文化としての銭湯 経済的にはともかくなお、存在感
往時は「新しいコトの提案」「旺盛な投資行動」が目を見張らせた本市ながら、このところ新しい価値づくり、前向きな投資、積極的な企画開発がスッカリ<カゲリ>を見せるようになりまして。

銭湯も、往時は経済の問題として「単身家族」の集結する都市拡大期には、大きく貢献した領域だったと思うのです。昭和25年、上京した折に銭湯に案内され、他人のなかで裸になるなど思いも寄らぬできごとでした。

近年は、近くの銭湯、遠くの温泉。
1)広い湯舟、
2)多様な湯温、
3)サウナとの併用、
4)薬草湯の普及、
5)近隣者とのコミュニケーションなどなど、

自宅の据え風呂は経済の問題、銭湯は文化の領域で、「庶民の愉しみ方」の一種とする役割が確かにある。そう考え、活用させてもらってきました。

しかし、近年の可処分所得縮小はそうした<遊び>を許さなくなりつつあるのかも。
他方で今次の感染症拡大は、如何にも「商品」「サービス」「生活スタイル」の外部依存にいやおうなく気がつき、「余剰部分」の削減が生活に広まっているかも。

などなど考えつつ、廃業を受け止めています。

なんとか、付加価値の創出をとおもいつつ、大きなことの前に小さな価値を提示する。密かに期している点です。 
(最近、高校教諭に頼み『のぞいてごらん、釧路はこんなところ』を発行。某新聞社と取り組んでいた『くしろ写真帳』の出版に参加していました)。