2000年06月の記事


記憶�U・11
 宣言どおり、食後オレはパソコンに向かっていた。15歳までの記憶を取り戻してから、触るのはこれが初めてだ。コンピュータの世界では17年間の技術の進歩は著しいらしく、記憶を取り戻したとはいってもオレの理解力は昨日までと何ら変わらない。馴れない画面に惑わされながら、昨日見つけた接続ソフトを立ち上げていた。
 アカウントとパスワード。まずは、オレが普段使っていたものと、それに関連したいくつかの数字とアルファベットを打ち込んだ。しかし、ある程度予想されていた通り、このたぐいの単純なものでは接続にまでは至らなかった。こいつは長期戦を覚悟しなければ。
「ミオ、退屈じゃない? 用事があるなら出かけてきてもいいよ」
 今までミオはオレの後ろから作業を覗き込んでいたのだ。
「わからなそうなの?」
 わからなそう、か。面白い言葉を使うんだな。オレのいた17年前にはなかった言葉だ。
「一通りやってみたけどぜんぜんダメ。単純なパスワードじゃないな」
「そう、それじゃ、ちょっと出かけてくるわね。お昼までには戻るから」
「ゆっくりしてきていいよ」
 そう言ってミオを送り出し、オレは自分の中にある単語や数字と再び格闘を始めた。オレが今まで出会ったことのある人間の名前や、その身長や体重。オレと葛城達也以外には知り得ない暗号文の一節。J・K・Cで使っていた暗号文は416種類もあって、思いついた言葉をすべてその暗号に変換して打ち込んでいたら、約束の午前中は瞬く間に過ぎていった。
 オレは何か根本的なところで間違っているのかもしれない。そう思い始めたとき、ミオが昼食を持って戻ってきていた。
「ただいま。……進んでない、って顔ね」
「どうやらオレはハッカーには向いてないらしいね」
「諦めないでね。コンピュータもパスワードも、人間が作ったものだもの。同じ人間の伊佐巳に解けないはずはないわ」
 そして、そのミオの言葉が、オレに新たなインスピレーションを与えたのだ。
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記憶�U・10
 朝食はまたカレーライスだった。しかし、今度はレトルトではなく、固形ルーから煮込んだものらしい。朝からカレーというのも不思議な気がしたが、おそらくこれもオレの記憶に関わるものなのだろう。入っている具も一般的なカレーの具だったから、食べてみたけれど、そこから何かを思い出すということはなかった。
「ミオ、オレは今、死んだミオのところまで思い出した。ということは、この次に思い出さなければいけないのは、2回目の引越しのあとの記憶なんだな」
「順番はそうね。でも、この先は順番どおりである必要はないと思うわ」
「どうして?」
「今まで15歳よりも前の記憶を思い出してほしかったのは、本物の記憶よりも先に偽物の記憶を思い出さないでほしかったからなの。でも、伊佐巳はちゃんと本物の記憶を思い出したわ。この先、偽物の記憶を思い出したとしても、きっと本物と区別がつくと思うの。だったら、どこから思い出しても大差ないわ」
「それも葛城達也が指示したこと?」
「気になるみたいね」
「……別に」
 実際、葛城達也の手のひらの上で踊らされているのは、かなり気分が悪かった。だけど、そんなことばかり気にしているのはおろかだ。今は葛城達也を利用しなければ、奴を殺すだけの知識も経験も蘇らない。
「この先のオレの記憶は、今のオレの記憶とつながってない。どうすれば思い出せるだろう」
「答えになるかどうかは判らないけど、1つだけ方法があるわ。……雇い主の彼が言っていたの。伊佐巳の人生の奇跡、そのデータを引き出す方法がある、って」
 ミオはそれ以上は言わなかった。だけどその方法はたぶん、あのパソコンの中にあるはずだ。
 記憶が戻った今なら判るかもしれない。オレにあてられたアカウントとパスワードが。
「わかったよ。……食事が終わったら、パソコンに訊いてみる」
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記憶�U・9
 ずっと、初めてこの部屋で目覚めた3日前から、オレはミオを好きだと思った。
 ミオが他の男の話をすれば苛立ったし、オレと一緒にいるのが、3年前に別れた父親と再会するためだと聞かされて落ち込んだ。ミオは父親の夢を見て涙を流していた。今でもミオの中にあの気持ちは大きく存在するのだろう。
 もし、オレの記憶が戻ったら、ミオはどうするのだろう。父親とオレと、いったいどちらを選ぶのだろう。
 聞いてみようとして、オレは気付いた。これって、さっきの質問と瓜二つじゃないか。オレと葛城達也とどちらを選ぶのか。オレと父親と、どちらを選ぶのか。
 ……ダメだ。オレはものすごく臆病で、わがままだ。
「ミオは、オレとパパとどっちが好き?」
 ミオはまた驚いたように目を丸くした。
「もしもオレが記憶を取り戻したら、そのときはどっちを選ぶんだ?」
 ミオの沈黙は長かった。オレは、自分がミオの一番弱い部分を突いてしまったことを知った。おそらく、比べることなんかできないはずだ。ミオにとって父親は聖域で、自分ですら触れることを許さない部分なのだろうから。
「……10分だけ、会わせてもらえるかな。そのあとはあたし、伊佐巳の傍にいたい」
 ミオの答えはけっしてその場限りの慰めなどではなかった。オレを喜ばせるための嘘じゃなかった。
 真剣に考えて出した解答だった。
「ごめん! 今オレが言ったこと、全部忘れて。10分なんて言わなくていい! 何日でも、何ヶ月でも、ミオがパパと過ごしたい時間だけいてくれていいんだ」
 オレが自分の失言を素直に謝ったからだろう。ミオは笑顔を見せて、オレに言った。
「そうね。先のことはその時に考えればいいわ。今は伊佐巳の記憶をすべて取り戻すことだけだもの」
 オレの17年分の記憶を取り戻すこと。
 それだけが、今のオレができるたった一つのことなのだ。
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記憶�U・8
 ミオはもしかしたら、少し苛立っているのかもしれない。オレの目を真剣な表情で見つめていたし、オレの言葉を強引にさえぎったようなところがある。そんな観察とは別に、オレはミオの言葉を嬉しいと同時に少し疑わしく感じた。それはオレの今までの人生で葛城達也よりもオレを選ぶ人間に出会ったことがなかったから。オレを選ぶ人間がいるということを、すぐに理解できなかったのだ。
「どうしてあたしを疑うの? あたしが葛城達也の行為を認めているから?」
 ミオの表情は少し怖かった。呆れているのかもしれない。オレがミオを無条件で信じていないことを知って。
「ねえ、伊佐巳。あたしが葛城達也を認めるのは、彼の行為が伊佐巳のためになってると思うからだわ。過去に記憶を消したことも、数日前に記憶を消したことも、今、伊佐巳の記憶を戻すために力を貸してくれてるのも、全部伊佐巳のためになっていると思う。確かに以前、彼は伊佐巳のためにならないこともしたわ。でも、それはもう全部過去のことだもの。今更あたしにはどうすることもできない。
 だけど、これからのことは違うわ。これから先、彼が伊佐巳のためにならないことをしたら、あたしは今の自分にできる精一杯の力で伊佐巳を守る。……それって、あたしが伊佐巳の味方だってことにならない?」
 オレは、この15年間の記憶の中で、かなり屈折してきたし、人を疑うことを刷り込まれてきた。オレの人生の中では、本当に信じられる人間はほとんどいなかった。
 オレはミオを信じてもいいのだろうか。オレは彼女に好かれているのか?
