2000年08月の記事


記憶�U・67
 人間は誰のために生きるのか。オレにはその基本がなかったのだ。人間が生きるのは、自分のためだ。自分の幸福のために、人間は生きている。
 好きな人に振り向いてもらいたい。好きな人を幸せにしたい。そうすれば自分が幸せになれるから。好きな人が不幸だったら、自分も不幸になる。オレが不幸になったら、オレのことを好きなミオも不幸になる。だからオレは幸せにならなければならない。ミオを幸せにするためには、オレが幸せにならなければならない。
 誰かを不幸にしたら、オレは不幸になる。ミオを幸せにするためには、誰かを不幸にしてはいけない。だけどその誰かのためにミオを不幸にしてはいけない。たとえその誰かを不幸にしても、その償いを一生背負わなければならないのはオレだ。
 ミオは自分のために、駄蒙を殺すことを選んだ。自分のために選ばなければいけない命もある。
「ミオが、葛城達也を殺すのか?」
「達也に約束したの。いつか、達也を殺せる人間になるって。それだけの価値のある人間になるって」
「パパはお前にそんなことをさせたくないよ」
「うん、でも、あたしがしなければならないことだから。誰かが達也を殺さなくちゃならない。その誰かに、あたしはならないといけないの」
 自分の心のために、ミオはそう言い聞かせなければならなかったのだろう。ミオがそう決心したのは、もしかしたらオレのためなのかもしれない。
 オレが葛城達也の影を背負っているように、ミオはオレの影を背負っている。オレはこの子のために、いったい何をしてやれるだろうか。
「食事を片付けてくるわね」
 ミオはそう言って部屋を出て行った。オレは少し身体を動かしながら、ベッドのところまで行って座り込んだ。ミオとの話で、オレの中での視点は180度変化していた。その変化したものをひとつひとつ確認しながら、目を閉じる。
 ミオの幸せを、自分の幸せという視点で見るのは初めてだ。オレはミオを幸せにしたいけれども、オレが不幸だったらミオは絶対に幸せにはなれない。かといって、オレの幸せは何かといえば、ミオの幸せなんだ。ミオが幸せになれば、オレは幸せになる。
 ミオを幸せにするためにオレが不幸になるのでは意味がない。ミオの命のためにオレが死んだら、ミオは不幸になるだろう。ミオが言うようにオレが死んだらミオも死ぬとは思わないけれど、傷が癒えて新しい幸せを見つけるまでに時間がかかるだろうことも事実だ。オレには自分1人死ぬことは許されない。
 今のオレが1番しなければならないのは、何を置いてもまずは生きることだ。葛城達也を殺すことでも、駄蒙を救うことでもない。コロニーの人々は葛城達也が生命を保証している。オレは本当に駄蒙の命を背負うことができるのだろうか。
 生命の選択には罪悪感と嫌悪感がある。その嫌悪感は、オレが葛城達也に持っているものだ。オレは葛城達也と同じになることを拒否している。それも、オレの背負う影なのか。この影を消さない限り、オレが葛城達也を超えることはできないのか。
 自分の命のために誰かを犠牲にするのは善か。
 間違いなく悪だ。だけど、悪を許容しなければならないときもある。
 オレは生きなければならない。あとどのくらい生きたら、オレはすべての罪を許されるのだろうか。
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記憶�U・66
「ミオはそれを、すごく判りやすいと思うんだな?」
「ええ、すごく単純で判りやすかったわ。パパはそうじゃないみたいね」
「少し言葉が足りないかな。もう少し話してくれるか?」
「判ったわ。……達也は自分が妹の心を欲しくて、妹が喜ぶように、妹に嫌われないようにしているの。あたしを幸せにしたいのは、あたしが勝美よりも幸せになれば、妹が勝美を殺した罪の意識が半減すると思っているから。同じように、日本の皇帝になって日本を前よりもいい国にしたいのは、それで妹の罪が少し軽くなるからだわ。達也の基本は、自分と妹の命と幸福、それだけなの。だから、はっきり言ってその他の人間はどうでもいいの。死のうが生きようが、幸せだろうが不幸だろうが、達也には関係ないのね。だから、自分と妹の幸せに関係する人を生かしておいて、関係ない人は死んでしまってもいい。……あたしは達也と妹の幸せに関係があるわ。だから生かしているし、幸せにしようとしてる。パパはあたしの幸せに関係があって、あたしの幸せは妹の幸せに関係があるから、パパは殺さない。サヤカの幸せはあたしの幸せに関係があるから、達也はボスを殺さない。でも、駄蒙はあたしの幸せに少ししか関係がなくて、これから先の日本の統治にものすごく関係があるから、駄蒙は殺さなければならないの。日本の統治が妹の幸せに深く関係するから。……例えば、今ここに達也の妹が現われて、2人で一緒に無人島で暮らしたい、って言ったら、達也はあっさり日本を見捨てるわよ。達也がいなくなったことでこれから何千人死のうとね。そのくらい徹底しているの」
 オレは、ずっと疑問に思ってきたことを、口にした。
「ミオは、そういう葛城達也を正しいと思うのか?」
「ええ、基本は正しいと思うわ。パパは違うみたいね」
「人間をこれだけ殺しておいて、それでも奴は正しいのか?」
「達也は力があって、たくさんの人間の命に影響を与えている。でもそれは達也の力が大きすぎるからだわ。あたしね、達也がこういう単純な人なんだって判った時、自分の中にあったいろいろな矛盾が解けたの。だから、あたしも達也のように生きようと思った。そして、地球上のすべての人間が達也のように生きていたら、それが普通になったら、世の中の矛盾がずいぶん減ると思ったの。……今のあたしは、達也と同じ。あたしには自分の命と幸福、それから、パパの命と幸福だけが、1番大切なの」
 オレにはどうしても判らなかった。ミオが言う葛城達也の正しさが理解できない。人を殺すことがなぜ正しいのか、それが理解できないのだ。世界中の人間が葛城達也のようになったら、人の命を命とも思わない人間が溢れて、世の中はめちゃくちゃになるはずだ。
「だったら、ミオは自分とパパのためなら、人を殺すことができるのか?」
「例えば理由もなくあたしが人を殺したら、パパはとても苦しむし、あたしを嫌いになるかもしれない。それはあたしの幸福でも、パパの幸福でもないわ。でも、そうするしか選択肢がなくて、その人を殺さなければパパが殺されることになったら、あたしはその人を殺すことをためらわない。……殺した後、あたしはものすごく苦しむと思う。毎晩悪夢を見て泣くと思う。でも、それしか方法がなかったから、そうしなければパパを失うことになったから、苦しんだとしてもあたしは後悔はしない。その人の命を一生背負って生きていく。
 ねえ、パパ。あたしは達也を正しいと思うけど、達也を許しているわけじゃないわ。達也にはコロニーの人たちを苦しめる理由があった、そのことを認めたの。達也は自分の正義のために駄蒙を殺す。今のあたしには駄蒙を殺すことを阻止することができない。でも、これから先あたしが強くなって、達也に対抗できるようになったら、あたしは必ず達也を殺して駄蒙の仇を取るわ。駄蒙や、東京で殺されてしまったみんなの。……そうしたらあたし、初めて駄蒙に許してもらえる気がする」
 その時オレは、ミオの言う正しさを理解した気がした。
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記憶�U・65
「ずっと、話をしていたら、何を教えてもらったわけでもないのに判った。達也はすごく単純で判りやすいんだって事。……達也にとって、あたしは娘なの。勝美が娘だったから、勝美と同じあたしも娘なの。そして、あたしを愛する理由はそれで十分だったの。達也は勝美が生きていた頃、うまく勝美のことを愛せなかったんだと思う。だから達也は、勝美を愛するようにあたしを愛した。他の理由なんか一切必要なかった。……なんだか上手に話せないけど」
「ああ、大丈夫。判るよ」
「達也の考えることとか、行動とか、すごく理由がはっきりしているの。でもそれは前から達也がそうだったんじゃなくて、達也の父親が死んだ頃から少しずつ、達也は変わってきたんだと思う。それまでの達也は普通の子供と同じで、理由の判らない行動を自分で悩んだり、自分がしたことに後悔ばかりしていた。……妹をね、達也は愛したいんだと思うんだ。でも、子供の頃ちゃんと愛せなかったから、達也は今でも妹を愛せる自身がない。達也があたしを作ってくれたのは、妹が勝美を殺してしまった罪悪感を、少しでもやわらげてあげたかったからだと思うの。達也が今、人間を救おうとするのは、妹が地球を壊した罪悪感を少しでも減らしてあげたいから。今の達也の行動の基準は、全部妹のため。それが判ってしまうと、達也のすべての行動はぜんぜん矛盾しないんだって、判るのよ」
 ミオは、葛城達也と話すことでいろいろなことを知った。自分が勝美のクローンであることも。今、平常心で話すミオになるまでに、どのくらいの葛藤があったのだろう。オレはその絶望を知っている。思い出すたびにそんな出生を与えた葛城達也を憎く思う。
 オレを憎んだのだろうか。それとも、オレを憎むことさえできなかったのだろうか。
「達也は日本をいい国にしたいの。20世紀終わりの日本は、戦争も飢えもなかったけど、いい国ではなかったわ。妹の罪悪感をなくすためには、元の日本に戻しただけではダメなの。今までよりもずっといい国にして、彼女が地球を壊したことは間違ってない、今までよりもいい国になったことがその証だ、って、そう言ってあげたいの。そのために達也はずっと考えてた。いい国を作るためにはたくさんの人間が必要で、だから早い段階から埼玉を中心に救助活動を続けてきた。安定した生活をさせるために管理を徹底した。人口を減らさないためには必要なことだったわ。でも、達也の管理に慣れてしまった人間は、自分で考えるすべを無くしてしまう。だから達也にはコロニーが必要だったの。自分で考えることのできる人間。管理体制を壊す元気のある人間が。達也はコロニーを、日本の頭脳として位置付けているの」
 ミオが話す葛城達也の考えは、オレが考えていたものと同じだった。オレがそれを批判するのは、人の命の重みというものをまったく無視しているからだ。葛城達也に人の命を選別する権利はない。そう思うから、オレは奴を殺したいのだ。
 ミオは判っているのだろうか。同じものを知りながら、ミオはオレとは違う答えを見つけているのだろうか。
