2005年12月の記事


桜色迷宮・最終回
 片腕であたしを抱き起こして、もう片方の手で器用に携帯電話を扱って救急車を呼ぶ美幸先輩の声を聞いていた。先輩の状況説明は的確で、でも冷静に見えてかなり動揺しているらしいのは、その震える声からも十分判った。
「大丈夫だよ、一二三ちゃん。すぐに救急車が来てくれる。しっかりするんだ」
 電話を終えた先輩の言葉に小さくうなずく。ただ待っているだけの時間はものすごく長く感じた。ここから1番近い国道沿いの消防署まで、たぶん1キロくらいしかないだろう。時速60キロで走ってくれれば、到着まで1分くらいしかかからないはず。
「……痛い……です。それに……なんだかクラクラして……」
「一二三ちゃん!」
「あたし、痛いって感覚、慣れてなくて……。血、たくさん出てますか……?」
「たいした量じゃないよ。僕だったら病院にすら行かないくらいだ。大丈夫、このくらいの傷ならすぐに治るよ」
「……小学校の頃、ちょっとすりむいて、3ヶ月入院しました。……先輩……お見舞い、来てくれます、か……」
「必ず行く! 毎日必ず行くから! ……ダメだ、ちゃんと目を開けて! 僕の声を聞いて、僕と話して!」
 なんだか、体中の血液が、どんどん頭の傷から流れ出ているような気がした。目を開けているのがつらくなって、しだいに先輩の声も遠くなっていく。大丈夫だよ先輩。今までだってずっと、必ず誰かがあたしを助けてくれたんだ。お医者様や、救急隊の人や、両親や学校のみんながあたしの命を助けてくれた。あたしはこの15年間、ただ生きていたというだけで奇跡だった。

 そうだ、病院で目覚めたら、まず先輩の顔を見て言うんだ。たぶん最初は無菌室で、そのあと面会謝絶が解けてからになると思うけど、初めて病室まで先輩がお見舞いに来てくれたときに。誰かに聞かれるのは恥ずかしいから、先生に頼んで、先輩と2人だけにしてもらって。そのときに必ず言う。あたしは先輩のことが好きです、って。
 それからどのくらいかかるか判らないけど、退院したらまた生徒会室に戻って、先輩たちと一緒に平凡な日常を過ごすんだ。あたしはぜったいに死んだりしない。ただ、もう1度あの場所に戻るために、今はほんの少し休ませてもらうだけ ――

 どんな小さな可能性でも信じていようと思う。奇跡は必ず起こるんだってことを、あたし以上に知っている人はいないのだから。


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桜色迷宮59
「先輩、もしかして寝不足ですか?」
「あ、やっぱり判る? ほら、夜中に地震があっただろう? あれから目がさえて一睡もできなくてね。一二三ちゃんは大丈夫だった?」
「あたし、横になっててもめまいがする人なので、それのひどいのだと思ってました。最近はあまりなかったから疲れてるのかな、って」
「そうなんだ。でもそれなら、本当のめまいじゃなくてよかった」
 美幸先輩とたわいない話をしながら、国道を少し入ったところにある金物屋さんまで足を伸ばしていた。駅前のデパートまで行くよりはずっと近いのだけど、地元の人しか知らないから、文化祭準備が最高潮の今でもけっこう品が揃ってるんだ。そこで必要なものを買った帰り道、見通しのいい2車線道路の縁石で区切られた歩道を歩いていると、目の前に路上駐車した車の中で男女が激しく言い争いをしているのが見えた。なんとなく、見てはいけないものを見たような気がして、先輩と顔を見合わせて苦笑いしながら通り過ぎる。
 それからほんの5、6メートル歩いたときだった。うしろから自転車が猛スピードで近づいてくる気配がして、あたしはごく自然に先輩の背後に移動して道をあけた。最初、なにが起こったのかよく理解できなかった。とつぜんの音に再度振り返ったあたしの目に飛び込んできたのは、すごい勢いで迫ってくる、うちの高校の制服を着た男子の顔だけだったから。
  ―― その場に倒れかけた一瞬だけ、あたしは意識を失っていたみたい。背中と後頭部へのショックで目を覚まして、でもすぐに痛みが襲ってきたから数秒間は目を開けることができなかった。たぶんほんの短い時間だったのだけど、脳裏に映り込んだ画像を解析して状況を理解した。うしろから自転車で走ってきた男子は、とつぜん開いた車の助手席のドアにぶつかって、自転車から投げ出されてしまったんだ。
「一二三ちゃん! 一二三ちゃん!」
 自分の名前を呼ぶ声に導かれて目を開けると、すぐ近くに美幸先輩の青ざめた顔を見ることができた。ほんの少しだけ頭を動かして、髪の毛から伝わってくるわずかな感触で、どうやら頭に怪我をしているらしいことを知った。たぶんあたし、倒れた瞬間に縁石に頭と背中をぶつけてしまったんだ。その部位に注意を向けたとたん、頭から背中にかけての一帯に、ふだんならぜったいに感じることのない痛みを感じた。
 たぶん、普通の人なら死ぬような怪我じゃないのだと思う。でもあたしの身体には十分致命傷になりうる傷だった。
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桜色迷宮58
 でも、時間はあたしを待っていてはくれなかった。

 うちの学校の文化祭は9月下旬で、去年10月の選挙から続いてきた生徒会にとっては最後のイベントになる。この文化祭が終わってしまうと、3年生の河合会長と熊野先輩は引退になるんだ。後期の会長には誰がなるのか、生徒会内でもまだそんな話は出ていなかったけど、あたしは小池副会長か美幸先輩がなるだろうと勝手に予想している。あたし自身はもちろん今回も役員に立候補するつもりはなくて、新会長が指名してくれるなら、会計監査としてまた1年がんばろうと思っていた。
 文化祭の前日は午後の授業から放課後まで通して準備にあてられた。あたしは放課後になったところで教室を出て、グランドに野外ステージを設置している会長たちのところへ行く。役員でこの場所にいたのは会長と熊野先輩と一枝先輩、それに朱音先輩だけで、ほかの人たちはたぶん放送部とステージ有志の面々だろう。この野外ステージは、個人でバンド活動やコーラス活動をしている人たちが自由にエントリーして、日ごろ磨いた技を披露できる場所になっているんだ。
「あ、一二三ちゃんご苦労さま。ちょうどいいところに来てくれたよ。ビニールテープが足りないんで、買い物を頼まれてくれないかな」
「はい、大丈夫です。校門前の文房具屋さんでいいですか?」
「かまわないよ。来たばかりで申し訳ないね。今お金を渡すから、領収書をもらってくるのを忘れないでね」
 到着する早々、電源の延長コードをつないでいる会長に声をかけられた。会長の笑顔を見るとまだ少し胸がちくっと痛んだけど、合宿から2ヶ月近く経った今では、あたしも普通に笑顔で会話できるまでになっていた。
「一二三ちゃん買い出しに行くの? それじゃついでにお願いしていい? これと同じ色のカラースプレー、あと2本くらい買ってきて欲しいんだ」
「一二三ちゃーん! ビニールひもとガムテープもお願ーい! ステージ分解しそうなのー!」
 もしかしたら、みんな誰かが買い物に立つのを待っていたのかもしれない。一枝先輩と朱音先輩も便乗してきたから、会長が苦笑した。
「それだけあると1人じゃ行かせられないな。……ベストなタイミングでもう1人きてくれた。荷物はあいつに持たせればいいよ」
 振り返るとうしろから走ってきたのは美幸先輩で、あたしはほかにもいくつか頼まれたメモを持って、2人で買い物に出かけたんだ。
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桜色迷宮57
 時間が欲しいと本気で思った。
 先輩と過ごす時間。先輩と一緒に、未来を感じることができる時間。先輩のことをもっともっと知る時間。
 残された、長くはないだろう時間の中で、あたしはあとどのくらい先輩を知ることができるのだろう。
  ―― あたしは、あとどのくらいの時間、生きることができるのだろう……

 2学期が始まる頃には、あたしが夏休みに美幸先輩とデートしていたことは学校中の人間が知っていた。登校初日の朝にクラスの友達に訊かれて、あたしは多少口ごもりながらも、正直に自分の気持ちを話した。たぶんそれがよかったんだろう。仲のいい友達はみんなあたしのことを応援すると言ってくれたから、あたしはその場で思わず嬉し涙を流してしまった。
 でもそう言ってくれたのはほんの一部の人たちだけで、学校中の、とは言わないけれど、かなりの人数の女の子たちがあたしに対して否定的だった。廊下を歩けばわざと聞こえるように悪口を言われたり、すれ違いざまに腕や肩をぶつけられたりした。その日、たまたまあたしが1人の先輩とぶつかって転んでしまったとき、いつも一緒に歩いてくれる友達がとうとう我慢の限界を超えたんだ。
「いいかげんにしなさいよ! 一二三はねえ、ちょっとしたすり傷でも死ぬことがある病気なのよ! あなた人殺しになりたいの!」
「な……なによ先輩に向かってその態度は! それに人殺しって、どうしてあたしがそこまで言われなくちゃいけないのよ!」
「先輩なら病弱な後輩をいたわるのが本当でしょう? あなた、そんな人間だから山崎先輩にふられるんですよ! たとえ逆の立場だったとしても一二三はぜったいにこんなことはしない。あなたの場合、他人に意地悪するより自分を磨く方が先なんじゃないですか!」
