2002年05月の記事


祈りの巫女31
 お夕飯の仕度を手伝って、そろそろ父さまが帰ってくる時間が近づいていた。あたしはその間もずっと、森のことを忘れようと思っていた。でも、お手伝いをしながらも、あたしの頭の中から森は離れてくれなかった。あたりは暗くなりかけていた。
 我慢できなくなって、食器をテーブルに並べた時、あたしはとうとう母さまに言っていた。
「母さま、あたし、出かけてくる」
「もう父さまが帰ってくるわ。どこへ行くの?」
「んとね、リョウのところ」
「……そう、気をつけてね」
 母さまは、あたしがリョウのところへ行くのは止めたりしない。嘘をついてしまったのがちょっと後ろめたかったけど、そんな気持ちを振り払うように、あたしは夜道を駈けていった。
 夕暮れ時の森は薄暗くて、あたしはやっぱり怖かった。マイラの家の裏側を回りこんで、誰にも見つからないように森に入った。入ってすぐに、もっと明るい時間にくればよかったって後悔した。でも、もうここまで来ちゃったんだもん。いまさら帰ることもできなかったから、怖い気持ちを押し殺して、あたしは森の奥深く入っていった。
 風に揺れる葉ずれの音がちょっと無気味で、暗くてよく見えない足元が不安で、あたしはゆっくりと道を辿りながら、この間リョウが座っていたあたりまで入り込んでいた。そこは少し森が途切れたようになっていて、もう少し先に何かが見えた。よく見るとそれは、あの時リョウが持っていた花束だった。もしかしたらマイラの花束だったのかもしれない。どちらの花束なのかは判らなかったけど、2人が会いにきた男の子が、あそこに忘れていったのかもしれないと思った。
 あたしはさらに歩みを進めて、その花束のところまで行こうとした。そうして、途中まで歩いた時だった。急にあたしは足を取られて、下に落ちるような感じになったのだ。
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祈りの巫女30
 小さな頃に行っちゃいけないって言われたから森が怖いんだろうってマイラは言ったけど、あたしは少し違う気がしていた。だって、あたしは小さな頃母さまに、料理の火に近づいちゃいけないって言われたけど、今はぜんぜん怖いと思わないから。あ、でも、あたしはいつの間にか火を使って、火がそれほど怖くないんだってことが判った。もう一度あの森に行って、森がそれほど怖くないことが判ったら、あたしは森を怖いと思わなくなるかもしれない。
 森が怖くなくなったら、あたしは少しだけ大人に近づけるかもしれない。リョウにも近づけるかもしれない。1度家に戻ってしばらく考えた。やっぱり森はすごく怖かったけど、でもあたしは行ってみなければならないんだ。
「母さま、ちょっと出かけてくる」
「どこへ行くの?」
「マイラの家のね、向こう側にある森。暗くならないうちに帰ってくるから」
「……ちょっと待ってユーナ。どうして突然森に行こうと思うの?」
 母さまの顔から笑顔が消えていた。あたしはちょっとびっくりして、でも、母さまには正直に、今の気持ちを話した。
「あのね、あたし、あの森が怖いの。他の森は怖くないのにあの森だけ怖いの。あたしは儀式を受けたら祈りの巫女で、もう子供じゃないの。だから、いつまでも子供みたいに、森が怖いとおかしいの」
 なんだか上手に話せなかった。もしかしたら、母さまにはあたしの気持ちが伝わらなかったのかもしれない。
「ユーナ、あの森は危険なのよ。ひとりで行くのは危ないわ。今日どうしても行かなければならないの?」
「そんなことはないけど……」
「だったら、父さまとも相談して、今度ゆっくりみんなで行かない? 父さまと母さまと、オミも一緒に」
 母さまは言葉では反対しなかったけれど、あたしを森に行かせたくないみたいだった。
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祈りの巫女29
 いけないことを訊いたのかもしれない。隠し事をするって、それだけですごくつらいことだから。あたしは気付かないふりをしていた方がよかったのかもしれない。
「ユーナ、あの森は危険なんだよ。他の森も子供には危険だけど、あの森は他の森よりも少しだけ危険なの。だから、小さな子供にはどの親もみんな言って聞かせるんだ。あの森で遊んじゃいけないよ、って」
 視線を森の方に向けたまま、マイラは続けた。
「たぶんユーナはそれを覚えているんだね。小さな頃、行っちゃいけないって言われたこと。だからきっと、この森が怖いんだわ」
 マイラはすごく悲しそうな顔をしていた。だからあたしは、マイラが言ったこと、半分しか信じられなかった。あたしが小さな頃に、母さまはあたしにそう言ったのかもしれない。例えば、あの森にはお化けが出るよ、とかって。
「マイラも小さな頃にそういわれたの?」
「さあ、それはもう覚えてないわね。でもあたしはもう大人だから、森を怖いとは思わないね」
「リョウも大人だから怖くないのかな」
 マイラはやっと振り返って、少しだけ悲しい笑顔を見せた。
「リョウは狩人だから、森のことは何でも判ってるでしょう。いちいち怖がってたら何も捕まえられないわ」
 言われてみればそうだ。森を怖がる狩人なんて、聞いたことがなかったもん。
「あたしも、大人になったら怖くなくなるのかな」
「そうね。ユーナも大人になったら、あの森も優しく迎えてくれるかもしれないね」
 早く大人になりたい。
 大人になったら、森のことも、リョウのことも、何でも判るようになるから。
「マイラ、ありがとう。今日はこれで帰るね」
 マイラはいつもの悲しそうな笑顔で、あたしを送り出してくれた。
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祈りの巫女28
 リョウも、母さまも、父さまも何も言わなかったけど、あたしが神殿から帰ってこないのを心配して、みんなで探してくれていたみたいだった。リョウはあの草原に偶然現われたわけじゃない。でも、探していたことも、みんなが心配していたことも、リョウは何も言わなかった。
 あたしは何も教えてもらえない。あたしは子供で、みんなそう思ってるから、あたしの心に負担をかけることは話してくれないんだ。あたしはずっと感じていた。みんながあたしに隠していることがあるってこと。
 生まれて最初の、6歳の時の記憶。あの時何があったのか、あたしは知らない。ずっと考えないようにしてきたけど、昨日のことがあって、あたしは本当に久しぶりにそのことを考えていた。みんなが隠し事をしているのを感じてしまったから、それで思い出したんだと思う。みんなはあたしに言えないことがあって、だからあたしはいつまでも子供のままなのかもしれない。
 儀式の衣装が縫い上がって、あたしはまたマイラの家に行った。相変わらずマイラの家の後ろにある森は怖かった。神殿に続く道の森も、草原の向こうの森も、あたしは怖いと思わないのに、マイラの家の森だけはいつも怖かった。
「あら、ユーナ。爪を染めているんだね」
 衣装をつけて、鏡に映して、衣装をあちこち手で直しながら、マイラが気づいて言った。
「うん、染めた方がきれいだと思うの。マイラはどう思う?」
「あたしもその方がきれいだと思うわ。この分だと、儀式の頃には一番きれいな色に染まりそうね」
 きれいな巫女になりたい。あたしの中にはいろんな思いがあって、きれいになりたいと思うのもその1つだった。大好きなリョウに同じくらい好きになってもらいたい。立派な巫女になってみんなの助けになりたい。大人になって、みんながあたしに言えないことを聞きたい。
「ねえ、マイラ。あたしはどうしてマイラの森が怖いのかな。他の森はぜんぜん怖くないのに」
 マイラは、とても悲しそうな目をして、あたしから目を逸らした。
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祈りの巫女27
「ほら、ちゃんとユーナにはあるじゃないか。自分の仕事に対するプライドが」
 わざとだったんだ。リョウはあたしを怒らせて、あたしにそれを言わせようとしたんだ。
「あたし、祈りの巫女の仕事を馬鹿にされたくない。それがプライド?」
「オレだって狩人の仕事を馬鹿にされたら、今のユーナみたいに怒ると思う。自分の仕事にプライドが持てるって、それだけで十分すごい資格だと思うよ。実際、プライドのない大人もいるんだ。狩人の中にもいる。残念だけど」
「……そうなの? そういう人は、自分の仕事を馬鹿にされても平気なの?」
「平気なんだ。だからさ、ユーナは大丈夫だと思う。神殿のみんなも、今までずっとユーナを見てきたから、安心して宿舎を建ててくれてるんだと思う。不安だったら最初からそんな大変な仕事を始めようとは思わないんじゃないかな。たぶん落ち着くまでは他の巫女と一緒の宿舎に押し込めとくよ」
 リョウの話を聞いていたら、なんだか本当にリョウの言う通りのような気がしてきていた。リョウは不思議だった。いつでも、どんな時でも、あたしの気持ちを楽にしてしまう。あたしはリョウが大好き。いつも優しくて、いつも穏やかで、あたしのことを判ってくれるリョウが大好き。
 あたしが、リョウにたくさん優しくして、リョウのことを判って、リョウの気持ちを楽にすることが出来たら、リョウもあたしのことを好きになってくれる?