「でもね、パパ。厳密には達也はそれを、妹のためにしているんじゃないわ。達也は妹の気持ちが自分に戻ってくることを望んでる。だから、自分は妹のためにこれだけのことができるんだって、彼女に見せつけてやりたいの。自分は昔とは違う、これだけのことができる男になったんだ、ってね。達也は自分が妹の心を欲しいから、皇帝になったんだわ。理由はたった1つだけ。好きな女性に振り向いてもらいたいって、ただそれだけなの」
 オレには判らなかった、葛城達也というもの。その話を聞いて、オレの心の中は複雑だった。たったそれだけの理由で数千人を殺したのかという怒り。動機が恋愛にあるという意外性。ミオが言うことが果たして真実なのかという疑惑。そうと知ったミオがどう感じているのかという疑問。
 どちらにせよ、今の段階でオレが葛城達也を肯定することは不可能だった。
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記憶�U・64
 記憶をすべて取り戻したあの瞬間、オレは2つの絶望に出会った。
 15歳だったオレは、自分がミオの父親だったことに絶望した。
 32歳のオレは、自分がミオの恋人だったことに絶望した。
 オレがその瞬間に15歳の自分を殺したのは、ミオの父親であることに絶望する訳にはいかなかったからだ。ミオは父親を愛していて会える瞬間を心の底から望んでいたし、オレ自身もミオの父親である自分に誇りと責任があった。時が経てばミオは新しい恋人を見つけることができるかもしれない。だけど、ミオの父親はオレだけだ。ミオが葛城達也を父親のように慕っていたとしても、生まれたときからの13年間を共有しているのはオレだけなんだ。
 ミオに恋していた自分を忘れてはいない。ミオにキスしたときの感動も覚えてる。思い出すだけで頭をかきむしりたくなるような稚拙で恥ずかしい記憶として生々しく残ってる。ミオの恋人だった記憶と、父親だった記憶。その両方を持ったままではどちらにもなれないのだ。そして、その両方になることはもっとありえない。
 アフルが呆れるのも当然だ。オレは自分のことしか考えてない。ミオだってオレと同じなのだ。ミオも、オレの恋人だった記憶と、オレの娘だった記憶と、両方を持って苦しんでいるのかもしれない。
(伊佐巳のこと、好きになってもいいかな)
 いったいどんな気持ちでそう言ったのだろう。この結末を半ば予期していて、それでもミオはオレを好きになると言ったのだ。
  ―― ドアの音に振り返ると、ミオがトレイを抱えて入ってくるところだった。
 オレはドアを大きく開けて、ミオからトレイを受け取った。
「ありがとう、パパ。お昼ご飯にしましょう」
「サヤカの様子は変わりなかったのか?」
「駄蒙のことで少し落ち込んでるけど、大丈夫よ。サヤカは強いもの。……それより、アフルはここにきたの?」
 食卓に座りながら、オレは答えた。
「今しがたまで話していったよ。オレの記憶にエラーがないかどうか、チェックしていった」
「……で? 大丈夫だったの?」
「精神崩壊を起こすような要因はないらしい。ミオにも心配をかけたな」
「よかった……」
 心の底からほっとしたような、安心したような笑顔で、ミオは言った。これほどまでにミオはオレの記憶障害に心を痛めていたのだ。
 この子を守りたいと思う。すべての心配や不安から、この子を守ってやりたい。
「ミオ、少し話してくれるか? お前の3年間のこと。……葛城達也はどんな奴だった?」
 食事に箸をつけながら、ミオは少し考えていた。その表情は特に曇ったり、嫌なことを思い出そうとしている風ではない。その表情だけでも、ミオが葛城達也に対してそれほどの悪感情がなかったことが伺えた。
「……そうね。すごく、単純な人だったわ。最初は判らなかったの。何を考えているのか、どうしてあたしと話をしたいのか。1番最初にね、あたしのことを娘だと思うって、そう言ったの。娘だから愛している、って。あたしはパパの娘で、達也の養女だった勝美の娘だけど、それだけでどうしてあたしを娘として愛しているのか判らなかった。あたし、毎日達也のところに行って、話をしていたの」
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記憶�U・63
 ミオが既にオレを超えているという事実を、オレはさびしく思っていた。あの子にはもう父親は必要ないのだ。オレは結局あの子に何も教えてあげられない。葛城達也をねたましく思う。おそらくミオは、オレよりも葛城達也の方をより尊敬しているのだろう。
「これを言うともっと伊佐巳を落ち込ませそうな気がするけど」
「この際だから全部話してくれ」
「そうだね。オレにもそんなに時間が残されてるとは思えないし。……お前が妬んでるのは葛城達也だけじゃないよ。お前はミオに嫉妬してるんだ。父親を超えることのできるミオに。それと、葛城達也に愛されたミオに」
 いつものことだけど、アフルの精神分析は辛辣だった。
 オレにはどちらもできなかった。奴を超えることも、奴に愛されることも。アフルの言うことが真実だから、オレは正直腹が立って、だけどそんな自分に唖然として、言葉にすることができなかった。自分の醜さに嫌気がさした。オレは自分の娘を妬んでいるのだ。オレが育ててきて、だけどオレが育て続けていたら絶対に与えられなかったものを、自分の力で得た娘を。
 最悪の矛盾だ。だけどその矛盾は解かなければならない。それができなければ、今オレのことを世界一だと言ってくれるミオすらも失うことになるだろう。
「オレは他人だからね。どうとでも言える。確かに伊佐巳にはむずかしいことだと思うよ。だけど、ミオのことを娘だと思うのはそろそろ考えたほうがいいかもしれないぜ。それでなければ、お前は自分自身の目を狂わせて真実を見ることができなくなる。葛城達也のこともだ。お前が彼を父親だと思いつづけている限り、永久に真実は見えないよ」
 しょせん、親子は他人なのかもしれない。おそらくそれは真実なのだ。だけど、親子の絆はそう簡単に切ることができないのも真実だ。たとえどんなに葛城達也を他人だと言っても、絆はそう簡単に切れてくれない。葛城達也の影を消し去ることは簡単にはできないのだ。
 ミオとの絆も同じだ。まだ記憶が戻る前、ミオが自分の娘だと知らなかった頃なら、オレはミオを素直に尊敬していただろう。自分よりも先をいく人間として教えを乞うていただろう。対等の人間として。あのときの気持ちに再びオレはなれるだろうか。
 オレの記憶。記憶がなかった頃、オレは自分の記憶を取り戻したいと思った。だけど今、オレは記憶と引き換えに、自分の可能性を失ったのかもしれない。
「ミオの言う通りだな。伊佐巳、お前、暗いよ」
「……そうか?」
「考え方が後ろ向き過ぎる。もっと単純になればいいじゃないか。お前が1番大切なのはミオだろ? だったらミオのために真剣に考えて出した答えをいちいち後悔してどうするんだよ。あのときのお前は記憶を取り戻すことが自分にとってもミオにとっても1番いいと思ってたはずだ。その結果が“今”なんだろ? それを否定することは、自分の1番を否定することじゃないか。たとえ自分ひとりだけでも自分を肯定してやれよ。32年間生きてたお前も、記憶のなかったお前も、ぜんぶお前自身なんだから」
 ……まただ。アフルはオレの無意識を見せつける。オレは記憶のなかった自分を否定しようとしている。記憶のなかったオレは、ミオが自分の娘であることを知らなかった。オレが無意識で否定しようとしていたのは、オレの娘、ミオへの恋だ。
 真剣だったから、あれが真実だったから、オレは否定しなければならなかった。ミオの父親であることを思い出して、ミオに「パパ」と呼ばれたとき、この気持ちを殺さなければならないと思った。ミオがオレを超えていることを認めたくなかったのも、嫉妬を認めたくなかったのも、すべてはミオの父親でいなければならないというオレの無意識だったのだ。
「伊佐巳、ミオに恋していた気持ちを覚えているな」
「……オレは、あの子の父親だ」
「そうやって自分のことだけ考えてるうちは葛城達也も殺せないし、ミオを幸せにすることもできそうにないね」
 呆れたようにアフルは言って、部屋を出て行った。
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記憶�U・62
 オレの思考や行動が、葛城達也の亡霊に操られている。確かにオレはずっと奴に操られてきた。奴の引いたレールの上にしか道を見出すことができなかった。だけどそれは、オレ自身がそれを認めている。
「伊佐巳、オレが言ってるのはぜんぜん違うことだ。……例えば、ミオに対するお前の考え方とかね」
 オレは、17年前にもそうしたように、アフルの言葉に黙って耳を傾けた。
「さっきミオが話したことに対するお前の思考は、それを象徴しているよ。お前は駄蒙とミオのどちらの命も選べなかった。その理由としてお前が適用したのは、ミオの考えが葛城達也の思考に類似しているというものだ。葛城達也に対する嫌悪と否定。その2つを持つお前は、思考パターンの中に葛城達也の考えや行動に類似するものに対して拒否する体勢を作ってる。だから葛城達也に類似した考え方に正しいと思われる部分があったとしても、それを吟味する前にすべて拒否してしまうんだ」
 アフルに言われて、オレはさっきの自分の思考の流れを反復してみた。言われなければ気がつかなかった。オレはミオが言った言葉に葛城達也の影響を感じて、それだけでミオの考えを拒否したんだ。あの時オレは、ミオの言葉をミオの考えとして捉えていなかった。本当なら、オレはミオの言葉をミオの考えとして受け止めて、それに対して是非を判断しなければならなかったというのに。
 葛城達也の影。葛城達也の亡霊。そういうことだったのだ。オレは自分の中の判断材料として、葛城達也という人間を否定するだけのパターンを自分の中に作り上げている。
「伊佐巳の中にある否定という判断基準は、正しいとか間違いとか言う前に吟味という過程を経ていない分だけ、歓迎できるものじゃないね。事実伊佐巳は自分の中に矛盾を山ほど抱えてる。伊佐巳はオレやミオのことを感化されたとか洗脳されたとか思っているようだけど、ミオは伊佐巳よりははるかに自分自身の判断基準を持っているよ。葛城達也の考え方を吟味して、正しいものを取り入れ、間違ったものは受け入れてない。だから伊佐巳には超えられない矛盾を解くことができるんだ」
 ……アフルの言葉は辛辣で、オレは絶句することしかできなかった。
 ミオはオレの娘だ。オレの影響を最大に受けて、オレの思考と似た思考パターンを持っていた。そのミオが葛城達也の影響を受けて変わったことを、オレは葛城達也の影響だけに焦点を当てて、受け手のミオの意思を無視していたのだ。ミオにはミオの人格があって、自分自身の考えがある。オレはそんな単純なことさえ本当に理解していたわけではなかったのだ。