 先輩は怒りに顔を真っ赤にしていたけど、周囲の目が気になったのか、ボソッと「ちょっとぶつかっただけじゃない」とつぶやいて去っていった。あたし自身は嬉しい気持ちもあったのだけど、彼女があんなにおおっぴらに病気のことを叫んだことで、いたたまれないような気持ちにもなっていた。でもそれ以来、あたしに怪我をさせるような意地悪をする人はいなくなったから、彼女がしたことは正しかったんだろう。病気はあたしの一部だから恥じることはない。あたしが常に自分に言い聞かせてきたその言葉を、他人として最初に教えてくれたのが美幸先輩で、確信に変えてくれたのがその友達だったんだと改めて思う。
 自分に自信がなかったから、いろいろなことに引け目を感じていた。でも、そんなあたしでも認めてくれる人がいる。もう少し、もう少しだけ心を強く持つことができたら ――
 あたしはあなたが好きです、って、素直に言えるような気がした。
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桜色迷宮56
 2人で、本当にいろいろな話をしたと思う。
 日常の小さな出来事から始まって、学校の友達のこと、流行のファッションのこと、行きつけのお店や、音楽のこと。
 その店は暗い照明とアバウトな作り、それに安くておいしい店として高校生に人気だった。ドリンクバーが無制限で、絶えずライブ映像を流しているから、大きな声で長時間話していてもぜんぜん気にならないんだ。初めて先輩にその店を教えたのは夏休みも終盤に入ってからで、それ以来あたしたちはその店で過ごすことが多くなっていた。意外にも先輩はロック調の激しい音楽を嫌いじゃなかったから、1回だけカラオケボックスで先輩の歌を聴く機会もできた。……あたしは1曲も独りで歌うことをしなかったけど。
 あれ以来、先輩は1度だって、告白の返事をせかすことはしなかった。でもあたしがつい画面に映る女性シンガーをほめたりすると、決まってさりげなく「でも一二三ちゃんほどじゃないよ」と言ってあたしに思い出させた。先輩はきっと今でもあたしの返事を待っているのだろう。でも、自分からきっかけを作って心の内を告白できるほどの度胸は、あたしにはなかった。
 先輩のことをひとつ知るたびに、あたしは自分が先輩を好きになっていることに気が付いた。あたしが好ましいと思うことを先輩も好きだと判れば嬉しかったし、逆に趣味が合わないと思うことがあっても、他人におもねることのない正直な態度に好感が持てた。人を好きになるという感情について、こんなに考えたことは今までなかったかもしれない。先輩が言ってた通りなんだ。近くにいて、その人を知っていくことで、その人を好きだって思う感情はどんどん育っていくものなんだ。
 先輩と過ごす時間を幸せだと思った。周りの視線や雑音に気が引けるのとはまったく別の次元で、あたしは先輩を好きだと感じていた。先輩の気持ちをどうこう思うのではなくて、あたし自身の気持ちとして、先輩のそばにいたいと思った。このままずっと、永遠に、先輩の隣で生きていきたいと思った。
  ―― その人は、とにかく綺麗で、あたしが知るほかの誰と比べることもできないくらい綺麗な人。明晰な頭脳と、華麗なまでの運動神経と、文句のつけようがない優しさと責任感を持っている。
 あたしは特に秀でたところのない平凡な容姿と、多少数学が得意なだけの平凡な頭脳を持った普通の人だ。おまけに人にはない病気までも持っている。それでも先輩はあたしを選んでくれた。優れたところをたくさん持っている人たちよりも、あたしを選んでくれたんだ。
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桜色迷宮55
 残り半分の夏休み、あたしはほとんどの時間を美幸先輩と過ごしていたと言っても過言じゃないだろう。午前中は生徒会で文化祭の準備、午後は1度帰ってから夕方まで先輩と一緒だった。あたしの部屋で2人で宿題をしたり、図書館で本を読んだり。涼しい時間を選んで駅前でウィンドショッピングをすることもあった。
 人込みを歩く先輩は否応なしに注目を集めた。喫茶店に入れば必ずほかのテーブルからひそひそ話が聞こえてきたし、レジの女性は数秒間は見とれたように動かなくなった。先輩が注目されるたびにあたしも一緒に注目されているようで、ときどきすごくいたたまれないような気持ちになる。あたし、本当に先輩の隣にいていいんだろうか、って。
 先輩の隣にいるべきなのは、もっと健康で、もっと明るくて、もっとかわいい女の子なんじゃないか、って。
「ちょっと、歩き疲れちゃったかな? 目線が下を向いてる」
「……大丈夫です。このくらい、学校にいるときの方がもっと歩いてますし」
「でも室内と太陽の下とではずいぶん違うからな。 ―― そうだ、そこの店に入ろう」
 美幸先輩が入っていったのは、あたしたち学生が足を踏み入れるにはちょっと場違いな洋品店だった。ほかのお客さんはいなくて、不審そうに近づいてきた店員に、美幸先輩は笑顔で交渉してあたしにひとつの帽子を買ってくれたんだ。それは淡い空色のつば広帽子で、今あたしが着ているワンピースに合わせてくれたんだろう。ひと桁違う値札を見てぎょっとしたのだけど、「学生なのであまり高いものは買えないんです」と言って笑顔を向けた美幸先輩に、女性店員はその帽子を半額以下にまで値下げしてくれたんだ。
「あ、あの、あたし、お金払います。こんなに高いもの、もらえないです」
 あたしの1か月分のお小遣いと同額だから今払えないことはない。店を出たあと、あたしは先輩を追いかけながらそう口にした。
「気に入らない?」
「いいえ、すごく綺麗で……。でも、あたしにはもったいないです。それにあたしが使うものなのに先輩にお金を払ってもらうなんて」
「僕にとっては、その帽子は僕がお金を払うことに意味があるんだけどね。なぜなら、僕が贈ったものを身に着けている一二三ちゃんを見ているのが、僕の独占欲を満たしてくれるから。……できることなら、僕と会うときにはいつも身に着けていて欲しいくらいだよ」
 そうしてにっこり笑った先輩に、あたしはそれ以上何も言えず、半ば必死で今持っている服とのコーディネートを考えていた。
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桜色迷宮54
 翌日の最終日、みんなが合宿所の掃除をしている時間、あたしは一枝先輩と一緒に写真を取りに行って、そのあと朱音先輩も交えた3人で6号室にこもっていた。あらかじめクラスの番号を書いておいた袋に、みんなの写真を分けていたんだ。あたしは黙々と作業していたんだけど、一枝先輩はいつものようににぎやかだった。そして、いつもなら一枝先輩と一緒に騒いでいる朱音先輩は、今日はぼんやりしたままでぜんぜんさえがなかったんだ。
「わあ、これ、すごくよく撮れてるじゃない。確かここで一二三ちゃんが撮ったやつだよね」
「あ、はい、そうです。最初の日に役員同士で集まったときに」
「このミユキちゃん、いい表情してる。ほら見て、朱音ちゃんも」
 このとき朱音先輩は作業の手を止めていて、一枝先輩が呼ぶ声に気づかないみたいだった。こんな朱音先輩は初めて見る。昨日の夜、会長と抱き合っていた朱音先輩を見ていたあたしは、朱音先輩の不調がそのことと関係あるような気がした。
「朱音ちゃん! ……どうしたの? ボーッとして」
「……あ、ううん。なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないわよ。ねえ、なにかあったの? それとも心配事?」
「……うん。でも……今ここで話せることじゃないから」
 そう言って目を伏せた朱音先輩は、こころなしか戸惑っているように見えた。あたしには、朱音先輩と会長との間に何があったのかは判らない。でも今ここでその話をしないでいてくれてよかったって、そう思う気持ちも確かにあったんだ。
 合宿所の大掃除が終わると昼食で、食後には閉校式が行われた。美幸先輩が各役員や係りのみんなをたたえたあと、生徒会長の役を河合会長に返還する。そうして再び河合会長が前に立って講評を述べたあとに、クラスの写真が配られて解散になる。その写真のおかげで3組の男子3人は大人気だったんだ。あたしはすぐに片付けに呼ばれてしまったから判らないのだけど、きっと美幸先輩が写ったほとんどの写真は女子に奪われてしまっただろう。
 片付けに参加しながら、ときどき視界に入る朱音先輩と会長のふだんと変わらない様子に、あたしはなんとなく胸が重くなっていた。
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桜色迷宮53
「ねえ、一二三ちゃん。僕がどのくらいの期間、君を好きでいるか判る?」
 優しく髪をなで続けながら美幸先輩が訊いてくる。……先輩に告白されたのは夏休み前。その少し前に食堂でカレーをかけられて、そのときに先輩がすごくあわててたのは今でもはっきりと覚えてる。そういえば球技大会のときだ。帰り道で話したときの先輩の態度がそれまでと違って見えて、先輩に嫌われてしまったような気がしたのは。
「……3ヶ月くらい、ですか?」
「はずれ。最初に君を見たときから、僕は君しか見えてない。あの時僕は、一目惚れ、っていう感覚を初めて知ったよ」
 それじゃ、美幸先輩は小池先輩と一緒に生徒会室に来たときから、約4ヶ月間もずっとあたしを好きでいてくれたってことなの?
