2002年08月の記事


続・祈りの巫女40
 もしもリョウが優しくなくなったら、あたしはどうするんだろう。昔の意地悪なだけのリョウに戻ってしまったら。
 セーラ、あなたは、どうしてあんなに意地悪なジムを好きでいられたの?
「……判らないわ。あたしは優しいリョウのことを好きになったから、優しくないリョウのことも好きでいられるかどうかなんて、判らない。でも、あたしは知りたいと思うの。リョウが本当はどんな人で、いつもどんなことを考えてるのか。あたしが話すことを喜んでるのか、怒ってるのか。リョウが怒ってたらあたし精一杯謝るもの。それでリョウが許してくれたら、その方がずっと嬉しいと思う。そうだ、あたしがリョウを優しい人にできたら、その方が嬉しいのよ」
 その時、マイラは初めて立ち上がって、あたしの頭をなでた。
「ユーナもすっかり女になったわね。……1つだけ忠告。ユーナ、男の人のプライドを傷つけちゃダメよ」
 あたしには意味が判らなくて、きょとんとしてマイラを見上げていた。
「今は判らなくてもそのうちに判るわ。リョウも、さっさとプロポーズしてくれればいいのにね。こんないい子をずっと放っておいたら、ぜったい誰かに取られちゃうわ」
 あたしはマイラの言葉にちょっと照れてしまっていた。
「リョウはあたしにプロポーズしたいなんて思ってないかもしれないわ」
「万が一そうだとしたらリョウの見る目がなさ過ぎるのよ。自信を持ってねユーナ。あなたはぜったいに幸せになれるわ」
 マイラはそう言ってくれたけど、あたしは自分がリョウにふさわしいかもしれないなんて、少しも思えなかった。だって、あたしには何もないんだもん。カーヤみたいに料理が上手なわけじゃないし、マイラみたいにお裁縫が上手なわけでもない。神様に祈りを届けたり、文字が読めたり書けたりしても、結婚して役に立つようなことじゃないから。
 あまり赤ちゃんの迷惑になってもいけないから、あたしはもう一度ライの顔を見て、マイラにお礼を言って、マイラの家を辞した。坂を降りて、母さまと弟のオミがいるはずのあたしの実家へと足を伸ばした。
 歩きながらも、あたしはマイラが言ったたくさんのことを思い出して、複雑な気持ちになっていた。
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続・祈りの巫女39
「ねえ、ユーナ。子供の頃のリョウは、生きていることがとても辛そうだったわ。リョウはきっとこの村では少し変わった子だったのね。だからリョウの両親も、リョウのことはあまり判ってあげられなかった。もちろん精一杯愛情を込めてリョウを育てていたわ。でもね、両親の愛情がどんなに深くても、もともと少し変わった性格を持った子供だったから、両親もリョウ自身も空回りしてしまっていたのね。それは仕方のないことなの。だって、子供は親を選ぶことができないし、親だって子供を選ぶことができないんだもの」
 子供の頃、あたしに意地悪ばかりしていたリョウ。マイラから見たあの頃のリョウは、生きていることがすごくつらかったんだ。今は? 今もリョウはつらいの? そんなつらさをぜんぜん見せないで、いつも穏やかな優しいリョウでいるの?
「シュウが死んで、リョウはユーナのために優しくなろうと思ったのね。でも、そうしているうちにきっと、その方がずっと生きることが楽になるんだってことに気付いたんだわ。優しい人でいる方が人とうまくやっていけるもの。……あたしはシュウの親だから、リョウがいつまでもシュウを引きずっているのだったら、それはすごく悲しいことだと思うの。今のリョウが本当に優しくなって、自分が優しい人でいることに無理をしていないのなら、それはとてもいいことだわ。リョウにとっても、ユーナにとってもね」
「ねえマイラ、今のリョウは昔とは変わったと思う? シュウの真似をして優しくしてるんじゃなくて、本当に優しくなったんだと思う? 無理をしてないと思う?」
「さあ、それはあたしには判らないわ。子供の頃ならいざ知らず、最近はリョウも忙しいから、めったに顔を合わせることもないからね。ユーナが自分の目で確かめてみるといいわ。たぶん、子供の頃の意志が強いリョウが残っていたら、そう簡単に本心を見せたりしないだろうけどね」
 あたしは今日ほんの少しだけ、リョウのことが判った気がしていた。あたしの儀式の時にたった1度、リョウは本当の気持ちを言ってくれた。今のリョウの気持ちは判らない。あたしはやっぱり、リョウにそれを確かめなければいけないんだ。
「マイラ、あたしリョウのことが大好き」
「それは、リョウが優しい人だから?」
 あたしは少しだけ、マイラへの答えを考えた。
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続・祈りの巫女38
 シュウが死んだ時の思い出は、マイラにとってはすごくつらいことなんだ。あたしはマイラに、その時のことを思い出させようとしている。あたしはマイラに訊くべきじゃなかったのかもしれない。
 でも、ほんの少し目を伏せていただけで、マイラはまた顔を上げて微笑んだ。
「子供の頃のリョウはね、こう言ってはなんだけど、あんまり素直な子ではなかったわ。大人が、これはダメだ、って言えば、かえってそればかりをやってしまうような。あたしが子供の頃、やっぱり近所に同じような子がいたの。その子は大人になるとすぐに村を出て行った。だから、リョウもきっと村を出て行くだろうって、あたしはそんな風に思っていたの」
 マイラが話す昔のリョウは、今のリョウとはぜんぜん違う人のようで、あたしにはまったく実感が湧かなかった。今のリョウはすごく回りに優しくて、誰にでも好かれて、村のみんなに頼りにされていたから。今のリョウを見ていて、リョウが村を出て行くかもしれないなんてぜったいに思えない。あたしは小さな頃リョウが意地悪だったことを思い出したけど、でもその時はあたしも子供だったから、マイラの話はまるで別の人のことを話しているような気がしていた。
「今のリョウはすごく優しいわ。リョウは、シュウが死んだことで自分が変わったんだ、って、そう言ってたの。人に優しくすることが正しいことだって判ったの」
「ええ、シュウが死んだことがリョウに影響を与えたことは、あたしにも判ってたわ。あの時を境に、リョウは本当に変わったの。まわりに対してすごく優しくなって、素直になってね。ユーナにもとても優しくて、あたしはまるでシュウがリョウに乗り移ったような気がしたものよ。……ねえ、ユーナ。リョウはもしかして、シュウの代わりになろうとしていたんじゃない?」
 あたしは、1年余り前のリョウがあの時言った言葉を思い出しながら答えた。
「優しかったシュウを失った、ユーナのシュウになれるかもしれない、って ―― 」
 言いながらだんだん、あたしは身体が震えてくるような感じを覚えていた。
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続・祈りの巫女37
「ユーナは? まだ恋人はいないの?」
 あたし、また少しからかわれてるのかと思った。でも、マイラはぜんぜんそんな風じゃなくて、どうやら本当にあたしの話を聞きたいみたい。あたしもリョウのことを聞いてみたかったから、マイラがそう言ってくれたのはあたしにとっても都合がいいことだったんだけど。
 なんだかすごく話しにくいの。12歳の頃だったら、リョウのことも素直に話せていた気がするのに。
「……リョウがね、毎日宿舎に話にきてくれるの。でもぜんぜんリョウの気持ちが判らないの」
 マイラは穏やかな表情で微笑んでくれた。
「ユーナはリョウのことが好きなの?」
「……うん、たぶん」
 あたしは12歳の頃、同じことをマイラに訊かれたことがある。あの時はすぐに答えられた。リョウのことが大好きだったから。
 今だってすごく大好きなのに。それなのに、マイラに訊かれてこんな返事しかできないんだ。
 マイラも、あたしの言葉があの頃と違うって、気付いたみたいだった。あたしの顔を覗き込むようにして、慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
「ユーナも大人になったんだね。リョウは意志の強い子だから、なかなかユーナに思い切ったことは言えないわ。……ねえ、ユーナ。リョウはまだシュウのことを気にしていそう?」
 マイラに言われて、あたしはあの時のことを思い出していた。あたしが祈りの巫女の儀式を受けた日のこと。あの時リョウは、シュウの死が自分にとってもすごくショックだったんだって、そう言ってたんだ。
「リョウはシュウが死んでからすごく変わったの。ねえ、マイラ教えて。リョウはあの時どうしたの? あんなに優しくなる前のリョウって、いったいどんな人だったの?」
 マイラは、ちょっと辛そうな表情をして、そっと目を伏せた。
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続・祈りの巫女36
 マイラを幸せにしてくれる赤ちゃん。あたしが神様に祈って、それで生まれた命。この子はシュウよりもずっと幸せになる。その子の名前はライ。
「ライ……。すごくいい名前よ、マイラ」
「ありがとう。実はね、この名前を披露するのはユーナが初めてなのよ」
「そうなの?」
「ええ、今日ユーナが来てくれて嬉しいわ」