 オレは、ミオを育てるとき、葛城達也のようにはなるまいと思った。子供を1人の人格として扱わないような身勝手な父親にはなるまいと。それなのに、オレには判っていなかった。ミオを1人の独立した人格と認めていなかったのだ。
「……伊佐巳、親の影を背負っていない子供なんかいない。オレたちは誰でも、親の影に囚われてる。その影は自分で気付いて破壊しなければならないものだ。それでなければ子供が親を超えることなんかできない。知らず知らずのうちに、親と同じことを繰り返してしまうことになるんだ。オレも最近になって判ったことだけどね。
 伊佐巳、ミオだってお前の影に囚われているよ。だけど彼女は気付き始めてる。気付いて、お前を1人の人間として見ようとしている。まだ、完全ではないし、実際親の影をすべて消し去ることができるのかどうかなんて、オレにも判らない。だけど、気付かなければ何も始まらないんだ。……単純なことなんだ。親も人間なんだって、そのことを認めればいい」
 オレが囚われている葛城達也。オレは奴を1人の人間として吟味しなければならない。拒否だけではオレは一生奴を超えることができない。オレがしなければならなかったのは、奴の考え方の正しい部分を認め、間違った部分を糾弾することだったんだ。
「……むずかしいな、オレには。ミオにかなわないわけだ」
「あの子はオレたちとは器が違うよ。オレも彼女がいなかったら気付かなかったかもしれない」
 アフルが誉めているのは確かにオレの娘なのだけれど、オレは娘に対する親友の誉め言葉を単純に喜ぶことができなかった。
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記憶�U・61
 オレは立ち上がってアフルに駆け寄った。アフルはやはり多少やつれて見えたけれど、それでもオレを見ると微笑んでいた。
「大丈夫なのか? 身体は!」
「ああ、皇帝陛下がずっとついててくれたから。ずいぶんいいよ」
「無理はするなほんとに。オレのことでずいぶん力を使ったんだろ。今日くらいゆっくり休んでろ」
「まあ、そういうわけにもいかないよ。……座ってもいいか?」
「ああ」
 オレがまたベッドに戻って腰掛けると、アフルも隣にゆっくり腰をおろした。
 さっき、アフルはあんなに大量の血を吐いた。あれからまだそんなに経っていないだろう。大丈夫なのだろうか。アフルの身体は既に寿命を迎えているはずなのだ。
 以前、きいたことがある。アフルのような超能力者は、わずかな例外を除いてほとんどが30前後で死んでしまう、短命種なのだと。
「で、オレになんの用だ、アフル」
「伊佐巳の記憶に障害が残ってないかどうか、そのチェックをね。そもそもお前の記憶を消したのだって、それが目的だったわけだし」
 思い出した。5日前にオレの記憶を消したのは、オレに精神障害の兆しが出ていたからなのだ。オレ自身そのときのことをはっきり覚えているわけではない。だけど、今のオレはまったく正気だった。
「自分では正常だと思う。だから心配するな。今度こそお前のほうが危ないかもしれない」
「大丈夫だって言っただろ。オレだって自分の限界くらい判ってるよ。……頭に触れるから少しじっとしててくれ」
 アフルは1度言い出すと聞かないようなところがあったから、オレはおとなしく触れられるに任せた。しばらくアフルはオレの頭に触れ、目を閉じていた。オレはそんなアフルを、彼が目を開けるまで、ずっと見守っていた。
「……大丈夫そうだな。今のところ気になるようなエラーはないよ。今回のことが原因で精神崩壊を起こすようなことはないと思う。……ぜんぜん関連のないバグならいくつか見つけたけど」
「バグ? 記憶のか?」
「いや、精神の方。どちらかっていうとこっちの方が深刻だ。久しぶりにカウンセリングさせてもらってもいいか?」
 アフルはオレの心を覗いて、いったい何を見つけたのだろう。オレはさっきまでミオと話していて、自分自身に失望を覚えた。アフルがオレにカウンセリングが必要だと感じるのは、それかもしれない。
 アフルはオレの心の動きを読んでいるらしく、オレが答えを口に出すまでもなく、カウンセリングを始めていた。
「それもあるけどね。1番問題なのは伊佐巳、お前の皇帝葛城達也に対するアレルギー反応だよ。皇帝に関するあらゆる刺激に対する過剰反応とでも言うかな。バグよりもウィルスに近いくらいだ。それを取り除かない限り、お前は影の自分に操られて、自分でも気がつかないうちに本当の自分から程遠い行動を取り続けることになる。……お前の今の思考や行動は、知らず知らずのうちに葛城達也の亡霊に操られているんだ」
 その、アフルの言葉を、オレは即座に理解することができなかった。
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記憶�U・60
 カルチャーショック。
 たった3年間、離れて暮らしていただけなのに、こんなにミオは変わってしまった。
 葛城達也は、こんなにもミオを変えてしまったのだ。

「パパ、あたし、顔を洗ってくるわね。なんだか泣きすぎちゃった」
 そう言ってミオは洗面所の方へ消えていった。オレはベッドに崩れ落ちるように腰掛けて、目を閉じる。ショックは大きかった。オレは自分の娘を理解することもできないほどの、その程度の男なのだ。
 この3年間、ミオを取り巻く環境はそれまでとはまったく違っていた。災害が起こる前、ミオの傍には常にオレがいて、その他のミオの人間関係はせいぜい同年代の友達か、学校の教師くらいだった。災害後コロニーに合流して、その後葛城達也の人質になってからは、ミオの傍にいたのは同じ年齢の親友サヤカと人質になっていたコロニーの女性たち、その他は葛城達也やアフルといった、いわゆる敵側の人間だった。ミオは葛城達也とコロニーとの掛け橋だった。それだけの環境の変化があり、ミオの中に掛け橋としての自覚が生まれていたなら、無理やりにでも自分を成長させなければミオは生きていくことさえできなかったのだろう。
 かわいそうなことをしてしまった。3年前、革命に敗れたコロニーにこの条件が出されたとき、オレは悩んだ。あの時はコロニーの全員が殺されても当然の状況だった。コロニーの女性たちを人質に差し出せば全員の命を助けると言った葛城達也の言葉に従うことしか、コロニーが生き延びる道はなかった。オレはあのときにミオをさらって逃げるべきだったのかもしれない。たとえコロニーの全員を殺されても。仲間としてオレを信頼してくれた彼らを敵に回したとしても。
 ミオの父親としての生き方をオレは最優先すべきだった。……今でも同じだ。オレにはミオの父親以外の生き方など、許されるはずがないのだから。
「パパ」
 洗面所から戻ってきたミオが、オレの背後から声をかけた。オレはミオの父親だ。オレの迷いをこの子に見せるわけにはいかない。
「どうした? 腫れは引いたのか?」
「うん、大丈夫。……ちょっと、出かけてくるわね。サヤカもパパのことを心配していたから。他のみんなも」
「そうか。……ミオ、サヤカに伝言を頼むよ。オレの娘をずっと励ましてくれてありがとう、って」
 ミオは少し照れたような微笑を浮かべた。
「判ったわ。必ず伝える」
「あと、もう1つ頼むよ。……アフルの様子を見てきて欲しい」
 オレの親友。立場は違ってしまったけれど、アフルはたった1人の、オレの親友だ。
「判った。……お昼までには戻るから」
 そう、言葉を残して、ミオは部屋を出て行った。ミオは父親の限界を知って落胆しただろうか。
 子供はいつか巣立っていくものだ。それはあたりまえのことだったけれど、16年前に小さなミオを抱き上げたあの記憶は、オレにそうと理解させることを拒んでやまない。
 おそらく誰でもそうなのだろう。どんな親でも、血のつながりがあるかどうかなど関係なく、その子を育てた記憶を持って初めて親になるのだ。
 その時、不意にオレは気配を感じて顔を上げた。
 たった今ミオが出て行ったドア。そのドアの前に、アフルが立っていたのである。
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記憶�U・59
 オレなら、どうするだろう。もしもミオか駄蒙かどちらかの命を選べと言われたら。ミオはオレの娘だ。13年間育ててきた最愛の娘。駄蒙は3年前に知り合ったコロニーのボスの側近だ。彼はオレの親友ではなく、無口な彼と必要以上の会話を交わしたことはなかった。
 オレにとって1番大切なのはミオだ。だが、オレはミオのために駄蒙を死なせることができるだろうか。決断を下すことができるだろうか。皇帝を敵としてともに戦い傷ついてきた、戦友の彼を。
 オレならきっとどちらも選ばないだろう。可能性が1パーセントでもあるなら、オレは葛城達也に挑み、奴を殺そうとする。その結果3人とも殺されたとしても、オレは命を選択することはない。誰かの命を奪うくらいなら、自分の命を懸ける。
 そうか。これがオレの限界なんだ。だからオレは葛城達也を超えることができないのか。そしてミオは、オレの限界を超えている。
 オレの娘は、既にオレを超えている。
「ミオ。パパにはできない。今生きている人間を殺すことなんかできない」
 どちらが正しいのか。それすらも、オレには判らない。オレは人の命を奪ったことを自分に納得させながら生きる強さはない。そんな強さはないほうがいい。
 オレには、葛城達也と同じ生き方なんかできない。
 ミオの強さを認めることは、オレの父、葛城達也を認めることだから。
「……判ったわ。パパには誰の命も選ぶことができないのね。……だったら、あたしがパパの分も駄蒙の命を背負っていくわ。あたしは生まれてからずっとパパに守ってもらったもの。今度はあたしがパパを守る。だから安心して、そのままのパパでいて。ずっとミオの自慢のパパのままで、いつかあたしが達也を殺すときまで、傍にいて見守っていて」
 そう言って、ミオはオレを見つめたまま、オレを愛しむように微笑んだ。
 オレは何かが間違っている。オレの娘。その娘にこんな言葉を言わせてしまった、それだけでもオレは間違っているのだ。ミオはオレを理解しているのに、オレはミオを理解していない。自分の娘を理解できないオレは間違っている。
 オレの存在がオレの娘を苦しめている。理解のない父親をそれでも愛そうとするミオはけなげで心が痛んだ。オレはもうミオを理解することができないのか? ミオはそれほど遠くへ行ってしまったというのか?
