2002年09月の記事


続・祈りの巫女70
 タキの話にはなるほどとうなずいたけど、それはあたしが知りたいこととはちょっとだけずれていたから、あたしは一言、そうね、とだけ返事をして、再び日記に目を落とした。日記は物語よりもずっと長かったから、あたしはジムとアサの名前だけを拾うようにして次々ページをめくっていく。3年目になるとだいぶ長い文章も出てくるようになったから、たぶんセーラはこの頃になってやっと日記を書くことに慣れてきたんだ。この頃のセーラの主な日課は、午前中は先輩の巫女や神官にさまざまなことを教えてもらって、午後は村へ出かけていろんな人たちと話をして、夕方神殿で祈りを捧げる、っていうのが多かったみたい。その日おもしろかった勉強のことや、興味深い話をしてくれた人の話が時々書いてあって、そういうものが何もなかった日の日記は「いつもとおなじだった」で済ませていた。
 ジムとアサの話はなかなか出てこなかった。物語では13歳のセーラはもうジムに夢中だったはずなのに、14歳になってもセーラの日記にあんまりジムの名前は出てこなかった。時々出てきても「今日はジムに光の届かない深い森での方角の見分け方を教わった」とか、「毒キノコを籠に入れてジムと喧嘩した」とか、あんまりジムに恋をしている感じの文章じゃなかったんだ。
「ジムとの恋の経緯があんまりないのね」
 あたしが呟くと、今まで黙って見守っていてくれたタキが答えた。
「もうちょっとあとの方になるとけっこう出てくるよ。おもしろくないなら飛ばしたら?」
「それならいいわ。あたし、できるだけ飛ばしたくないの。セーラの小さな変化を見逃したくないから」
 そうなんだ。セーラは日記を人に読ませるためになんか書いてないんだもん。物語ほどおもしろくなくてあたりまえなんだ。あたしが知りたいのはセーラの真実なんだから。本当のセーラはいったいどんな気持ちで毎日を過ごしていたのか。今まで読んだところだけでは、それはあまりよく判らなかったけど。
「ねえ、タキ。もしも退屈ならタキは自分の勉強をしてていいわよ。だいぶ言葉の意味も判ってきたし、1人でもちゃんと読めるから」
 タキは少し考えていたけれど、やがてふっと微笑んだ。
「そうだね、祈りの巫女の邪魔になっても悪いし、隣の部屋で仕事をしているよ。判らないことがあったら遠慮なく呼んでね」
 タキはそう言って、おそらく仕事に必要な本と道具を持って、隣の作業部屋へ引き上げていった。
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続・祈りの巫女69
 2代目祈りの巫女のセーラが日記をつけ始めたのは、あたしの時と同じ、巫女の儀式を受けたその日からだった。その記念すべき日の日記から読み始めたんだけど……。この頃のセーラって、たったの1行しか書いてないの。最初の日は「これから毎日こんなの書くなんてかったるい」だった。
「ねえタキ、かったるい、ってどういう意味?」
「うーん、面倒とか、疲れるとかいう意味かな」
「セーラは日記をつけるのが嫌だったのね。次の日のこれは?  ―― ジムのクソッタレ」
「この日はジムと喧嘩でもしたのかな。クソッタレは相手を罵倒する時の言葉だよ。普通女の子が使う言葉じゃない。セーラの日記にはよく出てくるけど、この言葉を物語の中でどう訳すか、オレたちの中でもけっこう議論になったね。 ―― オレたちだって、祈りの巫女に変な言葉を覚えて欲しくなかったし」
 タキは苦笑しながらそう話してくれた。物語は当時の神官が書いたものだけど、中に出てくる言葉は書き直すたびに現代の言葉に置き換えられてて、当時そのままの文章じゃないんだ。そういえば物語のセーラはあんまり口汚い言葉を使ってなかったっけ。それって、タキたち神官があたしに変な言葉を覚えて欲しくなかったからなんだ。
 最初の1年くらいはずっとそんな感じで、日記を読んだだけではその日セーラにどんなことがあったのか、ぜんぜん判らなかった。1年を過ぎる頃にようやくまともな文章も出てくるようになって、でも5行とか3行とか、セーラの気持ちの手がかりになるようなことはあんまりなかった。
「よくこんな日記であの物語を書くことができたわね」
「こういう文章でも、オレたちにはすごくいろいろなことが判るんだよ。例えば『今日は午後アサがヤクの実を届けにきた』ってあるだろ? ヤクの実はこの当時、神官が山へ採りに行ってたんだ。まとめて採ってきたヤクの実をそれぞれの宿舎に配って、各自で精製して油にしてた。今はヤクの実は村で栽培して、宿舎では精製された油を受け取ってるだろ? こんなセーラの日記だって、当時の生活を知る大切な手がかりになるんだ」
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続・祈りの巫女68
 ランドは宿舎までちゃんと送ってくれたから、あたしはランドにきちんとお礼を言って、部屋でまだ寝ないで待っていてくれたカーヤにも簡単に報告した。カーヤはそのまま眠ってしまったけど、あたしはカーヤを起こさないように1人で準備をして、神殿でリョウの無事を祈ったの。北の山へ行ったのなら、リョウはそんなに早くは帰ってこないから。山へ入るだけで2日、3日目から北カザムの群れを探し歩いて、ものすごく運がよくて早く狩りが成功しても往復5日はかかるんだって、ランドは話してくれたんだ。リョウは北の山に入るのは初めてだったから、群れの位置がそんなに早く判るとも思えないし、たぶん10日くらいは帰ってこないだろうっていうのがランドの予想だった。
 あたしは、リョウの狩りの成功は祈らなかった。ただ、リョウの無事だけをずっと祈りつづけた。狩りが早く成功すればそれだけ早く帰ってきてくれるけど、成功するかしないかはリョウの問題だったから。リョウは自分の力を試しに行ったんだ。だからあたしはそれを邪魔しちゃいけない。ランドも、夏の初めのほうが真夏よりもずっと狩りがしやすいんだって教えてくれたから、あたしはリョウを信じて待っていることにしたの。
 でも、リョウが本当に北の山に行ったのか、それともこの村から出て行ってしまったのか、心の片隅であたしは疑っていた。どうしてリョウは何も言わないでいなくなったんだろう。北の山へ行くんでも、村から出て行くんでも、ひとことあたしに言ってくれたらこんなに心配しなくて済んだのに。
「 ―― どうしたの? なにか心配事?」
 気がつくと、そこは神殿下の書庫で、あたしはタキに顔を覗き込まれていた。今日からあたしは、セーラの日記をタキに読ませてもらっていたんだ。
「あ、ううん、なんでもないの。ちょっとボーっとしちゃったみたい。ごめんなさいタキ」
「オレのことはいいんだけどね。もしかして祈りの巫女、昨日ちゃんと寝てなかった?」
「ちょっとだけ夜更かししちゃったの。でも大丈夫よ。続けましょう」
 タキはそれ以上訊かなかったけど、ちょっといぶかしそうにあたしを覗き込んでいた。
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続・祈りの巫女67
 帰り道はランドに送ってもらえることになって、月明かりの中ランプを照らしながら、ランドと並んで歩いていった。あたしは黙ったままで、ぜんぜん話をする気力が出てこなかった。リョウが、あんなに毎日話しにきてくれたのに、肝心なことは何も話してくれてなかったんだって判ったから。リョウにとってあたしは、恋人はおろか、対等に話ができる人ですらなかったんだ。
 やがて、沈黙に耐えられなくなったのか、ランドが話し掛けてきた。
「なんだかユーナを見てたら、ミイと付き合ってた頃のことを思い出したよ。……なあユーナ、ミイって美人じゃないだろ?」
 ……あたし、時々ランドのこと信じられないよ。なんで自分の奥さんのことそんな風に言えるわけ?
