覚醒の森28
 ミクに対しては、僕はいつも幸せを願ってきた。家に帰って欲しかったのは、その方がミクが幸せになれると思ったからだ。もちろん僕はミクを嫌いじゃなかった。むしろ3年間も傍にいたミクを、僕は好きだと思っていた。今、ミクとミクでないもののどちらかを選べと言われたら、僕は迷わずミクを選んだだろう。僕にとっての3年間はそれほど重いものだった。
 ただ、それが恋愛感情かと問われると、実のところかなり怪しい。僕はミクやルイが僕に見せたような激しい執着をミクに対して感じることはなかった。
 僕は今までずっと逃げ続けていた。僕は普通の人間とは違う。満月の夜に人間の血を求めることも、受けた傷が跡形もなく治ってしまうことも、14歳の身体のまま少しも成長しないことも。逃げ続けて、自分で自分をごまかしながら生きてきた。だけど今、僕はその問題に向き合う必要が出てきたんだ。満月の夜のミクの変調が僕のせいなのは間違いなかったから。
 僕のなにがミクを変えてしまったのか、僕は知らなければならない。
「 ―― ミク、僕は今日限りエンコーをやめるよ。……一二三を探しに行く」
 テントに戻って、眠る支度をしていたミクに、僕は言った。ミクはさっと顔を伏せて答える。
「……好きな人に、会いたいから?」
「それもある。でもそれより僕は自分のことが知りたい。僕が本当はどこの誰で、どうして普通と違う身体を持っているのか。……たぶん山の中を歩き回ることになるから、ミクがついてこられないと思うならそう言ってくれていい」
「大河は? あたしについてきて欲しいと思ってる?」
「思ってるよ」
「だったらついてく! あたし、大河が行くところだったらどこへでも行くよ! だってあたしには大河の傍しか居場所がないから」
 ミクの執着は心地いいと思う。僕にとっても、居場所はミクの隣しかないような気がした。

 人のためでも、自分のためでも、僕が自分から何かをしたいと思ったのはこの時が初めてだった。いつも僕は自分の本能と周りの人間たちに流されていた。だけどそうして過ごした5年間の僕は、間違っても本当の意味で生きていたとは言えない。生きるとはリアクションじゃなく、アクションなんだと気づいた。
 ミクを救う。 ―― それが、僕を真の覚醒へと促す呪文になった。

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覚醒の森27
 翌日、涙目で僕を揺り起こしたミクに、僕は何も話さなかった。その判断は間違っていたのかもしれないけれど、たぶん話していたとしても結果は同じだった。その夜も僕はエンコーに出かけていって、翌日の昼にテントまで戻ると、ミクは荷物とともに姿を消していた。
 理屈も何もなくミクの居場所はすぐに判った。だから僕はその足でミクの気配を辿っていった。テントを張った川を少し上流にさかのぼった大橋の上。近づく僕に気づいたミクは駆け去ろうとしたけれど、僕はミクの腕を捕まえて放さなかった。
「や、放して! ……あたし、もう大河と一緒にいられないんだから」
「どうして? ミクは僕のことを嫌いになった?」
「だって……あたし、大河のことを刺したんでしょう? 大河にあんな、大怪我させるなんてあたし ―― 」
「少し痛かっただけだよ。傷は綺麗に治ってるし、ミクを怒ってもいない。だから落ち着いて。……少し話をしよう、ミク」
 ミクはかなり混乱していたようで、それからじっさい話ができるほどに落ち着くまでもずいぶん時間がかかっていた。ようやく橋のコンクリートに並んで腰掛けることができたから、僕は自分より背が高くなってしまったミクの肩をずっと抱いていた。
「 ―― あたし、大河のことを包丁で刺した。あの状況ではそうとしか思えないのに、でも自分ではぜんぜん覚えてないの。あたし、夢遊病になっちゃったの? どうしてあたし、包丁なんか持ち出したりしたの?」
