2005年11月の記事


桜色迷宮30
「あの、……憧れてる人ならいます」
「誰だか聞いていい?」
 すぐには答えられなかった。
「答えなくてもいいんだよ。一二三ちゃんの嫌なことはしなくていいよ」
「あの、あたし……会長です」
「……生徒会長が好きなの?」
「違うんです! そうじゃなくて……会長は責任感があって、誰にでもやさしくて、嫌なこととかがあってもぜったい見せなくて、いつも自分のことよりみんなのことを考えてくれるから。……あたし、中学のころ言われたんです。その頃あたし、生徒会に誘われてもまだ迷ってて、そしたら会長が言ったんです。『僕の生徒会には一二三ちゃんが必要なんだよ』って。あたし、誰かに必要だって言われたの、生まれて初めてで。……だから、あたし会長に憧れてるんです。あたしは会長みたいにはなれないから、会長みたいにはなれないのに、会長の側にいてもいいって言ってくれて。ほんとだったらあたしみたいな子が口もきけないような、小池先輩や一枝先輩や美幸先輩や、こんなにいい人と一緒にいられて、こんなにすごい人達にかこまれていられるなんて、まるで信じられないことなんです。みんなあたしのこと妹みたいに可愛がってくれて、勉強教えてくれて、あたしほんとだったら、生徒会の人達なんて一生話も出来ないはずだったのに、ぜんぶ会長がくれたんです。だからあたし、会長が好きとかじゃなくて、憧れてるんです。あたしは会長みたいにはなれないですけど、会長が必要だって言ってくれたあたしを、少しでも会長のために役に立たせたいんです。あたしこれ以上望んだらばちがあたります。あたし ―― 」
「もういいよ、一二三ちゃん。ごめんね」
「美幸先輩は悪くないです。あやまらないで下さい」
「君はいい子だね。今日ここに来て本当に良かった。一二三ちゃん、ありがとう」
「あたし、そんなにいい子じゃないです。あ、あたし、美幸先輩にこんな事言っちゃって。すいませんでした。ごめんなさい。どうしよう」
 あたしは自分が言ってしまったとんでもないことに今更ながら気づいて、真っ赤になってうろたえていた。
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桜色迷宮29
「なんでかな。生徒会室にいたり、一緒に帰ったりしているときの方が今よりずっと近い距離にいるはずなのに、テーブルをはさんで座っているときの方が、ずっと近くに感じるんだ。不思議だね」
「あ、あの……」
 あたしは信じられないくらいにドキドキして、なにか話していなければ心臓が爆発してしまう気がした。
「美幸先輩って不思議です。お母さんと礼儀正しい会話したりしてるのに、ぜんぜん違和感ないです。これが小池先輩とかだったら、きっとおかしくてふきだしてると思うのに」
「僕は若年寄だからね。みんなに言われるよ。老けてる、って。年の割に若さが足りないらしい」
「……そんなことはないです」
「驚いたり、焦ったり、馬鹿なことに青春燃やしたり、そういうエネルギーは足りないような気がするんだ。僕の欠点だと思ってる。だから僕は、小池とか一枝ちゃんとか、会長とかが羨ましいよ。僕にはないなにかを持っているもの」
 あたしはコメントに困って、ずっと下を向いていた。なにか話さなきゃと思うほどに言葉が出てこない。その間、先輩も動く気配を見せなくて、だからずっとあたしを見つめたままなのかもしれない。そう思ったらますます顔を上げることができなくて、あたしは危うく先輩の言葉を聞き逃すところだった。
「一二三ちゃん、好きな人はいるの?」
 この状態でこんな言葉を言われて、ドキッとしない人がいるんだろうか。あたしはあわててしまってうまく言葉が出せなかった。
「え? あ、あの……」
「答えたくないならいいよ」
 チラッとだけ見上げた先輩の目は真剣そのものだった。だからあたしも真剣に答えなければならないと思った。
「好きな人、は、いないです」
「どんな人がいるの?」
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桜色迷宮28
 うちに帰り着いたのはお昼ごろで、美幸先輩は丁重に辞退したのだけどお母さんが強引に招待してしまったから、先輩はお母さんと軽い世間話をしながらうちの食卓でお昼を食べた。先輩は、如才ないというのか垢抜けているというのか、お母さんに話を合わせているのがぜんぜん不自然じゃないんだ。あたしは身の置きどころに困って早く自分の部屋へ引き上げてしまいたかったのだけど、まさか先輩だけ置いて逃げられないから、話にひと区切りつくまでその場にいるしかなかった。ようやくお母さんから先輩を取り戻して、あたしは先輩を2階の自室に案内していった。
「散らかっててはずかしいです」
「そうなの?」
「来るって知ってたら掃除しておいたのに」
 あたしががクッションを出して美幸先輩を招いていると、お母さんがティーポットとカップを運んできた。
「ゆっくりしてらして下さいね。一二三、クーラーを入れて差し上げなさい。それじゃ、またのちほど」
 あたしは部屋の小さなテーブルで紅茶を入れた。なんだか手が震えてうまく入れられなかった。それでもようやく形をつけて差し出すと、先輩はにっこり笑ってお礼を言ってくれた。
「ありがとう。いただきます」
 美幸先輩の笑顔がまともに見られなかった。そっと視線を外す。あたしの部屋には今まで家族以外の人が入ったことなんてなかったんだ。あたしのドキドキはしばらく収まりそうになかった。
「やさしくていいお母さんだね」
 あたしは答えることができなくて、ただうつむいているだけだった。
「どうしたの?」
「……あの。……なんだか変です。美幸先輩が違う人みたい」
「僕も。なんだか、一二三ちゃんがずっと近くにいるような気がする」
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桜色迷宮27
「 ―― 合宿中はクラス単位で行動することになるんです。中でミニ生徒会役員やクラス委員を決めて、その人が中心になって、文化祭の生徒会の出し物を決めたりするんです」
 生徒会室の楽しさを引き継いでいた帰り道、美幸先輩と歩きながら、あたしは夏の合宿について知っている限りのことを話していた。
「一二三ちゃんは合宿に参加したことはあるの?」
「はい。あの、中学のときに。毎年参加だけはしています。生徒会長になったこととかはないですけど」
「生徒会長には誰でもなれるの?」
「はい。1番最初に立候補とかして、会長副会長書記会計ぜんぶ決めるんです。開校式のときに選挙をして、そのあとクラスに分かれて学級委員とか生活委員とか、ごみ捨て係会計係、それからほかにもいろんな係を決めて、委員会が開かれます。そうだ。お食事係とか時計係とか、点呼係とか、クラス全員がかならず1つ係を担当するんです」
「おもしろいな。……会長にワイロを持っていけば、一二三ちゃんとおんなじクラスになれるだろうか」
「美幸先輩は生徒会役員だから、判らないです。6クラスもあるんだし」
「いや、交渉次第だな。一二三ちゃんは1年生だし、僕は新米役員だしね。……話は変わるけど、今日の午後は暇?」
 とつぜんの展開に、あたしは少し驚いていた。
「……とくに予定はないですけど」
「一二三ちゃんともっと落ち着いて話がしたいんだ。帰りの10分だけじゃたりない。もっとたくさん、話したいことがたくさんあるんだ」
「なんですか? 話したいことって」
「判らない。ただ、もっとゆっくり顔を見て、歩きながらじゃなくて、座って向かいあって。喫茶店でもいいし、一二三ちゃんのうちでも、僕のうちでもいいんだけど」
 あたしはちょっと戸惑ってしまって、その場では「お母さんに訊いてみないと」と言って答えを避けた。でも、先輩はお母さんにすごくスマートな態度で交渉して、けっきょく我が家で昼食まで食べていくことになったんだ。
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桜色迷宮26