「リョウ、ありがと。あたし、リョウのことが大好き」
 きちんと言葉にして言ったことはあんまりなかった。
「ありがとう、ユーナ。……もう遅いから帰ろうな。送っていくよ」
 リョウは優しくて、穏やかで、あたしのことをいろいろ判ってくれる。
 でも、あたしと同じくらいには、リョウはあたしを好きになってはくれない。あたしが一番欲しい言葉は、くれない。
 リョウの優しさが残酷に思えて、すごく、痛かった。
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祈りの巫女26
「でも、実際のところ神託の巫女の予言が間違ってたと思う人は、たぶんいないと思う。神託の巫女は間違えちゃいけないんだ。ってことは、たとえユーナがどんなにできの悪い祈りの巫女になったとしても、それが正しいことで、真実なんだ。神様が望んだ祈りの巫女は、どうしようもないできの悪い祈りの巫女だ、ってことになる。それを神様が望んだんだから、誰もユーナを責めたりはしないよ」
 ……なんか、リョウの言ってることはすごくめちゃくちゃな気がするのに、あたしは少し気が楽になっていた。
 神託の巫女はぜったい間違えたりはしない。だから、あたしがたとえどんなにできの悪い巫女になったとしても、それが祈りの巫女なんだ。だって、祈りの巫女はあたししかいないんだもん。祈りの巫女はすばらしい巫女のことじゃなくて、あたしのことなんだ。
「それにさ、たぶん誰もユーナに期待をかけたりしてないと思うよ。だって、ユーナはまだ12歳で、儀式を受けても13歳で、いきなり完璧な巫女になんかなれっこないだろ? みんなユーナの修行ぶりを今まで見てきたんだから、ユーナがどの程度の人間なのか、ちゃんと判ってるよ。だから、ユーナは今のままで、精一杯自分の勤めを果たしていけばいいんだ。だいたい祈りの巫女の仕事って、ただ祈るだけなんだろ? その祈りが神様に届いたかどうかなんて誰にも判らないんだ。多少できが悪くたってそんなに目立たないって」
 なんだか果てしなく馬鹿にされてる気がした。あたしのことだけじゃなくて、祈りの巫女まで。
「祈りの巫女は祈るだけじゃないもん! そりゃ、祈ることがほとんどだけど、ちゃんと勉強して、世界の仕組みとかも判って、それで祈るんだもん。祈りにだって種類があって、ちゃんと手順を踏まないと神様に届かなかったり、大変なんだから。ぜんぜん簡単なんかじゃないんだから!」
 あたしがそうリョウを怒鳴りつけて、でもリョウはぜんぜん驚いた風には見えなかった。ひと通り叫び終わって息をついた時、リョウはすごく明るい表情で、あたしに笑いかけた。
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祈りの巫女25
「どうしたんだいったい。何か嫌なことでもあったのか?」
 リョウは微笑みながらあたしの隣に座った。あたしは、リョウに顔を見られたくなくて、膝を抱えた。そんなあたしの背中を叩いている手がある。泣きたくないのに。リョウに子供扱いされたくないのに。
 リョウはそれきり何も言わないで、あたしが泣き止むのをずっと待っていた。ただ、同じリズムで背中を叩いて。リョウは優しい。リョウは、あたしがずっと泣き止まなかったら、このままずっと背中を叩き続けてくれるのかもしれない。
 やっと、呼吸が落ち着いてきて、涙が止まった。あたしは深呼吸して、涙を拭いて、隣に座ったリョウを見上げた。
 リョウは、さっきと同じように微笑んでいた。
「リョウ……」
「ん?」
「今日ね、神殿に行ったの。そうしたら、祈りの巫女専用の宿舎を建てていたの」
 リョウの手は、まだあたしの背中にあった。叩くのはやめて、今はゆっくりとなでてくれていた。
「あたし、祈りの巫女になるのが怖い。みんなの期待が大きすぎて、裏切りそうで、怖いの」
 背中をなでていたリョウの手が、あたしの頭の上に乗せられた。
「怖がることなんかないよ。ユーナは神託の巫女が予言した、祈りの巫女なんだから。ユーナには、生まれたときから祈りの巫女になれる資格があるんだよ」
「……資格なんかないもん」
「ユーナにはその資格があるよ。それは、他の誰も持ってない、ユーナだけの資格だ。……例えばさ、もし仮に、ユーナにその資格がなかったとするよ。そうしたら、悪いのは間違った予言をした神託の巫女だ、ってことにならないか?」
 あたしははっとした。もしもあたしがちゃんと祈りの巫女になれなかったら、あたしが祈りの巫女だって予言した神託の巫女にまで迷惑をかけることになるんだ。
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祈りの巫女24
 セトに別れを言って、作業中のみんなに深くお辞儀をして、あたしは来た道を戻り始めた。判ってる。みんなあたしのことを考えてくれて、あたしが過ごしやすいように、祈りの巫女の使命をまっとうできるように、心を砕いてくれる。巫女が1人増えるのは、神殿にとっても大変な事だった。みんなだって、あたしと同じように戸惑っているんだ。
 帰り道は、すごく足が重かった。そろそろあたりは暗くなりかけていて、あまり暗くなってから山道を歩くのはよくないことなのだけど、足取りはなかなか進まなかった。村の明かりが近づいてきたけど、母さまに会って何を話せばいいのか判らなくて、とうとう昨日リョウと話した草原に座り込んでしまった。
 祈りの巫女になるのが怖かった。もしもあたしが、みんなが期待するような巫女になれなかったら、親切にしてくれたみんなの気持ちを無駄にしてしまうんだ。言葉では何も言わなくても、「どうしてユーナのためにこんなことまでしなければならないの?」って思って、嫌な気持ちになる人だっているかもしれない。あたしよりも祈りの巫女に向いてて、すごく祈りの巫女になりたい人だっているかもしれない。そういう人たち全員を、あたしは裏切るかもしれないんだ。
 草原に座りながら、あたしは昨日リョウに言われたことを思い出していた。何かをしたいと思って、それから祈りの巫女にならないといけない。あたしにやりたいことなんてない。あたしは祈りの巫女になりたくない!
