2005年10月の記事


白石の城・最終回
 僕に答えを恐れる気持ちがなかったとは言えない。由蔵が人間でいることを選んで、そのときベスが味わった絶望を想像することができるから。一二三は僕を恨んではいないと言った。だけどそれは、一二三が吸血鬼でいることを受け入れた結果にしか過ぎないから。
「……あのときを、想像するのは無理みたい。美幸先輩と出会って、それまでずっと長く生きられないだろうって言われてて、諦めていたはずなのにもっと生きていたいって思った。……あたしも美幸に訊きたかった。美幸は、どうしてあたしに告白したの? 美幸が17歳から成長しないのが判ってたのに、どうしてあたしに未来を見せたの?」
 ……ああ、そうか。僕は忘れていた。僕が本音を吐露すれば、一二三も本音で返してくるんだ、ってこと。生きている一二三は、僕に耳障りのいい甘い言葉だけをくれたりはしない。だからこそ僕はあえて彼女に触れることを恐れていたのだろう。
「……先のことなんか、考えている余裕はなかったよ。ただ君を手に入れたい、僕を好きになってもらいたいって、その想いだけで突っ走ってた。僕には君に未来を見せてあげる資格なんかなかったのにね。……どうしようもないくらいにわがままだったんだよ、僕は」
 じっと聞いていた一二三は、1度顔を伏せて、再び顔を上げたときには何かを納得したかのような晴れやかな表情を見せていた。いったい僕の言葉の何が彼女にそんな表情をさせるのかが判らなかった。むしろ僕に失望したような顔をしていてくれた方が理解できたのに。
「あのときのことを想像することはできないけど、今なら思うよ。たとえ吸血鬼に変わっても、美幸のそばにいられてよかった、って」
「……どうして?」
「判らなかった美幸のこと、知るのが嬉しいから。それがこんなに嬉しいことなんだって、美幸と一緒にいなかったら気づかなかった」
 僕も、一二三がいなかったら気づかなかっただろう。たった1人の人の笑顔を見ることがどれほど難しくて、かと思えば拍子抜けするほど簡単に見ることができて、それが僕にとってこれほどの喜びになるんだということを。

 人は人とかかわることで、他人を知り、自分を知る。人間たちと深く関わらずに過ごした長い日々よりも、僕にとっては一二三と過ごした6年間の方が、ずっと密度の濃いものだった気がする。人間たちが短い人生の中で多くの人と出会い別れていくのもきっと同じなのだろう。人間も、吸血鬼も、自分と大切な人のことを知りたいという想いは変わらないのかもしれない。
 どんな人間にも、大切にしたいと感じる人と出会う瞬間がある。人間の命にこだわる一二三の気持ちが少しだけ判ったような気がした。

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白石の城28
「由蔵さんが断ったのはどうして? やはり人間の血を食料にすることに抵抗があったからか?」
『それもないとは言えませんが、私自身も孤独な人間でしたから、吸血鬼として人間と関わることへのこだわりはさほどありませんでした。むしろ私は、ジョルジュさんと関わるために、人間でいたかったのかもしれません。うまく言えませんが』
 確かに僕たち吸血鬼は、時として人間の力が必要だと感じる場面がある。僕が一二三を仲間にしたとき、柿沼たちに助けを求めたのは、柿沼夫妻の人間としての立場を必要としたからだ。だけどベスは人間としての由蔵以上に仲間としての由蔵を必要とした。そのことはベスがそう口にしたとき、由蔵にだって判ったはずなんだ。
 僕の沈黙を解釈したのだろう。しばらく経って、由蔵が言った。
『そういうところが、美幸さんはやっぱり高校生なんだな、と思います』
「……なにが? 僕のどういうところ?」
『生きている時間の長さは私と変わらないのでしょう。でも、美幸さんはずっと、17歳の少年として周囲に扱われてきました。美幸さんが普通の人間とは違った体験を多数してきたことは確かなのでしょうけれど、周囲に大人として扱われることで成長していく部分も、人間にはあるんですよ。……それも、私が人間として死ぬことを選んだことの1つの答えなのかもしれないです』
 本当は自分でもよく判っていないのですが、と由蔵は付け加えて、それ以上話すこともなく僕は電話を切った。その気配を感じたのか、今まで遠慮していたらしい一二三が戻ってきて僕を見上げる。気持ちを切り替えるように僕は一二三に微笑みかけた。
「ベスは大丈夫そうだったよ。ただ、本人はもう日本にいないみたいで、直接話せなかったのだけど」
「……美幸、なにかあった?」
 どうやら一二三は、僕のちょっとした表情の変化に気づいたらしい。大人ぶってごまかしてしまうこともできたのだろうけれど、今の僕にはその行為自体が子供じみたもののように思えて、彼女の洞察力に降参した。
「ねえ、一二三。……6年前、君を吸血鬼に変えたのは僕のわがままだ。僕はただ、君が死んでしまうのが嫌だった。もしもあの時、君に選択肢が与えられていたとしたら、君はどうした? どちらを選んだと思う? ……吸血鬼として生きることと、人間として死ぬことと」
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白石の城27
 翌朝、僕が屋敷に電話をすると、由蔵から返ってきた返事は予想もしないものだった。
『 ―― 今朝早くにアメリカに旅立たれました。身体の方は心配ありませんので、お2人にもそう伝えてほしいとのことです』
 その時点で既にベスの携帯電話は通じなくなっていたから、ベスにはメールを入れたけれど返事が来るまでに丸1日くらいはかかるだろう。ベスは秘密主義というのか、話さないと決めたことはどんなアプローチをしてもぜったいに漏らさないようなところがある。この状態でベスに説明を求めるのはほぼ100パーセント不可能だった。彼がそのときだと判断するまで、早苗の次男に何が起こっているのか、僕たちが知ることはできないだろう。
 溜息を1つついて僕は諦めた。電話はまだつながっている。ふと、周囲に一二三の気配がないことを知って、僕は由蔵に尋ねたんだ。
「由蔵さん、1つ、突っ込んだ質問をしてもいいかな」
『はい、かまいませんよ。どういったことでしょう?』
「由蔵さんはずいぶん若い頃からベスと親交があったと聞いている。だったら、どうして吸血鬼になろうとしなかったんだ? 生涯結婚もしなかったのだし、人間でいる必要はなかったと思うのだけど」
 言い方が少しストレートすぎたかもしれない。電話の向こうで由蔵の沈黙があって、やがて穏やかな声が聞こえ始めた。
『そうですね、吸血鬼と呼ばれる人たちの中には、自ら望んでそうなるケースもあると聞いています。美幸さんの場合は知らない間に変化させられていたということでしたが』
「ああ。僕は自分を変化させた吸血鬼を知らないくらいでね。どういう状況でそうなったのか、自分ではまったく覚えていないんだ。もしかしたらベスなら知っているのかもしれないけれど」
『おそらくご存知でしょう。機会があれば話してくれると思いますよ。……私は1度だけ、ジョルジュさんに言われたことがあります。ちょうどジョルジュさんの外見と同じくらいの年齢のときでした。由蔵、吸血鬼にならないか、と。それ1度きりでしたが』
 そのときのベスの気持ちを、僕は想像することができる。吸血鬼は孤独だ。たとえベスに吸血鬼の仲間がいたとしても、人間の生き方がそれぞれ違うように、吸血鬼にも個性がある。数少ない吸血鬼という種族の中で、本当に心を通わせられる人に出会う確率はわずかだから。
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白石の城26
 ベスの舌が、まるで焼けただれたかのように形と色を変えていた。そうとう痛みもあるようで、ベスの綺麗な眉が苦しみに歪んでいる。
「ベス!」
「大丈夫。身体の中にまで入れてないから。帰って由蔵に舌を切り取ってもらうよ」
「どういうことだ? たとえこの子が吸血鬼だったとしても、僕たちは仲間の吸血鬼の血を吸ってもそんなことにはならないだろ?」
 そう、僕たちは、仲間の血を吸うことならできるんだ。こんな風に舌がただれたりすることなんかありえないことを僕は知っている。
「今この状態で詳しく話す気にはなれないな。頼むから私を問い詰めないでくれる?」
 確かに、今のベスに説明を求めるのは酷だろう。僕は後始末をすべて引き受けて、先にベスを送り出した。一二三にも手伝ってもらいながら子供たちを部屋に運んで、長男と早苗の記憶処理をする。一通り作業を終えたところで僕は一二三に訊いてみた。
「一二三は食事を済ませてあるの?」
「うん、さっきベスに言われて一緒に済ませた。ベスは自分がこうなるって知ってたんだね。だから……」
 今までの経験上、食事前に種の回収をする方が効率がいいことが判っている。だから僕は回収前に食事をしないでいたんだ。一二三もきっと今夜は種を回収するつもりはなかったのだろう。一二三がとつぜん気を変えた理由も訊きたかったのだけど、僕は別のことを訊いた。
