2005年09月の記事


幻の恋人・最終回
「一二三はきっと、大河のことでとても疲れてるんだね。無理もないよ。一二三はもう2年以上もこんな生活を続けているんだから。……僕は一二三のためなら何でもする。必要なら何人だって殺してあげる。だからもうやめよう。今いる宿主を全員殺して、大河をつれてあの屋敷へ帰ろう。僕はもう、君が人間と関わって苦しむ姿は見たくないんだ」
 ……ああ、やっぱり、あたしと美幸とは違う。知らず知らずのうちにあたしは美幸が触れている手を引き戻していた。
「苦しい、けど。……あたしはやっぱり、自分が助けられる人間は助けたいよ。助けられるのが判ってるのに、やめたりできない」
 それに、今人間が種の脅威にさらされているのは、ぜんぶあたしのせいなんだ。あの時現実を受け容れられなかったあたしの弱さが、大河を特殊な吸血鬼に変えて、殺人の種を広めてしまった。自分がしでかしたことを償わずに帰ったって、あの屋敷の中であたしは平穏に暮らすことなんかできないよ。すべてを忘れろといわれてもあたしには忘れることなんかできないんだ。
 祥吾のことも、犠牲になったたくさんの人たちのことも、あたしは忘れられない。そして、これから増え続ける種の犠牲になる尊い命のことを忘れるなんて、もっとできない。彼ら人間には、あたしたちがぜったいに得ることのできない未来があるのだから。
「……そうやって、一二三はいつも僕よりも人間を選ぶ。これでは何も変わらないね」
 美幸の表情が、いつもの優しいだけの微笑みに覆われていく。いったいどうしたら判り合えるんだろう。美幸が人間だったときの感覚を思い出すか、それともあたしが人間の感覚を捨てることができなければ、あたしと美幸は何も変わらないままなのかもしれない。
「いいよ。君の気が済むまで僕は付き合うから。その代わり、ずっと僕のそばにいてほしい。……僕から離れないで、一二三」
「……うん」
 そうして美幸は、約束された永遠をあたしに約束させる。美幸の長い孤独が垣間見えるから、あたしは頷かずにはいられない。

 美幸とあたしは、判りあえない恋人。あたしは美幸を好きなのに、美幸もあたしを好きだといってくれるのに、互いの気持ちが判らない。
 美幸が見ているあたしは、いったいどんな姿をしているのだろう。美幸が望んでいるあたしは? あたしが見ている美幸と、本当の美幸とは同じものなのだろうか。あたしは美幸に、美幸はあたしに、自分自身が望む幻を映しているだけなんじゃないだろうか。
 祥吾にとってサエは幻の恋人。でもそれは、あたしと美幸にこそふさわしい言葉なのかもしれない。

  ―― 了 ――
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幻の恋人24
「今日は諦めた。どうやら一二三にも協力してもらわなければならなくなりそうだから」
 美幸はそれ以上話す気はないようで、下着だけ身につけた身体を隣の布団に横たえた。うつぶせのまま、上目遣いであたしを見上げる。その視線は何かを探っているようにも、少しすねているようにも見えた。
「一二三、その。……広田のことを、好きだった?」
 そう、訊かれそうな気がしていたから、あたしはわずかに目を伏せて首を横に振った。なんとなく判った気がした。美幸が、いつもあたしにそう尋ねていた理由が。
 人間を食料としてしか見ていない美幸。そこまで割り切れないあたしは、美幸の行動に驚き、傷つく。でも、同じギャップはきっと美幸をも傷つけている。あたしが人間を守ろうとするたびに、美幸はあたしの気持ちを疑って傷つくんだ。
 あたしは美幸のことが好き。そして美幸も、きっとあたしのことを好きでいてくれる。満月期の今なら素直に言える気がした。美幸と、判りあえるような気がした。
「あたしは、広田のことを好きになったりしない。祥吾のことも、羽佐間君のことも。……あたしが好きなのは、美幸だから」
 うつぶせのままの美幸が、少し驚いたように身体を起こして、あたしを見つめる。そのあと自然な微笑みに変わったから、あたしも同じ微笑を返した。美幸の手があたしの手に重なる。
「よかった。このところずっと笑ってくれてなかったから、嫌われてしまったのかと思ってたよ。……僕も、一二三のことが好きだよ。出会ったときから、変わらずに好きだ」
 6年前に初めて告白してくれた美幸がいた。たとえあたしがどんなに変わっても、ずっと変わらずに好きだと言ってくれた。あたしがあたしだから好きなんだ、って。今、あたしと美幸とは心が通じた。そう思っていいの?
 あの時あたしが信じた美幸が、美幸の真実なんだ、って。あるがままのあたしを受け入れて、永遠にそばにいてくれるって。
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幻の恋人23
 異様な気配に振り返ると血まみれになった広田と、さらに広田の身体にナイフを滑らせている美幸がいた。驚きと悲しみとで声も出なかった。広田の身体を傷だらけにした美幸が立ち上がってあたしを見る。
「勘違いするな。殺してはいない。このまま無傷で倒れていたら殺人犯にされるだろう。記憶もないしな」
 震えるあたしの肩を抱いて、美幸は路地の向こうへとあたしを促した。あたしは緊張の糸が切れてしまって、美幸に導かれるままに足を動かした。さっきあたしと広田が歩いていた川沿いの道。そこまで行くと、美幸は川の上流に向かってナイフを投げ捨てた。犯人があちらに向かって逃走したと思わせるためなのだと、ぼんやりした頭で思った。
 そのあと川沿いを下流に向かって走っていって、運の悪いカップルを見つけて食事をした。返り血を浴びた美幸と2人、人目を避けてようやくアパートに辿りついてからも、あたしは一言も口をきくことができなかった。
 人間は、あたしたちにとって食料。それはあたしも美幸も変わらない。
「 ―― 一二三、先に身体を洗ってくるよ。一二三の服も汚してしまったね。よかったら着替えておくといい」
 そう言って微笑んだ美幸はユニットバスへと消えていった。美幸に、人間を殺したという心の痛みはない。人間なんか何人死のうと関係ないと言った。あたしも美幸と同じになれたら、こんなに苦しい思いをしないのに。祥吾を殺した美幸を既に許している自分に罪悪感を感じなくてもいいのに。
 悪いのは、美幸じゃない。あのときの美幸にはああするしかなかったんだ。もしもあたしが祥吾に刺されていたら、種に支配された広田を逃がしてしまっていたかもしれない。広田と祥吾が互いに殺し合うか、最悪、2人が無関係の通行人を殺していたかもしれないんだ。あたしは広田を救えただけで満足しなければいけない。
 美幸が戻ってくる前にと、あたしはパジャマに着替えて、2組の布団を敷いた。布団の上に座ってぼんやりしながら種の気配を探る。それで初めて、美幸が担当していた主婦の種がまだ回収されていないことに気がついた。
「待たせたね。一二三は? 入ってこないの?」
「……うん、あとでいい。それより美幸はどうしたの? 3人目の宿主は?」
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幻の恋人22
 種に操られた広田が暴れている。その身体を無意識に壁に押さえつけながら、あたしは血まみれの美幸を見つめていた。美幸の身体の向こうに見え隠れするのは、既に肉の塊と化してしまった祥吾の身体。祥吾の命を奪ったナイフを握ったまま、美幸が近づいてくる。まるで鬼神の化身のように見える美幸はそれでも見る者の魂を吸い取るほどに綺麗だった。
「一二三、そこをどけ。時間がない」
 美幸に魅入られていたあたしが、言葉の意味するところを理解するのに少しの時間がかかった。
