2006年04月の記事


覚醒の森25
 15歳になったミクは僕より背が高くて、女性らしい体つきに変わっていた。でもそうなればとうぜん迎えていていいはずの初潮はまだなかった。僕は相変わらず14歳のままで声も変わらなかったから、以前のようにミクを妹と紹介することはできなくなっていた。
 日に日に成長していくミクが僕にはまぶしかった。同時にうらやましくて妬ましかった。ミクはいったいどう感じているんだろう。いつの間にか年下になってしまった僕は、ミクにとっては成長して読まなくなった絵本の王子様と同じものでしかなかったのかもしれない。
「 ―― 大河、そのピアス、どうしたの? 鼻や唇まで」
 僕が河川敷のテントに帰ってくる早々ミクが訊いた。僕は穴を開けてもすぐにふさがってしまうから、ふだんピアスをすることはない。
「昨日の相手がピアス狂だったんだ。顔だけじゃないよ。ヘソと乳首とあそこまで刺された。先に外すから、食事は少し待ってて」
 僕が鼻と唇と舌の裏側を外し始めると、ミクが両耳を外すのを手伝ってくれた。
「こんなにたくさん、痛くないの?」
「痛いよ。こんなの、好きであけてる人間の気がしれない。でもミクがあけたいなら耳のヤツ使っていいよ」
「……ううん、あたしはいい」
 両耳に3つずつ並んだピアスにミクが苦戦している間、僕は上半身をはだけて乳首にかかった。ミクの動きが止まる。
「大河……」
「ん? なに?」
「……やっぱりあたし、大河と一緒に道に立つよ。大河にばっかりこんなひどい思いさせたくないもん」
 見上げると、ミクの視線が僕の乳首の中心を貫くピアスを見つめているのが判った。僕はやや乱暴にそのピアスを引き抜いた。
「別に、ただ痛いだけだよ。こんなの傷跡も残らないし。それに、ミクがいようがいまいが僕にはこういう生活しかないんだ。見ているのが嫌なら、ミクが家に帰る決心をしてくれた方が僕は嬉しいよ」
 ミクが唇をかみ締めてうつむく。似たような会話はこれまでにも何度か交わしていて、そのたびに僕は同じ言葉を繰り返していた。
 かつて僕に絵本の王子様を夢見たミクは、破れた夢に必死でしがみつこうとしているように、僕には思えた。
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覚醒の森24
 アウトドアショップで買ったテントと寝袋に、ミクは一言も文句を言わなかった。夜になると僕は街でエンコー相手を探して、翌日の午前中いっぱいは眠って過ごす。午後にテントへ戻るとミクが食事を用意して待っていてくれる。そのあとあたりが暗くなるまでが、僕とミクとが2人で過ごす時間だった。
 長い間声を出さずにいたミクは、最初の頃こそかすれた声しか出なかったけれど、数日後には子供らしいかわいい声でしゃべるようになった。筆談をしなくなってもミクは僕の左手を離さなかった。傍らに寄り添って、僕の手をなでながらミクは僕に話した。
「 ―― 初めて見た時にね、大河のこと、王子様だと思ったの。ミクのことを悪い人から助けてくれる王子様。かっこよくて、強くて」
 あの日忘れてしまった記憶を、ミクはほとんど思い出していた。おそらく自分の名前や住所、さらわれた経緯なんかも思い出しているのだろう。僕が尋ねてもいつもうまくはぐらかされてしまうのだけど。
「そんなんじゃないよ僕は。あの時は別にミクを助けようとした訳じゃない。ただ人間の血が欲しかっただけだ」
「わかってるもん。あたしがそう思っていたいだけ。大河はね、ミクにとっては本物の王子様なの。だけどミクはお姫様じゃないから、大河のそばにいられるだけでいい。大河のこと、いつも見ていられるだけで幸せなの」
 声を取り戻したミクは明るかった。毎日のように誰かのベッドで過ごす僕を見て、自分にも家畜以外の付加価値が必要だと考えたのかもしれない。満月がくればミクはおとなしく僕に血を提供した。逃げる心配のないミクの血を吸うことに慣れてきた僕は、吸血にある程度の時間をかけてミクの負担を軽くすることも覚えていた。
 その年の夏が終わった頃、僕は決断を迫られていた。今まで僕はずっと寒い地域を目指して日本海側を移動してきたのだけど、テントのミクを雪の中に放り出す訳にはいかないから、太平洋側の雪が降らない地域で冬を越すことにしたんだ。自分が飼う家畜にとって過ごしやすい環境を整えるのは、飼い主である僕の役目だった。もしかしたらそれを言い訳にしていただけかもしれない。