 マイラは本当に嬉しそうに微笑んでくれた。マイラはもう、ぜったいに悲しい笑顔なんか見せないよね。あたしは、本当にマイラを幸せにすることができたんだ。
「マイラ、少し若返ったみたいよ」
「あら、ほんと?」
「うん、ちょっときれいになったみたい」
「いやだ。ユーナもいつの間にかお世辞が言えるようになったのね」
「お世辞なんかじゃないわ。きっと誰でも思うもの。マイラはライが生まれたらすごくきれいになった、って」
 本当にきれいだと思ったの。子供が生まれると、女の人はみんなマイラみたいにきれいになるのかな。あたしも、子供が生まれたら、マイラみたいにきれいな女の人になれるのかな。
 そんなことを想像して、あたしはまたリョウのことを思い出して、少し顔を赤くしてしまった。
「この次はユーナの番ね。……ユーナはいつ結婚するのかしら?」
 マイラの言葉は、まるであたしの心の中を覗いているみたいだった。
「もうそんな遠い未来じゃないのよね。あと何年かたつと、ユーナも結婚して、やがて子供が生まれる。ユーナがお母さんになるのよね」
 あたしは顔を赤くしたまま、しばらく答えることができなかった。
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続・祈りの巫女35
 ベッドには小さな赤ちゃんが健やかに眠っていた。本当に小さくて、赤くて、まるで人間じゃないみたい。すごく小さな手をしっかり握ってて、よく見るとそんなに小さな指なのに、ちゃんと爪があるの。そんなあたりまえのことにびっくりした。小さくても、この子はもう1人の人間なんだ、って。
「わあ、かわいい……」
 本当に自然に、あたしの口からその言葉がこぼれ落ちていた。眠っていて、少しも動かないのに、あたしはいつまででも飽きずにずっと見ていられそうな気がした。
「ユーナ、ゆっくり見ていってちょうだいね」
 マイラがそう言って動きかけたから、あたしはすぐに立ち上がった。
「あ、いいわマイラ。お茶ならあたしが入れる」
「あらそう? お願いしてもいい?」
「うん、ちょっと待っててね」
 あたしは大急ぎで台所へ行って、お湯を沸かして、マイラに指示してもらいながらお茶の用意をした。そしてまたベッドルームに戻ってくる。あたしが目を離している間も、赤ちゃんはずっと眠ったままで、さっきと少しも変わった様子はなかった。
「ありがとうユーナ」
「あたしがいる間は何でも頼んでちょうだいね」
「嬉しいわ。……この子の名前ね、ベイクと相談して昨日やっと決めたところなの」
 マイラがお茶をすすって一息つく間、あたしは少しドキドキしながら待っていた。
「最初はね、もう1度シュウの名前をつけて、シュウが生きられなかった分もずっと幸せになってもらいたかった。でも、この子はシュウとはぜんぜん違う人間だから、名前も違う名前を付けよう、って話したの。 ―― ライ、っていうのよ」
 マイラが言った名前を、あたしは心の中で繰り返した。
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続・祈りの巫女34
 カーヤが作ってくれたおいしい朝食を食べたあと、あたしは山を降りて、マイラの家へ向かっていた。途中、草原に咲いていた花の中から、それほど匂いがきつくない花を選んで摘んで、手土産にする。カーヤの話を聞いてから、なんとなく植物に心があるのがあたりまえのような気がしてきて、あたしは花を摘みながら「マイラの赤ちゃんの心を和ませてね」って自然に口にしていた。花は人が育てたわけじゃないから、もしかしたらすごく怒ってたのかもしれないけど、黙って摘むよりはずっといいことだと思ったから。
 草原を出ると少しずつ家が増えてきて、遠くにあたしが育った家の屋根も見えてくる。すれ違う人はそれほど多くないけど、みんなあたしに声をかけてくれるから、あたしも笑顔で挨拶を返して、やがてマイラの家への坂道が見えてきた。正面にはシュウの森。その手前にある小さな家が、マイラとベイクと赤ちゃんの家だった。
 ノックをして赤ちゃんを驚かせちゃいけないから、あたしは窓から顔をのぞかせて、ちょうど台所に立っていたマイラの背中に声をかけた。
「こんにちわ、マイラ」
 振り返ったマイラはあたしの顔を見ると満面の笑顔で答えた。
「あら、ユーナ。いらっしゃい。すぐにドアを開けるわね」
「あ、いいわ。自分で開けて入るから」
 あたしはドアの方にまわって、できるだけ音を立てないように部屋に入った。マイラは笑顔だったけど、動きが少しギクシャクしていて、歩くのがちょっとだけつらそうだった。あたしがそう言うと、
「これでもだいぶよくなったのよ。シュウの時よりはちょっと大変だったけど」
って答えてくれた。産む時が大変なのは知ってたけど、赤ちゃんて産んだあとも大変なんだ。あたしは改めてマイラにおめでとうを言って、花瓶の場所を教えてもらって、持ってきた花をテーブルに飾った。
「さあ、ユーナ。こっちにきて」
 マイラがベッドルームに案内してくれる。あたしはマイラが指差したベッドに近づいて、そっと、覗き込んだ。
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続・祈りの巫女33
 包丁を握ったカーヤの手は、ちょっとだけジャガイモの角度を変えたあと、手早く皮を剥いていった。いびつなジャガイモの表面をほとんど同じ厚みでなでていく。残った芽を掘り取って、表面を少し水にさらして、まな板の上で切り分ける。あたしにはごく普通の切り方に見えるけど、きっとこれもジャガイモの言う通りにしてるんだ。
 手を動かしながら、カーヤは静かに言った。
「初めてユーナと住み始めた時は、ユーナとあたしとは初対面じゃなかったけど、それほどお互いのことが判ってた訳ではないわ。そういうときにね、いきなりこんな話をしてしまうのって、やっぱり少し抵抗があったの。一緒に住んでいるうちに少しずつ判ってきて、あたしにもユーナがどんな子なのか判って、ユーナなら話しても大丈夫かな、って思った。でも、きっかけがなければなかなか話せることじゃなかったから」
 そうか。例えばあたしが今、知らない人にいきなり「自分は野菜の気持ちが判るんだ」って言われても、すぐに信じられるかどうか判らないんだ。逆に、なんかこの人変な人だな、って思うかもしれない。今までずっと一緒にいたカーヤだから、あたしはカーヤの言葉が信じられるんだ。カーヤだって、あたしのことを信じてくれたから、今日話してくれたんだ。
「カーヤ、打ち明けてくれてありがと。あたし、カーヤのことが大好きよ」
 あたしがそう言ったとき、カーヤは再びあたしを振り返って、ちょっと困ったような表情で、でも微笑んでいた。
「……リョウがどうしていつもユーナの頭をなでるのか、よく判ったわ」
 言われた意味をつかみかねてきょとんとしたあたしを、今度はカーヤはもっとはっきりした表情で笑った。
「本当にユーナは無邪気で、かわいくて、思わず頭をなでないではいられなくなっちゃうのね。ほんと、ユーナは羨ましいくらい無邪気で、悪気がなくて、いい子だわ」
 あたしはなんだか照れくさくて、でもカーヤの表情には少しからかうような雰囲気もあったから、ちょっとふくれたような顔つきで答えた。
 このときあたしは、カーヤがあたしに隠していることがまだあったなんて、思ってもみなかった。
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続・祈りの巫女32
「それじゃ、ユーナに訊くけど。……ユーナはこれから生きていって、でもいつかは死ぬわね。ユーナは、死ぬために自分を産んで育てるなんてひどい!って両親を恨むの?」
 思いがけないことを言われて、あたしは驚いてしまった。
「そんなこと思わないわ! だって、あたしが死ぬのはあたりまえだもん。だから生きてる間にいろんな事をして、楽しいこともいいこともたくさんして、みんなの役に立つんだもん。生まれてこなかったら、そういうことが何もできないんだもん。産んでくれた父さまや母さまを恨むわけないわ」
「野菜だって同じよ、ユーナ。生きている間に楽しいことをたくさん経験して、最後は人に食べられて終わるの。だから人に感謝することはあっても、人を恨んだりはしないわ。……人間は誰でも死ぬけど、できれば好きな人たちに囲まれて、看取られて死にたいわよね。突然の事故や病気で独りで死にたくはないわよね。あたしは野菜の、最後に1番おいしく料理して食べてもらいたい、って願いをかなえてあげたいと思うの。食べられずに捨てられてしまったり、料理に失敗してあまりおいしくなくなってしまうのも野菜の最後の1つの形だけど、おいしく料理して食べてあげられたら、野菜も幸せだと思うのよ」
 そうか、野菜も人間と同じなんだ。
 生まれてきたことが喜びで、生きていることが楽しくて、あたりまえのように死んでいく。あたしが料理した野菜たちだって、そりゃ少しは「ユーナが料理したんじゃあんまり幸せな死に方じゃなかったな」とは思うかもしれないけど、それでも納得して死んでいく。生きていることが楽しかったから、自分を育ててくれた人に感謝して、最後に恩返しをしてくれるんだ。
 あたし、今まで知らなかった。でもカーヤはずっと野菜と話をしていて、子供の頃から野菜の気持ちを知ってたんだ。だからできるだけ野菜をおいしく食べてあげたくて、料理の練習をして、すごく上手になったんだ。
 カーヤってすごい。あたし、カーヤのことを尊敬する!
