茶の湯の焼物−日本、前期(湯木美術館)別サイトアップ、「blue」(写真の方)、発売されてます、t.A.T.u が急遽、
最近思っているところ。(前も触れたこと、あるかもしれないけど)
世界中で、CD になっている音楽って、ごく一握りじゃないのか、と思うんですね。

例えば、ホーミー? だったか、モンゴルあたりでの発声で、高い音と低い音を同時に出す声、が以前何かの CM でとり挙げられていたけれど、あの声で歌をつくったらすごいだろうなぁ、ん、いや、きっとすでにあるんじゃないのか、「音楽」なんていうから狭苦しく、堅苦しくてはみ出してしまうかもしれないけど、何か、がきっとある筈で、だって情報伝達のための発話法とは明らかに違うと思うから、あのホーミー? って。

かつて、日本にも実に多種多様な語り物、があって、琵琶や三味線のような楽器を使うものも中にはあって、そういったものの発展形として、かたや落語、あるいは漫才、のようなものからいわゆるヒットチャートに上がってくる「音楽」まで、いろんなジャンルに細分化されてるのが今、で、ただ、その過程で、能や狂言、各種祭りやら猿廻しやらのように若干の保護・保存されたものを除けば、細分化による隙間の切り捨て、が行われて、今思い出したけど歌舞伎だって元はお経のメロディ・踊り付きから発展したものであって、そういう意味では近所のお寺に寺付きの歌舞伎楽団(?!)がある、ってな発展のしかたもあり得たんだと思うし(ほんとは頭の中にあるのは声明とかなんだけどますます話が拡散するので略、でも某詩人のかたも声明や読経にはまっておられたりするそうなんですね)、もとい、でその隙間の切り捨て、によって、例えばあの小栗判官のような説経節も失われ(と言い切っていいと思う)、その他いろんな、特に語り物は、三味線を使う形態を除いてほぼ全て、失われてしまったんだと思う。

ただ、説経節については、代表三作品のうち、山椒大夫は小説の形で、しんとく丸は演劇の形で、そして小栗判官は漫画という形で、それぞれ見事に再生していて、火の鳥もびっくり、であって、ジャンルの細分化は逆に境界線上を面白くする、というのは時々この場で述べている通りである。

ただ、それは非常に希有な、幸運な例であって(作品固有の魅力が神の手をも動かしたように私は感じているが)、とてもたくさんの、いろんな芸能(読みかえました)が、失われてしまったのだろうと思う。