「……どうしてなんだ? どうしてオレのこと……」
 ミオは、少し緊張を解くように、微笑して見せた。
「伊佐巳、それ、癖?」
「え?」
 ミオが指差したのは、オレの指先だった。知らず知らずの間に鉛筆をもてあそんでいたらしい。
「食事のときも、よくそうやって箸やスプーンをいじってるの。考え事をしてるときに多いみたい。……そんな小さなことに気付くのも、あたしにはすごく嬉しいことなのよ」
 そのミオの言葉は、直接的な言葉で返答してくれるよりも、ずっと心に響いたような気がした。
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記憶�U・7
 オレの感覚では、オレはほんの数日前まで、葛城達也のために働いていた。プログラムを作ったり、1週間前のある事件で作戦を立てて組織の人間を動かしたりした。オレは確かに組織に必要な人間だったかもしれない。だけど、それはオレがそう教育されたたくさんの人間のうちの1人だったというだけで、もしもオレがいなかったとしても葛城達也はそう困りはしなかっただろう。
 オレは確かにあいつの息子だった。だけど、愛情を受けた覚えもなかったし、奴もオレが息子だからという理由で特別な感情を持っていたとは思えない。だから、ミオの言葉に同感はなかった。葛城達也がオレを必要としているはずはなかったのだ。
「どうしてミオはそんなことを思う? オレが奴の息子だからか?」
 ミオは唇をきりりと結んで、表情でオレの言葉を否定した。オレはちょっとドキッとした。もしかしたらオレは、ミオを低く見積もり過ぎていたかもしれない。
「あの人が伊佐巳を必要としているのは、愛情があるからとか、役に立つからとか、そういう理由じゃないわ。あたしはこれ以上のことは言えない。なぜなら、この話は、伊佐巳のこれからの記憶に深く関わっているから」
 ああ、そうだった。ミオはオレの記憶について話すことは許されていないのだ。
「どうやっても思い出さないとならないらしいな」
 オレのこれからの17年。それを思い出さなければ何も判らない。思い出せば判るのだろうか。葛城達也のことも、ミオのことも。
 ミオは本当は、誰の味方なのだろう。
「思い出せるわ。だって、伊佐巳は思い出したんだもの。自分の力で、15年間の記憶を」
 知りたい。ミオがオレと葛城達也と、いったいどちらを選ぶのか。
「ミオ、もしもオレが記憶を取り戻したとき、オレと奴とが敵同士だったら……」
「伊佐巳の味方になるわ」
 間髪入れず、ミオはそう答えた。
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お詫びです
今日、有明のイベントにいってまいりました。
帰りに本屋により、そのまま飲み会に突入してしまったので、今日は小説をアップすることができませんでした。
ごめんなさい。
というわけで、今の私は酔っぱらいです。
明日は必ず書きますので、またよろしくお願いします。
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記憶�U・6
 オレの記憶の中では、葛城達也は周囲のすべての人間の信頼を勝ち得ていた。オレと奴とが対立したとき、オレの味方になる人間はいなかった。ミオも同じなのだ。ミオはオレより、葛城達也を信頼している。
「嗜好品。……そうね、そうかもしれないわ。確かに葛城達也は人間を人間として見ていないかもしれない。伊佐巳の言う通りよ。17年前に伊佐巳の記憶を消したのは、葛城達也だった。
 だけど、伊佐巳はその時、すべてに絶望しきってしまっていたの。もしも葛城達也が記憶を消さなければ、立ち直ることは不可能だったかもしれない。今、あたしとこうして話している伊佐巳は、存在しなかったかもしれない。伊佐巳の今があるのは葛城達也のおかげだわ。葛城達也が伊佐巳の記憶を消したから、今ここに伊佐巳がいるのよ」
「だけどあいつの行為には優しさも誠実さもない!」
「行為の中に優しさがなければ認められないの? 17年前に葛城達也がしたことは、その時の彼の精一杯だったはずよ。彼には人の記憶を消す能力があった。だから、他の人には到底できない方法で、伊佐巳を立ち直らせたの。伊佐巳は、その行為を、誠意じゃなかったという理由だけで否定するの?」
 オレは、ミオの言葉をちゃんと聞いていた。言葉の意味も理解できたし、それがあながち間違った意見ではないことも、ちゃんと理解していた。例えば、政治家が人気取りのためだけに慈善事業に携わることがある。だけど、その金で助かる人間がいるのも本当だ。たとえ葛城達也の行いに誠意も愛情もなくても、オレがその行為によって救われたことは事実だった。
 ミオは正しいことを言っている。だけど、感情が納得しない。17年前のあの日オレをミオに会わせたのは葛城達也だ。そして、ミオを自殺に追い込んだのも。
「答えてくれ、ミオ。葛城達也が今になってオレの記憶を戻そうとするのはなぜだ。オレの記憶障害を直そうとするのは」
「伊佐巳が、あの人の人生にとって、必要だからよ」
 ミオは、雇い主が葛城達也本人であることも、暗に認めていた。
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記憶�U・5
 15歳までの記憶を取り戻したオレは、自分の記憶を奪った男が葛城達也だと確信していた。以前にミオが言っていた、ミオの雇い主がオレの身内であるということ。いや、そうと知らされていなかったとしても、記憶を取り戻した瞬間にオレは確信しただろう。人の記憶を奪うなどということを、葛城達也以外の人間がするはずがないのだ。普通の人間なら、人にとって過去の記憶がどれほど貴重なものか、理解している。そもそも普通の人間に他人の記憶を消すことなどできるはずがない。