「次の種は? どこに気配を感じる?」
「それが……。さっきからずっと探ってるんだけど、35月目の種が見つからないの。34月目の種は北の方にあるのに」
「それはまずいね。宿主が死んだのならいいけれど、引っ越しでもしたのだとすると。通り魔の被害者が出てからじゃないと見つからないかもしれないな」
 僕たちと大河とは約3年のブランクがあるから、その間に宿主の現状が変わってしまうことがこれまでにもあった。実際、今日まで僕たちはすべての種を回収できた訳ではないんだ。その中には通り魔殺人犯として逮捕された宿主もいる。あと2ヶ月のうちに35月目の宿主が見つからなかったら、僕たちはその存在をテレビや新聞で知らされることになるだろう。
 とにかくまずは34月目の宿主を処理することが先決だ。一二三にそう告げると、僕は一二三を伴って早苗の家をあとにした。
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白石の城25
 無性に誰かの血が吸いたかった。今、目の前に人間がいたら、僕は何も考えずにその人間に襲い掛かっていただろう。そのとき、子供の泣き声と足音が寝室に近づいてきて、僕とベスの視線はドアに集中した。間もなく扉が開いて、幼い子供を抱えた少年が姿を見せる。
「ママ、コーちゃんが泣いてるよ。……ママ……? ……あ、大河兄ちゃん」
 犠牲者が自分から飛び込んできてくれた。僕は少年を安心させようと微笑みながら近づいていったけれど、彼はそんな僕に異様な気配を感じたのだろう。1歩あとずさるような仕草をしたから、僕は膝を折ってまずは腕に抱えられた子供を優しく抱き上げた。
「どれ、コーちゃん、いったい何を泣いているのかな? 怖い夢でも見たのかな?」
 今まで沈黙していたベスが、横から手を伸ばして僕の腕から子供を引き継いでくれる。おそらくベスが子供を眠らせたのだろう。急に泣き声がやんで、少年も少し安心したような微笑を見せた。
「大河兄ちゃん、ママに会いに来てたの?」
「そうだよ。孝則君、えらかったね。コーちゃんが泣いてたらいつも孝則君がよしよししてあげるんだ」
「うん。でも今日はぜんぜん寝てくれなかったの。ぼく、どうしたらいいのか判らなくて。コーちゃん、いったいどうしたんだろう?」
「……そう、たぶん、ママに危険が迫ってるって、判ったんだろうね。……ママも、孝則君も、もう少し僕を警戒するべきだったよ」
 言われた言葉を少年が理解する前に、僕は彼の首筋に唇を寄せた。間もなく僕の身体が満たされてゆき、少年が力を失って崩れ落ちる。
 その頃には一二三も早苗の処置を終えていて、僕たちのところへ歩み寄ってきていた。振り返って見上げるとベスは子供を見つめている。
「ベス、その子をどうするの? 連れて帰るの?」
「いや」
 一二三の問いかけに短く答えたベスは、子供の首筋に取り付いて血を吸った。だけど、ほんの一瞬だけですぐに唇を離したんだ。ベスがほとんど子供を放り出すようにその場に崩れ落ちたから、僕は驚いてベスに手を伸ばした。
「……やっぱり、私の仮説どおりだ。この子供の血には毒がある」
 それだけ言うのもベスはつらそうで、聞き取りづらい言葉を言い終えた彼が開いた口の中を見て、僕は呆然としてしまった。
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白石の城24
 遠くで子供の泣き声が聞こえる。寝室のドア近くにはベスが、まるで気配を悟られまいとするかのように静かにたたずんでいる。僕の身体にしがみついた早苗の震えが伝わってくる。そんな早苗の腕を、一二三が掴んでいた。
「早く美幸から離れて」
 満月期の一二三の力は普通の人間とは比べ物にならない。それでも多少の手加減はしたのだろう。早苗が小さく声を上げて、僕から手を離した。
「い、痛い! ……やめて、放して、お願い」
「種はあたしが回収する。美幸、それでいいよね」
「 ―― え……? ヨシユキ、って……?」
 早苗が更におびえた表情で僕を見上げた。僕と一二三を見比べるようにして、ようやく早苗はそれが僕のことだと理解したようだった。
「ごめんね、早苗さん、今まで騙していて。僕はあなたが知っている大河じゃないんだ」
 そう言ってベッドから降りると、早苗は絶望的な表情をして言葉を失った。それ以上早苗には何も言わず、一二三に続ける。
「いいよ一二三。君が嫌でないのなら、その方が効率的だから」
 僕の言葉にうなずき返した一二三は、早苗を抱きしめながら頤を上げさせて口付けた。
 過去に何度か、一二三が種を回収するところは見たことがあって、そのたびに僕は相手の男への嫉妬を必死で押し隠していなければならなかった。今までと違うのは相手が女性だってことだけだ。いったいどう表現したらいいのだろう。身体の、腹部の奥に何か重いものが存在している感じ。僕は2人の女性がベッドの上でキスしている姿に、嫉妬とは似て非なる何かを感じていた。
 早苗は同世代の女性の中でも比較的整った容姿をしているらしく、彼女の血管にまみれた顔が見えない僕の位置からだと、まるで倒錯した官能映画のワンシーンのように美しく見えた。この2人の間に割って入ることなど僕には許されていない。拒絶されたことへのかすかな苛立ちと、そう感じている自分への驚きに支配されて、僕は呆然と見ていることしかできなかった。
 この苛立ちを言葉にして一二三にぶつけることはできないだろう。何をどう苛立っているのか、自分でもよく判っていないのだから。
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白石の城23
 一二三が来るタイミングを見ながら早苗と少しリビングで話をして、そのあとベッドルームに移動した。そのまま種を回収してもよかったのだけど、祥吾の種が発動した理由を探るために今回は一二三にそばにいてもらうことになってたから、一二三が来るまでは僕1人で時間稼ぎをしなければならなかったんだ。薄明かりの中ベッドに横たえた早苗の顔にキスを落としながら雰囲気を作る。早苗は少し不満に思っていたのかもしれないけれど、その反面17歳の大河が自分をどう抱くのか、それを見極めようとしているようにも見えた。
「早苗はぜんぜん変わってないな。……すごく綺麗だ」
「嘘、そんなことないでしょ? あたしもう30超えてるんだから」
「変わってないよ。あれからオレの子供を産んでたなんて思えないくらい綺麗だ」
「やだぁ、からかわないでよ大河」
 そうしてたわいない会話を交わしながら時間を稼いでいると、やがてわずかな気配があって、一二三たちが到着したことが知れた。間もなくこの寝室に一二三とベスが入ってくるだろう。とそのとき、別室から子供の泣き声が聞こえた。おそらく次男が目を覚ましたんだ。
「早苗、子供が泣いてるよ? 放っておいていいのか?」
「大丈夫よ。同じ部屋に孝則がいるんだから。あの子は慣れてるからすぐに寝かしつけてくれるよ。それより早く」
 請われて再び早苗とキスを交わす。部屋のドアが開いたのはそれからほんの少し経ってからだった。子供の泣き声で動じなかった早苗も、これには驚いたのだろう。ハッとしてドアの前に立つ2人連れを見やると僕にしがみついてきた。
「キャッ……あ、あんたたちいったいどっから……!」
「大丈夫だよ早苗。オレの古くからの友人のベスと、オレの恋人の一二三だから。一二三、彼女が早苗だよ」
 一二三は少し怒ったような、きつい目つきをしてベッドの脇へと歩いてきた。満月期でなければ一二三のこんな表情を見ることはほとんどない。人間でいたときとはずいぶん顔つきが変わってしまったけれど、それでも僕はいつもその顔に以前の一二三の面影を見ていた。
「別に変化はないみたいだね、あたしと美幸が2人で接触しても」
 顔を覗き込んでいる一二三におびえたように、早苗は僕にしがみつく手に力を入れた。
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白石の城22
 そして満月の夜、僕はひとりでその家を訪ねた。一二三とベスはあとから合流する予定だ。前回と同じくだいたい8時ごろに呼び鈴を鳴らすと、僕の顔を見た早苗はすぐに家へと入れてくれた。
「大河ー! うれしい、きてくれたんだ。あたしもう大河が2度ときてくれないかと思ってたよー」
 言いながら僕の腕に絡み付いてリビングへと誘導する。前のときもそうだったのだけど、この家の子供は8時には既に寝付いていた。長男は小学校4年生だと聞いたから、いまどきの子供にしてはずいぶんと早い就寝だと思う。
「なんで? オレ、もう来ないなんて言ってないはずだぜ」
「だあって、こないだきてくれたときにもあたし、いつの間にか子供と一緒に眠っちゃってたじゃない。大河があきれちゃったと思ったの」