 どうすればいい。オレはいったいどうすればいいんだ。
「葛城達也はオレが殺す。だからお前がそんなことを言わなくていい。パパはミオには頼りないパパかもしれないけど、そんなことまでミオに背負わせたくない」
「間違えないで、パパ。あたしが達也を殺すのは、パパのためじゃないのよ。あたしは自分のために達也を殺すの。あたしが達也を殺したいと思っているの」
 娘のこんな言葉を聞くために育ててきたんじゃなかった。オレはこの子に平凡な幸せすら与えてやれない。
「……パパは、父親失格だな」
「ううん、そんなことない。あたしのパパは世界一のパパよ」
 一瞬もためらうことなく、ミオはそう言った。
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記憶�U・58
 葛城達也が人格破綻者であることは判っていた。オレは奴の非常識な振る舞いに馴らされ、驚かされながら、いつも心に刻み付けてきた。奴を常識で計ってはいけない。奴は悪魔だ。人を人とも思わないし、他人の心など思いやることはない。
 それでも、オレはいつも、まさか、と思う。まさかそんなことまで奴はできるのか、と。
 葛城達也は、オレの娘のミオに、一生消えない傷をつけたのだ。奴はミオに駄蒙の死を選択させた。ミオは一生苦しみつづけるだろう。「駄蒙を殺したのは自分なのだ」と思って。
 それは本来ミオが選択すべきものではないのだ。葛城達也がするべき選択なのだ。それをわざわざミオにさせる理由がどこにあるというのだ。最終的にコロニーの誰を葛城達也が殺したところで、ミオにはたったひとかけらの責任もないじゃないか!
 葛城達也を許さない。まったく持つ必要のない罪悪感をミオの心に刻み付けた葛城達也を。
「パパ!」
 立ち上がってドアに向かおうとしたオレにミオは必死でしがみついた。オレはそんなミオを見てはいなかった。
「殺してやる、葛城達也!」
「落ち着いてパパ! お願いだから今この部屋から出ないで! パパまで殺されちゃう!!」
「お前を傷つける奴はパパは絶対に許さない! 刺し違えてでも殺してやる!!」
「ダメなのパパ! お願い、あたしの話を聞いて! 駄蒙は全部わかってるの! 今パパが出て行ったら、コロニーのみんなが殺されちゃうの!」
 だけど敵は奴1人だ。捨て身で戦えばオレ1人でも殺せる可能性はゼロではないはずだ。
「達也のことはあたしが必ず殺すから!」
 その、信じられないミオの一言が、我を忘れていたオレを正気に戻した。この子はいったい……
 呆然とした頭でミオを見ると、ミオはオレを見上げて、それまでで1番真剣な表情で言ったのだ。
「パパ、あたしは全部わかってるの。パパがあたしのことをものすごく愛していてくれることも、だからあたしが傷つくのが耐えられないんだってことも。……みんな傷ついてる。サヤカも、ボスも、駄蒙に死んで欲しくなんかない。あたしだって駄蒙に死んで欲しくない。でも、みんな背負ってるの。だからあたしも一生背負っていかなければならないの」
 この子は……この子には覚悟があるというのか? 駄蒙の死を一生受け止めるだけの覚悟が。本当に判っているのか? オレの娘はたった16歳で、自分が殺した人間の命を背負っていこうとしているのか?
「ねえ、パパ。あたしはパパのことが1番大切なの。もしも達也がパパを殺したら、あたしも死ぬ。達也はあたしを殺せないの。だから達也は、パパを殺すこともできないの。あたしはサヤカが好き。もしもボスが死んだら、サヤカは生きてないかもしれない。そうしたらあたしがすごく悲しむから、達也はボスを殺すことができないの。……最初から、達也に選択の余地はないの。達也は自分の心のために駄蒙を殺すしかなかったの」
 葛城達也は、ミオを悲しませたくないというのか? そのためにオレを殺せないと? 信じられなかった。奴が、自分以外の人間にこれほど執着を見せるなどと。
「みんなが自分の心のために駄蒙を選んだの。そして、駄蒙も、自分のために死ぬことを選んだの。駄蒙にはボスの命が1番大切だから。……あたしたちはみんな、自分のために命を選んだ。だからお願いパパ。パパも、自分の心のために駄蒙の命を背負って」
  ―― オレの小さなミオは、いつの間にか、自分の足で歩き始めていた。
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記憶�U・57
 オレはいつもチャンスを与えられてきた。15歳のとき、ミオの心をオレが掴むことができていたら、ミオが自殺を選ぶことはなかっただろう。勝美の文化祭の日、オレが勝美を守ることができていたなら、勝美が死ぬことはなかっただろう。コロニーが革命を成功させていたら、葛城達也を倒すことができただろう。葛城達也はいつでもオレにチャンスを与え、そしてオレはそのチャンスをいつも潰しつづけてきたのだ。
 葛城達也はレールを引き続ける。奴は権力者だった。権力を手に入れた奴を悪いとは思わない。奴はそれだけの努力をして権力を手に入れたのだし、それを支えているのは回りの人間だからだ。
 権力者が権力をもって未来を作る。理想のビジョンを描き、現実とのギャップを権力を使って埋める。葛城達也が描いている未来は、人類がよりいっそうの繁栄をするという、誰にとっても理想的な未来だ。そのために葛城達也は日本の復興に手を貸した。わずか3年で、奴は流通を回復させ、少なくとも40年前と同じ程度の生活水準を取り戻したのだ。もしも葛城達也がいなければ、日本がここまで来るのに10年はかかっていたことだろう。
 しかしそのことが逆に、葛城達也という完璧な指導者に頼り切る、現在の風潮をも作り上げてしまった。自分の有能さを見せつけることで、人々の小さな野心を奪ってしまった。その人々の野心の代わりに葛城達也が設定したのがコロニーなのだ。コロニーを起爆剤にして、皇帝葛城達也を倒させることで、葛城達也は人々の活力を復活させようとしていたのである。
 果たして葛城達也は間違っているだろうか。奴の前にはたくさんの選択肢があったことだろう。それらをすべて吟味した後、奴は自分に1番正しいと思われた選択をしてきたのだ。もしも奴が皇帝として名乗りをあげなかったら、日本の復興は遅れ、より多くの人命が失われていたのかもしれない。奴が東京を隔離し人命を奪わなければ、コロニーは革命を起こすほどの怒りを持たなかったかもしれない。
 葛城達也は自分が考えうる精一杯の事をしたのだろう。だけど、オレは奴が正しかったとは、どうしても思えないのだ。人の命は数字ではない。コロニーの人々が目の前で奪われた愛する人の命を、少ない犠牲で済んでよかったのだとは、どうしたって思えないのだ。
 腕の中のこの子の命は、オレにとっては誰の命よりも重い。……ああ、そうか。オレは、権力を使って人間の命を選別する、その行為に怒りを感じるのか。災害で失われた命の責任は誰にもない。でも、コロニーの人々の命は、葛城達也が手を下して奪った命なのだから。
「ミオ、コロニーのほかの人たちは、今どうしているんだ?」
 オレが言うと、ミオはしがみついていた腕を放して、オレの目を見て言った。
「ほとんどの人たちは、パパと同じような軟禁室にいるわ。でも、ボスと駄蒙だけはダメだったの。牢屋みたいな部屋に別々に入れられちゃった」
 自分の力が及ばなかったことに、ミオは心を痛めているのだろう。この子はまだ16歳なのに、コロニーの人々の待遇に責任を感じている。
「それで、これから葛城達也がどうするつもりなのか、ミオは聞いているのか?」
 オレのその言葉で、ミオは目に涙を浮かべて表情を歪ませた。こんなに痛々しい表情をするのか、この子は!