 葛城達也にはその能力があった。他人の脳に直接働きかける、超能力が。
「伊佐巳、あたし、前に言ったわ。もしも伊佐巳が何かを思い出したら、それがいつ頃のことなのか、それだけを教える、って」
 ミオは迷っている。オレに真実を告げるべきかどうかを。
「オレの考えが正しいかどうかを教えてくれるのもミオの役目だろ」
「そうね。……判った。だったら、伊佐巳がそう思った根拠を聞かせて。伊佐巳がどうしてそう思ったのか」
 ミオにはオレがあて推量でその結論を導き出したのではないという証拠が必要らしい。それならそれでかまわない。話せばいいだけだ。
「オレは、あの日ミオが自殺したところまでの記憶を思い出した。その時のオレは完全に自分を見失ってた。絶望して、生きることにも、未来にも、すべてに絶望して、自分の中に閉じこもってた。……たぶん、前にミオが言っていた、最初にオレの記憶が失われたのはこの時だったんだ」
 オレは記憶を奪われ、偽の記憶を植え付けられた。おそらくオレは、ミオが自殺したショックから立ち直ることができなかったんだ。
「この時にそんなことができたのは葛城達也以外にはいなかった。その後のことはオレにはまだ判らないけど、たとえ記憶を失っていてもオレが葛城達也を嫌いだった事実や、葛城達也がオレを人間として見ていなかった事実が変わってるとは思えない。今までにオレが思い出した葛城達也なら、人の記憶を奪うことくらい平気でやるだろう。あいつにとってオレは、あいつの人生を面白くさせるだけの、ただの嗜好品にしか見えていないんだ」
 ミオはじっと、オレの言葉を聞いていた。表情を見れば判る。ミオは、心を痛めているんだ。オレが葛城達也を憎んでいるということに。
 ミオが信頼している雇い主をオレが憎んでいるという事実に。
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記憶�U・4
 朝食まではまだ時間があったので、オレとミオはテーブルに向かい合って、紙を広げた。その紙には既に、引越し1から4までの印と、オレがそれまでに思い出したいくつかの事柄が、ミオによって書かれている。今度はオレ自身が鉛筆を握って、思い出したことを片っ端から記入していった。
 だけど、人間1人の人生というのは、たかがB4の紙1枚くらいにおさまるものではないらしい。それに、オレにとっては研究所にいた15年間よりも、死んだミオと過ごした2週間足らずの日々の方が、ずっと密度の濃いものだったのだ。オレは引越し1から2までのその区間を別紙に抜き出して、1日ずつ、詳細に記入していった。
 その中には、食事の献立や、ミオと話した会話の内容もあった。この3日間で疑問に思ったことの答えのいくつかは、この中にあった。
「『双子の王子、お姫様奪回作戦』って言うのね」
 オレが無意識に打ち込んだゲームは、死んだミオを楽しませるために作ったものだ。
「どうして動かなかったのか、判ったの?」
「ああ、判ったよ。このゲームは、フロッピディスクが2枚ないとダメだったんだ。オレはあの時1枚分しか作らなかったから。でも、プログラムの中の変数を少し変えれば、1枚でも動くようにできるよ」
 この3日間のオレの食事は、ミオがオレに作ってくれたもの。そして、「義理の親子は結婚できない」と話したのも、死んだミオだった。
 葛城達也とミオとは義理の親子だった。死んだミオは、もしかしたら葛城達也と結婚したかったのだろうか。
「ミオ、ひとつだけ、答えてほしい」
 年表をほとんど埋めたあと、オレは言った。
「何? 答えてほしいことって」
「オレの記憶を消して、ミオを雇ったのは、葛城達也だな」
 ミオは答えるのをためらうように沈黙した。
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記憶�U・3
「ミオ、あのさオレ、ミオが起きたら言おうと思ってたことがある」
 ベッドにぺたんと座ったまま、ミオは首をかしげた。
「オレは、君のことが好きです。ずっと、たぶん3日前、初めて目覚めたときから」
「……思い出したの……?」
 驚いたように、ミオは両手で口元を抑えて言った。やがて、わずかに目を潤ませた。
「ごめん。もう絶対忘れたりしないから」
「……よかった!」
 涙を浮かべたまま、ミオは小さく笑い出した。抱きしめてしまいたくなったけれど、そうはせず、オレはしばらくの間、そんなミオを見つめていた。ミオは強い。まだたった16歳の女の子なのに、こんなにあやふやな記憶を持つオレのことを好きでいてくれる。オレはたぶん、ずっとミオを好きだろう。たとえこの先どんなことを思い出そうとも。
「うれし泣きしちゃった。顔、洗ってくるわね」
 そう言ってミオが洗面所の方に歩いていったので、その隙にオレは着替えることにした。オレが着替え終わる頃、ミオは戻ってきて、箪笥の前でパジャマを脱ぎかけた。
 ふと、手を止めてオレを振り返る。少し、恥ずかしそうに。
「伊佐巳、顔洗ったの?」
「あ、うん、洗ってくる」
 オレがそそくさと洗面台のほうに向かって、その手前で振り返ると、ミオはボタンに手をかけたままじっとオレを見つめていた。
 どうやらミオも、オレを男として認めてくれたらしい。
 それがなんだか嬉しくて、オレは顔を洗いながらも、にやついてしまうのを抑えることができなかった。
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記憶�U・2
 目覚し時計が鳴り響く前に、オレは目を覚ましていた。振り向くと、ミオが健やかな寝息を立てている。オレはしばらくの間、ミオの寝顔を眺めていた。死んだミオの寝顔はもっとだらしがなかった。このミオの寝顔は、どこかあどけなくてかわいい。