 美幸先輩にはこの合宿の話はまったく理解できないものだったのだろう。気づいた会長が説明を始めた。
「ねえミユキちゃん、ミユキちゃんが来る前、生徒会役員は7人だっただろう? 来期から会計監査に任命する予定の松田っていう1年生が加わって8人になると、1クラス役員2人で4クラスっていう理想的なクラス編成が出来る予定だったんだ。ところが6クラスになると、1クラス役員が1人で多くて2人。どうやっても目が届きにくくなるだろ。ただでさえ人数が多すぎて大変だっていうのにね」
「それなら最初に人数制限する訳にいかなかったんですか? 40人そろったところで応募を打ち切れば」
「出来れば苦労はしないよ。例年だとね、ミユキちゃん。オレたち生徒会役員は、何とかして最低線の40人を集めようと必死になっていたんだ。生徒会の中に活気があっても、一般の生徒は生徒会に何の関心も払わない。オレ達生徒会役員は世襲制で、なかなかほかの生徒が入ってこられるような場所じゃなかったんだ。もちろんオレ達に反省点はあるとは思っているし、努力もしているつもりだけど。それがさ、生徒会室の前にポスター貼っただけで、50人以上があっという間に集まっちゃったんだ。これだけ生徒の関心を集めた生徒会っていうのは学校始まって以来なんだよ。断れる訳がないだろう? だからなんとしてでも合宿は成功させないといけないんだ」
 会長の言葉は静かではあったけど、なにか緊迫したものを聞いているあたし達に感じさせた。あたしも生徒会の役員の1人なんだ。尊敬する河合会長の役に立つ働きをしなくちゃいけない。
「判りました。僕には何の力もないけど、出来るかぎりの協力をします。会長、6クラスで何とかしてみましょう。クラス編成は誰がしているんですか?」
「いつもはほとんど役員の一存でやってたけど、去年は小池がわがままを言ったからな。小池抜きで決める事にしようか」
「そりゃないぜ会長。せめて里子先輩と同じクラスにしてくれなきゃ。そのくらいの特典がなけりゃ、生徒会役員なんてやってられねーぜ」
「それは言えるな。という訳だから、クラスが決まるまで、生徒会長に媚びでも何でも売ってくれ。ワイロも大歓迎だ。そのくらいの特典がなきゃ、生徒会長なんてやってられないんでね」
「……嗚呼、またはめられちまった」
 小池先輩が再び脱力して机に突っ伏したから、その仕草にまたみんなが笑いを誘われていた。
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桜色迷宮25
「おや? いつから2人は手に手を重ねて見つめ合うような素敵な仲になったんだ?」
「会長! そういう冗談はやめて下さいよ。何だってオレがこいつなんか」
「そうか。小池が僕のことを……。知らなかったよ。今まで気付かなくてごめんな」
「美幸ぃ! お前今自分で言った言葉忘れたのかよ! オレの味方になるって言った舌の根も乾かねーうちに」
 小池先輩は本当に気の毒だったけど、あたしはみんなのやり取りが面白くて、久しぶりに声を上げて笑ってしまった。
「オレも小池をからかってやりたいところだけど、時間も遅くなったから始めさせてもらうよ。 ―― まず、成績下がった奴いるか?」
 この会長の問いに返事をした人はいなかった。
「現状維持の奴」
「オレ、去年と一緒」
 この返事をしたのは小池先輩。でも先輩の現状維持はオール5だ。いつもふざけた感じの人だけど、このへんは本当にすごいと思う。
「お前は下がんなきゃいいよ。ほかにはいないな。みんなよく頑張った。生徒会と勉強の両立は大変だけど、どちらもこれからの人生に役に立つことだからね。最後までやりとげて欲しい。夏休みの宿題チェックはまたあとでやるから、堅い話はおしまいだ。次は合宿の話」
 話を聞くみんなの雰囲気が、うって変わって明るくなった。
「朱音ちゃん。一般の参加人数は?」
「52人です。そのほか生徒会役員が8人で、合計60人です」
「男女別の参加人数は判る?」
「役員抜きで男子16人女子36人です」
「そうすると……一二三ちゃん、例年通りの4クラスと、10人1クラスの6クラスとで、男子と女子の人数はどうなる?」
「4クラスの場合は男子が5人か6人、女子が9人か10人です。6クラスなら男子が3人か4人、女子が6人か7人です」
 あたしが計算した人数を聞いて、みんなが思案に暮れてしまった。
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桜色迷宮24
「合宿の参加者名簿、誰が持ってる?」
「朱音ちゃんが持ってるよね。オレ渡した」
「持ってきました。……今年は多いですね。50人もいますよ」
「ミユキちゃん人気でね。良かったな、小池。花火屋の里子もいるぞ。お前のお気に入り」
「でも里子先輩もミユキちゃん目当てだろ? オレショックでかい」
「お前の人気、確実に落ちたもんな。こっちは見てておもしろいけど」
「熊野先輩、いぢめないで下さいよ」
 以前よくあたしをからかっていた熊野先輩は、最近は美幸先輩の猛反発にあって、あたしにちょっかいをかけなくなっていた。美幸先輩が言ったとおり、熊野先輩よりも美幸先輩の方が強かったみたい。そのかわりに熊野先輩は小池先輩をからかい始めていて、あたしはちょっとだけ小池先輩が気の毒に思えた。
「いじめておもしろい奴がほかにいないからな」
「朱音ちゃんもオレのこといじめるし、会長はオレをおとしいれるし、一枝はからかうし、味方はお前だけだ西村ぁ!」
「悪いけど、小池の側についてもメリット少なそうだから遠慮させてもらうよ。オレは気ままな一匹狼」
「そんな……オレ絶望的」
 ぺたっと机に貼り付いた小池先輩に、救いの手を差し伸べたのは美幸先輩だった。
「小池、僕は君の味方だよ」
「ほ……ほんとか?」
「ただし、一二三ちゃんをからかわないって条件つきだけど」
「ありがとう、心の友よ!」
 美幸先輩と小池先輩の2人がガッチリ手を握りあい、見つめあっているところで、会長が生徒会室のドアをあけた。
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桜色迷宮23
 それから夏休みまでの間も、あたしへのいじめは細々と続いた。朱音先輩に言われてから、あたしはなんとなく美幸先輩を意識してしまって、今までどんな風に会話してたのかぜんぜん思い出せなくなっていたんだ。先輩が笑いかけてくれたとき、あたしはどんな表情をしていたんだろう。それが判らなくて、先輩といるときにうつむく回数は増えていたと思う。
 終業式のその日、授業が終わるといつものように生徒会があった。通知表をもらってから直接生徒会室へ行くと、一枝先輩と朱音先輩がみんなの来るのを待っていた。
「おはよ、一二三ちゃん。通知表どうだった?」
 一枝先輩は自分の通知表をあたしに見せながら、ちょっとはしゃいでいるみたいだった。
「英語が思ったより良くて」
「あたしも。ミユキちゃんのおかげでね。ミユキちゃんは小池なんかより数段教えるのうまいね。試験の成績も良かったし、夏休みの宿題もミユキちゃんに教わることに決めたわあたし」
 そうして女子3人でたわいない話に花を咲かせていると、やがて会長が入ってきた。
「あれ? まだ3人?」
「会長は早いですね」
「オレはもう一仕事ある。熊野もきてないのか。いいや。今日は宿題チェックと夏休みの予定の話だけだから。みんなが来たらこれ配っておいて」
 会長は予定表のような紙を置いてまた出ていってしまった。3人で1枚ずつそれをとると、先輩たちが口々に話し始めた。
「わお、文化祭準備がぎっしり」
「合宿が8月3日からか。こっちの準備も大変そうだね。忙しくなりそう」
 そうこうしているうちに会長以外の全員が集まってくる。美幸先輩はあたしに視線を止めてわざわざ挨拶してくれたけど、あたし自身は小さく挨拶を返しただけで、先輩の目を見ることができなかった。
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桜色迷宮22