「パパと、ボスと、駄蒙の3人のうち、誰か1人は責任を取らなければならないって、達也は言ったの。誰か1人だけ死ななければならない、って。……あたし、パパに死んで欲しくなかった。サヤカが悲しむから、ボスにも死んで欲しくなかった。だからあたし、言ったの。駄蒙を殺して欲しい、って……」
 なんてことだろう。
 葛城達也はこの子に、人の命の選択をさせたのだ。
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記憶�U・56
 これまでのオレの17年間は、ミオを育てることと、葛城達也を殺すことだけに費やされてきた。
 勝美を殺した、葛城達也の妹。本当ならばオレは彼女を恨むべきだったのかもしれない。だけど、彼女も結局は犠牲者なのだ。葛城達也に裏切られ、その愛情を受けていた勝美に逆恨みをした。葛城達也がすべての元凶だった。奴が生きている限り犠牲者は増えつづけるだろうし、事実、その後の17年間に、奴の犠牲になった人間は計り知れなかった。
 17年前、オレの前に現われた葛城達也の妹は、平野まなみという名前の勝美の同級生だった。最後に見た彼女は明らかに精神に異常をきたしていた。葛城達也と同じく超能力を持つ彼女は、破壊の能力に長けていた。葛城達也は勝美を殺された17年前から3年前までの14年間、彼女に対して何ひとつ償いをしてはこなかった。
 誰も信じないだろうし、オレも言うつもりはなかったけれど、オレは地球を壊した恐怖の大王が、葛城達也の妹ではなかったかと疑っている。
 その真偽は別としても、その後の葛城達也の振る舞いは、人間として許されざるべきものだ。復興の指導者となって、東京を隔離し、多くの人間を殺した。葛城達也が殺したのは機銃掃射で直接殺した人間だけにとどまらない。救助の手を差し伸べていれば助かったかもしれない人間を、隔離することで見捨てたのだ。その人数は数千人に及ぶのだ。許せなかった。オレが葛城達也を殺せたなら、その数千人を見殺しにすることはなかっただろう。
 オレはすり替えているのかもしれない。オレが犯してしまった罪を、葛城達也を殺すことであがなおうとしているのかもしれない。自分の行動に矛盾があることはずっと感じていた。それでも、葛城達也を殺すことが正しいと、それだけを信じて生きてきたはずだった。
 オレはずっと、過去を見つめていた。
 だけど、葛城達也はいつも、未来を見ていた。
 葛城達也によって生み出された、そうならざるを得なかった、コロニーという集合体。東京に隔離され、仲間を殺され、強くなければ生きることすらできなかった人々。葛城達也は彼らを望んでいたのだ。復興社会の、従順な人間たちに風穴を開ける存在として、葛城達也はコロニーを必要としていたのだ。
 東京以外の人間は、既に葛城達也がいなければ生きられない。従順で、疑問を持たず、惰性で生きることしかできない。これから先の人間という種を進化させていく力がない。その力がコロニーにはある。葛城達也が欲していたのは、隔離され、虐げられた人間たちが生み出す、力そのものだったのだ。
 人を殺すことは正しいことじゃない。だからオレはコロニーについた。怒りのエネルギーをもって葛城達也を倒そうとした。そして、葛城達也はコロニーに倒されることを望んでいた。
 オレたちは、葛城達也が自ら与えたチャンスを潰したのだ。
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記憶�U・55
 (ママはあたしが生まれる前に死んでしまったから。あたしの世界にはパパしかいなくて、パパと一緒にいるときが1番好きだった)
 オレはミオにそれを話したことはなかった。だけどミオは知っている。勝美が、ミオの母親が、ミオが生まれる1年も前に死んでいたのだということを。
 勝美が死んだ日の夜、オレは再び研究所に戻ってきていた。そして、葛城達也に頼んだのだ。オレの勝美をよみがえらせて欲しいと。
 勝美のクローンを作って欲しい、と。

 だいぶ気が済んだのか、ミオは泣くのをやめて、オレのシャツで涙を拭った。そして顔を上げる。13歳の頃よりもはるかに大人びた少女の顔があった。オレの娘は離れていた3年の間に、こんなにも大人に成長していたのだ。
「大きくなったな。……見違えたよ。本当にあの小さかったミオなのか?」
 勝美によく似た、勝美にそっくりな顔。だけどその表情には勝美にはなかった強さがある。普通の少女には必要のなかった苦労をさせてしまった。あの災害の後、埼玉で難を逃れたオレがコロニーを救うために東京に行くと言い出さなければ、この子は人質になることもなく、今でも復興後の埼玉で平穏に暮らしていたのだろう。
「パパは、変わってないわ。あたしの自慢のパパのままよ」
「苦労をさせたな。皇帝はお前にひどいことをしなかったか?」
「なにも。達也はいつでもあたしに優しかったから」
 勝美や、死んだミオと同じ呼び方で、ミオは皇帝葛城達也の名前を呼んだ。
「さびしくなかったか?」
「さびしかったけど、あたしには達也もアフルも、サヤカや、他のみんなもいたから。……さびしいより心配だったわ。もう2度とパパに会えなかったらどうしよう、って」
「……パパは、毎日ミオのことばかり考えてた。皇帝にいじめられてないか、病気してないか、さびしくて泣いてるんじゃないか、って。……何度も夢を見たよ。この建物を攻撃して、乗り込んでミオを探すんだ。だけどどこにもミオがいない。他のみんなはパパを見て悲しそうな顔をするだけで、誰も何も言わないんだ。本当の事を知るのが怖くて、パパは誰にも何も訊けないで、ずっとミオの名前を呼びながら、ミオを探しつづけてる」
「パパ……」
 ミオはぎゅっと、オレの首に抱きついた。まるでオレを慰めているようだった。オレの娘。この子はまだ、父親を必要としている。そしてオレにはこの子が必要だ。
 勝美の子。本当だったら生まれるはずのなかった、勝美の娘。初めてこの子を抱き上げたときから、オレはこの子のために生きようと思った。この子の命の責任はすべてオレにあると思った。ミオは、オレの命で、オレの最大の罪だ。
 オレは人の命をもてあそんだ。ミオが生きている限り、オレが勝美に対して犯した罪が消えることはないだろう。
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記憶�U・54
 ( ―― 大丈夫。あたし、人質くらい平気。皇帝がどんなに意地悪したって、絶対に負けない。だって、みんな一緒だもの。サヤカも、他のみんなも。……大丈夫だから。パパのこと信じて、パパが迎えにきてくれるの、いつまでだって待ってるから ―― )
 3年前、オレの小さなミオは笑顔でそう言って、オレに手を振っていた。

 ミオはオレの胸に顔をうずめて、ずっと涙を流しつづけていた。オレの服を力いっぱい握り締めてしゃくりあげていた。涙を止めることができないのだろう。気が済むまで精一杯泣いたらいい。3年分のミオの涙は、おそらくミオにしか判らない、オレには判らない涙なのだろうから。
 泣きつづけているミオを抱きしめて、オレはずっと昔、17年前に死んでしまったミオの母親、勝美を思い出していた。

 17年前、16歳だったオレの義姉のミオが自殺したあと、オレはその記憶の一切を葛城達也によって消された。
 代わりに植え付けられた記憶はそれほど鮮明ではない。今いる部屋によく似た部屋の中で、膝を抱えて誰かを待っている、そんなあいまいな記憶だ。すぐにオレはその部屋から連れ出されて、1人で暮らす勝美の家に連れてこられた。勝美は生まれてまもなく葛城達也に拾われて養女になった、オレのもう1人の義姉だった。
 ミオと同じ16歳の勝美。彼女はごく普通の少女だった。生まれてまもなく捨てられた勝美は少しの傷を背負っていたけれど、それは普通の少女の枠を超えるほどの影ではなかった。彼女と暮らし始めたオレは、やがて恋をしていた。おそらく、無意識の中で、オレはミオへの恋を取り戻そうとしていたのだ。
 年齢を偽って、勝美と同じクラスで学生生活を送り、心を癒されながら過ごした2週間。
 勝美はオレを弟以上に見ることはなかったけれど、それでもオレは幸せだった。この2週間がオレに与えてくれたものは果てしない。この2週間がなかったら、オレは今ここにこうして存在することはなかっただろう。
 勝美への恋が偽りだったとは、オレは思わない。いつも髪を短くしていて、美人でもなかったし、これと言って目立った魅力を持った女の子ではなかったけれど、それでもオレにはたった1人の女の子だったのだ。ずっと同じ時を過ごして、オレの気持ちがちゃんと伝わったら、一生傍にいて守ってあげたい女の子だったのだ。
 あの日、勝美は殺されてしまった。
 高校の文化祭の初日だった。中庭の床は緑色のコンクリートで、ナイフで刺されて倒れた勝美が流していた、真っ赤な血が目に焼きついた。刺した人間は葛城達也の顔をしていた。葛城達也の妹だった。
 かつて葛城達也に裏切られた妹は、葛城達也への復讐の意味を込めて、何も知らない勝美を刺し殺したのだ。
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記憶�U・53
 どうして判らなかったのだろう。少女はいつも、本当のことしか言っていなかった。
(ありがとう、伊佐巳。……大好きよ)
(もう、伊佐巳に隠し事をするのはいやだもの。伊佐巳がしたいと思うこと、邪魔したくないもの)
(怖いの。あたしのパパは、あたしを置いていった。……もう、置いていかれるのはいやなの)
(伊佐巳はどこにも行かないわよね。ずっと、あたしのそばにいるわよね)
(あたしね、伊佐巳の記憶が戻らなくてもいい。このままの伊佐巳で、何も知らないままの伊佐巳と一緒にいたい。この部屋から一緒に逃げちゃいたいよ)
(伊佐巳の記憶が戻って、万が一伊佐巳が変わってしまっても、あたしは変わりたくない。伊佐巳のことを好きな自分でいたい)
  ―― 彼女はいつも怯えていた。オレの記憶が戻ることを。オレが、彼女の前から去っていくことを。
(あたしの名前は、伊佐巳が付けてくれる名前だから。それがあたしの本名なの。そう思ってるから)
(伊佐巳が違う名前を付けてくれるのなら、それでもいいよ。あたしのことを違う名前で呼びたいのなら)
(たぶん、伊佐巳にとって、ミオは特別な名前なんだな、って)
(伊佐巳が最初にミオという名前を付けてくれたとき、すごく嬉しかった)
(死んだミオがもしも違う名前だったら、その2人も違う名前だったかもしれない)
(あたしの名前はあなたが付けてくれた。あなたがあたしのことをミオと呼んだの)