「……だめ、この人は殺したらだめ。……祥吾だって、殺すことなんかなかった」
「おまえに傷をつけようとした」
「刺されたくらいであたしは死んだりしない! だけど人間の命は失われたらそれで終わりなんだよ!」
「人間なんか、何人死のうと関係ない。僕は一二三を傷つける奴は許さない。一二三、この状況で人に見咎められたら言い訳できないんだ。そいつを殺すのが1番手っ取り早い」
「……お願いだから。……美幸、あと1分、あたしに時間をちょうだい。せめてこの人だけでも助けたいの」
 美幸の返事は待たずに、あたしは暴れる広田に抱きついて、口付けた。
  ―― 祥吾の恋人は幻だった。あたしが作り上げた、祥吾にとっては理想の恋人。だけど祥吾の人生はけっして幻なんかじゃない。あたしが大河に最初の種を植え付けなければ、祥吾には祥吾自身が築き上げるはずの未来があった。祥吾を殺したのはあたしだ。今まであたしは、そうして何人もの人間の命を奪ってきた、殺人者の吸血鬼。
 広田の恋人は現実の恋人。今、あたしは殺人者だけど、あたしは広田と広田の恋人の未来を守ることができる。これから毎月生まれていく種の宿主と、彼らが大切にしている人たちを守ることができるの。そうと信じなければ、あたしは生きていくことなんかできなかった。過去の過ちを、未来で清算できると信じていなければ。
 種の結晶を広田の口内からあたしの口の中に移すと、力を失った広田はその場に倒れ込んだ。あたしは口の中から血の色をした結晶の珠を取り出して、月の光に当てて経過期間を読み取る。ほんの少し視線を外したそのとき。美幸が、広田の身体をナイフで切り裂いたんだ。
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幻の恋人21
「祥吾……」
「なん……! 信じらんねぇ! どうしておまえがこんな野郎とキスなんかしてんだよ! おまえ、オレの恋人じゃねえのかよ! ……ハッ、とんだあばずれ女じゃねえか。こんな女を大事にしようとしてたなんてな。ばかばかしくて反吐が出らあ!」
 祥吾が顔中の血管を膨れ上がらせて悪態をついていた。あたしは何も反論できなかったけど、心の中は意外に冷静だった。祥吾がどうしてここにいるのか、それは判らない。だけど今のあたしの姿を見てしまった祥吾とこのあとキスするのは、少なくとも今夜は諦めなければならないかもしれない、って。
 そのとき、いろいろなことがほとんど同時に起こった。
 あたしのうしろにいる広田。彼の処置は途中で、おそらく今まで集めた種もすべて体内に戻ってしまっていた。その広田がぞっとするような気配を放って、あたしは思わず背後を振り返った。見上げた広田の目の色が変わっている。既に37月目を迎えていた種が活動を始めてしまったんだ。
 すぐに種を取り出さなければ大変なことになる。そう思って彼の首に抱きつこうとしたとき、祥吾が動いた。どこから取り出したのか判らないナイフを右手に握っていて、あたしの名前を叫んで走り込んできたその目も種の狂気に支配されていて ――
「サエーー!!」
 36月目の祥吾の種が活動を始めるはずなんかなかった。だから混乱したあたしは広田に抱きついたまま祥吾を見ていることしかできなかった。祥吾のナイフはまっすくにあたしをめがけて迫ってくる。痛みを覚悟したそのとき、祥吾の身体が横からの強い力で吹き飛んで、そのまま壁に激突したんだ。
 あたしと祥吾との間に割り込んだその人は背中しか見えなかったけど、あたしにはそれが美幸だって判った。瞬きする間もなく美幸は倒れた祥吾に駆け寄って、ナイフを奪い取ると祥吾の身体に突き刺したんだ! 何度も!
「……美幸! どうして ―― 」
 やがて声に振り返った美幸は祥吾の返り血にまみれていて、その目はあたしが1度も見たことがないほどの怒りに支配されていた。
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幻の恋人20
 できるだけ警戒心を抱かせないように丁寧語で話しながら、あたしは広田を駅から少し離れたお好み焼き屋へと誘導した。ここは少し路地を入っていかなければ辿りつかない場所で、今の時刻なら人通りは多いのだけど、ピークを過ぎると人影はかなり少なくなる。できれば夜の9時ごろまでは引き止めたかったから、あたしは広田にビールを勧めて、いもしない恋人の自慢話を聞かせていた。広田の恋人の話もたくさん訊いて、やがて気が大きくなった広田が饒舌に話すさまを、微笑みながら見守っていた。
 目安の9時を過ぎたとき、明日の仕事に差し支えるからと、あたしの方から席を立った。会計は広田に任せて、店を出たところで半分よりもやや少ない金額を渡す。恋人でもなんでもない女性におごったり、逆におごられたりするのは広田にとっても不本意なことだろう。お互いに対等な関係であることを暗ににおわせることで、広田の信頼はより深まったはずだった。
 さりげなく誘導して、来た道とは少し違う道を、駅の方角に向かって歩いていく。川沿いの、人通りがほとんどない道。たわいない会話をお互い交わしながら、あたしは広田の腕を引いて、駅へ向かう路地へと入ったところでその行動に出た。
「え? 秋葉さん ―― 」
 驚く広田の首に抱きついていきなり口付けた。逃げられないように渾身の力で拘束して、深く唇を合わせる。最初の数秒は抵抗していた広田も、やがてキスに酔うように応え始めていた。あたしは広田が大河と出会った経緯は知らない。でもほかの宿主と同じように大河の誘いに乗ったのならば、今は1人の恋人を大切にしているこの人にも遊び人の要素はあったのだろう。
 舌先に意識を集中させて、広田の口内に自分と同じ血を引き寄せる。広田の舌の裏側にかよう血管を通じて、しだいに大河の種が集まって塊を形成する。この身体の中からすべての血を抜き出すのには多大な集中力が必要だった。目を閉じて一心不乱に種を集めるあたしは、まるで広田のキスに酔っているようにすら見えるのだろう。
 そのときだった。あたしの集中力を乱す、その声が聞こえたのは。
「サエ! てめえ、いったいなにやってんだよ!」
 広田の種はまだ完全に集め切ってはいなかった。だけどその聞き覚えのある声に、それ以上同じ作業を続けることがあたしにはできなかった。振り返って驚いた。そこには、怒りに目を血走らせている祥吾の姿があったから。
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幻の恋人19
 満月の夜から一両日、この3日間のことを、美幸は満月期と呼ぶ。あたしたちの身体は月の満ち欠けに支配されていて、この3日間は肉体の能力が最大限に発揮されるんだ。身体だけではなくて心も月の影響を受ける。理性のたがが少し外れるような感じで、だからほかの人から見るとまるで人格が変わったように見える、
 満月期がくるとあたしの気持ちもかなり楽になった。人をだますことへの罪悪感や、うしろめたさをあまり感じなくなるから。思っていることを口に出すのも簡単になる。満月期が過ぎるとそれも後悔や羞恥心に変わるのだけど、そのときの高揚感は口では説明できないものだった。
 満月の木曜日、美幸は3人目の宿主である主婦の家へと出かけていって、あたしは1人目の宿主、広田という会社員を尾行していた。会社帰りの広田は道を歩きながらケータイの画面を見つめている。溜息をついたのは、恋人からのメールでも入っていたのか。ケータイをポケットに戻して駅までの道を歩き始めた広田について、気づかれないようにあたしも電車に乗った。
 以前尾行したときには、こうして電車に乗った広田は、自宅の最寄り駅でコンビニに寄っていた。でもこの日の広田は途中の駅で降りたんだ。その駅が祥吾のライブハウスがある駅で、あたしは少しだけ気になったのだけど、時刻を確認していくぶん胸をなでおろす。今は7時より少し前というところで、祥吾は既にライブハウスに入っているはずだったから。