 そう言って媚びるような甘えるような仕草で頭を胸に預けてくる。そのあとギリギリ色っぽいと言っていい上目遣いで見つめられて、実のところかなり辟易した。だけど顔には出さないようにあくまで笑顔のままで接する。
「早苗さんがあんまり気持ちよさそうに眠ってたからさ、起こすのも悪いような気がして。だからって下手に書き置きなんかしたらダンナに見つかったとき言い訳できないだろ?」
「やあだあ、思い出させないでよ、ダンナのことなんか。それに、あたしのことは早苗って呼んで、って、そう言ったでしょぉ?」
 ある一定の年齢を境に、日本人の話し言葉は変わったと思う。なんていうか、蓮っ葉になったというか、品がなくなったというか。今でも40歳よりも上の年齢ならもう少し落ち着いた話し方をする人が多いのだけど、早苗はまるでそれが若さを象徴しているのだとでもいうかのように、学生と同じような子供っぽいしゃべり方をした。
 それは僕にとってはあまり肌になじまないしゃべり方なのだが、大河を演じるときにはあえて同じような口調で話すことにしている。5年前の大河の一人称は「僕」だった。それがたとえ3年前にも「僕」だったとして、今「オレ」に変わっていたとしても、相手は自然な変化として受け止めるだろう。
「そうだった。……早苗、会えてうれしい」
 リビングのソファに並んで腰掛けて、早苗は僕の胸をまさぐりながら「あたしもよ、大河」と答えた。
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白石の城21
「 ―― 結論から言うよ。早苗の次男は、れっきとした父親の血を引く子供だった。長男のY染色体との比較検査が一致したから、ほぼ100パーセント間違いないと思う。そして、血液検査でも吸血鬼が持っていると思われる成分はまったく発見できなかった。つまり、この次男は完全に人間としての特徴を備えているってことだ」
 ベスの地下研究室で、僕と一二三はノートパソコンに表示されたグラフを見せられながら、ベスに説明を受けていた。グラフの意味はさっぱり判らない。だけど、隣に表示されている人間と吸血鬼のグラフに照らし合わせると、次男のグラフが明らかに人間に近いことだけは判った。
「おそらくこの次男は、早苗の胎内にいるときに種の影響を受けていたのだろう。それは間違いないと思う。そうでなかったら吸血鬼の特徴を持った顔になるなんてことはありえないからね。ただ、種の影響が顔かたちにだけなのか、それとも身体の内部にまで及んでいるのか、それは今の段階では私にも判らないんだ。だから次の満月、種の回収に私も同行させてもらうよ」
「……それはかまわないけど。ベス、風水の研究はいいのかい? ここまでしてもらっただけでも僕たちは……」
「風水は逃げない。だけどこの子供については私も気になることがあるんだ。今、毛髪の方をアメリカの研究施設に送って調べてもらってるんだけど、私の仮説が正しいかどうか確認するためには直接子供に会う必要があるんだ。ただ、私の仮説の通りだったとすると、その子供は放っておいても大丈夫だよ。治療する必要も、ましてや殺す必要もまったくないと思う」
 そのベスの言葉を聞いて、一二三がほっとしたように息をついた。一二三にしても、もしもベスが次男を殺す決定を下した場合、容易に覆すことができないことを知っているのだろう。
「仮説って、どんな仮説なんだ?」
「それは訊かないでおいてほしいね。本当に私の説が正しいことを立証するためには、下手したら10年単位の時間が必要になるかもしれないから。しばらく風水は諦めてこちらの研究に没頭することにするよ」
 ベスとはけっこう長い付き合いになるけれど、ひとつの研究対象にこれほどのめり込むのは初めてだと言っていい。それだけこの次男の存在は興味深くて、ベスでさえも未だかつて出会ったことがないほどの謎に満ちているのだろう。
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白石の城20
 僕は以前、一二三に「1年の勉強以外はしなくていい」と言った。それでも一二三が口にしたということは、それがどうしてもかなえてほしい願いだったからだ。
「いいよ、教科書ならそこにあるから自由に使って。……数学の勉強がしたかったの?」
「……まだ、見ないと解けない問題があるから、それだけ」
「だったらそのうち3年生の教科書も必要になるね。僕が機会を見てそろえてあげるから」
 一二三が驚いたように僕を見上げて、そんな一二三の様子を微笑みながら見つめていると、やがて彼女の表情が徐々に笑顔に彩られていった。あまりのあっけなさに僕の方が呆然としてしまった。こんな簡単なことでよかったのか? 彼女が望んでいることは、僕にとってはこんなに簡単なものだったのか。
「ありがとう、美幸」
「いいえ、どういたしまして。一二三に喜んでもらえて僕もうれしいよ」
 さっそく僕の教科書を持ってきて読み解き始めた一二三を見ながら、僕はいろいろなことに気づいていた。数学の勉強をする一二三がとても楽しそうに見えた。僕は彼女の行動を見ていつも「それはしなくていい」とか、彼女が言いもしないことを先回りして「これは僕がやるよ」などと言ってばかりいた気がする。さっきも僕が「心配は要らない」と言ったことで訊きたいことも訊けずにあっさりと引き下がっていた。一二三は自分の希望をなかなか口に出せない子だ。僕の一言で、彼女はどれくらい多くのものを諦めてきたことだろう。
 彼女が人間を救おうとすることにも理由がある。その理由までは、僕には理解できないけれど、僕は彼女の希望をできるだけかなえてあげなければいけないのだろう。そうして口に出される希望はほんの一部だ。だけど、譲れないからこそ一二三はそう口にするのだから。
 それから数日、僕は何もせずにぼんやりとしたまま過ごしていた。こんなにのんびりと日々を過ごすのも久しぶりのことだった。この2年、僕たちはできるだけ早く活動開始前の種に追いつこうと、必死になって種の回収を続けていた。僕たちが遅れれば遅れただけ通り魔殺人の被害者たちが増えていったから。時間に追われる毎日で、こうして待つだけの時間というのはなかったのだ。
 やがて、待ちかねていたベスからの報告があった。メールや電話では説明しきれないからと、再び僕たちは屋敷に呼び出されたのだ。
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白石の城19
 屋敷に2晩世話になって、翌朝僕たちは由蔵に見送られて帰路についた。研究対象を見つけたベスが地下から出てこないのはいつものことだ。血液検査の結果については、あとでメールで送ってくれることになっている。
 僕たちがアパートに辿りついたのは午後になってからだった。吸血鬼は全般的に暑さに弱い。帰ると同時にクーラーをかけて、扇風機を全力で回した。それでも耐えられなかった僕は一二三に断って水のシャワーを浴びたあと、ようやく落ち着いてユニットバスを出ると、部屋の中も程よく涼しくなっていた。
 入れ替わりで一二三がシャワーに行き、独りになると僕はまた考えてしまう。人間と関わるということについて。もう、30年近く前になるだろうか。柿沼と友達になったとき、僕はいったい何をどう考えていたのだろう。
 そう、僕の方から正体をばらしたんだ。満月の夜に偶然理恵子と会って、彼女を助けたいと思った。あの頃、僕には何も守るものがなかった。僕が人間を殺しても何も感じなくなったのは、一二三と出会ってからのことだ。
「 ―― 美幸」
 風呂場から出てきた一二三が、僕の顔を覗き込んで声をかけてきた。気づいて笑顔を向ける。
「美幸、どうしたの?」
「どう? 別にどうもしないよ」
「……なんか、今日はずっと変だから。美幸が変だとあたし……」
「気になる? ごめんね。ちょっと考え事をしているだけだから、心配は要らないよ」
 僕がそう言うと、一二三はそれ以上話を蒸し返したりはしなかった。
「美幸、お願いがあるの」
「なんだろう、一二三が僕にお願いなんて。僕でできることなら何でもするよ」
「……教科書、貸してほしいの。2年生の数学の」
 よほど言い出しづらかったのだろう。一二三は顔を真っ赤に染めて、すっかりうつむいてしまっている。
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白石の城18
 実際のところ、ベスが言ったことが僕の苛立ちの原因の1つであることに間違いはなかった。僕は人間と関わりながら年月を重ねて、やがて人間を「吸血鬼の食料」という位置に置いた。吸血鬼というものを1つの生物の種類として認識していたからだ。だけど、吸血鬼が「別の生物に寄生された人間」だとするとまた話は変わってくる。それは僕の結論を根底から覆すほどのものだったのだ。
 食事をしながらそんなことをぼんやりと考えていたとき、不意に由蔵が言った。
「美幸さんには、話しておかなければなりませんね。……私は、柿沼さん夫妻を養子にしようと思っています」
