「本地垂迹②」
昨日に続きます。・・・・・

 欽明天皇の時代に仏教が初めて伝来した時、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との間に激しい対立が起こったのはご存じでしょう。
その後、聖徳太子を経て、仏教は鎮護国家の中心として国家の手厚い保護を受け、奈良時代に至り、全国規模の国分寺・国分尼寺の建設、又「東大寺大仏」の建立等で、国家仏教は頂点に達して行きました。

 そうして、あまりに力を持ちすぎた奈良仏教から離れるため、桓武天皇は遷都を決意し、長岡京の失敗のあと、平安京を建設したのですね。
その際、都の鬼門の守り比叡山延暦寺と、市中にあって真言密教の中心である東寺が、平安京で最も重要な寺院となり、以後も見た限りでは長く仏教の時代が続いていきます。
 
 で、その間、神道は如何したか?一応神社というシステムはあるので、これが仏教と融合することで続いているのですね。

どういうことか、少し説明すると・・・・、
奈良時代、奈良の都には巨大寺院が相次いで建設されますが、例えば八幡神という神は仏教の守護神を名乗り出ることによって、東大寺の「手向山八幡宮」のように境内にいっしょに祀られている。
また、藤原氏の氏神である春日神は興福寺を守護している。
仏教の守護神という立場に自らを置いているわけですね。

 平安時代の初めにも、空海は「高野山金剛峰寺」を開くにあたり土地神である狩場明神や丹宇津姫神に許可を求め守護を請うているし、比叡山延暦寺も、元々信仰されていた山王神という山の神が守護神とされているようです。

 ここには「仏」という外来の神を、日本の土地神が守護するというパターンが見られます。
ここではまだ母屋にいて軒を貸してやっているような神々の立場が、何となく感じられなくもないですが・・。

<・・・・次回へ続く>