桃の節句そして母
3月3日は雛人形を飾り、菱餅、雛あられ、白酒、桃の花等を飾る。
私は幼い頃、母に雛人形を飾って貰うと喜んでいた。

母の実家の従妹の雛壇を見に行くと豪華で、
私の雛壇は段数も少なく貧相に見えた。

それでも飾って貰い嬉しくてはしゃいでいた。
小学校を卒業する数年前から雛壇も消え、

節句がきても忘れる位両親が忙しく動いていた事を思い出す。
子供ながらにただならぬ気配を感じていた。

そして中学二年の冬、負債を抱えて苦しむ親の勧めで
勉強をしなければならない大切な時期をバイトに費やした。

特に夏休みや冬休みは長い為自宅を離れ泊まり込みで仕事をし、
夏休みの終わる数日前、冬休みは元日の朝に帰宅した。

宿題や勉強が沢山あっても暖かい炬燵で待つ
両親に会いたくて「只今~」走って家に帰った。

お正月と言ってもお餅を焼いた物とお雑煮しか無かったが、
他人に遠慮している時より、親なら言いたい事も言える。

高卒後、就職試験問題が数学、国語、英語、作文の四科目出て、
英語は苦手で数学は難しく、国語と作文は何とかできたと思った。

そこで会社員生活が始まり仕事も楽しかった
土、日は親友の親が経営する高級料亭でバイトをする日々。

月給を貰い定期貯金が満期になれば親が使ってしまい、
がっかりし、こんな親とは離れたいと思うようになる。

その会社は退職してしまい、後の会社は二十数年働き、
両親と離れて暮らしお正月、お盆等はお小遣いをあげていた。

糖尿から高血圧が下がらず風邪と下痢も続き亡くなった母。
以前から病院に行く事を勧めても嫌がり医院に通っていた。

母の体調がそれほど悪いとは知らず、
郵便局から母へのお小遣いを何故か速達で送ったのは、
どうしてだったのか思い出せない。

母が亡くなる前日に速達が届き、そっと胸にしまってくれたと
叔母に聞いたが、急な話で驚き目の前が真っ暗になった。

辛い長時間残業をしていた私は身体が辛くて、
人に優しくする事さえも忘れていた。

亡き母に会って身体を拭いても一滴の涙も出ない自分は、
なんと親不幸な娘だろうと分かっていた。

私が29才、3月4日の木枯らしの寒い日だったと思う。
2週間後、最後に親不孝をしてしまい悔いと悲しみの涙が流れた。

雛祭りがくる度に地主の娘として世間知らずで育った母、
その老後は苦労しても父と仲良く暮らせた事が幸せだった。

どんなに忙しい仕事をしていたとしても、どんな理由があろうと、
亡くなる前に母に会いたかった。

親不幸な私は、両親に仕送りしても愛情を注ぐ事を忘れていた。
許してね、お母さん、亡き後はずっと大切に心のなかにいますよ。

編集 sakura1205 : ハルさん、こんばんは。いつも有難う御座います。姉が居ましたが親の不注意で亡くなりました。私は母に甘えたり抱いて貰った思い出も余りなくて父と一緒でした。男4人の兄弟の女一人で気の強い母でした。働くだけで青春なんて無かったの。とんでもない。親孝行等していません。でも親は負債を返済するまで頼っていました。今は体調もストレスも溜まり疲れました。弱い人間になってしまったわ。
編集 ハル : おはようございます!親不孝だったなんてご自分を責めないで下さい。殆どの同じ年頃の方がぬくぬくと生活してる中、一生懸命頑張ってらしたんだから当然の思いでしょう。ご両親も心の中では―大切な一人娘に悪いな―と気になさってたと思います。自分達も頑張ってもsakuraさんに頼る以外どうしようもなかったんでしょうね。立派で親孝行なsakuraさんです。頭が下がります。お疲れ様でした。<(_ _)>