 柿沼というのは、僕の古い友人で、僕たちの身体についてもよく知っている人物だった。一二三を変化させた6年前、僕は一二三を手に入れるために、柿沼たちの助力を必要としたんだ。そのときに2人は由蔵とも知り合っている。そのあと両者の間でどんな交流が行われたのかは知らなかったけれど、こうして由蔵が僕たちに発表するということは、既に彼らとの話は済んでいるのだろう。
「養子に? いったいどうして」
「美幸さんには実感がないかもしれませんが、79歳というのは自分の死を準備する年齢なんですよ。ご存知の通り、私には子供がおりませんからね。今後この屋敷を管理したり、美幸さんたちのお手伝いをする人間が必要になります。柿沼さんたちはまだお若いですから、すぐにここへ移り住んで、ということは無理でしょうが、私の死後に時折ここへ通っていただくことへの了承は得ました。夫婦養子という形で、この城の権利と、私のささやかな財産を相続していただきます」
 見ると、ベスは静かに食事を続けていて、口を挟む気配はなかった。由蔵は僕の友人でもあるけれど、もともとはベスの友人だ。ベスは彼を仲間にしようと1度も考えなかったのだろうか。そして由蔵は、ベスによって永遠の命を得たいと本気で考えたことはないのだろうか。
「……お互いにそう決めたのなら、僕には何も言うことはないよ。柿沼たちは信頼できる人間だから」
「ありがとうございます。これで私も、のちに憂いを残さずに旅立つことができます」
 もう1つ、僕は発見した。僕の苛立ちの原因のもう1つは、ベスが描いた臓器の絵によって自分の死を見せつけられたことだ。
 由蔵の言うとおり、僕には自分がいずれ死を迎えるという実感がない。だけど僕だって死ぬこともあるんだ。誰かが僕の心臓に杭を突き立てたら、僕の身体の細胞はどろどろに崩れて、死体さえ残さずに消えてしまうことだろう。
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白石の城17
 もちろん僕だって、昨日ベスに言われるまで自分の身体の仕組みになど興味はなかったのだ。
「それじゃ、どうしてあの臓器のことをベスは知ったんだ?」
「これは一二三には言わないでほしいんだけどね。……2年前だっけ? 君たちと大河のことで話したあと、私なりにいろいろ調べてみたんだ。200年ほど前に同じ事例があって、種を回収する方法については知識だけはあったのだけど、直接私が関わった訳ではないからやはり詳しくは知らなくてね。人間の死体の入手先に心当たりがあったから、何体か人体実験をしてみたんだ」
 ベスの表情はあまり見せない沈んだ色をしていた。たとえそうじゃなかったとしても、僕も一二三にはなにも話せないと思った。
「心停止後、だいたい1時間以内であれば、私たちは死体を吸血鬼としてよみがえらせることができる。吸血鬼の生殖体液を注入したあとおよそ90分後に3つの器官の組成が始まって、全身が吸血鬼化されるのに丸1日くらいかかったよ。私は死体の胸を切開した状態で観察したんだけどね、すぐに傷がふさがってしまって、しかも麻酔もなにも効かないから大変だった。最後には3人がかりで押さえつけて例の器官を無理矢理切り取ったよ」
 ……元は、人間の死体だ。どういういきさつで死んだのかは知らないが、ベスが関わらなかったとしてもそれ以上生きることのできない人間だった。その死体をベスは吸血鬼に変えて、生き返ったあと殺した。これは果たしてなんだろう。人間が人間を殺すのと同じく、吸血鬼が吸血鬼を殺したということではないのだろうか。
 僕は少しナーバスになっているのかもしれない。それは、昨日ベスに「寄生生物」と言われたときに揺らいだものだ。
「 ―― で、美幸は自分が別の生物に寄生されている人間だという新たな認識を得て、人間とのかかわりについて自分が出した結論がもしかしたら間違いだったかもしれないとでも思っているのかな?」
 考え込んでいた僕はベスの言葉に驚いて顔を上げた。
「その顔は図星だね。……美幸、2つ以上の矛盾する事象に出会ったとき、そのうちのどれかを否定するのはよくないよ。私たち研究者なら、そのどれもが証明できる新たな数式を探し出す。なにも結論を急ぐことはないんだ。君も、一二三も」
 まるで何もかもを見抜いているようなベスの言葉に、僕は一言も反論することができなかった。
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白石の城16
「ベス」
 僕が声をかけて、かばんの中から採取した血液と毛髪をテーブルの上に移すと、気づいたベスは振り返った。
「ああ、ありがとう。すぐに分析してみるからね。由蔵に夕食ができたら呼ぶように伝えてくれる?」
「判った。……ベス、昨日の話なんだけど」
 今日、電車を乗り継いでいる間、僕にはずっと引っかかっていたことがあった。正確には昨日の夜からだ。あの、ベスが僕の身体に描いた3つの臓器。それが寄生生物のようだと言われたときから、僕は自分でも理解できない苛立ちを覚えていたのだ。
 ところが、僕の声が届いた瞬間、ベスは笑顔で立ち上がって僕を抱きしめたんだ。
「そうか美幸! やっとその気になってくれたんだね! 私はうれしいよ!」
 まさかそんな反応が返ってくるとは思っていなかった。僕たちは満月期の3日間以外、ほとんど性欲は感じない。いや、ほとんどというより皆無だと言った方がいい。ベスだって僕と同じ身体を持っているはずだ。
「そっちじゃない! ベス、いいかげん僕をからかうのはやめてくれ。僕は見かけどおりの子供じゃないんだ」
「なにを言ってるんだ。私に言わせればたかが100年も生きていない吸血鬼なんて子供も同じだよ。見かけがどうであろうと関係ないね」
「判った、判ったから。頼むよ、腕を放してくれ。これでは話もできない」
 そうしてようやくベスを引き離し、隣に椅子を引いてきて落ち着くと、ニヤニヤしたままのベスが言った。
「で? 昨日の話って? 一二三のことか?」
「いや。……吸血鬼の臓器が寄生生物だと言っていただろう? その話をもう少し詳しく聞きたくて」
「そうか。でも、詳しくといわれても、私にもあれ以上のことは判らないんだ。知っての通り、吸血鬼は死んでも死体が残る訳じゃないからね。例の器官が破壊されて死に至ると細胞がバラバラに溶けてしまうから解剖ができない。怪我は自動的に完治するし、そもそも病気にもならないし、その方面では私たちはずいぶん後れていると思うよ」
 確かに、人間のように怪我や病気で悩まされることがなければ、あえて自分たちの身体の中を覗いてみようなどとは思わないだろう。
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白石の城15
 翌日の土曜日、僕は再び電車を乗り継いで、3人目の宿主太田早苗の家を訪ねた。早苗の夫は月に1度、週末に帰ってくるようだけれど、先週帰ってきたばかりということで運はいい。だけど次の満月は土曜日だ。早苗にもそれとなく話しておくべきだろう。
 僕はてきとうなことを言いながら家に上がり、迫られないうちにと早々に早苗と子供たちを眠らせて採血したあと、ベスに言われたとおり髪の毛の採取を済ませた。それから取って返して屋敷へ戻る頃は既に夕方というよりも夜に近い。迎えがなかったので勝手に入っていくと、厨房の方から一二三の声が聞こえた。
「 ―― こんな感じでいいの?」
「そうです。一二三さん、以前よりも手つきがさまになってきましたね」
「このところ自分で作ることが多くなってきたから。でも由蔵さんにはぜんぜんかなわないよ」
「私は独り暮らしが長いですからね。それにジョルジュさんが食事にうるさい人なので、少し鍛えられたところもあります」
 一二三の声が、僕と2人きりでいるときよりもずいぶん明るい気がした。もちろんそのまま立ち聞きしているつもりはなかったから、軽く壁を叩いて姿を見せると、振り返った2人のうち由蔵が笑顔を見せ、一二三が笑顔を消した。
「お帰りなさい、美幸さん」
「ただいま。ベスは?」
「地下室においでです。お帰りになられたら地下にきてほしいとことづかってます」
「そう。それじゃ行ってくる。……一二三、夕食、楽しみにしてるよ」
「……うん」
 僕はいつものように一二三に笑顔を向けたけれど、うつむいた一二三が笑顔を返してくれることはない。もう、どのくらいこんなことを繰り返しているだろう。由蔵になら見せられる笑顔が、どうして僕には見せられないのだろう。
 この城の地下にはベスの研究施設がある。僕が立ち入ることはめったにないけれど、おそらく普段は由蔵が整えているのだろう。僕には訳の判らない機械類が並べられた部屋の中央部にある作業台の前に座って、ベスはノートパソコンを扱っていた。
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白石の城14
 なるほど、確かに血液を調べれば、次男が吸血鬼かどうかはすぐに判るだろう。種の宿主である母親の血を取るのも判る。だけど長男の血まで取る必要があるのか?
