真宗禁制・苛斂誅求・門割制度、桃園恵真鹿児島大学210417.
  真宗禁制・苛斂誅求・門割制度、桃園恵真鹿児島大学210417.



 薩摩家中の「隠れ念仏」と「苛斂誅求=かれん-ちゅうきゅう」の語句を耳にしたは、1965年に至る時期。
 しかし、「隠れ念仏」と「苛斂誅求」の概念が結びつかないままに、ここまで過ごして居た。

 1965年ころ学部で、「真宗禁制」と「門割制度の苛斂誅求」の話を、当時の指導教官に聴かされた。
 古書店に注文して桃園恵真氏の論文を買い求めた記憶がある。

 一読するも、理解できたとは言いがたいまま、記憶の外にあった。

 1886年、鹿児島市・都城市を訪ね、指宿温泉を通過したのは前田正名翁調査のためで、真宗禁制も特攻基地・知覧も念頭にはなかった。
 
 
 「苛斂誅求」の背景に、伊藤忠士氏は
 「門単位に年貢や夫役=ぶやくが課せられ」「(年貢は)八割を超える高率」「重い負担で農村は荒廃した」と書く。

 人吉・鹿児島・都城の地が対象。
 権力で「南無阿弥陀仏」を禁ずるも、「隠れ念仏」で「真宗禁制」に対抗した。
 その年数は戦国時代末に始まり、江戸時代を通じた実に300年に及ぶ

【苛斂誅求】
税金や借金などを容赦なく厳しく取り立てること。
「苛」はむごい、また、責め立てる意。「斂」はおさめる、集める意。「誅」は責める意。