「僕にも判らないよ。あの時ミクは、とつぜん人が変わったみたいになって、包丁を振り回し始めた。まるで別の人格が乗り移ったみたいだった。だから僕はミクを気絶させたんだ。朝になったら元にもどってたからほっとしたよ」
「そのときに殺してくれればよかったのに。……ううん、今からでも遅くない。大河、あたしを殺して。また大河を傷つける前にあたしを殺して」
「そう結論を急ぐことはないよ。僕はミクに刺されても痛いだけだし、これから先いつでもミクを殺せる。ミク、僕のそばにいるんだ。そうすればほかの人間を傷つけずにいられる。いつまた夢遊病になっても誰にも迷惑をかけなくてすむ」
「……あたし、大河のそばにいて、いいの……?」
「僕がこうして迎えに来た。しかも自分を包丁で刺した人間をだ。……それで答えにならないか?」
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覚醒の森26
 あとから考えれば、僕がミクに恨まれていたとしても、それはあたりまえのことだったように思う。僕はミクを家畜として扱って、毎月ミクの身体から血を抜いていた。1ヶ月間ミクの身体が必死で蓄えた血を、僕はとうぜんの権利のように搾取していたんだ。本来ならばその血はミクの体内で有益に使われるものだったはずなのに。
 ミクは学校へも行けず、友達も作れず、僕のために炊事や洗濯をして毎日を過ごしていた。12歳から15歳までの、人生で1番大切な時間を僕のために犠牲にした。王子様の幻想が崩れたのなら、ミクの中に残るのは後悔だけだっただろう。僕はそんな簡単なことすら、事が起こってからでなければ理解することができなかった。
 満月の夜、いつの頃からか僕は、ミクの身体に食欲と性欲とを同時に感じるようになった。ミクを横たえて抱きしめるとき、ミクの首筋に唇を寄せたとき、ミクが返してくるわずかな反応が僕をおかしくさせた。はやる気持ちを抑えて血を吸い続けると僕の身体も少しずつ落ち着いてくる。だけど、今日の儀式はそのまま終わってくれはしなかった。
 ミクがいきなり僕の身体を引き離していた。そのときのミクの表情はいつものミクとはまったく違っていた。人間というのは表情1つでまるで別人のようになってしまうものなのか。焦点の合わない目でにやりと笑ったミクは、呆然とする僕の腕から逃れると、とつぜん包丁を手にして僕に襲い掛かってきたんだ。
 ミクの攻撃から逃げることができなかった。肩口から脇腹まで袈裟がけで切られたあと、鳩尾に差し込まれた包丁の柄をやっとのことで捕まえた。なおも僕に刺さった包丁を返そうとするミクの身体を押し倒してのしかかった。間近で見つめたミクは明らかに正気じゃなかった。
「ミク、ミク、……頼むから、手を放して……!」
 鳩尾に刺さったままの包丁が、僕とミクとの攻防で無秩序に動き回る。そのたび僕の身体に痛みが走りぬけた。自分が殺されないためにはミクを殺すしかない。かつての僕ならば間違いなくそう思っていたはずなのに、今の僕はミクを殺すことすら思いつかなかった。
 死なない程度にミクの首を絞めて、やっと気絶させることができた。ミクの隣に仰向けに寝転がった僕は突き刺さった包丁を抜いて、そのあと意識を失っていた。
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覚醒の森25
 15歳になったミクは僕より背が高くて、女性らしい体つきに変わっていた。でもそうなればとうぜん迎えていていいはずの初潮はまだなかった。僕は相変わらず14歳のままで声も変わらなかったから、以前のようにミクを妹と紹介することはできなくなっていた。
 日に日に成長していくミクが僕にはまぶしかった。同時にうらやましくて妬ましかった。ミクはいったいどう感じているんだろう。いつの間にか年下になってしまった僕は、ミクにとっては成長して読まなくなった絵本の王子様と同じものでしかなかったのかもしれない。
「 ―― 大河、そのピアス、どうしたの? 鼻や唇まで」
 僕が河川敷のテントに帰ってくる早々ミクが訊いた。僕は穴を開けてもすぐにふさがってしまうから、ふだんピアスをすることはない。