「どうして長男も取るんだ? この子は大河とは関係ないはずだろう?」
「DNAを調べたいと思って。本当は父親のサンプルが取れれば1番いいんだけど、単身赴任中じゃそれも無理だからね。両方とも男の子だから親子鑑定は兄弟のY染色体を比較検査すればほとんど間違いないと思うんだけど、念のため母子のDNA鑑定もやってみる。あと、ヘアブラシに残っている髪の毛ぜんぶと3人分の髪の毛も毛根つきで数本ずつもらってきて。運がよければ父親のDNAも手に入るから」
 そうか。もしも次男が父親のDNAとはまったく別の遺伝情報を持っていたら、この子が大河の子供である可能性が出てくる。逆に父親の子供であることが確認できれば、大河もほかの吸血鬼と同じく生殖機能を持っていない確率が高くなる。
「判った。明日にでももう1度行って取ってくる」
「頼むよ。それと、ついでだから話しておくね。……一二三のケースと同じように、大河の場合もこの生殖器官に異常があるんじゃないかと、私は考えている」
 ベスは再び、僕の胸に描かれた3つの袋の、1番小さな袋をペンの先でつついた。刺激を受けた僕の身体がひくっと震える。
「もしもこの先大河を保護することができたら、今の段階では外科手術を施すことしか私には思いつかない。つまりこの、生殖器官を丸ごと切除してしまうことだね。おそらくこの器官もすぐに再生されるだろう。そのとき正常な器官が再生されるか、それとも異常を持ったままか、確率は5分といったところか」
 ベスのその言葉には、僕より先に一二三が反応していた。
「それでもし、異常な器官が再生されたら、大河はどうなるの? もう治らないの?」
「治してあげたいけどね。もしもそうなったときには、それ以上私たちにできることはないよ。……この器官を切除してしまうしか」
 ベスがペンで指した部分を見て、一二三が息を飲んで絶句する。
 ペン先は、僕の心臓に1番近い部分にある、中くらいの大きさの器官を指し示していた。
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白石の城13
 ベスは僕を脇に立たせて、そのあと僕の背後でスーツケースを開けて何かを取り出す気配がした。戻ってきたベスは一二三に向かって説明を再開する。
「一二三、よく見ておいて。私たちには人間にはない3つの器官がある。だいたい心臓の近くのこのあたりだ」
 言いながら、ベスは僕の身体にサインペンを走らせたのだ。首のあたりから延びる線と、心臓の上あたりに大きさの違う袋のようなものを3つ描く。あまりの非常識さに一瞬言葉が出なかった。
「あ、あのなあ! なんで僕の身体にそんなものを描くんだよ!」
「描いた方が判りやすいからだよ。ここへホワイトボードを持ってくるのは由蔵では体力的につらいし、かといってそれがある部屋まで移動するのも時間の無駄だろう? 美幸の肌は白くて滑らかだから描きやすいし。それに大丈夫。これ、水性ペンだからシャワーで落ちるよ」
 そう言って僕の胸をぺろっと舐める。確かに線の一部は消えていたけれど、それよりも僕は背筋がぞわっとして気持ちが悪かった。
「いいから動かない。おとなしくしていればすぐに終わるから。で、この1番大きな器官は舌に直結していて、人間から吸い取った血液をためて消化する器官だ。2つ目の胃袋だね。そのすぐ隣にある小さいのは人間を仲間に変える体液を貯蔵しておく器官で、言ってみれば生殖器のようなものだ。一二三が大河を変化させたときにはこの器官に異常があったのだろうと推測される。最後の1つは、私たちの身体の機能をつかさどる。ここが壊れると私たちは死ぬ。伝説で吸血鬼の心臓に杭を打ち込むというのは、実はこの器官を破壊するためなんだ。逆に、この器官さえ無事なら私たちの身体は再生する。たとえ心臓が止まっても、脳が破壊されても、ちゃんと生き返るって訳だ」
 それは僕でも初めて聞く話だった。ベスが必要に応じて身体に線を描き入れるのはくすぐったくもあったのだけど、それ以上に僕はベスの話に引き込まれていた。
「こうして見ると、吸血鬼というのはある種の寄生生物が人間に取り付いている状態だとも言えるだろうね。もちろんだからといってこの器官だけを切除しても私たちが人間に戻ることはできないのだけど。で、これらの器官は独自の酵素やたんぱく質を体内に放出しているから、私が血液検査をすれば簡単に発見できるんだ。だから美幸、早苗と子供たち2人の血液サンプルを取ってきてくれる?」
 そう言って、ベスはスーツケースの中から採血用の試験管を3本取り出した。
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白石の城12
 それは僕も初めて聞く話だった。あの時、僕は祥吾の背後から襲い掛かって、刺し殺したときには既に気絶したあとだった。あの瞬間に祥吾の顔を見ていたのは一二三だけだったんだ。
「確かにそれは気になるね。36月目なら種はまだ未熟なはずだから、なにか種を成熟させる要因があったとしか思えない。一二三、そのときの状況を詳しく話して」
 一二三は時々記憶を辿るように言葉を切りながら、それでもできるだけ正確にと思って状況を話したのだろう。そこには僕が知らなかった広田とのやり取りや、祥吾があの場所に現われたタイミングなど、細かな情報が織り交ぜられていた。
「 ―― なるほど。それじゃ、状況を整理しよう。これまでの満月で、37月目に満たない宿主に接触したことはある?」
「今回が初めてだと思う。前回のときに追いついて、祥吾が36月目だったから」
「いや、僕は昨日3人目の女性に接触しているよ。まだ35月目だ」
「とすると、可能性がある成熟の要因は4つだね。美幸よりも近い血を持つ一二三が近くにいたか、一二三と美幸の2人が同時に接触した。広田という成熟した宿主がそばにいた。あるいは、その祥吾という宿主の身体的または精神的なものが原因である、か」
 さすが、もともと研究者であるベスの分析は的確だ。僕は感心していたのだけど、やがてベスが言った言葉には驚きを隠せなかった。
「美幸、ちょっと上半身だけ裸になって」
「は? なんでだよ。どうして僕が……」
「一二三を裸にする訳にはいかないだろ? 由蔵のシワだらけの身体なんて誰も見たくないだろうし、美幸が適任なんだ。いいから脱いで」
 ベスの真剣な表情に押されて反論もできず言うとおり脱ぎ始めると、それを確認してベスは説明を続けた。
「祥吾の件は条件を整えて可能性を減らしていくしかない。さしあたり、この次の満月には2人で宿主のもとへ出向いてみるのがいいだろうね。それで変化が起こったら今度は一二三が1人で出向いてみればいい。とりあえずは女性の宿主のことだ。美幸、彼女の名前は?」
「太田早苗だ」
「早苗ね。……美幸、脱いだらここに立って。これから大切なことを説明するから」
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白石の城11
 過去に1度だけ、一二三にキスしたことがある。大河の種を取り出すためには宿主にキスするか、宿主とSEXするかしかないと知ったとき。誰よりも先に一二三の唇に触れておきたかった。そのとき初めて、自分の心の中に住み着いている猛獣の存在を知ったんだ。
 一二三のすべてを望んでいるのは僕の方だ。だからあれきり触れられなかった。何もかもめちゃくちゃに壊してしまいそうで、怖くて。
「一二三、顔を上げて、僕の方を見て」
 僕は一二三が座った椅子の背もたれに両手をついて、視線の位置を合わせた。顔を上げた一二三が息を飲んだのは、思いのほか僕の顔が近くにあったからだろう。一二三の涙はまだ止まらない。それでも必死で目を開ける一二三はけなげで愛しかった。
「昨日僕が言ったことを気にしているの? 最近ずっと笑ってくれなかったって。だから僕に謝るの?」
 一二三の左耳に入るように少し顔を傾けて、落ち着いた低い声を聞かせる。さっきのベスから学んだテクニックだ。一二三もいつもとは違うものを感じたようで、少し肩をすくめるようにしたあと首を振った。だけど声は聞けない。
「こんなに泣いて。一二三を泣かせているのは僕だね。でも、僕の前で泣いてくれるのも嬉しいよ。だって僕は、一二三のことなら何でも知りたいんだ。僕にどうしてほしいのか、それが知りたい。どうしたら、一二三が見ず知らずの人間よりも僕を選んでくれるのか」