「あれが2月頃だったから、もう半年になるかな。僕は引越し先のアパートを捜しに来ていて、駅前で買い物をしているらしい一二三ちゃんを見つけた。そのあとはほとんどストーカーのようなことをして君の自宅と学校を調べて、予定していた転校先をやめて君と同じ学校の転入試験を受けたんだ。君が生徒会にいることを知って、小池と友達になってね。今思い返してもすごい行動力だったと思うよ」
 あたしは驚いて、顔を上げて先輩の顔をまじまじと見つめてしまった。……不思議な感覚だった。嬉しい気持ちと、少しだけがっかりした気持ちがあった。帰る方角が同じなのも偶然だと思ってたのに、それもきっと先輩が意図した結果だったんだ。
「一方的な片想いを半年も続けてきた。僕はずっと一二三ちゃんを見つめて、知れば知るほど好きになっていったんだ。だから、もしも一二三ちゃんの中に、僕に対する好意以上のものがあるのなら、まずは僕を見て欲しいと思う。……今、思うことはそれかな。現時点で明確な答えをもらっても、僕の不安は消えそうにないから」
 先輩が感じる不安がどこから来るのか、判るような気も、逆に判らないような気もした。たぶん先輩はあたしの会長に対する気持ちを心配しているんだろう。たとえそうだとして、その不安を消せるのが今のあたしの言葉じゃないことだけは理解していた。
「その手始めに、一二三ちゃんをデートに誘おうと思う。……一二三ちゃん、この合宿が終わったら、僕とデートしてくれませんか?」
「……はい」
 あたしが小さく、でもはっきりとそう答えると、先輩は今まであたしが見たことがないほど嬉しそうな表情で破顔した。
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桜色迷宮52
 片方がダメだったからもう片方なんて、自分でもあさましいと思う。だけどあたしに残された時間はけっして多くない。中学の頃、河合会長があたしを必要だと言ってくれたように、今あたしを必要としてくれるのは目の前にいる美幸先輩なんだから。
「……今、この場でもう1度一二三ちゃんに告白したら、OKしてもらえそうで怖いな」
 先輩が低い声でボソッと言って、あたしはなぜだか判らないけどドキッとした。
「怖いんですか? どうして?」
「うん。……僕は若年寄である分、先のことを考えすぎて踏み出せないところがあってね。こういうときは、何も考えずに突っ走れる人がうらやましく思える。……たぶん、人の何倍も臆病者なんだよ、僕は」
  ―― ただ臆病なだけだよ。見た目にそうは見えなくてもね、オレは人よりずっと臆病なんだ。そう自覚してる。
 不意に、以前会長が言っていた言葉を思い出した。そのときも意味は判らなかった。確か「どうして会長はいつもそんなに優しくいられるんですか?」って尋ねたときの答えだったと思う。それ以上追及しなかったあたしに、会長はそれしか答えてくれなかった。
 ううん、今は美幸先輩のことだけ考えよう。先輩は会長に似ているのかもしれないけど、きっとそれだけの理由であたしが先輩に惹かれた訳じゃないと思うから。
「あ、あたしも、臆病なのは同じです。よく先のことを考えすぎて自滅します。ぜんぜん積極的じゃないし、友達作るのも苦手だし、失敗したときのことが頭に浮かんでなかなか最初の1歩が踏み出せないです」
「……うん、でも、一二三ちゃんには一二三ちゃんのいいところがたくさんあるよ」
「だから、美幸先輩が弱気だと困ります。今、と、これからのこと、ちゃんと先輩が考えてくれないと、……困ります」
 話しながらうつむいてしまったあたしは、言い終えたあとに先輩が片手を伸ばしてくる気配を感じた。その手はあたしの頭に触れる直前で止まって、少しの逡巡のあと、ゆっくりと、優しく、髪をなでてくる。あたしはもう先輩の手を嫌だとは感じなかった。しだいに胸が温かくなってきて、それが幸せという感覚なのかもしれないって、ぼんやり思った。
 そのあと、あたしはまた自分が言ってしまったいろいろな言葉を思い出して、うつむいたまま恥ずかしさに真っ赤になっていた。
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桜色迷宮51
 いったいどんな顔をしてこのハンカチを買ったんだろう。しかもこんな夜中の見回りにまで持ってきていたなんて。
「やっと、泣き止んだね。……よかった」
 見上げると、薄明かりの中に少し困ったような笑顔を浮かべた美幸先輩が目に入った。
「……先輩は、知ってたんですか? 会長と……朱音先輩のこと」
「会長の気持ちはね。……朱音ちゃんの気持ちまでは知らなかった」
「……あたしの気持ちも、知ってたんですか……?」
「……うん。だって、僕が1番見ていた人のことだから」
 あたし自身は知らなかった。会長のことは、ただの憧れなんだと思ってた。ずっとそばにいて、できれば恩返しをしたい、って。会長と朱音先輩が抱き合っているのを見て初めて気づいた。あたしは、朱音先輩が今いる場所と同じ場所にいきたかったんだ。
 会長はいつも優しかったけど、その優しさは誰にでも平等に注がれている優しさだった。会長の特別な存在になれるのはあたしじゃないって判ってた。それだけじゃなくて、たぶんあたしは、会長が誰かを特別に想うことなんてないような気がしていたのかもしれない。それなのに、ほんの小さな可能性にすがりついて、あたしは美幸先輩を拒否したんだ。
 手を伸ばせばすぐに届く幸せよりも、あるかないか判らない幸せを求めて。あたしには、未来を夢見る資格なんかなかったのに。
「一二三ちゃん、その、……もしも僕が、一二三ちゃん以外の誰かと会長のようなことをしていたら、少しは気にしてくれるだろうか」
 珍しく、先輩があたしの目を見ずに話していた。……今日、寝床の中で聞いた噂話。もしもあれが本当のことだったら ――
「いや、だと思います。……少なくとも、笑って祝福はできないです」
 あたしの答えは、美幸先輩にとっては意外なものだったのかもしれない。何事にも動じない先輩が驚いたような表情で振り返ったから、あたしの方が驚いて、でもそのうちに笑いがこみ上げてきたんだ。
「嫌です。美幸先輩が誰かと抱き合ってるのも、たくさんの女の子たちに囲まれて笑ってるのを見るのも。……すごく、嫌だったです」
 今、ここにいる自分に正直になろうと思った。河合会長に対する気持ちとは違うけど、あたしが美幸先輩を好きなのは本当だったから。
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桜色迷宮50
 念のため焼却炉まで行ったから、帰り道は校舎裏の造成林と中庭を突っ切るルートになっていた。ふと、校舎のはずれで美幸先輩が足を止める。つられて止まったあたしが先輩を振り仰ぐと、先輩は唇に人差し指を当てて、そのあと森の方に視線を向けて小さく言った。
「先客がいる。戻った方がよさそうだね。行こう、一二三ちゃん」
 おそらく先輩は森の中に人影を見たのだろう。あたしは、先輩がなぜ戻ろうと言うのかが判らなかった。だって今この学校の校内にいるのは合宿をしているあたしたちだけで、先輩の立場なら消灯時間を過ぎて外に出た生徒は注意しなければならないから。先輩はあたしの前に立ちはだかるような位置にいたのだけど、気になったあたしが横から覗き込もうとする動作を止めることまではしなかった。
 目を凝らして、森の中の人影を見る。木の間に立っているのは河合会長だ。そして、会長が両腕で抱き寄せるようにしていたのは ――
「 ―― 一二三ちゃん、歩いて ―― 」
 美幸先輩に声をかけられるまで、あたしは自分が泣いていることに気づかなかった。涙でよく見えなくなってしまった2人を無理やり視界から追い出して、先輩に背中を支えられるようにして歩いていく。再びグランドに戻ってくるまで美幸先輩は無言だった。ううん、もしかしたらなにか話していたのかもしれないけれど、あたしにはぜんぜん聞こえなかった。
  ―― やっと、判った気がした。あたしがどうして美幸先輩の告白にイエスと言えなかったのか。小さな、とても小さな可能性を、自分の手で消してしまいたくなかったんだ。あたしの幸せは未来じゃなく、今この瞬間にしかないと知っていたのに。
 グランドの隅のベンチ、今日あたしが休んでいたのと同じベンチに座ったとき、やっと美幸先輩の声が聞こえた。
「 ―― アザラシと、豹と、サイとトカゲ。どれが好き?」
「……サイです」
「それじゃ……はい、サイ模様のハンカチ。もちろん返さなくていいからね」
 手の中にハンカチを押し付けられて、のろのろした動作でそれまで流れ落ちるだけだった涙をぬぐった。どのくらいそうしていただろう。徐々に視界が開けてきて、胸の痛みの理由も整理されてきて、手の中のハンカチにプリントされたサイを見る余裕も出てきていた。
 あたしが好きだって言ったから、美幸先輩はいろんな店をあちこち歩き回って、サイの絵柄のハンカチを探してくれたんだろうか。