 あたしはしばらく朱音先輩を見つめたまま硬直してしまった。そのうちにふと先輩が視線を外して、ようやくあたしも視線を落とす。制服を洗いながらも混乱していて、まともにものを考えることもできなくなっていたんだ。先輩が言ったようなことをあたしは今まで1度も考えたことがなかったから。
 恋愛とか、憧れなかったといえば嘘になる。小学生の頃、学校を休んだあたしにクラスの友達は、学校のプリントと一緒によく少女マンガを差し入れてくれた。明るくて健康な女の子が主人公の恋愛マンガ。きっと、病気が治って元気になったら楽しいことがたくさんあるって、その子はあたしを励ましてくれたんだと思う。それとも何も考えずにただ暇つぶしにと思って差し入れてくれたのかもしれないけど。
 病気を持っていたあたしには、恋愛なんて遠い世界の物語だと思ってた。あたしは長く生きられないかもしれないし、たとえ大人になれたとしても子供を産むのは無理だろう。そんなあたしをそういう目で見てくれる人がいるなんて、あたしには思えなかったから。もしも逆の立場で、あたしが健康だったとしても、あたしはあたしと同じ病気を持った男の人と恋をするとは思えないから。
 あたしが病気だって知ってからも、美幸先輩はずっと変わらずに優しく接してくれる。それはきっと、生徒会の先輩たちと同じように、あたしの身体を気遣ってくれているからなんだろう。そんな美幸先輩の態度が、何も知らない人から見たら好きな女の子に優しくしているように見えるのかもしれない。一緒にいる時間が長いのは同じ会計監査だからで、2人きりで下校するのは単に家が同じ方角だからってだけなのに。
 美幸先輩には好きな人がいる。あたしは先輩が好きな人にも同じ誤解をさせてるのかもしれないんだ。あたしの病気のこと、学校のみんなが知ってくれたら、そんな誤解はなくなると思う。だけどそのために学校中にそれを話して回るほどの勇気はあたしにはなかった。
 程なくして一枝先輩が戻ってきてくれて、一緒に制服を洗ったあと、被服室でアイロンを借りて乾かした。お母さんに心配をかけたくないって言ったら、先輩たちが協力してくれたんだ。あたし本当に恵まれてると思う。ずっと優しくしてくれる先輩たちに、あたしは少しでも何か返すことができているんだろうか。
 美幸先輩が好きな人って、どんな人だろう。きっと一枝先輩みたいに明るくてかわいい人が美幸先輩には似合うんだろうな。
 美幸先輩の隣に一枝先輩がいるところを想像して、あたしはほんの少しだけ、さびしいような気持ちを味わった。
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桜色迷宮21
 美幸先輩はうしろから追いかけてきてくれて、女子トイレの洗面台にジャージをひとそろい置くと、そのままそそくさと帰っていった。その理由に気づいてちょっとだけ気分が明るくなる。あたしは全身汚れていたから、先輩は気を遣ってジャージをここまで運んでくれたけど、女子トイレに入るのはやっぱり恥ずかしかったんだ、って。
 土曜日の放課後で誰もいなかったから、あたしは汚れた制服をぜんぶ脱いで、まずは髪を洗った。こういうとき長い髪は不便だと思う。あんまりにもベタベタして気持ちが悪くて、誰も見てないのをいいことにそのへんにあった台所用の中性洗剤で洗ってしまった。こうなるともうあとはどうでもよくて、その洗剤で顔も手も洗って、制服を洗っている間に一枝先輩と朱音先輩がそろって入ってきていた。
「一二三ちゃん、今会長に聞いたわ。大丈夫なの?」
「怪我はどう? 傷はなかった?」
 そのときあたしはまだ下着姿だったから、朱音先輩はあたしの全身をくまなく観察して、ほっと息をついていた。
「すいません、心配かけちゃって」
「ひどいことするわね。一二三ちゃんは小さな怪我が命に関わるっていうのに」
「あたしたち生徒会は一二三ちゃんの味方だからね。……あたし、会長たちに中間報告してくるわ。特にミユキちゃんが心配してたから」
 そう言って一枝先輩が出て行くと、朱音先輩はあたしが制服を洗うのを隣で手伝ってくれた。
「一二三ちゃん、誰かにこんなことされる心当たりってあるの?」
 それはそもそもあたし本人にもさっぱり判らないことだった。もしも直接誰かを傷つけたのなら、少しくらいは記憶にあるはずだから。
「だとしたらたぶん逆恨みね、ミユキちゃんがらみの。ミユキちゃん、女子からの告白をぜんぶ「好きな人がいるから」って理由で断ってるみたいだから」
 思いがけない朱音先輩の言葉に、あたしは顔を上げてまじまじと見つめてしまった。
「どういうことですか?」
「一二三ちゃんがミユキちゃんと仲がいいんで、みんなやっかんでるのよ。自分が相手にされないのは自分のせいなのにね」
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桜色迷宮20
 どこをどう歩いてきたのか記憶はなかった。気がつくとそこは生徒会室のドアの前で、汚れた手を制服のスカートでふき取ってノブを回したとき、中にいた河合会長と熊野先輩の姿を見て思わずその場に崩れ落ちてしまった。
「一二三ちゃん!」
「どうしたんだそのかっこうは」
 涙が出てきて、あたしは自分が泣いているのが判った。先輩たちがおろおろと戸惑っているのは判ったけど、今はこの場を取り繕う余裕なんかなかった。嗚咽交じりに食堂で転んだことと、誰かにカレーをかけられたことを告げると、その合間にも会長はあたしの顔と手をタオルでぬぐってくれた。
「一二三ちゃん、手をよく見せて。足も。怪我はしなかったのか?」
 会長はあたしのスカートをめくって膝を確認すると、ほっとしたように息をついた。あたしはほんの小さな傷でもすぐに病院へ行かなければならない。あとで自分でも確認しなければならないけど、手と膝に傷がないならたぶん大丈夫だろう。
「一二三ちゃん!」
 そのとき開けたままだった背後のドアから飛び込んできたのは、声しか聞こえなかったけど美幸先輩だった。
「誰ですか! 一二三ちゃんを泣かせて」
「落ち着けミユキちゃん。幸い怪我はないみたいだから。とにかく着替えた方がいいね。一二三ちゃん、体操着かジャージは持ってる?」
 1年中体育を見学しているあたしはジャージなんか持ってきていない。まだ声を出せなかったあたしが首を振ると、会長が続けた。
「それじゃ、オレのを貸してあげるから ―― 」
「会長、僕のがまだ洗濯して1度も着てないから、僕が貸します」
「それじゃ、一二三ちゃん。トイレで顔を洗って、ミユキちゃんのジャージに着替えておいで。ゆっくりでかまわないからね」
「……はい。すいません」
 ようやくそれだけ言うと、あたしは立ち上がって、生徒会室から1番近いトイレに向かった。
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桜色迷宮19
 最初は気のせいか、何かの間違いなんだと思った。球技大会が終わった翌週のある日、お母さんが作ってくれたお弁当の箸箱の中に、箸が入ってなかったんだ。学食には割り箸が常備してあるからその日は特に何事もなく過ぎていった。その翌日に筆箱の消しゴムがなかったことも、きっとあたしが生徒会室にでも落としたんだろうと思って、あまり気にしないでいた。
 でも、靴箱の靴がいつの間にかゴミ箱に移動していたり、机の中にカビの生えた雑巾が入っていたりしたら、さすがのあたしも認めない訳にはいかなくなっていた。どうやらあたし、いじめの標的になってるみたい。1度そう思ってしまうと、ふだん通りに接してくれるクラスの友達までどことなくよそよそしく感じてきて、気分がどんよりと落ち込んでしまったんだ。
 あたしは小学生の頃、病気が原因で軽いいじめにあったことがあって、そのことがただでさえ内気な性格に更に拍車をかけていた。だから逆に、この程度のいじめになら多少の免疫はあった。机に何かが入っていたのなら捨てればいいし、なくなったものは探して、見つからなければ新しく買えばいい。教科書に極太の油性ペンで「ドブス」って書いてあったのは……どうしようもないって言えばそうだけど、そのページだけ誰かにコピーさせてもらえば困ることはないし。靴箱を開けた瞬間に数匹のアマガエルが飛び出してきたときには、田んぼの周辺でカエルを捕まえている誰かさんの姿を想像して、笑いをこらえるのに苦労してしまった。