 ……でも、祈りの巫女にならなかったら、今一生懸命宿舎を建ててくれるみんなを裏切ることになるんだ。
「ユーナ、こんなところで何してるんだ?」
 声に気付いて顔を上げたら、あたりはもう真っ暗になっていて、目の前にリョウが立っていた。
「リョウ……」
「またなんかオレに聞いてもらいたいことでもあるのか?」
 リョウの笑顔と優しい声が、今まであたしの心の中につまっていたなにかを、一気に取り除いてくれた気がした。リョウの顔が歪んで見えて、あたしは涙を流してることに気が付いた。ほんとはリョウの前で泣きたくなかった。だけど涙は溢れて、息が苦しくなって、あたしはリョウの顔を見ながらしゃくりあげるように泣いていた。
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祈りの巫女23
「ユーナがよくてもね、これから先のことを考えたら、やっぱり1つ祈りの巫女の宿舎が必要なんだ。確か祈りの巫女が生まれるのは120年ぶりだろ? 位は聖櫃の巫女よりも高いし、世話係の巫女も一緒に住まないとならないし、そのうち他の巫女が修行にくることもあるだろうしね。今の宿舎だと、120年ぶりに新しく増えた祈りの巫女の個室を作るのが難しいんだ。突貫工事になっちゃったから、そんなに立派にできなかったけどね」
「そんな……あたし、個室なんか要らないし、世話係がつくなんてぜんぜん思ってなかった。自分のことは自分でできるもん。今までだってそうやって来たし」
「そりゃ、修行中は自分のことは自分でやらないといけなかったけどね。でも、これからはそういう訳にはいかないよ。祈りの巫女は、祈りの巫女に専念してもらわないといけないんだ」
 あたしは、祈りの巫女にならなくちゃいけない。
 今までなんか比べ物にならないくらいの重圧だった。あたしは、120年ぶりに生まれた祈りの巫女。巫女の位の中では守護の巫女に次いで2番目で、人々の祈りを神に届ける役割を負う。儀式を受けたら、あたしはもうそういう役割を担った、一人前の巫女として扱われるんだ。
 どんなにあたしが未熟でも、才能がなくても、儀式が終わればあたしはもう祈りの巫女なんだ。
「大丈夫だよ。ユーナがちゃんと住みやすいように、みんなでいろいろ考えて作ってるから。図面を見せようか?」
 あたしが黙ってしまったからだろう、気を遣って、セトが言った。
「いい、ありがとう。なんかびっくりしちゃった。……そうなのよね。あたし、自分のことだからピンとこないけど、今まで120年も祈りの巫女はいなかったんだもん。宿舎だって、祈りの巫女が住むようになんか、できてないよね」
「正直に言うとね、ユーナの儀式の日が決まるまで、誰もそれに気がつかなかったんだ。だから準備がぜんぜん整ってなかったの。もっと早く気付いてたら、ユーナの意見も取り入れて、もっとユーナが住みやすく作れたんだけどね」
「ううん、いいの。……ありがとう、あたし、帰るね。ここにいてもみんなの邪魔になっちゃうから」
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祈りの巫女22
「なんか変な時に来ちゃったみたい」
「そんなことはないよ。ただ……ごめん、一言みんなに断わってくるな。探してるといけないから。ここで待ってて」
 セトがあたしのお茶の準備を簡単に済ませて、あわただしく宿舎を出て行ってしまった。やっぱり、あたしはきちゃいけなかったんだ。食堂のテーブルでセトが入れてくれたお茶を飲みながら、あたしはセトが戻ってきたらすぐに家に帰ろうと思った。忙しいみんなの邪魔をしちゃいけないから。
 そうして、しんとした食堂でセトを待っていたら、遠くの方で何か音が聞こえた。かんかんって何かを叩いてるような、すごくよく響く音。よく聞いてみると、その音は釘を打つ音にとてもよく似ていた。神殿の向こう側から聞こえてくる。
 あたしはそっと窓に近づいて、音のする方を目を凝らして見た。でも、神殿に隠れていて、何をしてるのかはぜんぜん判らなかった。ちょっと迷ったけど、あたしは宿舎を抜け出した。そして、神殿の向こう側に何か建物を作っているのを見つけた。
 神殿から見て右側には、いくつかの巫女達の宿舎がある。あたしがさっきまでいたのは左側の神官達の宿舎だから、今作ってるのは巫女の宿舎だ。3日前までは影も形もなかった。もしかして、今作っているのって、あたしが祈りの巫女になるのと関係があるの?