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桜色迷宮49
 12時を過ぎた頃を見計らって部屋を抜け出した。みんなを起こさないように足音を忍ばせて洗面所まで行く。6時間ごとの服薬はあたしの命そのものだったから。真っ暗な廊下をゆっくり歩いていくと、なぜか洗面所に明かりがついていて、美幸先輩が立っていたんだ。
「先輩……どうしたんですか? こんな真夜中に」
「ちょっとね。風が出てきたようだから、火の始末が心配になって。……というのは口実で、ここで待ってれば一二三ちゃんに会えるような気がしたから」
 あたしは返事に困って、うつむいたまま薬を飲むことに集中していた。松田君が言ってた、美幸先輩が嫉妬深いって話や、さっき聞いた噂話、女の子たちに囲まれていた先輩の微笑なんかが頭の中でぐるぐるしてくる。今日はほとんど1日中先輩と話せなかったから、あたしだってさびしかったんだ。知らない間に美幸先輩のこと、ずっと目で追ってたんだから。
 飲み終えて振り返ると先輩の微笑があって、あたしもつられるように唇が緩んでいた。
「もう、眠くなっちゃったかな? 夜も遅いし」
「そうでもないです。さっきベンチでお昼寝しちゃったので」
「だったら、少しだけ夜の見回りに付き合ってもらえる?」
「はい、いいです」
 あたしは薬を入れた袋を持ったまま、先輩のあとについて合宿所の外に出た。先輩は風が出てきたって言ったけど、ちょっと空気が動いているかな、くらいでほとんど感じないから、先輩が言うとおり口実だったのかもしれない。昨日は合宿所の周りを歩いたけど今日はグランドの方に向かっていく。口実なのにちゃんと見に行くあたり、まじめな美幸先輩らしいと思って、思わず笑みを浮かべていた。
「今日が晴れてくれてよかったね。いくらなんでも体育館でバーベキューはできないから」
「そういえばそうですね。……もしも雨だったらどうするつもりだったんでしょうか」
「食堂の厨房を借りる予定だったらしいよ。僕と会長は無謀だって言ったんだけどね、小池が譲らなかった。本当に晴れてよかったよ」
 先輩とたわいない話をしていると思う。こうして先輩と一緒にいる時間が、いつの間にかあたしにとって大切なものになってたんだ、って。
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桜色迷宮48
 松田君に仕事に戻ってもらって、陽が傾いてきた頃、周囲のざわめきに目を覚ますとグランドにみんなが集まっていた。今日の夕食はここでクラスごとにバーベキュー大会をするんだ。この時間、記録係裏方のあたしはカメラを回収して現像に持っていくことになっている。あたしが会長に声をかけてもう大丈夫だと告げると、1人では心配だからと会長は松田君をつけてくれた。
 女子は最後に残ったフィルムを美幸先輩を撮影することに費やして、それでも足りない女子は自分のケータイまで使って先輩を撮り始めていた。美幸先輩は嫌な顔ひとつしないで応じていたから、もう誰も彼女たちを止められなかった。あたしが回収したカメラを松田君が持ってくれて2人で近くの写真屋さんへ行く。毎年お願いしているらしい写真屋の店長さんも、今年は数が多いって苦笑いしていた。
 明日の午前中、会計責任者の一枝先輩と一緒にここへ写真を取りに来て、クラスごとに配分すればあたしの仕事は終わりだった。
「 ―― なあ、ちょっと訊いてもいいか?」
 帰り道、なんとなく感慨にふけるあたしに、松田君が話しかけてくる。あたしが見上げると、松田君は言いづらそうに先を続けた。
「おまえ、もしかして、山崎先輩と付き合ってたりする?」
 思わずあたしは顔を伏せて、思いっきり首を横に振ってしまった。でもそれだけで松田君には判ったみたい。上の方で溜息が聞こえた。
「付き合ってはないけど告白はされた、ってか。……どうりで目の敵にされる訳だ。あの人、めちゃめちゃ嫉妬深いな」
 それきり考え込んでしまった松田君に、あたしは話しかけることができなかった。もしかしたらあたしが眠っている間にもなにかあったのかもしれない。でも、あの美幸先輩が松田君に嫉妬して目の敵にしていたなんて、不思議すぎて容易に信じられなかった。
 グランドに戻って、3組のみんなが焼いた串から肉や野菜をもらって夕食を食べる。そのあとは里子先輩が好意で差し入れてくれた花火で花火大会。そうしてたっぷり楽しんだあとはきちんと片付けて、部屋に戻ったらみんなすぐに床に入ってしまった。あたしは一枝先輩と朱音先輩と一緒にお風呂に入る。戻ってきたときに、起きていた何人かが小声で美幸先輩の噂をしていたのが耳に入った。
「 ―― 新宿だったか渋谷だったか、繁華街で年上の美人と腕組んで歩いてたんだって。それも終電行っちゃった真夜中にだよー」
「嘘だあ。それってぜったい別人だよ。東京だったら山崎君並みの美少年だってきっと多いもん ―― 」
 あたしは気にならないって言ったら嘘だったけど、いつしか声も聞こえなくなったから、ただの噂話として聞き流すことにしていた。
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桜色迷宮47
 間に昼食をはさんだバレーボール大会も、全体的には和気あいあいと楽しく進められた。美幸先輩も松田君との直接対決以外はのほほんとした表情で参加していたから、3組の結果は3勝2敗で優勝には程遠かった。どうして美幸先輩があんなに執拗に松田君だけを狙ったのか、誰が尋ねても美幸先輩は優美な微笑みでごまかすだけで、一言も口を開かなかったんだ。だから美幸先輩の先輩らしからぬ行動の真相はけっきょく謎のままだった。
 大会の間中、美幸先輩の周りはたえず女子が取り巻いていて、あたしは先輩に近づくことすらできなかった。表彰式のあとは自由時間で、みんなはお風呂に入って汗を流したりしていたのだけど、裏方のあたしたちには夜のイベントの準備があって、あたしは河合会長の指示で会場になっているグランドを奔走していた。このとき生徒会長の美幸先輩は別の仕事をしていたみたいで、グランドの準備には参加してなかったんだ。そのため会長はあたしと松田君をセットにしていたようで、2人一緒に同じ仕事を指示されていた。
 合宿も2日目になって疲れがたまっていたみたい。軽いめまいを起こして立ち止まったあたしに、松田君がいち早く気づいていた。すぐに会長に断って校庭のベンチで休ませてくれる。面倒見がいい松田君は、あたしをベンチに寝かせると、食堂から濡れタオルとコップに水を1杯持ってきてくれた。
「部屋じゃ雑音が多くてかえって休まらないからな。ここで少し横になってればいいよ」
「ありがとう。……ごめんね、迷惑かけて」
「おまえさ、昔よりずいぶん丈夫になったじゃん。今日もけっこう動き回って写真撮ってたし。中学の頃は2日目の球技大会の時間は完全にダウンしてただろ? 意外に元気だったんで、オレはむしろ驚いたよ」
 そうか、あたしだってちゃんと進歩してるんだ。思い出してみれば確かに松田君の言うとおりだった。今では朝具合が悪くて学校を休むこともなくなったし、生徒会のみんなと同じ仕事だってできるようになったんだ。
 逆光の中で立つ松田君は、たぶんあたしの顔に影を作ってくれているのだろう。人のそういうさりげない優しさに触れると思うことがある。あたしは今まで生きてこられたことが奇跡なんだ。ほかの人たちは、幸せは今を超えた先にあるものだと思うのかもしれないけれど、あたしにとっては今この時間こそが幸せなんだ、って。
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桜色迷宮46
 合宿2日目はクラス対抗のスポーツ大会がメインだった。今年はバレーボールで、1ゲームだけの総当たり戦をやって、優勝チームにはささやかながら賞品も出る。1ゲームだけとはいえ、体育館に設置した2面コートで合計15試合をこなす訳だから、これだけでも半日以上が費やされることになる。もちろんあたしは出場することができなかったけど、その代わりにカメラを持ってみんなの活躍を撮影することで精一杯の参加をしていた。
 ルールは一般的な6人制で、でもクラスの全員が参加できるようにサーブの位置で1人ずつ入れ替わっていく。あとこの合宿の特別ルールとして「男子が後衛の女子を狙ってスパイクを打ったら責任を取って嫁にもらう」というのが追加されているから、意外と男子が思うように活躍できないんだ。くじ引きで決まった3組の初戦の相手は1組で、ここは長身のバレー部員松田君を有する優勝候補。男女入り混じってなごやかに試合が進んでいたのだけど、美幸先輩が前衛に上がって松田君が後衛に来たとき、なぜかそれまでののんびりムードを覆すような美幸先輩の猛攻撃が始まっていたんだ。
「ち、ちょっと、山崎先輩。なんかさっきからオレばっかり狙い打ちしてませんか?」
「してるよ。だって女子には当てられないからね。君はマトが大きいから狙いやすいし、それにまがりなりにもバレー部なんだから、僕の球くらい受けられるだろ?」
