集団就職 その二 221217
 2.高い求人推移 「集団就職」が該当する時代。北海道の雇用統計、なかんずく求人率は高い水準にあったのではないでしょうか。

 そのように推量しつつも、そこは雇用統計を整理してもらうと判明するものと受け止めてきました。
 今、出身中学校の同級生の進路を思い返すに、ほぼ25%が進学し、65%相当が就職、「家事従事」としたのは男性1,女性2程度の1割弱であったと記憶しています。
 
 就職者6割強のうち公務現業職、大手乳業会社労務職、建築、製材会社事務、小売り販売業などに就職していました。
 ただし、なかには「住み込み」の雇用形態もあったし、まもなく離職した者も少ない。
 生涯を一職場で全うした者は、のちのと消息もあきらかながら、まもなく離職、転職を余儀なくされた同級生の消息をたどることは難しい。
 
 就職希望者のうち、大半が採用された背景には高レベルの求人数があったはずです。つまり求職者の域内吸引ということが可能であった時代です。
 その要因となるのは、北海道開発法(昭和25年 法律第◆号)施行をうけての公共財の旺盛な投資が持続したことを考えてよいのではないでしょうか。
 昭和27年度から、北海道総合開発計画第一次5ヵ年計画がスタートしています。昭和33年夏に北海道博覧会が開催されていますが、今、考えるにこの博覧会はこの年度から開始の「第二次5ヵ年計画」を啓発するものであったように受け止めてきまました。

 一方で、新制中学校一年で履修した日本地誌を含む社会科授業では、「岩て日本のチベット」とTEXTに記載のあった記憶があります。
 近隣に青森県津軽郡車力村から嫁いだ女性は、津軽半島での体験を語り、「津軽は貧乏」の弁を繰り返し、「北海道は景気が良い」の話を聞かせていたことです。
 1970年代の初頭、筆者らは青森県下北郡に調査で出かけました。なぜ、下北半島を調べようとしたのかです。

 それは当該地から江戸時代後期に北海道の太平洋岸に永続的な出稼ぎ労働のあった点を解明するためです。
 そこで判明した点があります。一に下北半島からは実に多くの「金の卵世代」が首都圏にむけ集団就職していたか。
 二は、すでに下北半島には「原発関連の様々な施設」の配置がすすんでいる点でした。

 1975年、津軽半島の蟹田、金木、車力などの地を訪ねた時には、整然とした水田を目にしました。ときに聞かされていた「津軽の貧困」とはなんであったのかと、目を疑ったものです。
 2020年1月、岩手県で内科医開業していた家庭の子息と話をする機会がありました。小生が「岩手=日本のチベットと教科書で読んだが」。
 その答えは「確かにそうなのだ、自分もそう思う」。「岩手は日本のチベットだった」と、言葉をつなぎました。

 この一言で、津軽で目にした1980年代の青田も、1970年代初頭に訪問した下北や三陸海岸・宮古の地域事象にも、その位置づけができた<思い>です。
 1950年代ー70年代。北海道が東北各県に比して自力があったように見えます。
 確かに求職が全うされたのも、それは食糧基地や石炭産業、あわせて開発基盤整備の公共財投資が旺盛であったことによるのでは、なかったかと。

 筆者の記憶も、同年代でかつ北海道東部の中核都市で義務教育を終えた者のうちにも、「集団就職」や「集団就職列車など知らなかった」の論があるわけです。
 当時、北海道に寄せられていた公共財投資。そのことが東北6県の事情とは異にするものがあった。かく、作業仮説を用意し、検証に進んではいかがかと。
 これぞ、集団就職の第二話ということにします。