2002年06月の記事


祈りの巫女41
 儀式の最後にピンク色の花が編み込まれた花冠を授かって、それで儀式のすべてが終わった。この瞬間、あたしは大人になって、正式な祈りの巫女になったんだ。その場の緊張が一気に解けて、聖櫃の巫女や神託の巫女、その他名もない巫女たちもみんな笑顔であたしのそばにやってきた。あたしも自然に笑顔になって、まわりを見渡す。神殿の柱の向こうでずっと儀式を見守ってくれていた村の人たちも、あたしがそちらに顔を向けると笑顔と声援で答えてくれた。
 あたしは儀式の口上も動作も間違えなかったから、すごくほっとして、村の人たちの中にリョウの姿を捜した。母さまと父さまとオミ、マイラやベイクの姿も見つけることはできたけど、リョウの姿だけはどこにも見つからなかった。
 ちゃんと、見ててくれたよね。ちょっとだけ不安になって、もしかしたらそんな表情をしてたのかもしれない。聖櫃の巫女があたしの背中を叩いて、元気付けるように微笑んでくれた。
「ユーナ、すごくよかったわよ。もう一人前の巫女ね」
「ありがとう。聖櫃の巫女にそう言ってもらえて嬉しい」
「そうだわ。もうユーナじゃなくて、祈りの巫女、って言わなきゃいけないのよね」
 あたしはこれから祈りの巫女って呼ばれるようになるんだ。もちろん、神殿以外では今までどおりユーナでよかったんだけど。
「さあ、祈りの巫女、村のみんなにちゃんと姿を見せてあげましょう」
 あたしは巫女たちに背中を押されて、神殿の外に向かって歩いていった。その間にも、柱の向こうにいた村のみんながあたしに声をかけてくれる。祈りの巫女、祈りの巫女、って。石段のところまで来たとき、その下にはいつのまにか祝い料理の用意がされてた。あたしは本当に大勢の人たちの祝福を受けていることを知って、涙が出そうだった。
 あたしが祈りの巫女になるために、みんなすごくたくさんの仕事をしてくれてたんだ。儀式が執り行われている間に、何も言わずに料理を準備してくれた人がいる。誰にも見えないところで働いてくれた人がこんなにたくさんいるんだって。
「みんな、ありがとう……」
 あたしは独りで生きてるんじゃない。そう思えたことが、祈りの巫女になって最初の収穫だった。
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祈りの巫女40
 コツ、コツ、と、窓を2回叩く合図で、まずは聖櫃の巫女が立ち上がった。あたしは慌ててその後ろに立つ。聖櫃の巫女は1回だけあたしを振り返って微笑んだ。まるであたしを勇気づけてくれるみたいに。
 やがて宿舎の扉が外側から開かれて、あたしはまぶしい光に包まれる。と同時に人がたくさん集まったときの独特のざわめきが飛び込んでくる。そうなんだ。あたしの巫女の儀式を見るために、いま村中の人たちが神殿の周りに集まってきてるんだ。
 ドキドキはぜんぜんおさまらなくて、でも聖櫃の巫女に遅れないように歩かなきゃいけなかったから、あたしは少しだけ顔を伏せるようにして、村の人たちが両側を埋め尽くして通路になった道を歩き始めた。この中には父さまや母さまやオミ、それにリョウだっている。どこにいるのか確かめて、顔を見て安心したかったけど、光がまぶしくて探し出すことはできなかった。
  ―― ユーナ、きれいね
 ざわめきの中からかすかにそう聞こえた気がして、あたしは嬉しくなった。リョウもどこかで見ててくれてる? あたしのこと、きれいだって、リョウも思ってくれてるかな。
 神殿への石段を上がると、いつもと少しだけ違った神殿の建物が見えてきた。いつもは木の壁に閉ざされている神殿は、今はあたしの儀式をみんなに見せるために、壁がすべて取り払われて、太い柱だけになっている。その柱の間を歩いていくと、今まで道を作っていた村の人たちが、みんな階段を上がってきた。あたしは神殿の奥、祭壇の手前まで歩いていって、膝をつく。聖櫃の巫女が目の前から去ってしまって、あたしは祭壇の前に1人ぽつんと取り残されていた。
 守りの長老があたしの前に進み出る。祭壇に向かって、あたしが祈りの巫女になることを神様に伝える言葉を語り始める。大勢の人たちが見守る中、あたしの儀式は滞りなく進められていった。
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祈りの巫女39
