2000年05月の記事


記憶・87
 オレはたぶん、信じていなかった。ミオがオレを好きになるはずがないと思っていた。オレは記憶喪失で、過去を一切思い出せない分子供だったし、ミオに八つ当たりしたこともある。それに、オレは昔、好きな女の子に答えてもらったことなど、おそらくなかったから。
「あ……あの……」
 予期していた展開じゃなかったから、みっともなくもオレはうろたえてしまって、満足に言葉を選ぶことができなかった。ミオだって、オレのこんな反応は予想外だろう。喜ぶというよりも驚いてしまった。ミオはいったい、オレの何を好きになろうと思ったのか。
「伊佐巳……? もしかして、気が変わっちゃったの?」
「そんなことない! オレはミオを好きなの、ぜんぜん変わってねえよ!」
 オレが慌てて言ったら、ミオはやや大げさな感じでほっとした表情を作った。
「あー、びっくりした。伊佐巳の気が変わってたらどうしようかと思ったわ。あんなにたくさん悩んで、やっと一緒に生きよう、って思ったのに。あたしの時間を返して、って叫ぶところだったわ」
 ミオは、ほんの少しだけ、今までと違った。
 ミオが素直になった。今まで素直じゃなかったということではなく、自分の気持ちの中にあるいろいろな感情を、いい感情も悪い感情も平等にオレに見せてくれるように変わったのかもしれない。
 一緒に生きるって、どういうことだろう。世界でたった1人の存在というミオの1番大切な席を、オレに与えてくれるということ?
 今までミオの父親が占めていたその位置を、オレに変えてくれる……?
「もしも、オレの記憶がすべて戻っても、ずっと傍にいてくれる、ってこと?」
 おそらく父親のことが頭をかすめたのだろう。一瞬だけミオの表情は曇ったけれど、すぐに笑顔に戻っていた。
「伊佐巳の記憶が戻って、万が一伊佐巳が変わってしまっても、あたしは変わりたくない。伊佐巳のことを好きな自分でいたい」
 ミオのその言葉で、この数時間ミオが何を悩んでいたのか、おぼろげながらつかんだような気がした。
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記憶・86
「前に伊佐巳にも話したことがあると思う。あたしには親友がいて、その子といろいろ話してた。……詳しく話せないけど、あたしたちは今、とても切羽詰った事情があって、あたし自身、誰かを好きになったり、そういうことを考える余裕はなかったの」
 ミオに告白したことを後悔はしていなかったけど、オレの告白が、余裕のないミオの現状を乱してしまったことは確かだった。伝えられただけでもよかったかもしれない。そう、思った。
「でも、あたし、彼女に言われた。余裕があるかどうかなんて、恋愛にぜんぜん関係ない、って。伊佐巳の気持ちはちゃんと受けとめるべきだって。だから、あたし、自分の気持ちを考えた。あたし自身が好きなのは誰なのか、って」
 ミオは、初めて見るように、オレに微笑んだ。
「あたし、伊佐巳のこと、好きになってもいいかな」
 心臓が止まるかと思った。
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記憶・85
 ほんの少し、ミオの表情は硬かった。思いのほか長時間部屋を開けてしまったことから、態度を決めかねているのかもしれない。オレはひと息吸って、吐いた。そして、リラックスした表情を作って、ミオより先に声を出していた。
「帰ってきてくれて助かった。オレ、もう、腹減って腹減って」
 声におどけたようなニュアンスを含ませたから、ミオの表情もかなり緩んでいた。既視感がある。そういえば、オレの方からこんなふうに笑いかけるのは、初めてなのだ。
 伊佐巳というキャラクター。もしかしたらオレは、かつてはこんなふうに人を和ませるキャラではなかったか?
「……ごめんなさい、突然出て行っちゃって。あたし……」
「話はあとにしよ。とにかくオレは飯が食いたい」
 テーブルに置き放してあったミオの分の昼食を手渡すと、ミオは器用にドアを開けて出て行った。すぐに別のトレイを持って戻ってくる。オレはそのトレイを受け取って食器をテーブルに並べた。オレというキャラクターがそうするのはごく自然なことだった。
 初めてここで目覚めたとき、オレは自分がどう行動すればいいのか、まったく掴めなかった。何をしていても、どこか自分ではないような気がした。きっかけは自分自身の記憶をほんの少し思い出したことなのだと思う。ミオを好きだと思って、ミオに恋をすることが1番大切なのだと知って、オレは少しずつだけれど、自分の人格を掴み始めている。
 おそらくミオも気づいただろう。今のオレが、それまでのオレとは、微妙に違っているのだということを。
「……何も言わないで出て行ってしまってごめんなさい。伊佐巳がさっき言ったこと、あたし、すぐには考えられなくて」
 食事に手をつけることなく、ミオは話し始めた。
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記憶・84
 とうとうミオが戻らないまま、風呂に入る時刻になっていた。オレは日課どおりに行動していたが、もしもこのままミオが戻らなければ、夕食はさっきミオが食べなかった昼食の残りになるだろうか。ともあれ考えても仕方がないから、オレは風呂に入った。身体を洗う動作は無意識にできるから、オレの頭は自然にミオのことを考えていた。
 日課どおりであれば、今の時間はミオが雇い主にオレのことを報告しているはずだった。おそらくミオは雇い主に隠し事などしないだろうから、雇い主の男も、オレがミオに言った言葉をミオから聞いたことだろう。さっきはその可能性に行き着かなかったけれど、ミオが雇い主から受けている制限の中に、オレとの関係というのもあるのかもしれない。たとえば、オレと恋愛関係になってはいけない、というような。
 その考えはオレにとってかなり都合のいいものだったから、ミオが帰ってきてオレに何らかのリアクションを見せるまで、そう信じていようと思った。
 シャワーだけ簡単に浴びて、風呂から上がって着替えた。夕食までの時間、本当ならミオが帰ってくる時刻になっても、ミオは帰らなかった。オレはまたパソコンに向き合った。そうしていると、オレはミオとの約束を破ってしまいたくなる。あの、パスワードを入れなければ開けなかった、教育用プログラム。あれを再び試してみたくなったのだ。