「……それってまぎれもなく宣戦布告ですよね。いいですよ、受けてたちます」
 美幸先輩が、こんな風に自分から誰かを挑発するような態度を取るのは、少なくともあたしが見ていた中では初めてだった。次の球も3組のサーブで、女子のふんわりした天井サーブを受けた後衛の女子からダイレクトで返ってきたボールを、美幸先輩は再びダイレクトで松田君に叩き込んでいた。
「ったーッ! ……先輩、いったいどういうジャンプ力してるんすか。それにそのコントロールのよさは反則っすよ」
「そうかな。たまたまいいところに来たから打ち返しただけなんだけど。意外と取られないものだね」
「……オレ、山崎先輩に恨み買うようなこと、なにかやりました?」
 その松田君の問いに美幸先輩はただ微笑んだだけだったけど、ローテーションで先輩が前衛を退くまで、美幸先輩の松田君狙いは続いたんだ。
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桜色迷宮45
「……なんとなくね、僕に対する一二三ちゃんの態度が、告白する以前と同じに見えるとつい思い出させたくなる。……待てると思ったんだけどな。僕は自分が思ってたほど気が長い訳じゃないのかもしれない」
 先輩に告白されたとき、戸惑いの方が大きかったけど、でも嬉しいとも思った。先輩に見つめられるとドキドキするし、先輩のことが好きだと思う気持ちに嘘はない。どうしてあたしなんか? って思うけど、だからといって騙されてるんじゃないかとか、そういう不安を持ってる訳じゃないんだ。それなのにどうして、あたしは先輩の気持ちを素直に受け入れられないんだろう。
「ごめんね、一二三ちゃん。ひと回りしたら戻ろう」
 そう言って再び歩き始めた先輩は、いつもと変わらない笑顔と口調で、アパートのお風呂が壊れたときの話を始めた。裸になって給湯器に火をつけようとしてどうしてもつかなくて、夜も遅かったからパンツ1枚で屋外のコンセントを見に行こうとしたら、隣のご主人にばったり会ってしまって気まずい思いをしたんだ、って。あたしの気分を明るくしてくれようとする先輩の気持ちが判ったから、あたし自身もできるだけ先輩の気持ちに応えようと笑顔で受け答えた。そうして見回りを終えて部屋に戻るとすぐに、あたしは部屋の女の子たちに囲まれてしまったんだ。
 どうやら合宿所の2階の窓からはあたしと先輩の姿が見えたらしくて、話の内容は聞こえなくても楽しそうに談笑する声はここまで届いていたみたい。しばらく責められるだけだったあたしは、ようやく消灯前の見回りをしていたことだけ告げることができた。
「だから、なんで生徒会長の見回りに、なんの関係もないあなたがついていくのよ。本当ならそれは副会長のあたしの役目なのよ」
「それは、……6号室であたしがOBの先輩たちに囲まれてたから、気を遣って連れ出してくれたんです。本当にたまたまで……」
「じゃあなんであんなに楽しそうだったのよ! いったいなんの話をしていたの? あなたいったい山崎君のなんなのよ!」
 まさか先輩に告白されたなんて間違っても言える雰囲気じゃなかった。消灯までのたった数分間だけだったのだけど、あたしは精根尽き果ててしまって、先輩と交わした会話の後半、つまりお風呂が壊れてパンツ1枚で外に出た先輩の話を繰り返すことになった。
 その話はどうやら水面下で学校中の女子の間に広まったらしいけれど、それが果たして先輩の評価をどちらの方向に変えたのか、あたしに知る術はなかった。
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桜色迷宮44
 パジャマに靴を履いて外に出る。たったそれだけのことなのに、あたしはまるで冒険でもしているような気分だった。食堂脇のガラス戸を出るときにはやっぱりちょっとためらってしまって、美幸先輩に背中を押してもらってようやく足を踏み出した。いったい何が違うっていうんだろう。昼間着ていたブラウスとスカートも、今着ているパジャマも、薄い布が上下1枚ずつだってことは同じなのに。
 外の空気は、暑い夜に窓を開け放していたときの部屋の空気と同じはずなのに。なぜだか判らないけど開放感があって、知らず知らずのうちに両腕を広げて深呼吸をしていた。そんなあたしを見つめていた美幸先輩と目が合って恥ずかしくなる。どうしても、自分が人と違うって意識してしまうから。
「……あの、あたし、パジャマで外に出るのって、初めてなんです。だからちょっと、興奮してるかもしれないです」
 先輩がなぜかまぶしそうに目を細めて、そのあとゆっくりと歩き始めたから、あたしも先輩について歩き始めた。
「それじゃ、僕は一二三ちゃんの初めてに貢献したんだ。一二三ちゃんにはきっとこれからも、たくさんの初めてがあるんだろうね。……少し、うらやましいような気がするよ」
「……どうしてですか? 先輩にはあんまり初めてがないんですか?」
「一二三ちゃんほど多くはないかな。……でも、僕も今、僕自身の初めてを経験してる」
 あたしは、少しさびしそうに聞こえた声に不安を覚えて、先輩の顔を覗き込む。気づいて振り返った先輩はいつものように微笑んでいたけど。
「1人の女の子をこんなに好きになるのも、好きな子に告白するのも、告白の返事を待つのも、僕は初めてだよ。ついでに言うならパジャマを着たその子と夜中に散歩するのも」
 思わず足を止めてしまったあたしに、美幸先輩は少しすねたような表情を見せた。
「やっぱり忘れてたね? ……僕は、忘れないで欲しい、って言ったはずなんだけど」
「……忘れて、ないです」
 さっと目を伏せてうつむいたまま、あたしはその一言しか言えなかった。
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桜色迷宮43
 小池先輩が最後にボソボソッと言った言葉はあたしには聞こえなかった。だけど美幸先輩には聞こえたようで、いくぶん顔を赤くして手にしたジュースを一気飲みすると、小池先輩は声を上げて笑った。その声を聞きつけたのかOBの先輩が叫ぶ声がする。
「コラー! 小池ぇ、飲んでるかぁ?」
「飲んでませんよ! だいたいここって酒類の持ち込み禁止なんじゃないんですか? いいんすか、缶ビールなんか持ち込んで」
「いいんだよ。文化祭のOB会じゃここで大宴会をやらかすんだ。持ち込みがダメってこたあねえよ。いいからおまえも付き合え!」
 小池先輩がしぶしぶ腰を上げたとき、美幸先輩の唇が「飲むなよ」って動いたのが判った。小池先輩が判ってるという風に手を上げて行ってしまうと、先輩は足を崩して苦笑を浮かべた。
「意外と話せないな。同じクラスになればもう少し一二三ちゃんと話ができると思ってたんだけど」
「先輩が忙しすぎるんです。裏方と生徒会長の両立なんてたいへんすぎます」
「役員は生徒会に立候補できないって決まり、あれはきっと「両方なんて金輪際やりたくない」っていう役員の気持ちの表われだったんだろうね。 ―― 決めた。生徒会長権限で、これから一二三ちゃんに夜の見回りに付き合ってもらう」
 いきなりそう言った美幸先輩はすでに立ち上がっていて、さっさと河合会長に話をつけるとあたしの手を引いて部屋を出てしまったんだ。あたしはびっくりしてしばらく先輩のあとを歩いていたのだけど、階段を降りかけたところで足を止めてしまった。
「あの、先輩、あたしパジャマで」
 振り返った先輩は一瞬首を傾げたけれど、すぐににっこり笑ってくれた。
「そのパジャマ、かわいいね。ずっと言おうと思ってたんだ。それと昼間のブラウスも。……大丈夫だよ。みんな似たような格好だし、それに校内だから外部の人間に遭うこともないしね。まさか寒い訳じゃないだろう?」
 確かに今は真夏で、まだ夜の10時過ぎだから寒いことはなかった。だけどあたしは子供の頃から身体が弱かったから、夜中にパジャマで出歩くなんて考えたこともなかったんだ。だからこんな小さなことでも勇気が必要で、前を歩く美幸先輩が手を差し伸べて微笑んでくれなかったら、きっとそれ以上足を動かすことはできなかっただろう。
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桜色迷宮42
「あ、ミユキちゃんお疲れさま。今日は大変だったね。さ、座って座って。こちら生徒会OBの先輩方」
「どうも、初めまして、山崎です。……一二三ちゃん、君は僕の隣だよ。こっちへきて」
 入ってきたときとはぜんぜん違う表情でにっこり笑った美幸先輩に、あたしは誘われるままに席を立ってしまった。美幸先輩が指し示した席に座ると、うしろから声がかかる。
「ちょっと待てよ、なんで小さい子連れてっちゃうんだよ。彼女はこっちの席だろ?」
「一二三ちゃんは僕の隣だって決まってるんですよ、OBの先輩方」
「どうして!」
「僕が生徒会長だからです。合宿中は生徒会長の権力が絶対なんですよね? 昔からそうだって聞いてますよ?」