 だけど、そこまでしてもあたしをいじめたいほどその誰かさんに嫌われてしまったのは確かで、小さなことでも積み重なるとやっぱり気分は落ちてくる。夏休みを間近に控えた土曜日、午後の生徒会活動のために用意してもらったお弁当箱に大量の髪の毛が入っていて、仕方なく学食へ行ったあたしは、かけうどんをテーブルに運んでいる最中に衝撃を受けてその場に転んでしまったんだ。
「熱っ……!」
 膝にかかったうどんはすぐに払い落とした。でもそのとき、頭の上からお皿が落ちてきて、独特の匂いとともにあたしの目にカレーライスの残骸が飛び込んできたんだ。どうやらあたし、転ばされただけじゃなくてカレーまでかけられたみたい。さすがにショックで、周りの人が心配して声をかけてくれる言葉も少しの間頭の中に入ってこなかった。
「 ―― ここは片付けておいてあげるから ―― 」
 あたしを立たせてくれた誰かがそう言ったことだけ理解できた。あたしはその人に小さくお礼を言って、そのまま食堂を飛び出していた。
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桜色迷宮18
 けっきょくあたしは起きられなくて、先輩が持ってきてくれたかばんの中のお弁当を、保健室のベッドの上で食べることになった。先輩はいつも学食で、でもどうやって調達したのか校内で売られている惣菜パンを持ってきて、あたしに付き合ってくれたんだ。午後になってから先輩は再び試合に出かけていって、戻ってきたときには既に制服に着替えていた。その頃にはあたしも歩けるくらいには回復していたから、先輩はあたしのかばんを持ってくれて、家まで送ってくれたんだ。
「 ―― すいません、ほんとに、ご迷惑をおかけして」
「迷惑だとは思ってないよ。……一二三ちゃんは、人込みが苦手なのかな?」
「それもなんですけど、今日はちょっと、友達と一緒に走っちゃって。日差しも出てたから」
「だったら僕の試合を見るために焦ってた可能性もある訳だ」
 先輩が言ったのはほとんど図星で、あたしはうつむいたまま顔を上げられなかった。あたしが倒れたのは先輩のせいじゃないのに、先輩がそう思ったのだとしたらほんとに申し訳なくて。先輩にこれ以上弱い自分は見せたくなかった。だってあたしは先輩の側にいたいから。迷惑ばかりかけて、弱い身体をかばってもらってばかりいたら、きっとあたしは先輩に悪くてそれ以上そばにいられなくなるから。
「なんか、たぶん、周りの雰囲気に飲まれたんだと思います。もう2度と倒れないように自制しますから」
「……そうだね、倒れて苦しいのは一二三ちゃん自身なんだ。一二三ちゃんが自分で気をつけないとね」
 道の先を見据えながらそう言った先輩はなんだか少しだけそっけないような気がした。きっとそんなに気にするほどのことじゃないんだろう。あたしはいつも相手の小さな反応を気にしすぎて、自分を追い詰めてしまう悪い癖があるって自覚してる。先輩はいつも優しい態度で接してくれて、あたしが気になるような反応を見せたことがなかったから、今までこの悪い癖が出たことがなかったんだ。
 勇気がしぼんでしまう。先輩に迷惑をかけた自分がすごく嫌になる。先輩が、あたしのことを嫌いになってしまったかもしれない、って。
「一二三ちゃん? 気分が悪いの?」
 気がつくとあたしは立ち止まっていて、先輩があたしの顔を覗き込んでいた。これ以上、心配も迷惑もかける訳にはいかないって、あたしは必死に顔を上げて家までの道を歩き続けた。
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桜色迷宮17
 美幸先輩の試合は午前中の最後だったのだけど、あたしは試合が終わるまで見ていることができなかった。一緒に来た友達に声をかけて、付き添いも大丈夫だからと断って、再び人込みを抜け出した。ちょっとふらつきながらもどうにか保健室まで辿りつく。こんなときだったから養護の先生はずっと保健室に張り付いていて、あたしの顔を見るとすぐにベッドに寝かせてくれた。
 何人か、怪我をしたらしい人が入ってきてパーテーションの向こうがざわついてはいたけれど、それでも少しはうとうとすることができたみたい。目覚めたときにはずいぶん気分が楽になっていた。
「目が覚めた?」
 とつぜん、思いがけないほど近くから声が聞こえて、あたしは驚いてしまった。でもあたしは少女マンガの主人公みたいにガバッと起きたりなんかできないから、ゆっくり目を開けると覗き込んでいる人の顔がぼんやりと見えた。
「……美幸先輩……? どうして……」
「君と一緒に来てた友達に訊いたらここだって教えてくれた。気分はどう? まだ寝ていた方がいいかな?」
 そうか、先輩の試合が終わったんだ。いきなり胸の中に不安が押し寄せてきて、ムリヤリ身体を起こそうとしながら先輩に訊いた。
「先輩、今、何時ですか?」
「今? お昼休みが始まって少し……12時半だね。そこに時計があった」
「……教室、帰ります」
「まだ起きられないんだろ? 無理しないでしばらく寝ていた方がいいよ」
「薬、飲まなきゃ」
 あたしの薬は、6時間ごとに1日4回飲むことになっている。毎日6時と12時に決めていて、でも2時間くらいまでなら遅れても大丈夫なんだ。先輩も気づいてくれたんだろう。起き上がろうとするあたしを押しとどめて、椅子から立ち上がりながら言った。
「教室のどこにあるの? かばんを取ってくればいい?」
 正直、先輩の申し出はすごくありがたかった。小さくすいませんと言うと、先輩は安心させるような笑顔を残して保健室を出て行った。
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桜色迷宮16
 たいへんだった1週間が過ぎて、生徒総会も何とか無事に終了した。総会ではいつも副会長が司会をするのだけど、今年の司会は小池先輩で、場内爆笑の渦、ってほどでもないけどすごく楽しかった。総会では会計報告がメインだから、一般生徒たちの質問が監査の内容にまで及ぶこともある。こういう舞台があたしは苦手で、いつもは会計の一枝先輩に代わりにマイクの前に立ってもらっていたのだけど、今年は美幸先輩がよどみなく質問に答えてくれて、転校してきて間がない先輩を初めて見た人たちのため息を誘っていた。
 総会が終わると今度は中間試験があって、その結果発表と同じ時期に学校主催の球技大会が行われる。試験結果の発表ではあたしはいつも数学でしか名前が載らないのだけど、掲示板に貼り出された2年生の結果がすごかったんだ。小池先輩と美幸先輩がほとんど全教科で同率首位、つまり万点だった。この2人は何か賭けでもしていたのかもしれない。発表の日に生徒会室へ行くと、互いの健闘をたたえあうも、何かの教科で1つ万点を落とした小池先輩は大げさなアクションで悔しさを表現していた。
 その翌日からの球技大会では、あたしはクラスのみんなの応援をするくらいしかやることがなかった。まだ寒いため、体操着姿のみんなに混じって、あたしだけ制服を着ていたんだ。さすがに中学3年間同じスタイルを貫いていたあたしのことを、高校で同じクラスになった人たちはみんな理解してくれていた。学年入り混じったクラス対抗戦になるため、1年生は比較的早くに負けてしまって、あたしのクラスでは男女5種目のうち残ったのが男子サッカーと、午後が初戦の女子バレーボールだけになっていた。
「ねえ、今体育館で山崎先輩がバスケの試合やってるんだって」
「ほんと? それぜったい見たーい!」
「ね、行っちゃおうよ。ほら、一二三もおいで」