 あのプログラムは、オレの犯した犯罪を裏付けるもの。見てしまえばおそらく平常心ではいられないだろう。だけど、だからこそ、オレにとっては魅力的だった。パソコンのスイッチを入れたのは失敗だったらしい。オレはほとんど無理やりスイッチを切って、鶴を折った。
 オレは以前鶴を折ったことがあるだろうか。そう思いながら、一折一折記憶を呼び覚まそうとしたが、折鶴に関してはオレの記憶を髣髴とさせるものはなかった。どのくらい折りつづけただろう。集中していたオレは、ドアが開くわずかな音に反応して、びくっと、背筋を緊張させた。
 ドアの前に、ミオが立っていた。
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お詫びです
今日は小説をアップできそうにありません。
ごめんなさい。

実は、今日、職場主催の「高齢者のためのパソコン教室」というのがありまして、ほぼ一日、講師の補助として、ほとんどマンツーマン状態で70歳くらいのご婦人のお相手をしていました。
そのあと反省会があったのですが、その席で、ビールを飲んでしまったんですよ。
けっして強いほうではないので、今もかなりふらふらしながらキーボードを打っているような具合です。
というわけで、とても小説を書けるような状態ではないんですね。
いや、予期できない事態でした。
明日こそはしっかりアップしますので、よろしくお願いいたします。
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記憶・83
 ただ何もせずにミオを待っていることもないので、食後オレはまたパソコンに向き合った。オレの世界はミオに比べてもかなり狭い。目覚めて3日、この部屋から出ることもなく、話をするのはミオ1人だけなのだ。ミオは部屋の外に出て友人や多くの人間と話をして、世界を広げていける。オレが自分の世界を広げられるとしたら、パソコンの中しかない。
 ウィンドウズの画面から、オレは搭載されているアプリケーションを片っ端から開いていった。見たこともないソフトばかりで、オレはヘルプ画面や用語集などをディスプレイに重ねながら、ひとつひとつ食い入るように見つめ記憶していった。以前も感じたが、オレの記憶力はかなりいい方だった。ウィンドウズというOSの持つ法則性に気づいてからは、操作もスムーズになって、記憶するスピードも次第に増していった。
 理解が進んでいくうちに、オレの中にはこのパソコンの内部のイメージが浮かび上がり、広がりを見せ、より詳細になった。フォルダのひとつひとつの情報が、オレの脳にコピーされてゆくようだった。そんな中でオレはとうとう外部のコンピュータに接続できると思われるソフトを発見していたのだ。ダブルクリックすると、アカウントとパスワードを入力する画面が立ち上がったのだ。
 オレのアカウント。オレのパスワード。
 あるいは、このコンピュータに当てられているアカウントは、オレの記憶の中には存在していないかもしれない。だが、もし仮にオレがミオを雇った男で、心の底からオレの記憶が戻ることを希望しているのだとしたら、オレの記憶の中にあるアカウントとパスワードを、このパソコンに割り当てているのではないだろうか。
 オレが自分のアカウントとパスワードを思い出せば、もしかしたら他のコンピュータにアクセスできるのかもしれない。
 今はまだ思い出せない。だが、思い出したとき、オレの世界はこの部屋などとは比べ物にならないほど、大きく広がってゆくだろう。
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記憶・82
 ミオは、オレの生い立ちのほとんどを知っている。たとえばオレに妻子がいたとしたら、オレが既婚者であるという理由で、ミオは自分の恋愛対象からオレを外すかもしれない。間接的であるとはいえ、オレは大量殺人に関わっている。もしもミオがそのことを知っていたとしたら、オレが殺人に関与したという理由は、ミオの恋愛感情を左右するのに十分だっただろう。
 やはりミオは、オレの32年の人生を、今ここにいるオレ自身と切り離すことができずにいるのか。
 感情は、理屈とは違う。ミオがたとえどんなにオレそのものを尊重すると誓ったところで、知っているという事実を動かすことなんかできない。
 オレはまだすべてを思い出していない。もしかしたら、未だ眠っているオレの記憶の中には、あんな飛行機事故よりももっと恐ろしい記憶が眠っているのかもしれないのだ。
 オレの告白に対するミオの態度は、思った以上にオレを深く傷つけていた。ミオが言った「あたしは今の伊佐巳が好きよ」という言葉によって生まれかけていた自信が、今の一瞬ですべて崩れてしまった気がした。過去の記憶を持たないオレは、自分の自信を裏付けてくれるものがひとつもない。オレがオレ自身を量る基準は、ミオの態度しかないのだ。
 情けないと思う。ほんの少しミオが態度を変えただけでオレの感情は揺らぐ。このままではオレはミオにものすごい精神的重圧をかけてしまう。ミオはまだたった16歳の女の子なのだ。オレが幼いままでいたら、ミオのほうがおかしくなってしまうだろう。
 昼食をテーブルに残したまま、ミオはなかなか戻っては来なかった。オレはミオが手をつけていない昼食を自分の分だけ食べて、ミオを待った。まずオレの方が変わらなければならない。オレがミオから自立しなければ、ミオを好きになっても認めてもらえるはずがない。
 まずはこのオレこそが、完全なOSにならなければいけないのだ。
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記憶・81
「ぇ……」
 ほんの微かな声でミオがそう言って、しばしの沈黙が流れた。
 それは一般的なこういうシチュエーションでの緊張感とはまるで違う、信じられないくらい重苦しい緊張だった。ミオの目は信じることを拒否するように見開かれていたし、半開きの口元は苦笑いすら浮かべようとしていない。次第にオレも同じ緊張に巻き込まれていった。心臓の鼓動は抑えきれない。ミオの目がうっすらと涙を浮かべてからは、なおさら。
 ミオがオレのその言葉を予期していなかったのは明らかだった。そして、オレの言葉をけっして喜んではいないということも。
 緊張は、ミオの方から破られた。
「……ごめんなさい。ちょっと」
 ミオはオレから目をそらして、不意に立ち上がったと思うと、ドアのほうに向かっって駆け出したのだ!