 その日は早朝から、あたしは忙しい思いをしていた。
 夜が明ける前に目覚めて、迎えにきた聖櫃の巫女に連れられて、あたしは神殿に続く山道を登った。途中で道をそれて、小さな川のそばまで行く。そこで今まで着ていた服を脱いで、川の水で身体を清める。春先の川の水は冷たくて、病み上がりの身体にはちょっとだけきつかった。
 そこで普通の巫女の衣装に着替えて、神殿まで歩く。その間に付き添いの巫女達の人数が増えてきて、あたしは周りを巫女達に囲まれながら、静々と山道を歩いていった。神殿の周りにも巫女や神官達が大勢いて、厳粛な雰囲気のみんなの間をあたしは歩いていく。誰も口をきかなかった。ぜんぶ練習どおりだったのに、なんだかあたしは緊張してしまって、聖櫃の巫女の後について完成したばかりの祈りの巫女の宿舎に入った。
 やっと息をつく。宿舎の中には、祈りの巫女の衣装を用意したマイラが待っていてくれたから。
「マイラ……」
「大丈夫よ、心配しないで。さあ、衣装に着替えましょうね」
「心配してるわけじゃないの。なんだか儀式の練習をしたのがすごく昔のことみたい」
「少しくらい手順を飛ばしたって誰も気付かないわ。それよりきれいなユーナになるのが一番。爪はあんまり染まらなかったわね」
「昨日も今朝も少し塗ったの。でもやっぱりダメだったの」
「いいわ、このくらい淡い色の方が清潔そうに見えるもの。……ほら、すごくきれいよ」
 マイラに手伝ってもらって衣装を着けると、それまで何度か試着してきたのに、その時とはぜんぜん違って見えた。
「なんだかドキドキしてきちゃった。ぜったい何か間違えるよ」
「大丈夫よ。ユーナが間違えたかどうかなんてあたし達には判らないんだから。堂々としてたら誰にも判らないわ。それより、今日のユーナは一番きれいになることよ。……リョウに見せたいんでしょう?」
 マイラがそう言ったとき、あたしのドキドキは最高潮になっていた。
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祈りの巫女38
 父さまと母さまが駆け込んできたのは、あたしがマイラに服を借りて着替えをした直後だった。2人は最初にマイラの手を握ってお礼を言って、そのあと母さまがあたしを抱き締めた。話は全部リョウに聞いてたみたいだった。あたしが、シュウのことを思い出したってことも。
 父さまと母さまに連れられて家に戻ったあと、あたしはベッドに横になって、翌日高い熱を出した。熱はしばらく引かないままで、その間中、あたしはいろいろな夢を見た。小さな自分に戻って、シュウと遊んでいる夢。6歳までの、シュウとのたくさんの思い出を、あたしは夢の中でもう一度辿っていた。
 シュウのことが大好きだった。たくさん遊んで、たくさん話して、あたしがわがままを言っても、謝るのも許してくれるのもいつもシュウだった。マイラにおやつを作ってもらったのも思い出した。夢の中のマイラは、でもやっぱり少しだけ悲しそうな表情をしてた気がする。
 たくさん思い出して、やっと熱が引いて、元気になったのは儀式の前の日だった。その日、あたしが元気になったことを聞いて、何人かの人たちがお見舞いにきてくれた。セトと神殿の人たち、マティや近所の人たち、そして、ベイクとマイラも。あたしが忘れてしまっていたから、今まで誰もシュウの話ができなかった。そんな時間を取り戻すみたいに、誰も彼もがシュウの話で持ちきりで、まるで村中全部シュウの話をしていたみたいだった。
 優しかったシュウは、きっと村中みんなに愛されてた。そしてあたしも、村のみんなに愛されてるんだ。だって、あたしが思い出すまで、誰も一言もシュウの名前を言わなかったんだから。思い出さなければ判らなかったみんなの優しさに触れて、あたしは涙が出そうだった。
 その日、たくさんの人がお見舞いにきてくれたけど、けっきょくリョウは姿を見せなかった。その理由はあたしには判らなかったけど、リョウにもう一度ありがとうを言う日は、明日に持ち越されていた。
 そして、いよいよ明日が、あたしが祈りの巫女になる日だった。
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祈りの巫女37