 美幸にメールで報告したあと、駅前のレストラン街を物色し始めたのを確認して、あたしは広田に先行した。同じようにウィンドウを眺めていたあたしの姿を見て広田が足を止める。広田があたしに見とれている視線を感じた。数秒間その視線を受けたあと、あたしが振り返ると、広田は少し戸惑ったように視線を外した。
「あの……」
 あたしが声をかけると、最初自分が話しかけられたと思わなかったんだろう。少しだけあたりをきょろきょろして、あたしに視線を戻す。
「もしかして、お1人でお食事ですか?」
「あ、はい。そうですけど」
「あの、いきなりぶしつけとは思うんですけど、よろしかったらご一緒しません? 私、今日は恋人に振られてしまって独りなんです」
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幻の恋人18
 アパートに戻って、先に帰っていた美幸に訊かれて、あたしは祥吾とのデートを簡単に話した。
「 ―― キス、されて、真剣だって言われて。だから当日のことは、祥吾の家に泊まるようなニュアンスで話した。……あたしから電話して、駅で待ち合わせることになってるから」
 あたしは怖くて、美幸の顔を見ていることができなかった。キスのことで怒られるのが怖いんじゃない。美幸が少しも気にしてくれなかったらと思うと、それが怖かったから。
「そう」
 その声だけでは、美幸がどう思ったのか、判断することはできなかった。
「それで、一二三は祥吾のことが好きなの?」
 うつむいたままあたしはかぶりを振った。そのあと美幸がため息をついたのが判った。どうしてなんだろう、なぜかすごく胸が苦しい。
「君がつらそうな顔をしているから。いったいなにがつらいのか、僕になにをしてほしいのか、話してくれないか? 僕にできることがあるならなんでもするよ。僕は一二三のためならなんでもする」
 それならあたしを怒ってよ。ほかの男とキスなんかするな、って、あたしを叱って。同じ家に暮らしているのに、ずっと同じ部屋にいるのに、美幸はあたしに触れない。美幸にとってあたしがどういう存在なのか、今のままじゃ少しも判らないよ。
「……それとも、一二三は僕を恨んでいる? 君を、こんな身体にしてしまった僕のことを ―― 」
 視線を上げられなかったけど、あたしは思いっきり首を振って否定した。そんなこと、今のあたしは少しも思ってない。6年前、現実を受け入れる前のあたしは、美幸にすべての苛立ちをぶつけていた。美幸は今でもあたしに恨まれていると思っているの……?
「違う、から。美幸のことは、そんな風に思ってない。……ただ、あたしは、嘘をつくのが嫌なだけだから。あたしを信じてくれる人を、これ以上だましたくない」
「一二三が嫌ならもうやめよう。種の回収なんて、いつやめてもいいんだよ。また2人であの屋敷で暮らそう。なにもかも忘れて」
 そう言ってくれるのは美幸の優しさだ。でもそんなことはできない。今のあたしには、うつむいたまま首を振ることしかできなかった。
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幻の恋人17
 あたしの手を掴んだまま、祥吾は路地を出て歩いていく。だんだんいろいろなことが飲み込めてきて、緊張が解けたのだろう。歩きながら祥吾が話し始めた。
「オレさ、今、詩を書いてる」
「詩? ……もしかして、歌の歌詞?」
「そう。初めてなんだけど、メンバーの誰にも訊けなくてさ。オレ、みんなの前で思いっきしバカにしたことがあるんだよ。矢部っちの奴、カノジョができたとたんにバラードなんか書きやがったから。……その気持ち、今ならすげえ判る気がする」
「……それって、あたしの歌なの?」
「ああ。サエのために書いてる。だから完成したらぜったいおまえに聴かせるからな。楽しみにしてろよ」
 たぶん、祥吾のバラードが完成することはないだろう。美幸は既に祥吾の記憶を消すつもりでいるから。……もしも、もしもこの次の満月まで種を取り出すのを待つことができたら、祥吾のバラードは完成するかもしれない。
 駅で切符を買ったあと、改札の前で別れ際にあたしは言った。
「今度の木曜日ね、うちの両親が一泊旅行なの。お姉ちゃんの初ボーナスのプレゼントで」
「へえ、そんじゃ、久しぶりにライブにこれるな?」
「ううん、ライブは無理だと思う。あたしが夜遊びしてないか、電話で確かめるって言ってたから。……でもね、そのあとならあたし、出られるかもしれない。たぶん10時ごろ」
 少し顔を赤くして目を伏せて見せる。それだけできっと、祥吾にはサエの決心が判っただろう。祥吾の息を呑む気配が伝わってくる。
「駅についたら、電話するから。……迎えに来てくれる?」
「あ、ああ、必ず行く! 待ってるからな、ぜったい来いよ!」
 一瞬だけ笑顔を見せて、あたしはまるで逃げるように走って改札を通り過ぎた。あたしを信じ切っている祥吾の目を見るのが苦しかった。この2年、ずっと人をだまし続けて、慣れてもいいはずなのにこの瞬間にはいつも慣れることができないから。早く満月の夜がくればいい。
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幻の恋人16
 ほとんど抵抗らしい抵抗はできなかった。でも結果はそれでよかったんだと思う。サエはきっと祥吾とのキスを嫌がったりはしないはずだから。祥吾にキスされた瞬間、あたしの頭の中に美幸の顔が浮かんでこなかったら、これほどまでに嫌だと思うことはなかっただろう。
 キスなんて、毎月のようにしてる。時には同じ日に2人の宿主とキスすることだってある。だけど、その1日以外のあたしは美幸のためにいたい。たとえ美幸があたしに触れる日が1日もなくても。
「サエ、……嫌だったか?」
 思わずうつむいてしまったあたしに祥吾がぼそりと訊く。しっかりしなくちゃ。あたしはまだサエなんだから。
「祥吾、あたし。……もしかして、祥吾に遊ばれてる?」
 顔を上げると、祥吾が驚いたような表情をしているのが判った。
「あたしのこと、手軽な遊び相手だと思ってる? 簡単にキスとかできる女だって」
「……バカかおまえ。遊ぶつもりなら初日にヤッてそれで終わってるさ。ぜんぜんそんなんじゃねえよ。オレ、今本気でサエと付き合いたいと思ってる」
「……」
「マジ、こんなに大事にしたいと思ったことなんて、オレ今まで1度もねえんだよ。そりゃあ、今までのオレの行いなんて褒められたモンじゃねえし、すぐには信じられないかもしれねえ。だけど信じてくれ。オレ、サエのことは本気なんだ」
 必死で訴えかける祥吾を見ているあたしの心の中は冷めていた。初めて美幸に告白されたときのような、心のときめきなんかぜんぜん感じなかった。こんなに深入りするつもりなんかなかったのに。でも、4日後に迫った満月の夜に祥吾とキスするためには、今ここでサエが祥吾を振るなんてことはできない。
「……だって、あたしなんか、ほんとにつまんない女の子で。祥吾とじゃ、ぜんぜんつりあわなくて」
「それ、逆の意味で言ってんじゃねえよな? ……だったら決まりだ。今日からサエはオレのカノジョで、オレがサエのカレシだから」
 そう言って笑顔を見せたあと不意に視線をはずした祥吾を見て、あたしは祥吾が意外に緊張していたことに気づいた。
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幻の恋人15