「ミオ!」
 オレがそう叫んだとき、ミオはビクンと身を凍らせて立ち止まった。
「……あの、あたし、伊佐巳のことが嫌いとか、そういうのじゃないから。……でも、今だけごめんなさい。少し時間をちょうだい」
 振り返らずにそう言って、ミオはドアを出て行った。オレはしばらく呆然と、ミオが出て行ったドアを見つめていた。
 オレの告白に対するミオの反応は、オレの予想を超えていた。だからオレはショックというよりもただ驚いて、何も考えることができなかった。フラれたのなら判るのだ。だけど、ミオはオレをフッたのではない。それ以前の問題なのだ。ミオは、オレがミオに告白しようなどとは、露ほども思っていなかったのだから。
 ミオはオレを男だとは思っていなかった。それは前から感じていたけれど。
 男に見えなかったのだとしたら、ミオはいったいオレを何だと思っていたのだろう。
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記憶・80
 揺り起こされる振動で、オレは目を覚ました。
「伊佐巳、伊佐巳、大丈夫?」
 床に突っ伏していたオレは、ほとんどミオに抱き起こされるような格好で身体を起こした。
 夢を見たような気がする。あの不気味な顔の夢ではない。15歳だったオレが暮らしていた、ほんの2週間の夢。
 夢の全貌を覚えているわけではない。その夢の中でオレが幸せだと感じたのは、1人の女の子に恋をしていたから。
「どうしたの? 何かあったの? ……もっとはやくくればよかった。こんなときにあたし、そばにいないなんて」
 怒涛のように流れていったたくさんのオレの記憶。おそらくそのショックで精神の糸が切れたのだろう。その記憶たちの大部分はオレの頭の中から失われていた。こうして目覚めて、頭の中の整理がついて、判ったことがひとつだけある。オレがなぜ15歳の伊佐巳として生まれてきたのか、オレがこれから何をしなければならないのか、その理由。
 オレが取り戻したいと願ったのは、あの2週間の恋だ。
「ミオ……」
「ん? なに?」
 ミオはオレの頭を抱きかかえている。オレは自力で起き上がって、ミオの前に座った。オレがしっかりと起き上がったから、ミオはずいぶん安心したように見えた。いつもまっすぐな瞳でオレを見つめる少女。
 今のオレが恋をしたのは、この女の子なんだ。
「オレは、ミオのことが好きだ。オレの恋人になってくれないか」
 オレのこの科白は、ミオの表情を瞬く間に硬直させた。
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記憶・79
 テレビで見た飛行機事故の映像がよみがえっていた。昭和60年8月。日本の山中に墜落した大型ジャンボ。オレの記憶は混乱していた。思い出した映像はオレが関わった事故とは違うものだったはずだ。しかし、その映像を思い出したことで、オレが15歳だった17年前、いったいどんな時代に生きていたのか、わかったのだ。
 オレの今は、昭和60年9月だ。その時代の映像が怒涛のようにあふれ返って、オレの脳を撹乱する。椅子に座っていることが耐えられないほど肉体のバランスが失われて、オレは床に突っ伏した。脳みそから流れ落ちようとする記憶たちを必死でつなぎとめることに、全神経を使った。
 タイガース。ロス疑惑。あふれる昭和60年という時代の記憶から、オレ自身の記憶を探した。そう、事件が起こったのだ。例の飛行機事故ではない。飛行機事故そのものは2年前の昭和58年に起こっていて、そのときに死んだ犠牲者の遺族が、オレが所属する組織を窮地に落としいれようとしたのだ。
 その事態の収拾に、オレは努めた。オレの隣には1人の女の子がいた。何という名前だっただろう。彼女はミオに似ていなかっただろうか。
『***はどうして平気で人を殺すんだ? あたしにはわからない……』
 思い出したのは、彼女の言葉だった。以前に思い出した『義理の親子は結婚できない』と話した声と、同じ雰囲気をもっていた。彼女の名前は? 彼女が口にした人物の名前は……?
 思い出せ! 今なら思い出せるかもしれない。オレはたぶん彼女と暮らしていたのだ。たぶんオレは彼女に恋をしていた。だけど、彼女が好きだったのはいったい誰だった……?