「カーヤ、どうして今まで教えてくれなかったの? カーヤがこんなにすごいって、もっと早く教えてくれればよかったのに」
 料理を作る手を動かすのを再開して、カーヤはあたしから視線をそらした。
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続・祈りの巫女31
「あたしの家では両親が畑を作ってて、物心ついた頃には畑が遊び場だったの。畑ってね、植物がにぎやかにおしゃべりしてて、すごく楽しいのよ。お天気の話から始まって、土の中の栄養がどうとか、向こうの方で害虫が出たとか。いま根っ子の近くをミミズが通って気持ち悪かったーなんてことも言うのよ」
 カーヤの話を聞きながら、あたしは自分の世界観が変わっていくのを感じていた。あたしは何も知らないんだ。カーヤはあたしとはぜんぜん違う世界を見てるんだ。
「あとで聞いたら、母さまにも植物の声が聞こえるんだって。兄と弟が2人いるんだけど、弟の1人はやっぱり聞こえるみたい。声が聞こえちゃうとね、どうしても言う通りにしてあげたいと思うの。皮の剥き方も、切り方も、煮込む時間も。1番おいしく料理して食べてあげたいんだわ。……ユーナには聞こえないでしょう? だから野菜の言う通りに切ってあげることはどうやったってできないのよ」
 あたしは無言で手の中のジャガイモを見つめた。カーヤには今、この子の声が聞こえてるんだ。でもあたしがいくら見つめても、ジャガイモはただのジャガイモで、この子が何を言いたいのかなんて判らなかった。カーヤの料理がいつもおいしいのって、野菜の言う通りに料理してあげてるからだったんだ。
「カーヤ、この子、怖がってるの?」
 あたしがジャガイモをカーヤに手渡しながら言うと、カーヤは嬉しそうににっこり笑った。
「怖がってないわ。ただ、ちょっと寂しそうだった。カーヤに切ってもらえたらもっとおいしくなれるのに、って」
「食べられることが怖いんじゃないの?」
「野菜はね、人が種をまいて、周りの草を取って、肥料をあげて、それで大きくなるの。だから食べてもらうことで恩返しをするのよ。あたしはできるだけおいしく料理してあげることで、野菜にありがとうって言うの」
 野菜は、人が育てて、食べる。どうして野菜が人に感謝するの? 人が野菜を育てるのは、野菜を食べたいからなのに。
「カーヤ、人は野菜を食べるために育てるのよ。どうして野菜は人を恨まないの? 育ててくれてありがとうって言うの?」
 あたしが言ったことに、カーヤは少しだけ悲しそうな笑顔を見せた。
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続・祈りの巫女30
 あたしは、1つのことに夢中になると、周りのことが何も見えなくなる。昨日そのことに改めて気付いたから、今日は朝から物語には一切手をつけなかった。久しぶりにカーヤの朝食の支度を手伝って、ジャガイモの皮を剥こうとしたら、カーヤがあたしの手元を見て何かを言いたそうに目を見開いた。
「どうしたの、カーヤ?」
「うん、えっと……。やっぱりお手伝いはいいわユーナ。椅子に座って待ってて」
 なんだかカーヤはあたしの包丁使いに言いたいことがあるみたい。確かにあたし、このところ料理はぜんぶカーヤに任せきりだったけど、家にいる時はちゃんとお手伝いもしてたし、そんなに危ない持ち方はしてないと思うんだけど。
「あたしの包丁の使い方、おかしい?」
「ううん、そうじゃないの。ただ……ユーナにはたぶん判らないことで、どうすることもできないことだから。でもこれはあたしの料理だからやっぱり野菜はちゃんと使ってあげたいし……」
 カーヤが言ってることはあたしにはさっぱりわからなかった。たぶんそんな顔でカーヤを見てたんだと思う。1つ溜息を吐くみたいにして、カーヤは言った。
「あたしね、ユーナに話してないことがあるの。でもいい機会だから言っておくわね。……あたし、野菜の気持ちが判るのよ」
 カーヤの言葉は、信じるとか信じないとか以前に、意味がよく判らなかったの。野菜の気持ちが判る、って……。野菜に気持ちなんかあるの? 切られたくないとか、食べられたくないとか、野菜が思ってたりするの?