 やがて、ベルの音が鳴り響いて、ミオは目を覚ました。薄目を開けて半ば手探りで時計を探し出すとベルを止める。寝起きのミオは無防備だった。あまり寝起きのいい方ではないらしい。しばらく時計を見つめて、オレを見上げて少し驚いた顔をした。
「おはよう、ミオ」
「……おはよう。起きていたの?」
「ああ。ミオが起きるのを待ってた」
「……眠い」
 パタッと、再び寝転がって、もそもそ動きながら毛布を探す。オレはちょっとがっかりしたけれど、眠いのを無理に起こすのもなんだかかわいそうで、そのまま起き上がった。着替える前に軽く体操。どうやらオレの最近の生活習慣の中に、この体操は含まれていたらしい。無意識に動く身体は、15歳のオレにはなかった習慣だ。
「……」
 背後から声が聞こえて、オレは振り向いた。と、ミオはいきなり目を覚まして、勢いよく起き上がったのだ。現状認識ができないらしく、オレを見つめたまま呆然と座り込む。しばらくオレたちは見つめ合っていた。やがて、おもむろにミオが言った。
「あたし……寝ボケてたみたい。何か変なこと言わなかった?」
「言ってたみたいだけど聞き取れなかった」
 ミオは心からほっとした様子で、オレに微笑みかけた。
「よかった……。ごめんなさい。おはよう、伊佐巳」
「おはよう」
 なんだか不思議だけど、寝ボケたミオというのも、今のオレにはものすごくかわいらしく見えた。
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記憶�U・1//今日から再開します!!
 初めてこの部屋で目覚めた3日前、オレはそれまでの一切の記憶を失っていた。
 15歳の感覚と、32歳の身体。傍にいた少女は、オレの名前を「伊佐巳」だと言った。
 少女は名乗らなかった。オレは彼女に「ミオ」という名前をつけた。
 それから3日。オレは、15歳までの記憶を取り戻したのだ。

 オレの名前は「黒澤伊佐巳」という。昭和45年5月28日生まれ。O型。城河総合研究所で、城河基規の遺伝子研究によって生まれた、葛城達也のクローンだ。城河基規の死後、葛城達也は城河財閥を乗っ取り、オレは、葛城達也の息子として育てられた。
 15歳までオレは研究所から1歩も外に出ることはなかった。研究所の中で、オレはコンピュータを徹底的に叩き込まれ、J・K・Cの教育を受けた。J・K・Cはいわゆる産業スパイだった。やがてオレはJ・K・Cの教育プログラムを手がけることになった。プログラムによってJ・K・Cの教育システムは飛躍的に向上し、そのオレの功績は大量殺人に結びついていった。
 そんな中、オレは、ミオに出会った。
 葛城達也の命令によって、オレは生まれて初めて研究所の外に出て、ミオの部屋で暮らすことになった。ミオは16歳。4歳の頃葛城達也の養女になった、言ってみればオレの姉だった。オレは彼女に恋をした。だけど、彼女が好きだったのは葛城達也だった。
 ミオが自殺したときの絶望を覚えている。そのときのオレは、未来を感じ取ることができなかった。オレにあったのは、現在と過去だけ。立ちはだかる絶望の壁を破ることができず、オレはその先1歩も前に進めなくなってしまったのだ。
 そこまでの記憶を、オレは取り戻した。そして、ふと、疑問が生じるのだ。同じ記憶を持っているのに、なぜオレは未来を見ることができるのだろう。破れなかった絶望の壁は、いつの間にかオレの前から消え去っている。オレは未来を見ている。葛城達也を殺すという未来を。
 オレの絶望は、愛する少女を失ったことによって生まれた。だけど今、オレは別の女の子に恋をしている。そのことがオレを絶望から救ったのだ。オレに未来を与えてくれたのは、オレが名づけた「ミオ」という名前をもつ、この少女なのだ。
 彼女に恋をすることによって、オレは過去の記憶を思い出すことができた。絶望の壁を破って、新たな1歩をあゆみ始めている。
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100話になってしまいました
軽い気持ちで始めた連載小説「記憶」が、とうとう大台に乗ってしまいました。
まさかこんなに長い話になるとは、本人も相当驚いています。
このまま101話、102話……と続けていくのは、さすがにちょっと避けたい事態です。
というわけで、ここらで数字を戻したいと思います。
幸い内容もひと区切りついてくれたところですので。(←ちょっと強引かも)

黒澤は連載小説を書くというのは本当に初めてで、途中何度もお詫びを書くはめにもなりました。
息切れしているようなところもあったりしますので、ちょっと失礼して、数日ばかり、お休みをいただきたいと思います。
とはいっても、この年齢になると一日がやたらと早いので(笑)、あっという間に再開することになるでしょう。
しばしのお別れを言わせていただきます。

長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
新しい「記憶」も、ぜひよろしくお願いいたします。

黒澤弥生
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記憶・100
 記憶の管は、あと2本残っていた。ミオとの記憶を完全に思い出したオレは、その2つのうちのどちらかが偽の15歳までの記憶で、もうひとつが15歳から32歳までの記憶であると推測した。どちらが先でもかまわない。これをくぐれば、オレはすべての記憶を取り戻すことができるのだ。
 オレは一方の管に近づいて、さっきやったのとまったく同じ方法で、管の中をくぐろうとした。ところが、その管は硬く、オレの意識をはじき返したのだ。もう片方の管も同じだった。何度やってもダメだった。