 昭和60年9月。ミオの言葉によれば、オレはほんの2週間程度しかその場所にいなかった。おそらくオレにとって重要な意味を持つ時代だったのだ。記憶を失ったオレが、もう一度取り戻したいと思うものを求めて、生まれなおしてしまった重大な何かが。
 いつの間にか、オレは見失ってしまった。1人の少女の輪郭は次第にぼやけて見えなくなってしまっていた。
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記憶・78
 『J・K・C』
 それが、オレが思い出したパスワードだった。
「……ミオ」
 オレがそう呼ぶと、ミオはいつもの笑顔で答えた。
「なに?」
「……ごめん、少し1人で考え事をしてもいいかな」
 ミオはちょっと意外そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔に戻っていた。
「判ったわ。お昼まで外に出てる。連絡が取れなくなるけれど、いいかしら」
「2時間くらいだろ? 大丈夫だよ」
 子供扱いは相変わらず抜けていないらしい。記憶喪失とはいっても精神年齢はもう15歳なのだ。いったい何が心配なのだろう。
 ミオを見送って、オレは記憶を辿り始めていた。思い出したことは言葉にすればそれほど多くはない。それよりも、自分が抱いていたプログラムへの嫌悪感や不吉な感じを裏付けるものの正体を、漠然とだけれど知ることができたのだ。
 J・K・Cは、オレが所属していた組織の表向きの社名だ。商事会社ということになっている。しかし実態は産業スパイのようなものだった。
 オレはその組織のプログラマーだった。最初に見た名簿や、その他の企業用のプログラムも多く作っていたし、それ以前にはコンピュータを組み立てるようなこともやっていた。だけど、オレのもっとも重要な仕事は、工作員を育成するための教育用プログラムの作成だ。パスワード入力の画面を見てすべてを思い出した。オレは犯罪者を生み出すためのプログラムを作っていたのだ。
 J・K・Cが犯した犯罪は産業スパイだけにとどまらない。オレが思い出したのは、ある飛行機事故だった。組織の工作員は、たった1人の人物を消すために、自らも乗り込んだその飛行機を、無関係の多くの人間ごと墜落させたのだ。
 直接手を下した人間と、オレと、いったいどれだけ違うというのだろう。
 夢の中の不気味な顔が言ったことは間違っていなかった。オレは過去に数百人の人間を殺した殺人者だったのだ。
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記憶・77
 その瞬間は、何の前触れもなく急激に訪れた。
 オレの記憶の回路。そのどこがどう繋がったというのだろう。きっかけはおそらく、あの十字架のロゴマークだ。このプログラムを開くためにはパスワードが必要だった。そのパスワードを、オレは思い出したのだ。
 そして、そのパスワードを思い出した瞬間、さまざまなことがオレの頭の中を通過していった。パスワードにまつわる、多くのエピソード。夢の中のあの男が言ったことは、あながち間違いではなかったのだ。オレは過去に罪を犯している。直接手を下したわけではなくとも、オレが重大な犯罪に関与していたのは、間違いなかったのだ。
 何ということだろう。オレは自分のことはまだ思い出せなかったけれど、オレが関わっていた組織のことを思い出したのだ。
 パスワードは、その会社の社名の略号。それを打ち込んだとき、オレはもっと深くその罪状について知ることができるだろう。
 もしかしたらオレは半分意識がなかったのかもしれない。ミオの声は、まるで別世界の言葉のように聞こえた。
「パスワードを入れなければ、開くことができないの?」
 ほとんど無意識のうちにオレは答えていた。
「……そうらしいな」
「判らない?」
 その質問にオレは答えることができなかった。そのプログラムを見てみたいという好奇心よりも、自分が思い出したことに対するショックのほうが大きかった。答えないオレをミオは自分なりの解釈で理解したようだった。
「そう、それならどうしようもなさそうね。残念だけど」
 それ以上画面を見ていたくなくて、オレはプログラムを閉じた。
 ミオに対して初めて嘘をついてしまったことが、オレの心の奥に小さな棘のように引っかかって、取れなかった。
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記憶・76
「何か……思い出したの……?」
 遠慮がちなミオの声が、オレを我に返させた。まだ心臓の鼓動は収まらない。あのまま呪縛が解けなければあるいは何かを思い出したのだろうか。どちらかといえば魂を抜かれていたような気がする。
 もう1度ロゴマークを見つめてみる。マークそのものはありふれたものだ。オレは十字架に赤い宝石と感じたけれど、別の人が見ればローマ字のtとcをデフォルメしたようにも見えたかもしれない。ごく普通の会社のロゴマークだった。やはりオレが感じた不吉なものは、このマークそのものではなく、それにまつわるオレの記憶が原因だったに違いない。
「……うまく思い出せない。もう少しで思い出せる気がするのに」
「あせらないで。まだ3日目なんだもの。もっとゆっくり時間をかけてかまわないのよ」
 ミオが言うことはおそらく本心なのだろう。だけど、オレは知っている。彼女はオレが一瞬でも早く記憶を取り戻して、父親に会える瞬間を望んでいることも。
 名簿のソフトをしばらく探ってみたけれど、それ以上オレの記憶にかかるものはなかった。
「もう1つのプログラムの方を見てみるよ」
「……そうね、判ったわ」
 そのプログラムは、名簿の何倍もオレに不吉な予感を抱かせるものだ。それはミオも感じていたらしい。おそらくミオは知っているのだ。オレが作ったあのプログラムがどんなもので、それを見ることでオレが何かを思い出すかもしれないということを。
 ハードディスクが動作する微かな音がして、プログラムは目を覚ました。
 全体にグレーの、のっぺりとした画面が現れる。中央に文字と1行の入力部。文字列には、パスワードを入力するように指示があった。
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記憶・75
 もしかしたらオレの記憶障害を悪化させてしまうかもしれないプログラム。ミオは反対するかとも思った。しかし、割にあっさりと、ミオは許可してくれたのだ。