 祥吾が手にしたのは蛇が取り巻いているようなデザインの指輪だった。ここにあるのはそんなデザインばかりで、あたし自身はぜんぜん欲しいとは思わなかったけど、言われた通りはめてみる。
「あたし、手が小さすぎるから、こういうところのだとサイズがぜんぜん合わないんだ。ほら、こんなにぶかぶかだよ」
「へえ、マジおまえの指細ぇな。サイズいくつだ?」
「さあ、よくわかんない。でも9だと確実にあまるよ。その下だと7になるの?」
「おまえさ、そういうのふつう女の方が詳しくねえか?」
 あたしがちょっとふくれると、祥吾は笑って話題を変えてくれた。
 それからも、あたしと祥吾は駅前の通りを歩いて、目に付いたものを話題にしながらデートしていった。このあたりは祥吾のテリトリーらしくて、祥吾の中から話のネタが尽きるということはないみたい。しゃべっている祥吾は本当によく笑った。時々祥吾の知り合いに会って、祥吾は声をかけられていたのだけど、彼らは一様に驚いたような顔で祥吾の笑顔を見ていた。一見怖そうに見える祥吾はきっと、こんなに笑う姿を誰かに見せたことなんてほとんどないのだろう。
 サエの父親への言い訳のためにと数学の問題集を数冊買って、本屋を出るとあたりは暗くなりかけていた。たった2時間半のデート。それが、祥吾とあたしにとって最後のデートだった。この次に会うのは大河の種を取り出す満月の夜。だけどもちろん、これが最後だなんて祥吾は夢にも思っていないのだろうけれど。
「それじゃ祥吾。あたしそろそろ帰らなくちゃ。今日はほんとにありがと」
「まだ少しくらい大丈夫だろ? ちゃんと駅まで送ってってやるし」
「ダメだよぉ。お父さんと夕食までに帰るって約束しちゃったんだもん」
「10分だけだ。電車1本見送るだけで済む」
 そう言うと、祥吾はあたしの答えなんか聞かずに手首を掴んで引っ張っていく。あたしも諦めて祥吾についていくと、細い路地に引き入れられた。ほんとにあっという間だった。祥吾は壁が背になるようにあたしを立たせて、そのままキスしてきたんだ。
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幻の恋人14
 あたしは今、サエとして祥吾のために熱弁を振るっていた。幻のサエなんかのために祥吾に落ち込んでほしくなかったから。でもあたしは、しゃべりながら思っていたんだ。未来がある祥吾のことを本当に羨ましく思っているのはサエじゃなくてあたし自身なんだ、って。
 祥吾はこの先、本当に夢をかなえるかもしれない。逆に夢破れて歌を諦めてしまうのかもしれない。でも、たとえどんな運命が待っているとしても、祥吾の歩く道は必ず未来につながっている。あたしの未来は1つしかない。「思い出の中の転校生」というただそれだけ。
 成長しないあたしは、同じところに長くいられない。何年も付き合えるような親友は作れない。出会った人たちの心の中に、「そういえば高1のときそういう転校生いたよな」って、判で押したような印象を残すだけなんだ。美幸がずっとそうだったように。
「なあ、サエ、オレたちめちゃくちゃ注目浴びてるぜ」
 祥吾が皮肉な表情で笑ったのが判った。言われて周囲を見回して、すごく恥ずかしくなる。
「……あ、あたしのせい?」
「半分以上オレのせいだろ。なんたって未来の超有名人だからな。 ―― それ飲んだら出るか」
 あたしは残っていたジュースをあわてて飲み干して、笑いながら立ち上がった祥吾のあとについてその喫茶店を出た。
 祥吾はいつも、あたしをどこかへ連れて行こうとか、一緒に何かをしようとか、そういう目的はないみたい。駅前をぶらぶらと歩きながらウィンドショッピングをしたり、バーガーショップで話したり、時にはゲームセンターやパチンコ屋に入ってあたしのことを忘れかけたり。今日も祥吾はてきとうにぶらぶら歩きながら、思い出したように話し始めていた。
「けどサエなら今からでも十分アイドルでいけるんじゃねえ? おまえ、すげー綺麗だし」
「そんなことないよ。それに、今のあたしはアイドルになりたいなんて思ってないもん。見かけほど楽しくなさそうな気がしてるし。……あ、祥吾が好きそうなの発見!」
 半分ごまかすように、あたしは通りの店先のワゴンに乗ったアクセサリーの中から、毒々しい骸骨の形をした指輪をさして言った。近づいてくる祥吾の指には同じような指輪がいくつもはめられている。
「今買うならそれよりこっちだな。サエ、ちょっとはめてみ?」
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幻の恋人13
 祥吾の指がアイスコーヒーをかき混ぜる。カラカラと軽快な音を立てて踊る氷を見つめている。祥吾が何を考えているのか、あたしには判る気がした。高校を卒業していない祥吾は、きっと自分がサエとつりあわないって思ってる。
 胸が痛かった。だって、サエはこの世には存在しない、幻の女の子だから。幻の女の子に未来なんかない。サエは一生高校を卒業することもないし、大学に行くこともない。だから祥吾が自分を卑下して悩む必要なんかないのに。
「でもさ、祥吾。あたしが大学行くのって、けっきょく惰性でしかないんだよね」
 目を伏せたままだったけど、祥吾があたしの話をちゃんと聞いているのは判ってたから、あたしは続けた。
「なにをやりたいとか、将来なにになりたいとか、ぜんぜんないの。親が言うとおりの高校へ行って、親が決めた大学へ行って、ただそれだけ。高校の2年間だってただボーッと過ごしてただけだもん。大学での4年間もただボーッと過ごして、たぶんてきとうな会社に就職して、何年か経ったら職場結婚でもしてあとは子育てして。……あたし、祥吾が羨ましい。だって祥吾には自分の夢があって、ありふれた将来のために高校を卒業するよりも夢を実現する方を選んだんだもん。だからあたしは祥吾にあこがれたんだ。自分にないものをたくさん持ってて、ステージの上では1番輝いてて、親が引いたレールをはみ出す勇気を持ってる祥吾にあたしはあこがれたの」
 途中から、祥吾は少し驚いたようにあたしを見つめていた。
「……あこがれ? サエが、オレに?」
「そうだよぉ。だって祥吾、かっこいいもん。……大人はさ、みんな夢を持ちなさいって言うじゃん。小学生の頃とか、毎年必ず「将来の夢」なんて作文書かされて。なにを隠そう、あたしの小学生の頃の夢って「アイドルになりたい」だったんだよー。お母さんだってその時は「夢がかなうといいわね」なんて言っておいてさ。中学入ったら言うことコロッと違うの。勉強しなさい、夢ばっかり追いかけてないで現実を見なさい、いい高校に入らないとちゃんとした大人になれないわよ、って。だったら最初からあんな作文書かせることないじゃん!」
 ドン!とテーブルを叩いたら、祥吾がまん丸な目をしてあたしを見つめた。たぶんサエがそんなことするとは思ってなかったんだろう。
「みんなきっとそうなんだと思う。だから祥吾はすごいと思ったの。自分の夢を、少しずつだけどかなえていこうとしてるから」
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幻の恋人12
 このとき祥吾は半ば立ち上がりかけていて、大きな声を出したこともあって周囲の視線を集めていた。祥吾の服装もこの静かな喫茶店にはあまり合ってなかったんだ。黒くて露出の高いタンクトップに皮パン、首にはアクセサリーを嫌ってほど下げて、ピアスももちろん1つじゃない。腕と胸には禍々しいようなデザインのタトゥがあって、これはもしかしたら本物じゃないのかもしれないけど、普通の人には十分に危険な感じを与える。
 そんな祥吾に見つめられているあたしはいったいどんな風に見えているのか。それも気にならなくはなかったけど、ひとまず祥吾の反応の方が気になった。祥吾は周囲の視線に気づいたのか、静かに椅子に戻って、ちょうどトレイを持ってやってきたお姉さんが去るのを見届けてからしゃべり始めた。