 あたしが苦しむから、シュウはあたしの記憶を封じてくれたの? あたしが大人になるまで。あたしが、シュウを思い出しても大丈夫になるまで。
「マイラは、あたしを恨まなかったの? シュウを死なせて、シュウのことを忘れてしまって」
「あの時ね、シュウがユーナを助けたあと、ユーナは泥だらけの身体で必死で村に走ってきた。泣きながら、シュウを助けて、って言って。あたし達はその頃まだこの家ではなくて、ユーナの家の近くに住んでいた。だからユーナの話を聞いて急いで助けに行ったわ。でも、あたし達はシュウを助けることができなかった。あたしも間に合わなかったのよ。だから、シュウを死なせてしまったのは、ユーナだけじゃなかったの。ユーナは必死であたし達に知らせてくれたんだもの。それにね、ユーナはシュウがあんなに大好きで、シュウが命を懸けて守った女の子だよ。そんな子を恨んだりできないわ。そんなことをしたらシュウが悲しむ。そう思ったら、ユーナを恨むことなんかできなかったよ」
 いつも、悲しそうな笑顔であたしに笑いかけてたマイラ。
 あたしが何歳になるのか、いつも気にしてたマイラ。
 マイラはあたしを見ながら、いつもシュウを見ていたのかもしれない。シュウの命を奪って、シュウの時間を止めてしまったあたしを見て、マイラはいつもどんなことを考えてたんだろう。
 シュウがあたしを助けてくれなかったら、今ここでマイラと会話していたのはシュウだった。あたしは今、シュウの時間を生きてる。優しくて、本当に優しくて、勇敢だったシュウ。あたしはシュウにもらった時間を大切にしなきゃいけないんだ。
 いつも悲しそうに笑うマイラ。あたし、マイラの本当の笑顔を知らない。あたしはマイラを幸せにしてあげたい。
 祈りの巫女になったら、祈りの巫女になってマイラのために祈ったら、マイラは笑顔を取り戻してくれる? あたしはマイラの笑顔を取り戻したい。マイラに笑って欲しいから、祈りの巫女になりたい!
 リョウ、あたし見つけた。自分が本当にやりたいこと。マイラを幸せにするのって、祈りの巫女にならなければできないことだから。あたしは、マイラを幸せにするために、唯一のことができる人になれるんだ。
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祈りの巫女36
 そのまま、あたしはマイラの家に上がって、泥だらけの身体を洗ってもらった。そのあと暖炉の前に座って身体を温めた。リョウはあたしをマイラのところに送り届けたあと、あたしの家に知らせに行くと言って出て行った。ベイクも家にいなかったし、もしかしたら他にも何人かの人たちが、あたしを探してくれていたのかもしれない。
 そのことについてはマイラは何も教えてくれなかった。やがて、マイラにスープを作ってもらってだいぶ落ち着いてきた頃、マイラは少しずつ話してくれた。シュウのことを。
「シュウが生まれたときにね、神託の巫女が言ったんだ。この子は長くは生きないだろう、って。だからあたしもベイクも、シュウが死ぬのは判ってたの。判ってたから、生きてる間だけでも幸せにいて欲しくて、シュウのことは本当にかわいがっていたのよ」
 神託の巫女は、新しい子供が生まれたとき、その子の結婚相手や死期、そのほかいろいろなことを予言する。マイラとベイクもすごくつらかっただろう。そして同じくらい、神託の巫女もつらかったんだろうと思った。
「シュウはユーナのことをすごく大切にしていて、家でもユーナのことばかりしゃべってた。ユーナのことが大好きなんだ、って」
 今なら思い出せる。シュウはあたしにすごく優しくて、あたしが何か失敗をしたり、悲しいことがあったりしたとき、いつも必ず慰めてくれた。いつも、ユーナは大丈夫だよ、ぼくが助けてあげるよ、って言ってくれた。何があっても助けてくれた。最後に、本当に命を助けてくれるまで、ずっと。
「あたしもシュウのことが大好きだった。ほんとよ。ほんとに大好きだったの」
「判ってるわ。ユーナはシュウのことを本当に好きでいてくれたから、シュウがいなくなってしまったことに耐えられなくて、忘れてしまうしかなかったのよ。……でもね、あたしは、ユーナがシュウを忘れていたのは、シュウがそうしたかったからじゃないのかな、って思ってるの」
 シュウが、あたしに忘れて欲しかったの……?