  ―― オレが名づけた名前を、自分の名前だと。
(伊佐巳のこと、好きになってもいいかな)
(あたし、自分の気持ちを考えた。あたし自身が好きなのは誰なのか、って)
(あたしはたぶんファザコンなのね。将来パパみたいな人と結婚したいの)
(あたしの1番好きなのは、世界にたった1人、あたしのパパ)
(あたしの世界にはパパしかいなくて、パパと一緒にいるときが1番好きだった)
(もしもね、あたしが伊佐巳の記憶を取り戻すことに成功したら、あたしを雇ってるあの人は、あたしとパパを会わせてくれるって、約束したの)
(伊佐巳の記憶は必ず戻るし、そうすればあたしはパパに会えるんだもの)
(……伊佐巳。……大好き……)
  ―― 無意識の中で、オレが本当に恐れていたこと ――

 オレを見つめた少女は、恐る恐る、言った。
「……あたしが、誰だか判る……?」
 オレが恐れていたのは、少女がそう問い掛ける、その瞬間だった。
「……黒澤ミオ。……オレの、娘だ」
「……パパ……!」
 目にいっぱい涙をためたミオは、オレの胸に飛び込んでくる。オレはしっかりと抱きしめた。もう、絶対にこの子を1人にはしない。

 その瞬間、オレは15歳の伊佐巳の人格を殺した。
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記憶�U・52
 オレはいつでも、この男を殺したいと思っていた。オレの人生のすべての瞬間を支配しつづけていた男。オレの記憶を操り、感情を操り、思い通りに動かしてきた。死んだミオに恋をした。死んだ勝美に恋をした。そして、オレはまた、オレが名づけた少女に恋をした。
 オレの恋する心すら、この男は思い通りに支配してきたのだ。
「……で、今度はどんなレールを用意したんだ」
 勝美。何も知らずに殺された勝美。君はオレを許してくれるだろうか。
「俺の娘を幸せにする」
 葛城達也はそうとしか言わなかった。
 現われたときと同じように、葛城達也はその姿を消していた。傍らに寄り添っていたアフルと一緒に。アフルが吐きだした血の跡も、2人が消えると同時に消滅していた。この一瞬がまるで夢の中の出来事のように思えてくる。
 オレは罪を犯した。だとしたら、これはオレに対する罰なのだろうか。1人の少女に恋をした。オレが恋した、オレが名づけたミオは、この3年間、葛城達也にとって失われた2人の娘の身代わりだったのだろう。自殺したミオと、殺された勝美。その2人を娘として愛することのできなかった葛城達也は、ミオを愛することで償いをしていたのかもしれない。
 だとしたらオレはどうやって償えばいいのだろう。葛城達也の用意したレールは、オレにとっては1番残酷な償いの道だった。オレの父はオレの人生を支配し、レールを引き続ける。そしてオレは、そのレールの上にしか生きる道を見出すことができないのだ。
 不意に、視線を感じて顔を上げた。いつからそうしていたのだろう。ドアの前に立ち尽くして、オレをじっと見ている、少女の視線とあった。
 この少女を愛している。だけど、オレには少女を幸せにする資格はない。
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記憶�U・51
 実際のところ、そいつが現われて立ち去るまでの間、オレはずっと気圧されたままだった。
 オレの背後に立った葛城達也は、オレを押しのけながら歩みより、アフルの身体を支えた。たったそれだけだった。それだけで、アフルの咳は止まり、しだいに呼吸が楽にできるようになっていった。
 アフルから手を離したことで、オレの聴覚は元に戻っていた。オレは呆然と2人を見ていた。葛城達也に抱きかかえられたアフルは、心の底から安心しきったような表情をしていた。それは、オレでさえも見たことのない表情だった。
「よくやった」
 葛城達也はそう言った。おそらくオレの記憶をすべて蘇らせたことに対する言葉だった。そして、アフルにはそれで十分だったのだ。触れることをやめてしまっていたのに、アフルの心がオレにも伝わってくる。もう、いつ死んでも悔いはないというような、至福の表情をして、アフルは微笑んでいたのだから。
 15歳の頃のようなまっすぐな気持ちで葛城達也を否定することは、今のオレにはできなかった。
 オレは変わってしまった。アフルはオレが変わっていないと言ったけれど、今のオレは葛城達也の正しさも理解することができるのだ。東京を隔離したことも、東京の人間たちを殺したことも、1つの正義には違いない。アフルが葛城達也を正しいと言った、その言葉を理解することができる。それが葛城達也にできる精一杯のことだったのだと。
 だけどオレは奴を否定しなければならなかった。それがオレの正義で、オレの生き方だ。その時初めて葛城達也がオレを振り返った。オレは奴の表情をはっきりと見ることはしなかった。
「伊佐巳、俺は昔よりはいくぶんマシなレールを引けるようになった。そう思わねえか?」
 オレの父親だ。オレにそっくりな顔をして、44歳であるというのにまるで30そこそこにしか見えない、双子の兄弟のようによく似た男。いつになっても、どんなに時を経ても、絶対に超えることができない。たえずオレの前を歩きつづけて、関わるすべての人間の信頼を勝ち得てきた男。
 もしも父親でなかったら、オレは奴を尊敬していたのかもしれない。偉大さを認め、同じ理想を追い求めていたのかもしれない。この男の息子でさえなかったら、オレは奴に父親を求めることはなかっただろう。そして、奴の最悪の父親像を見せつけられることも、なかったのだろう。
 否定しなければ生きられなかった。自分の中に確かにあった思慕の気持ちを、否定しなければどうすることもできなかった。オレは成長していない。オレは今でもこの男に父親を求め、失望を繰り返しながら生きている。
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ちょっと夏休みをいただきたいと思います
いつも「記憶�U」を読んでくださってありがとうございます。
さて、実は今日から3日ばかり田舎に帰ろうと思っています。
パソ持参で行くのですが、小説を書いている暇はたぶんないと思いますので、その間だけ、連載をお休みさせていただきたいと思います。
帰りましたら続きを書きますので、そのときにはまたよろしくお願いいたします。

黒澤弥生
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記憶�U・50
「アフル!!」
 オレはあわててベッドから跳ね起きた。そして、既にベッドにうずくまるようにして血を吐き続けているアフルの身体を支え、背中をさすった。アフルの様子は尋常ではなかった。すぐに医者を呼ばなければ。だけど、オレがこの部屋を出ることはおそらくできない。
「ボサッとするな! すぐに医者を呼んで来い! 今すぐだ!!」
 部屋の中央、テーブルのところで半ば呆然としたままだった少女に向かってオレは叫んだ。
「……は、はい!」
 そうしている合間にもアフルの吐血は止まなかった。少女があわてて部屋を出て行く気配を感じながら、オレはアフルの背中をさすりつづけた。いったいどこから出血しているというのか。血液は塊になってまるで溢れるように口内から大量に吐き出されてくる。量が尋常ではないのだ。既に1リットル以上もの量を吐き出している。
「アフル、しっかりしろ! 今医者を呼んでる! がんばるんだ!」
 オレはその様子に絶望を覚えた。このままでは間違いなく、アフルの命はなくなるだろう。
 その時、不意に音が消えた。
 アフルは変わらず血のかたまりを吐き続けている。その音も、アフルを励ましつづけている自分の声も消えた。その意味はすぐには判った。アフルがオレの聴覚の神経を支配していたのだ。
「大丈夫だ。オレの身体は既に寿命が尽きてきてる。オレの内臓はもうボロボロなんだよ」
 音のなかった世界に、アフルの声が割り込んでいた。アフルは今しゃべることができない。アフルはこの苦しみの中にいながら、オレに話し掛けるためだけにオレの聴覚に自分の声を割り込ませているのだ。
「いいから、話し掛けるな! 無駄な力を使うな」
「皇帝葛城達也は絶対にお前を殺したりはしない。なぜなら、皇帝は彼女を愛しているからだ。彼女を悲しませるようなことは、皇帝はできない。彼女がお前を愛している限り、皇帝はお前に手出しをすることができないんだ」
 アフルが言う彼女がいったい誰を指しているのか、オレには判った。だけど信じられなかった。葛城達也が他人を愛することがあるなどと言うことは。
「頼む、伊佐巳。彼女を大切にしてやってくれ。彼女を、愛して ―― 」
 この時、オレは背後に異様な気配を感じて振り返った。
 オレのうしろには、いつの間にか皇帝葛城達也が現われていたのだ。
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記憶�U・49
 現実に引き戻され、目を開けたとき、オレは例の巨大なベッドに寝かされていた。最初に目に入ったのは目を閉じたアフルの顔。ずっとオレの状態をモニタしていたのだろう。目を開けたアフルはオレの頭部に添えられていた手をゆっくりと外して、少し疲れたというような笑みをもらした。
 覗き込んでいるミオの姿も視界の隅にちらりと見えた。だけどそちらはあえて見ないようにして、オレは身体を起こし、アフルに言った。
「あれから5日……で、間違いないのか? オレにはもっとブランクがあるか?」
 いつもの優しい微笑を浮かべて、アフルは答えた。
「大丈夫だよ。それ以上のブランクはない」
「コロニーの連中はどうなってる。オレが眠ってる間に取り返しのつかないことにはなってないか?」
「おととい、コロニーのボスと皇帝との会談が持たれたよ。その後の彼らの処遇については皇帝はまだ結論を出していない。ただ、その会談で皇帝はかなりの手ごたえを得たとオレは思ってる。たぶん、皇帝はコロニーのボスの命を助けると思う」
 アフルの言葉でオレは多くの心配事の1つを解消できて、いくぶんほっとした。だけどまさかそう簡単に皇帝葛城達也がコロニーを解放する訳がない。
 コロニー ―― あの悪夢の災害によって東京に置き去りにされた人々は、敗戦後3年目の今から5日前、再び決起したのだ。3年前の雪辱を果たすべく、武器を揃え、綿密な作戦を携えて。
 だけど、結果は誰もが予想したとおりだった。コロニーは再び敗れ、オレたちは皇帝の囚われ人となったのだ。
「お前は聞いているんだろ。葛城達也はいったいどんな条件をつけた」