 なんとなく、あたしのせいで場が険悪になりかかっていて、少しだけドキドキしてしまった。だけど美幸先輩がにっこり笑うと、先輩たちはそれ以上反論する気力をなくしてしまったみたい。顔を見合わせてぽりぽり頭をかいた。
「確かにそうだったな。オレも先輩に命令したいがためだけに生徒会長に立候補したよ。あの頃は今と違って役員でも立候補できたから」
「年に1度、下克上のチャンスだったんだよな。まあ、実際はそんなに先輩相手に命令できるヤツっていなかったんだけど、そういう気分を味わいたかったっちゅうか。おまえ、覚えてるか? オレらが高校2年の頃の会長だった ―― 」
 OBの先輩たちが思い出話を始めてしまったから、あたしはほっとして美幸先輩を振り仰いだ。先輩もまるで「大丈夫だよ」ってあたしを安心させるような笑顔で答えてくれる。ほかの役員たちはOBたちの話に耳を傾けていたんだけど、小池先輩だけが美幸先輩のそばにやってきて、耳に唇を寄せるようにして言った。
「やっぱおまえ、すげーよ。オレは一瞬血を見るかと思ったね。まさか一二三ちゃんを奪還できるとは思わなかったぜ」
「そんなにすごいの? あの先輩たち」
「少なくともオレには無理だ。先輩たちがどーのってより、中ボーの頃から身体に刷り込まれちまってるんだろうな。……やっぱ ―― 」
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桜色迷宮41
 その後、再び食堂に集まって美幸会長の進行で始められた発表会では、3組は残念ながら選に漏れてしまった。美幸先輩の人気票は入ったのだけど、なにしろ小池先輩が率いる6組がものすごく面白かったんだ。この6組は文化祭で再結成されて同じステージを披露することになる。そのあとの自由時間に裏方役員同士で集まったとき、小池先輩は「また自分で自分を忙しくしちまったぜ」と自分のあふれる才能を大げさに嘆いてあたしたちの笑いを誘っていた。
 夕食が終わるとクラスごとに順番にお風呂に入って、自由時間のあと消灯が11時なのだけど、あたしがお風呂から出た頃に一枝先輩が呼びに来たんだ。
「2号室の皆さーん、今、卒業生の先輩方が差し入れを持って激励に来ましたー。6号室で宴会が始まりますので、よろしかったら参加してくださーい ―― 」
 続けて一枝先輩は激励に来てくれた3人の先輩たちの名前を言ったあと、「一二三ちゃんはご指名だから強制参加ね」と言ってあたしを連れ出してしまった。名前を聞いただけでは思い出せなかったのだけど、6号室に揃った面々の顔を見てすぐに、去年卒業した元生徒会長と、毎年合宿に顔を出しているOBの先輩たちなんだって判った。
「 ―― あ、来た来た、小さい子。こっちこっち、ここへ座りな」
 導かれて座った場所は2人のOBの間で、毎年合宿に参加していたあたしを毎年律儀にからかってくれた先輩たちだった。
「どうした? 高校に来て少しは育ったか? 小さい子」
「背は少ーし伸びたかな。だけどちゃんと食ってるのか? こんなに細っこいとカレシもできねえぞ」
 先輩たちに相槌を打ちながら周りを見回すと、生徒会の役員では美幸先輩と朱音先輩がいないほかはみんな揃っていた。朱音先輩は時間的にたぶんお風呂に入っているのだろう。ほかに松田君と中学部の4人、それに3年生の人たちが何人かいて、久しぶりに会う先輩たちと近況を報告し合っていた。
 あたしは先輩たちの会話を聞いているだけで、それでもけっこう楽しかった。いつもは最上級生の会長たちも、このときだけは後輩に戻ってしまうから。そうしてしばらくした頃、ようやく美幸先輩がやってきて、あたしと目が合った瞬間に一瞬だけ表情を曇らせた。
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桜色迷宮40
 午後からは各クラスに分かれて、文化祭のオープニングに出す生徒会の出し物を決めた。クラス単位で6つ決めた出し物のうち、1番票が得られたものを本番でも演じるんだ。3組の教室は女子部屋の3号室で、クラス委員は3年の友成先輩だったから、進行を彼女に任せた美幸先輩は1クラスメイトとしてあたしの隣でくつろいでいる。裏方と生徒会長とで1番忙しい先輩が、休憩時間も含めて唯一息を抜くことができるのが、このクラス討議の時間だけだったんだ。
「 ―― それじゃ、3組の案はステージの出し物紹介ってことで。あんまり時間もないことだしちょっと練習してみましょうか」
 ふとうしろから肩をつつかれて、振り返ったら1年の女の子たちが美幸先輩を指差してたんだ。それで先輩を見てみたら、座ったまま居眠りしている姿が映って、あたしの唇からも思わず笑みが漏れる。そういえばあたし、いつも先輩と目が合うとすぐにそらしてしまって、先輩の顔をちゃんとしっかり見たことなんて数えるほどしかないんだ。こうして1番近くで見る先輩はやっぱり綺麗なんだってことに改めて気づいた。
「見とれてないで、早く写真写真」
 こっくりうなずいてすぐにカメラを構えてシャッターを押す。その音と、フラッシュが光ったことと、急に息を飲むように静かになった周りの気配で目覚めたんだろう。目を開けた先輩はあたしが持っているカメラにすぐに気が付いていた。
「……一二三ちゃん、もしかして撮った……?」
 ちょっとうつろな目をした先輩も初めて見るから、あたしは笑顔でうなずいてしまった。
「……やられた。ねえ、一二三ちゃん。その写真、生徒会長権限で没収していい? 君が現像してきた段階で」
「ダメですー! こんなベストショット、没収なんてひどいですぅ!」
「そうよ、ミユキちゃん。だいたいクラス討議中に眠ったのはミユキちゃんが悪いんだから。言ってみればこれは罰ってこと?」
「あ、それ、オレらにも配ってもらえるんだよね。……なあ、山崎の寝顔だぜ? クラスの女子に売ったらプレミア付くかもよ」
「あのなあ。元手がかかってないものを売っていい訳がないだろう? ……しょうがない。ほかの写真とのトレードなら許すよ」
 盛り上がる周りと反比例して溜息をついた先輩に、あたしは笑いを誘われたと同時に、ほんのちょっとの時間も気を抜くことさえ許されない先輩が少しだけかわいそうに思えてきた。
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桜色迷宮39
 どうやら今年の合宿は去年までとは違うらしい。あたしがそう思うのに、初日の午前中の出来事だけで十分だった。食堂で昼食をとったあとは1時間ほど自由時間になっていて、その時間を利用してあたしたち裏方は宿泊では使わない予備の6号室に集合していた。
「なーんか、嬉しいんだけど厄介だわ、ミユキちゃん人気。あたしも散々言われたわよ。3組の写真回してくれって」
「一二三ちゃん、大丈夫だった? ちょっと疲れたんじゃない?」
 朱音先輩と一枝先輩に言われて、あたしはどちらとも取れそうな苦笑いを浮かべた。今回女子の部屋は3つで、1号室に一枝先輩、3号室に朱音先輩が配置されたから、2号室にはあたし1人しかいないんだ。あたしがもう少ししっかりしていれば、こんなに先輩たちに心配かけなくて済んだのにと思う。
「オレなんか女子にカメラ持たされちまったよ。ったく、こんなにイイ男が目の前にいるってのになぁ。美幸、仕方ねえからあとでポーズつけて2、3枚撮らせてくれよ」
「僕はかまわないけど。でも、どうして僕の写真なんかでそんなに熱くなるんだろう。たかが写真なのに」
「……美幸。オレは今一瞬おまえに殺意を覚えたぞ」
「一二三ちゃんや会長には迷惑をかけて、本当にすみません」
「コラァ! 無視してんじゃねえぞてめえ! それに謝るんならオレたち全員にだ!」
「まあまあ。ここでケンカしてても始まらないし。それにミユキちゃんが悪い訳じゃないんだから、小池も抑えて」
 会長のとりなしに怒りをおさめた小池先輩は、実はそんなに本気で怒ってた訳じゃなかったみたい。頬杖を付いてニヤニヤ思い出し笑いをしている。そのあと簡単な事務通達を終えて、残りの時間は合宿生徒会が使うからと、美幸先輩を除いた全員が部屋をあとにした。
 みんなの最後から部屋を出ようとしたあたしを、美幸先輩が呼び止めた。
「一二三ちゃん、なにかあったらすぐに僕に話して。どんな重要な用事を置いてでも駆けつけるから」
 この合宿が始まってから、まともに先輩と視線を合わせたのは初めてだった。小池先輩のカメラの前で見せたのとは違う美幸先輩の笑顔にドキッとする。照れ隠しにあたしは、思わず手に持っていたカメラを向けてシャッターを切ってしまった。
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桜色迷宮38
 もしかしたら、この一連のやり取りはあらかじめ打ち合わせられていたのかもしれない。なぜなら美幸先輩は、今初めて会長に決まったにしては司会進行が手馴れていたから。その後のスケジュールの説明が終わると、今度はクラスごとに分かれて係りを決めた。
「 ―― 僕と一二三ちゃんはゴミ捨て係と記録係の責任者になってるから、そのほかの係りをみんなで分担してください」