「わかったわ。食器を片付けてくるから、少しだけ待っててね」
 ミオがトレイを持って部屋を出ている間に、オレはパソコンのスイッチを入れた。2人分の椅子を用意して、画面の変化を見つめる。機械から発する微妙な音を聞いていると、内部でどんな動作が行われているのか、想像することができる。ミオはすぐに戻ってきたから、オレはキーボードの操作を開始した。
「これから何を見るの?」
「とりあえず、名簿を開いてみる」
 言いながら、オレは昨日保存したファイルのうち、おそらく名簿だと思われるファイルを指定して動作させた。微かな音とともにアプリケーションが立ち上がる。画面に浮かんできたのは、オレが想像したとほとんど違わない、何の変哲もないごく普通の名簿だった。
 初期画面が入力画面なのは、データが1件も入っていないからだろう。オレは名前の欄に「いさみ」と入れて、F4に割り当てられた入力ボタンを押した。すると2件目のデータを入力する画面が現れる。そこには「みお」と入れて、終了ボタンを押した。
 入力を終了した後の画面は、表になった名簿だった。1行に1人が割り当てられて、今はオレが入力した2行だけが表示されている。しかし、オレが目を奪われたのは、表のほうではなかった。右上の方に小さく表示された、おそらく会社のロゴマークのようなもの。
 十字架の中に赤い宝石がついたようなデザインだった。オレの心臓は次第に速度をはやめていった。この十字架は、人を縛るためのものだ。赤い宝石は縛られた人間の心臓だろうか。
 オレはこのマークを知っている。間違っても親しみを覚えるような記憶ではない。この不吉な感じは、オレの視線をくぎ付けにして、しばらくの間オレを呪縛しつづけていた。
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記憶・74
「……伊佐巳、そろそろ起きない?」
 その、柔らかな声が、オレの目覚めを促していた。目を開けると、すぐ目の前に少女の笑顔がある。あの時と同じだ。オレがこの狭い世界に生まれ直した、あの時と。
「……おはよう、ミオ」
「おはよう、よく眠っていたわね」
 枕元に、昨日ミオが調達してきた目覚し時計があった。時刻を見て驚く。既に9時を回っているのだ。
「起こしてくれなかったのか?」
「声はかけたのよ。でも、伊佐巳は昨日あまり眠っていなかったから、そんなに積極的には起こさなかったわ。もっと早く起きたかった?」
 ミオの声を聞きながら、オレは少しずつ昨日のことを思い出していた。初めて、ミオの涙を見た。ミオを抱きしめて眠った。オレはミオの身体を抱きしめることで安心していた。まるで傍らにあることが当然なのだというように。
 ミオには悪夢を寄せ付けない見えない力があるのかもしれない。
「起床時刻は6時。……これも15歳のオレの日課なのかな」
「そうよ。1度目の引越しのあとの起床は6時だったもの」
「明日からはもう少し規則正しい生活をしたいな」
 ミオは既に着替えを終えていて、それどころか朝食のしたくもすべて終えていた。オレは少しだけほっとした。ミオより遅く起きれば、ミオの着替え風景に悩まされることはないわけだ。
 朝食は味噌汁とサバの缶詰だった。手早く着替えて食事も終えると、昨日と同じようにミオは聞いた。
「伊佐巳は今日は何をするの?」
 オレは、昨日思ったことを試してみたいと思っていた。
「昨日作ったプログラム、あれを見てみたいと思う」
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記憶・73
 今このときだけ、オレは彼女の父親になれるだろうか。彼女を、せめて夢の中だけでも、幸せな気持ちにさせてあげられるだろうか。
「……ここにいるよ」
 名前は呼ばず、眠るミオをオレは抱き寄せた。やわらかくて、小さくて、壊れてしまいそうだった。ミオは目覚めることはなく、たどたどしいしぐさでオレの背中に腕を回してきた。頭の中に危険を知らせる警鐘が鳴り響く。オレは必死で自分に言い聞かせた。オレは今ミオの父親なんだ。ミオはオレの娘なんだ、と。
「パパはここにいる。ずっとお前の傍にいる。もう絶対にお前を独りにしないから。安心して眠りなさい」
 小さな声でつぶやきながら、オレは次第に不思議な気分になっていた。以前もこんなことがあったような気がする。もしかしたら、オレには子供がいたのかもしれない。確かに32歳ならば子供がいても不思議はない年齢だ。
 オレには子供がいるのだろうか。子供がいるのならば当然妻もいるはずだ。オレは恋をして結婚して、子供をもうけたことがあるのだろうか。
 何も思い出せなかった。考えているうちに、さっきの子供がいたかもしれないという感覚も、ただの錯覚のような気がしていた。そうだ。子供に添い寝をしたことがあったとしても、それが自分の子供かどうか。他人の子供だったかもしれない。
 今、ミオに恋するオレは、その恋を邪魔する過去を思い出したくない。自分に妻子がいたのだとしたら思い出さないでいたい。ずっとミオの傍にいたい。

 いつの間にか、オレは眠ってしまっていた。
 その夜、オレはあの悪夢を見なかった。
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お詫びです
今日は、親戚のおじさんがきていて、小説をアップできそうにありません。
ごめんなさい。
今、おじさんと二人で、パソコンの講習会を開いているところです。
おじさんはそば屋のHPを開いていますので、おひまでしたら覗いてあげてください。
では、また明日。
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記憶・72
「………………」
 どこにいるの、パパ。
 ミオのかすかな声は、繰り返しそうつぶやいていた。上掛けを握り締めて涙を浮かべているその様子は、まるで小さな子供のようだ。夢の中で、ミオは父親を探している。起こしてあげたほうがいいのだろうか。だけど、たとえ現実に戻ったところで、彼女の傍に彼女が求めるパパはいない。
 オレには、彼女にパパを返してあげることができる。彼女の最愛のパパは、オレが記憶を取り戻せば彼女の元に戻ってくる。今すぐに会わせてあげることだってできるのだ。オレの、32年分の記憶さえ取り戻すことができるならば。