「どうしてそんなこと言うのよ。ミイはすごく素敵な人じゃない」
「いや、ミイは美人じゃないんだ。あの頃オレに気があった女の中でいちばん美人じゃなかった」
 そう断言されちゃったから、あたしはそれ以上何もいえなかった。
「ミイは、オレがもらってやらなかったら、もしかしたら売れ残っちまってたかもしれないんだ。オレはあの頃がいちばん必死だったな。早く一人前になってミイをもらってやらなきゃって、本気で狩人の仕事に打ち込んで、必死で腕を上げてた。だってな、オレが結婚するって言って、もし回りに、まだおまえに結婚は早すぎる、って言われたら、最低あと1年は結婚できなくなっちまうんだ。そんなことになったら、ミイは他の男のところに嫁に行っちまうかもしれないじゃないか。オレ、それが無性に嫌で。死に物狂いで仕事して、まわりに一人前だって認めさせようとしてた」
 ……そうか、ランドが言う「美人じゃない」って、別にミイをバカにしてる訳じゃないんだ。ランドはちゃんとミイのことを愛してるんだ。口ではいろんな悪口も言うけど。
「ユーナ、リョウもな、もしかしたら本気で焦り始めたのかもしれないぜ。リョウは今でもなかなか腕のいい狩人だが、まわりが認めるのはやっぱり、北カザムの夏毛皮を今年何枚取ってきた、なんていう実績だからな。毎日おまえを見張ってるだけじゃダメだと思ったんだろ。 ―― どんなヘチャだって、年頃になればそれなりに綺麗になるもんだからな」
 そんな、ランドの余計な一言で、あたしは思わずランドをうしろから殴り倒しそうになっていた。
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続・祈りの巫女66
 ランドに黙って聞くように言われたからだけじゃなくて、あたしはもう口を挟むことができなくなってしまっていた。ランドの話は今まであたしが1度も聞いたことのない話で、だから理解するだけで精一杯だったの。
「北カザムってのは、寒いところが好きでな。冬から春にかけてはこの村の近くでも見られるんだが、夏が近づくと北の山の上の方に移動しちまう。しかも、春と秋に抜け毛の時期があって、毛皮の質が変わっちまうんだ。だから、北カザムの夏毛皮ってのは希少価値が高くて、冬毛皮の3倍くらいの値段がつくんだ。同じ北カザムを1頭狩るなら、誰だって夏毛皮の方が効率がいいことは判るよな。そこでオレたち狩人はみんな、毎年夏になると何日か村を離れて、北カザムの群れを追って北の山に入るんだ。……前置きが長くなっちまったが、要するにリョウも、今年は北カザムを追うことにしたんだと思うぜ。あいつもとうとう本気になったってことだ」
 そう、ランドが言葉を切って、テーブルの上のお茶を一気に飲み干した。あたしも1口お茶をいただいて、お茶と一緒に何とか話を飲み込むことができた。狩人は、毎年夏になると北の山に北カザムを狩りに行くんだ。リョウは今まで1度も行ったことがなかった。もしかしたらリョウは、あたしと毎日話をするために、今まで山へ行かなかったの?
「ランド、ランドも毎年行ってるの?」
「だいたい行ってるかな。んまあ、ヒヨッコの頃はそれどころじゃなかったが、リョウの年頃にはもう行ってたぜ。それだけじゃないぞユーナ。狩人の仕事は獣の都合でコロコロ変わるんだ。 ―― ミイ、オレは先月何日くらいおまえと夕飯食ってた?」
 ランドがそうミイに聞くと、ミイはちょっと顔を上げただけで答えた。
「さあ、10日もなかったかしらね。ランドが他の村にもう1つ家族を作ってたって、あたしはぜんぜん驚かないわ」
「とまあ、狩人はこんな風に奥さんにやきもちをやかせることもあるって訳だ。ユーナもリョウと結婚する気があるなら、少しは慣れるんだな。1日や2日帰ってこないくらいでそんなに騒ぐなよ。リョウに恥をかかせることになるんだぞ」
  ―― すごくショックだった。リョウは、あたしと毎日話をするって、ただそれだけのためにすごくたくさんの仕事を犠牲にしてきたんだ。リョウはあたしに毎日話をしてくれたけど、北カザムの毛皮のことも、夜中にする狩があるってことも、何も教えてくれなかった。あたしはそんなことさえ教えてもらえなかったんだ。
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続・祈りの巫女65
 ミイが運んできたお茶を1口すすって、深いため息をついたあと、おもむろにランドは話し始めた。
「ユーナ、塩がどこからくるか知ってるか?」
 突然予想もつかなかったことを言われて、あたしは驚いてしまった。しばらく沈黙があって、どうやらあたしが答えなければランドは話を進める気がないんだってことに気付いたから、しかたなくあたしは答えていた。
「北の山に岩塩の層があるんだって聞いたわ。前に家族で行ったピクニックの時に父さまが言ってたの」
「へえ、意外なことを知ってるな。だけど、今この村で使ってる塩は岩塩じゃないんだ。まあ、オレもそんなには詳しくはないんだが、この村を出てずっと南の方に行くと、水の代わりに塩が溜まった湖があるんだそうだ。その湖の塩を行商人がこの村に運んできてくれて、それをオレたちは料理に入れて食べてる。つまり、いまこの村で使ってる塩は、ぜんぶ他の村からの輸入品なんだ」
 なんだかランドの話はリョウのこととはぜんぜん関係ないみたいだった。あたしが知りたいのは、リョウが今どこでどうしているのか、それだけだったのに。
「それがリョウとどういう関係があるの?」
「まあ、黙って聞きなよ。行商人は他の村からこの村に塩を運んできてくれるが、もちろんタダって訳じゃない。塩と行商人の労力の代わりに、こっちの村からも何かを出さなきゃならない訳だ。でも、他の村にもたくさんあるものを出したって、行商人は喜ばないよな。そこでオレたち狩人の出番になる。この村でしか手に入らなくて、行商人がいちばん喜んでくれるのが、北カザムの毛皮なんだ。この毛皮は他の村でもかなり高い値段で取引されるらしい。……値段て言っても判らないかな。まあ、簡単に言えば、北カザムの毛皮とそこらにいる普通のカザムの毛皮とでは、行商人が交換してくれる塩の量が10倍以上も違うんだ」
「……」
「実際は北カザムの毛皮1枚欲しいがために、行商人は何人かで組んでやってきて、山道を背負って上がってこられるだけの塩と、通貨ってヤツを置いていく。その通貨は他の行商人に渡すと、村で作ったり取ったりできないいろいろな品物になって戻ってくる。つまりだ、オレたち狩人は、村の人たちの食卓を支えると同時に、より豊かな生活をも支えている、って訳なんだ」
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続・祈りの巫女64
 ランドはリョウやあたしの実家の近くに住んでいて、そこはあたしがまだ小さかった頃に新しく建てた家だった。結婚してからもう何年か経つはずだけど、確かまだ子供はいなくて、夫婦で2人で住んでるんだ。ランドの奥さんはミイで、近所では有名なノロケ名人だったの。ランドは外ではミイの悪口ばかり言ってたけど、本当はすごく仲のいい夫婦みたいだった。
 朝が早い農家や子供のいる家の中には明かりが消えている家もあったけど、ランドの家はまだ明かりがついていた。ノックをすると、夜が遅いからかちょっと間があって、ドアの小さな隙間からミイが顔を覗かせた。あたしが持っていた灯りで自分の顔を照らすと、やっと気付いて扉を大きくあけてくれたの。
「ユーナ、どうしたの? こんなに夜遅くに」
「ごめんなさいミイ。ちょっとランドに相談があってきたの。ランドはいる?」
「まあ入ってちょうだい。ランドね、さっきまで起きてたんだけど、もしかしたら寝ちゃったかもしれないわ。今起こしてくるから」
「あ、それならいいわ。明日もっと早い時間に出直してくるから」
「違うのよ。今夜は真夜中に出かけたいからそれまで起きてるんだ、って、さっきまで寝ないで頑張ってたの。ちょうどいいから話し相手になってあげて。帰っちゃ嫌よ」
 そう言ってミイは寝室の方に行ってしまったから、あたしはその間に灯りを消して、さっき転んで汚れてしまったところをちょっとだけ叩いた。ほどなくして寝室から出てきたランドは狩人の仕事着のままで、ちょっと機嫌が悪そうに頭をかきむしっていた。
「なんだ、ほんとにユーナじゃないか。珍しいな。リョウと喧嘩でもしたのか?」
 そう言いながらランドが食卓に腰掛けたから、あたしも隣の椅子に座って言った。
「リョウが家に帰ってないの。昨日も帰ってこなくて、今日もいなかった。今までは毎日帰ってきてたのよ。もしかしたらどこかで怪我をして動けなくなってるかもしれないわ。お願いランド、リョウを探して。リョウを助けてあげて!」
 ランドはふっと顔を上げて、眠くて機嫌が悪いのが明らかに判る目をしてあたしを見つめた。そのあとうしろを振り返って、部屋の隅で繕い物をしていたミイにお茶を頼んだ。そのお茶が運ばれてくるまでの間、ランドは一言も口を利こうとはしなかった。
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続・祈りの巫女63
「今までリョウが2日くらい帰ってこなかったことってなかったの?」
「ないわ。カーヤだって知ってるでしょう? リョウはほとんど毎日あたしの宿舎にきてくれてたのよ」
「そうだったわね、ごめんなさい」
 カーヤは苦笑いを浮かべて軽く会釈をした。今まで1度もリョウが帰ってこないなんてなかったから、あたしはこんなに心配してるの。
「どうしようカーヤ。リョウはもしかしたらずっと帰ってこないかもしれないわ」
「そんなことないわよ。リョウがユーナに何も言わないでいなくなる訳ないじゃない」
「でも! マイラが言ってたんだもん! リョウみたいな子は大人になると村を出て行っちゃうんだって」
「たとえそうでもユーナにはお別れを言っていくわ。それは信じられるでしょう?」
 カーヤに訊かれたから、あたしはリョウのことを考えた。でもリョウがほんとにあたしにお別れを言ってくれるかどうかなんて、今のあたしにはぜんぜん判らなかった。リョウのことが判らなくなっちゃった。リョウのこと、ぜんぜん思い出せないよ!