 あたしはクラスの友達に引っ張られて、バスケの試合が行われている体育館へと向かった。走れないあたしのことをみんな忘れてた訳じゃないのだけど、それでも気が急いてるみたいで、あたしはいつもよりも息が切れてしまったんだ。辿りついた体育館は既に黒山の人だかりで、試合が見えるポジションに移動するまでにはずいぶん人波をかき分けなければならなかった。そうしてようやく視界が開けたとき、目に飛び込んできたのは美幸先輩がちょうどシュートを入れている瞬間だった。
 とたんにものすごい黄色い悲鳴が巻き起こって、あっけにとられたと同時に、あたしは改めて美幸先輩のすごさを知ったんだ。
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桜色迷宮15
「なにがちょうどいいんですか?」
「並んで歩くのが」
 その言葉の意味は、いくら鈍いあたしでも判った。だけど先輩がそんなことを言う理由が判らなくて、ちょっとうつむいたあと、言い訳のように小さく言った。
「あたし、背の大きい人って恐いです」
「僕も恐い?」
 もしかしたら先輩が気を悪くしたかもしれないと思って、あたしは上目遣いで先輩の表情を伺った。背が大きい人が怖いなんて、きっとほかの人にはあまり共感できない感覚だろうから。でも先輩の表情はさっきまでと変わらず笑顔で、あたしは安心して答えることができた。
「……ちょっとだけ」
「会長くらいの人なら恐くないのかな」
「会長は恐くないです。西村先輩も恐くないです。でも、熊野先輩と小池先輩は恐いです。特に小池先輩が1番恐いです」
「確かに身長は1番あるね。でも小池は知らないだろうな。あの長身のせいで一二三ちゃんにコワモテの熊野先輩より恐がられてるなんて」
「小池先輩には言わないでくださいね」
「いいよ。僕と一二三ちゃんの秘密だ」
 このとき先輩は初めて、あたしの頭に手を伸ばしてきて髪をなでた。あたしは驚いて顔を伏せたまましばらく上げることができなかった。こんなこと、小池先輩や熊野先輩ならしょっちゅうある。もっと乱暴にガシガシかき混ぜるようなこともあるし、その手に特別な意味なんてないこともあたしは知ってる。
 1年生のあたしは、言ってみれば先輩たちのおもちゃで、すぐにうつむいて赤くなるのが先輩たちには面白かったりするんだろう。それも1つの愛情表現だと思ってたからあたしは気にしていなかった。だけど美幸先輩のそれは、いつもの先輩たちとは少し違う気がしたんだ。
 あたしが黙ってしまったからだろう。美幸先輩はすぐに手を離してにっこり笑ったあと、あたしに次の仕事の指示を求めた。
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桜色迷宮14
 生徒会は4月から5月にかけてのこの時期、1年で1番忙しい季節になる。正確に言うと、会計監査の仕事がほかの時期に比べて格段に忙しいんだ。5月頭に開かれる生徒総会までの間に、あたしは昨年度1年間の監査を総括で出さなければならない。会計監査は毎月実施しているけど、それだけだとどうしてもごまかしがきいてしまうことがあるから。
 とはいっても、前年度の後記の会計は一枝先輩で、先輩が前期の分も暇を見てチェックしていてくれたから、間違いそのものはほとんどない。過去に会計をしていた先輩たちもみんなしっかりした人ばかりだったから、使途不明金をくすねるような人もいなかった。だから言ってみれば形式だけの監査と言えなくもないんだけど、これがあたしの仕事だったから、その週1週間はずっと生徒会室に缶詰状態で、美幸先輩と一緒に数字を見続けていたんだ。
 その最初の月曜日、河合会長はほかのみんなと一緒に生徒総会で配る資料の印刷に出かけてしまったから、あたしは美幸先輩と生徒会室で2人きりだった。
「 ―― 一二三ちゃん、僕は何をすればいいのかな」
「今資料を出します」
 あたしは棚を見上げて、手が届かないことに気づいてその下に椅子を引いてこようとした。そうしたら先輩があたしと棚の間に割り込んで言ったんだ。
「さあ、どれを取ればいいの?」
「あの、……右はじから仕切りまでぜんぶです」
「隣に僕がいるんだから、出来ないことは頼んでいいんだよ。幸いにして、一二三ちゃんよりも20センチ近く背が高いんだから」
 言いながら、先輩はひょいと手を伸ばして、数回に分けて難なく資料を取り出してしまった。あたしはなんとなく恥ずかしくなって、口ごもりながら言う。
「あたし、154です」
「僕はプラス18センチ。ちょうどいい」
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桜色迷宮13
「どうしたの?」
「……あたし、嫌な子なんですか?」
「一二三ちゃんはいい子だよ。僕はまだ一二三ちゃんに会ったばかりだけど、いい子だっていうのはすぐ判ったよ。だって、桜見て泣いてくれる人なんて、今まで会った中でいなかったもの。僕は、こんなにかわいくていい子なんていないと思う」
 そう言って先輩は笑ってくれた。……なんか、すごく変な気がする。どうしてあたし、初めて会った人とこんな話をしてるんだろう。
「先輩あたしのこと良く知らないから。……買い被ってるだけです。あたし先輩が思っているほどいい子でもかわいくもないです」
「それじゃ、小池にでもきいてみることにしよう。お母さんも知ってるみたいだし、そんなに長いつきあいならね」
 あたしの戸惑いが伝わったのか、先輩はそう言って会話を終わらせると、気分を変えて立ち上がった。
「おなか空かない? 僕は久しぶりなんだ、出店見るの。ね、お好み焼き食べよ」
 やや強引に先輩に手を引かれて、あたしは先輩のあとについて出店を一通り回った。夏祭りとは違って食べ物と飲み物のお店しかないから、食べられる分だけ買ってしまえばそれ以上見るものもない。再び桜の木の下に座って、たわいない話をしながら先輩と一緒に買い集めたものを食べた。そうしてお腹を落ち着けたあと、あたしは持ってきたバッグの中からミネラルウォーターと薬の束を取り出して、制服のスカートの上に広げた。
「一二三ちゃん、それ……」
 初めて見た人はたいていその量に驚く。ごく普通に過ごしている分には、あたしはそんなにひどい病人には見えないから。
「これがあたしの命なんです。1回でも飲むのを忘れたら、それ以上生きるのは諦めるようにって、お医者様に脅かされてます」
 小さな粒を1つ1つ取り出してスカートの上に並べていく。数えたことはないけど、たぶん20個近くはあるだろう。粒のほかに粉薬もある。ぜんぶを取り出して一気に口の中に入れたあと、ミネラルウォーターで流し込んだ。先輩が驚いているのが判る。
「運動ができないのと、怪我をしちゃいけないのと、毎日薬を飲まなくちゃいけないだけですから。……気にしないでください」
 人前で薬を飲むことには慣れていたけれど、今後の先輩が今日と態度を変えてしまうような気がして、それが少しだけ残念に思えた。
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桜色迷宮12
「どうしよう。ハンカチこんなに濡れちゃった。ちゃんと洗ってお返ししますので」
 ようやく現実的な話ができるようになっていた。先輩も安心したのだろう。ほんの少し怒ったような、困ったような表情をした。
「あのねぇ。僕はちゃんと、あげるからねって言っただろ? 返さなくていいよ」
「でもこんな、こんなかわいいサイ模様のハンカチなんて、きっと手に入れるの難しいんじゃないですか? あたしなんかがもらっちゃったりしたら……」
「一二三ちゃん、それ、口癖?」
「え?」
「あたしなんか、っていうの。さっきからそんな事ばっかり言ってる」
「自信がないから……」
「自信って、何に?」
「え? だって、一枝先輩みたいに明るくもかわいくもないし、朱音先輩みたいにしっかりしてないし。いっつもみそっかすで……なに言ってるんだろあたし」
「誰かにそう言われたの?」
 あたしは首を横に振った。
「かわいいって言われたことはある?」
「一枝先輩とかには……」