 アフルはほとんど迷わなかった。コロニー側のオレに、皇帝の考えを漏らすという行為に。
「コロニーの残党の中に希望者がいれば、皇帝は保護を約束すると思う。人質になっていた人もそうでなかった人も条件は同じだ。だけど、コロニーのボスと側近の駄蒙、それに、黒澤伊佐巳の3人についてはまったく別の話だ。……革命の責任を取る人間が皇帝には必要なんだ」
 全員が殺されても文句の言えない状況なのだ。それが3人だけで済むのであればめっけものだ。……オレは、今まで17年もの間、葛城達也に逆らいつづけてきた。オレの命1つですべての人の命を救うことができる。オレはいつでも覚悟はできている。
「……で、葛城達也はオレを殺すことに決めたんだな」
 ボスの命を助けるのであれば、それしかない。しかし、アフルは答えなかった。答えることができなかったのだ。
「グ……ゲホッ! ……グブブッッ!!」
 突然、アフルは身体を折って、咳と一緒に大量の血液を吐いたのだ。
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記憶�U・48
 存在していたのは、1つのコンピュータだった。無限のハードディスクと最新のCPUが搭載された、わりに高性能な部類に入るコンピュータだ。だけどハードディスクの中身はまだ空のままだ。時間のない空間の中でコンピュータは待っていた。やがてインストールが始まる、その瞬間を。
 時間は変化をつれてきた。小さな刺激というファイルがハードディスクの中に生まれ、増殖していく。増殖はすさまじいスピードで行われ、「オレ」はやがてそのコンピュータが「黒澤伊佐巳」という名前であることを知った。そう、このコンピュータが「オレ」なのだ。インストールされ、少しずつまとまりを見せてゆくファイルたちはオレの記憶。記憶は集まり自我を形成する。「オレ」は少しずつ「黒澤伊佐巳」になる。
 「オレ」の記憶の再インストール。1度フォーマットされたハードディスクの中に、ファイルは正確に「黒澤伊佐巳」の時間軸をたどってインストールされてゆく。生まれる前の記憶から、生まれたあと、言葉を覚え、自分の名前を覚え、自己が個であることを知り、自我が生まれてゆく。オレは自分の歴史をたどりながら自分というものを形成してゆく。記憶を消された15歳までのインストール。そのあと、植え付けられた偽の記憶と、その先に生き続けていった、17年間の記憶。
 32歳のオレ。再び葛城達也に記憶を消された記憶。そのあと出会ったミオとの記憶。そして、ほんの一瞬前に経験した、32歳の伊佐巳と15歳の伊佐巳との融合 ――
 その時、オレはすべてを知った。
 15歳の伊佐巳と32歳の伊佐巳。その2人の伊佐巳が本当に恐れていたのはなんだったのか。過去の記憶を取り戻して、融合を果たして、「オレ」は初めて知ったのだ。2人が恐れていたものの本当の意味は、互いの記憶を持たないそのどちらにも判らなかったのだということを。2人の記憶が融合して、初めて判った。「オレ」が、出会ってしまったのだ。
「「ミオを愛している」」
 2人の伊佐巳が言う。判っている。「オレ」が本当の黒澤伊佐巳なのだから。
「「ミオの幸せだけを願っている」」
 同じ言葉を声を合わせて言った。2人は同じことを願っている。だから2人は1人の「オレ」になることができたのだ。アフルはこの結果を予期していたのだろう。そして、2人の伊佐巳は、無意識にこの結果を恐れていたのだろう。
 「オレ」はどうするべきなのか。「オレ」はこの結果に出会ってしまった。2人の伊佐巳が心の底から恐れていた、この結果に。

 再インストールの終わったコンピュータは、既に再起動を始めていた。
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記憶�U・47
 オレはしばらく奴の顔を見つめていた。その顔は現実のオレが鏡の中に見ていた顔と同じだった。少し印象が違うと思えるのは、精神年齢がオレと奴とでは17歳の開きがあるからなのか。それはよく判らない。だけど、オレはその男が自分であると確信した。
 実際のところ、オレと奴とはまったく違うものだった。オレは15歳までの記憶と、ミオと過ごした5日間の記憶を持っている。32歳の黒澤伊佐巳は、偽物の15歳までの記憶と、その上に積み重ねられた17年間の記憶を持っているはずだった。オレと奴とに共通する記憶というのはまったくないのだ。お互いに不完全で、どちらも本当の黒澤伊佐巳ではないのだ。
 それでもオレは、奴を自分と同じものだと感じた。そしておそらく、奴も同じように感じているはずだった。
「やっと、出てきてくれたね。32歳の伊佐巳」
 アフルが言った言葉に、伊佐巳は照れ笑いのような表情を浮かべた。オレは奴に会ったことはないはずなのに、その表情になぜかなつかしさのようなものを感じた。オレはかつては奴であったし、奴はオレの未来だ。共通するものがなくてもそう思えることが不思議だった。
「32歳の伊佐巳」
 オレは伊佐巳に語りかけた。伊佐巳は複雑な表情でオレを見ている。
「お前はオレとひとつになることが嫌だったのか?」
「……嫌じゃない。ただ、正直な話、オレはお前とひとつになるのが怖い」
 その一言だけで悟っていた。奴もオレと同じなのだ。オレはミオの正体を知ることを恐れた。奴が恐れたのは、偽物の記憶を植え付けられた15年間に経験した、本物の記憶に隠された真実なのだ。
 なんてことだ。奴が葛城達也を使ってまでオレを遠ざけようとしたのは、17年前のミオの死への、無意識の恐怖だったのだから。
「オレも、怖かった。……だけど、オレとお前とはひとつのものだ。2人がひとつにならない限り、黒澤伊佐巳にはなれない。未来が来ない」
「未来、か。……15歳の伊佐巳、お前はオレの過去でありながら、未来でもあるんだな」
「お前もだ。オレの過去で、オレの未来なんだ」
 15歳のオレと、32歳のオレの距離は、知らず知らずのうちに少しずつ縮まっていった。どちらかがどちらかに近づいたのではなく、互いに歩み寄ったのでもない。少しずつ、互いを隔てていた空間が消滅していった。そんな感じだった。
「オレは、ミオを愛している」
 奴がそう言ったとき、その言葉が互いの距離を埋めた。
「オレもだ。ミオを愛している」
 オレの言葉が、2人の伊佐巳の距離を縮めた。
「「ミオの幸せだけを願っている」」
 そう、2人が声を合わせたとき ――

  ―― 空間は、すべて消滅した。
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記憶�U・46
 オレが真実を恐れる気持ちはいったいどこからくるのか。オレの無意識は、ミオの正体を知っている。知っているからオレを恐怖で縛っている。すべてはオレの意思だ。ここに葛城達也がいることも。
 オレの無意識は、オレ自身がそれを知らずにいることを望んでいる。だけど、知らずにいたらそれですべてよくなるのか? 知っていても知らなくても、結局オレは苦しんでいるではないか。それならば、いったい何が違うというのか。知らずに苦しむのと、知っていて苦しむのと、マシなのは後者の方だ。今ここでオレが知らずにいたところで、知りたいという欲求は消えないだろう。それではオレは1歩も前には進まない。いつかオレは後悔する。ここで決心できなかった自分を許すことができなくなる。
 ああ、そうか。オレは以前、自分の出生が研究所の遺伝子研究によるものだと知って、衝撃を受けたことがある。そのときのショックをオレは覚えているんだ。だから、同じ衝撃を受けたくないんだ。
 だけど、知らない方がよかったとは、オレは思っていない。
「アフル、こいつを消してくれるか?」
 オレの心の動きはすべてアフルに伝わっていたのだろう。穏やかに微笑んだあと、アフルは再び葛城達也を見た。
「総裁葛城達也。あなたの役目は終わりました。もう、ここに存在する必要はありません。元の姿に戻ってください」
 葛城達也は不敵な笑いを崩しはしなかったけれど、その表情は、オレには悲しんでいるようにも見えた。
「オレを消したら後悔するぜ、黒澤伊佐巳」
「するかもしれない。だけど、消さなかった後悔よりは少しはマシなはずだ」
「……勝手にしろ」
 それが、オレの中にコピーされた葛城達也の、最後の言葉だった。
 葛城達也の輪郭は、しだいにぼやけていった。そして、周囲に煙のようなものが立ち込めてゆく。しかしその煙はいつものように拡散して消えてゆくのではなく、分子のひとつひとつが小さな音を立てて破裂するように消滅した。その消滅のときに光が生まれ、次々に破裂する分子の光は、やがて周囲を覆い、光のうねりとなっていったのだ。
 途中から目を開けていることすらできなくなっていた。小さな破裂音の集まりが鼓膜を叩くように続き、耳を塞がなければいられないほどになる。しかしそれらもほんの数十秒続いた後、やがて遠ざかるように小さくなる。目を閉じていたオレはゆっくりと目を開けた。周囲は既に暗闇ではなく、光に、満ちていた。
 そして、それまで葛城達也がいたと思われる場所には、男が1人、立っていたのだ。
「15歳の伊佐巳、アフル、久しぶりだな」
 男は、32歳のオレの顔をしていた。
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記憶�U・45
 この男は、オレの記憶を監視する者。葛城達也の姿で存在する。それは仮面なのか? 奴は葛城達也ではなく、別の顔も持っているのか?
「ざまあねえ、アフルストーン。てめえはほんとにそいつが正しいと思ってるのか? 記憶が蘇った方がいいと本気で思ってるってのかよ」
「正しいか正しくないか、そんなことはどうだっていいんです。私は伊佐巳の親友として、伊佐巳の希望をかなえたいと思うだけです」
「俺がここで見張ってるんだぜ。判ってるのかよ」
「理解していますよ。伊佐巳が記憶を取り戻したらどうなるか、その予測も立てることができました。あなたの正体も判るし、あなたがなぜその姿で監視者をしているのか、その理由も判っています。あなたが伊佐巳を、そしてミオを心から愛しているのだということも」
「黙れ!」
 アフルの言葉にうろたえていたのは、葛城達也だけではなかった。奴がオレを愛している? オレだけではなくミオも愛しているというのか? ……アフルの言う通りだ。奴は葛城達也ではありえない。少なくともオレが知っている葛城達也ではない。オレが知らない葛城達也がオレの中にコピーされているはずはないんだ。この葛城達也には、別の人格が存在する。
 オレを愛する葛城達也は、オレの記憶が戻ることを望んでいない。オレは記憶を取り戻すべきではないのか?