 同じクラスになった女子はみんな、間近で見る美幸先輩をただ呆然と見つめていた。生徒会の中ではみんな慣れていて、先輩に対して普通に接しているから気にならないんだけど、美幸先輩はほんとに綺麗な人なんだ。あたしは今でもまだ信じられないでいる。こんなに綺麗で、会長が期待するくらい頭がよくて、バレー部の部長が助っ人を頼みたくなるくらい運動神経のいい人があたしに告白してくれたなんて。
 ひと通り係りを決めて、今度は係りごとにテーブルに分かれて説明を受ける。あたしが担当する記録係は使い捨てカメラを持ってクラスの写真を撮る人で、2日目のバレーボール対抗戦に参加できないあたしを気遣って会長が決めてくれたんだと思う。ここでも美幸先輩の写真を欲しがるほかのクラスの女子との間でひと悶着あったのだけど、すぐに河合会長が飛んできてその場を収めてくれた。そうしてようやく合宿部屋に荷物を置きに来たときには、あたしはほっとして大きな溜息をついてしまった。
 使い捨てカメラを2つ預かったあたしは、そのうちの1つを男子に渡して、まずは部屋で3組女子だけの写真を撮った。2号室は3組と4組の女子が合同で使うのだけど、話題はやっぱり美幸先輩一色だった。
「やっぱ私服だと雰囲気違うよねー。一二三ちゃん、そのカメラでミユキちゃんの写真、たくさん撮ってよ。もちろんあたしたちももらえるんでしょ?」
「はい、写真はぜんぶ10枚現像して、3組の全員に配られます。だから自分が写ってなくてももらえると思います」
 3年生の友成先輩に訊かれて答えていると、4組の2年生が話に入ってきた。
「でもそれって3組だけずるくないですか? あたしだって3組の写真欲しいのに。ねえ、役員のあなた、山崎君の写真だけでいいから内緒で焼き増ししてくれない? その分のお金はちゃんと払うからさ」
 ここでも食堂と同じ問題が勃発して、あたしは会長のセリフを思い出しながら必死で4組のみんなを説得しなければならなかった。
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桜色迷宮37
 そうこうしているうちに一般の参加者が集合してきて、あたしと松田君も席順配りに忙しくなった。一般の人たちはここで初めて自分のクラスを知ることになるから、席順表を見て一喜一憂している。今回あたしと美幸先輩がいる3組は3年女子と2年男子、それに1年女子の組み合わせだったから2年の女子は不満だったみたい。あたしも少しだけ言われたけど、中には直接会長に文句を言いに行った人たちも何人かいたようだった。
 そんなちょっとしたトラブルはあったものの、遅れてくる何人かを除いてほぼ全員が食堂の席に着いたあと、まずは会長が前に立って2泊3日の合宿が始まった。
「エー、今回は生徒会主催の夏季合宿に参加してくれてありがとうございます。参加者全員、ルールを守って、楽しい3日間にしていきましょう。まずは合宿所を使用するに当たっての注意事項から説明します。しおりの最初のページを開いてください ―― 」
 そうして会長がひと通りの説明を終えたあと、この合宿の最初のイベント、生徒会役員選挙が始まった。でも、いつもそうなんだけど、一般の人はなかなか会長に立候補してくれないんだ。しばらく待っても立候補がなかったので、司会進行役の会長が痺れを切らした。
「それじゃ、こっちから指名しちゃうかな。……松田君、どう? 生徒会長やってみない?」
「え? オレがですか? ……オレ、まだ1年だし、せめて副会長くらいにしてくださいよ」
「それじゃ松田君は副会長候補ってことで。会長は、……ミユキちゃん。君はどう?」
 あたしは隣に座った美幸先輩を振り仰いだ。美幸先輩は苦笑いを浮かべてその場で立ち上がって言う。
「いいんですか? 僕は一応生徒会の役員ですけど。今回役員は裏方だって決まりですよね」
「この際だからかまわないよ。それに会計監査は役員選挙通ってないしね。強引に解釈すれば決まりには触れないってことで」
「……判りました。そういうことなら立候補しますよ。生徒会長、やります」
 美幸先輩がそう言ってから、あとは驚くほどスムーズに進んだ。先輩が会長をやるなら自分も、っていう女子が次々に役員に立候補して、あっという間に役員全員が決まってしまったから。
 美幸先輩が会長就任の挨拶をして、そこから先は司会進行が河合会長から美幸先輩にバトンタッチして続けられた。
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桜色迷宮36
 合宿のクラス分けで、あたしと美幸先輩は同じ3組になった。裏方で忙しい会長と熊野副会長にはそれぞれ松田君と一枝先輩が付いていて、そのほかの役員は1人ずつ別のクラスに分けられたから、あたしと美幸先輩はどうやら2人で1人前の扱いになってるみたい。小池先輩は憧れの里子先輩と同じクラスになれたみたいで、「これもワイロの成果だ!」って叫んで自分から不正をばらしてしまっていた。あたし自身は、中学で同じクラスになったことがある女子のグループと一緒になれて、そのほかの人たちともほとんど顔見知りだったから、ほっとしたと同時に会長の心遣いを嬉しく思った。
 そうして迎えた合宿初日、一般の集合時刻よりも1時間早く集まったあたしたちは、荷物をチェックしたあと集合場所である食堂のセッティングをした。一緒に裏方に参加してくれる松田君はバレー部の1年生で、後期からあたしと同じ会計監査に任命される予定になっている。中学の頃には同じ学年の生徒会長として一緒に仕事をしたから気心は知れている人だ。少し見ない間に身長が伸びてしまったから、最初に隣に立ったときにはちょっとだけドキッとしたけど。
「よっ、久しぶり。元気してた? 夏バテしてない?」
「……うん、大丈夫。松田君も元気そう」
「そりゃオレは鍛えてるし。……そろそろ集まり始める頃だから、これ、オレとおまえとで配るようにってさ、会長が。半分持ってて」
 松田君が渡してくれたのは食堂の席順表で、6つのテーブルにクラスごとに分かれて座るようになっている。一般の集合時刻まではまだ20分近くあったから、あたしたちはみんなが来るまで食堂入口近くの椅子に座ってたわいない話をしていた。
「 ―― そういえばさ、山崎先輩って、こないだの球技大会でバスケとバレーと両方出てなかった?」
「うん。なんかクラスの友達に頼まれたとか言ってた。バレーの方は友達の代役だったんだって」
「うちの部長がその試合を見てさ、おまえのカオでぜひあの人材をバレー部に引っ張ってこい!って言うんだよ。部長が頼んでダメだったんだから無理だって言ったんだけどね、最悪試合の時だけの助っ人でもいいからって。そういうの、山崎先輩引き受けてくれそうかな」
 あたしはあいまいに首を傾げただけだったけど、なんとなく複雑な気分だった。河合会長が美幸先輩を次の生徒会長にさせたがっているのは知っていたし、あたし自身も先輩が生徒会からいなくなってしまうのはやっぱりさびしかったから。
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桜色迷宮35
 なんとなく、気まずいような空気が互いを包んでいたのだけど、美幸先輩がいつもと同じ笑顔を見せてくれたから少しだけ安心した。帰り際に先輩は、これから会長の家へ行くと言った。会長に会って、合宿であたしと同じクラスになれるように貢ぎ物をしてくる、って。あたしも先輩と一緒のクラスになれたら嬉しいと思う。反面、頭の中では「貢ぎ物をしなかったら先輩と同じクラスになる確率は6分の1だな」なんて、どうでもいい計算をしていた。
 先輩と一緒に会長に貢ぎ物をしに行く決心はつかなくて、お母さんと玄関で先輩を見送ったあと、部屋に戻ってベッドに寝転がった。美幸先輩のこと、嫌いじゃない。むしろ好きだと思う。なのにどうしてあたしは先輩に返事をすることができなかったんだろう。
 思い出すとドキドキしてじっとしていられなくなる。夏掛けを抱きしめて顔をうずめて、ドキドキが少しでも早く収まるように願う。混乱していたのは間違いないんだ。だから返事ができなかったの? ……そうかもしれない。あたしは自分が何を言われているのか、きっと半分も理解していなかったから。
 あたしのことを好きだって言ってくれる人がいるなんて思わなかった。美幸先輩は、あたしのことが1番好きなんだ、って。ほかになんて言ってただろう。あたし以外の女の子はいてもいなくても同じなんだって ――
  ―― 夏掛けをぎゅっと抱きしめた。どうしよう、あたし、すごくドキドキしてる!
 あたし美幸先輩に告白されたんだ! あんなに綺麗で、すごく優しくて、勉強も運動もなんでもできて、みんなが憧れてる美幸先輩に!
 緊張してるんだって言ってた。いつもと違う表情をたくさんあたしに見せてくれた。あたし、ほんとに先輩に告白されたの? こんな、人より優れたところなんて少しもないあたしのことを、先輩はほんとに好きだと思ってくれてるの……?