「だったら、一枝先輩にかわいいねって言われて、一二三ちゃんが、いいえかわいくありません、て言ったら、それは一枝ちゃんに失礼ってもんじゃないの。思うに一二三ちゃんは、ちょっと謙虚すぎるんだね。でも、謙虚なのはいいけど、謙虚すぎるのはまわりの人間にとって嫌味だよ。それは良くないところだからなおさないと」
 先輩はあくまでにこやかにそう言ったのだけど、あたしは先輩の思いがけない言葉に呆然としてしまっていた。
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桜色迷宮11
 美幸先輩は、癖のない真っ黒な髪を額に被せていて、男の人には珍しいくらいの白い肌をしていた。頬から顎にかけての線は滑らかで、まだ大人の男の人になりきれていないような、どこか中性的な感じがする。着崩していない制服は先輩の身体にぴったりと合っていて、その姿勢のいい立ち姿にはいくぶん古風な印象があった。先輩の顔には日本人離れした彫りの深さも見えたのだけど、むしろこの人には和服が似合うかもしれないと思った。
 延々と続いていく桜迷宮。散り始めた白い桜の花びらのじゅうたんを踏みしめて立つ先輩に、あたしはなぜか切なさのようなものを感じていた。この人はきっと夜に属している。そう感じさせる何かがあって、あたしは先輩から目を離すことができずにいたんだ。
「一二三ちゃん、どうしたの……?」
 知らず知らずのうちに、あたしは涙を流していたみたい。いつの間にか先輩の顔が間近にあって、あたしは先輩に見とれていたことをごまかすように言葉を捜した。
「……あんまり綺麗で。……知らなかった。桜がこんなにきれいだなんて」
「一二三ちゃん!」
「あ、あの、大丈夫です。あたし、ふだんそんなに泣くことないんですけど、感動するとつい涙がでてきちゃうんです。すいません。困りますよねこんな子」
 そうしゃべっている間もなかなか現実に戻れなくて、あたしは嗚咽をこらえながら涙を流していた。恥ずかしいから早く止まってほしかったのに。
「熊と象とサイとパンダ、どれが好き?」
「……1番はサイです」
「それじゃ、サイ模様のハンカチをあげよう。これで顔をふいて」
「……すいません。お借りします」
 先輩にハンカチを借りて、ようやく涙が止まったのは、先輩に促されて桜の木の根元に腰掛けてしばらく経ったときだった。
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桜色迷宮10
「僕も1人っ子」
 そう言って笑った先輩は、あたしの呼び方を自然に受け止めてくれたみたい。たぶん、夜道で先輩の顔があまり見えなかったこともあるんだろう。しだいにあたしの緊張もほぐれていった。
「先輩はおうちに連絡しなくていいんですか?」
「僕は1人暮らしだから。両親はヨーロッパ行っちゃっていないんだ」
「そうだったんですか」
「誰もいないから気が楽でいいよ。そのうち遊びに来て欲しいな。できればみんな誘って」
「そうですね」
 さっきまで先輩といるのが気詰まりで仕方がなかったのに、それが嘘だったように話が弾んだ。あたしは先輩が微笑んでくれるのが嬉しくて、夢中になって生徒会のみんなのことを話していた。初めて先輩を見たとき、あんまりにも綺麗で、あたしはそれだけで萎縮してしまったんだと思う。でもこうして話している美幸先輩はごく普通の優しい先輩でしかなくて、まるで今までずっと側にいた人みたいに、あたしは先輩になじんでしまっていた。
「 ―― 熊野先輩と小池先輩はよくあたしをからかうんです。たいてい一枝先輩が助けてくれて」
「今度からは僕に言うといいよ。熊野先輩や小池には負けないから」
 自分でもすごく現金だと思ったけど、これから毎日先輩と一緒に帰れるのが嬉しく思えて。
 やがて到着した桜並木は、たぶんどこかの企業の庭先をこの時期だけ開放しているようなところなのだろう。桜の本数はたぶん50本もないのだろうけれど、それなりに人は多くて、出店もいくつか並んでいた。
「きれいだ」
 先輩が一言だけつぶやいて、あたしに2、3歩先行したところで足を止めた。ライトアップされた桜並木はまるで永遠に続いているかのような遠近感を持っていて、その手前にいる先輩の横顔があたしの目に入ってきたとき、あたしは不思議な感情にとらわれていた。
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桜色迷宮9
「 ―― 桜」
「……え? 何ですか?」
 先輩の言葉は唐突で、あたしは思わず振り返って聞き返してしまった。先輩と目が合って、真剣な表情で見返されてドキッとする。
「一二三ちゃん、桜を見にいこう。今日これから」
「ええ? だって、もう6時半で……。今度の土曜日か日曜日にでもみんなで行った方が……」
「それまで待ってたら桜が散っちゃうよ。なんたって明後日の天気予報は雨だ。今日行こう。なにか問題ある?」
「あ、あたし、お母さんがなんていうか」
「それじゃ、僕から話してみる。それでお母さんの許可が出たらいいんだよね。遅くならないうちにちゃんと送り届けるから」
「それでしたら。……そこの角曲がります。あの、青い屋根の家です。あたし、お母さん呼んできますから」
 うちのお母さんは心配性で、あたしが生徒会にいることにもあまりいい顔はしていなかった。中学のとき、初めて河合会長に誘われたときにも、お母さんはずっと反対していたんだ。たぶん純粋にあたしの身体が心配だったんだと思う。なにしろ公立の中学校は徒歩20分以上もかかるからって、わざわざ近くの私立中学を受験させてくれたくらいだったから。
 だからあたし、こんな時間に夜桜見物なんて、お母さんがぜったいに許してくれないだろうと思ってた。でも先輩と話して、なぜかあっさりとあたしの外出を許してくれたんだ。もちろん9時までには必ず送り届けるって条件付きだったけど。
 先輩のあとについて歩きながら、あたしは呆然としていたみたい。気づいて先輩が声をかけてきた。
「一二三ちゃん、どうしたの?」
「お母さん、先輩のこと気に入ったみたい。9時までに帰ってくればいいだなんて。……あたし、反対されると思ってたから」
「いいお母さんじゃない。一生懸命一二三ちゃんのこと心配してたよ。ひょっとして、一二三ちゃんは1人っ子かな」
「そうです。美幸先輩は?」
 本当に自然に、あたしは先輩をそう呼んでいて、気づいて自分で驚いてしまった。
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桜色迷宮8
「さて、一二三ちゃんと一枝ちゃん、どっちが近いのかな」
「あたしの方が近いけど、でもあたしは国道のあたりまででいいよ。そこからは100メートルくらいだし、今の時間だとまだ明るいから。そうだ、うち、銭湯やってるの。みんなときどき来てくれて、売り上げ協力してくれてるのよ。そのうちミユキちゃんもお願いね」
「へぇ、そうなんだ。僕は銭湯好きだから近々いくよ。一枝ちゃんが番台にいないときに」
「あたし、番台にはほとんど上がらないわよ。たいていはお母さん。なにしろあたしに似て美人だから、お客さんの評判も良くて。不況でもあんまりお客さん減らなくて助かってるの。ね、一二三ちゃん」
「うん」
 そうこうしているうちに国道までやってきて、一枝先輩はそのまま手を振って帰っていってしまった。にぎやかな一枝先輩が去ってしまうと、あたしは山崎先輩と2人きりになって、とたんに沈黙が包む。国道を渡るとそこは田んぼ沿いの田舎道で、人通りもまったくなく先輩と2人きりで、あたしはどうしたらいいのかぜんぜん判らなくて緊張していた。
「こんな道をいつも通ってるの?」
 先輩が話しかけてくる。あたしはうつむいたまま、短く返事をした。
「そうです」
「ここからどれくらい?」
「……7、8分くらいだと思いますけど」
「いつもは会長が送ってくれてるの?」
「会長だったり、小池先輩だったり、熊野先輩だったり。みんな反対方向だから遠まわりになっちゃって。本当は1人で帰れるんですけど」
「これからは毎日僕が送ってあげるよ」