「ねえ、ユーナ。リョウは狩をしに行っていなくなったんでしょう? だったら、昨日一緒に狩をしていた人とか、ううん、そのとき一緒じゃなくても、同じ狩人の仲間になら、リョウは何か言ってるかもしれないわよ。何も知らなくても行き先の予想くらいつくかもしれないし。もしも本当にリョウが事故に遭って動けなくなってるなら、いなくなってることも知らせておいた方がいいと思う。誰か、狩人の人に知り合いはいないの? その人に相談してみたらどうかな」
 そうか、ランドなら何か知ってるかもしれない。リョウはここに引っ越してくる前はよくランドと飲みに行ってたもの。あたしに話してくれなかったことでも、ランドになら何か話しているかもしれない。
「カーヤ、ありがと! あたし、ランドの家にいってみる!」
 そうしてあたしが再び宿舎を飛び出していこうとしたら、うしろからカーヤに呼び止められたの。
「ちょっと待ってユーナ! ちょっとだけ。今、灯りを用意するから。……こんなに夜おそく他所様の家を訪ねるのに、それ以上汚れたら失礼だわ。家に入れてもらえなくなるかもしれないわよ」
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続・祈りの巫女62
 今日もカーヤは夕食の時間を早くしてくれたから、あたしはまたリョウの家を尋ねていた。でも、リョウは家にいなくて、それどころか家の中は昨日あたしがきた時とぜんぜん変わってなかったの。リョウは昨日は家に帰ってない。そして、今日も1度も帰ってきてない。
 暗くなるまで待っていたのに、けっきょくリョウは帰ってこなかった。リョウを待っている間、あたしはいろいろなことを考えてしまって、しだいに不安になってきていた。あたしと顔を合わせるのが嫌で誰かの家に泊まってるのかもしれない。それならまだいいんだけど、例えば狩りで怪我をして動けなくなってしまったとか、あやまって穴に落ちて誰かに見つけてもらうのを待っているとか。そういえばマイラが、リョウは大人になったら村を出て行くと思ってた、って言ったんだ。もしかしたら、2日前のあの出来事で昔の自分を思い出したリョウは、村にいるのが嫌になってどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。
 そんなことを思ったらいてもたってもいられなくて、暗くなった坂道を駆け上がって、宿舎に飛び込んだ。宿舎の中には驚いて目を見開いたままのカーヤがいた。あたしは何の前置きもしないで、いきなりカーヤに叫んでた。
「カーヤ! リョウが帰ってないの。リョウがいなくなっちゃたの!」
 カーヤはあたしを見てずいぶん驚いたみたい。そういえば坂道で何回か転んだから、服が汚れてたり破れてたりしたのかもしれない。
「落ち着いてユーナ。リョウが家にいないの? まだ帰ってないだけじゃないの?」
「違うの! リョウ、昨日も帰ってないの。リョウは独り暮らしで誰も一緒にいないんだもん。どこかで倒れてたりしても気付いてもらえてないかもしれないよ!」
 あたしがそれだけ焦っていたのに、カーヤはぜんぜん焦ってなくて、あたしはなんだかそれがすごく腹立たしく思えた。のんびりした動作でコップに水を注いで、テーブルのあたしの席に置いて言った。
「まずは水を飲んで。話はそれから」
 あたしは、今までカーヤとは一緒に暮らしてきたから、カーヤがこういう言い方をしたときは、言う通りにするまで何も進まないことが判ってしまっていた。しかたなく、あたしはテーブルからコップを取り上げて、水をぜんぶのみ干した。少しだけ落ち着いたかもしれない。そうして顔を上げると、カーヤはほっとしたように笑顔を見せた。
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続・祈りの巫女61
「最初に生まれた予言の巫女は、自分が生きている時代だけじゃなくて、それから先の、例えば今オレたちが生きている現代のことも予言できたのだと言われてる。予言の巫女には未来が見えたから、この未来のための礎をたくさん築いたんだろうね。彼女の予言によって神殿が作られて、後継者として守護の巫女、神事の巫女、予言の巫女の3人が生まれて、それを補佐する役目の神官の制度を作ったんだ」
 あたしは、自分が予言の巫女の話を忘れていないことをタキに教えたくて、ちょっとだけ口を挟んでいた。
「のちに神事の巫女が祈りの巫女と聖櫃の巫女に分かれて、予言の巫女が運命の巫女と神託の巫女になったのね」
「そう。彼女の偉いところは予言の巫女の位を最下位に置いたことだ。だからのちに予言の巫女が運命の巫女と神託の巫女に分かれたときも、2人の巫女の位順はいちばん最後になってる。古代文字から新しく現代文字が生まれたのもぜんぶこの時代だ。……んまあ、要するに、オレたちはそんな話を神官になる前に聞かされる訳だから、神官は巫女を補佐するためのもの、っていう考え方が、頭に深ーく刻まれてるの。そもそも巫女がいなかったら、神官には存在する意味がないんだ」
 タキの口調には、卑屈になったりするような感じはまったくなくて、むしろ巫女がいることを本当に喜んでいるような、そんな雰囲気があった。神官はずっと昔から巫女を助けてくれているんだ。そして、自分の名前が残ったり、名声が称えられることなんか何もないのに、学ぶことと人の役に立つことが嬉しいからずっと神官でいてくれるんだ。
「存在する意味がないなんて、そんなことはないわ。もしも巫女がいなくても神官はちゃんと村の人の役に立ってるもの」
「そうでもないよ。巫女がいるから神官は昔の書物から自由に学んでいられるんだ。オレはこの村に生まれて本当によかったよ。他の村に生まれてたら、オレもきっと畑仕事かなんかを一生やらなきゃならなかった。この村も、万が一巫女が1人もいなくなったら、他の村と同じように変わっていくんだろうね」
 あたしには、この村以外の村がどんな風なのか知らなかったから、それ以上タキの言葉に反論することができなかった。あたしには知らないことがすごくたくさんあるんだ。他の村のことも、この村のことも、あたしはたくさん学ばなくちゃいけないんだ。
 急だったから、タキはまだあたしにセーラの日記を読ませてもらう許可を取っていなくて、この日は日記を読むことができなかった。
 あたしはタキと明日また会う約束をして、神殿をあとにしていた。
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続・祈りの巫女60
 けっきょくこの日、あたしはリョウに会うことができなかった。リョウの家までたどり着いても中には誰もいなくて、しばらくは帰ってくるのを待ってみたけれど、リョウはなかなか帰ってはこなかったんだ。最近はあまりなかったのだけど、以前のリョウは酒場でランドとお酒を飲むこともあったから、あたしはそれほど気にしていなかった。リョウだって、昨日みたいなことがあったら、誰かとお酒を飲みたくなるかもしれないと思ったから。
 翌日、あたしはセーラの物語を書庫に返しに行って、そこでタキと少し話をした。タキは書庫の隣にいくつかある作業部屋の方じゃなくて、わざわざ書庫の中に1ヶ所だけある作業机を他の神官に空けてもらって、そこにあたしを通してくれたんだ。作業していた2人の神官は快く場所を空けてくれたから、なんだかあたしの方が恐縮しちゃったの。そうタキに言うと、タキはにっこり笑ってあたしに言った。
「祈りの巫女は気にしなくていいんだ。神殿や神官は、もともとは巫女のためにできたんだから。ここでは神官よりも巫女の方が優先なんだよ」
 あたし、今までそんなこと考えたこともなかったから、ちょっと驚いてしまったの。確かに神官たちはいつも巫女には親切だったけど、そんな決まりがあったなんて思ってもみなかったから。
「神官はいつも巫女に譲らないといけないの? そんな決まりがあるなんて知らなかったわ。どうして?」
「別に決まりがある訳じゃないんだけどね。みんな自然にそう思ってるんだ。祈りの巫女はこの村に最初に生まれた巫女の話を知ってる?」
 この村に最初に生まれた巫女の話。それは、あたしたちが巫女になったとき、最初に話してもらう物語だ。まだ、この村ができたばかりだった頃、初めて生まれたのは予言の巫女。小さな女の子は、言葉を覚える頃にはもう予言の力を持っていて、この村を巫女のいる村へ導く第1歩を築いたんだ。
「予言の巫女の話を知らない巫女はいないわ。あたしもそのくらいは覚えてるよ」
 あたしがちょっとだけふくれて言うと、タキは苦笑いで返した。
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続・祈りの巫女59
 このところお日様が沈むのがだんだんゆっくりになってきて、昼間の長さが長くなっていた。でも、それにしてもカーヤがあたしを夕食に呼んだ時間は、いつもよりもずいぶん早い気がしたの。今日はあたしも気をつけていて、お昼ご飯だってちゃんと食べることができたから、あたしの身体を気遣ってくれた訳でもないみたい。テーブルにお皿を運び終えてにっこり笑いかけるカーヤに、あたしはあたりを見回しながら訊いてみた。
「今日のお夕飯、こんなに早いの?」
 今はまだ夕方にも早い時間で、このまま食事を終えたとしても、まだ十分外を歩き回れそうな感じだった。
「ちょっと時間を変えてみたのよ。かまわないでしょう? お勉強ばっかりでユーナもお腹が空いたでしょうし」
 カーヤがそう言ったから、あたしはまたセーラの物語の感動がよみがえってきて、お夕飯のことでカーヤを追求する気持ちがすっかり消えてしまっていた。食卓でカーヤの夕食を頬張りながら、息もつかない感じで話し始めたの。
「今日ね、やっとセーラの物語が読み終わったのよ。最後がすごく感動的だったの」