 オレには何もしてあげられない。記憶を取り戻す以外のことなら何でもしよう。できることなら何でもしてあげたいと思う。記憶を取り戻すこと以外なら、今すぐにでもしてあげられるのに。
 涙を浮かべて孤独と戦うミオが愛しかった。滲んだ涙を拭うために手を伸ばした。頬に触れ、指先に濡れた感触があった。その時だった。ミオがオレの手に自分の手を重ねたのは。
「……パパ……」
 目覚めたのではない。彼女は夢の中で、父親の手を見つけたのだ。
「……パパ……会いたかっ……!」
 オレの手を握り締めて、夢の中のミオは心の底からほっとしたような、オレが見たこともないような至福の微笑を浮かべていた。胸に痛みが走った。彼女が求めているのは、オレであってオレではない。
 オレは、ミオのことが好きだ。
 名前も知らない、出会ったばかりの少女。オレの半分しか生きていない小さな女の子。ひとつ年上でしっかりしていて、だけど、精一杯の愛情で、全身で父親を求めている少女。
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記憶・71
 消灯の時刻にはかなり早かったのだが、ミオはほとんど無理やりオレをベッドに就かせた。昨日あまり眠っていなかったからすぐに眠くなるかとも思ったが、あいにく眠気が訪れることはなく、オレは薄目をあけてミオの様子をうかがっていた。
 食卓になっているテーブルで、ミオはノートに何かをつけていた。それはもしかしたらオレの記憶の観察日記のようなものなのかもしれない。それが終わると、眠った振りをしていたオレの眠るベッドに、ミオはもぐりこんできていた。
 こうなるとオレも眠るどころではなく、気配でミオを観察しつづけた。自分が目覚めていることをできるだけ悟られないよう、息を殺して微動だにしない。そんな時間がどのくらい流れただろう。やがて、ミオが眠ってしまったらしい寝息が、オレの耳にも届いてきていた。
 これでオレも眠ってしまえば、今日も何事も起こらずに1日を終えることができる。明日のことはわからないけれど、今日という1日は無事に終えることができるのだ。
 ところが、そうはならなかった。というのは、眠ってしまったはずのミオが、何か言葉を口にしたからである。
「……」
 最初、ミオが目覚めてしまったのかと思って、オレは身を硬くした。しかしそうではなかった。ミオは眠りながら言葉を発していたのだ。
 恐る恐る、ミオを起こさないように、オレは身体を起こした。そして、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるミオの輪郭を見下ろした。上掛けを握り締めて、何かをつぶやいている。夢でも見ているのかもしれない。聞き取れない言葉を何とか聞きたくて、オレはミオに近づいて、耳を寄せてみた。
 ミオの声は、まるで泣き声のようにか細く、悲しげだった。
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記憶・70
 ミオが何かを隠していることは、そもそも最初から漠然と感じていた。だいたい彼女は自分の本名さえ明かしてはいない。ミオが言っていることは間違ってはいないのだ。ひとりの人間の人生の、そのすべてを他人が知ることなんてできるはずがないのだから。
 隠したいことがあるのだったら、ミオは今言い訳をするべきではなかった。だけど彼女はまだ16歳で、他人に嘘をつくテクニックが完成されるには少々若すぎるのだろう。そういうオレは15歳の感覚を持ちながら、他人の嘘を見破るテクニックを備えている。これはオレの15歳の経験なのか。それとも32歳の経験なのだろうか。
 今のオレにはどちらとも判断がつかなかった。それに、ミオが嘘をつこうが隠し事をしようが、今のオレにはどちらでもいいことだった。今のオレに唯一できることは、自分自身の記憶を取り戻すことだけなのだから。
「そうだな。どっちみち細かいことは自分で思い出すしかないわけだし」
 それ以上追及しなかったオレに、ミオは心の中でかなりほっとしたように見えた。
「ということは、オレの空手の記憶は、32歳ころの記憶なんだ。オレが17歳で空手を始めて、その後もずっとやってきたってことは、オレにも空手をやる必要性があったってことなのかな」
「たぶん、そうなんでしょうね。理由はあたしにもわからないけれど」
 空手をやることで、オレは何かから身を守ろうとしていたのかもしれない。オレにはたぶん、空手をやるだけの重大な理由があった。自分を守ろうとしたのか。それとも、自分以外の誰かを守ろうとしていたのだろうか。
 すべてを思い出せばわかる。オレにはもしかしたら、全身全霊をかけて守らなければならない人がいたのかもしれない。
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記憶・69
 最新式のCPUの上で動く、17年前のOS。要するにオレはそういう存在なのだ。この状態を物干し竿にたとえることはできなかったけれど、オレは今はっきりと自分というものをイメージすることができていた。
「ということは、オレはかなり最近まで空手をやっていたことになるな」
「そうだと思う。毎日型を作っていたから、今も型を作ることができたのね」
 おそらく初めてだった。ミオがオレのことについて、「思う」などというあいまいな言葉を使ったのは。
「……もしかして、君は最近のオレのこと、わからないのか?」
 この質問はミオにとっても意外だったらしい。だが、その様子で、オレは自分の憶測が間違っていないことを知ったのだ。
「君はオレのことをすべて知っているんではないのか?」
「……日常の細かいことまではそれはわからないわよ。本人しか知らなかったこともあるもの」
 そう言ったミオの表情と声にごまかしを感じたのは、あるいはオレの考えすぎだったのか。
「あたしが伊佐巳の経歴として聞いているのは、全部ほかの人が話したことなの。伊佐巳の周りにいた人から聞いたことをつなぎ合わせて話しているだけ。だから、もしかしたら本当の伊佐巳の経歴とは少し違うかもしれないわ。でも、前にも話したけど、あたしを雇っている人は伊佐巳の身内なの。だから、大人になってしまってからの最近のことは少しあやふやかもしれない。でも、伊佐巳が独立するまでのことについては、かなり信憑性があると思わない?」
 人間が饒舌に何かを強調する時は、別の何かを隠そうとしている時だ。ミオは無意識にそうしているのか。もしかしたらミオ自身、自分がいったい何を隠そうとしているのかわからないのかもしれない。
