この世にウォークマンがなかったら。−−美術と音楽の相対性理論
ちょっと考えたことがあって。

一度もウォークマンを買ったことがない人、っていうのは、もしいるとすれば、ほんとに全く音楽に興味がない人、だと思う。
(まあ例外として、年とってるとか、最高の音響装置で正座して聴くのが正しい音楽鑑賞のありかただっ!、て思ってる人は除く)

もし、この世にウォークマンがあらわれていなかったら、ここまで音楽は大衆化することなく、昔ながらに座敷のステレオで聴く音楽マニアやあるいはちょっと趣味が音楽鑑賞な人と、ライヴを渡り歩く生音好きな人と、年に一枚か二枚かせいぜい三枚の音盤を買ったりして聴く人と、そして大多数はテレビやラジオや街角で音楽が流れてたらちょっと耳にしたりって人ばっかりだったのではないか。

もしそうであったなら、例えば美術鑑賞と、音楽鑑賞はほとんど似たような立ち位置となっていたのではなかろうか。

では逆に美術鑑賞が今の音楽鑑賞のような地位を築いていたとしたらそれは、ウォークマンにあたるものは何か? とか、visual art と music における 複製 の存在のしかたとか、視覚と聴覚の特性の違いとか、コマーシャリズムはどこまで対応していくものなのか? とか、いろいろ考えつくけど書くのがめんどくさい。

めんどくさい上にこんな議論は読んだことがないので、(C) にしてしまおう。
(まあなんと)

でもそう考えると、美術鑑賞の現状のほうがまだ正常に近くて、音楽のほうがあまりに無理やり売ろうとしてその弊害が各所にでてきているような気がする。

だって美術鑑賞が今の音楽のようになってるとしたら、その場合の 複製 のありかたは?
なかなか難しいでしょう?
だてに座敷のステレオとライヴを渡り歩く話をしたわけじゃないのです。

やっぱり早いこと コピーの時代 を観に行くべきだった。もうすぐ終わってしまう。


第 2回「究極の複製画とは」
第 3回「見世物、動物園、美術館、ライヴ」
頭の中ではできているけどやっぱりめんどう。そもそも時間がないってーの。