記録
 1940&60年にピーク 石炭&国有林で築いた地域 釧路国厚岸郡上尾幌

 『鉄道が生んだ街 六十五年の記録』に掲載、「上尾幌の石炭のでた量、及び人口、児童数の移り変わり」。
 第二次世界大戦のさなか。太平洋炭礦の「尾幌一坑」&「尾幌二坑」と称された時代は、石炭が2万8540トン、人口が5000人ほどで、小学校児童数は700人を超えた。
 高度経済成長が言われた1960年前後。出炭量は2万7000トンを記録したが、人口は2223人で、児童数は400人前後。

 1940年、街には各種の商業、サービス業が軒を連ねた。
 いま、関心をもっているのが蹄鉄業。安達、宮城島、葛西の三店。
 馬追と呼ばれた飼育&運送業者は小野正男、越智清、菅村二郎、、安部十四三、開拓地に居を構えた川内、加藤、相庭、畑、三浦、久松、千葉、貝塚、小林などなど。

 国有林の一部をさいて食糧緊急確保で開拓農業協同組合が組織されることになったので、北海道は試験施設の「混牧林」の役所。
 ほかに、木炭などの品質管理を担当する「林業試験監督署」もお目見え。もちろん鉱山保安監督署の出張出先に、町役場駐在所。
 日本赤十字病院の出張所(のちには道立の診療所)、石炭・木材の運送を担当する日本通運支所。

 はたまた木工場は小黒、久田、葛西。苗畑は荻原幸治氏。
 家具建具の葛西、桶の佐藤、下駄の笠島、ブリキトタンの館山、宮武新聞店、金物店は加藤で薬局は笹井。
 米・酒・たばこは阿部、石川、尾高。雑貨は川内、菅村、須佐。衣類は菅谷、上藤、せんべいは入江、トーキビドンの畑(のち釧路で畑呉服店)。
 子どもの駄菓子で畑、能勢、松尾。一杯屋に水連、つたや、小森ラーメン店。魚屋は佐藤で、洋服店は佐藤&関

 9月下旬。お話を聞かせていただく、土地の方に。