「シュウは、自分がユーナを助けて死んでしまったことで、ユーナを苦しめたくなかったんじゃないかと思うの。だから、ユーナに魔法をかけて、自分のことを忘れさせようとしたんだわ」
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祈りの巫女35
「ユーナ、歩けるか?」
 しばらくあたしが落ち着くのを待ってくれたんだろう。だいぶ時間がたってから、リョウは言った。あたしは膝ががくがく震えて、冷たい水の中にいたせいで身体も冷え切っていたから、ゆっくり慎重に立ち上がった。
「大丈夫みたい。歩けそう」
「全身泥だらけだな。ベイクの家で身体を洗ってもらおう」
 リョウはそう言って、あたしの背中を押して歩き始めようとした。ベイクはマイラと夫婦で、森のすぐ近くに住んでいる。その2人は、あたしが死なせたシュウの両親だったんだ。
「ちょっと待って、あたし、マイラにどんな顔で会ったらいいかわかんない」
「そんなの、時間が経てば経つほど判らなくなるよ。そのままの顔で会えばいいって」
 そう言ってリョウは半ば強引にあたしを歩かせ始めたから、あたしは考えている暇もなくて、冷えて動かなくなった身体で必死にリョウについていくしかなかった。自分の足元を見ながら、両方の足を交互に動かすことだけに集中していた。そうしてしばらく歩きつづけているうちに、いつの間にかマイラの家の前まできていた。
 リョウはそこで足を止めて、家のドアをノックした。
「ベイク、マイラ、いたら出てきて。ユーナが見つかったんだ」
 リョウのその言葉であたしは、みんながあたしのことを探してくれていたのだと知った。ドアはすぐに開いて、マイラが姿を見せた。マイラを見た瞬間、あたしはまた涙が出そうになって、でもそれを何とかこらえて言った。
「マイラ、ごめんなさい。シュウを死なせてしまってごめんなさい。シュウを忘れててごめんなさい。あたし、シュウのことが大好きだった……」
 マイラは泥だらけのあたしの姿と、あたしの言葉にしばらく絶句していた。でも、やがていつもの悲しそうな微笑を見せて、言った。
「そう、シュウを思い出してくれたの。……ユーナ、シュウを思い出してくれてありがとう。シュウを大好きだって言ってくれて」
 今度こそ、あたしは涙を止めることができなかった。
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祈りの巫女34
「ユーナ!」
 リョウは少しの間、あたしがどこにいるのか判らなかったみたいだった。その頃あたしはもう首の近くまで泥の中に埋まっていて、たぶん顔は泥だらけで、沼の泥とほとんど区別がつかなかっただろうから。でも、すぐに気付いて近寄ってきた。リョウの表情は、今まであたしが見たことがないくらい顔面蒼白で、余裕がないはずのあたしですら不思議に感じたくらいだった。
「ユーナ! さ、早く手を伸ばして、つかまって!」
 リョウの手が差し出された時、あたしはその手に、死んでしまったシュウの姿を重ねていた。
「いや! シュウは死んじゃったもん。あたし、リョウを死なせたくないもん!」
「ユーナ……思い出したのか?」
 リョウは知ってたんだ。……そうか、リョウがこの森で約束していた友達って、シュウのことだったんだ。たぶんあの日は、シュウがこの沼で死んでしまった、その日だったんだ。
 みんな、ずっとあたしに内緒にしてきたんだ。シュウが生まれたこと、シュウが生きてたこと。あたしが思い出さないように。
「あたしなんかを助けるためにリョウにまで死んで欲しくないもん!」
 リョウは、あたしが初めて見る、本気で怒ったような表情をした。
「馬鹿にするなよユーナ。シュウは子供だったけど、オレは大人だ。ユーナひとり助けるくらいで死ぬわけないだろ。わかったらさっさと手を伸ばせ! あんまり手間をかけさせるな」
 なんか、あたしはそのリョウの勢いに押されてしまって、おずおずと手を伸ばした。リョウは泥の中からあたしの手を探し当てると、手首と袖口を同時に引っ張りながら、あたしを沼の中から引きずり出した。リョウの腕は力強くて、助けられたあたしの方がすごくあっけなく感じたくらいだった。そんな表情でリョウを見上げると、やっと、リョウは微笑んで言った。
「なんにしても間に合ってよかった。……シュウ、まだユーナはおまえのところへ行くには早いだろ?」