「あ、ユーナ! ……見つかっちまったか」
 あたしに声をかけたのはセトだった。作業していた人たちも、気付いてあたしを振り返った。
「……なに? どうしたの、これ。もしかして、あたしの……?」
「儀式の日までは秘密にしときたかったんだけどな。見つかっちゃったんだからしょうがない。察しの通り、君の宿舎だよ。祈りの巫女がこれから住むための宿舎を作ってるんだ」
 信じられなかった。巫女達は、神殿の右側の宿舎にみんなで住んでいる。専用の宿舎を持っているのは守護の巫女と聖櫃の巫女だけだった。運命の巫女も、神託の巫女も、他の名もない巫女もみんな同じ宿舎にいるから、それだけでもあたしが専用の宿舎を建ててもらえるのは異常事態だった。
「どうして? あたしはみんなと同じでいいよ。だってあたし、まだぜんぜん祈りの巫女じゃないのに」
 もしもあたしがこれから先、すごく立派な巫女になって、みんなに尊敬されて、それで宿舎を建ててもらえるのならわかる。でも、今のあたしが新しい宿舎を建ててもらっていいはずない。
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祈りの巫女21
 神殿は東の山の中腹にあって、あたしの足だとかなり歩かなければいけない。でもお夕飯までには戻りたかったから、あたしはできるだけ急いで、その山道を登っていった。つい3日前まではあたしは神殿の宿舎でずっと修行していて、祈りの巫女になってからは時々自宅に帰る以外はずっと住まなければならない場所だから、あたしにとっては第2の家って言えるような場所だった。
 見慣れた道を辿って、やっと神殿の建物が見えてくる。誰かいないかと思って見回しながら石段を登りかけると、建物の中からセトが出てくるのが見えた。
「ユーナ? ユーナじゃないか」
「こんにちわ、セト。来ちゃったけど大丈夫だった?」
「驚いたな。そこにいて、降りていくから」
 セトは神官の一人で、大人の男の人だった。もう結婚もしていて、子供も何人かいるのかな。セトは毎日神殿に通っていて、あたしは神殿でしか会ったことがなかったから、セトの家族のことはよく判らなかった。
 階段を降りてきたセトは、あたしをさりげなく宿舎の方に促しながら言った。
「まさかユーナがくるなんて思わなかったよ。儀式の日までは暇をもらってるんだろ?」
「うん、そうだけど……。なんか落ち着かないの。家にいても何もすることがないし」
「祈りにきたの?」
「そうね、神様に祈りたい気分かもしれない」
「残念だけど、今神殿には入れないんだ。君の儀式の準備があるから。宿舎でお茶でも飲みながら少し話そうか」
 もしかしたら、あたしはきちゃいけなかったのかもしれない。セトの態度も落ち着かなかったし、宿舎に入っても中はがらんとしてて誰もいなかったから。みんなきっと、あたしの儀式の準備があって忙しいんだ。
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祈りの巫女20
「ユーナはそのことを悩んでたの?」
「うん」
「そうね、母さまが思うのは、ユーナは今あせってそれを見つける必要はない、ってことだわね。祈りの巫女はすばらしい生き方よ。今考えなくても、祈りの巫女になって、たくさんの人を助けて、それを繰り返していくうちにいつか必ず見つかるわ。リョウは強くなりたくて自分の生き方を選んだけど、ユーナは自分に与えられた運命を辿りながら、ゆっくり自分のやりたいことを見つけていくのよ。ユーナが生まれたときに未来を見た神託の巫女は、ユーナのそういう人生を見ていたのだと思うわ」
 リョウも言ってた。どうせすぐに結論なんか出ないよ、って。あたしは、祈りの巫女になってからゆっくり、自分のやりたいことを見つけていけばいい。リョウはそういうことも全部判っていて、昨日あたしにそう言ったのかもしれない。
「あたしも、祈りの巫女は素敵な生き方だと思う。なりたいと思った人が全員なれるわけじゃないもん。あたしは、みんなが誇りに思えるような祈りの巫女にならなきゃいけないのね」
「そうね。でも、母さまは今のユーナで十分誇りに思えるわ。ユーナが今の気持ちを忘れない限り、いつかすばらしい祈りの巫女になれるはずよ」
 母さまはそう言ってくれて、あたしはとても嬉しかったけど、でもやっぱりどこかがもやもやして消えなかった。あたしよりもずっと巫女になりたいと思ってて、でもなれない女の子はたくさんいる。特に祈りの巫女になれる人はめったにいない。それなのに、あたしが巫女になってもいいの? ただ、神託の巫女が予言したってだけで、本当にあたしが巫女になってもいいの?
「母さま、あたし、神殿に行ってくるね」
「そう、気をつけて行ってらっしゃいね」
「はい」
 本当は、儀式の日までは神殿には行かなくていい。でも、じっとしているのがつらかった。どうしたらこのもやもやが消えるのか、できることを何でも試してみたかったから。
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祈りの巫女19
「さあ、何をしたのかしらね。ただ、父さまのことが大好きだから、すごく父さまに優しくしたわ。父さまが困っていたら助けてあげようとしたし、悩んでいたら一生懸命に相談に乗ったの。でも、父さまのほうがずっと大人だったから、母さまはちっとも助けにならなかったのよ」
 あたしも昨日、一生懸命リョウの悩みを考えた。でもたぶん、あたしの答えもリョウの助けにはならなかった。リョウは大人だから、あたしがどんなに考えても、リョウを助けることなんか出来ないんだ。
「でもね、父さまはそれが嬉しかったの。母さまが一生懸命父さまのために相談に乗ってあげたから、父さまはそのことだけで嬉しかったのよ」
「……一生懸命が嬉しいの?」
「そう。ユーナも、リョウのために一生懸命になってあげたら、その気持ちはきっとリョウにも伝わるわ」
 あたしが一生懸命になれば、リョウはあたしを好きになってくれるのかな。あたしがリョウを好きな気持ちと同じくらい、リョウもあたしを好きになってくれるのかな。
「それからもう1つ。ユーナも大人になることかしらね。自分のことを自分でちゃんと考えて、少しずつ大人になっていったら、そのあとはリョウの悩みをきちんときいてあげられるわ。本当にリョウを助けることが出来たら、リョウもきっとユーナのことを好きになってくれるはずよ」
 昨日、リョウはあたしの悩みをちゃんと判ってくれた。そして、リョウ自身が経験したことから、1つ答えを教えてくれた。あたしが大人になったら、昨日のリョウみたいに相手の相談に乗ってあげられる人になれるんだ。そして、あたしがそうなったら、リョウはもっとあたしと話してくれるようになるんだ。
「ねえ、母さま。あたしは今、どうしても祈りの巫女になりたい、って思ってないの。リョウは強くなりたいから狩人になった。でもあたしには、リョウが思うみたいな強い気持ちはないの」
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祈りの巫女18
 あたしはリョウの一番になりたい。
 何かになりたいと思って巫女にならないといけない。
 そうリョウは言ったけど、リョウの一番と、巫女になるために思う何かとは、たぶん違う。その何かを見つけなければあたしは祈りの巫女になれない。そしてたぶん、リョウの一番にもなれない。
 爪に、花びらの汁を塗る。一番きれいな巫女になりたいから。大好きなリョウに、一番きれいな巫女だって思われたいから。
「母さま、母さまはどうして父さまと結婚したの?」
 手を洗って、あたしは母さまのお茶の用意を手伝った。
「それは父さまが大好きだったからよ」
「父さまも母さまが大好きだったの?」
「そう。父さまと母さまは、同じくらいお互いを大好きだったの」