「ほんと、おめでとうユーナ。頑張ったわね」
 それから食事の間はずっとセーラの物語をカーヤに話しつづけて、食べる方がお留守になってちょっと時間もかかっちゃったけど、やっと食事も終わりかけていた。そのとき、あたしの話が一段落ついたのを見計らって、カーヤが静かに言ったの。
「ユーナ、もしかして気付いてない? 今日はリョウがきてないのよ」
 カーヤに言われなくてもあたしも気付ていた。でも、あたしには今日はリョウがこないだろうって判ってたから、そんなに気にはしてなかったんだ。リョウは、カーヤの心の傷が完全に癒えるまで、あたしの宿舎にくることはないと思うから。
「リョウはまだカーヤと顔を合わせるのが気まずいみたい。心配しないでカーヤ。そのうちまたきてくれると思うわ」
「ユーナがそうのんきだから心配なのよ。お願いユーナ。今日はあなたの方からリョウに会いに行ってあげて」
 そうして溜息をついたカーヤに、半ば追い出されるようにあたしは宿舎をあとにした。リョウの家への暗くなりかけた道を歩いている間、不意に、カーヤが夕食を早くしてくれた理由を理解していた。
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続・祈りの巫女58
 朝食をはさんで、あたしはまた日課の物語を読み始めた。セーラの物語はもう終わりに近づいていた。17歳になったセーラのもとに、ある日災厄が訪れる。北の連山の中腹にある湖から、大きな怪物が姿をあらわしたの。
 永い眠りから目覚めた怪物は村を襲って、不運な村人が何人か怪物の餌食になってしまった。村の人たちは神殿のある東の山まで逃げてきて、神殿までの道はジムたちきこりが中心になって山から切り出した木材を使って封鎖した。怪物はたった1頭なのに、小さな人間の力ではどうすることもできなかったんだ。セーラは昼も夜もなく必死で祈りを捧げた。村を、災厄から救うために。
 命の巫女が怪物を村から追い払うために志願者を集めて、その中には神官のアサもいた。セーラのためにアサは自ら怪物と戦って、その戦いで命を落としてしまったの。アサはずっとセーラに恋をしていて、でもアサの恋は最期まで報われなかったんだ。物語を読みながらあたしは涙が止まらなかった。そしてセーラも、アサの死に、初めて大切な人が死んでしまうことの悲しみを知ったんだ。
 物語の中、セーラの心の描写には、アサに対する想いがたくさん綴られていた。その描写は最愛の人を亡くした時に匹敵するもので、あたしはセーラがジムではなくアサに恋をしていたような錯覚に陥っていた。まるで、セーラがアサを追って死んでしまいそうな風にも思えたの。どうしてなのか判らなかった。だって、セーラが恋をしていたのは、間違いなくジムの方だったんだもん。
 この物語は祈りの巫女の物語だったから、命の巫女が怪物をどう退治したのか、そのあたりの詳しいことは書かれてはいなかった。ジムは村のみんなを守ることだけに力を尽くして、祈りの巫女であるセーラはずっと祈ることで戦いを続けて、やがて怪物が再び湖の中へ沈むのとほぼ同時にセーラも力尽きてしまう。そんなセーラの亡骸をジムは一晩中抱きしめていた。セーラが、心安らかに眠れるように。
 この日、あたしは丸1日をかけて、長かったセーラの物語を読み終えることができた。セーラと一緒に怒ったり、悲しんだり、まるで自分がセーラになってしまったかのように物語の中に入り込んだ。最後もすごく感動的で、ジムがセーラを抱きしめているところではやっぱり涙が出てきちゃったけど……。でも、なぜかあたしにはどうしても納得できなかったの。アサが死んだ時にどうしてセーラはあんなに泣いたのか。最後にどうしてジムがセーラを抱きしめたのか。
 セーラの日記には、このあたりのことがいったいどんな風に書いてあるんだろう。カーヤに夕食に呼ばれて生返事を返しながら、あたしはタキにぜったいセーラの日記を読ませてもらおうって、そう決心していた。
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続・祈りの巫女57
 あたしはできればずっとリョウと一緒にいて、結婚してリョウの家族になって、そのうち子供が生まれて、いつまでも幸せに暮らせたらいいな、って思ってた。昨日、マイラや母さまにリョウの話を聞いて、そのあとほんの少しだけリョウの本心を見ることができたから、リョウがどんな人なのかは判ったような気がしていたの。小さな頃、リョウは回りの人に自分を理解してもらえなくて、すごく傷ついて、だからシュウの真似をすることで愛される人になろうと思った。シュウの真似は今でも続いてるんだ。だから本当のリョウはまだ小さな男の子のままで、理解されないままで、今でもずっと傷ついているんだ。
 もしもリョウがシュウの真似をして優しい人にならなかったら、あたしはリョウを今みたいには好きにならなかったかもしれない。逆に意地悪で嫌な男の子だと思い続けてたかもしれない。でも、あたしだってだんだん大人になって、マイラや母さまがリョウを理解しようとしたように、リョウを理解しようとしたかもしれないんだ。そして、すごく時間がかかっても、いつかはリョウを好きになったかもしれない。
 リョウの心の中には傷ついたままの小さな男の子がいる。あたしのためにあたしのシュウになろうとしてくれたリョウは、傷を癒すチャンスを失ってしまった。大人になっても本当の自分をまわりに見せることができなくなってしまった。小さなリョウを傷つけて、リョウを変えてしまったあたしが、こんどはリョウの傷を癒してあげなければいけないんだ。
 あたしはリョウにたくさんの優しさをもらったんだもん。次はあたしがその優しさをリョウに返す番。本当のリョウのままでいてもリョウはちゃんと愛される人なんだって、あたしが教えてあげなきゃいけないんだ。
 朝、目が覚めてからベッドの中で昨日のことを復習したあと、ようやくあたしは身体を起こした。カーヤはもう起きていたみたいで、台所からは朝食を作る包丁の音が聞こえていた。あたしがドアを開けると、カーヤは振り返って、あたしに微笑んでくれた。
「おはよう、ユーナ。昨日はちゃんと眠れた?」
 そう言ったカーヤは笑顔だったけど、カーヤの方はちゃんと眠れてないことがあたしには判ってしまった。
「おはようカーヤ。あたしはよく眠れたわ。昨日は久しぶりに歩き回ったから疲れちゃってぐっすりよ」
 あたしも、なんとなく本当のことは言わない方がいい気がして、眠りにつくまでにちょっと時間がかかったことは黙っていた。
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続・祈りの巫女56
「だったらリョウは誤解しているわ。だってリョウ、言ってたもの。ユーナはまだ自分の事をそういう風には見てないだろう、って」
 ……どうして? だって、あたしはずっと言ってたよ。リョウのことが大好きだ、って。リョウだってずっと判ってるって言ってくれてたのに。
「それからこうも言ってたわ。もしもユーナに好きな人ができたら、その人がユーナを幸せにできる人なら、ユーナの気持ちを尊重する、って」
 ……それ、あたしも前に聞いたことがあるよ。12歳のときにあたしが訊いた言葉。もしもあたしが他の人と結婚したら、リョウはその人とあたしと、両方守ってくれるんだ、って。
 リョウの気持ちはあの頃と変わってないんだ。あたしはどんどんリョウのことを好きになってるのに、リョウにとっては、あたしはまだ小さな女の子のままなんだ。
「カーヤ、あたし、リョウに好かれてないのかな」
 そう言ってしまってから、あたしはカーヤがリョウに断られたばかりなんだってことを思い出した。こんなこと、今カーヤに相談することじゃないのに。
「ごめんなさいカーヤ! 今のなしにして!」
「いいわよ。あたしはずっと考えてきて、こうしてユーナと話してみて、やっぱりリョウのことは諦めなきゃいけないんだって判ったから。……あたしにはね、リョウのことはよく判らないけど、もしかしたらリョウはとても自分に自信がないのかな、って、そんな風に思えたの。もしもね、ユーナがこれからずっと、リョウと一緒に生きていく決心があるなら、あたしはユーナの方から告白した方がいいと思う。ユーナのそういう気持ちをきちんとリョウに伝えなかったら、リョウはずっと誤解したままかもしれないわ」
「あたし、リョウに言ってるのよ。リョウのことが大好きだ、って。今日もちゃんと言ってきたのよ」
「それもたぶん伝わってないわ。賭けてもいい。……自分では判らないのね。ユーナはね、そういうことが相手に伝わりにくい人なのよ」
 あたしには、カーヤが言う「相手に伝わりにくい人」という意味がぜんぜん判らなくて、首をかしげた。
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続・祈りの巫女55
 場所を食卓に移して、あたしの分の食事もお皿に盛り付けて、テーブルに向かい合わせに座って食事をはじめていた。もうとっくに夕食の時間じゃなくなってて、そろそろ眠る時間の方に近かったのだけど、あたしたちはゆっくりとあたしが作った食事を味わっていた。
「……あたしね、なんだかすごい勘違いをしてたみたい。あたしはいつも、ユーナと一緒にいるときにしかリョウと話したことがなかったから、リョウは誰にでも優しいんだ、って、思い込んでいたの。今まであたしに微笑みかけてくれてたのも、あたし自身に微笑んでくれてるんだと思ってた。……でも、ぜんぜん違った。リョウは、ユーナに微笑んでいただけだったの」
 あたしは、あたしがいない時のリョウなんて知らない。リョウは、あたしがいる時といない時とで、違う人になってしまうの?