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記憶・68
「わからないけど、身体が覚えてる。コンピュータのときと同じなんだ」
「ちょっと、違うかもしれないわよ。これを見て」
 ミオが手にしたのは、例のオレの年表だった。直線の真ん中には引越し1から引越し3までの印がある。その中で、今のオレの意識があるのは、引越し1から引越し2の間、消灯が12時だったこの期間なのだと、ミオは言ったのだ。
「15歳のころ、伊佐巳は空手を習ってはいないの。伊佐巳が空手を始めたのは、17歳になってからなの」
 そう言って、ミオは印と引越し4の文字、その少しあとに17歳の年齢と、空手の文字を書き加えた。
「15歳のオレは空手を知らないのか?」
「知識としては知っていたと思うわ。でも、実際に身体を動かしたことはなかったはずよ」
「それならどうして15歳のオレが空手の動きをできるんだ?」
「それはたぶん、人間の脳の仕組みのせいだと思うわ。知識と運動とは根本的に記憶の仕方が違うのよ。知識の場合は、たとえば記憶したものが間違っていて、あとでそのことに気がついた場合、間違っていた記憶も正しい記憶もすべて残るようになっているの。でも、運動については違うの。練習して、うまくできるようになったとき、うまくいかなかったときの記憶はすべてなくなってしまう。だから一度成功してしまえば、それができなかったころの脳に戻ることはないわ。もちろん、練習を続けなければやがて成功したときの記憶も失われてしまうけれど。
 伊佐巳の身体の記憶は、知識の記憶とは別の場所に蓄えられているのだと思うわ。だから知識の記憶が失われている今でも、なくならずに残っているのよ」
 肉体の感覚。運動能力は感覚に近い。そうか、オレの感覚が残っていたのも、感覚と肉体の記憶がかなり近いところにあったからなのかもしれない。コンピュータは日々進歩を続けている。オレの内部のコンピュータは、32歳までの進化を経た、最新式のCPUが使われているんだ。
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記憶・67
「試してみたいこと?」
別に隠すつもりはなかったのだが、口にしていいものか少しのためらいがあった。その場ではオレは何も言わず、食後、トレイを片付けに出てゆくミオの後ろで準備運動をはじめる。ミオはすぐに戻ってきた。そして、身体を動かすオレの隣で、ミオも準備運動をはじめたのだ。
 二人ともすでにパジャマ姿で(恐ろしいことに色違いだった)オレが適当に身体をほぐす動きにあわせて、なぜかミオも同じ動作をした。そして、オレが昨日と同じ空手の動きを始めると、ミオはそっくりオレの真似をしたのだ。
 オレの身体は空手の型を覚えていた。隣のミオも、オレとまったく同じ動きで、ほとんど遅れることもなく型を作っていた。どうやらミオは空手を知っているのだ。少しの驚きを胸に型を終えると、ミオは晴れやかな感じで笑った。
「なんか身体を動かすのって気持ちがいいわね。久しぶりよ、運動なんてしたの」
「君は空手を知っているの?」
「習ったことがあるわけではないの。みようみまねでね、型だけは覚えてたみたい」
「それにしては上手だったけど」
「……そうね、今の、ちょっと嘘。パパと会えなくなってから、毎日練習していたの。いつか必要になる日がくるかもしれないから」
 16歳の女の子が、空手に必要性を感じている。明るく話すミオを見ながら、オレは複雑な気分だった。オレはミオの事情も、この部屋の外で何が行われているのかも、何も知らない。だけど、ミオを戦士に変えてしまう何かがここにはある。ごく普通の16歳の女の子に、それが必要だという理由で空手を習得させてしまうような何かが。
「伊佐巳も上手ね。空手を習っていたの?」
 まるでオレが記憶喪失であることを忘れているように、ミオは聞いた。こうした質問がオレの記憶を不意によみがえらせることが以前あったけれど、今回はオレの頭の中に何かが浮かんでくるということはなかった。
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記憶・66
 ミオが雇い主への報告があると部屋を出て行って、オレは風呂に入った。風呂から上がってミオを待っている時間はかなり手持ち無沙汰で、オレは昨日の続きの千羽鶴を折り始めていた。最初の何枚かは手順を確認しながら折っていたけれど、そのうち何も考えなくても自然に折ることができるようになってからは、オレは鶴を折りながら、自分の頭の中を整理し始めた。この方法は思った以上に有効で、単純作業というものは頭脳労働を促進させる効果があるのだと、オレは改めて知ることになった。
 そうしているうちにミオは戻ってきて、夕食の前にミオも風呂に入っていた。それだけならまだいい。問題は、風呂上りのバスタオル姿のままオレの視界をうろうろすることだ。できるだけそちらを見ないように折鶴に集中していたら、その日オレ1人だけで24羽も折り上げてしまっていた。
 ミオはオレのことを子供だとでも思っているのだろうか。それとも、そういう考えに思い至らないくらい、彼女は無垢な存在なのだろうか。
「伊佐巳、カレーライスは嫌い?」
 いつの間にか匙の動きが止まっていたからだろう、食卓の向こう側で、ミオが言った。夕食は何の変哲もないカレーライスだった。食べてみたらそれがレトルトのカレーであることがわかったけれど。
「いや、嫌いじゃないよ」
 ミオを心配させないために、オレはカレーライスを口に運んだ。昼食が遅かったせいかあまり腹が減っている感じはない。この部屋はある程度の広さはあるといっても所詮はただのワンルームだ。こんな狭い空間でほとんど身体も動かさずにいたら、それほど腹も減らないだろう。
「ミオ、ここで運動しても大丈夫かな」
 ミオはあっさりと答えてくれた。
「この建物、かなりじょうぶよ。多少どたばたしてもぜんぜんかまわないと思うわ。食後は運動してみるの?」
「ちょっと試してみたいことがあるんだ」
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記憶・65
 オレはなんだか頭がぼうっとして、そのあとのミオの言葉をあまり聞いてはいなかった。
「……本当に?」