「……ジャガイモがしゃべるの?」
「信じられなくても無理はないわ。でもね、生きてるものにはみんな心があるのよ。あたしには小さな頃から野菜の声が聞こえてたの。だから他の人は不思議に思っても、あたしには野菜がしゃべるのはあたりまえなのよ」
 そう言ったカーヤは、あたしにはまるで初めて見る人のように見えた。
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続・祈りの巫女29
 カーヤは少し悲しそうな表情をしているように、あたしには見えた。だんだん思い出してきた。あたしは朝食のあと物語を読み始めて、それからずっと物語の世界にいたんだ。今が夕方だとすると、お昼ご飯も食べずにいたことになる。あたし、あまりに物語に夢中になりすぎて、カーヤが昼食に呼んだことにすら気がつかなかったんだ。
「ごめんなさいカーヤ! あたし、カーヤが作ってくれたお昼ご飯食べなかった!」
 ようやくあたしがまともに返事をしたからだろう、カーヤも少し安心したみたいだった。
「何回か呼んだんだけどね、あんまり夢中だったから、あたしもかわいそうになっちゃって。でもさすがに夕ご飯くらいはちゃんと食べなきゃ身体に悪いわ。さ、食卓にきて」
 カーヤに背中を押されて部屋を出ると、食卓には既に夕食が並べられていた。あたしはなんだかお腹がしくしくしてしまって、すぐに食べられる気がしなかった。でも、せっかくカーヤが用意してくれたんだもん。食卓について、いただきますを言って、スープを何口か飲んでいたら、だんだんあたしのお腹が空き過ぎてたんだってことに気がついた。
「このハムのスープおいしい」
「よかった。たくさんあるからおかわりしてね」
「うん、ありがと。……そうだ、リョウは?」
 あたしは気付いてカーヤに訊いた。いつもリョウは、夕食の前には来てくれてたんだ。
「今日も来てくれたわよ。でも、ユーナは呼んでもこないし、あたしが今日はユーナはずっと本を読んでたって言ったら、それなら邪魔しなくてもいいって。すぐに帰ったわ」
「そんな! ……リョウ、怒ってなかった?」
「そうね、怒ってるようには見えなかったわ。逆に、ユーナらしい、って笑ってたわよ。一生懸命になると周りのことが何も見えなくなるのがユーナなんだ、って」
 あたし、カーヤの言葉に少しだけ気が楽になっていたけど、でもそれならなおさらリョウに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
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続・祈りの巫女28
『あたしどうしてあんな奴のことが好きなんだろ!』
 部屋に戻ってから、セーラはジムを罵倒して涙を流した。セーラはジムのことが大好きだったから、毎日のようにお昼にお弁当を作って森の中に届けたりしていたの。ジムはきこりで、毎日同じ場所にいるわけじゃないから、時にはジムが見つからなくてお弁当が無駄になってしまうこともあった。でも、運良く探し当てた時には、ジムもちゃんとお礼を言って、自分が持ってきた分とセーラが持ってきた分、両方ともぺろりと平らげていたの。
 祈りの儀式のときには、村の平和を祈ったあと、こっそりジムの無事を祈ってた。気が強くて、だからよくジムと喧嘩ばかりしていたけど、あたしは一途なセーラを1番知ってたから、セーラの失恋はあたしにはすごくショックだった。
 たくさん泣いて、たくさん怒って、あたし、セーラがこの恋を諦めるんだと思ってた。でも、セーラは諦めなかったんだ。
 あんなに泣いたのに、翌日にはけろっとして、朝から一生懸命お弁当を作ってジムを森の中に探しに行った。ジムの方はまたセーラをうるさく思ってた頃の態度に戻っていたけど、セーラの態度はぜんぜん変わらなくて、ジムと本気で喧嘩をして、反面神殿ではジムの無事を真剣に祈っていた。
 すごく大胆で、その上繊細なセーラの恋。ジムと本音でぶつかり合う激しい恋。1回失恋したくらいじゃ消えない、とっても強い恋。あたしはそんなセーラの恋に、今までよりもずっと夢中になって物語の中に入り込んでいた。だから、自分の名前がユーナで、現代の祈りの巫女だってことも忘れてたみたい。それに気がついたのは、誰かがあたしの身体をゆすって、本を閉じてしまったからだった。
「ユーナ、ユーナ、お願い、返事して」
 あたしがまだ物語の世界から戻れなくて、呆然と顔を上げると、カーヤがすごく心配そうな顔であたしを見下ろしていた。
「……カーヤ?」
 そう返事ができるまでにもずいぶん時間がかかったと思う。あたし、カーヤの名前を一瞬思い出せなかったんだ。
「ユーナ、そんなに夢中になってはダメよ。食事をとらなければ身体に悪いし、目も悪くするわ」
 言われて見回すと、あたりは既に夕闇に包まれていた。
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続・祈りの巫女27
 翌日も、あたしは朝からずっとセーラの物語を読み進めていった。そろそろ改めてマイラにお祝いを言いたかったから、午前中少し頑張って物語を進めて、午後からマイラの家に行こうと思っていたの。ほんとは、マイラにリョウのことを相談してみたかった。マイラがベイクと結婚した時の話とか、あたしが知らないリョウのこととか、訊いてみたいことがあたしにはたくさんあったから。
 物語のセーラは15歳になっていた。セーラが恋するジムは19歳で、きこりの仕事をしているの。セーラはその前からずっとジムにまとわりついてて、ジムはいつもうるさそうにあしらってたんだけど、この頃になってようやくセーラの言葉に耳を傾けるようになってきた。気が強いセーラは、このとき初めて、ジムに告白したんだ。
『あたし、ジムと結婚するの。ずっと前から決めてるの』
 あたしはまわりのことなんか一切忘れて物語に熱中した。ジムの返事を待っているセーラと同じ気持ちになって、ドキドキしながらページをめくった。これは物語だから、セーラの心の中が細かく描写されてて、あたしはその部分を読み飛ばして早く返事のところを読みたくなったけど、なんとか我慢して順番どおり読み進めた。
 やがて、しばらくの沈黙のあとのジムのセリフ。
『……なんでオレがセーラと結婚するんだよ。そんなこと、勝手に決めるなよ』
 あたし、しばらく呆然としちゃったよ。そのあとなんだかすごく腹が立ってきた。物語の先を読んでいくと、セーラもあたしとほとんど同じ気持ちで呆然として、そのあと怒りに変わったみたい。あたしが言いたかったセリフとよく似たセリフをジムに投げつけたの。
『そんな言い方ってないでしょ! それが自分を好きになってくれた人への言葉なの? 嬉しいとか、ありがたいとか、そういう気持ちはぜんぜんない訳?』
『どうしてセーラに好かれてオレがありがたがらなきゃならないんだ。おまえなんかと結婚したら、毎日が夫婦喧嘩で終わるだろ。オレはもっとおとなしくて優しい女の子がいい。おまえにももっと優しい奴が合ってるよ。ほら、アサとか』
 アサはセーラに恋している神官で、ジムとも友達だった。このときはまだアサはセーラに告白していなかったけど、セーラもアサの気持ちにはなんとなく気付いていたんだ。
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続・祈りの巫女26
 リョウは狩人だから、巫女のあたしがすごく嬉しいと感じたことを、同じくらいに嬉しいと感じることはできない。あたしだって狩人のリョウの気持ちを本当に理解することはできない。でも、リョウがカザムを仕留めたことをすごく喜んでいたら、あたしだって嬉しいんだ。リョウが喜んでいるってだけで、あたしは喜ぶことができるんだ。
 あたしがセーラの日記を読めることをリョウも喜んでくれた。リョウには判らないことだったけど、あたしが喜んでいたから、リョウは「よかったな、ユーナ」って言ってくれたんだ。
「……カーヤ、リョウはタキのことを気にしてたのかな」
 しばらくの沈黙のあとそう言ったら、カーヤは少しほっとしたように笑顔を見せた。
「なんとなくね、そうじゃないかな、って思っただけなの。あたしの勘違いかもしれないけど」
「ううん、勘違いじゃないかもしれないわ」
 たぶんカーヤが言ったことも本当なんだ。リョウは、あたしがいきなりタキの話を始めたから、気分を悪くしてしまったんだ。だからすぐにはあたしと一緒に喜ぶことができなかったんだ。
 リョウはいつもすごく優しくて、自分が怒っていたとしてもぜったいに表情に出さない。今日だってずっと微笑んでいたんだもん。もしもカーヤが言ってくれなかったら、あたしはリョウが怒ってたかもしれないなんて、ぜったいに思わなかっただろう。もしかしたら今までもリョウが怒った時はあったのかもしれない。あたしはずっと気付かないで、リョウを傷つけてたかもしれないんだ。
 リョウはたぶん、ものすごく強い意思を持って、人に優しくしようとしてるんだ。あたしは今までずっと、そんなリョウの優しさに甘え続けてきた。本当はリョウがどう思ってるのかなんて、気付こうとすらしなかったんだ。
 この1年で、あたし、リョウに嫌われなかった? あたしが祈りの巫女になったあの時、一緒に暮らしたいって言ってくれた、あの時と同じ気持ちで今でもいてくれてる?
 それとも、知らない間にあたしは嫌われていて、リョウの中にはもう優しさだけしかないの……?