「それって、つまり、今もおまえは受験に悩んでて、それでオレのところへ来たってことか?」
 ああ、なんかまずいことを言った気がする。3年前の運命的な出会いに加えて、祥吾の同情心や庇護欲にまで火をつけちゃったよ。
「やだなあ、あたし、そんなに悩んでるように見えるの? あたしがあの店に行ったのは、あそこで祥吾が歌ってるって聞いて、ちょっとだけ懐かしくなっただけなんだから。そうそう、あたし、普通より成長遅かったから。あの頃まだほんとに子供で、まるで男の子みたいに見えたよねー。でも今のあたしだったら祥吾も間違えたりしないよね、ぜったい」
 あたしは一気にしゃべりとおして、運ばれてきた生ジュースを半分くらい飲み込んだ。あたしが場の雰囲気を気にしたことが判ったのだろう。祥吾も微笑を浮かべて言う。
「……ああ、今ならぜったい間違えねえよ。ぜったい、間違えたりしねえ」
「よかったぁ。ほら、祥吾も飲みなよ。ぬるくなっちゃうよ」
 祥吾がアイスコーヒーをかき混ぜている間、あたしは祥吾の手の動きを追っていた。指先でストローをつまんで、くるくると中の氷を回していく。身体全体が痩せているせいか祥吾の指は節くれ立っていて、美幸のまるで女性のような指とはぜんぜん違う。
「……そうか。サエ、大学行くんだよな。オレは高校すら卒業できなかったけど」
「親が行かせてくれるって言うから。ほら、親の顔を立てる、っていうの? これも一種の親孝行」
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幻の恋人11
 あたしの生ジュースと、祥吾のアイスコーヒーを注文したあと、祥吾はあたしの顔を見つめながら言った。
「なんかさ、サエって化粧してないとほんっと幼いよな。まるで中ボーみてー。マジで18っての嘘じゃねえの?」
 あたしはちょっとふくれたように食ってかかる。
「ほんとだよー。嘘だと思うんなら高3で習う数学の公式暗唱してみせようか?」
「ハハハ、それ、証明になんねえよ。だってオレの方が判んねえもん」
「祥吾って数学苦手なんだー」
「ていうか、オレ高校卒業してねえし。中退して17のときに歌い始めたんだよな ―― 」
 そのとき言葉を切った祥吾の顔から笑顔が消えたのが判った。視線をはずして、何かを思い出しているような仕草をする。
「 ―― オレさ、前におまえと会ったこと、ねえ?」
 たぶん大河のことだ。うかつな返事をするとボロが出るのは判ってたから、あたしはあいまいな感じで答えた。
「どうしてそう思うの?」
「いや、前からなんとなく思ってたんだ。初めて見たときから、どこかで会ったことあるような気がする、って。今、それがどこだか思い出した。……まだ子供だったし、てっきり野郎だと思い込んでたから、確かめもしなかった。風呂と着替え貸して。……あれって、おまえだよな?」
「……さあ、どうかな。よく覚えてない」
「覚えてない訳ねえだろ! あんなところでずっと雨に打たれてて、オレが拾ってやらなかったら死んでたぞおまえ! なあ、いったいなんでそんなことになってたんだ? ぜったい普通じゃなかったぞあれは!」
 祥吾が大河と会ったときの状況がだいぶ詳しく飲み込めてきた。ここから先は賭けのようなものだ。
「……今とおんなじ。受験勉強で疲れてて、何もかも嫌になってたの。ほら、うちの高校、ランクめちゃくちゃ高いから」
 祥吾が目を見開いてあたしをまじまじと見つめていた。
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幻の恋人10
 でも、あたしはどうしてもあと1回、祥吾に会わない訳にはいかなくなってしまっていた。
 サエは受験生で、両親と姉との4人家族。最近祥吾とばかり会っていて、勉強が進んでいないことを、サエは両親に知られてしまった。姉の免許証を無断で持ち出していたこともバレてしまった。そういう筋書きを立ててしばらく会えないと電話をしたのだけれど、祥吾は納得してくれなかったんだ。
 散々ごねられた挙句、学校の校門や塾の入口で待ち伏せするとまで言われて、日曜日なら少しだけ時間が取れるかもしれないとあたしは呼び出しに応じた。あたし自身は少し怒っていたのだけど、こういうときサエなら怒ったりはしない。少し待ち合わせ時間に遅れて走っていくと、祥吾が笑顔で迎えてくれたのが判った。
「遅れてごめんなさい! 出掛けにお父さんに止められちゃって。友達と買い物に行くんだって言っても信じてくれなかったの」
「ったく、おっせーよ。オレ、今でもちょっとは有名人なんだからな。あんま待たせんな」
「ごめんなさい」
「もういって。お、言いつけ通りスッピンできたな。やっぱこっちのほうが綺麗だよおまえ」
 そう笑顔で言ったあと、祥吾は少し照れたように目を伏せて、あたしの腕を掴んで歩き始めた。祥吾と会うのはいつも夕方、ほとんど日が落ちかけているときが多かったのだけど、今日は午後4時の待ち合わせでまだ十分に日が高い。いつもお金のない祥吾はお店に入るにしてもほとんどファーストフードで、でも今日あたしを連れてきたのは駅前のちゃんとした喫茶店だった。視線で疑問を投げかけても、祥吾は大丈夫だという風にあたしの肩を押して入口をくぐった。
 店の中は静かで、冷房が程よく効いていた。ああ、そうか。祥吾はあたしが走ってきたから、できるだけ早く休ませてくれようとして、この店を選んだんだ。付き合っているうちにあたしにも判っていた。祥吾がそうして、強引な中にも気遣いを持って人に接しているんだ、って。
「何でも好きなもの頼めよ。今日はメンバーからカンパせしめてきたから、未だかつてない金持ちになってるんだぜ、オレ」
 あたしは笑顔でうなずいたけど、それはもしかしたらサエではなくて、あたし自身の笑顔だったのかもしれない。
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幻の恋人9
 美幸とのアパートに帰るとほっと息がつける。ずいぶん慣れてきたけど、やっぱり人間の血管だらけの顔をずっと見続けているのは緊張するから。少し遅れて帰ってきた美幸に、あたしはこれまでの祥吾のことを簡単に報告した。
「もしかして、少し疲れてる?」
「……うん、少しだけ。サエが明るすぎて、あたしとぜんぜん違うから」
 本当はもう少しクールな感じの女性を演じたかった。でも、祥吾が意外に子供で、あたしも引きずられたようなところがある。実際この1週間で、あたしと祥吾は5回も会っていた。それだけの時間ずっと明るい女の子を演じているのは正直疲れると思う。
「祥吾が一二三に深入りするのはちょっと困るね。今からでも少し距離を置くようにした方がいい。場合によっては記憶操作が必要になるかもしれないから。とりあえず、誰かに引き合わされたとか、そういうことはない?」
「それはないよ。どちらかっていうと、バンドのメンバーともできるだけ接触させないようにしているみたい」
「……それは、ある意味都合がいいとも言えるけど、別の見方をするとものすごく都合が悪いとも言えるな」
 美幸の意味深な言い方に、あたしは首をかしげた。ちらりと上目遣いであたしを見た美幸が、見ようによっては少しすねているように見えて、あたしは驚いてしまった。美幸はいつも落ち着いた表情をしていて、17歳の肉体年齢よりもずっと大人に見えていたから。美幸でも子供っぽい顔をすればちゃんと17歳に見えるんだ。
「美幸?」
「なんでもない。……君に見とれていて、そのうちにちょっと嫌なことを想像して、独りでムカついていただけだから」