「クックックッ……。無駄なんだよ。てめえにその壁は破れねえさ」
 背後に、いつの間にか葛城達也が浮かんでいた。ゆらゆらと密度を変えながら歪む。
「どうしてだ。なんで破れねえ」
「さあな。てめえが本気で思い出そうとしてねえからだろうよ。そんなにあの女の本性を知るのが怖いのかよ。ったく、お笑いだぜ。お前はあの女の正体を、ちゃんと知ってるってのにな」
「……なんだと……!」
 言葉の意味を追求する前に、葛城達也は消え去っていた。もう、記憶の管も見えない。あたりは完全な暗闇に包まれていた。
 オレが、ミオの正体を知っている? 葛城達也の言葉などまともに信じてはいけない。だけど、それが本当ならば、オレは記憶を失う前にもミオのことを知っていたのだ。

 現実の、あの殺風景な部屋のベッドで意識を取り戻したとき、やはりミオはオレの隣で静かな寝息を立てていた。
 寝顔はまだ少女のあどけなさを残していて、気持ちが暖かくなってくる。死んだミオの寝顔はもっとだらしがなかった。ここにいるミオは、世界で1番かわいい女の子に見える。
 この少女が、今のオレの1番好きな女の子なんだ。
 本当に自然な気持ちで、オレはそう思った。
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記憶・99
 暗闇に浮かんだぼんやりとしたものを目指して、オレは空間を移動していった。なかなか近づいていかない。おそらくそれがあまりに巨大すぎたからだろう。それでも少しずつ全体像が現われてきていた。
 水道管のような、数本の管の形をしていた。全体に透明で、目盛りのような縞模様が入っている。何本かの管がくっつきあって人の形のようだ。オレはさらに近づいていった。近づくと、全体を見ることは困難になった。どんなものにたとえることもできないくらい、巨大なものだった。
 これか何の象徴であるのかわかった。オレの夢の中で管の形をとるそれは、オレの記憶のイメージそのものだ。あの、ミオと名乗る少女の言った物干し竿。そのイメージからオレ自身が組み立てた、オレの記憶の象徴。
 その1本は、今のオレ自身だ。ためしに近づいて、空洞の中をくぐってみる。外から見ると目盛りのように縞模様が入っていたけれど、中に入るとそれが管に描かれた螺旋であることが判る。オレはすぐにその管の中から出た。この管は、今のオレが見る必要はない。
 その隣にあった1本の管。それはとても短くて、今オレがくぐったものよりもさらに透き通っている。オレはその管に近づき、中をくぐった。そしてそれが、ほんの少し前までの、ミオと名乗った少女と過ごしていた、たった3日間のオレの記憶であることを知ったのだ。
 オレ自身の中に、その記憶は鮮明によみがえっていた。あの少女との3日間のことが、詳細にオレの内部に記録されていった。そのときのオレの感情、なぜ、彼女を好きになったのか、その過程すらも。そう、オレは、こんなに暖かい感情を、彼女に対して抱いていたのだ。
 オレは、彼女のことが好きだ。その感情そのものは、死んだミオに対するものとは微妙に違う。だけど、どちらも真実だった。オレはもう、ミオを悲しませたりはしたくない。
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記憶・98
 夢の中、無意識が、黒い色で表現されるのはなぜだろう。暗闇で人はものを見ることができない。見えないことの象徴ならば、白でもいいはずだ。何色でもいい。紫でも、ピンクでも。
 理論的考察と帰結。その夢の中にいながら、オレは習慣でものを考えていた。暗闇に恐ろしさを感じることはなかった。そうだ。オレが恐ろしいと感じたのは、嵐の夜の雨の音だ。あの時、初めてミオの傍らで眠った。恐ろしさに耐えかねて、ミオを腕枕した。
 ああ、そうか。黒い色は光の反射がまったくない状態のこと。それは、ものが存在しない、無であるということの象徴。光だけ、あるいはものだけでも、色は存在できない。逆にいえば、たとえこれが暗闇だったとしても、ものか光のどちらか、もしくはその両方が存在しているかもしれないのだ。
「ここにはお前のすべてがあるさ」
 背後から聞こえた声に振り返ると、そこには葛城達也がいた。ここはオレの内部。その中に、オレが記憶する葛城達也がいる。オレの脳の中に葛城達也はコピーされている。だけど、オレが記憶する葛城達也は、こんな顔だけが煙のようにぼやけた化物だ。
「オレの記憶はどこにある。お前はそれを知ってるのか?」
「知ってるさ。だけど、それを見つけてどうするつもりだ。お前は既に記憶を取り戻した。それで十分じゃねえのか?」
「まだ半分以上残ってるんだよ!」
 どうしたら、この葛城達也にダメージを与えられるだろう。ミオはオレを人間コンピュータだと言った。オレには知恵も力もない。今のオレにはこいつを倒すことができない。
「お前を消し去るためには記憶が必要なんだ。そこをどけ。オレの記憶がある場所へ、道を明けるんだ」
「記憶が戻ったって無駄さ。俺は殺せねえ。……ま、いいだろ。好きなだけ見ればいいさ」
 葛城達也は一瞬にして消え去った。そして、遠くにぼんやりと、何かが現われていた。
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記憶・97
「なぜ、ミオは……」
 自殺したのか。そう、問いたかったのだろう。少女は言葉を濁していた。
「いろいろ複雑なことが絡み合ってて、一言では説明しきれないし、オレにも全部判ってる訳じゃない。ただ、ひとつ言えるのは、ミオは達也の冷徹さに、ものすごく心を痛めていた、ってこと。達也は、死を実感できない。愛する人間が死ぬことがどういうことなのか判らない。だから、ミオはそれを達也に教えたかったんだと思う……」
