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お知り合いと話ししていて、
私は頭の中で、日本語で感じたり思ったりしてない、ことに気づいた。
人に話すとき、あるいは考える時に、半ば無理やり日本語にしている。

詩のボクシング第一回チャンピオンの朗読 CD ひまわりを聴くと、全て元から日本語で、ことばが生まれてイメージが湧きあがる。彼女の頭の中の段階からおそらくそうなのであって、それはすごいことだ。

が、元から日本語なのと、ことばを使ってない頭と、例えばどちらがより豊饒に出来事を感じているかというと、全く別の話である。

上田假奈代のことばは、はかない。
あしたのことなど誰にもわかりゃしないことを、とても知っている。
それでいて、一瞬先をも含めた未来へ向かって、たった今現在から、かたりかけうたいおどっている。
諦観、とは紙二重くらい違う位置に、精力を懸けた足場を築いて。
形而上学と資本主義経済の暴風の瀬戸際で、だから戦っていて、はかなく美しい。とても美しい。

三味線は、一貫して伴奏楽器であった。
そのしらべに、かたり、うたい。
幻惑の音にのせて。

十近くの三味線の調べを現実に聴かされると、三味線のせいで多様な語り物、謡いが…なんて言ったことは、半ば吹き飛んでしまう。
今思うのは、楽器としてではなく、伴奏楽器として、見直しがすすみそして、かつての姿が今の衣を身にまといあらわれる日が、もう目の前にみえている、ということ。

豊饒の多様性。
大仏開眼の儀のように。

そんな日を心待ちにしている。