 そう、言い終えたとたん、一二三がさっとうつむいた。あとは何を言っても首を振るだけだった。そのうちにベスと由蔵が夕食を運んできて、4人で広いテーブルを囲んで食べながらしばらく考えて判った。キーワードは「人間」だ。
 やはり、一二三の目の前で祥吾を殺したことが響いているのかもしれない。
「 ―― それじゃ、その宿主の子供が大河の子の可能性がある訳だね。そうじゃなかったとしても、少なくとも私たちと無関係じゃない」
 食後の同じテーブルで、僕の話を聞き終えたベスがそう言ったあと、口を開いたのは表面的には冷静さを取り戻していた一二三だった。
「もう1つ気になることがあるの。話してもいい?」
「いいよ。話してごらん」
「2人目の宿主の祥吾は、今月で36月目だった。それなのに、どうしてだか判らないけど、死ぬ直前に種が発動していたの。あたしを襲ったときの祥吾は、間違いなく種の殺人者の気配を放っていたから」
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白石の城10
「……背中から睨み殺されそうだから、私は由蔵を手伝ってくるね。夕食を運んでくるから、それまでに落ち着いて。ね?」
 一二三がうなずいたのを確認したのだろう、振り返ったベスは、かなり冷たい目をして僕を睨み返してきた。この程度の冗談で泣いてしまうほど一二三を追い詰めたのは僕だ。ベスの視線に僕が感じたものは、実際にベスが言いたかったことと大差はないだろう。
「例の件、仲間内にもそれとなく当たってみるよ。それじゃ、一二三のことは頼むね。よく謝っておいて」
 顔の表情を大幅に裏切る優しい声色でそう告げたあと、ベスは部屋を出て行った。こういうところはまったくかなわないと思う。僕ではなく彼が恋人だったら、一二三もこんなに追い詰められることはなかったはずだ。
 うつむいたまま涙を止められずにいる一二三に、僕は近づいていった。食卓の椅子を引いてきて、声をかけて一二三を座らせる。おそらく僕の前ではずっと我慢してきたのだろう。僕ひとりでは彼女が泣くきっかけさえ与えてやれなかった。
「ごめんね、美幸。……ごめんなさい」
「どうして謝るの? ベスだって言ってただろう? 君は少しも悪くない。悪いのは僕たちをからかおうとしたベスの方だよ」
 ベスの言葉尻に乗って責任を押し付けておく。この程度のことは、ベスならきっと許してくれるだろう。
「ごめんなさい。あたし……笑えなくて……」
「……一二三?」
「美幸が笑いかけてくれるのに、あたしからは笑えなくて。こんな、泣くことしかできなくて。……自分でも、こんな自分は嫌いなの。だから、美幸があたしのことを嫌いになったって ―― 」
「嫌いになんかならないよ。だって、どうして僕が一二三を嫌いになるの? 僕は一二三のことが好きだって、昨日もそう言ったでしょ?」
 こんなに、こんなにかわいくて、愛しくて、ただベスが抱き寄せただけで胸が熱くなるくらい好きなのに。
 たかが人間を助けるためにと一二三がほかの男とキスするたび、僕は胸が焼け付くような嫉妬を感じる。世界中の人間を殺し尽くしてしまいたくなる。一二三に触れた瞬間に理性が飛びそうで、だからキスさえできずにいた。
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白石の城9
「はい、どうぞ」
 僕が口を挟む暇もなく、ベスの返事に扉を開けたのは一二三だった。一二三が僕たちの姿を見て固まったのが判る。
「一二三、違う、これは ―― 」
「悪いんだけど一二三、今夜は私に美幸を貸してもらえるかな? なにしろ昨日は急な呼び出しで、確保しておいた女の子と何もできなかったものだから。大丈夫、一晩だけで明日にはちゃんと君に返せるよ。もちろん大切に扱うし」
「嘘だ一二三! 頼むから助けてくれ。僕には男とベッドでどうこうする趣味なんかないんだ」
 一二三は少しの間僕とベスとを交互に見て、ふっと息をついた。
「うん、美幸も昨日は家にいたし。確か先月もそれどころじゃなかったし。……あたし、何もしてあげられないから」
 一二三はこの手のことをこんなにはっきり口に出せる子じゃない。一瞬意外に思って、今日がまだ満月期なのだと気づいた。一二三が本音を言うことができるのは満月をはさんだたった3日間だけだ。やはり一二三は、僕が未だ彼女に何もしていないことを気にしている。
「本当にいいの? 嬉しいなあ。私は前から1度この手で美幸を酔わせてみたかったんだ」
「美幸は綺麗だよ。それに、色っぽいと思う。結城先生のときは気持ち悪いとか言ってたけど、相手がベスだったらきっと美幸だって……」
 不意に僕を拘束する腕が緩んで、僕はベスに放り出された。僕を放り出したベスはまっすぐに一二三に駆け寄っていく。そのとき、一二三が口元をゆがめて、一筋ずつ涙を流したのがちらっと見えた。すぐにベスの身体にさえぎられて見えなくなったから、一瞬だけ。
「ごめん一二三! 君を泣かせるつもりじゃなかった。ただほんのちょっと美幸をからかっていただけなんだ。もちろん美幸は同意なんかしてないよ。誰より君のことを1番大切に思ってる」
 言いながらベスが一二三のことを抱き寄せたから、その瞬間に僕の胸が熱くなる。きっと僕も満月期の影響を受けているのだろう。普段なら許せる行動にいちいち身体が反応する。
「……ごめんなさい、あたし。冗談なのに、泣いたりして」
「君が謝ることじゃないよ。すべて私が悪いんだ。実際ここまで煮詰まってるとは思ってなくて」
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白石の城8
「それもいずれ教えてもらえれば助かるけど。……僕が教えてほしいのは、僕たちの身体の治癒力についてだ。たとえば僕は身体に怪我を負ったとき、ほぼ完璧に再生する。怪我の痕跡すらも残らないほど。……その、女性の身体にも、そういうことは起こるのか?」
「なるほど、君が引っかかっているのはそういうことか」
 言葉はかなり濁したけれど、ベスには僕の言いたかったことが完璧に伝わったようだった。これが、僕が6年間も引きずっている、僕にとっては最大の問題だったんだ。額に触れて考えているベスを辛抱強く見守っていると、やがてベスは顔を上げて少し意地悪そうに笑った。
「なんだったら先に自分の身体で試してみるかい? なあに、私は優しいから心配は要らない。ヴァージンとの接し方も教えてあげられるし、一石二鳥だと思うけど?」
 言いながら僕の身体を抱き寄せて拘束したから、正直僕はあせってしまった。相手が人間ならそれが男でも逃げる手段はいくらでもある。だけどベスは吸血鬼で、細身ではあるけれど成長期の僕よりはずっと体格に恵まれているんだ。力で抑えられたらどうすることもできない。
「冗談はやめろよ。僕は男には興味がないし、ベスだってそうだろう?」
「興味くらいならあるよ。これだけ長く生きていればね、それなりに経験だってぜんぜんなくはないし。それに美幸くらい綺麗な少年を目の前にしたら、たとえノーマルな男だって同性に目覚めると思うけどね。どう? まじめな話、1度私と寝てみないか? 一二三を理解するためにもかなり有効な手段だと思うが?」
 と、僕なんかよりもずっと綺麗な顔をしたベスは言った。これだけ近くにベスの綺麗な顔があって、低く落ち着いた声で甘い言葉を聞かされたら、たとえその気はなくても流されそうになる。一瞬、失いかけた冷静さを、僕はあわててかき集めた。
「ベス、頼む。僕をからかうのはやめてくれ。僕は一二三以外と寝るつもりはない」
「人間の女性となら寝るのに?」
「彼女たちは通りすがりの食料だ。血をもらう代わりに身体を幸せにしてあげている。ただそれだけだよ」
「それも一二三を傷つけているひとつの要因だと思うね。もう、いいから寝てしまいなよ。その先のことは2人で考えていけばいい」
 それができるのならベスになんか相談したりしない。そう思ったそのとき、部屋の扉がノックされた。
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白石の城7
 断り文句を探している一二三が何か言うよりも早く僕が答える。