 あたしがたった6年、美幸以外の人の顔をまともに見られないだけで、こんなに疲れる。美幸はあたしがいない長い時間、ずっと誰の顔もまともに見えなかった。きっとあたし以上に美幸は、まともに見えるあたしの顔を見てほっとしているのだろう。
「とにかく必要以上に接触しない方がいいね。できれば満月の夜まで会わないでいてほしいよ。その方がタイミングも掴みやすいし」
 美幸の言うとおりだと思う。満月までのあと1週間、1度も会わなければ、呼び出したときにはどんな用事があってもくるだろう。満月の木曜日がライブの日と一致しているのも幸運だった。今の状況なら祥吾を呼び出すのはさほど難しくないかもしれない。
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幻の恋人8
「名前、なんての?」
「本名? それともハンドルネーム?」
「なんだよそれ。本名名乗る気ねーの?」
「そんなことないよ! あたし、サエコ。秋葉サエコ」
「サエコか。だったらサエでいいな。……少し待ってられるか?」
「ごめんなさい。あたし、今日まさか祥吾本人に声かけてもらえるなんて思ってなかったから。……もう帰らないとうちヤバくて」
 適当なことを言いながらバッグを引き寄せる。初日にしてはなかなかいい成果だと思う。極端な話、ここで名前を覚えてもらえさえすれば、あとはどうにでもなるんだ。当日に偶然を装って近づくこともできるから。
「ふうん。そんじゃ、ケータイ教えて。あとで電話するから」
 これは逃げられないだろうな。あたしはそのへんにおいてあったコースターに番号を書いて手渡した。そのあと挨拶もそこそこにライブハウスを出て、帰り道を歩いているときに電話が鳴った。なんか期待した以上に反応がいい。
 その日以降、あたしは頻繁に祥吾に呼び出された。高校3年生のサエは夏休み、日中は学校と塾の夏期講習を受けている。だからサエが祥吾に会いにこられるのは夕方以降で、夜もそれほど長い時間はいられない。あたしは祥吾がすぐにサエに飽きるだろうと思っていた。でも、意外にも祥吾は、ここまで制約の多いサエを呼び出すのをやめなかった。
「 ―― おまえさ、もうライブに来なくていいからさ、化粧やめろよ。ぜんぜん似合ってねえ」
「えー? なんでー? あたし祥吾が歌ってるところ見たいよ。だって歌ってる祥吾が大好きなんだもん」
「だったらお子様スペースの方にしな。あそこは学生証で入れるから。とにかく、オレと会う時は化粧禁止。ついでに会ってない時も禁止」
「祥吾ってオーボー。あたし、少しでも綺麗な自分で祥吾と会いたいのに」
「おまえ、綺麗じゃん。オレ、サエは素顔の方がゼッテー綺麗だと思う」
 血管まみれの祥吾の顔が、少し照れたように笑ったのが判った。もしかしたら祥吾はサエを好きになりかけているのかもしれない。
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幻の恋人7
 2人目の宿主のことを、美幸はミュージシャンだと言った。どうやらロックバンドのヴォーカルをしているらしい。週に2回、駅近くのライブハウスで歌っていて、そこそこ固定客もついている。でも傍目にはフリーターとニートの中間くらいにしか思えなかった。
 この人は今月で36月目。もしも今回失敗しても、次の満月で種が活動する前に取り出してしまえば被害者は出ない。だけどあたしはできるだけ早く片付けてしまいたかった。大河は毎月宿主を生み出しているんだから。月に1人ずつ処理していたら、一生大河には追いつけないんだ。
 数日間だけ尾行してライフサイクルを把握したあと、あたしはそのロックバンドが出る日を狙ってライブハウスへ行った。少し大人っぽく見えるように化粧して、奥のテーブル席に座る。祥吾という名前のヴォーカルの声はそれなりにいいと思った。それ以外にも褒められるところがあればもっとよかったのだけど。
 同じテーブルに座って、祥吾の歌の歌詞に出てくるカクテルを注文し続けたあたしに、祥吾は3回目で声をかけてきた。
「もしかしていつもオレのこと見てない?」
 ステージが終わって、高校生くらいの若い子達が帰ったあと、いくぶんおとなしい服装に着替えた祥吾が向かいの席に座る。あたしの返事を待たずに自分の水割りを注文した。20歳だと聞いていたけれど、もっと前から飲んでいそうな雰囲気だ。
「声がいいと思ったの。それに、少しだけ目つきが好みかな、って」
「……君、いくつ? もしかして20歳前?」
 あたしの声と仕草で年下だと感じたのだろう。美幸なら、声色を自在に変えて社会人に見えるくらいにはやってのけるけど、未熟なあたしにはまだそんな芸当は無理だった。もともとの身体が15歳だから、よほどうまく演技しないことには成人女性には見えないんだ。
「18。だけど黙ってて。バレると追い出されちゃうから」
「いいけど……よく入れたね。だってここ、入口で証明書って言われるだろ?」
「お姉ちゃんに免許証借りてきたから。けっこうバレないよ。……祥吾に会いたかったんだもん」
 方針転換。甘えるような流し目で見て、反応をうかがう。長い足を組み替えた祥吾にあたしはいい感触を持った。
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幻の恋人6
 美幸は1年先輩の2年生で、4月にあたしが通い始めた高校に転校してきた。生徒会で同じ役員を務めていた夏、あたしは美幸に告白された。自分に自信がなかったあたしに美幸は、「僕は一二三ちゃんが一二三ちゃんだから好きなんだよ」って言ってくれた。
  ―― 僕が好きなのはかわいい女の子でも、明るい女の子でも、しっかりした女の子でもない。例えば一二三ちゃんがこれからどんな風に変わっていっても、一二三ちゃんに姿も声も性格もそっくりな女の子がいても、僕は一二三ちゃんが好きなんだよ ――
 美幸のその言葉で、あたしは幸せな未来を思い描いた。ずっと美幸を追いかけて、学校を卒業して、やがて結婚してあたたかい家庭を作る。広田の恋人のあの子のように、輝いた笑顔で美幸と過ごしていられる、って。あたしに未来を信じさせてくれたのは美幸だった。
 どうして美幸は、あたしにあんなことが言えたんだろう。あのときよりもずっと前から、美幸には未来なんかなかったのに。
 この6年、あたしはずっと訊けずにいる。美幸がどんな未来を思い描いてあたしに告白なんかしたのか。最初からあたしを美幸と同じものにするつもりでいたのか。それとも、あの告白は本気じゃなくて、1年も経った頃に平然とあたしを捨てるつもりだったのか。
 あたしは変わってしまった。変わってしまったあたしを、美幸はまだ好きでいてくれるのか。
「……明日から、2人目を尾行してみる。時間がないからすぐに接触するかもしれないけど」
「そうだね。でもあせらないで。そっちは無理そうなら来月に回してもいいんだから」
「判ってる。……美幸も気をつけて」
 やさしく微笑みかけてくれる美幸に、あたしは微笑み返すことができない。ずっと変わらず笑顔をくれる美幸に、あたしは笑顔さえあげることができない。美幸のことが好きだって、伝えることもできない。
 きっと、失うことが怖いのだと思う。美幸にはあたしを変えてしまったことに対する負い目がある。だから、たとえもうあたしを好きでなくなっていても、あたしを捨てることができない。あたしが不幸でいるうちは、美幸はずっとそばにいてくれる。
 あたしが変えてしまった大河。あの子を追いかけているうちは、美幸はあたしのそばにいてくれる。だったらもしもあの子を追い詰めて、これ以上種が広がらないようにできたのなら、美幸はどうするのだろう。それでもあたしのそばにいてくれるのだろうか。
 どんなにあたしが変わってもずっと好きだと言ってくれた、美幸のその言葉が、今のあたしが信じたくて信じきれない言葉だった。