「カーヤ、リョウに何かひどいことを言われたの?」
「ううん、ひどいことを言われたとか、そういうことじゃないの。なんだかうまく説明できないけど、リョウの態度とか視線とか、まるであたしに興味がないみたいだった。……ユーナがそばにいる時は違うの。あたしと話す時にはちゃんとあたしを見て、何か質問をすれば真剣に答えて、微笑んでくれた。リョウにとっては、あたしはユーナの友達で、それ以上じゃないのね。そのことがね、今日はっきりと判ってしまったの」
 カーヤの話だけでは、あたしはリョウがどういつもと違っていたのか、ちゃんと想像することができなかった。
「ねえ、ユーナ。ユーナはリョウのことが好き?」
 あたしは、少しだけ迷ったけれど、カーヤにはきちんと話さなければならないと思って言った。
「うん、大好き」
「それじゃ、もしもリョウを好きな人がいて、その人と結婚した方がユーナと結婚するよりもリョウが幸せになると思ったら、ユーナはその人にリョウを譲ってあげるの? リョウの幸せのために身を引くの?」
「譲ってなんかあげない! そりゃ、カーヤの方がお料理も上手で、あたしよりずっとリョウを幸せにできるかもしれないけど、それだったらあたしも料理を勉強して、その人よりずっとリョウを幸せにできる人になるの。リョウは誰にもあげないんだから!」
 あたしがそう言ったとき、カーヤは苦笑いのような表情を見せた。
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続・祈りの巫女54
 リョウに見送られて、あたしは神殿への坂道を登っていった。森を出る時に1度振り返ると、リョウがずっとそのまま動かずにあたしを見送っていてくれることに気がついた。また、少しだけさっきの悲しい感情がよみがえりそうになったけど、それを振り払うようにリョウに背を向けて、早足で森から離れた。神官たちの宿舎脇から、神殿前の広場を大きく回って祈りの巫女の宿舎前まで来る頃には、あたしの頭の中からリョウはいなくなって、カーヤのことだけでいっぱいになっていた。
 宿舎の中はしんとしていて、あたしが出て行ったときと少しも変わらないように思えた。念のためノックをして中に入ると、部屋の灯りもそのままで、カーヤが部屋から出たりした様子もなかった。本当はどうなのかな。それは判らなかったけど、カーヤがあのあと部屋から飛び出してどこかへ行ってしまったとは思えなかったから、あたしは台所に立って、カーヤのための夕食を作り始めたの。
 ジャガイモさん、カーヤみたいに上手に料理してあげられないけど、許してね。カーヤは今お腹を空かせているはずなの。カーヤのために、今あたしにはあなたが必要だから。
 野菜を手にとって、そのたびに一言ずつ心の中で声をかけて、包丁で刻んで、鍋に入れた。ご飯が少しだけおひつに残ってたから、それもスープの中に放り込んで、リゾットにしちゃう。ジャガイモとハムのリゾット。味を調えてお皿に盛って、カーヤの部屋をノックしたあと、返事を待たずにあたしは部屋の中に入っていった。
「カーヤ、お腹すいたでしょう? ……あたし、カーヤみたいに上手に作れてないかもしれないけど、よかったら食べてね」
 ベッドの方で、かすかに人が動く気配がした。
「……ユーナ、あなたって、本当にずるい子」
 あたしが意味を掴みかねて返事ができないでいると、カーヤはベッドから起き上がって、お皿を置いた机のところまで歩いてきた。開け放したドアからの灯りでカーヤの表情が見える。泣き腫らした目に、今はっきりと笑顔を浮かべていた。
「料理であたしを釣るなんて卑怯よ。だって、あたしが料理を食べずに捨てられる訳なんかないじゃない。それに……さっきからジャガイモが訴えてるのよ。カーヤ、ユーナを怒らないで、ユーナのことを許してあげて、って」
 カーヤの表情を見て、あたしはカーヤとの仲直りがうまくいったことを感じていた。
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続・祈りの巫女53
 初めてだった。理屈で考えたら悲しいことなんか何もないのに、あたしは感情に流されるように涙を流していた。もう夜も遅いのだから、あたしもリョウも家へ帰るのはあたりまえだった。リョウには仕事があって、昼間狩りに出掛けたり、他の人と話をしたりするのもあたりまえのことだった。その中にはきれいで優しい女の子だっているかもしれない。今まではそんなこと、ずっとあたりまえだと思ってきたのに。
 リョウが帰ってしまうのが悲しかった。こんなこと、リョウを困らせるだけだったのに。
 いつまでも泣いてたら、またリョウに子供だって思われちゃうよ。
「ユーナ、ごめん。オレが悪かったから」
 あたしの頬に触れたまま、リョウは片膝をついて、そう言った。
「……どうして謝るの? リョウは何も悪くないの。あたしが勝手に泣いてるだけなの。どうして自分が悪くないのに謝るの?」
「そうかもしれないけど、でもやっぱりオレも悪いんだ。……もし、宿舎に帰るのが嫌だったら、ユーナが帰りたいところへ送っていくから。……両親のところがいい?」
 そうか、リョウ、あたしが突然泣き出したのが、カーヤと顔を合わせるのが嫌なんだって、そう思ったんだ。リョウがカーヤの名前を口にしたすぐあとにあたしが泣き出したから。
 それであたしも気がついていた。カーヤと仲直りをしなくちゃいけない。今日、ちゃんと仲直りできなかったら、これから先一緒に暮らしていくのがすごくつらいことになっちゃうもの。
 ようやくあたしの気持ちが感情から離れてくれた。自分で涙をぬぐって、リョウの両手を頬から引き離して握り締めることができた。
「リョウ、心配してくれてありがと。でも、カーヤはあたしの友達だから、自分でちゃんと仲直りしなくちゃダメなの。リョウがカーヤの気持ちにこたえられなくても仕方がないのに、さっきはリョウのこと怒鳴っちゃって、ほんとにごめんなさい。リョウの気持ちはリョウのものだもん。リョウがカーヤを好きにならなかったからって、あたしがあんなこと言うべきじゃなかったの」
 あたしはそうリョウに話しながら、リョウにはもっと他に言うべきことがあるような、そんな気がしていた。
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続・祈りの巫女52
 いつか、リョウのお嫁さんになりたい。リョウのことをちゃんと判って、リョウを助けられる人になりたい。リョウが安心して笑ったり怒ったりできるような、そんなたった1人の人になりたい。
「……ここからは、1人で帰れる?」
 歩きつづけていたリョウは、立ち止まって、そう言ったあと振り返った。そこはまだ月明かりも届かない森の中で、リョウの顔をちゃんと見ることはできなかったけど、リョウが少しだけ微笑んでいることは判った。
「宿舎まで来てくれないの?」
「たぶん、カーヤはまだオレの顔を見たくないだろうから」
 そうだ、リョウはカーヤに告白されて断ったんだ。リョウはカーヤのことを好きじゃないって言ってた。リョウは誰が好きなの? あたしのことを好きでいてくれる? ほんの少しでも、あたしをお嫁さんにしたいと思ってくれてる?