「申し訳ないが僕は1階の、以前使っていた部屋を使わせてもらうよ。その方が落ち着くから。でもせっかくの心遣いだから、2階の部屋は一二三が独りで使うといい。由蔵さん、悪いけど一二三をその部屋へ案内してもらえるかな?」
 一二三はほっとしたようで、ベスに一礼したあと由蔵のあとについて部屋を出て行った。案の定、僕たちの言動から真実を見抜いたベスが溜息をつく。
「まさかまだ寝ていないとはね。美幸、君と一二三とはいったい何年になるんだ?」
「6年。……あれからもう6年が経つよ」
「なにごともそうだけどね、美幸。そこに努力が伴わなければ現状維持というのは成り立たないんだよ。人は進歩することで初めて手にしたものを失わずに済むんだ。君が同じところにとどまっていては、いつか一二三は君から離れていくよ」
「判っている ―― 」
「判ってない! 君は一二三を軽く見すぎてるよ。ほんの少しでも一二三の気持ちを考えたことがあるのか? 一緒に暮らしているのに抱かないなんて、こんな残酷な仕打ちはないだろ」
 本当に判っている。一二三が不安に思っていることも、何か確かな絆のようなものを求めているのだということも。この6年ですれ違ってしまった心は、身体を重ねることで再び近づける部分もあるだろう。だけど、僕は怖いのだ。1度一二三を抱いてしまったら、再び今のような関係に戻ることはできないだろうから。
「ベス、もしも知っているのなら教えてほしい。……一二三は、あの子は、1度も経験がないんだ」
「……まあ、身体は15歳だと言っていたし、見ればその程度のことは判るけど。で? ヴァージンの抱き方でも教えてほしいのか? そのくらい、君の方がよく知っているだろう?」
 それは誤解だ。僕は少なくとも、初めてだと判っている相手をこちらから誘って寝たことはない。そうと告げられずにいてヴァージンにあたったことがまったくないとは言わないが。
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白石の城6
「マギーも相変わらずだね。エネルギッシュで」
「ノンノン。この間研究が一段落してね、そのときに名前を変えたんだ。今後私のことはベスと呼んでくれたまえ」
 マギーのときも驚いたが、今度はベスか。外見はどう見ても男性にしか見えないのに名前はずいぶんと女性的だ。
「ベスね。できるだけ早く慣れるようにするよ。それにしても思いのほか早く来てくれた。本当に助かったよ」
「メールをもらったときたまたま中国にいたんだ。ラボの研究にあらかた目処が立ったから、今度は風水を研究しようと思ってね」
「風水?」
 これはまた思い切った転向だ。今までは確か遺伝子関係の研究をしていたはずだから。
「ほら、たとえばこのお化け屋敷。私たちには一種聖域のような雰囲気があるだろう? 私がこの土地に城を建てようと思ったのも、もともとの土地の雰囲気というか、やはり感じるものがあったからなんだ。そういう何かを科学的に分析できるんじゃないかと思ってね。……一二三、おとなしいけど疲れたんじゃないかい?」
 マギー改めベスは、一二三が所在なさ気に立ち尽くしていることに気がついたようだ。だが別に一二三がおとなしいんじゃない。ベスが彼女にしゃべる隙を与えていなかっただけだと思う。
「あ、あの、……ベス、今日はわざわざきてくれてありがとう。それと、いつもあたしたちのこと、生活費とか、気にかけてくれて」
「ああ、そんなこと。別に気にすることはないのに。私たちには教育資金も老後資金も不要だからね、ふつうに働いているだけでお金は無尽蔵に増えていくんだ。手元の資金の運用益だけでも一二三を100人は養えるよ。だから気にしないで、ね?」
 そう言いながらベスは、小柄な一二三の目線まで膝を折ってウインクしてみせる。まるっきり子供扱いだ。実際、ベスに比べたら僕でも子供のようなもので、一二三に至っては生まれたばかりの赤ん坊と同じような感覚なのだろう。
「さあて、もうすぐ夕食にするつもりだけど、先に荷物を置いてきた方がいいね。2人には2階の部屋のダブルベッドを整えておいた。由蔵が案内するから」
 一二三がほんの少しだけ反応を示したのが判った。
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白石の城5
 僕たちが屋敷と呼んでいるのは、実は西洋の城を日本に移築した建物で、本来ならば城あるいは館とでも呼ぶべき建造物だった。明治時代にわざわざ船を連ねて城を運んできたのは現在マギーと名乗る外国人で、国籍は不明、外見年齢は20代半ば、本当の年齢は僕にも想像がつかない。僕たちがこれまで何不自由なく暮らしてきたことにも、マギーは多大なる助力をしてくれていた。たとえば日々の生活費さえ、学生の僕たちにはどうすることもできなかったんだ。
 電車を乗り継いで僕たちがその城に辿りついたのは既に夕方で、森に囲まれた古い城は屋敷の呼び名の由来となったお化け屋敷然とした雰囲気に包まれていた。もちろん1番高い尖塔のあたりにはしっかりとコウモリが住み着いている。全体に石造りで、一見中世の時代に紛れ込んだようにも思えるのだけど、中の各部屋は改装が施されていて住み心地はいい。僕は最近では一二三が変化した6年前から大河のことがあった5年前までの1年足らずをこの城で過ごしていたけれど、それ以前も何か困ったことがあるとこの城に逃げ帰った覚えがある。
 だからこの城は、僕にとっては帰ることができる家のようなもので、唯一ほっとできる場所だった。
「 ―― おかえりなさい、美幸さん、一二三さん。ジョルジュさんは既においでになってますよ」
 玄関で迎えてくれたのは人間の由蔵さんだった。痩せていくぶん背中の曲がった老人の彼は、年齢的には僕とさほど変わらないのだろう。この屋敷の管理をしてくれている人で、僕たちのことも理解している。数年に1度名前を変えるマギーのことを、最初に覚えた名前だという理由でいつでもジョルジュと呼んでいた。
 由蔵は僕たちを食卓のテーブルがある部屋へと案内してくれた。窓辺に立って背を向けていたマギーは、僕たちの気配に気づいて振り返ると満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「美幸! 一二三! 久しぶりだね。でも2人ともぜんぜん変わってなくて嬉しいよ!」
 そう言うと僕たちをまとめて両腕に抱きしめた。このテンションの高さも、過剰なアクションも、変わりようのない僕たちにあえて変わってないなどと平然と言えるセンスもマギーの特徴だ。その強引なハグから解放されるまで待って、僕はようやくマギーの顔を見上げる。
 以前は長く伸ばしていた銀髪は、長いところでも5センチはないだろうと思われるくらい短く刈り込んでいた。だけどそれ以外はマギーも変わっていない。青く澄んだ目は優しい表情をして僕たちを見下ろしている。
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白石の城4
 種の宿主にはこの特徴は現われない。だからこの次男は、今まで僕たちが見てきたのとはまったく違う存在なのかもしれなかった。
「宿主の夫は現在単身赴任中で、宿主は実家の近くの一戸建てに親子3人で住んでいる。昨日僕は夜の8時ごろ訪ねていったんだけどね、僕のことを大河(たいが)だと思い込んで、わざわざ眠っている次男の顔を見せてくれたよ。その彼女に僕は、彼女が大河と肉体関係があったことをほのめかされた。……もしかしたら、その子は本当に大河の子供かもしれない」
 大河は約3年前、彼女に殺人の種を植え付けた。子供の年齢は2歳だから年齢的な不自然さはない。それに、宿主自身はその子供を大河の子供だと信じ込んでいる節があったのだ。
「そんなこと……! だって、あたしたちには生殖能力なんてないはずでしょう? もちろん大河にだって ―― 」
「そうは思うんだけどね。でも、大河は少し特殊なんだ。今までの僕たちの歴史の中でも、大河のような特殊な個体は記録がない。まあ、記録がないだけで、実際は200年近く前にも存在していたとマギーは言うんだけど。ともかく、それを確かめてからでなくては僕も動けなかったんだ。……殺してしまうのは駄目なんだろう?」
 僕の言葉に、ほんの少しからかうような声色が含まれていたのだろう。一二三は一瞬きっと睨みつけたあと、僕から目をそらした。
「……それで、あたしはどうすればいいの?」