 今までの自分があまりに何も知らな過ぎたことに気付いたその夜、あたしはベッドの中でいつまでも眠れずにいた。
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続・祈りの巫女25
「ユーナはその日記の方をずっと読みたいと思ってたの?」
 リョウは少し目を見開いて、強引に作ったような雰囲気の笑顔で言った。あたしがリョウの反応に引っかかって気分を萎えさせてしまったことに責任を感じたのかもしれない。でもあたしは、そんなリョウの心遣いに応えることができなかった。判ってしまったから。リョウはあたしが嬉しいと思ったことをあたしと同じようには喜べないんだ、って。
「……日記のことはね、昨日タキと話していて初めて知ったの。物語はセーラが書いた訳じゃないから、もしかしたら本当のセーラとは少し違うかもしれない。でも日記はセーラが自分で書いたものだから、本当のセーラなの。その日記を読めば、あたしは本当のセーラに会うことができるの」
 リョウは文字が読めないから、物語を読んだことも日記を読んだこともない。だから昔の文章を読むことがどんなことなのか判らなくてあたりまえなんだ。
「そうか。……よかったな、ユーナ」
「うん、ありがとリョウ」
 リョウがあたしの頭をなでる。リョウはいつでもあたしに優しくしてくれる。あたしの話を毎日聞いてくれて、嬉しい時には一緒に喜んでくれる。リョウに判らないことがあっても仕方がないんだ。でも、こんなにはっきり判ってしまったのが初めてだったから、あたしは自分で思ってもみなかったくらい、大きなショックを受けていた。
 そんなあたしの落ち込みは、もしかしたらリョウにもショックを与えたのかもしれない。それからほんの少し会話を交わしただけで、リョウは宿舎をあとにしていた。
 リョウがドアを出て行ったあと、今までずっとあたしたちの様子を見ていたカーヤが言った。
「ユーナ、余計なことかもしれないけど……。男の人と2人で話しているとき、他の男の人の話題は相手にとってはあまり気分がいいものじゃないかもしれないわよ。あたしだったら、好きな男の人に他の女の子の話はできればしてほしくないもの」
 その言葉に、あたしは更に別の意味のショックを覚えていた。
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続・祈りの巫女24
 草むしりの日は神殿の全員で川へ身体を洗いに行く習慣だったから、リョウも遠慮して話しにはこなかった。翌日からはまたいつもの生活に戻って、あたしは今までよりもずっと熱心に、セーラの物語を読み進めていった。この物語を読み終えたら、タキはセーラの日記を読ませてくれるって約束した。あたしはセーラの日記が読みたくて、できるだけ早く物語を読み終えてしまいたかった。
 いつもよりも2倍以上ページが進んで、さすがに読み疲れてきた頃、いつもの時間にリョウがやってきた。昨日話していなかったからあたしはリョウに話したいことがたまってしまって、カーヤに呼ばれるのももどかしく、本にしおりを挟んで勉強部屋を飛び出していた。
「リョウ、お帰りなさい!」
「ただいま、ユーナ。元気そうだね」
「うん、昨日ね、タキがセーラの日記を見せてくれるって約束してくれたの。あたし嬉しくて」
 リョウは微笑みながら、少し首をかしげる仕草をした。あたしは昨日は嬉しくてカーヤにも同じことを話していたから、本当ならリョウに説明しなければならないことを知らない間に省いちゃってたんだ。あたしは少し落ち着くようにテーブルについて、1つ深呼吸してから言った。
「昨日ね、草むしりの時にタキと一緒だったの。リョウはタキを知ってる?」
 リョウは記憶を辿るように視線を泳がせた。
「うん、たぶん顔を見れば判ると思う。オレと同じか少し年上くらいの神官だよな。ひょろっとした感じの」
「そう、そのタキ。そのタキがね、あたしが今読んでるセーラの物語の元になった、セーラの日記があるって教えてくれたの。それでね、物語を読み終わったら、セーラの日記も読ませてくれるって、約束したの」
 あたしはまだ少し興奮気味に話していたのだけど、リョウにはあたしが興奮している気持ちが判らないみたいだった。ちょっと首をかしげて、相変わらず微笑んだままだった。そんなリョウを見ていたらあたしも少し気分が萎えてしまったみたい。今まですごく嬉しかったのに、セーラの日記を読めることがあまりたいしたことじゃなかったような気がした。
 そんなあたしの表情の変化を、リョウも感じたみたいだった。
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続・祈りの巫女23
 読んでみたかった。セーラが日々どんなことを考えて、祈りの巫女の使命を全うして、どんな風に思いながら死んでいったのか、それを知ることができるのなら。
「それ、読んでみたい! 読ませてもらえるの?」
「祈りの巫女がそう思うなら読めると思うよ。ただ、あの本は持ち出し禁止だから、自分の宿舎でゆっくりと、っていう訳にはいかないかな。物語よりもずいぶん長いしね。どっちにしても物語をぜんぶ頭に入れてからでないと理解できないから、今読んでる物語の方を読み終わって、そのあと神官の誰かに隣で訳してもらいながらだね。オレでよければ協力するよ」
「ありがとうタキ! あたしが物語を読み終わるまで、忘れないでね。約束!」
「ああ、約束」
 セーラに会える。だれかが書いた物語じゃなくて、セーラが毎日綴っていた、1日1日を積み重ねたセーラの小さな毎日に。
 物語の中では切り捨てられてしまっている、小さな出来事や小さな悩み、今あたしが感じてるような焦りや不安を、セーラがどう感じてどう克服していたのか。
 物語の中のセーラは気が強い女の子だったから、あたしみたいにたくさんの不安はなかったのかもしれないけど。
 そのあと、タキはまた無言で草むしりを再開したから、あたしも両手を動かして、やがて山の陰だったこの場所にも日が差し始めていた。途中1回だけ飲み水を持って見習いの巫女の1人が回ってきて、あたしもタキも1杯ずつ水をもらって、お昼になる頃にはようやく建物の陰になるあたりまで作業を進めることができた。
 それで初めて気がついた。タキが、最初からできるだけ日陰になるように場所を選んで、草むしりを始めてくれたこと。日中陽が当たる場所は朝、山の陰になるときに済ませてしまって、いちばん日差しが強い時間には建物の陰になるように。たぶんタキは毎年の草むしりにも慣れているんだと思うけど、たとえそうだとしてもあたしには新鮮な驚きだったの。
 タキの気遣いで、今年あたしは最後まで草むしりを続けることができた。この時からあたしは、タキに無条件の信頼を置くようになったんだ。
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続・祈りの巫女22
 あたしはタキの目を見たまま、しばらくのあいだ何も答えることができなかった。
 もちろん思ったことはいっぱいある。あたしは祈りの巫女で、祈りの巫女の仕事は誰かのために祈ること。それは例えば誰かの健康だったり、仕事の成功だったり、もっと漠然とした誰かの幸せだったりすることもある。あたしはマイラの幸せを祈って、あたしの祈りを受けた神様はマイラが今一番幸せになれる方法を選んで、マイラに子供を授けてくれた。そのために祈ることがあたしの仕事で、マイラの子供が無事に生まれたとき、あたしは幸せを感じたんだ。
 祈りの巫女になって誰かのために祈ることは、あたしを幸せにしてくれる。あたしは自分で自分の幸せを祈らなくても、誰かの願いがかなうことで幸せになれるんだ。タキにそう言いたかったのになぜか言えなかった。あたしが幸せだって、自信を持ってタキに言うことができなかったの。
 あたしの幸せを祈ることは誰にもできない。タキのその言葉は、あたしには「祈りの巫女は幸せになれない」って聞こえた。セーラがわずか17歳で死んでしまったように、あたしもこれから先永久に幸せになれないような気がしたの。
 あたしは不安そうな顔をしていたんだろう。見つめたまま、タキはちょっとばつが悪そうに微笑んだ。
「……参ったな、祈りの巫女がそんなに深刻に取るとは思わなかった。これは罪滅ぼしが必要だな」
 タキはちょっと目を伏せて、そのあともう一度顔を上げたときには、今までよりもずっと明るい表情になっていた。
「ねえ、祈りの巫女、セーラが書いた日記の原文を読んでみたいと思うかい?」
 タキが突然話を変えたからあたしは驚いて、でもその内容の方にもっと驚かされていた。
「日記の原文があるの? 物語じゃなくて?」
「もちろん原文の書き直しも定期的に行ってるよ。物語の書き直しの時には参考資料として必要だからね。ただし、セーラの時代と今とでは言葉も変化してるから、理解できない言葉も多いんだけどね」
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続・祈りの巫女21
 タキの話を聞いていたら、タキがどうして神官になったのかは判ったけど、あたしにはタキがそれを不思議に思って、どうしても知りたいと思う気持ちが判らなかった。だって、畑仕事をするならいつ種をまいて草取りして肥料をあげて、いつ収穫すればいいのかが判ってればいいし、狩人ならその季節にその動物がどこにどのくらいいるのかが判ってればいいんだもん。空がどうして青いのか判っても、誰の役にも立たないんだ。
「それはタキだけなの? 神官はみんなそう思うものなの?」
「そうだね、何を考えてるのかはみんな違うけど、少なくとも知りたいと思う気持ちは同じじゃないのかな。この間セリと話したら、セリは山の上の方がふもとより寒いのはどうしてかな、って言ってたし。祈りの巫女はどうしてだと思う? 山の上の方が太陽に近いはずなのにね」
 あたしはタキの問いには答えられなかったし、そもそも考えることすらもできなかった。タキは、たぶん慣れてたんだと思う。そんなあたしの反応を意外に思った様子はなかった。
「祈りの巫女は? どうして巫女になったの? ……もちろん神託の巫女の予言があったからだろうけど」
