パッチギ!
ウワサにはきいていたけど、良い。
京都の見覚えのある場景。
被差別部落とも関連あるのかなぁとか、京都だしなぁとか、"イムジン河" やその周辺事情、いわゆる "放送禁止歌" や朝鮮問題などそれなりの関心を持って情報に接してきたつもりだったけれど、
こういう形でみせられると、
井筒和幸監督の語り口によって初めて血が通ったものとして理解った気になる。
そうだ加藤和彦はフォークルだったサディスティック・ミカバンドである前に!、ってことに終ってから突然気づいたり、
坂崎さ~ん、とか、
誰に感心したって、
やっぱりオダギリジョー! でしょう何なんだあのヘンなやつしかもみょーに開放的に突き抜けてるしこういう役やらせたら一級だなぁ、とか、
とりあえず人数で処理してしまう井筒マジックの道大暴走 + バス!、鴨川デルタ! など迫力! 熱血! と裏の繊細さ、
でもこの involved な感覚は黒澤明にも通ずるものと敢えて、
そして大友康平に「この世に唄っちゃいけねえ歌なんてねえんだよ!」って怒鳴られたらその言葉の重みは演技を突き抜けてしまうんだよ! とか、
ハチャメチャなんだけど要所要所をちゃんと理解ってる人間が押さえててさすがだなぁ井筒監督! って思った。
ちょっとした御都合主義(引き分け?! って何やねん! / 沢尻エリカにあの言葉はクスッと流せないだろうあの役のキャラで!)もない訳じゃないけどそんなことどうでもいい。
どうでもいい、と言わせるだけの "熱" 、をこの映画はもっているし河を越え止揚している。
奈良県や京都市の話の、今ではなく、1968年というこのころがキーとして理解のターニングポイントなのである。

どういう形が可能なのか、この映画には描かれていない。
一人一人、自分で、ということなのだろう。
いや、実はそう最終幕で描かれている。
だからそれは、きっと、あまりにタイミング良く上映することとは決定的に違う。

     *     *

"イムジン河" を、さっき、気づいたら鼻歌にしてた。