「戦後北海道開発試作図」 道内紙<北海道開発計画70年>の社説に触発220718
「戦後北海道開発試作図」 道内紙<北海道開発計画70年>の社説に触発220718


「戦後北海道開発試作図」なるものを考えてみた。
 函館・室蘭・苫小牧・釧路・小樽に主要な重要港湾、十勝・花咲・網走・紋別・稚内・留萌と石狩湾新港も重要港湾で、そこを「藍」のマークで示してみた。
 港湾築港、河川・泥炭湿地の治水、鉄道敷設、そして炭鉱の開発(炭鉱は図示いていないが)が、昭和戦前期の北海道開拓において主要施策であった。
 
 戦後は空知に水利ダム開発。そこで上川国・空知国の水田造成の基盤が深化し、<稲作量>では、全国一の都道府県に昇りつめたでは、ないか。
 炭鉱&炭田は未記載。1960年を境に閉山がすすみ、往時の石炭王国はその勢いがない。

 他方で北海道農業は農業の<適地・適作主義>なるものがすすんだ。
 上川・空知・胆振の水田(水色)、大豆・小豆・馬鈴薯主体の畑作(十勝 茶)、馬鈴薯・タマネギ(北網 同)
 十勝南部、根釧、網走北部・宗谷にかけての酪農、日高・胆振の競走馬(薄茶)
 農業の種別区分がすすんだ。そう概観してみて、いかがであろうか。

 道内配布紙。22年7月18日の社説は「北海道開発の未来 あらたな価値の創造目指し」を掲げている。
 冒頭、明治以来の150年を政権が示した本道への政策目的を、二つの時期に分けてみせた。
 1)明治期からWarⅡまで、「産業の開発による経済的発展」「ロシアの南下に備える」。
 2)WarⅡ後は「豊富な資源の開発による国民経済の復興」「外地からの引き揚げ者を受け入れる『人口問題の解決』」。

 社説をここまで読んだところで、頭によぎったことがある。
 1970年前後にはまだ、本州から移住した一世、二世の間で「本州を内地と呼ぶ人が多かった」。
 当時、北海道近代史の研究者間では「北海道開拓=内国植民地」の規定が議論されていた。それは明治維新~WarⅡ間のこと。
 時代が移り1880年代。北海道経済研究所の研究員から「北海道=本州経済補完地」の語が提案されたと記憶する。これがWarⅡ後に本道経済に期待された事柄か
 社説をそこまで読んだとき、ここに掲げた視点は視野にない。あるいは行間に読めということかも。