「伊佐巳、心を揺らすな。お前はすべてを思い出したいのではないのか?」
 アフルが言って、オレは気付いた。葛城達也の表情が変わっていた。うろたえきった顔から、不敵な笑いを浮かべたあの顔に。
「伊佐巳が揺れていてはオレは自分の力を発揮することはできないよ。葛城達也を消したいなら、奴の正体を知りたい、記憶を取り戻したいって、本気で願ってくれ。ここでは伊佐巳の意思がすべてなんだ」
「言っても無駄さ、アフルストーン。そいつには自分の意志なんてねえんだ。周りに流されて、周りの言うことを自分の意志だと勘違いしてやがる。情けねえ男さ。好きな女1人抱くこともできねえ」
「伊佐巳! 惑わされるな! お前は自分の意志でオレをここに連れてきた。自分のことをすべて知りたいからだろ?」
「アフルストーンが勝手につれてきちまったんだよな、伊佐巳。お前は何もしらねえままミオとヨロシクやってたかっただけじゃねえか。記憶なんか戻らなくてもいい、そう思ってたじゃねえかよ」
 オレの意思。オレの意思が問われている。オレは記憶を取り戻したいはずだ。そのためにここにくると決心したはずだ。たとえなにが変わろうと、ミオの存在がオレの中でどう変化しようと、それを受け入れると決心して、ここに来たはずだ。
 だけど今、オレは真実を恐れている。
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お詫びです
今日はこの時間まで電話で友人の相談に乗っていました。
そんなわけで、今日は小説をアップすることができませんでした。
本当にごめんなさい。

人間というのは、自分を守るためなら、どんな陰湿なこともできるのでしょうか。
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記憶�U・44
 もともとの多次元に時間という概念を加えたとき、1つ次元を上げなければ表現することはできない。だが、オレ自身は3次元までしか知覚することはできない。物干し竿のZ軸に時間を当てたとき、その他の要素は2次元で表現するしかなかった訳だ。物干し竿の長さは正確な目盛りで時間軸を現わし、太さはそのときの情報量を現わしている。
「この空間は伊佐巳の感覚に支配されているからね。じっさい物干し竿に微積分まで導入するところなんかはものすごく伊佐巳らしいよ。こんなに伊佐巳が几帳面にできてなければ、もう少し楽な人生を送れただろうに」
「例えば葛城達也に迎合して、自分が犯した罪をすべて奴になすりつけるとか、か?」
「より大きな罪を小さな罪で回避しているんだよ。それが『逃げ』な訳?」
「少なくともオレにはそう見えるな」
 アフルはただ微笑んだだけだった。
  ―― そのときだった。
「おい、アフルストーン。そんな奴とまともに話したって無駄だぜ」
 ゾッとするような空気だった。気配に振り返って見たのは、もう何度目か判らないけれど、オレがここにくると必ず姿を現わしていた、葛城達也の亡霊だった。少し離れた位置からニヤニヤ笑いでオレとアフルを見つめている。そうだ。オレはこの男を消すために、ここに来たんだ。
「お久しぶりです、総裁」
「アフルストーン、どうしててめえがここにいるんだ」
「詳しくお話しすると長くなりますので、簡単にお答えします。……伊佐巳がとても都合のいい認識をしていましてね。『精神感応力は葛城達也よりもアフルストーンのほうが強い』と。つまり、伊佐巳の感覚が支配するこの世界では、私はあなたに勝つことができるんですよ」
 この時初めて、葛城達也が表情を変えた。薄笑いを引っ込めて、しかしゾッとするような残酷な視線をアフルに対して向けたのだ。
「オレを殺すって? てめえは俺よりそいつに従うつもりか」
「殺しはしませんよ。ただ、正体を現わしていただきます、私が敬愛するあの方の仮面をかぶっているあなたを許すことができないので」
 そう言って、アフルは徐々にではあったけれど、葛城達也の亡霊に近づいていった。
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記憶�U・43
 アフルに手を引かれながら、オレは何もない空間を移動していった。いや、何もないと思えたのはオレの錯覚だったらしい。アフルはこの空間でもオレの視覚を調整していたのか。しだいに目が慣れてくるような感覚があって、周囲に大きな網目のようなものが浮かび上がっていた。
 全体にパステルカラーで、多角形のジャングルジムのように点と点が複雑に繋ぎ合わさっている。脳細胞のシナプスにも似ていた。おそらくそう考えてほぼ間違いないのだろう。そのシナプスの合間を、アフルは器用にすり抜けていった。
「伊佐巳の意識がある状態から入ったから見える光景だよ。夢を見ている状態だと、今見えている空間は、眠りに入る段階で通り抜けてしまうんだ。ここは伊佐巳の意識の空間だ。15歳のOSが支配してる」
 アフルの説明を聞きながら周囲に目を凝らすと、そのジャングルジムのようなものが時間とともに少しずつ形を変えていることが見て取れる。シナプスが伸びて新たな接続を形作ったり、逆にそれまで繋がっていた接続が切れて、点に吸収されてしまったりしている。活発に動きを繰り返している部分もあれば、ほとんど変化のない場所もある。ためしにオレは接続の1つに触れてみた。手に触れた感触はあったけれど、オレが触れたことで接続が変化するようなことはなかった。
「伊佐巳、これに触れるのはけっこう危険だよ。壊したら意識障害が起きることもある」
「それを早く言えよ!」
「大丈夫。今は干渉を制限してあるから。そうじゃなかったら怖くてこんなところ通れないって」
 どうやらアフルはオレをからかって楽しんでいるらしい。そういう底意地の悪いところは昔と変わってない。
「そろそろ抜けるな。伊佐巳、この先が伊佐巳にもおなじみの場所だ。無意識の入口」
 アフルがそう言ってほんの数秒。
 いきなり、オレたちはそのジャングルジムを抜けていた。消えた、という方が近いくらい突然の変化だった。振り返ってももうジャングルジムは見えない。四方八方暗闇に包まれている、オレが何度も来たことのある、葛城達也の亡霊が存在する無意識の中だったのだ。
「看視者に邪魔されないうちに先に見せておくよ。……あれが伊佐巳の記憶の物干し竿だ」
 そして、アフルが指差した先には、オレが以前見たものとは少しだけ違う、記憶の物干し竿が現われていたのだ。
 以前くぐったときには4本の分割した管の形をしていたけれど、今目の前に現われたそれは、たった1本の管に過ぎなかった。それも、ところどころ太さが違っていて、色も場所によってずいぶん違った。まるで獲物を飲み込んだ直後の蛇の身体のようだ。片方の先端は細くなっていて、途中ともう片方の先端が異様に太くなっている。
 それがそのままオレ自身の歴史を現わしているのだと、アフルの説明を聞くまでもなく、オレは悟っていた。
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記憶�U・42
「まずは伊佐巳の五感からの情報をすべてシャットアウトする。暗闇の中に浮いたような感じになるけど、驚いて身体を動かしたりしないで。まずは視覚。次に嗅覚。聴覚。味覚。そして、触覚」
 アフルはひとつひとつ挙げながら、オレの感覚のすべてを封じていった。目を閉じていても視覚というものは働いているらしくて、アフルが視覚と言った直後、オレの目の前は完全な暗闇になった。聴覚と言ったあとはそれまで聞こえていたすべての音が聞こえなくなって、水の底に潜ったような感覚に似ていた。だからそのあとオレがアフルの声を聴いたと思ったのは、本当はアフルの肉声ではなかったのだろう。触覚と言われたとき、それまでアフルに抱きかかえられていたのに、急に放り出されたようになっていた。
 五感のない世界は、あの悪夢の世界にすごくよく似ていた。アフルの声が途絶えたとき、オレは少し不安になって、心の中であたりを見回すような動作をした。
「大丈夫。オレはちゃんとここにいる。身体を動かさないで。……今、伊佐巳は何も見えないね」
「……ああ、見えないな」
「それじゃあ、今目の前にオレの姿を映すから」
 アフルがそう言ったとき、目の前に浮かび上がったのは、オレがよく知る17年前のアフルの姿だったのだ。
 アフルも少し驚いたようで、自分の身体を見回して、不思議そうな表情をしていた。
「……ああ、そうか。伊佐巳の中ではオレは成長していないんだ。今いるこの空間はすべて伊佐巳の感覚が支配しているから。伊佐巳にとってのアフルストーンは、17歳のままなんだね」
 そうしてアフルがオレの身体に触れて、それで初めてオレは自分の身体が実体化していることにも気付いたのだ。いつもの夢ではオレに身体はなかった。オレも自分の身体をあちこち見て、オレ自身も15歳の自分に戻っていることを知ったのだ。
 この感覚は久しぶりのものだった。本当のオレの五感というのは今アフルに封じられていたけれど、この15歳の身体には現実とまったく同じような五感がある。アフルに触れられれば触れられている感じがあったし、目の前のアフルの声は、普通に聞くのとほとんど違わなかった。
「いいかい、これからオレたちは、伊佐巳の中の仮想空間を移動していく。これから起こることは言ってみれば夢のようなものだ。今、現実での伊佐巳の運動能力も制限したから、今から伊佐巳が身体を動かしても現実の身体には反映されないよ。……だけど、夢と違うのは、ここで起こったことはすべて、伊佐巳の精神世界で実現してしまうということだ。例えばだけど、伊佐巳がこの世界で死んでしまったら、伊佐巳の精神も死んでしまう。2度と現実には戻れなくなる。それだけは覚悟しておいて」
 要するに、今ここでアフルがオレを殺せば、オレは現実でも死ぬということか。
「判った。逆に、オレが邪魔者をすべて消せば、オレの記憶は戻るってことだな」
「そういうことだよ。オレはそのために伊佐巳をここにつれてきたんだ」
 そう言って、アフルはオレの手を引いたまま、空間を移動し始めていた。
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