「今のところはまだ何も。昨日のうちにマギーに連絡をしておいたから、今日にも屋敷にきてくれることになってる。彼の意見を聞いて、もしも種の回収だけでことが済むのなら、次男の方は君にお願いすることになると思うんだ。ただ顔に特徴があるというだけで、ごく普通に成長もしているようだから、次男が吸血鬼である確率は低いと思うしね」
 一二三は少しの間考え込んでいて、それきり僕が何も言わずに辛抱強く待っていると、やがて顔を上げて言った。
「美幸、あたしも一緒に行ってもいいかな」
「屋敷に? それはかまわないけど、一二三はそれでいいの? 君は以前あの屋敷が嫌いだって言ってたじゃない」
「マギーの話をあたしも聞きたいから。……大河のことは、あたし自身の問題だもん」
 もしかしたら一二三は、僕とマギーがその子供を殺す選択をする可能性を考えたのかもしれなかった。
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白石の城3
 満月の夜が明けて僕が目覚めたとき、一二三が部屋の小さなテーブルで鉛筆を動かしているのが見えた。起き上がって覗き込むと、彼女の前には数学の問題集が広げてある。確か数日前に本屋で買ってきたという大学受験用の問題集だ。もしかしたら一二三は一晩中眠れずにいたのかもしれない。
「おはよう、一二三」
「……おはよう」
 僕たち吸血鬼は本来夜行性なのかもしれないが、人間にまぎれて暮らすために夜は一応眠ることにしている。暗くすると目が冴えてしまうため、部屋の蛍光灯は一晩中つけたままにするのが常だ。
「一二三は本当に数学が好きなんだね。でも3年生の勉強まですることはないよ。君は1年生なんだから、1年生の勉強だけすればいい」
「……うん、判ってる。ちょっと眠れなかっただけだから」
「もしかして、僕が祥吾を殺したこと、まだ怒ってる?」
 一二三はうつむいたまま無言でかぶりを振った。それは嘘ではないだろう。一二三にも判っているのだ。あの時の僕にはそうするしかなかったことを。だけど頭で理解できたとしてもそれを割り切れるかどうかはまったく別の問題だ。
 朝食後、僕は一二三に昨日あの場所へ現われることになった経緯を話した。
「 ―― それまで何度か宿主の姿は確認していたんだ。だけど、子供を見たのは昨日が初めてだった。もっと早く確認しておけばよかったよ。でも、そのおかげで君を助けることができたから、僕としては満足しているけど」
「……子供? 確かその女性には2人の子供がいるって」
「ああ。1人目の男の子は10歳になるんだけど、この子は普通だった。問題なのは2歳の男の子の方だ。……顔にね、僕たちと同じ、吸血鬼の特徴がある」
 僕たち吸血鬼は人間を捕食する。そのための進化なのだろう、僕たちの顔は、人間が美しいと感じる特徴を持っているんだ。僕も一二三も、吸血鬼に変化したあとは同じ特徴を持つ顔に変わった。もっとも僕は人間でいたときの自分の顔など既に忘れてしまっていたけれど。
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白石の城2
 僕が成長しない吸血鬼という存在に変わってから、おおよそ60年くらいは経っているのではないかと思う。それ以前、自分が人間として過ごした17年間については、必死に思い出そうとしても浮かんでくるのは断片的な出来事ばかりだ。ただ、ひどい時代だったことは覚えている。家族を失って焼け野原をさまよい歩いていた僕は、いつも孤独で、空腹だった。
 時を止めた僕は吸血鬼として戦後の平和教育を受けてきた。人間の命は尊いと。平和というものがどれほど貴重かということを。だけど、どうして僕がそれを実感できただろう。周りの風景は時とともにどんどん変わっていく。それなのに、僕はずっと17歳のまま、人間の営みを見ていることしかできなかったのだ。
 人間は、次々に生まれて、生きて、死んでいく。僕という存在は、そんな流れからは完全に逸脱している。もちろん僕は学校に通うこともあったし、人間のクラスメイトと交流することもあった。だけど成長する彼らが時の流れの中で生きているのと違って、僕は完全に時に置き去りにされた存在だった。将来のための勉強など役に立たない。なぜなら僕には将来などやってこないのだから。同級生には政治家になったり、学者になったり、あるいはお笑い芸人になったりしたものもいたけれど、成長しない僕は彼らと昔を懐かしむこともできない。
 いつしか僕は割り切るようになった。人間とは食料で、僕の前を素通りしていくだけの存在だと。ごくまれに、僕の正体を知って、それでも変わらずに友情を結ぼうとする人間もいる。だけど人間の多くは僕にとって特別なものになどなりえない。彼らはたった数十年で死んでしまう存在なのだから。
  ―― あたしはやっぱり、自分が助けられる人間は助けたいよ。助けられるのが判ってるのに、やめたりできない ――
 一二三は戦後の平和教育を人間として受けてきた。人間1人1人の命は地球より重いのだという、僕に言わせればこれほど実情と合わないものはない言葉を未だに信じている。一二三にはまだ経験が足りないのだと思う。もっと長く吸血鬼として生きれば、たった1人の人間の命を救うことがどれほど無意味なことか判るだろう。この日本には1億人を超える人間がいるんだ。たかが数百人、数千人を失ったって、僕たちが餓えることはないのだから。
 だが、そうと割り切っていたはずの僕は、過去に自分が矛盾する行動を取っていたことも覚えている。6年前、一二三に人間としての死が近づいたあのとき、僕はどうあっても彼女を吸血鬼としてよみがえらせずにはいられなかったのだ。
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白石の城1
 気配を頼りに飛び込んだ路地で、最初に僕の目に入ったのがこちらに背を向けたまま怒声を上げる男だった。その男の向こうには、別の男の首にしがみついて、必死に力を抑え込んでいる一二三(ひふみ)がいる。2人目の男は既に種に支配されてはいたけれど、力は人間の馬鹿力程度だから吸血鬼の一二三にはかなわない。罵声を浴びせ続ける手前の男の口汚い言葉にも、一二三が怯んだりすることはなかった。
 手前の男は一二三をののしりながら、やがてナイフを取り出した。そして、身動きが取れない一二三に向かってまっすぐに走っていく。
「サエーー!!」
 刹那、怒りを意識する間もなく僕は男の何倍もの速度で男に迫り、ナイフが一二三の身体に届かないうちに脇腹に回し蹴りを喰らわせた。勢いで男の身体は宙に浮き、そのまま建物の壁に激突して意識を失う。一二三に刃物を向けた男を僕が許す理由はなかった。力を失った男の手にそれでもこぼれず握られたナイフを掴んで、僕は男の身体に突き立てた。
 空に浮かび上がる満月と、男が流す新鮮な血の匂いが僕を狂わせていたのかもしれない。いや、もしかしたら、この男が一二三にキスをしたと知ったときから、僕はこの男をそれ以上生かしておく気などなかったのか。不要なほどに何度もナイフを突き立てるうち、男のポケットから小さな箱がこぼれ落ちた。たとえ血にまみれていてもそれが何なのかは判る。中に入っているのは、おそらく一二三のために男が用意した指輪だった。
 こんな男など何度だって殺してやる。ナイフを握った右手が血にまみれてすべっても、かまわずナイフを落とし続けた。噴き出した返り血に視界を半分閉ざされて、ようやく僕は立ち上がる。きっと今の僕は、その名の通り鬼のような姿をしていることだろう。
「……美幸(よしゆき)! どうして ―― 」
 背後からの叱咤の声で、僕は振り返った。一二三が血まみれの僕の姿に言葉を失ったのが判る。頭の片隅の冷静な部分で、一二三に僕のこんな姿を見せたのが初めてだったことに気づいた。でも、たとえ嫌われたのだとしても、もう後戻りはできない。
「一二三、そこをどけ。時間がない」
 今、誰かに見られたら、僕は殺人犯として追われることになる。だからもう1人の男も殺してさっさとここを離れなければならない。
 だけど一二三は動かなかった。たかが人間、たった1人のその男を助けたいという強い意志を持って、僕に逆らって見せたんだ。
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