「北前船」。それは根室・厚岸沖に姿をみせたか。 橋立・酒谷家記録230707
 酒谷長俊家伝承の記録にある本表。『加賀市史資料編』からの抜粋したものであるが、注目に値する点が。

 冒頭の「茅部鰊粕 524貫800匁 31両2分1朱」「帆立粕 318貫 16両1分」はさておくことにする。ところが、以下に注目。
 1)「樽前 鰯粕 14602貫300匁 992両2分」「樽前 鰯粕 14602貫300匁 992両2分」
 2)「サル鰯粕 943貫 61両1分」「サル鰯粕 1268貫400匁 90両2分」「同 上2489貫800匁」
 3)「ネモロ鰊粕17581貫1198両2匁」「ネモロ鰯粕2000貫 136両1分」「同 上3056貫 220両」
 計算によると、1)~3)の仕入れ額は3700両弱で、これを売却した学は5992両と示される。

 視野に収めておきたい点、その一は「元治」とする時代。
 「茅部」は内浦湾の西部で、渡島半島の一部として「箱館・松前・江差」の三湊体制で取り扱うことも可能である。但し、内浦湾=恵山岬以東に位置するとして「蝦夷地」サイドで理解しておくことにする。
 「サル 沙流」と「ネモロ」。その取扱量も5000貫弱と2万2000貫強」の輸送量となる。重量にして18トンと82.5トン。
 時は元治2年となると1865年。天保期(1830~1845年)に奥蝦夷地(十勝~択捉)が漁業主産地に転じてのち、鰊・鰯粕の最盛期を迎えていた点。

 視野に収めておくべき点、その二は「鰯粕」が取引対象となっている点。
 鰯粕が房総半島の九十九里浜に移った。<漁業主産地の東漸移転>と解しておく。房総半島の鰯粕は、元禄期以降に日本海側の鰊粕をもって補完した。
 松前鰊粕の本州搬入を<漁業主産地の北進現象>と位置づけることにする。
 「ネモロ鰯粕2000貫 136両1分」「同 上3056貫 220両」の二項目は、東西蝦夷地内の<漁業主産地の東漸移転>と、なる。

 「北前船」。それは根室・厚岸沖に姿をみせたか。 橋立・酒谷家記録230707
 魚群をめざし囲い網する旋網漁業が東蝦夷地東部にも波及。そう類推させる記載に相当する。そうではないか。