ちょっと考えてたことがあって。
例えば公団住宅、あの標準設計、設計基準を決めたときは、あれはとても斬新で画期的なことだったと思う。
以降、キッチンだとかDKの発想とかに至るまで、民間の集合住宅の設計にも大きな影響を与えたことは間違いなくて。

ただ、時代が変わって、ここ5年くらいは明らかに、画一的ではない、主張するデザインの集合住宅が出てきてて。

これは、単に時代の流れが、ってことだけではなくて、そうしないとselectしてもらえないということだけでもなくて。

やっぱりその、基準を決める、原単位を決める、というのはとても偉大なことであるけれど、−−第一かしこくなければ設定できない−−、でも偉大であるがゆえにその瞬間に形骸化を迎える、あとの人たちがその輝かしさをアプリオリに自明のものとして平板に受け取ってしまう、のではないか。

標準、基準、規格、そういったものの原点と当初の熱風は、ときどきいつも立ち返るべきもの、という気がした。

例えばいろんな大学、もとは単科であったように。
例えばいろんな会社、もとは数人で始めたものであったように。

いや、ほんとは何を思い浮かべているかというと、万博だったりするのだけれど。
あるいは童謡だったり三味線だったり。

ふう。息切れ。