「……すいません」
 なんだかうまく会話が続けられなかった。きっと先輩も呆れてしまっただろう。こんなのがこれから毎日続くのかと思うと気が重かった。
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桜色迷宮7
 今日の予定の仕事を何とか6時までに終わらせて、会長が終了宣言をしたあと、あたしは荷物をまとめてみんなに続いて生徒会室を出た。山崎先輩はずっと手伝ってくれていて、あたしはほとんど話をしなかったのだけど、一枝先輩とはずいぶん仲良くなっていたみたいだった。
「ミユキちゃん、家はどこ?」
 会長に訊かれて、山崎先輩はもうすっかりその呼び名に慣れたようで、にこやかに答えていた。
「生鮮市場の近所です。市役所の先の」
「そうか。それだったら一二三ちゃんちが通り道だな。送ってってくれる?」
「はい、いいです」
 そんな会長と山崎先輩の話を聞き付けて、一枝先輩も会話に加わる。
「それだったらあたしも一緒に帰るわ。そうすれば会長が遠まわりしなくてもいいでしょ?」
「そうだな。それじゃミユキちゃん、2人まとめて頼むよ。オレも熊野もちょっと方角が違うから」
「判りました。あんまり腕っ節に自信はないけど、一枝ちゃんなんか僕より強そうだし、大丈夫でしょう」
「ちょっとミユキちゃん! それはないでしょう」
「ははは……すっかり見抜かれてやんの」
 山崎先輩はもうみんなに溶け込んでしまったみたい。きっと山崎先輩はこの生徒会の人たちと同じような人種なんだろう。明るくて、物怖じしなくて、ここではあたしの方が異質なんだ。いつもは先輩たちが気を遣ってくれてそんなことは感じないのだけど、ふとした瞬間にあたしは自分がものすごくちっぽけに感じて、いたたまれなくなることがある。
「それじゃ、また明日」
「おつかれさまでした」
 朱音先輩はいつもと同じように小池副会長に送られて帰っていった。会長は西村先輩を伴って、熊野先輩は1人で、それぞれ散っていってしまうと、山崎先輩と一枝先輩、それにあたしの3人が残った。
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桜色迷宮6
「 ―― 一二三ちゃんて……1年生なのに会計監査なんですか? 入学したばかりで」
「会計監査は生徒会長の一存で決められるからね。一二三ちゃんは天才なんだ。数字よませたら数学の先生なんか足もとにも及ばない。もちろんわが生徒会もパソコンにお世話になってるけどさ、数字の打ち間違いを見つけることは人間にしかできないから。ミユキちゃん、君は?」
「僕は転校生なんです。前はI県の方にいたんですが、親の都合でこっちに。もう毎年なんですよ。おかげで転校には慣れましたけど」
「クラブ活動は? なにか入るの?」
「特に考えてないです」
「それなんだよな。きいてよ会長。オレと山崎さ、実はクラブの勧誘から逃げてたの。こいつひ弱そうに見えて実はかなりスポーツ万能でさ。サッカー部やら野球部やら陸上部やらが寄って集ってこいつを追っかけるんだよ。山崎は優柔不断で断んねえから余計しつこくなって」
「それなら簡単だ。ねえミユキちゃん、生徒会に入る気はないかい? 今なら特別待遇で会計監査に任命するよ」
 一瞬、小池先輩と一枝先輩が息を飲む気配があった。山崎先輩はちょっと考えるようにしてから、やがて静かに答えた。
「ありがとうございます。本当に僕でいいんだったら、ぜひよろしくお願いします」
「当分は一二三ちゃんの補佐だから、難しいことはないよ。何か月かやってみて、オレ達の生徒会を気に入ってくれたら、その時には改めて役員に立候補してくれれば言うことないよ。ぜったいに気に入ってもらえると思う」
 その頃になって、あたしはようやく、今朝小池副会長が言っていた言葉を思い出したんだ。次期生徒会長になれそうな人を連れてくる、って。河合会長がこんなにあっさり山崎先輩を生徒会に受け入れたってことは、この人は会長のお眼鏡に適ったのかもしれない。
 そのあと戻ってきた熊野副会長たちに、河合会長はもう山崎先輩を会計監査のミユキちゃんとしか紹介しなくて、とうの山崎先輩は苦笑を浮かべながらも自分の呼び名を了承してしまったみたいだった。
 山崎先輩は落ち着いた声色で会長たちと談笑していて、隣に座ったあたしは予算の仕事が再開されるまで、とうとう顔を上げることも声を出すこともできなかった。
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桜色迷宮5
「ややや、遅くなってすいません。ちょっと道が混んでて」
「時間は守れよ。イベント予算なんて、お祭り人間のお前がいないことには先へ進まないんだからな。それよりうしろにいるの、友達か?」
「おい、入ってこいよ」
 おどけながら現われた小池先輩のうしろに、1人の男子生徒が立っているのが見えた。あたしの位置からでは小池先輩よりも少し身長が低いというくらいしか判らない。でも、先輩に呼ばれて入ってきたその人を見たとき、あたしは驚いて固まってしまったんだ。
 なぜならその人は、今まであたしが見たこともないくらい、綺麗な顔をしていたから。
「こいつ、同じクラスの山崎美幸(やまざきよしゆき)。ミユキって書くんだ。うちのクラスのクラス委員だぜ」
「よろしく、ミユキちゃん」
「ミユキちゃんよろしくー」
「ま、ミユキちゃん楽にして。コーヒーでも入れようか」
「一二三ちゃんの隣にでも座るといいわ、ミユキちゃん」
 あたし、物怖じしない先輩たちを、これほどすごいと思ったことはなかったかもしれない。もともとすごい人たちなのは知ってたけど、こんなに簡単に、しかもこんなに綺麗な人を目の前にして、どうしてふだんどおりに振舞えるんだろう。あたしは何も言えずに呆然としていただけだったけど、山崎先輩の方も驚いたようだった。なぜなら会長と一枝先輩が示し合わせたようにミユキちゃんを連発していて、山崎先輩の呼び名はミユキちゃんに決まってしまったも同じだったから。
 書類を手早く片付けた一枝先輩は、山崎先輩を誘導してあたしの隣に座らせてしまった。あたしは顔を上げることができなくて硬直していたのだけど、会長が5人分のインスタントコーヒーを入れていて、いつの間にか休憩になってしまったみたいだった。
「まず紹介するよ。オレが生徒会長の河合信弘。隣が会計の一枝ちゃんで、君の隣にいるのが会計監査の一二三ちゃん。彼女はまだ1年生だよ。うちのアイドル。もちろんほかにもいるけど、今ちょっと出てるから」
 会長が変な紹介のしかたをするから、あたしはますます顔が上げられなくなってしまった。
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桜色迷宮4
 あたしの放課後は、生徒会室へ行くことから始まる。クラス担任の先生はしゃべり方がゆっくりで、だからいつもあたしが行く頃には会長を除いた全員が集まっている。でも今日だけは小池副会長がいなかったんだ。そのことはたいして気に留めずに一枝先輩や朱音先輩と話していると、間もなく河合会長がやってきて今日の活動が始まった。
「 ―― 朝も言ったけど、今日は生徒総会に出す予算案の草稿を作るからね。それじゃ、まず書類のチェックから。熊野、予算請求書が出てないクラブある?」
「演劇部とラグビー部、それからテニス部女子、あと、写真部マン研……」
「昨日締め切りだって言っといたのにな。んーと、熊野と書記の2人、手分けしてもらってきて。まだ出来てないようだったらとりあえず金額と内訳だけでいいから。それから、去年度の決算の方は、会計の一枝ちゃん、できてる?」
「決算表の数字の打ち込みだけなら。コメントの原稿はまだ。でも、数字はちゃんと一二三ちゃんにチェック入れてもらってるから」
「よろしい。コメントの方はあとで単語だけ言うからつなげといて。あと……小池は遅いな」
「さっき職員室で見かけましたけど。何かあったんですかね」