 来た道を戻る訳じゃなかったけれど、再び僕は近づきつつあった。ルイと過ごしたあの街へ。そして、一二三が住んでいるはずの、あの深い森がある場所へ。
 ミクを飼い始めてから、いつの間にか3年近い年月が経とうとしていた。
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覚醒の森23
 自分がミクに惹かれていることは判っていた。長い時間を過ごせば過ごすほど、僕はミクと離れがたくなる。それが判っていて僕は手錠を言い訳にした。本当は僕は、ミクがどんなにしがみついてきていても、ミク1人を置いて助けを呼びに山を下りるべきだった。
 僕はミクの命をたてに彼女を脅迫して、ミクは僕のことを他人に話すと言って僕を脅迫した。僕がミクを殺せなかった時点で、僕は既に彼女に負けていたんだ。今、僕は完全にミクに捉まった。僕に対するミクの執着に、僕は完敗した。
「無理してしゃべらない方がいい。……支えてやるから、椅子に戻って」
 今にも泣き出しそうな顔で唇をゆがめたミクは、僕を見上げて1度うなずくと、僕にしがみついたまま椅子に座りなおした。僕も再びミクの隣に座る。彼女に声が戻った理由はおそらく問う必要もないくらい明白だった。
「僕は何もできない。何も与えてあげられない。家も、ごく普通の生活も、学校も、両親の愛情も。……冷静に比べてみればどちらが正しいのかはっきり判るはずだ。ミク、頼むから家に戻ってくれ。僕は自分のことだけで精一杯で、ミクのことまで背負えない」
 僕がミクに左手を預けると、ミクは手のひらに文字を書いた。「今、大河とはなれたら、一生あえない」
「だからなに? そんなこと、これから先も生きていれば何度だってあるよ。誰でも経験することだ」
「大河はひとりしかいない」「大河のことが好きだから」「あえないなら死んでるのとおなじ」
「僕はミクを好きじゃない。……別に好きな人がいるんだ。一二三って、すごく綺麗な人」
 ミクの指先の震えが僕の左手に伝わってくる。こうして僕に決断を迫られるのは、小さな女の子には酷なことなのかもしれない。だけど、僕を脅迫して対等な立場を要求したのはミクの方だ。しばらくうつむいたままだったミクは、僕に表情を見せずに再び文字を書いた。
「あたしの血を、ぜんぶあげる、大河に」
 思いもよらない返事だった。僕が黙っていると、ミクは続けた。「かちく、牛とおなじ」「いつでも血をのめる」「いらなくなったらころして」「すてないで」
 僕はミクのことを馬鹿だと思った。そして ―― それ以上に、僕は僕自身を馬鹿だと思った。
「……判った。僕がミクを飼うよ。今日からミクは僕の家畜……食料だ」
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覚醒の森22
 ミクの細い指が僕の手のひらを滑っていく。「ぜんぶはなす」「大河が男をころしてくれた」
 突如、僕の中に普段では考えられないほどの怒りが湧き上がってきた。隔離された待合室にはほかに誰もいなかったけれど、多少声を押し殺して僕は言った。
「最初に言ったはずだ。黙っててくれることが君を助けるための条件だ、って。約束できないなら脅しじゃない、本当に君を殺すよ」
 本気でそう思った僕の目つきは、自分では見えないけれどそうとう怖かったに違いない。ミクは一瞬肩を震わせたけれど、怯んだのはその一瞬だけだった。「いやならいっしょにつれてって」
「殺すと言ってるんだ。君が選べる選択肢は2つしかない。口をつぐんで家に帰るか、ここで僕に殺されるか」
 ミクの指がすばやく文字をつむぐ。「だったらころして」「大河とはなれたくない」
「……話にならない」
 僕は立ち上がってミクの手を振り払った。さすがに今まで5人を殺した僕でも、ミクを手にかける気にはなれなかった。だからといってミクを連れていけはしない。僕だって今までまったくそれを考えなかった訳じゃないんだ。だけど、たとえば寝る場所1つにしたって、僕はいつもエンコー相手が用意してくれたベッドで過ごしている。まさかミクに同じことをさせる訳にはいかない。
