絵に描いたように、引きこもり気味。おかげで風邪は少しましに。

秋でもないのにふと人恋しくて、とうに消去されたサイトを Internet Archive で再現して読んでみたり。
その、懐かしさと微妙な後ろめたさは、今の自己を過去の鏡に映す試みでもある。
寂しくも、やがて嫌気が射す。

白クマの CM の、寂しさと温かさについて感じてみたり。

yuki の JOY は、単に SUPERCAR の HIGHVISION を彷彿とさせるだけでなく、このところ電車の中で読んでるボリス・ヴィアンの "日々の泡" とダイレクトにオーバーラップする。
あの振り付け、本人もちょっと照れながら、な気もするがかわいい。
くぐり抜けた余裕と自信? と、肩の力の抜け具合が気持ちよい。
あんだけ詞が描けたら、いうことないよ。

"雑音考" を読み終えて(…別サイト、まだだなぁ、、"三絃の誘惑" を優れた論考とすればこれは後日譚としての随想的味わい、と一言だけ)、もう chain-樋口覚er なので即、"日本人の帽子" を注文して読んでる。装丁がマグリットみたいでお洒落すぎる(でやや高い)けど、いやぁファッション美でのヘッドドレスの展示を一目、観てから書いて欲しかった(でもそれは無理、この本をおそらく学芸員が読んであの展示を企画したに違いないから)とはいえ読ませる。あのいろんな帽子を思い浮かべながら、ゆっくり味わって読みすすめてる。

新着。
日本人の帽子 樋口 覚
というわけで。
精神病院の起源 小俣 和一郎
幼女誘拐、なんてこともきっとますます増えていく世に、精神病とか境界の症状のとらえかたは間違いなく時代の波を映しているはずで、ではその装置としての精神病院は、という興味で。