸木舟運行>にとっては<重要な意味>。そう受け止めざるを得ない探検コースが南樺太に、示されていた。



 図の赤線は間宮林蔵の探検コース。
 シラヌシを出発した林蔵は北知床半島に向かうも、ここで<北上&北進>を断念する。
 その要因はアイヌ民族から借り上げた<丸木舟>を操船することのできた海域と、困難になった海域の転換点が「北知床岬」と、するものであった。

 林蔵が樺太調査を担当したのは文化5=1808年とされる。
 相方の松田伝十郎が樺太西海岸、林蔵は東海岸を担当することになり、前にすすむことが困難と判断されたとき、相方のルートに合流する方法がとられたと、する。

 間宮林蔵はアイヌ民族のもちいる<丸木舟>を操りながら、一書は「林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが」と書く。
 海岸にそって「シラヌシ→北知床岬」まで北進するも、以北の海岸線を丸木舟で北上することは困難と判断したことになる。

 この間は決して深い湾や入り江ではない。しかし岬以南の緑丸印と以北の<外洋>とは、操船条件に大きな差異のあったと、筆者の理解では推測しておく。

 そのあたりの調査精度を高める作業は他に譲ることとして、今は釧路町大字跡永賀村に位置する「浦雲泊 ぽん・とまり」の地形について、言い及んでおくことにする。



 図で「(西の)タコ岩」=十町瀬に張り出している岩。
 その図の「(東の)ローソク岩」=冬窓床 プ・イ・マ」の岩を見てとれる。
 この二点の「張り出し部分」が意味をもち、緑線で囲んだ海域は丸木舟を操船しやすい好条件。つまり「ポン・トマリ 小・泊」と理解するにふさわしい条件を用意していることになる