ニュー・カラー、メルマガ発行:〜、絵画
誰も言わないので私が書きます。
川内倫子はニュー・カラーの影響を受けている。
エグルストンではなく、Joel Meyerowitz (ジョール・マイヤーヴィッツ、メイヤーウィッツ、…)の、である。
「現像・引伸しともすべて自分で行い、色と光のニュアンスをうまく定着させるために何度も調色を繰り返す」(「写真表現の150年」NHK市民大学1989年7-9月期テキスト、伊藤俊治著、p134)という彼の制作に対する姿勢が、文字通りそのままあてはまるのに、そういう論考は一度も読んだことがない。
空の、あの青の、緑の入ったあの空をみればすぐピンとくると思うのだけれど。

しかしポンコツインターネット、ニュー・カラーやらエグルストンやら、そしてマイヤーヴィッツの検索での hit 数がこんなに少ないとは。

ところで伊藤俊治のテキスト、神憑り的にダンボール箱内平積みの山から一秒、one action で見つけてしまう、そんな自分が引き続き怖い。

とある文学作品について、述べている意見を見つけて読む。
結論。見当外れな批評は滑稽である。
…自分への戒めにしないと(!)。
音楽にしても何にしても思うのだけれど、新しい作品というのはいつも、批評の言語が追いつかないのであって、それは例えば五線符に乗らない三味線の音を、ピアノで表現しようとするのと同様である。ドとレの間に無限の音階を持ち、時間的にも刻一刻と変化していき、波形も激しく変化してゆくものを、ピアノで、なんて別のものになるんだから。
…しかし三味線の方が古いよなぁ。たぶん。音楽にしても文学にしても、単純化への歴史なのかも。旧かな遣い、表現の豊饒さには時に憧れるし。

2回の鑑賞による感想のコンポジットは、2回目の体調が今いちのせいもあって良くない。いっそのこと10回くらい行って、Wall of Comment にする、ってのも一つの手か。撃たれそうだ。釈放されてるんだった。フィル・スペクター。

シンディ・ローパーの Time After Time 、「そして音楽が始まる」でとりあげてた。本人、輝いてた。とても。私にとっても大切な曲だ。そうか、あのほとんどカバーソングのアルバムにあって、この曲はオリジナルだったんだ。実の母親だったとは。歌詞に投影される当時の状況。

夜になって再び寒気が。参った。バタバタヘンに慌ただしいのに。

(続く)