 それとも、リョウの中ではあたしはやっぱりまだ子供のままで、小さなリョウを傷つけた、怯えた女の子でしかないのかな。
 あたしがリョウを怖がらなくなって、リョウもあたしを怖いと思わなくなったら、いつかお嫁さんにしたいと思ってくれるのかな。もしもあたしがリョウに告白しても、リョウはあたしを断るのかもしれない。あたしはカーヤや、物語のセーラのように、独りでベッドの上で泣くのかもしれない。
 帰りたくない。リョウを1人にしたくない。あたしがいないところで他の女の子と話しているリョウなんて、想像したくないよ。
「……判ったわ。大丈夫よ。もうすぐそこだもん。森を出たら少しは明るくなるし……」
「え……?」
 あたしが勇気をふりしぼって言った言葉が、少しだけ震えていて、声しか聞こえないはずのリョウにも判ってしまったみたい。両手を伸ばしてあたしの頬に触れた。リョウの大きな手が、頬に流れた涙のあとをなぞって。
「ユーナ、どうして……」
 その涙の理由は、あたし自身にもよく判ってはいなかった。
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続・祈りの巫女51
 たぶん、リョウも戸惑っていたのだと思う。送っていく、って一言だけ言って、あたしの前に立って歩き始めた。お互いにお互いの顔を見ることができなくて、しばらくは黙ったままで、あたしはリョウのうしろを歩きつづけていた。
 リョウは背が高くて、肩ががっちりしていて、背中が広かった。いつもあたしの頭をなでてくれる手も、さっきあたしの腕を掴んだ手も、すごく大きくて力強かった。リョウの後姿を見ながら、あたしはやっぱり、リョウのことを好きなんだって思った。さっき、カーヤが泣いてて、あたしはすごく悲しかったけど、でもやっぱりリョウをカーヤに取られたくなんかないよ。
 本当のリョウを知ったらリョウのことを好きじゃなくなるかもしれないって、そう思ったのが嘘みたいだった。リョウ、お願い、どこにも行かないでね。リョウはきっとモテるから、きれいな子や優しい子がいっぱいリョウに告白するかもしれないけど、その中の誰とも付き合わないでね。あたしがもう少し大人になるまで待ってて。あたし、ぜったい、リョウにふさわしい女の子になるから。
  ―― あたしが祈りの巫女になったあの時、リョウはあたしに、自分の過去について訊かれるのが怖かった、って言ってた。6歳の時に記憶をなくしてしまったあたしが、昔リョウがいじめっ子だったことを覚えていなかったから、リョウはずっとあたしに優しくすることができたんだ。もしかしたらリョウは、あたしが思い出せないでいた7年間も、ずっと怖かったのかもしれない。いつかあたしが思い出して、小さな頃リョウを嫌っていたみたいに、リョウを嫌いになってしまうかもしれない、って。
 本当に怖がっていたのはリョウの方なんだ。正直な自分を見せたらあたしがおびえると思って、あたしに嫌われると思って、それが怖くていつも優しさで自分を覆っていた。あたしはいつも、そんな優しいだけのリョウを見ているのが不安で、なんとなく怖いと思っていた。そんなあたしの不安もリョウには伝わっていたんだ。だから、リョウはもっと優しくなろうとしていたんだ。
 あたしはもう大丈夫。リョウがどんな自分を見せてくれても、それがリョウなんだって、素直に受け入れられる。あたしはもう小さな女の子じゃないよリョウ。だからリョウも、そんなに優しいリョウだけ見せてくれなくても大丈夫だよ。
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続・祈りの巫女50
 できるだけ早くそこから遠ざかりたかった。だけど家の外は真っ暗で、目に涙がにじんでて、なかなか思うようには進めなかった。リョウが、あたしのために作ってくれた手すりのついた階段。その階段を途中まで上がった時、いきなりうしろから腕を掴まれて心臓が止まるかと思ったの。
「ユーナ、待って!」
 リョウの声だった。あたしは掴まれた手を引き離そうと少し腕を振りながら再び走り始めようとしたけど、リョウの力は強くて、いつの間にか両方の腕をうしろから掴まれていたの。
「逃げないでくれ、ユーナ。頼むから。……ユーナごめん。オレ、酒に酔ってて、少しおかしくなってた。ユーナにあんなこと言うつもりぜんぜんなかった。本当なんだ。……これからもっと優しくする。今までよりもっと優しくなるから。お願いだユーナ。オレのこと怖がらないでくれ。優しい人になるから。もっと優しい人になるから……」
 あたしは、リョウの声を聞きながら、しだいに心が落ち着いてくるのを感じた。途中からは逃げるのもやめていた。背中を向けたあたしには見えなかったけど、リョウはあたしの両腕を握ったまま、その場に膝をついてしまったみたい。まるで、あたしに土下座しているみたいに。
 今初めて、リョウがどんな人なのか、本当に判ったような気がする。だからあたしは、もうリョウを怖いとは思わなかった。そのまま、あたしはリョウを振り返らなかった。リョウが今どんな表情でいるのか、想像ができてしまったから。
「……優しい人じゃなくてもいいよ」
 あたしの言葉を聞いて、リョウが顔を上げて息を飲む気配がした。
「さっきはごめんなさい。あたし、リョウがいつもと違うからびっくりしたの。でも、ずっと一緒にいて、時々リョウが怒った顔を見たら、たぶん慣れちゃうと思うわ。それどころかきっと、あたしもたくさん言い返して、大喧嘩ができると思う。あたしはリョウのことが大好きだから、ちょっとくらい喧嘩しても嫌いになんかならないもん。……あたしは怖くないから、優しい人じゃなくても大丈夫よ」
 いつの間にか、リョウはあたしの両腕を掴むのをやめて、立ち上がっていた。
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続・祈りの巫女49
 真っ暗になった坂道を駆け下りている間、あたしは自分で自分の心が判らなかった。自分が何を考えているのかも。ただ、あんな風に泣いているカーヤを見るのが初めてで、傷ついたカーヤの泣き声が耳について、あたしの心の中から離れなかった。
 リョウの家のドアを勢いよく開けた。リョウは食卓に座っていて、あたしを見ると驚いて目を丸くした。
「リョウ! カーヤを泣かせないでよ!」
 テーブルの上にはお酒の瓶と杯。その杯を握ったままリョウは動きを止めた。
「カーヤはあたしの友達ですごくいい子なんだから! 料理が上手ですごく優しいんだから! どうしてカーヤじゃダメなの? どうしてカーヤを泣かせるのよ!」
 そう、リョウに怒鳴りつけている自分の声を聞いて、初めてあたしは自分が泣いていることに気付いた。目の前が涙で曇ってしまって、あたしは両手でにじんだ涙をぬぐった。そうしてもう1度リョウを見る。
 リョウの様子が変わっていた。あたしがあまり見たことのない、本気で怒ったような表情をして、あたしを睨みつけていた。こんなリョウを1度だけ見たことがあった。あの時だ。あたしが、禁じられた森の中で沼にはまった時、差し伸べられたリョウの手を拒んだあの時1度だけ見せた、リョウが本気で怒った顔。
 息が止まるくらい怖かった。いつもリョウは優しくて、あたしはリョウの微笑んだ顔しか知らないから。それなのにあたしはずっと、訳もなくリョウを怖いと思っていたの。いつも優しかったリョウを、なんとなく怖いと思っていたの。
 これが、本当のリョウ? あの優しさの向こうには、こんなに怖いリョウがいたの……?