 2人ともすっかり草むしりの手が止まっていたのだけど、お互いそんなことにはぜんぜん気がついていなかった。
「んとね、みんなを幸せにできるから。祈りの巫女になって、みんなのために祈ったら、みんなを幸せにできると思ったの」
 あたしがそう答えたとき、タキはちょっと首を傾げてあたしを覗き込んで、ふっと、微笑んだ。
「みんなを幸せにする祈りの巫女、か。……だったら、祈りの巫女の幸せは、いったい誰が祈ってくれるんだろう」
 思いがけないタキの言葉に、あたしは返事をすることができなかった。
「セーラの物語を読んでいて思ったんだ。セーラは災いを避けるために必死で祈りを捧げて、その祈りは神様に届いて、村は平和を取り戻した。今オレたちがここにいるのは、セーラたち祈りの巫女のおかげだと思ってる。だけど、セーラを幸せにすることは誰にもできなかったんだ。祈りの巫女は災いを避けるために生まれてくる。それは確かにそうなのかもしれないけど……。オレは、祈りの巫女自身の幸せも、大切なことだと思うんだ」
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続・祈りの巫女20
 タキは穏やかな笑顔で話してくれて、あたしにはタキが本当に喜んでくれていることが判った。あたしが読んでいるセーラの物語は、1300年も前に生きていたセーラの日記を、のちの神官が物語に起こしたもの。それからすごく長い時間を、タキのような神官たちがずっと書き直してくれていたんだ。だからあたしはセーラの物語を読むことができる。まるで昨日生きていた人のように、セーラを身近に感じることができる。
 もしも途中で誰かが書くことをやめてしまっていたら、あたしはセーラに出会うことはできなかった。あたしはすごくたくさんの神官たちに助けられてるんだ。その人たちの名前をあたしは知らない。そして、あたしの次の代の祈りの巫女は、タキの名前を知ることもないんだ。
 それでも、タキは物語を書き写して、あたしが今それを読んでることを喜んでくれる。タキの名前はどこにも残らないのに。タキがここに生きてたことを、この先生まれてくる人は誰も知らないのに。
「ねえ、タキはどうして神官になったの?」
 あたしがそう聞くと、タキはちょっと驚いたように、視線を泳がせた。
「……そうだな。オレはそれほど身体を動かすのが得意じゃなかったし、子供の頃から独りで考え事をするのが好きだったんだ。例えばね、晴れた日の空は青くて曇りの日の空が白いのはどうしてかとか、太陽が毎日東からのぼって西に沈むのがどうしてなのかとか。祈りの巫女は不思議に思わない? 毎年同じ頃に草は芽を出して、夏の初めにはこうして草むしりもしなきゃならない。だけど冬になれば自然に枯れていく。そういうのが」
 タキの答えはあたしが今まで考えもしなかったことで、だから今度はあたしの方がびっくりしてしまったの。
「そんなこと、あたりまえだと思ってたわ。春に花が咲くのも、秋に枯葉が落ちるのも。ああ、もう秋なんだな、って」
 何がおかしかったのか、タキはあたしを見て、ちょっと吹き出すように笑った。
「そういうことをね、昔の人がどう思ってたのか、オレは知りたかったんだ。だから神官になって文字を覚えて、昔の本を読みたかった。中にはオレが思ったようなことを思ってた人もいて、答えを教えてくれるかもしれなかったから」
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続・祈りの巫女19
「情がこわいな、祈りの巫女は」
 タキが半分笑いながらからかうように言って、あたしは再び顔を上げてタキを見た。タキの笑顔の中にはあたしに対するほほえましさのようなものが混じっていて、あたしはまた子供扱いされてることを感じていた。ちょっと腹が立ったけど……あたしが子供扱いされるのって、もしかしたら自分が悪いのかもしれないって思い直した。リョウはカーヤを子供扱いしたりしない。こんな時、カーヤだったらきっと素直にタキに甘えていたから。
「ごめんなさい。あたしが倒れたらタキに迷惑をかけるのよね。タキの言う通りゆっくりやるわ」
 あたしがそう言って微笑んだら、タキの様子がみるみる変わって、あたしの方が驚いてしまった。
「……んまあ、なんにでも一生懸命なのは祈りの巫女のいいところでもあるんだけどね」
 あたしの視線を避けるように目を伏せて、口の中でぼそぼそと言ったあと、あたしに背を向けてまた草むしりを始めてしまったの。これって、あたしにはすごく新鮮な驚きだった。だって、タキはぜったいあたしをからかうつもりだったはずなのに、それが途中からできなくなっちゃったんだもん。
 こんなに簡単なことだったんだ。それが判ったあたしは嬉しくて、自然に顔がほころんでいた。そうしてニヤニヤしながらしばらく無言で草むしりを続けていたら、やがてタキがまた話し掛けてきた。
「2代目祈りの巫女の物語を読んでるの?」
 タキは微笑んでいたけれど、もうあたしをからかうつもりはないみたいだった。
「うん、セーラの物語ね」
「3年くらい前だったかな、オレも清書を手伝ったよ。今祈りの巫女が読んでる中にはオレが書いたページもあるんだ」
「え? そうなの?」
「12代目の祈りの巫女が読む本だから心をこめて慎重に書くようにって、何度も言われたな。オレにとっても初めての清書だったし。だから楽しみだった。君があの本を読んでくれる日がくるのが」
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続・祈りの巫女18
 翌日は毎年恒例の草むしりの日だった。神殿や宿舎の周りの雑草を、巫女と神官が総出できれいにするの。あたしは今年で2回目だった。朝から日よけの帽子やシャベルを用意して、神殿前の広場にみんなで集まった。
 少しの説明を受けて、担当の場所を教えてもらって、あたしは守りの長老が住む宿舎の裏手に向かう。その場所の担当はあたしのほかには神官のタキ。たぶんリョウよりも少し年上くらいで、主に昔の書物を新しく書き直す仕事をしている神官だった。
「よろしく祈りの巫女」
「こちらこそ。がんばろうね」
「向こうの端から一緒にやっていこうか」
 あたしはタキの指示に従って、タキの隣で地面を掘り返し始めた。まだ朝も早くて神殿の全体が山の陰になってるからそれほど暑くは感じない。でも、ここはもともと日が当たる場所だったから、雑草もけっこう長く伸びていて、シャベルを使っても引き抜くのは大変だった。隣のタキは慣れてるみたいで、見る間に土の見える範囲を広げている。あたしも負けないように一生懸命草を抜いた。だって、あたしがちゃんと頑張らなかったら、タキにも迷惑をかけることになるんだもん。
 ふいにタキは顔を上げて、そんなあたしの様子を見て笑った。
「祈りの巫女、そんなに飛ばすと夕方まで持たないよ。もっとゆっくりやればいいよ」
 タキの言葉で、あたしは去年のことを思い出した。初めて草むしりに参加したあの時、あたしはお日様の熱さに耐えられなくて、午後にはフラフラになって日陰で休ませてもらったんだ。
「タキの方がずっと早いわ。タキにばっかりやらせてたらサボってるみたいだもん」
「そんなこと誰も思わないよ。それより、祈りの巫女がまた倒れたら、オレが無茶させたみたいじゃないか。いいからゆっくりやりなって。祈りの巫女の分もちゃんとオレが引き受けるからさ」
 あたしは、タキの心遣いが嬉しくもあったのだけど、やっぱりなんだか悔しかった。あたしだってちゃんと一人前の巫女なんだもん。タキに子供扱いされている気がして、あたしはタキに返事をすることも、手を休めることもできなかった。
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続・祈りの巫女17
 カーヤの心づくしの夕食を食べて、あたしは勉強部屋に戻って、自分の日記をつけ始めた。この日記はのちの神官が物語に起こしてくれる。だからいいかげんに書くこともできなかったし、嘘もつけなかった。今日の出来事を正確に正直に、できるだけ丁寧な文字で書き綴っていった。
 そして、眠る前のその時間、あたしはまた神殿にきていた。マイラの子供が無事に生まれた感謝の気持ちを神様に伝えるために。
 神殿のあちこちに順番にろうそくを立てて、聖火を移して、順番にともしていく。床に水滴をたらしながら結界を張って、螺旋を描いて歩く。何度か歩いているうちに、徐々に神様と祈りの巫女との心の距離が近づいていく。あたしは、神様の前に、心のすべてを開放する。
  ―― あたしはまだこんなに未熟です。でも、マイラの幸せを願う気持ちは本物。神様、マイラの幸せのために子供を授けてくださって、本当にありがとうございました。この先は、マイラが自分の力で幸せになります。どうか、マイラが幸せになるための力を、彼女に授けてあげてください。
 祈りを捧げているあたしには、神様の気配がすぐそばに感じられる。代々の祈りの巫女の中には神様の声を聞いた人もいたけれど、あたしにはまだ神様の声は聞こえなかった。神様の気配は、あたしが優しい気持ちでいれば優しく、厳しい気持ちなら厳しく感じられた。今日の神様は、あたしの不安を映したように、ひどく不明瞭な気配を発していた。
 神様に祈ることは、自分の心を知ること。祈りを終えてろうそくを集めながら、あたしは自分の心を見つめた。あたしがこれから本当にしたいと思うこと。リョウが、カチに髪飾りを作ってもらうのが目標だと言ったように、マイラの祈りを終えた今、あたしもまた祈りの巫女の目標を定めなければいけないんだ。
 マイラが幸せになって、神託の巫女の死の予兆を知った今が、あたしの折り返し点なのかもしれない。
「ねえ、カーヤ。あたしこれから何をすればいいと思う?」
「祈りの巫女、人間は焦ると普段の半分の力しか出せなくなるのよ」
 カーヤの言うことはもっともで、でもあたしは心の中のもやもやをどうしたらいいのか判らずにいた。
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続・祈りの巫女16
 騎士があたしを守ってくれる。あたしには騎士がいるの? セーラにジムとアサがいたように、あたしにもあたしを守ってくれる騎士がいるの?