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幻の恋人5
 それからきっちり1週間、あたしは1人目の会社員を尾行し続けた。広田という会社員は今は恋人がいる。20歳を超えたくらいのかわいい感じの人で、不規則な仕事がお互いに早く終わったときには2人で夕食をとり、週末は必ずと言っていいほどデートしている。あたしたちは大河とのブランクが3年もあるから、この3年のうちに宿主に恋人ができたり結婚したり、そういうことはけっこう多いんだ。今のこの人を満月の夜に呼び出してキスするのはかなり大変かもしれない。
 次の満月は木曜日。もしもデートの最中に広田に根付いた種が活動を始めたら、このかわいい恋人を死なせてしまうかもしれない。あたしにその顔は見えないけど、かわいい仕草と声を持っていて、信頼し切ったように広田に寄り添うこの人。万が一この人が死んでしまったら、それが自分のしたことだと知ってしまったら、広田も深い傷を一生背負ってしまうだろう。
 予定の1週間を終えた日の夜、あたしと美幸はアパートでお互いの情報を交換し合った。
「 ―― 確かに恋人がいるのは厄介だね。その恋人がデートにこられない日は広田はどう過ごしているの?」
「独り暮らしだから、夕食はコンビニ弁当やファミレスで済ませてるみたい」
「だったらその隙を突くしかないか。……一二三、人間の精神を操ることはまだできない?」
 美幸に訊かれて、あたしは目を伏せて首を振った。吸血鬼は人間を食べる。そのための能力として、人間の精神を操る力も備わってるんだ。ふつうは人間の目を見て精神を操るけど、美幸くらいになると眠っている人間でも自在に操ることができる。羽佐間君の記憶を消したのもこの能力の応用だった。
「それじゃ、僕が裏から手を回しておくよ。満月の夜、恋人が仕事でデートに行けないように。そのくらいたいした手間じゃないから」
「ありがとう。……ごめんなさい」
「謝らなくていい。君は新米で、僕はベテランなんだから。できないと思うことは遠慮なく僕に任せて」
 見上げると、誰もが見惚れるほど綺麗な美幸の優しい笑顔があった。……そうか、あたし、羨ましいんだ。広田の恋人は、あたしが普通に生きていればちょうど同じくらいの年。好きな人の腕に絡み付いて、幸せな笑顔を振りまいて、あたしもあんな風でいたかった、って。
 初めて美幸と出会って、過ごした半年間のことを、あたしは今でもはっきりと覚えている。
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幻の恋人4
 5年前に初めて出会って、そのあと殺してしまったと思い込むまでの数週間、あたしは1度も大河の顔を見たことがなかった。顔が見えない大河といるとほっとできた。なぜならあたしの目は、普通の人間の顔を普通に認識することができなくなっていたから。
 人間には見えない波長の光を、あたしたちの目は捉えることができる。その理屈はあたしにはうまく説明できない。人間の血液を食料にするあたしたちは、身体に流れている人間の血管を正確に見ることができるんだ。もちろん人間の顔にも血管は無数に走っていて、皮膚の上にそれが透けて見えるような状態だから、6年前に変化を終えて目覚めたあとのあたしは軽いノイローゼになっていた。
 大河はけっして自分の顔を他人に見せなかった。14歳の少年だった大河は常に仮面をつけていて、だからあたしは大河の顔を1度も見たことがない。今、あたしが宿主の前に姿を現わすと、高い確率で「以前に会ったことがある」と言われる。大河の元の顔は判らないけど、きっと大河もあたしと同じ吸血鬼の特徴を持った顔に変わっている。
 宿主のことを調べると、3年前の大河がどんな生活をしていたのが、おぼろげにでも知ることができる。人間という食料を得るために大河は夜の繁華街で援助交際のようなことをしているのだろう。声変わりもまだだった大河は女の子の振りをしているのだと思う。だから3人目の宿主が2人の子を持つ32歳の主婦だというのは不思議な気がした。
「大河、趣味変わった?」
 今までは大人の男の人が多かったんだ。しかも回りに「顔がいい」って言われているような人。もちろん人間の顔がちゃんと見えないあたしには確認できないんだけど。
「趣味の問題なのかな。ただ、主婦はけっこう引っかかりやすいよ。僕も以前はかなり助けられたから、理由があるとすればこっちかな」
 種のことが起こる前の美幸を思い出して、あたしは顔を伏せた。あたしが人間でいるときも、この身体になってからも、美幸は満月の夜には女性とホテルに行っていた。たぶん美幸には少しの罪悪感もないのだろう。軽く口に出すその一言が、どんなにあたしを傷つけてるのかなんて、想像すらできないのだろう。
「……それじゃ、あたしが1人目と2人目、美幸が3人目でいいよね。……さっそく行動範囲調べてくる」
 顔を伏せたままそう言って、あたしは今ではたった1人まともに見える美幸の顔を再び見ることもなく、アパートを出て行った。
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幻の恋人3
「 ―― 羽佐間君のことを好きだった? 懐いていただけじゃなくて?」
 美幸があたしの背中に問いかける。布団に寝転んで夏掛けをかぶったまま、あたしはかぶりを振った。どうしてそんなことを言うの? あたしには美幸しかいない。あたしが美幸以外の人を好きになる訳なんてないのに。
「羽佐間君が原因なんじゃないの? 一二三が落ち込んでいるのを見るのは僕もつらいよ」
「……大丈夫。落ち込んでなんて、ないから」
「そう、ならいいんだけど。……気がまぎれるなら学校へ行く? この近くにもあるよ。あの学校のような、エスカレーター式の私立学園」
「大丈夫。ほんとに大丈夫だから」
 美幸は優しい。でも判ってくれない。学校へ行ったら、あたしは山崎一二三と呼ばれるの。山崎美幸の妹だ、って。
 周囲のクラスメイトに美幸はあたしを「僕の妹だ」って紹介する。あたしは美幸を「あたしの兄」と呼ぶ。兄妹の振りをしていた方が便利なのは判ってる。だけど、あたしはそう呼ばれて平気でいる訳じゃない。
 それとも、美幸はもう、あたしのことなんか好きじゃなくなってる? 5年前、あたしが大河に種を植え付けたときから。
 あたしはようやく布団から起き上がって、覗き込んでいる美幸と目を合わせた。
「もうすぐ学校は夏休みだって、美幸忘れてる。……そんなことより、調査、してきてくれたんでしょ? 宿主はどんな人だったの?」
「ああ、1人は27歳の会社員。2人目は20歳のミュージシャン。3人目は2人の子供を持つ主婦だった。彼女は僕に任せてくれていい」
 1人が女性なら、もしかしたら次の満月のうちに3人とも片付くかもしれない。あたしは一晩に2人までなら何とかなるから。
 彼らは大河の種を身体に宿している。このまま放っておくと、37月目の満月の夜に殺人を犯してしまうんだ。あたしは大河の種の宿主から種を結晶化して取り出すことができる。美幸にも同じことができるけど、大河と近い血を持つあたしの方が楽に取り出せる。だから本当は美幸に負担をかけたくないんだ。宿主が女性のときは、しょうがないから協力してもらってるけど。
「とりあえず会社員が優先だね。彼は今月37月目を迎えるはずだから。気分が落ち着いたようなら詳しい資料を見せるよ」
 あたしは布団を抜け出して、美幸が資料を広げたテーブルを覗き込んだ。
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幻の恋人2
  ―― 吸血鬼