「ユーナ、おまえ、自分がなにを言ってるか、判ってて言ってるのか?」
 あたし、本気でリョウを怒らせたんだ。こんなにリョウが怖くなるくらい、優しかったリョウがこんなに変わってしまうくらい。
「オレにどうしろって言うんだよ。カーヤがどんなにいい子だって、好きでもない女と付き合えるわけないだろ。オレにあれ以上の何ができるって言うんだ! オレがどうすればおまえの気が済むんだよ!」
 怖くて、あたしはいつの間にか、リョウの家を飛び出していた。
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続・祈りの巫女48
「カーヤ……?」
 あたしはちょっと不安に思いながら、ドアを入って、とりあえずテーブルの上にかけてある灯りに火を入れた。それからカーヤの寝室をノックする。返事はなくて、だから念のためと思ってドアに手をかけて、ゆっくりと開いていった。この部屋も真っ暗だったけど、ベッドの上にかすかに人の気配を感じたから、あたしは部屋に一歩踏み入ってまた声をかけた。
「カーヤ? いるの?」
 返ってきたのは、あたしにはぜんぜん予想できない言葉だった。
「入ってこないで!」
 あたしはただ驚いてその場に立ち尽くした。思いもかけない、カーヤの鋭い声。しかもカーヤのその声はまるで泣き声のようだったの。あたしはしばらく絶句してしまって、そんな、緊張をはらんだ沈黙の中に、やがてかすかにカーヤのすすり泣きが聞こえてきた。カーヤに何かあったんだ。あたしも心臓がドキドキしてきて、でもとりあえず何があったのか聞き出さなきゃと思って、恐る恐るカーヤに声をかけていた。
「カーヤ、どうしたの? ……何かあったの?」
 カーヤは、もしかしたらずっと泣いてたのかもしれない。しゃくりあげているような声で言ったの。
「……ごめんなさい、ユーナ。あなたが悪いんじゃないって判ってる。リョウが、あたしのこと、なんとも思ってなくたって、それは仕方がないことなの。だって、あたしが勝手に好きになったんだもの。でも、あたし、判ってるけど、今はユーナの顔を見たくない。お願い、ユーナ、出て行って。このままだとあたし、ユーナにひどいことを言いそうだから……」
 ベッドに顔を伏せたまま、カーヤは途切れ途切れの言葉で、そう言った。
 カーヤは、リョウのことが好きだったの? あたしには何も言わなかったけど、カーヤはずっとリョウのことを見ていたの?
 今日、リョウがここへ来て、カーヤはリョウに告白したんだ。そして、リョウはカーヤを断ったんだ。
 知らず知らずのうちに、あたしは宿舎を飛び出していた。そして、リョウの家へ向かう坂道を駆け下り始めたんだ。
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続・祈りの巫女47
 あたしは少し臆病になってたみたい。マイラと話したときには、本当のリョウのことを知りたいと思ったのに、母さまと話したあとはなんとなく今のままでもいいような気がしてしまっていた。自分の気持ちにどんどん自信がなくなって、怖くなってしまったのかもしれない。本当のリョウを知ったら、あたしの中からリョウを好きな気持ちがなくなってしまうような気がして。
 あたしはずっとリョウを好きだったから、その気持ちがなくなってしまったら、あたし自身も何かがなくなってしまうような気がしたから。
 そのあと、あたしは母さまに、一緒に暮らしているカーヤのことや、神殿の草むしりのときにタキにしてもらった話、昔の物語のセーラとジムの恋の話なんかを夢中になって話していた。時々お布団を取り込んだり、お茶を入れ替えたりしながら、母さまもあたしの話にずっと耳を傾けていてくれた。あんまり夢中で話しすぎて、あたしはお日様が傾いてきていたことにもぜんぜん気付かなかったの。母さまがそろそろ夕食の支度をしなければって、席を立ってから、ようやくあたしはそのことに気がついていた。
「たいへん、もうこんな時間なんだ。母さま、あたし、帰らなきゃ」
「やっぱりお夕飯は一緒に食べていけないのね。もうすぐ父さまとオミが帰ってくるのよ」
「ごめんなさい。本当は会いたかったけど、暗くなってからだと道が見えないの」
「父さまが帰ってくればランプがあるんだけど……。そうね、あんまり引き止めてもユーナが困るものね。父さまには母さまが伝えておくわ。またいつでも帰ってきてね」
「うん、ありがとう」
 そうして母さまにお別れを言って、あたしはできるだけ急いで、暗くなり始めた道を神殿へ戻っていった。急いだ甲斐があってどうにか真っ暗になる前には神殿に戻ってくることができたけど、この時間だとそろそろカーヤが夕食を作り終える頃で、もうリョウは帰ったあとだってことに気がついた。あたし、またリョウのことすっぽかしちゃったんだ。明日こそは謝らなくちゃって思って、ただいまを言いながら宿舎のドアを開けた。
 だけど、宿舎の中は真っ暗で、カーヤがいるはずの台所には誰もいなくて、それどころか、夕食の支度さえもできていなかったの。
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続・祈りの巫女46
 リョウはきっと、すごく不器用な子供だったんだ。
 自分の気持ちを大人たちに話したり、判ってもらったり、そういうことがすごく苦手で、でも判って欲しかったから、わざと素直じゃない子供になってたんだ。
 あたしに意地悪したのも同じなんだ。あたしがシュウと遊ぶことだけに夢中で、ぜんぜんリョウの方を見なかったから、あたしに自分を見て欲しくて意地悪ばかりしていたんだ。
「リョウはね、ユーナ。他の子よりもほんの少しだけ要領が悪かったのだと思うわ。大人は素直な子供の方が愛情を注ぎやすいと思うから、子供もそれを察して自然に素直になっていくものよ。そういう子供が多いから、大人もリョウのような子供にどう接すればいいのか、よく判らないのよ。だから心にもないことを言ってしまったり、きつい態度を取ってしまったりして、リョウ自身もどうすればいいのかよく判らなくなってしまったのね。あの頃はリョウの周りにいたみんなが不運な悪循環に陥っていたのだと思うわ」
 そうか、リョウにはきっかけが必要だったんだ。
 素直になれば大人に愛されることが判るきっかけ。人に優しくすれば、同じ優しさをもらえることが判るきっかけ。そして、そのきっかけが、シュウが死んだことだった。リョウは変わりたかったんだ。だからシュウのようにあたしに優しくしようと思って、それをきっかけにして、まわりと溶け込める優しい人間に変わっていったんだ。
「母さま、リョウはね、シュウを失ったあたしのシュウになろうと思ったの。それって、リョウにとってはいいことだったのね」
 母さまは笑顔だったけど、少しだけ、笑顔の中に困惑を含んでいた。
「そうね、結果的にはいいことだったのかもしれないわ。でも、母さまは小さな頃のリョウも大好きだったから、あのリョウが大人になるところも、少しだけ見たかったわね。……もちろん、今のリョウも母さまは好きよ。勘違いしないでユーナ」
 母さまの言うこともなんとなく判る気がした。でも、あたしにたくさん優しくしてくれて、あたしに祈りの巫女になる自信をくれて、それからもずっと励ましてくれたのは優しく変わったリョウだったから、あたしはリョウが変わってくれてよかったと思った。
 小さなままのリョウだったら、あたしはリョウを好きにならなかったかもしれない。
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続・祈りの巫女45
「リョウは元気よ。今でも毎日あたしの宿舎に話しにきてくれるの。仕事の方も順調みたい」
 あたしの様子が変わったことに気付いたのだろう、母さまはちょっと笑顔を曇らせた。
「リョウのことで何か心配事があるの?」
「ううん、心配事ってほどでもないの。ただね、……さっきマイラにちょっと相談してきたの。ねえ、母さま。リョウは小さな頃、あんまり素直な子供じゃなかったの?」
 母さまは記憶を辿るように少し視線をそらした。
「……そうね、シュウが亡くなるまでのリョウは、少しだけ難しい子供だったわね。でも母さまはそんなに悪い子だとは思ってなかったのよ。たぶんそういう大人たちの気持ちを、リョウは他の子よりも少しだけ敏感に感じる子供だったのね。だから母さまにはそんなに反抗的じゃなかったの。……思い出したわ。まだ、そうね、ユーナが4歳にもならない頃、母さまはリョウにお菓子を渡して、ユーナと一緒に食べてちょうだいね、って言ったことがあるの。リョウはしばらくして戻ってきて、シュウが一緒だったから食べられなかった、って、渡したお菓子をぜんぶ返してくれたわ。その時のリョウったら、とても悔しそうでね。
 大人ならね、リョウがお菓子を持っていったときにユーナとシュウが一緒にいたら、3人で食べればいいと思うわ。べつに母さまはリョウに、ユーナと2人だけで食べて、なんて言わなかったんだもの。でも、リョウは母さまが言った、ユーナと一緒に食べてね、っていう言葉を、2人だけで食べて欲しい、って解釈したのね。だからリョウはとても素直に母さまの言ったことを守ろうとして、でも守れなかったから、母さまに謝りにきたのよ」
 あたしは、母さまの話を聞きながら、小さかったリョウの姿が見えたような気がした。
「母さまね、リョウがかわいそうになっちゃって。いろいろ考えたんだけど、けっきょくその時はお菓子を半分だけリョウに渡して謝ったの。この次はシュウの分も作っておくわね、って。それをどう思ったのかは判らないけど、リョウはちゃんと小さな声でお菓子のお礼を言ってたわ。難しい子だったけど、でもリョウはとても素直な子でもあったのよ」