 あたしとリョウはたぶん同じくらいじゃない。あたしはリョウをたくさん好きだけど、リョウはあたしのことを少ししか好きじゃない。
「ユーナはリョウが好きなの?」
「うん、大好き。でもリョウは違うみたい」
「そう?」
「少しは好きだけど、大好きじゃないの」
 母さまが入れてくれたお茶には、昨日あたしが取ってきた花びらが、1枚だけ浮かべてあった。
「父さまは、どうして母さまと同じくらい、母さまのことを好きになったの? 母さまは何をしたの?」
 母さまはちょっと照れたような笑顔を見せた。
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祈りの巫女17
 だけど、今のあたしじゃダメなんだ。小さな女の子のままじゃ、リョウの一番になんかなれないんだ。
 巫女になったら、あたしはリョウの一番になれるのかな。
「ありがと、リョウ。ちょっと考えてみるね」
「ゆっくり考えればいいよ。どうせすぐに結論なんか出ないから」
「なんで? あたしが子供だから?」
「そういうことじゃないよ。実はオレ、あんまりユーナのことは心配してないんだ」
「どうして? ……嫌いだから?」
「違うって。ユーナはさ、何があっても大丈夫だと思う。しぶといから。村の全員が死に絶えても、ユーナは最後まで生き残ると思う」
「何よそれ!」
 あたしは隣のリョウを拳で殴るマネをした。リョウは大げさに笑いながら避けるポーズをした。そして、ちょっと真面目な顔で、言った。
「オレがぜったい死なせないから」
 リョウの言葉は真実味があって、あたしは少し怖くなる気がした。
「……もしもあたしが誰かと恋して結婚したら、それでも守ってくれるの?」
「その時はユーナの家族も一緒に守るよ。オレはそう決めてるから」
 やっぱり、リョウはあたしが誰と結婚しても、ぜんぜん気にしないんだ。
 それが悲しくて、リョウに送ってもらって家に帰ってからも、あたしは心が晴れなかった。
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祈りの巫女16
「強くなれると思ったんだ。武器の扱いを覚えて、獣と格闘して身体を鍛えたら、もしも何かがあった時に好きな人たちを守れる、って。父さんや母さんや、ユーナ。オレの好きな人たちを守りたいから、狩人になりたかったんだ」
「あたしも、リョウの好きな人に入ってるの?」
「なんで? 入れたらおかしいか?」
「なんか最近嫌われてる気がしたの。……変なの。嬉しいのに」
「嫌いになんかならないよ。ユーナは小さな女の子だから、守ってあげたいと思ったんだ。村で一番の狩人になれたら、どんな大きな獣が襲ってきたって追い返せる。オレはそういう男になりたいんだ。だから畑仕事じゃダメだった。狩人になるのが一番だと思ったんだ」
 リョウは、あたしを守ってくれる。あたしを守るために狩人になったんだ。嬉しいのに悲しかった。それがどうしてなのか、あたしには判らなかった。
「たぶんユーナにはそれが足りないんだと思うんだ」
 あたしは顔を上げて、リョウの顔を見つめた。
「それ?」
「うん、つまり、こうしたいからこれになりたい、って気持ちかな。役に立つとか、幸せになるとか、ぜんぶ人に言われたことだったり、あとから考えたことだろ? そうじゃなくて、一番最初にユーナが思うこと。オレが、強くなりたい!って思って狩人になったように、ユーナも、何かをしたい!って思ってから祈りの巫女にならないといけないんだ」
 あたしは、リョウの一番になりたい。
 リョウと毎日話せて、リョウのそばにいられて、リョウに邪魔にされない人になりたい。リョウのこと、何でも知りたい。リョウの秘密をあたしと2人だけの秘密にしたい。
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祈りの巫女15
 リョウは家への帰り道を歩いていたのだけど、このとき突然道を変えた。あたしはリョウの後について、草原の方に向かうその道を歩き始めていた。
「ユーナはいったい何を悩んでるんだ?」
 リョウは、もしかしたらあたしの悩みを聞いてくれるつもりになったのかもしれない。
 あたしがずっと、リョウと話したいって言ってたから。
「自分でもよく判らないの。小さな頃から祈りの巫女になるんだって言われて、神殿で祈りの巫女になる勉強をして、勉強はぜんぜんつらくも苦しくもなかったし、楽しかった。13歳で称号を継ぐことになったって、今までしてきたことと何が違うわけでもないって判ってるの。祈りを神様に届けて、みんなの役に立って、それってすごく嬉しいことなの。あたしが祈ることで幸せになる人がいたら、あたしだって幸せになれる。こんなに幸せな仕事はないよね。それなのに……なんかね、心がもやもやするの。ほんとにこれでいいのかな、って思うの。どうしてそう思うのかもよく判らないの」
 話しても、あたしが本当に何を悩んでいるのか、自分でもよく判らなかった。あたしは祈ることは嫌いじゃないし、勉強も嫌いじゃない。神殿の人たちもみんないい人で、あたしに優しくしてくれる。嫌なことは何もないのに、もやもやが抜けない。一生懸命楽しいことを考えるのに、もやもやが邪魔してちゃんと楽しくならないの。
 薄暗くなりかけた草原に腰掛けて、リョウはいつものようにあたしに微笑んだ。
「ユーナ、オレはユーナが祈りの巫女になるのは嬉しいよ」
 リョウはいつも優しい。誰にでも、あたしじゃない人にも。
「だけどオレがそう言っても、たぶんユーナのもやもやは消えないよ。……オレはさ、狩人になるって思った時、ほんとにそうなりたいって、自分で思ったんだ。オレは畑を耕すこともできたし、誰かの工房に弟子入りしてもよかったし、商人にもなれた。だけどオレはどんな仕事よりも、狩人に一番なりたいと思ったんだ。……どうしてだと思う?」
 リョウの隣で、あたしは首を振った。
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祈りの巫女14
「でも、リョウにしたい事があって、その気持ちをその子が判ってくれたら、その子も許してくれると思う。最初はちょっと怒っても最後にはぜったい許してくれるもん。友達だったらリョウのことちゃんと判ってくれるよ!」
 リョウが、すごく大切に思っている男の子。リョウが一番大切なんだから、その子だってリョウのことを一番大切に思ってる。そんな子がリョウを許さないはずなんてない。あたしだったら……
 もしもあたしがその子だったら、ぜったいリョウを失いたいなんて思わないから。
 そのとき、リョウは悲しそうな微笑で、あたしを見た。その表情は、マイラによく似ていた。
「一生許してもらえないかもしれないな。……だけど、それってたぶん、オレがこれからどれだけそのことに命を懸けられるかって、それにかかってる気がする。オレが、あいつがそうしたのと同じだけの覚悟でいるかどうか、あいつはそれを見ている気がする」
 リョウが、具体的なことを何も言わなかったから、あたしにはよく判らなかった。リョウがやろうとしていることも、その子とリョウがどんな関係でいるのかも。
 お互いに何も話せなくなって、森を出て、帰り道。やっと、リョウが気分を変えるように言った。
「ところでユーナ、おまえはなんでオレの後をつけたりしてるんだ?」
 あたしが森へ行ったのは、リョウがあたしに秘密を持っているのが悲しかったから。
「リョウの大切な約束がなんなのか知りたかったんだもん。途中でマイラに会って、リョウが会ってるのが男の子だって教えてもらったけど」
「マイラに?」
「うん、あとでマイラも会いに行くんだって言ってた」
「それで? オレの約束がなんだか判ったのか?」
「あんまりよく判らなかったけど、でももういい。リョウが悩んでたことが判ったから。……あたしだけが悩んでるんじゃないんだって、判ったの」