「守りの長老、それは……」
 考えたこともなかった。祈りの巫女には騎士がいることがある。でも騎士はいつでも2人揃っている訳じゃないし、歴史の中には騎士がいない祈りの巫女の方が多いんだ。あたしに騎士がいるなんて、今まで思ってもみなかったことなのに。
「あたしには騎士がいるの? それは誰……?」
 守りの長老は答えてはくれようとはしなかった。沈黙を破ったのは神託の巫女だった。
「祈りの巫女、騎士の存在は誰も知らないのよ。もちろん私は知ってるけどね。あなたには教えられないわ。理由は判るでしょう?」
 騎士は、その時がくるまで、自分が騎士であることを知ってちゃいけない。その理由は判らないけど、あたしがそれを知ってると、騎士に自分が騎士であることを悟られてしまう。だからあたしは騎士の存在を知ってちゃいけないんだ。
「守りの長老、その話は祈りの巫女には内緒だって言ったでしょう?」
 神託の巫女に叱責されて、守りの長老は黙り込んでしまったけど、あたしはなぜ守りの長老が禁を破ったのか、なんとなく判った。
 あたしの宿命を背負うことは誰にもできないけど、同じ宿命を背負った人がほかにもいるんだよ、って、守りの長老はそう言ってくれようとしたんだ。
「守りの長老ありがとう。守りの長老は前にも言ってくれたわ。ユーナの命があることを神に感謝しよう、って。あの頃からみんな災いのことを知ってたのね。あたしの命は、ここにいるみんなの希望なんだわ」
 あたしの命は一度消えかけた。幼いあの日、シュウが助けてくれた命。あたしの命がある限り希望は消えない。もしかしたら、シュウこそがあたしの騎士だったのかもしれない。
 シュウは今でもあたしを守ってくれる。そう信じてるのは悪いことじゃないよね。自分ひとりだけ、シュウを騎士と呼んでも。
 祈りの巫女の誕生が災いを運んでくるんじゃないんだって、あたしはそう信じていたかったのかもしれない。
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続・祈りの巫女15
 このとき、あたしは初めて口を開いていた。
「何が起こるのかは判らないの? 飢饉とか、争いとか」
 ある程度覚悟ができてたのかな。あたしは自分でも不思議なくらい、取り乱したりすることはなかった。
「判らないのよ。運命の巫女が未来を見ても、それがいつ起こるのか、その時何が起こるのか、何も判らないの。すでに決まってしまった未来なら運命の巫女は見ることができるわ。運命の巫女に未来が見えないのは、未来がまだ決まっていないから。その未来は、おそらく祈りの巫女が握っているのだと思うの」
 あたしが、未来を握ってる。
 この先で何が起こるのか、それとも何も起こらないのか、それはすべてあたしにかかってる。あたしの祈りがみんなの運命を握ってる。
 あたしは祈りの巫女。特別な時代に生まれてきて、人々の祈りを神様に届ける役割を負う。あたしがみんなを幸せにしなきゃいけないんだ。
「もっともっと、たくさん勉強しなくちゃいけないのね。祈りが神様にちゃんと届くように」
 あたしが取り乱さなかったことを、守護の巫女は少し意外に思ったみたいだった。明らかにほっとしたような笑顔で言った。
「今までずっと、祈りの巫女は災いを退けてきたわ。神様はあなたに不可能だと思うような試練を与えたりしない。自分の力を信じて、今のあなたにできる限りのことをすればいいと思うの。あなたが生まれてきたことがすでに幸運なのよ」
「救いもあるわ。今、命の巫女は生まれていない。だからそれほど大きな災いではないのよ。祈りの巫女ユーナが背負うものは、2代目のセーラのときよりずっと小さな災いのはずだわ」
 神託の巫女が引き継いで、あたしの気持ちをできるだけ楽にしてくれようとする。その気持ちが嬉しかった。だけど ――
  ―― 誰も、祈りの巫女にはなれない。あたしの代わりにその宿命を背負うことなんてできない。
「……祈りの巫女ユーナ。そなたの命があることがすでに幸運なのだ。騎士がそなたを守るだろう」
 その時初めて、守りの長老が重い口を開いた。
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続・祈りの巫女14
 守りの長老の家は神殿の左側、神官の宿舎が並んだ奥にあった。カーヤは明かりを持ってドアの前まで送り届けてくれたけど、呼ばれていたのはあたしだけだったから、そのまま引き返していってしまった。ドアをノックすると、中から守護の巫女がドアを開けてあたしを迎え入れてくれる。部屋の中には守護の巫女と神託の巫女、そして、奥に守りの長老が座っていた。
 守りの長老は神殿の神官の最高位で、最高齢でもある。たぶん60歳は超えてるんじゃないのかな。巫女で同じ位置にいるのが守護の巫女で、こちらはまだ40台くらい。神託の巫女は30台くらいで、名前がある巫女や神官の中では、当然あたしがいちばん若い巫女だった。でも今の神託の巫女は20台の頃に巫女を継いだから、巫女の中では出世が早い方だった。
 大きなテーブルのいちばん向こうに守りの長老がいて、その左に守護の巫女と神託の巫女がついている。あたしは促されて、長老に向かって右側の席に腰掛けた。
 最初に口を開いたのは、あたしの正面に座った守護の巫女だった。
「祈りの巫女、突然呼び出したりしてびっくりしたでしょう?」
 あたしは素直にうなずくことで答えた。
「でも、そんなに緊張しなくていいわ。今日は、祈りの巫女が儀式を受けてから1年余り経って、巫女としての生活にも慣れてきただろうし、少し神殿の現状について話をするだけだから。あまり深刻に取らないで聞いてちょうだいね」
 守護の巫女の声は穏やかで、あたしは少しだけ緊張を解くことができた。あたしが視線を移すと、神託の巫女も微笑んでくれた。2人とも、あたしが若い巫女だから気を使ってくれてるんだ。あたしもしっかりしなくちゃ。そう思って、2人に微笑みかけた。
「実はね、ここ……もう30年くらい前からだけど、神託の巫女が行う誕生の予言の中にある予兆が見えるようになってきたの。あなたが生まれたのが14年前で、その予兆は現実味を帯びてきた。祈りの巫女がその時代に必要とされて生まれてくる巫女だからよ」
 この1年間、ずっと祈りの巫女の勉強をしてきて、あたしにもわかった。あたしは何かの災いを回避するために生まれてきたんだ、ってこと。
「神託の巫女の予言に含まれるのは、死の予兆。たくさんの人がある同じ時期に死を迎える予兆なの」
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続・祈りの巫女13
 あたしが祈りの巫女になってから、リョウは毎日話しにきてくれるようになった。それまでのリョウはなんだかそっけなくて、あたしが話し掛けてもいつも忙しそうにしてたから、毎日きてくれるようになったのがすごく嬉しくて、その日勉強したことや、誰かと話したこと、たくさんリョウに話した。リョウがそばにいるのが楽しくて、リョウがいろいろ話してくれるのが嬉しくて、リョウが来てくれるのが毎日の楽しみだった。リョウの家を建てる時にみんなで手伝いに行った。あたしはお弁当を作るくらいしかできなかったけど、でもリョウのために役に立てるのがすごく嬉しかった。
 今でも毎日リョウは来てくれる。あたしの話を聞いてくれて、あたしにいろいろ話してくれる。前と同じなのに、前ほど楽しくないの。あたし欲張りなのかな。1つ願いがかなったら、今度は次の願いをかなえたいと思っちゃうの。