 その微笑みは、いつものリョウとはほんの少しだけ違って見えた。
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祈りの巫女33
 あたしはあの時、今と同じように、この沼にはまった。一緒にいたのはシュウ。あたしと同じ年の、一番大好きな男の子だった。
 シュウは蔓草を木に縛り付けて、あたしの方に投げてくれた。あたしは必死でそれにつかまって、でも泥が身体に絡み付いて、どんどん沼に沈んでいった。シュウの伸ばした手はあたしに届かなかった。あたしは怖くて、泣きながらシュウに手を伸ばした。
 そのとき、シュウが微笑んだんだ。いつも優しくて、いつもいじめっ子からあたしを守ってくれたシュウ。そのシュウが沼に飛び込んだ。あたしを、沼の中から押してくれるために。
  ―― ぼくがユーナを守ってあげるから
 シュウのおかげであたしは助かった。だけど、シュウは沼に沈んでしまった。あたしのために、シュウは死んでしまったんだ。
 いつの間にか、現実のあたしは涙を流していた。今まで忘れてたシュウのこと。怖くて、シュウに申し訳なくて、シュウの命があまりに重くて、あたしは記憶を閉ざした。泣きながらあたしは心の中で謝った。ごめんなさいシュウ。今まで忘れていてごめんなさい。せっかくシュウが助けてくれた命を無駄にしてごめんなさい。シュウの未来を奪ってごめんなさい。そしてマイラ、あなたの大切な息子を死なせてしまって、ごめんなさい。
 シュウ、もうすぐあなたのそばに行くから、あんまり怒らないで、優しく迎えてね、シュウ。母さま、父さま、無謀で言うことをきかない娘で、ごめんなさい。神殿のみんな、せっかくあたしのために準備してくれたのに、祈りの巫女になれなくてごめんなさい。
 そのとき、風の音に混じって、あたしを呼ぶ声を聞いた気がした。
 その声はリョウの声に似ていて、あたしはまだリョウに謝ってないことに気がついた。そうだ、リョウにはたくさん優しくしてもらったんだ。リョウにもちゃんと謝らなくちゃ。
 あたしはリョウになんて謝ろうか、それを考えた。リョウにはたくさんの思い出があって、いろいろ思い出していたら、言葉にできなかった。リョウ、あたし、リョウが大好き。……リョウ、あたしまだ死にたくないよ!
「リョウ!」
 そう、叫んだその次の瞬間、森の向こうからリョウが姿を現わした。
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祈りの巫女32
(え……!)
 膝が崩れるような感じがあって、ずぶずぶと吸い込まれるように、腰から下が何かに埋まってしまった。冷たくてドロドロしていた。瞬間的にあたしは悟った。ここ、沼だったんだ。暗くてよく見えなかったけど、森の木が途絶えた一帯が大きな沼地になっていたんだ。
 ほとんど無意識のうちにあたしは両足を動かして、必死で沼から抜け出そうとしていた。でも、両足はむなしく泥の中を空回りするだけで、身体は動けば動くほどどんどん沈んでいく。身体の向きを変えようとしてもぜんぜんうまくいかなかった。ほんの短い間なのに、いつの間にか胸のあたりまで埋まってしまっていた。
「誰か! 誰か来て! 助けて!」
 叫んだけど、こんな森の中、誰かが偶然通りかかるはずなんかなかった。森の入口に向かって叫べばもしかしたらマイラが気付いてくれるかもしれない。でも、この泥の中では身体の向きを変えることもできないんだ。母さまの言うことをきいておけばよかった。この森は危ないって、母さまはこの沼のことを言いたかったはずなんだから。
 向きを変えられたら岸にすがりつくことができるかもしれない。そう思って必死で泥を掻き分けた。そしてやっと身体が半分だけ岸の方を向いた。この頃にはもう泥は肩のあたりまできていた。そのとき、振り返って見たその風景 ――
  ―― 大丈夫、頑張って、ユーナ
 耳の奥から聞こえた声で、あたしは思い出していた。冷たかった沼の泥と、暖かかったあの手のこと。
(……シュウ)
  ―― 落ち着いて、ほら、この蔓草をしっかり掴んで
  ―― ぼくが押してあげるから
  ―― ユーナならできるよ、ぼくが助けてあげる
 思い出した。ずっと忘れていた、6歳よりも前の記憶を。
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