 嬉しいより困った。どうしよう、どうしようって、ずっとその言葉ばかりが頭の中をめぐっていた。これからどんな態度で先輩と話せばいいんだろう。先輩は変わらないでいるって言ってたけど、あたしは今までと同じになんてできないよ。
 その日、あたしは夏掛けを握り締めたままで、夕食に声をかけられるまでずっと考え続けていた。でも答えなんか出せない。先輩のことを好きなのは間違いないけど、ほんとにあたし、先輩と付き合ったりしていいんだろうか、って。
 翌日から学校は夏休みだったのだけど、合宿の準備もあって生徒会は毎日開かれた。生徒会室での美幸先輩の態度は今までとぜんぜん変わらなくて、だけどあたしは、先輩の告白を一瞬だって忘れることができなかった。
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桜色迷宮34
 先輩はあたしの表情の変化を正確に読み取ったのだろう。一瞬だけ目を伏せて息をついたあと、顔を上げた先輩はいつもの優しい微笑みに戻っていた。
「ずるいだろう僕は? 一二三ちゃんに少しでも肯定的な言葉をもらうためならこういうことも平気でできる」
 もしかしたら先輩は、あたしが自分のことを卑怯だと思ってたって、気がついたのかもしれない。ようやく少しだけ落ち着きを取り戻していた。でも先輩の微笑みをずっと見ていることはできなくて、またいつの間にかうなだれていたのだけど。
「たとえばだけど。一二三ちゃんが健康で、普通に運動ができる子だったら、僕が好ましいと感じる優雅な動作をしなかったかもしれない。一二三ちゃんにとっては、病気であることも一二三ちゃんを構成する大切な要素なんだよね。もちろん僕は一二三ちゃんが1日も早く健康になればいいと思うし、元気になって活動的な動作をするようになったとしてもずっと好きだと思うけど。でも病気だからといって君を好きな気持ちが変わることはないよ。だからもう少しだけ僕を見て、僕を信じて欲しいな」
 聞いている言葉をうまく頭の中で消化することができなかった。だから気づかなかった。先輩はいつの間にかテーブルを回って、あたしの隣にきていたんだ。先輩の手があたしの髪に触れたとき、あたしは思わずよけてしまった。もちろんあたしは素早くよけるなんてことはできないから、頭を横に動かして先輩の手首を片手で押し上げただけだったのだけど。
「あ、あの……ごめんなさい」
 驚いた表情の先輩を見上げてあわてて謝る。どうしてそんなことをしたのか自分でも判らないから言い訳もできなかった。このあいだ髪をなでられたときには、驚きはしたけど触って欲しくないとは思わなかったのに。
「……ええっと、今の「ごめんなさい」は、ちょっと気が早すぎるこの右手に対するものだと思ってかまわないよね。僕の告白に対する返事だとは思いたくないよ」
 このときの先輩の表情は思いのほか真剣で、あたしは黙ってうなずくことしかできなかった。
「返事は急がない。僕は今までと同じように一二三ちゃんに接することにするけど、だからといって僕に告白されたことを忘れないで。僕はいつでも、一二三ちゃんの返事を待ってるから」
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桜色迷宮33
 爆発しそうなくらい心臓が高鳴ってる。もしかしたらあたし、先輩の言葉の半分も聞こえてなかったのかもしれない。だけど先輩が一生懸命あたしに反論してくれるのだけは判って、そんな気持ちに流されそうで、自分が今いる場所すら見失いそうになっていた。こんな風に人に好きだと言われたのは初めてだった。こんな、あたしのすべてが好きだと言ってくれる人がいるなんて、容易に信じられなくて。
「……あたし、嫌な子かもしれない。それでも好きなんですか?」
「それも一二三ちゃんだもの。嫌なところはなおせばいい。だけど、一二三ちゃんだって事は変えられない。僕は、一二三ちゃんがどうあがいても変えられない、一二三ちゃんだって事実が好きなんだ。なにが好きかなんていえない。どんなところが好きだとか、こうだから好きだとか、そういう言葉ではいえない。一二三ちゃんが一二三ちゃんだから好きなんだ」
「でも、あたしは病気だし ―― 」
 言ってしまってから、一瞬だけ凍りついたように冷静になったあたしは自分の言葉に自分で傷ついていた。
  ―― あたし、卑怯だ。さっきからあたし、自分を好きだって言ってくれる先輩の気持ちを試してる。自分でも自信が持てないところを挙げ連ねて、先輩に反論して欲しいんだ。先輩に「一二三ちゃんはそれでもいいんだよ」って言って認めて欲しいの。そうして先輩に病気のことも認めてもらおうと思ってる。自分が先輩の立場だったら認められないと知っているのに。
 先輩が病気を理由に前言を撤回する可能性だってあるはずなのに。だからこの言葉は先輩に前言を撤回して欲しくて言ったんじゃない。今までと同じように先輩に反論して欲しくて、あたしはこんな重大な判断を先輩に委ねたんだ。
「あ、あの、ごめんなさい! 今のは ―― 」
「僕はね、一二三ちゃん。今でもかなり緊張しているんだよ。そういうところが顔に出にくいのは自分でも自覚してるけど、自分が1番好きだと思って、1番大切だと思っているものに対して、否定の言葉だけを立て続けに聞かされるのは正直言ってきついよ。それがたとえ本人の口から出た言葉であってもね。……僕を嫌いなら嫌いだと、そろそろはっきり言ってもらった方がいいんだけど」
「そんな……そんなことないです! あたしが先輩を嫌いだなんてことはぜったいないです!」
 口調が変わった先輩に驚いてそう言うと、先輩はあたしを見てにやっと笑った。瞬間、あたしは先輩に騙されたような気がした。
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桜色迷宮32
 瞬間、あたしは固まってしまって、先輩と目を合わせていることすら忘れていた。そのあと、先輩がふわっと微笑んで、我に返ってうつむいたあたしはたぶん顔を真っ赤にしていたと思う。どうしたらいいのか判らなくて、それ以前に何を考えればいいのかすらも判らなかった。美幸先輩の言葉は誤解する余地がないくらい明確だったのに、どうしてもその意味を理解することができなくて。
 あたしが何も言えなくなっていることをどう捉えたんだろう。美幸先輩は姿勢を正して、微笑んだまま改まった口調で続けた。
「僕は一二三ちゃんが大好きです。今まで出会ったたくさんの人の中で、1番好きです。僕の恋人になって下さい。僕は若年寄だし、もちろん、僕が一二三ちゃんを好きなのと同じくらい、一二三ちゃんも僕を好きだなんてうぬぼれてはいないですけど、もしもほんの少しでも僕を恋人にしてもいいなと思ってくれるのだったら、僕とつきあって下さい。お願いします」
 先輩の声色にわずかな緊張を感じる。最後の言葉を言ったとき、先輩が動いた気配がして、あたしが顔を上げて見ると先輩は両手をついて頭を下げていたんだ。もしもあたしが何も言わずにいたら、先輩はずっとこのままかもしれない。そんな強迫観念にかられてあたしはようやく声を出したんだ。
「あ、あの、あたし……美幸先輩が言うようないい子じゃないです。からかってるんでなければ、どうして美幸先輩みたいな人があたしなんかを好きだって言うのか判らないです。美幸先輩のまわりにはすてきな女の子がいっぱいいて、みんな美幸先輩のことが好きなのに、どうしてあたしみたいな子が好きなのか判らないです。きっとなにか勘違いしてるんです」
 言葉の途中から先輩は顔を上げてくれて、あたしが一気にしゃべり通すと、少し首をかしげるように微笑んだ。
「僕は一二三ちゃんが好きなんだよ。一二三ちゃん以外の女の子は最初からいてもいなくてもおんなじだよ」
「あ、あたしは一枝先輩みたいにかわいくも明るくも、朱音先輩みたいにしっかりしてもいないです」
「それは前にも聞いたな。僕が好きなのはかわいい女の子でも、明るい女の子でも、しっかりした女の子でもなくて、一二三ちゃんなんだよ。一二三ちゃんだから好きなんだよ。例えば一二三ちゃんがこれからどんな風に変わっていっても、一二三ちゃんだっていうだけで僕は好きなんだよ。例えば一二三ちゃんに姿も声も性格もそっくりな女の子がいても、僕は一二三ちゃんが好きなんだよ。ほかの人に代わりなんか出来ない。一二三ちゃんが好きなんだ」
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桜色迷宮31
 恥ずかしかった。いくら美幸先輩に訊かれたからって、思ってることをぜんぶ吐き出すようなまねをするなんて。こんな話、先輩にとっては迷惑なだけなのに。優しい先輩に余計な気を遣わせてしまうだけなのに。
 うつむいて黙り込んでしまったあたしを見つめる先輩の視線を感じた。いたたまれなくなるような空気が辺りを包んでいて、でもそのとき先輩がふっと紅茶を飲み干して、まるであたしの緊張をほぐしてくれるかのように言ったんだ。
「一二三ちゃん、もう1杯もらえるかな」
「……あ、すみません、気がつかなくて」
 そうしてカップを受け取って紅茶を注ぎ始めたあたしを、先輩はずっと優しさを含んだ気配で見つめていた。あたしは少しでも落ち着きたくて、必要以上に時間をかけて紅茶を注いだあと、再びカップを差し出しながら少しだけ顔を上げて先輩の表情があたしの想像通りだったことを知った。
 先輩の目はまっすぐで綺麗だったから、あたしはまだドキッとしてしまう。こんな目で見つめられたら誰でも勘違いしちゃうよ。先輩が女の子にモテるのはあたりまえだと思う。
「一二三ちゃんは、1つ1つの動作が優雅だよね。もしかして茶道かなにか習ったりしている?」
「そんなこと。……ただトロいだけです。茶道なんてぜんぜん……」
 あたしは子供の頃からの習慣で、できるだけ身体をゆっくり動かすことにしている。反射的に動いて何かにぶつかったり転んだりしたら、怪我の大きさによってはたいへんなことになるから、ふだんからゆったりした動作が身についてしまっているんだ。そのせいかどうかは判らないけど、あたしは思考回路の反射神経も鈍いみたい。こういうこともぜんぶ先輩に説明すればいいのに言葉が出てこなかった。
「一二三ちゃんといるとすごく落ち着くんだ。僕が老けてるからなのかもしれないけどね、同年代の女の子は騒がしすぎて、僕はあまりなじめないから。……一二三ちゃん、少しの間だけ、顔を上げて僕を見ていてくれるかな?」
 口調が変わった先輩に不安を感じて、あたしは顔を上げた。先輩の真剣な視線と交わってドキッとする。
「僕は、一二三ちゃんのことが好きなんだ。もし、一二三ちゃんが嫌でなかったら、僕と付き合ってくれないかな」
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