 母さまの話であたしは、小さなリョウがどうして反抗的だったのか、少しだけ判ったような気がしていた。
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続・祈りの巫女44
 そうだ、母さまはいつも言ってたんだ。何もかもを欲張ってはいけない。何かをなくしても、一生懸命に生きていたら、それはきっと神様が見ていてくださるんだ、って。マイラの子供はあたしの祈りだけで生まれたんじゃない。マイラがずっと一生懸命に生きていたから、あたしの祈りを聞いて神様が授けてくださったんだ。あたしの祈りだけでも、神様の力だけでも、人間は幸せになんかなれない。自分で一生懸命にならなかったらだめなんだ。あたしができることって、一生懸命に生きている人がいて、その人のことを神様に知らせるって、たったそれだけのことなんだ。
「あたしは幸せな人のことを祈ってもダメなのね。でも、母さまのこれからの幸せを祈ることはできるわ」
「母さまのことはいいわよ。ユーナには村の人たちのことをたくさん祈って、できるだけたくさんの人を幸せにしてあげて欲しいわ。そうね、オミのことは祈ってあげて。怪我や病気をしないで、結婚して幸せになれるように」
「うん、判ったわ。これからはオミのことも祈るようにするわ」
 あたしがこれからしなければならないこと。マイラが幸せになったときに見失ってしまったその答えはまだ見えないけれど、あたしは祈ることをやめちゃいけない。たとえ小さなことでも、少しずつ祈っていれば、少しずつみんなが幸せになっていくんだもん。それからあたし、もっと村の人と話をしなくちゃいけないんだってことにも気付いた。一生懸命生きている人がいても、あたしがそれを知らなかったら、神様に届けることだってできないんだから。
 お昼ご飯は母さまと2人だけで、あたしはお手伝いをしながらまたカーヤが言ったことを思い出した。でも、あたしだって料理を練習しなかったらいつまでたっても上手にならないから、野菜に心の中で謝りながら包丁を握っていた。ごめんなさい、そしてありがとう。いつか必ず上手になって、おいしく食べてあげられるようになるからね、って。
 オミも父さまもいない食卓は初めてだった。あたしはテーブルのいつものあたしの席で、なんとなく広く感じる食卓を見ながら、母さまの昼食を久しぶりに味わっていた。
「ユーナは? 最近はどう? リョウは元気にしているの?」
 訊かれて、あたしはなにから話をしようか、少し考えてしまった。
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続・祈りの巫女43
 祈りの巫女になった1年と少し前、あたしはこの家を出て、独立した。ここはもうあたしの家じゃないんだ。母さまも父さまもオミもあたしの家族だけど、あたしだってみんなの家族だけど、ここはもう、あたしの家じゃないんだ。
「母さま、寂しい?」
 あたしが訊くと、母さまはちょっと首をかしげるようにして微笑んだ。
「そうね、少し寂しい気がするけど、子供が大人になるのはあたりまえだもの。ユーナはたった13年で祈りの巫女になってしまったわ。オミだってもう何年もしないうちにこの家を出て行ってしまう。親が子供を育てる時間て、本当に短いのよ。だからいつまでも寂しいなんて言ってられないわ。……そうね、これから子供を育てられるマイラのことが、少しだけ羨ましいわね」
 母さまの話を聞きながら、あたしは母さまの話し方も前と違うことに気がついていた。もしかしたらあたし、少し敏感になりすぎてるのかもしれない。今まで気付かなかったことにすごくたくさん気付いてるの。もしかしたら、母さまはずっとそうしてきたのかもしれない。あたしが気付かなかっただけで、母さまはあたしが祈りの巫女になってからずっと、あたしをそう扱ってきたのかもしれないんだ。
 いつの間にか、母さまはあたしのことを、1人の大人として見て話していた。あたしが12歳の頃は母さまはあたしに対して弱音を吐くようなことはしなかった。もともと母さまは簡単に弱音を言ったりしない人だったけど、今の母さまはほんの少し、あたしに対して弱いところを見せているから。
 大人として扱われるって、こういうことでもあるんだ。あたしは誇らしく思ったと同時に、少しだけ母さまが小さくなってしまったような気がして、ちょっと寂しく思った。
「母さまだってまだ間に合うわ。だって母さま、マイラとそんなに違わないでしょう?」
 あたしがそう言ったら、母さま本当に顔を赤くしちゃったの。
「ユーナ、あなたって子は……。マイラはね、特別なのよ。1人だけ授かった子供をたった5歳で亡くしてしまって、それでもずっと一生懸命に生きてきたから、神様が再び子供を授けてくださったの。母さまは2人も子供を授かって、その2人はこんなに大きくなって、今では自分の力で生きようとしているわ。母さまほど幸せな人は他にいないのよ。母さまにはもう神様は何も与えてくださらないわ」
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続・祈りの巫女42
「お昼ご飯は食べていくんでしょう?」
「うん、そのつもり。今日はね、久しぶりに母さまのお手伝いをしようと思ってきたのよ」
「それは嬉しいわね。夜は? やっぱり神殿に帰るの?」
「今日は神殿には何も言わないで出てきちゃったから。ここに帰ってきたのも、本当はマイラのお祝いのついでなの」
「まあ、ついでにされちゃったのね。でも帰ってきてくれて嬉しいわ。ユーナがいないと、この家もずいぶん広いのよ」
 あたしはまた、しばらく帰ってこなかったことを申し訳なく思った。母さまは父さまがいない間、この家で1人きりなんだ。今はまだ弟のオミがいるけど、オミだっていずれは独立するんだもん。そうなったら母さまは本当に1人きりになっちゃうんだ。
「今日はオミは? またソズと遊んでるの?」
 母さまはお茶を一口飲んでから、静かに言った。
「このところね、オミは父さまの工房に行ってるのよ。父さまの仕事に興味があるみたいね」
 あたしの父さまはガラス職人をしている。あたしは母さまの言葉に驚いた。
「オミはガラス職人になりたいの?」
「そうはっきりとはまだ決めてないみたいね。今はまだ父さまの仕事をうしろで見ていて、お掃除を手伝ったり、雑用をさせてもらっているらしいわ。だから朝は大変よ。母さまは2人の分のお弁当を作らなくちゃならないの」
 あたしはしばらくは母さまの話に返事ができないくらい驚いていた。オミはあたしよりも3歳年下で、だからまだ11歳なんだ。あたしは小さな頃から祈りの巫女になるんだって言われて育ったけど、11歳の頃はたぶん、その仕事を一生やっていく心構えなんてぜんぜんできてなかった。リョウだってそんなに早く大人になんかならなかったよ。あたしが10歳くらいの頃にようやく狩人の見習いをはじめて、だからあたし、リョウと遊べなくなったのがすごく寂しく思えたんだ。
「ユーナが祈りの巫女になってから、オミは急に大人びたわね。男の子としての自覚が出てきたのかもしれないわ」
 あたしの知らないところで、家族がどんどん変わっていく。あたしはその事実を初めて突きつけられたような気がしていた。
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続・祈りの巫女41
 あたしが実家に帰るのは本当に久しぶりのことだった。その前はまだ寒い頃で、この道にもまだ少し雪が残ってたのを覚えてる。神殿は遠いって言ったって半日も歩くわけじゃないんだから、本当はもっと頻繁に帰ってこられるはずなのに。あたしはこのあいだ母さまが帰りがけに言った、またいつでも帰ってきてね、って言葉を思い出して、ちょっと申し訳ない気持ちになっていた。
 風景はあたしが暮らしていた時とぜんぜん変わらない。いつもの道を通って、ドアの前に立つ。ちょっと迷ったけど、ドアをノックすると、すぐに母さまの声が聞こえてきた。ドアを開けて迎えてくれた母さまに、あたしはちょっと照れた笑顔を向けた。
「あら、ユーナ」
「ただいま、母さま」
「まあ、久しぶりね。さ、入ってちょうだい」
 家に入るとそこには籠に入った洗濯物が積んであって、あたしは母さまがお洗濯から帰ったばかりだったことを知った。母さまはあたしのためにお茶を用意してくれようとしたけれど、お茶ならマイラのところでいただいてきたし、母さまの仕事を邪魔するのも悪い気がしたから、いっしょに洗濯物を干すのをお手伝いすることにしたの。
「気を遣わなくていいのよ、ユーナ」
「ううん、いいの。だって神殿ではお洗濯なんかすることないんだもん。たまにはお手伝いしないと忘れちゃうわ」
「そう? それじゃ、お願いするわね。このところ裏のサジンの洗濯物も一緒に洗ってるの。覚えてる?」
「もちろんよ。元気にしているの?」
「最近ちょっと足が弱くなってね。でもまだまだ口は達者よ」
 サジンは近くに住んでいるおじいさんで、もう70歳近くなるのかな。母さまはあたしのお洗濯が減ったから、その代わりにサジンの分を洗ってあげてるんだ。家の外の物干し台に行って、あたしは母さまのお手伝いをしながら、しばらく世間話に花を咲かせていた。お洗濯が思いのほか早く終わったからだろう、いつもよりも早く、母さまはお茶の用意をしてくれた。
 母さまのお茶を味わうのも久しぶりで、あたしは改めて懐かしさのようなものを覚えていた。
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