「ま、今日予算やるのは知ってるはずだから、まちがいなく来るだろうけどな。いいや、先いこう。一枝ちゃんと一二三ちゃんは各クラブの予算請求書まとめてて。西村君と朱音ちゃんは請求書の取り立ておわったら決算表のレイアウトと印刷に入って。熊野とオレはイベント予算の調整をやる。小池が来たらオレと代わって、オレは演説原稿作るよ。質問は……ないようなので、それじゃ、始めてください」
 会長の掛け声で、熊野先輩たちは生徒会室をあとにした。あたしと一枝先輩は各クラブの予算請求書とにらめっこを始める。
「電算部の予算が突出してるね。まったく、1つのクラブに70万もの金額出せる訳ないじゃないの。20万に削減で決まり」
「でも電算部は新しいパソコンを増やしたいんでしょう? 部員が増えたから」
「だめよ、一二三ちゃん。甘い顔する訳にはいかないんですからね。それにしても、今の段階で100万以上オーバーしてるのに、まだ演劇部が残ってるのよね。会長は演劇部に立場弱いから困るな。熊野先輩が直談判してくれるといいんだけど」
 一枝先輩にはほんとに教えられることが多いと思う。先輩が心を鬼にして予算金額をカットしていると、間もなく小池先輩が姿を見せた。
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桜色迷宮3
 あたしの1日は、こうした河合会長の宿題チェックから始まる。あたしは昨日四苦八苦してもできなかった英語の宿題を小池副会長と一枝先輩に見てもらっていて、そうこうしているうちにほかの役員も登校してきた。
「おはようございます」
「おはよう、西村君に朱音ちゃん。あ、熊野。お前古文の宿題やってきたか?」
 西村先輩と朱音先輩が書記の2年生で、熊野先輩は3年生の副会長。河合会長とは隣のクラスで、選択科目が一緒だから、いつも気軽な会話を交わしている。たぶん河合会長にとっては無二の親友なんだろうと思う。
「やってねーよ」
「じゃ、貸してやるから写しときな。西村君は? 今日は確か歴史の小テストだったよね。勉強してきた?」
 眼鏡で小柄な西村先輩は会長に、ぽっちゃり系でしっかり者の朱音先輩は小池副会長に勉強を教わりながら、いつもの通り生徒会室はにぎやかだった。中学の頃から生徒会を続けていたけれど、あたしは今のメンバーが1番居心地がいい。もちろん後輩もみんないい人たちばかりだったけど、でも河合会長がいるのといないのとではやっぱりぜんぜん違っていたから。
 中学のとき、クラスになじめなかったあたしの世界を変えてくれたのが、河合生徒会長だった。本当だったら口もきけなかったはずの一枝先輩や小池先輩、そのほかたくさんの人たちとの出会いを与えてくれて、あたしは少しだけ明るい自分を知ったと思う。まだまだ内気なのは直らなくて、病弱なあたしはみんなに迷惑をかけたりもしたけど、でもいつも笑顔で支えてくれたのがこの生徒会だった。少しでも会長やほかのみんなに近づきたくて、あたしは与えられた仕事を精一杯がんばっていたと思う。
 授業開始のチャイムが響く10分前、あたしたちの朝のおつとめは終わる。そのときふいに、小池副会長が言った。
「今日の放課後、できたらおもしろい奴をつれてくるよ。次期生徒会長の器かどうか、見てやってくれ」
 小池先輩は中学でも2年連続で副会長をやってたから、高校でも会長に立候補するつもりはないんだろうって、あたしは軽く聞き流した。
 だからこのとき先輩が言ったその人が、まさかあたしの人生を180度変えてしまうことになるなんて、まるで思ってもみなかったんだ。
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桜色迷宮2
 始業の1時間前に登校して、教室へは行かずにまっすぐに生徒会室の扉を叩く。それが、今年めでたく高校に進学したあたしの、新しい日課になっていた。同じ学園内の高等部に舞台を移してまだ数日。でもあたしは既に、この高校の生徒会会計監査に任命されていたから。
「おはようございます」
「おはよう、一二三ちゃん」
 最初に挨拶を返してくれたのは、高校でも生徒会長をしている河合先輩だった。いつも陽気で責任感にあふれていて、身体はそれほど大きくないと思うけど、まわりを明るくする華を持った人だと思う。あたしは中学の頃からずっと河合先輩に憧れていて、高校に入ってからも先輩にいわれるままに会計監査の指名を受けたんだ。これからたった半年だけだったけど、先輩の傍で働けるのが嬉しかったから。
「昨日数学の宿題が出たんだって? やってある?」
「はい、たぶんやってあります」
「なに? たぶんて」
「あれだから。一二三ちゃん、教科書の問題だったら予習でだいたい解けちゃうもんね。教科書もらったら春休みの間に1学期分くらい予習しちゃうでしょ。ね?」
 そう言ってあたしに相槌を求めてきたのは、2年生で副会長の小池先輩だった。身長が高くてかっこよくて、加えて成績もいいから1年生の女子の間でも人気がある。あたしがあいまいな感じでうなずくと、あたしの顔を覗き込んだのは同じ2年生の一枝先輩だった。
「一二三ちゃんは純粋に数学が好きなのよきっと。だって、数字見てるときの一二三ちゃんて目付き違うもん」
 髪が長くて活発な雰囲気の一枝先輩は、あたしがそうなりたいと思う理想そのままだ。会計の一枝先輩は会計監査のあたしと1番かかわりが深くて、あたしが時々先輩たちにからかわれても無条件であたしの味方になってくれる、とてもありがたい先輩だった。
「オレは生徒会長として、生徒会役員の宿題は毎日チェックしてるんだよ、一二三ちゃん。さ、じたばたしないで英語の宿題を見せなさい。君は英語苦手なんだから」
 会長に言われて、あたしはあわてて英語の教科書を広げる。生徒会のみんなはあたしにとって、既にかけがえのない人たちになっていた。
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桜色迷宮1
 中学生になって2ヶ月も経ってるのに、あたしはいつまでもクラスになじめずにいた。
 初めて受験して入った私立中学。小学校からの友達は1人もいなくて、まわりはみんな小学部からの内部生ばかりだった。もともと内気な性格で、身体が弱かったためにいつも体育を見学しているあたしは、きっとクラスのみんなからもどう扱えばいいのか判らない存在だったのだと思う。もちろん仲間はずれにされたり、いじめられるようなことはなかった。だけど親しいと呼べるような友達は1人もいなくて、あたしはいつも影の薄い、目立たない女の子だった。
 1学期の中間試験の結果が校内に貼り出されたその日までは。
「 ―― 数学の試験でトップだった人に会いたいんだけど」
 たぶんその人は、掲示板に書かれたあたしの名前を読むことができなかったのだろう。教室の入口からよく通る澄んだ声をかけてきたのは、校内の誰もがよく知っている人だった。
「河合生徒会長……?」
 教室のみんながざわめいて、やがてあたしに視線が集まっていった。それで確信したのか、河合会長はあたしの席までやってきて、その優しい表情でにっこり笑って言った。
「君が、えーと、ヒフミちゃん? そう読んでいいのかな?」
「……はい」
「女の子だったんだね。僕は現在中学部の生徒会長をやってる、3年1組の河合信弘です。実は君に折り入ってお願いがあってきました。僕の生徒会で、会計監査になってくれませんか?」
 このときあたしはほとんどパニック状態で、口ごもりながらもいろいろと理由を並べ立てて辞退したのだと思う。生徒会の役員なんて、たとえ会計監査といっても自信がなかったし、ましてあたしは病弱だったから。だけど先輩は諦めてくれなくて、あたしの家に来てお母さんにまで頭を下げてくれたんだ。そのとき先輩に言われた言葉が今でも頭に残っている。
「僕の生徒会には、一二三ちゃんが必要なんだよ」
 その日以来3年間、あたしはずっと河合先輩を、まるで神様のように思って尊敬していた。
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