視覚についての試論の試論
視覚において、同時に2つ(以上)の認識はできない。
だから、絵の不得手な人が描いた四本足の動物は、犬に見えたり馬に見えたり、犬だか馬だか猫だかわからない動物には見えても、同時に犬であり馬であり猫であるという見え方、認識はできない。視覚は「決め撃ち」なのである。
マグリットをはじめとするいわゆる騙し絵は、そういう認識のしくみによって、逆に成立している。
ピカソのようなキュビズムの画家たちは、そんな脳科学の最近の研究結果など知る由もなく、いわば「本能的に」そのことを知り、あるいは発見し、それとも無意識のうちに認識し、「多面的なものの考え方」ならぬ「多面的な物の見方」を文字通りの意味で絵画に、視覚的に認識できる形で、あらわしたのである。

すでに述べたとおり、「頭の中での」ものの認識においては様々な考え方が可能であるにもかかわらず、視覚の認識においては一通りしか(同時には)不可であることは、極めて刺激的である。
例えば、こういうことである。
太古の昔、人類の祖先は、「あれは狼かもしれないが、狸かもしれないが、熊かもしれないが、かばかもしれないが、…」とあわあわしている種族は滅び、きめうちで「狼!」と認識した種族が生き残り、今に至るのかもしれない。
あるいは、そもそも全ての認識はきめうちなのが普通で、突然変異的に多面的なものの考え方のできる能力を身につけた人類の祖先は、現在の「繁栄」の基礎を築いたのかもしれない。
だとすれば、他の生物における認識は?
他の生物における視覚に基づく認知は?

他の感覚、例えば聴覚や嗅覚などについても、同様の議論が可能である。

可能性や選択肢を持つ能力は、善なのか悪なのか。
ひょっとすると、マグリットをみることは、脳に過重な負担をかけ、破壊につながるのかもしれない。


議論の厳密さや用語の正確さに欠けるが、とりあえず。