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祈りの巫女13
 春先の森は若葉をつけていて、あたしは木々の木漏れ日の道を歩いた。音を立てないようにゆっくり、リョウに気付かれないように。しばらく歩くと、リョウのうしろ姿が見えた。リョウはその場所に座っていて、周りには誰の姿もなかった。
 しばらく、息を殺していると、リョウの声がかすかに聞こえた。
「……おまえは、許してくれるのかな……」
 聞き取れたのはそれだけ。もしかしたら、それだけしか話さなかったかもしれない。
 リョウは傍らにおいてあったお酒の瓶に口をつけて、残りを全部草むらにこぼした。そして、立ち上がる。いきなり振り返ってこっちに向かって歩き始めたから、あたしはあわてて木の陰に隠れようとした。だけどダメだった。リョウはあたしに気付いて、驚いたように目を見開いた。
「ユーナ……いつからそこにいたんだ?」
 リョウは驚いてはいたけど、あたしを怒ってはいなかった。だいたいリョウが怒ったところをあたしは見たことがなかった。
「まだ来たばっかり。今リョウが言った一言しか聞いてないよ。リョウはその子とケンカしたの?」
 リョウはちょっと呆れたように微笑んで、森の道を戻り始めた。
「ケンカをしたんじゃない。……例えばね、オレがこれからどうしてもしなければならないことがあって、だけどそれをすることが相手にとっていいことなのか悪いことなのか、判らない。決心がつかない。そんな時、ユーナならどうする?」
 リョウは、その子に許してもらえるかどうか判らないことを、しようかしないでいようか悩んでいるんだ。
「直接訊いてみる、その子に。そうしてもいい? って」
「ユーナはそう言うと思った」
 リョウはまた微笑んだけど、あたしの答えを納得したんじゃないのはあたしにも判った。
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祈りの巫女12
「その男の子は花が好きなの?」
 マイラはまた少し笑った。
「さあ、どうなのかな。判らないけど、あたしはいつも花を持っていくね。ユーナ、ユーナはリョウのことが好きなの?」
「うん、大好き」
「だったらそっとしておいておやり。今日はリョウの大切な約束の日なんだ。誰にでも大切な1日があるんだよ」
 あたしにもある。あたしにとっての大切な1日は、9日後の儀式の日。あたしが大人になる日。
 そして、今日はマイラの大切な1日でもあるんだ。
「お茶、ありがとう。おいしかったわ」
「まっすぐ帰りなさいね」
「判ったわ」
 あたしはマイラにお礼を言って、そのまま坂を降りた。今日はリョウの大切な日。だから、リョウの邪魔をしちゃいけないんだ。でも、リョウが会っている男の子のことが気になって仕方がなかった。相手が男の子だって判って、あたしはほっとしたけど、でもその子がリョウの一番大切な人なのは間違いなかったから。
 あたしがリョウの一番大切な人じゃなくてもしょうがない。だけど、どうしてあたしじゃなかったのか、やっぱり知りたかったから。
 その男の子を見れば、リョウがどうしてその子を大切にしているのか、判るような気がしたから。
 あたしはマイラに気付かれないように、家の裏側を回って森に近づいた。その森は別に暗くもなかったし、他の場所と比べてぜんぜん違うところなんかなかったのに、あたしはその森が怖かった。でも今はリョウのことを知りたい気持ちの方が強かった。怖かったけど、あたしは我慢して森に入った。
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祈りの巫女11
 リョウが向かっていたのは、マイラの家の向こうにある森の中だった。リョウはぜんぜん怖くないみたいだった。だけどあたしは怖くて、しばらく森の入口でうろうろためらっていた。
 どのくらいそうしていたんだろう。そんなあたしの様子に気付いて、マイラが声をかけてきた。
「ユーナじゃない。そんなところで何をしてるの?」
 マイラはいつもよりもずっと悲しそうな顔をしていた。
「リョウがね、森の中に入っていくのが見えたの。大切な約束があるんだって。だからあたしも追いかけてきたの。リョウは森が怖くないのかな」
 マイラはあたしの言葉にしばらく絶句していた。
「……そう、リョウが森へ行ったの。ユーナは森が怖いの?」
 あたしは頷いた。
「ユーナ、こんなところではなんだから、家にお入り。おいしいお茶を入れてあげるわ」
 そうして、あたしはマイラに誘われて、お茶をご馳走になることにした。
 ひと口お茶を含んで見ると、テーブルの上には昨日はなかった花束があった。
「リョウも花束を持ってたの。マイラ、リョウは女の人に会いに行ったんだと思う?」
 マイラもお茶を一口飲んで、悲しそうに微笑んでいた。
「あたしもね、会いに行こうと思ってたところだったんだ。……リョウは覚えているんだねえ。ユーナ、安心するといいよ。リョウが会いに行ったのは男の子だから」
 あたしは安心するよりも不思議に思った。あの森の中でいったい誰に会うんだろう。リョウもマイラも、いったい誰と会おうとしてるんだろう。
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祈りの巫女10
 大人になるのが淋しかったから、あたしは儀式を楽しみにしていなければいられなかったのかもしれない。狩人になったリョウがあたしから離れてしまったように、巫女になったあたしはリョウから離れてしまうのかもしれない。もしもあたしが狩人だったら、ランドのようにいつもリョウと一緒にいられた。あたしがリョウと同じ16歳だったら、一緒に大人になれたのかもしれない。
 翌日、北カザムの筆が出来上がって、あたしはピジの工房に取りに行った。小さな筆は毛先がきれいに揃っていて、爪を染めるのに合っていた。さっそく家に戻って爪をきれいに磨く。瓶の中から花びらの汁を絞って、少しずつ、丁寧に塗っていった。
 きれいに塗って、乾かして、また塗る。何回かそれを繰り返してから洗い流す。洗うと少し色は落ちてしまうけど、毎日繰り返し塗っていると洗っても色が落ちなくなる。儀式の日まで毎日塗るつもりだった。一番きれいなユーナになって、巫女になりたかった。
 リョウと話したかった。ううん、ほんとは、リョウが誰と約束しているのか知りたかった。
 リョウが狩りから帰る頃を見計らって、あたしはリョウの家の前まで行った。木の陰に隠れて、リョウが出てくるのを待っていた。しばらく待っていると、リョウが家から出てくるのが見えた。片手に花束を抱えて、片手にお酒の瓶を持っていた。
 リョウに気付かれないように後を追った。花束を持ってるから相手は女の人なのかもしれない。でも、お酒の瓶を持っているから男の人なのかもしれない。もしかしたら、お酒の好きな大人の女の人なのかも。だったらリョウは、その人と結婚したいと思っているのかもしれない。
 リョウは大人だから、誰かと結婚しても仕方がない。あたしと話さなくなったのは、リョウに好きな人ができたからなんだ。
 悲しかった。淋しかった。だけど、そういうことだってあるんだ。あたしがいつか誰かと恋して結婚するみたいに、リョウだって誰かと恋して結婚するんだ。
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祈りの巫女9
「送ってくれてありがと」
 リョウに別れを告げて家に入った。食卓にはもう食事の用意がしてあって、父さまと弟のオミが座っていた。たぶんあたしが帰るのを待ってたんだ。
「遅くなってごめんなさい、父さま。リョウに送ってもらったの」
「お帰りユーナ。リョウは帰ったのかい?」
「たぶん酒場に戻った。ランドと飲んでたの」
「巫女の儀式まであと10日か……」
 父さまは食前酒を傾けて、嬉しそうに、でもちょっと淋しそうに言った。