 そう、この世界には、あたしたちの存在をたった一言で言い表すことのできる言葉がある。人間の生き血をすすり、並外れた肉体能力と美貌を持ち、永遠の命を生きる。太陽の光を嫌い、十字架を恐れ、闇の中に隠れ棲む。けっして忘れることのできない残酷な言葉。
 人に災いをなす鬼の名前を与えられているのもとうぜんだと思ってる。だって、あたしたちは人間を「食べる」のだから。自分を食べる生物を受け入れることなんかできるはずはない。1度食料として見て、見られてしまったら、そこに友情や信頼が入り込むことはできない。
 確かにあたしたちは人間の生き血をもらわなければ生きていけない。月に1度、満月の夜にあたしたちは「餓える」。もしも食料が手に入らなかったら、餓え続けたあたしたちはやがて発狂する。そのあとどうなるか試した人はいない。
 あたしたちは、並外れた肉体能力を持っている。脚力、ジャンプ力、腕力などすべて人間をはるかに凌駕する。それと凄まじいほどの治癒力。その代わり、人間のときに持っていた生殖能力は失われた。
 人間はあたしたちを見て美しいと感じる。あたしの顔は、人間でいたときとはまったく変わってしまった。全身からほくろやアザ、傷跡が消えて、知っている人が見ればひと目で「吸血鬼」だと判る特徴を持つ顔つきになった。まったくの他人であるあたしと美幸とが似ているのはそのせいだ。もしも人間でいたときのあたしの知り合いと道で偶然すれ違っても、もうあたしだと気づかれることはないだろう。
 美幸に変化を促されたあのときから、あたしは成長を止めた。もう6年近く経つから、外見は15歳でもあたしは21歳になっている。
 太陽の下で活動できない訳じゃない。でも、夏の直射日光は以前より苦手になった。十字架もニンニクも怖くないけれど、人間でいたときよりも食事の量は少なくなった。それでも人間で小食だといえるほどのレベルだけど。
 1つだけ、人間の伝承と明確に違うことがあるとすれば、「吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になる」というものだ。血を吸うだけならあたしたちは人間を吸血鬼に変えたりはしない。美幸があたしに施したように、明確な意思を持って変化を促さない限り、人間は吸血鬼に変わったりしない。
 だけど物事には必ず例外がある。あたしは5年前のあの日、自分ではまったく気づかないうちに、大河(たいが)を吸血鬼に変えてしまった。それも、人の血を吸うたびに殺人の種を蒔いていくという、恐ろしい吸血鬼に。
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幻の恋人1
 両腕にぐっと力を入れて、あたしは背後からその人の肩を押さえる。震えた首筋に見えるのは太く浮いた血管。人間の可視波長では見ることができないものが、今、餓えた状態のあたしにははっきりと見ることができる。
 あたしが押さえている人の向こうには美幸(よしゆき)がいる。美幸はおびえた様子のその人に話をしながら徐々に近づいてきて、やがてその人を抱くようにがっちりと捕まえた。あたしの両腕にも美幸の重さがかかる。そのまま美幸はその人の首筋に唇を寄せて ――
 その人の喉からかすかな声が漏れる。それは聞き逃すことができない、あたしと美幸に永久にかけられた枷の名前。
「吸血鬼……」
 その言葉を聞くたびにあたしの身体に震えがくる。自分が目の前の、さっきまでクラスメイトとして共にすごしてきたその人とはまったく違う存在なのだと思い知らされる。なぜならあたしには、その人が既においしそうな血を持った食料にしか見えなくなってるんだから。
 その呟きが聞こえなかったのか、それとも聞こえなかったふりをしているのか、やがて美幸はその人のぐったりした身体を解放した。
「一二三(ひふみ)も食べておくといいよ。彼、意外に健康だから、2人分の血を抜いてもたぶん大丈夫だと思う」
 あたしはうなずいて、背後から彼の首筋に唇を触れた。彼の健康な血液があたしの餓えた身体と心を共に癒していく。でもそのあとに襲ってくるのは後悔と罪悪感だ。彼はあたしを信頼して、真夜中こんなところまでついてきてくれたのに。
 空腹だった今までとは比べ物にならないほど感覚が鋭敏になってくる。あたしは遠くに、あたしと同じ血を持つものを感じて顔を上げた。
「……北にいる。3人。それほど遠くないみたい」
「そう、それじゃ、一二三はすぐに追って。僕は羽佐間君の記憶処理と後始末をしてから追いかけるから」
「……羽佐間君は、誰にもしゃべったりしないよ」
「信じていた人に捕食対象にされた記憶だよ? 自分が食べられたときの記憶なんて、持っていたら不幸だよ」
 判ってる。あたしにだって判ってる。だけど羽佐間君はあたしを信じてくれたの。あたしはあたしを信じてくれた人に忘れられてしまうのが嫌だった。たとえそれが必要だって判ってたって。
 美幸があたしの肩を押して促す。あたしは黙ったまま、すべてを振り切るように首を振って、その部屋を飛び出していった。
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あとがき
 このお話は、今から10年以上前に書いた「桜色迷宮(仮題)」というお話をベースに、まったく新しい設定を加えて書き始めた物語の第1作目です。
 今作「満月のルビー」での主人公(語り部)は羽佐間君なんですけど、実は「桜色~」での主役は山崎先輩(ヨシユキ)でして。
 彼が山崎さん(ヒフミ)が通う高校に転校してくるところから始まるお話だったんですね。
 そんな訳で、作者に名前すらつけてもらえなかった羽佐間君は、この第1作目で消える運命の主人公だったりします(笑)

 最近の黒澤は一人称を主体に物語を書いているので、7月初め頃にこのお話をリメイクしようと思ったとき「さて、いったい誰を主人公で書こうかしら?」とちょっと悩みまして。
 設定全体を把握しているのはヨシユキなんですけど、彼はこの時点ではかなり達観した人物なので、一人称の主人公にはあまり向いていないんですよ。
(一人称の主人公は「一般的に共感しやすい悩みを持った成長型キャラ」が書きやすいです。ヨシユキにも悩みはありますが、彼の悩みはかなり共感しづらいので・笑)
 性格的に1番向いているのがヒフミだったんですが、困ったことにこの子は「超がつく美少女」だったりするんですよね~。
 美少女で、しかも自分の容姿にコンプレックスを抱いているタイプの子だと、一人称にした場合にこの「突出した容姿」がまったく伝わらなくなる可能性がありまして。
(だって自分の説明をするときに「あたしは人によく美少女といわれて」なんて書いてあるとめちゃくちゃ嫌味だし・爆)
 それにヒフミ1人で物語を語らせるのもかなり無理があったので、「よし、思い切って語り部持ち回り制にしちまおう!」なんてことを考えた黒澤は、1作目では主筋にまったく関係のない「羽佐間」なる少年を語り部にして、外側から見た2人のことを描写することにしたんですね。

 とはいえ、実際に書いてみた羽佐間君はなぜか冷めてる高校生だったので、読者の皆様が共感できたかどうかは微妙な感じになってしまいました。
(この人も「沈着冷静な美少年」なので主人公には向かないキャラですね。うちの小説にはよく出てくるタイプですけど;)
 まあ、彼はシリーズの主人公ではないので、このくらいの露出度でちょうどよかったんじゃないですかね~。
 次のお話ではヒフミの一人称で書いていきますので、内気で病弱な美少女の山崎さんが実はどんなヤツなのか、どうか楽しみにしていてくださいませ。
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