 ミクの足は限界だ。今僕が逃げても追いかけてくることはできないだろう。しゃべれないミクが誰かに僕のことを伝えるのにだって相応の時間がかかる。ミクのことはここへ置いて、今はできるだけ遠くへ逃げてしまえばいい。
 そう思って自分の荷物だけを持って待合室を出ようとしたときだった。背後からその声が聞こえた。
「……たい、が……」
 ひどくかすれた、まるで100年も生きている老婆のような声だった。思わず振り返ると、ミクが必死の形相で僕に手を伸ばしていた。
「……置いて、行かないで。……それだけはいや……!」
 立ち上がって僕を追いかけようとしたのかもしれない。だけどミクの下半身は動かなくて、ミクは手を伸ばしたまま椅子から転げ落ちた。何も考えられなかった。気が付くと僕は駆け寄っていて、座り込んだミクの肩を支えていた。
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覚醒の森21
 文字を書き終えたミクは涙にうるんだ目で僕を見つめた。僕を睨みつけているような強さと、今にも泣き伏してしまいそうなはかなさが共存していた。ワラにもすがるような思いで僕にすがっていたのかもしれない。意識的になのか、それとも無意識的になのか、ミクは彼女の中に残る忌まわしい記憶の相手を僕にすり替えようとしているみたいだった。
 優しくしすぎた。ミクが小さくて不幸な女の子だったから、必要以上に気を許しすぎた。
「僕は君が思うほど優しい人間じゃないよ。君が僕に懐くのは勝手だけど、期待されるのは正直言ってうざい。……もう、思い出しているんだろ? 僕はひと月前のあの時、君といっしょにいた男を殺したんだ。それと、君は知らないだろうけど、あの山小屋に辿りつくまでにも4人殺してる。昨日あの子に小屋にいるところを見られた以上、戻れば僕は調べられて、殺人犯としてつかまるかもしれない。だから僕は、さっさと君を手放して、もっと遠くへ逃げたい」
 ミクの目が絶望的に見開かれる。ほんの少しだけ胸が痛んだけれど、既に言ってしまった言葉を取り消すことも、ここでやめることも僕にはできなかった。
「まだ幼い女の子なのにあんなひどい目にあってた君には同情してる。だから街まで連れていってあげることにしたけど、わがままを言うなら僕は自分を守るために君を殺さなきゃならなくなる。最初から君に選択肢はないんだよミク。これから先も生きていたいのなら、どんなに足が痛くたって、僕といっしょに山を下りるしかないんだ」
 話しながら途中になっている食事を片付けて、強引にミクの腕を引いて立ち上がらせた。そのまま再び歩き始める。足を引きずりながらついてくるミクにももう容赦はしなかった。彼女が2度と、僕と一緒にいたいなんて言わないように。
 適当な車を止めて、どうにか近くの駅まで送ってもらえた。次の電車が来るまで40分待たなければならなかった。閑散とした待合室の長椅子に腰掛けて、僕はそれまでの沈黙を破った。
「終点の乗換駅まではついていってあげる。電車を降りたら誰でもいい、近くの駅員に声をかけるんだ。助けてくれ、って言ってしがみつけば話を聞いてくれる。あとは覚えていること、僕のこと以外をぜんぶ話せばいい」
 ずっとうつむいたままだったミクは、心を決めたようにつばを飲み込むと、僕の左手を取った。
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覚醒の森20
 ミクの足首を手当てしたあと、外が明るくなるまで眠らせている間に、僕はミクの荷物を作った。機械的に手を動かしながら僕はずっと考えていた。さっき、少しだけ思い出すことができた、一二三のことを。だけどそれは夢のようにあいまいで断片的な記憶だった。
 レースのカーテン越しに見えた横顔はさびしそうな溜息をついていた。ずっと同じ部屋に閉じこもったままだったから、僕は窓から侵入して一二三と話をした。色が白くて、細くて、まさに深窓の令嬢という言葉がぴったりくるような綺麗な人だった。病弱に見えたけれどなにか病気がある訳でもなさそうで、だからどうして独り部屋に閉じこもっていたのか、今思い返しても僕には理解できなかった。
 その、一二三の顔。そして、ときどき姿を見かけたアイツの顔。