 自殺に踏み切ったミオを、達也は止めなかった。オレはそこまで見抜けなかった。もしも判っていたならば、一瞬だって目を離したりはしなかったのに。
 たくさんの人間が、オレに忠告した。ミオは死人の目をしていると。
「もう、いいわ、伊佐巳。今日はこれでおしまいにしましょう」
 オレが黙ってしまったからだろう。ミオと名乗る少女は、オレに言った。
「いろいろあって混乱したはずだもの。今日はゆっくり眠って、また明日話を聞かせて」
 オレ自身、この少女に訊きたい事はたくさんあった。だけど、オレが混乱しているのも本当だ。眠れば、少しは整理できるかもしれない。
「判った。言うとおりにするよ、ミオ」
 初めてオレは少女の名前を呼んだ。だからかもしれない。彼女は、ほんの少し微笑を浮かべた。
 ベッドに入り、眠りにつくと、まるで待ち構えていたかのように悪夢が現われた。
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記憶・96
「昭和45年5月28日、オレは達也の先代、城河基規の遺伝子研究によって、達也の細胞から生まれた。オレが生まれたころは達也はまだ城河財閥の総裁ではなくて、2年後、14歳の達也が城河財閥を乗っ取ってから、オレは達也の腹心の三杉に育てられた。オレの事実上の父親だ。三杉はオレを、将来達也の片腕にするために、思想教育とコンピュータを完璧に叩き込んだ。研究所の中から1歩も外に出ることはなく、オレは達也に指示されたプログラムを作りつづけていた。15歳の9月、ミオに会うように命令されるまで」
 目の前の少女は、それまでただ黙って、オレの話す言葉を聞いていた。瞳に悲しみをたたえていた。
「ミオはどんな女の子だったの?」
「ミオは、4歳の時に達也の養女になった、もともとは施設にいた孤児だった。オレは5歳のときに1度ミオに会ったことがあるんだ。確か1歳半くらい年上だったんだけど、コンピュータの扱いも下手だったし、いつも仏頂面で、オレはミオのことを嫌っていたんだ。だから正直あまり気が進まなかった。10年経って、成長してからも、ミオの仏頂面はぜんぜん変わってなかった。だけど……たぶん、オレの方が変わっていたんだと思う。ミオは嫌な奴じゃなくなってた」
 昨日まで、ミオはオレの傍にいた。思い出そうとしなくたって、ミオのことは鮮明に思い出せる。ミオは、一般的に言う美人でも、かわいい女の子でもなかった。身長にして20センチは違うオレと同じくらいの体重があったし、顔の造作も、例えば女の子が10人いたら、10人とも自分のほうがマシだと思うような細工をしている。ミオに関しては、一目ぼれという要素で好きになる人間はまずいないだろう。頭もそれほどよくなかったから、尊敬という要素もほとんどありえないだろう。
「ミオのことを口で説明するのは難しいよ。オレは、ミオの内側に入った人間だ。達也の養女になって、達也に歪められて生きてきたミオの境遇が、オレの同じ部分と重なった。オレとミオは同じ運命の兄弟だった。それだけではないと思うけど。……オレはミオを好きになったけど、ミオが好きだったのは、達也だった」
 そのことをオレが知ったのは、オレの時間でほんの数日前のことだった。
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記憶・95
 タイムスリップしてしまった。
 オレは、記憶喪失になってしまった。
 ……いや、違う。オレは今まで記憶喪失だった。
 逆だ。オレは今、記憶を思い出したんだ。
「……全部は思い出せない。だけど、理論的にそう考えなければつじつまが合わない。オレは、死んだミオのことを今まで忘れていたんだ」
 少女は悲しそうにオレを見ていた。……なぜなのか、今、判った。彼女はオレのことを好きだと言った。そして、オレも彼女を好きになった。
 なぜ、彼女を好きになったのか、それは思い出せなかったけれど。
「伊佐巳、あなたは記憶喪失だったのよ。自分のこと、自分の名前すらも、思い出せなかったの」
 今のオレは、オレの人生を思い出している。オレが生きてきた15年間を。ミオが死んだ瞬間までを、克明に。
「今のあなたは、15歳の伊佐巳なのね? ミオが死んだ直後の、昭和60年9月の」
 ミオが死んでから17年が過ぎた。もう、ミオの死は遠い過去の出来事に変わってしまった。オレには生々しい現実だったけれど、客観的な現実の中では、ミオが死んだのは遠い過去の出来事なのだ。
「伊佐巳、あなたの15年間のこと、話してくれる?」
 おそらくオレは彼女にそれを話す義務があった。記憶のないオレをずっと見守ってきてくれた彼女に。
「オレは、達也の細胞を使って、研究所で培養された結果生まれた、達也のクローンだ」
 オレは彼女に、自分の生い立ちを話し始めた。
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記憶・94
 達也を探しに行かなければならない。
 なぜ、ミオを見殺しにしたのか。
 なぜ、ミオの自殺を止めなかったのか。
 あの時、オレがミオから目を離さなければ、ミオは自殺をすることもなかった。
 ミオを、達也と2人きりにさえしなければ。
「……伊佐巳、いったい何を探しているの? あなたは何をどうしたいの? ……お願い、あたしに話してみて。力になれるかもしれないわ」
 少女はそう言って、ふらふらと立ち上がりかけたオレの顔を覗き込んだ。そうだ。オレは今まで、この少女をミオと呼んでいた。どうしてオレは彼女をミオと呼んだのだろう。
 オレは何かを忘れている。オレの記憶は混乱している。ミオが死んで、そのあとオレは何をしていた? いつ研究所に戻ってきたんだ?