 大好きなリョウの1番になりたい。リョウが1番好きで、1番大切にしてくれる女の子になりたい。誰にでも向ける優しさじゃなくて、あたしだけに向けてくれる優しさが欲しい。だって、リョウはカーヤにも同じように優しいんだもん。カーヤに優しく笑いかけてるリョウを見るのが、なんだかすごく悔しいと思うの。
 あたしだけのリョウを願っちゃいけないのかな。それって、あたしのワガママなのかな。誰にでも優しいのがリョウだから、そんなリョウのことを好きになったあたしは、リョウがほかの人に優しくするのも我慢しなきゃいけないのかな。
 それとも、リョウがあたしに優しいのも、ほかの人への優しさと同じなのかな……
 あたしがそうして考えつづけてた時、遠慮がちにドアがノックされて、小さく開かれたドアからカーヤが顔をのぞかせた。
「ユーナ、……よかった、1人ね」
 あたしは気分を切り替えて、カーヤに笑いかけた。
「どうしたの? リョウはもう帰ったわよ。入ってくるのに遠慮なんかしなくてもいいのに」
「深刻な話をしてるかと思ったのよ。……実はね、守りの長老がユーナを呼んでるの。夕食がまだなんだって言ったんだけど、そんなに時間は取らせないから、って」
 カーヤの言葉で、あたしはその話が今朝の神託の巫女の話と関係があることを、おぼろげながら察していた。
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続・祈りの巫女12
 リョウは狩人だから、文字も読めなかったし、巫女の歴史を勉強したこともない。だから、あたしが不安に思ってることが、リョウには判らないかもしれないんだ。それは少し前からあたしが感じてきたことだった。狩人のリョウと、巫女のあたしとの距離は、少しずつだけど離れ始めてるのかもしれない、って。
 リョウが今でもあたしと一緒に暮らしたいと思ってるかどうかなんて、リョウ自身にしか判らないんだ。
 だんだん、リョウに訊けないことが増えていく。小さな子供の頃だったら素直に訊けていたのかもしれないのに。
 リョウは、いつ、誰と結婚したいの……?
「ねえ、リョウは? 今日リョウは何をしてたの?」
 リョウはとたんに目を輝かせて、あたしに話し始めた。
「ルギドの穴を捜してたんだ。放っておくと村の畑に来て土の中を荒らしまわるからね。いくつか見つけて、入口に罠を仕掛けてきた。今の時期だとこの仕事が一番重要かな。午後からは南の森で雄のカザムを一頭仕留めたよ」
「ほんとに? すごい」
「カチに細工用の角を頼まれててね。もう少し腕を上げて、カチにワガママ言えるくらいになったら、北カザムの角でユーナの髪飾りを作ってもらうな」
「あたしの……?」
「まだずっと先のことだと思うけどね。とりあえずそれが今のオレの目標」
 リョウはほんとに嬉しそうにそう言ったから、あたしまた期待しちゃうよ。誰にでも優しいリョウ。その優しさが、あたし1人のものなんじゃないか、って。
 リョウの顔がまともに見られない。口を開いたら憎まれ口を言いそうで、あたしは下を向いたまま何も言うことができなかった。
「さあて、時間も遅いし、カーヤが戻ってくる前に帰ろうか。ユーナ、またな」
 もう一度あたしの頭に手を置いて、顔を上げたあたしににっこり微笑んで、リョウはドアを出て行った。
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続・祈りの巫女11
 狩人のリョウは真っ黒に日焼けしていて、17歳でもう一人前の男の人だった。リョウと2人きりになると、なんだか少し怖い気がするの。それは1年前には感じてなかったことだった。リョウはいつもすごく優しかったのに、そんなリョウを怖いと思うのは少し変な気がした。
 セーラのジムもセーラより何歳か年上だった。彼女はジムを怖いと思ったことがあるのかな。セーラは気が強い子だから、あたしがリョウに思うような気持ちはなかったのかもしれない。
「それで? 神託の巫女の予言は聞けたの?」
 あたしはリョウにその時の様子をかいつまんで話した。神託の巫女の予言の様子や、マイラとベイクの幸せそうな顔。それから、帰り道で神託の巫女が言った、あたしがいずれ知らなければならないことがあるってこと。
 あたしはそうしてほとんど毎日、リョウにその日起こった出来事を話してきた。この1年余りの間、2日とあけずに。
「なんかね、神託の巫女があたしに言おうとしてることって、すごく嫌なことのような気がするの。ねえ、リョウ。マイラは幸せになれないの? あたしはただマイラに幸せになって欲しいだけなのに」
「どうして幸せになれないなんて思うんだ? 祈りの巫女が1年も祈って、願いはかなえられたんだろ? もっと自分と神様を信じなよ。だいたい神託の巫女が言ってた事だって、マイラのこととは限らないじゃない。予言に嘘がないならマイラの子供は幸せになるよ。子供が幸せならマイラだって幸せだよ」
「……うん、そうよね。あたしもリョウの言うとおりだと思う。神託の巫女の話だって、聞く前からあれこれ考えてもしかたないよね」
「そうだよ。……やっとユーナらしくなったな」
 そう言って、リョウはまたあたしの頭をなでた。あたしの気持ちは少しだけ軽くなってたけど、リョウが言うようにいつものあたしらしくはまだなってない気がした。
 物語を読んでいると判る。祈りの巫女が生まれる時代には、必ず何かの災いがあるんだってこと。その災いはいつも避けられてきたけれど、あたしがその災いを避けることができるかどうかなんて、まだ誰にも判らないんだ。
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続・祈りの巫女10
 昔の物語を読んでいると、ときどき転生って言葉が出てくることがある。以前生きていた人の魂が新しい身体に宿ることを言っていて、神託の巫女は誕生の予言の時に知ることができる。でもそれは本人にも両親にもぜったいに知らされないから、死んだあと物語になって初めて判ることなんだ。転生は巫女たちに限らず誰にでもあることだから、神託の巫女に報告を受けた神官が、戸籍に記載する時に一緒に付け加えられることになる。
 リョウのように神殿にかかわらずに生きている人たちは、そもそも転生なんて気にもしないし、必要もないから、そんな言葉があることすら知らないの。あたしはリョウと毎日のように話してるから、前にそんな話をしたこともあった。マイラの新しい子供はシュウの転生なのかもしれない。神託の巫女は、マイラの赤ん坊の予言をして、そんな事実を知ったのかもしれないんだ。
「ありがとう、カーヤ。でも夕飯は自分の家で食べるよ。癖になると困るからね」
「癖になったらなったでいいじゃない。毎日ここで食べればいいわ」
「さすがにそれはまずいよ。若い女性が2人だけの家に入り浸ったりしたら、変な噂が立ちかねないから。オレはよくても祈りの巫女に迷惑がかかる」
「そう? 残念。おいしいのに」
 その時カーヤはエプロンを外して、椅子の背もたれにかけながらにっこり笑った。
「ユーナ、ちょっと神殿の予定を見てくるわ。リョウ、ゆっくりしていってね」
「いいわよカーヤ。あとで自分で見に行くから」
「ついでにほかの用事も済ませてくる。……あたしがいては話しづらいこともあるでしょう?」
 カーヤはそう言ってさっさとドアを出て行ってしまったから、あたしはなんだか少しカーヤに申し訳ない気持ちになっていた。
「オレはいつもカーヤに迷惑をかけてるな。もう少し早い時間に来られればいいんだけど」
「リョウは悪くないわ。だってリョウにも狩人の仕事があるんだもの」
 リョウに視線を移して、あたしはまたセーラの恋物語を思い出していた。
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