中国
 8ミリカメラからの中国 佐藤憲正著『中国ファインダーのぞ記』(1985年 自費出版)

 1982年10月末から同11月初旬にかけ旅した中国。
 「香港」「広州」「成都」「重慶」「武漢」「宣昌」「西陵峡」「丘陽と洞庭湖」「広州と仙山と」と紹介される。
 「あと書きに代えて」では「行く先々の見聞や感想が中心」としつつも、「その土地の歴史や人物の略伝、それに自分の思い出などもからませ」と、続ける。

 出版舎に務めて定年退職後、橋本義夫氏が主宰する「ふだん記」とする結社の「文友」として参加した。
 「下手でもよい書こう」がモットーで、その呼びかけが「どれほど気楽に筆をもたせてくれたことか」。そう、受け止めていた。
 「橋本義夫 ふだん記」と入力するに、「自分史の先駆的な試みである「ふだん記(ぎ)運動」の理論的指導者」とヒットする。

 著者について幼児から、聴かされてきた。「憲正は中支に派遣された、南支に行った人はマラリアで苦しんだ」。著者の葉は、筆者にとっては祖母の弁であった。
 本書を通じて応召暦をみるに、次の三点がある。「昭和17年8月 応召 兵役に服す」
 「昭和19年3月 中国(無錫)に渡る」「昭和20年8月 中国江蘇州にて終戦」「昭和21年1月 福音」。

 著者にはもう一冊、『自分史』の出版があったことになる。
 ともかく「千島に派遣されることになっていたが、なぜか中止命令が出て、乗船しなかった」。
 後世に知る。昭和19年3月16日16時。中部千島得撫島にむけ釧路港を出航した日連丸ほか三隻は、港外で待機中の米軍潜水艦に襲われた。

 日連丸は釧路郡大字昆布森村沖で沈没する。「厚岸沖89キロの洋上」とされ、生存者は43名。
 遭難者の遺体は厚岸・正行寺、筑紫恋(つくしこい)や大黒島(だいこくじま)、昆布森村(こんぶもりむら)の海岸のほか、はるか東北地方沿岸にも漂着。
 派遣先変更がなければ、この4隻中に乗船していた可能性はきわめて高い。事件は承知していたが、そのことを著者に伝えた記憶はない。