「ええっと……君は、誰?」
 彼女は複雑な表情でオレを見ていた。
「あたしは、ミオよ」
「君の名前もミオというのか? オレが知っている女の子と同じ名前だ」
「あたしの名前はあなたが付けてくれた。あなたがあたしのことをミオと呼んだの」
 少しずつ、オレは思い出していた。そうだ。オレが彼女をミオと名づけたんだ。
「君が、好きな名前をつけるように、オレに言った」
「ええ、そうよ。伊佐巳はあたしに、ミオの名前をつけてくれたの」
 空白の時間。ミオが死んだあと、オレは彼女と出会って、彼女にミオの名前をつけた。
 恐る恐る、オレは聞いた。
「ミオが死んで、どのくらい経ったの?」
「ミオが死んでから、17年経ったのよ」
 あまりの衝撃に、オレは息を詰まらせたまま、何も答えることができなかった。
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記憶・93
「伊佐巳、目がさめたの?」
 オレの目の前には、1人の少女がいた。やわらかな声を持つ女の子だった。
「君は、誰?」
「ミオよ。しっかりして」
 違う。この子はミオじゃない。オレが知っているミオは、この女の子じゃない。
 いや、この子のことをオレはミオと呼んでいた。何かを忘れている。オレは今まで何をしていたんだ?
「伊佐巳、どうしたの? いったい何があったの? あたしの顔を覚えている? ここがどこだか判る?」
 しっかりしろ。オレは今まで何をしていた。ミオは……そう、ミオは死んだ。オレの目の前で、屋上から飛び降りた。
 達也に殺されたんだ!
「達也は……どこだ」
 少女は一瞬表情を曇らせた。
「伊佐巳、思い出したの……?」
「ここは、どこだ。研究所の中か?」
「……研究所……? 伊佐巳、いったい何を思い出したの? あたしに話して」
 ここが研究所だったとしても、オレの暮らしていた部屋ではないようだった。研究所の内部はどこも似たような部屋ばかりだったけれど、オレは自分の部屋を間違えたりはしない。
 達也はどこだ。オレは、ミオを死に追いやったあいつを許さない。達也を殺さなければ。達也はいったいどこにいる。
「お願い伊佐巳! あたしを見て。あたしの声を聞いて! いつもみたいに、あたしにすべてを話して!」
 少女の声は聞こえていたけれど、その言葉はオレにはまったく意味を持たなかった。
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記憶・92
 色とりどりのパステルカラーが点滅している異空間。深緑、赤紫、赤、水色、紫、黄緑、藍、さまざまに移り変わる二重螺旋。漂っているのは、まだオレになっていないオレ。閉じ込められていた、綺麗な世界。
 音もなく、時間もなかった。だから変化は唐突に訪れた。いきなり、暗闇に放り出された。
 オレは、『オレ』になった。と同時に、暗闇に現われる風景。オレはその風景を受け入れる。最初に現われたのは、サングラスをかけた黒服の男だった。
 周りは広く殺風景な部屋。その部屋にいる、オレと黒服の男。オレは黒服の男を慕っていた。次に現われたのは髪の長い長身の男。オレはその男をきらいだった。男はオレを、殺風景な部屋から、別の小さな部屋へと連れ出していた。
 そこには女の子がいた。オレはその女の子を好きだと感じた。めったに笑顔を見せることはなかったけれど、時折見せる笑顔がオレにはまぶしかった。どのくらい、オレは彼女を見つめていただろう。不意に、彼女の姿も、風景も消え去り、周囲は再び暗闇に包まれていた。
「どうやら思い出したみてえだな」
 音のなかった世界に初めて飛び込んできたその声。
 オレは、声のした方を振り返って、それを見つけた。
 暗闇に浮かび上がる、美しいとすら言えるほどの、その顔。
「……そうか。お前が葛城達也だったんだな」
 オレの夢の中にずっと存在しつづけていた男。オレの恐怖と嫌悪をあおる存在。オレにそっくりな顔をした、オレの父親。
 葛城達也は、オレの実の父親だったのだ。
 思い出した。オレの生い立ちも、オレの家族も、オレが好きになった女の子のことも。
「お前がミオを死なせた……!」
 葛城達也は何も言わなかった。
 そして、オレは目を覚ました。
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記憶・91
 パソコンの前に座って、プログラムのパスワード入力の画面までを呼び出した。オレの犯罪を裏付ける、J・K・C教育プログラム。内容はある程度想像がつく。オレが探らなければならないと思うのは、このプログラム全体から受ける嫌悪感、恐怖の正体だった。
「ミオ、君は見なくてもいいよ」
「伊佐巳?」
「内容そのものに君が見る価値はない。こんなものに教育されたらまともな人間になれない」
 ミオはくすりと笑った。どうして笑ったのか、オレには判らないけれど。
「判ったわ。言うとおりにする」
 オレは、パスワードを入力した。
 最初に出てきたのは、個人番号と名前の入力欄だった。適当な7桁の数字と、名前にいさみと入れてEnterを入力すると、再び画面が変わって、教科書で言うところの概要部分が表示された。
 そこに書いてあったのは、J・K・Cという会社の創業の歴史だった。親会社の城河財閥の創設は明治時代にまでさかのぼるが、太平洋戦争を経て城河基規の代に、高度成長期の波に乗って現在の地位を確立した。そこまでは、オレは冷静に読み進むことができた。オレを硬直させたのは、城河基規の死後の1文だった。
『基規の死後、数年の間、城河財閥は総裁不在の状態が続いた。しかし、城河基規の実の息子、葛城達也が14歳の若さで……』
 オレの記憶の扉を開けるカギ。キーワード。
 これだったのだ。オレの嫌悪感と恐怖の具現。『葛城達也』という名前が、すべてのキーワードだったのだ。
 オレの内部のコンピュータは、葛城達也という名前を入力したとたん、暴走を始めた。今までロックされていたたくさんのカギが、この名前ひとつでいっせいに外れたみたいだった。たぶん、オレは叫び声を上げていた。オレの脳の処理速度は、この暴走に追いつくことができなかった。
 オレの意識は途切れた。
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記憶・90
「ほかには?」
「そうね。ずっと一緒にいたいかな。伊佐巳のことをもっと好きになりたい」
 オレはあまりにいろいろなことを考えて、その中にはかなりよこしまなものもあったから、ミオの言葉にどう反応していいのか戸惑ってしまっていた。確かに嬉しいのだけれど、素直に喜べないようなところがある。オレにはミオをつなぎ止めておくだけの自信がない。
 ミオに嫌われるのが怖い。ミオはオレを軽蔑するかもしれない。ミオがいなくなってしまうのが怖い。
「伊佐巳はどうしたいの?」
「ミオに嫌われたくない」
 オレは正直に言った。そんなオレを、ミオは笑った。
「どうしてそんな心配するのかしら。あたしが聞いてる伊佐巳は、そんなに臆病じゃなかったのに。あたしが伊佐巳を嫌いになることがあるとしたら、そのときはきっと自分自身も崩れると思う。あたしは、伊佐巳を好きな自分に、自信を持っているもの」
 オレは、自分に自信をもつことができずにいる。オレには過去の記憶がなくて、だから自信を持つだけの材料もない。だけど、今、思った。オレにすべての過去がなかったのは、オレが初めて目覚めたあのときだけだ。今のオレには、あの瞬間から積み重ねてきた、3日間の記憶がある。
 果たして、オレの3日間は、オレの自身の裏づけになるようなものだったか? 暗い過去はほんの少し思い出した。その過去に対する今までの対処に、オレは自信をもつことができるか?