 僕の今の顔はその2人に似ていた。記憶をなくす前の僕は仮面をかぶらなければ見るにたえないほどバケモノだったのに、今では誰もが見とれるほどの綺麗な顔に変わっていた。僕が森で記憶をなくしたあの直前、あの2人に関係するなにかがあったんだ。そして僕は、あの2人と同じ綺麗な顔と、14歳から成長しない身体に変わってしまった ――
 無事にミクを送り届けたら、戻ってみるべきかもしれない。僕が初めて目覚めたあの場所まで。
 地名も風景もほとんど覚えていない。だけど時間をかけて探せば、ルイと暮らしたアパートも、僕が最初に目覚めた森の中も、一二三が住んでいた石造りの建物も見つけることができるはずだ。
 夜明けに近い早朝、僕は無理矢理ミクを起こして、朝食後に車のわだちを頼りに山を下り始めた。監禁生活が長かったのかミクの足はかなり弱っていた。こまめに休息をとりながら歩き続けて、昼過ぎにはどうにか舗装された道路まで辿りつくことができていた。
 通り過ぎる車にすらミクはおびえていた。ヒッチハイクをあきらめて道路脇の広い場所で弁当を広げたとき、僕はミクに訊いてみた。
「ミク、君はいったいどのくらい思い出しているの? あの夜に何があったのか、覚えている?」
 ミクはおずおずと僕の手を取った。「あたしが、いやだって言ったから、大河がだいてくれなくなった」
 意味が判らなかった。「もう泣かないから、ゆるして」「ずっと大河といっしょにいたい」「大河のこと、大好き」
「ミク……? もしかして、なにか勘違いしてる? 僕は君を抱いたことなんて1度も ―― 」
 ミクが僕の手のひらを叩いて言葉をさえぎる。「うちに帰れなくていい」「山小屋にもどりたい」「大河とくらしたい」
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覚醒の森19
 できることなら、僕たちのことは忘れて欲しい。僕たちのためにも、この名前も知らない女の子のためにも。
 夜が明けるまでにしなければならないことは多かった。僕は女の子を担ぎ上げて、小屋が見えなくなる程度には離れた場所まで行って、無常にもその場に放り出した。歩きながら僕はずっと思っていた。ミクがすべてを忘れてしまったように、彼女も僕たちのことを忘れてくれればいいのに、って。
 それから取って返してミクの手錠にかかった。ミクの足首の隙間から両手の指を差し込んで左右に引っ張る。食事を終えた直後の今が、僕の力が1番充実しているときだ。それなのに、何度やっても手錠は壊れてくれなかった。
 ミクが床に文字を書く。「もういいよ」「あきらめて」「あたしこのままでいいから」
「ダメだよ。ミクは僕が必ず家族のところへ送り届けるんだ。こんな手錠、ぜったいはずせる」
 このままここにミクを置いておけば、ミクはあの子を探している捜索隊の人が見つけてくれるかもしれない。本当はそれでもよかったんだ。あの子をここへ置いたままにしておけば、あの子と一緒にミクも見つけてもらえた。僕が今ここで手錠をはずすことなんてほんとは何の意味もない。
 だけど、僕はミクを助けなければならないんだ。僕がミクを助けなければ。
  ―― ……大河はそう言うけど、数学や物理は意外と日常生活に役立つんだよ。たとえば ――
 とつぜん、僕の頭の中で声が聞こえた。僕の失われた記憶の中にある声。
『 ―― 右手で30キロ、左手で30キロの力が出せるとして、ロープの両端を持って左右に引っ張ったときにロープにかかる力は何キロになると思う?』
『簡単だよそんなの。30キロプラス30キロで合計60キロだろ?』
『ちがうよ。両手で逆方向に引っ張っても力は合計されないんだ。片方の力は壁と同じで、実際ロープには30キロの力しかかかってない。だから、もしもロープに60キロの力をかけたいなら、ロープの片方を柱かなんかに結んで、反対側を両手で持って引っ張るの。そうすれば同じ力で引いても2倍の力をかけられるんだから ―― 』
 今ここでその記憶を思い出せたことを、僕はすべてのものに感謝したい気分だった。今彼女の、一二三の言葉を思い出せたことを。
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