「何も変わらないわ。マイラが言ってたもん。人間はそんなに簡単に大人になんかならないんだ、って」
「そうかもしれないな。だけど、子供はあっという間に大人になるんだ。ユーナもオミも、ちょっと前まではまだ小さな赤ん坊だったんだよ」
「ぼくも赤ちゃんだったの?」
「だれでも赤ちゃんだったんだよ。ユーナもオミも、父さまも母さまもみんなね」
 母さまが食卓について、みんなでお夕飯を食べた後、あたしは花びらの瓶を持って部屋に行った。瓶の中の花びらは色とりどりできれいだった。リョウが取ってきた北カザムの筆が出来上がる頃、花びらからは色の汁がたくさん出てきて、あたしの爪をピンクに染めてくれるだろう。
 あたしがきれいになったら、リョウはあたしとたくさん話してくれるのかな。それとも、巫女になったらあたしは、狩人のリョウとは違う世界の人になっちゃうのかな。
 なんとなく淋しくて、なんとなく悲しくて、あたしは花びらの瓶を見つめながらなかなか眠りにつけなかった。
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祈りの巫女8
「ユーナは最初から判ってる。オレには自分が何になればいいのか判らない。だけど、それって本当はどっちでもいいんだ。だってユーナは祈りの巫女になるけど、祈りの巫女になってそのあと何をするかなんて、けっきょく判らないんだから」
 あたしは迷ってた。自分が祈りの巫女になること。リョウはもしかしたらあたしの迷いを知っていたのかもしれない。
「あたし、ちゃんと祈りの巫女になれると思う?」
「神様は乗り越えられない運命を人間に与えたりはしないよ。祈りの巫女の運命を授けたのは、ユーナがそれをやり遂げられるって、神様が思ったからだろ? 神様を信じるのも祈りの巫女の仕事だよ。……さ、うちに入りな」
 本当はもっとリョウと話していたかった。このことだけじゃなくて、もっとたくさんの事。リョウの話をたくさん聞きたかった。狩人になったリョウの狩りの話とか、いつもランドとどんな話をしているのかとか。
 リョウの目には、あたしはいったいどんな風に映っているのかとか。
「また明日話してくれる?」
「儀式前の祈りの巫女ってそんなに暇なのか?」
「暇じゃないけど、もっとリョウと話したいの。前はもっといろいろ話してくれたもん」
「オレもそんなに暇じゃないんだよ。それに、明日はちょっと約束があるんだ」
「だれ? 大切な約束なの?」
「ユーナが知らない人で、オレにとっては一番大切な約束。だいたい春先の狩人は忙しいんだぞ。冬の暇な時を基準に言わないの」
 大人になったリョウはいつも忙しい。あたしは、リョウがあたしを一番にしてくれないことが悲しかった。
 あたしが知らない人との約束を一番大切に思っているのが悲しかった。
「ユーナ、もう家に入りな。まだ夜は寒いよ」
「……うん、判った。おやすみなさい」
「おやすみなさいにはちょっと早いけどな。よい夢を、祈りの巫女」
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祈りの巫女7
「ランド! あなたすっごく失礼!」
「失礼なもんか。オレは事実を述べてるだけだ」
「あたしはヘチャじゃないもん!」
 もっと文句を言おうと椅子を降りかけたところ、リョウが割って入ってあたしの肩を止めた。
「ユーナ、もう遅いから家まで送っていくよ。ランドもあんまりユーナをからかうなよ」
「悪い悪い。ついおもしろくて」
「行こう、ユーナ。……何か話があるんだろ?」
 最後の方は耳打ちするみたいな小さな声で、あたしはランドに怒ってもいたのだけど、その怒りがすーっとおさまっていく感じだった。
 リョウが先に立って店を出て、あたしが後からついていく。リョウと歩くのは久しぶりだった。ほんの昨日まで、あたしは儀式の練習でずっと神殿に詰めていたから。
 今日、道で偶然すれ違わなかったら、こうして2人で歩くのはもっと先のことだったかもしれない。
「何も話さないのか? 早く話さないとユーナの家につくぞ」
 リョウの言う通りだった。小さな村だから、いつの間にか家のすぐ近くまできていた。
「リョウ、あたしね、子供の頃からずっと、おまえは祈りの巫女になるんだよ、って言われてた。あたしが生まれたときに神託の巫女が予言したんだって。……リョウは? リョウはどんな予言を受けたの?」
 リョウは振り返って、あたしの目をまっすぐに見て微笑んだ。
「オレも予言を受けたよ。だけど、予言の中身は知らない。父さんも母さんも教えてくれないんだ。ユーナにも教えてもらえない予言があるだろう?」
「うん」
 神託の巫女は、子供が生まれると必ず予言をする。その中でぜったいに教えてもらえない予言がある。それは、その子が将来誰と結婚するのかって事と、その子がいつ死ぬのかって事。
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祈りの巫女6
 リョウはさっきと同じ椅子に座っていて、カウンターの隣の席にはランドも来ていた。
「いらっしゃい、ユーナ。儀式の準備は進んでるかい?」
 最初にマティに声をかけられて、リョウとランドも気付いてあたしを振り返った。まだ早い時刻で酒場には他のお客さんはいない。あたしはすぐにでもリョウに話し掛けたかったけど、声をかけられたから、最初にマティに返事をした。
「衣装の仮縫いが終わったところ。そのことでリョウに話があるの」
「何か飲むかい?」
「ううん、もうすぐお夕飯だからいい。ありがと」
 そうマティとの会話を終わらせて、あたしはカウンターのリョウの隣へ腰掛けた。
「北カザムをピジに納品してくれたの?」
 リョウはまだほとんど酔ってないみたいだった。
「ああ、そうだよ。昨日ピジに頼まれたんだ。それがどうかしたのか?」
「ピジはあたしの筆を作ってくれるの。だからリョウにもお礼を言おうと思って」
 もしかしたらリョウは知らなかったのかもしれない。ピジに納品した北カザムが、あたしの筆になるって事。リョウはあたしの筆のために北カザムを狩ったんじゃないんだ。あたしの早とちりだった。
「そんなことをわざわざ言いにきたのか? 別にいつだってかまわないのに」
 なんだかちょっと悲しくなって、あたしはリョウに返事ができなかった。あたしが黙ってしまったからだろう。横から、ランドが口をはさんだ。
「巫女の儀式は前に見たことがあるけど、あれはちょっと詐欺だと思ったね。どんなヘチャでも絶世の美女に見えちまう。リョウ、儀式の艶姿に騙されて、うかつにユーナにプロポーズするんじゃないぞ」
 まるであたしがすごいヘチャみたいな言い方だった。
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祈りの巫女5
 マイラにお礼を言って、あたしはまた坂道を下り始めた。途中、マティの酒場の前を通りかかって、店の中にチラッとリョウの姿が見えた。まだランドは来てないみたいで、リョウはひとりでカウンターに座ってる。声をかければよかったのだけど、あたしはなんだか悔しくて、そのまま素通りして家に戻っていた。
「ただいま、母さま」
「お帰りなさいユーナ。衣装はどうだった?」
「すごくきれいだった。母さま、あたしの花びらは?」
「ずいぶんたくさん取ってきたのね。そこの棚にある1番大きな瓶に移しておいたわよ」
 母さまが指差した瓶には、あたしが取ってきたたくさんの花びらが詰め込んであった。あたしはその瓶を取って、中の花びらに塩を振りかけてしっかりふたを閉めた。
「ありがとう。あのね、あたし、足の爪も染めるの」
「まあ、そうなの。それは大変ね」
「だからたくさん必要なの。時間もすごくかかると思う。でもきれいに染めないといけないんだ」
「それなら筆も必要ね。用意はできてるの?」
「昨日ピジに頼んで……あっ!」
 さっきリョウが狩ってきた北カザムの子供!