 オレの過去はこれからのオレが作る。ミオが今自身を持てるのは、おそらくこの数時間を悩んだ経緯があるからだ。オレを嫌いになるときにはミオ自身も崩れる。それだけの覚悟が、ミオにはある。
「ミオ、ごめん。ありがとう。……オレ、あのプログラムを開いてみるよ」
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記憶・89
 臆病になっているのは、ミオに嫌われてしまいたくないという思いがあるから。だけど、ミオはおそらく、すべてを知っている。知っていてなおかつオレを好きになると言ってくれたのだ。話してもいいはずだった。理屈で割り切れるものならば。
「ないこともない。だけど、漠然としすぎてて、言葉にできないんだ」
「……あまり楽しいことではなさそうね。いいわ。無理に訊かないから」
「もっとちゃんと思い出したら話すよ」
 もしかしたらミオは察したかもしれない。オレが隠し事をしているということを。
 32歳のオレなら、あるいは、17年前のオレでも、もう少し上手に嘘をつけるのだろうか。
 2人の間にしばらくの沈黙があった。ミオは微笑を浮かべながらオレを眺めていたが、不意に思い出したように含み笑いをもらした。
「なんだか不思議ね。今朝までと何も違っていなくて、会話もそのままなのに、どこか違う気がするの。……小学生くらいのころ、自分に恋人ができたらどうなるのかな、って、いろいろ考えてたわ。映画館でデートしたり、アイスクリームを食べながら街を歩いたり、自転車で2人乗りして出かけたり。いろいろな場面を想定して、シュミレーションしてたみたい。……現実って、ぜんぜん違う。もちろん伊佐巳とはどこかに出かけたりはできないけれど、たとえそうじゃなくても、現実の恋愛は違うんだと思う」
 ミオの言葉の方が不思議な気がした。女の子の考えることは不思議だ。オレはどんな恋愛を夢見ていただろう。17年前は? 今は?
 どちらも同じだ。好きな女の子の夢をかなえてあげたい。ミオの小さな夢をかなえるためにはどうすればいいのだろう。
「ミオはどうしたいの?」
「あたし? ……どうしたいのかしら。今はあまり判らないわ。でも、伊佐巳のこと、もっと知りたいと思う」
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記憶・88/再送(5/30分)
 ミオは、記憶が戻ったあとのオレの気持ちが変わってしまうことを恐れていたのかもしれない。
 オレの過去をすべて知っているミオ。オレには想像がつかないけれど、すべてを思い出した後もオレの1番がミオであるという保証はないのだ。ミオがそれを恐れたということは、32歳のオレには既に恋人がいるということなのだろうか。
 いや、もしもそうだとしたら、ミオはきっとOKなんかしなかった。……ダメだ。オレの貧困な想像力ではピッタリくる図式を見つけることができない。
「ミオ、実はオレ、少しだけだけど思い出したことがある」
「本当?」
 ミオは喜びを素直に顔と声に出した。
「少しだけなんだ。オレにとっての今、15歳だった時代が昭和60年9月で、ロス疑惑のニュースを読んだ。8月だったか、飛行機事故があって、500人以上亡くなった。それと、オレはたぶん、1人の女の子と暮らしていたってこと」
「すごいじゃない。そんなに思い出してたの?」
「まだあるんだ。……あの、例のプログラムのパスワード、思い出した」
 そう言った瞬間、ミオの表情がわずかに引き締まった。
「……そう。それで、伊佐巳はどうするの? プログラムをもう一度開いてみる?」
 訊かれて、改めて考えた。オレはあのプログラムを見てみたいと思っていた。今でも変わらない。だけど、オレは今やっと、ミオに気持ちを打ち明けることができたばかりだ。
「今日はもういいよ。それより、オレの記憶の事を教えて」
 その答えを聞いて、ミオもほっとしたような顔をした。
「すごく正確よ。……伊佐巳は昭和60年の9月、1度目の引越しをしたの。飛行機事故が起きたのは8月だった。1度目の引越しのあと、ロス疑惑の容疑者が逮捕されて、伊佐巳もそのニュースを読んでいるわ。女の子と暮らしていたのも合ってる。それ以上、思い出したことはあるの?」
 オレが思い出した最も重要な部分については、ミオに話すのは少しためらわれた。
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試験
試験です
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