「ええ、あたりまえよ。伊佐巳にはこんな記憶障害なんかに負けてほしくない。まだ32年しか生きていないのよ。伊佐巳にはこれからがあるんだもの」
「ええっと、そっちじゃなくて……」
 ミオが首を傾げてオレの言葉を待っていた。だからオレは余計に聞けなくなってしまった。ミオが言った「あたしは今の伊佐巳が好きよ」という言葉の意味を。
 たぶん、オレが期待するような意味ではないのだろう。当然だと思う。オレのほうがおかしいのだ。まだ出会って2日目の女の子に、恋心を抱いているなんて。
「15歳の男の子の伊佐巳を、あたしは好きよ」
 だからミオがそう言った時、オレの心臓はドキンと大きな音を立てた。
「今ここにいる伊佐巳は、32歳の伊佐巳とも、たぶん32歳の伊佐巳が15歳だったころとも違うわ。でも、そんな伊佐巳が存在していること、それだけであたしはあなたを好きだと思える。……あたしは絶対に忘れないわ。もしも伊佐巳の記憶が戻って、32歳になったとしても、ここに15歳の伊佐巳が存在していたって、そのことを絶対に忘れない。
 もしも伊佐巳が忘れてしまったとしても、あたしはずっと忘れないから」
 たぶん、ミオが言う好きという言葉は、オレがミオに思う気持ちとも、オレがミオに期待する言葉とも違う。どちらかといえば親が子供に対して抱くような気持ちなのかもしれない。だからかもしれない。オレはそのミオの言葉に安堵を強く感じた。そして思った。このミオの言葉を絶対に忘れたくないと。
 オレが忘れてしまったオレの記憶。その中には、オレが忘れたくないと感じた言葉がいくつあったのだろう。たぶんたくさんあったに違いない。オレの記憶はオレのものだ。思い出したい。オレの記憶はそのままオレの宝物なのだから。
 32歳のオレは、たぶん、たくさんの宝物を抱いている。
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記憶・64
「オレの“今”は夢じゃない」
 低く抑揚のない声でオレが言ったことが、ミオを驚かせたようだった。
「そう……よね。ごめんなさい。あたしも夢だなんて思ってないわ」
「ミオ、君はもしかしたら32歳のオレを知っているのかもしれない。知らないのかもしれない。だけど、今ここにいるのは15歳のオレで、32歳のオレとは全然別の人間なんだ。君が32歳のオレを知っているにしろ知らないにしろ、今ここにいるオレが32歳のオレとは関係ない、別の人格を持ってる1人の人間なんだって、君は認めてくれる? これからオレがつむいでゆく時間を、32歳のオレの時間と切り離して見てくれる?」
 生まれたばかりのオレの人格。記憶のないオレは、これから少しずつ自分というものを形成してゆく。その環境は今までのものとは違うはずだから、形成される人格も当然今までのものとは変わってしまうだろう。オレはこれからも自分の記憶を思い出すことを続けてゆくし、もしも思い出したのならばその人格は32歳の人格に吸収されてしまうのかもしれない。だけど、それは今のオレの人格が必要ないということじゃない。自分がなければ生きていくことなんかできるはずがない。
 壊れてしまった32歳のOS。オレがオレのコンピュータを動かすためには、新しいOSが必要なんだ。
「伊佐巳、あたしは最初からあなたを認めているのよ」
 ミオはそう言って、いたわるように微笑んだ。ああ、そうだったよ。最初からミオはオレを15歳の少年として扱っていた。
「伊佐巳は32年間の記憶を思い出さなければならないわ。でもそれは今の伊佐巳が必要ないって意味ではないの。あたしは今の伊佐巳が好きよ。だから壊れてほしくない。過去の記憶障害なんかで伊佐巳のすべての人格に壊れてほしくないのよ」
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お詫びです
毎日パソコンにかまけていたら、日々の雑用がたまってしまいました。
明日の有明のイベントに参加するので、その準備もあって、今日、明日の2日間は小説をアップすることができません。
本当にごめんなさい。
あさってからはいつものように連載を続けるつもりでいますので、どうかお見捨てにならないでくださいね。

黒澤のGWは、セットアップと部屋の片づけでほぼつぶれることが決定しています。
これで少しは快適な日常生活が戻るとよいのですが。
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記憶・63
 オレの今。それは32歳のオレから見れば、まるで夢のようなものなのだろう。ミオはそう言っているし、オレもそうなのだと思った。だけど、オレはここに生きている。現実に生きているんだ。
 オレは夢を見ているわけじゃない。オレにとっての現実は記憶喪失で15歳になってしまった32歳の男、もしくは、いつのまにか身体だけが32歳になってしまった15歳の男。今のオレはそれ以外ではなく、このオレ自身が現実のオレなんだ。
 オレは生きている。生きているからミオに恋もする。もしかしたら、いや恐らく、32歳のオレはミオに恋などしないかもしれない。だけど、15歳のオレは32歳のオレとは違うんだ。まったく違う人間なんだ。
 オレは今はじめてその可能性に気づいていた。今のオレにとって、32歳のオレの記憶はもしかしたら邪魔なものかもしれない。ミオに恋をして、たとえば恋人になれたとして、その後記憶を取り戻したオレはすでに結婚しているのかもしれない。ミオにこのかすかな恋を告白することは、それだけの覚悟を必要とする。オレが今生きているのは夢ではなく現実だ。ミオの人生も現実だ。記憶を取り戻したとき、まるで夢から覚めたときのように、すべてをなかったものとして片付けることなどできない。この時間を白紙に戻すことなんかできないのだから。
 オレは生きている。今のオレは、32歳のオレの為に存在しているわけじゃない。32歳のオレの記憶を正常に戻すために存在しているのでもない。そうでなければ、今オレがここに存在する意味がないのだから。
 オレは、オレの為に生きていいのだろうか。記憶を取り戻せば後悔するかもしれないけれど、それは今のオレではなく32歳のオレの後悔だ。そう、割り切ってしまっていいのだろうか。だけど、オレは32歳のオレを思い出すことができないのだ。
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