 そうだったんだ。あれはきっと、あたしの筆にしてくれるために狩ったんだ。北カザムの毛皮はすごくいい筆になる。中でも子供の毛が最高なんだって、前に聞いたことがあったから。
「母さま、ちょっと出かけてくる!」
「急にどうしたの? すぐにお夕飯よ」
「リョウのところ!」
 母さまはいつも、あたしがリョウのところに行くのを止めたりしなかった。だからそれ以上何も言わないで送り出してくれる。あたしは走ってマティの酒場に行った。
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祈りの巫女4
「大丈夫そうね。ユーナ、あと10日あるけど、急に太ったり痩せたりしないように気をつけてね」
 マイラがちょっと悲しそうな顔で冗談を言ったから、あたしは笑うのを少しためらってしまった。
「平気よ。でも気をつけるね」
「ユーナも13歳になるんだねえ」
 何年か前から気が付いていた。マイラはいつでもあたしの年を気にしてるって事。あたしに年を尋ねるのは決まってマイラだった。
「ねえ、マイラ。祈りの巫女になったら、あたしは大人になって、今までと何かが変わってしまうの?」
 さっき、リョウに会ってから、あたしは少し不安になってたみたい。マイラを見上げてそう言うと、マイラはテーブルにお茶を用意してくれた。
「たいして変わりはしないよ。子供がそう思っているほど、人間は急に大人になんかならないからね。目の前にあることを1つずつ片付けていくうちに、ふと気が付くと知らない間に大人になってるの。あたしも、ユーナが生まれた頃にはまだ半分くらい子供だったし、今でも少し子供が残ってるよ」
「そうなの? あたし、マイラはずっと大人なんだと思ってた」
「あたしも子供の頃はそう思ってたよ。父さまも母さまもマイラが生まれたときにはもう大人で、ずっと変わらないんだ、って。……ユーナも、恋をして結婚して、子供が生まれたら判るかもしれないね」
 あたしが、恋をして結婚して、子供が生まれたら。
 マイラには子供はいないけど、恋をして結婚したからわかるようになったのかもしれない。
「大人になったらリョウともっと話せるかな」
 あたしがリョウのことを言ったら、マイラはまた少し悲しそうな、遠い目をして言った。
「……リョウは優しい子だからね。リョウももう少し大人になったら、たぶんユーナとたくさん話してくれると思うわ」
 マイラにはリョウも子供に見えるんだ。あたしから見たら、リョウはすっかり大人のような気がするのに。
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祈りの巫女3
「そうなの。それじゃ、衣装合わせが終わったら少し話を聞いてくれない? あたし、リョウに話したいことがあるの」
「儀式が終わるまでは忙しいんじゃないのか? のんびりオレと話なんかしてていいの?」
「リョウと話すくらいの時間はあるもん」
「だったらマティの酒場においで。これからランドと落ち合う約束なんだ」
「違うの! あたしはリョウと2人で話がしたいの!」
 あたしがそう言っても、リョウはもう歩きかけていて、それ以上話をする気はないみたいだった。坂を降りていくリョウのうしろ姿を見送る。最近のリョウはなんだかそっけない。子供の頃から優しくて、今でもそれは変わってなかったけど、だんだんあたしとの距離が遠くなってる感じがした。
 リョウはどんどん大人になって、あたしとは違う世界の人になっていくみたい。リョウはあたしと話をしても、もう楽しいと思わないのかもしれない。たぶんランドや、他の大人の男の人たちといる方がずっと楽しいんだ。
 13歳になって、祈りの巫女の称号を継いだら、あたしも大人になる。大人になったらリョウはあたしと話してくれるのかな。それとも、もっと遠い存在になってしまうのかもしれない。巫女は、この村では特別な存在だから。
 マイラの家に近づいて、あたしは向こうの森をできるだけ見ないようにしながら、扉をくぐった。マイラはベイクと夫婦で、子供はいない。今日もいつもの少し悲しそうな表情であたしを見た。
「ユーナ、待ってたのよ。さあ、早く着てみてちょうだい。良さそうならすぐに仕上げをしちゃうからね」
 そう言ってマイラが持ってきてくれたのは、純白の布に薄いピンク色の飾り布を縫い付けてあって、質素すぎもせず派手すぎもしないきれいな衣装だった。祈りの巫女の色はピンクで、これからあたしは様々な祭事の時には必ずピンクの飾りをつけることになる。衣装を着て、髪に飾りをつけると、マイラはちょっと離れたところからあたしを上から下まで見つめた。
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祈りの巫女2
「ユーナ、さっきマイラの使いの人がきたのよ。儀式用の衣装の仮縫いが終わったのですって。試着にきて欲しいそうよ」
 帰るとすぐに母さまがそう言って、あたしの手から花篭を取り上げた。赤い花びらが少しだけこぼれる。
「儀式の時までに爪を染めようと思って取ってきたの。捨てちゃダメよ」
「判ってるわよ。マイラを待たせないで」
「はい、行ってきます」
 あと10日で、あたしは13歳になる。13歳になったらあたしは祈りの巫女の称号を継ぐ。どうしてなのかは判らないけど、あたしは生まれたときからそう定められていた。母さまも父さまも、守りの長老もそう言ってたから、あたしもずっとそう思ってきた。儀式ではきれいな衣装を着られるから、あたしは誕生日のその日を楽しみにしていた。
 マイラの家は村の外れの方にあって、ほとんど森との境目のようなところだった。その森はあたしは少し怖かった。だから、マイラの家も、ほんの少しだけ怖い。そんな思いを振り切るように坂を登って歩いていると、向こうからリョウが歩いてくるのが見えた。
「リョウ」
 リョウは4歳年上で、16歳になっている。狩りの仕度が良く似合っていて、もう一人前の男の人だった。小さな頃は良く遊んでもらったけど、最近はそうでもない。リョウもあたしを見つけて微笑みながら近づいてきてくれた。
「リョウ、あたしこれからマイラのところで衣装合わせなの。リョウも見てくれない?」
 ほんの少しまぶしそうに目を細めて、リョウは言った。
「残念だけど、これから帰って獲物をさばいてもらわないといけないんだ。ユーナの衣装を汚しても悪いしな」
 見ると、確かにリョウは身体に狩りたての北カザムの子供をいくつかぶら下げていた。
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祈りの巫女1
 生まれてから最初の記憶は6歳の時。その時あたしはベッドの上にいて、守りの長老に両手を預けていた。
「……考えずともよい。時至ればそなたは全てを理解することができよう。心穏やかに目を開き、映る全てのものを受け入れるのだ。……ユーナ、そなたの命があることを神に感謝しよう」
 長老の言葉も、周りにいたたくさんの人たちの言葉も、あたしには理解できなかった。だけど、涙を流してあたしを抱き締める母さまの腕が、すごく暖かかったのを覚えてる。父さまが少し悲しそうにあたしを見ていたのを覚えてる。
 その時よりも前のことは思い出せない。父さまも母さまも守りの長老も、誰もあたしに教えてくれない。リョウも教えてくれない。いつもあたしを悲しそうに見つめていただけだった。
 考えないでいよう。そう思って毎日を過ごした。
 思い出せないまま、あたしは12歳になっていた。
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