「昨日の相手がピアス狂だったんだ。顔だけじゃないよ。ヘソと乳首とあそこまで刺された。先に外すから、食事は少し待ってて」
 僕が鼻と唇と舌の裏側を外し始めると、ミクが両耳を外すのを手伝ってくれた。
「こんなにたくさん、痛くないの?」
「痛いよ。こんなの、好きであけてる人間の気がしれない。でもミクがあけたいなら耳のヤツ使っていいよ」
「……ううん、あたしはいい」
 両耳に3つずつ並んだピアスにミクが苦戦している間、僕は上半身をはだけて乳首にかかった。ミクの動きが止まる。
「大河……」
「ん? なに?」
「……やっぱりあたし、大河と一緒に道に立つよ。大河にばっかりこんなひどい思いさせたくないもん」
 見上げると、ミクの視線が僕の乳首の中心を貫くピアスを見つめているのが判った。僕はやや乱暴にそのピアスを引き抜いた。
「別に、ただ痛いだけだよ。こんなの傷跡も残らないし。それに、ミクがいようがいまいが僕にはこういう生活しかないんだ。見ているのが嫌なら、ミクが家に帰る決心をしてくれた方が僕は嬉しいよ」
 ミクが唇をかみ締めてうつむく。似たような会話はこれまでにも何度か交わしていて、そのたびに僕は同じ言葉を繰り返していた。
 かつて僕に絵本の王子様を夢見たミクは、破れた夢に必死でしがみつこうとしているように、僕には思えた。
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覚醒の森24
 アウトドアショップで買ったテントと寝袋に、ミクは一言も文句を言わなかった。夜になると僕は街でエンコー相手を探して、翌日の午前中いっぱいは眠って過ごす。午後にテントへ戻るとミクが食事を用意して待っていてくれる。そのあとあたりが暗くなるまでが、僕とミクとが2人で過ごす時間だった。
 長い間声を出さずにいたミクは、最初の頃こそかすれた声しか出なかったけれど、数日後には子供らしいかわいい声でしゃべるようになった。筆談をしなくなってもミクは僕の左手を離さなかった。傍らに寄り添って、僕の手をなでながらミクは僕に話した。
「 ―― 初めて見た時にね、大河のこと、王子様だと思ったの。ミクのことを悪い人から助けてくれる王子様。かっこよくて、強くて」
 あの日忘れてしまった記憶を、ミクはほとんど思い出していた。おそらく自分の名前や住所、さらわれた経緯なんかも思い出しているのだろう。僕が尋ねてもいつもうまくはぐらかされてしまうのだけど。
「そんなんじゃないよ僕は。あの時は別にミクを助けようとした訳じゃない。ただ人間の血が欲しかっただけだ」
「わかってるもん。あたしがそう思っていたいだけ。大河はね、ミクにとっては本物の王子様なの。だけどミクはお姫様じゃないから、大河のそばにいられるだけでいい。大河のこと、いつも見ていられるだけで幸せなの」
 声を取り戻したミクは明るかった。毎日のように誰かのベッドで過ごす僕を見て、自分にも家畜以外の付加価値が必要だと考えたのかもしれない。満月がくればミクはおとなしく僕に血を提供した。逃げる心配のないミクの血を吸うことに慣れてきた僕は、吸血にある程度の時間をかけてミクの負担を軽くすることも覚えていた。
 その年の夏が終わった頃、僕は決断を迫られていた。今まで僕はずっと寒い地域を目指して日本海側を移動してきたのだけど、テントのミクを雪の中に放り出す訳にはいかないから、太平洋側の雪が降らない地域で冬を越すことにしたんだ。自分が飼う家畜にとって過ごしやすい環境を整えるのは、飼い主である僕の役目だった。もしかしたらそれを言い訳にしていただけかもしれない。
 来た道を戻る訳じゃなかったけれど、再び僕は近づきつつあった。ルイと過ごしたあの街へ。そして、一二三が住んでいるはずの、あの深い森がある場所へ。
 ミクを飼い始めてから、いつの間にか3年近い年月が経とうとしていた。
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