2006年03月の記事


覚醒の森18
 女の子は僕よりも少し年上くらいで、どうやら日帰りハイキングの途中といったようなリュックと水筒を持っていた。ここはハイキングコースとそんなに離れていない場所なのか。だとしたら歩いて街へ降りるのもさほど難しくはないのかもしれない。
「え? 女の子2人だけなの? 大人の人は?」
 小屋の中をひと通り見回して、僕たちを年下と見たのか彼女はタメ口になった。僕が女の子に間違えられるのはいつものことだ。警戒されると面倒なので、そのまま勘違いさせておくことにした。
「いるよ。今は出かけてるけど。……そのへんに座って。何か飲む?」
「ええ、ありがと。歩きすぎてのどカラカラだったんだー」
「ジュースとかないから水かコーヒーになるけど」
「それじゃ、水でいいかな。一気飲みしたい気分だから」
 僕は台所へ行って、ペットボトルの水をコップに注いだ。今まで寝床にいたミクが起きてきて僕の背中に張り付く。ミクはいくぶん身体を震わせていて、僕に何かを訴えるような視線を向けた。安心させるように微笑んだあと、コップを女の子の前に置いた。
「その子、どうかしたの?」
「妹は人見知りが激しいの。気にしないで、いつものことだから」
 再び床に座った僕の手を取って、ミクが文字を書き綴った。僕は一瞬ドキッとした。なぜならミクは「ころさないで」と書いていたから。
 ミク、もしかして何かを思い出しているの? 僕があの男を殺したことを覚えているの?
「大丈夫、安心して。殺したりしない。ただ……少しだけ、彼女の血をもらうだけだから」
 そうミクに言って女の子に視線を戻したけれど、彼女は今僕が言った言葉が理解できないような表情をしていた。のんびりしている訳にはいかない。早ければ明日の朝には、彼女を探す捜索隊のような人たちが僕たちの小屋を探し当ててしまうかもしれないから。
「どうして道に迷ったりしたの? 今日あなたが来なければ、僕は現実を見ずにいられたかもしれないのに」
 だけどおかげで決心がついた。僕は驚く彼女に近づいて、首筋に唇を寄せた。
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覚醒の森17
 ミクは僕になついていた。だけど僕は忘れていない。僕が、5人の人間を殺した殺人者なんだ、ってことを。

 満月が近づくと、僕はミクの手錠を引きちぎれるかどうか試すようになった。もしも満月よりも前に手錠が外れれば、ミクを街へ連れて行く日が早くなる。僕があせる理由は簡単だった。このまま満月を迎えたら、僕はまたミクを血の犠牲者にしない訳にはいかなくなってしまうと気づいたこと。
 いや、僕があせっていた理由は、本当はまったく違うものなのかもしれない。手錠の輪をつなぐ鎖の部分なら斧で壊すことができたんだ。どんなにミクが嫌がってたって、たとえば眠っているうちに斧を振るうことだってできたはずなんだから。僕はこの穏やかな時間を失いたくないと思い始めていた。そして、そんな自分に負けてしまうのを恐れて、一瞬でも早くミクと別れたいと思っていた。
 満月が近づいて、僕はしだいに無口になっていった。そんな僕に影響されるように、ミクも少しずつ笑顔を見せなくなっていた。
 そして満月の夜。
 僕はミクが眠るのを待っていた。選択肢は今となっては2つしかなくて、僕は答えを出せずにいた。眠ったミクの血を吸ってミクの手錠をはずすか、ミクを置いて小屋を出て新たな犠牲者を探すか。もっと早く決断すれば別の選択肢もあった。さっさと斧で鎖を断ち切って、ミクをつれて街へ行っていた方が、今目の前にある2つの選択肢よりもはるかにマシだっただろう。
 寝床に入ったミクはなかなか眠らなかった。もしかしたら僕の気配に何かを感じているのかもしれない。そのとき、ふと入口の扉をノックする音と、その声が聞こえてきたんだ。
「あの、すみませーん。誰かいますかー?」
 まだ若そうな女の声だった。僕はほんの少し警戒しながら扉に近づいて、ゆっくりと扉を開いた。
「あ、あの、あたし、道に迷っちゃって。良かったら電話とか貸してくれませんか? ここケータイつながらなくて」
「……電話はないです」
「だったらひと晩泊めてください。お願いします! あたしほんとに困ってるんです! 助けると思って、お願いします!」
 僕はしぶしぶ扉を開けて、彼女を招きいれた。僕は既に彼女によってもたらされた3つ目の選択肢を選ぶしかなくなっていた。
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覚醒の森16
 小屋の中にも、ワゴン車の中にも、食料はたっぷりあった。レトルトのカレーやシチュー、パックライス、固形の栄養調整食、インスタントラーメンや焼きそば。僕もミクも1回の食事の量は少なかったから、ここにある食品だけで3ヶ月は暮らしていけそうだった。ミネラルウォーターのペットボトルもたくさんあったし、水道もきていたから、好き嫌いさえ言わなければなんの問題もないだろう。
 人里離れた山小屋だったけれどなぜか電気もきていたし、ガスもあった。コインを入れない洗濯機や、シャワーのない風呂には多少戸惑ったけれど、僕が判らないことはすべてミクが教えてくれた。僕はミクと一緒に洗濯をして、布団を干して掃除をして、食事を作って食べた。それは、僕が目覚めてからほとんど初めてと言っていい「生活」と呼べる経験だった。
 鎖がついているのにミクはとても働き者だった。この小屋には斧があったから、僕はミクの足にある手錠の鎖を切ってあげようとしたのだけど、それはミクが怖がった。もしかしたらミクは、あの日僕がその斧で怪我をしたことを頭のどこかで覚えているのかもしれない。それとも単に自分の足首のそばで僕に斧を振るわれるのが怖かっただけなのかもしれないけれど。
 ミクは僕よりも数センチ背が低いくらいで、驚くほどやせていた。だけど、つやのなかった髪はしばらくすると張りが出てきて、少しずつだけど顔色も良くなってきていた。身体中に浮き出た血管もずいぶん健康な色になったと思う。それは僕にとっても嬉しいと感じられる変化だったのだろう。僕は街に下りたら警察へ行く前に、1度だけミクと一緒に写真を撮りたいと思うようになっていた。
 写真に映った顔なら、僕は人間の血管を見ることができないから。
「 ―― 別に退屈じゃないよ。ここは静かで、すごく落ち着く気がする。なにより夏でも涼しいのがいい。僕は暑いのが苦手で、ずっと涼しいところへ行きたかったから」
 ミクは僕と話すとき、僕の手のひらに文字を書くようになっていた。だから僕はミクに左手を預けて、ミクは僕に寄り添っている。
「前からテレビは見てないんだ。昼間はけっこう眠ってることが多かったし、夜はそれなりに忙しかったし。……それはね、子供には教えられないよ。だってミクはまだ小学生だろ? ……僕は子供じゃないよ。ミクには14歳だって言ったけど、僕は本当は16歳なんだ。……見えなくてもそうなの。でも、ミクにもそう言われちゃうくらいだから、僕はまだほかの人には14歳だって言ってた方がいいね」
 血管に覆われたミクの顔が、穏やかに微笑むこの時間を、僕は好きになりかけていた。
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覚醒の森15
 その夜、僕はミクが眠ったあとに小屋の外へ出て、男の死体を森の少し離れた場所に埋めた。部屋の中にあった男の服も、歯ブラシも、男がここにいたという痕跡はすべて消し去った。小屋の外には男が乗ってきたらしいワゴン車もあったけれど、さすがに運転ができない僕にはどうしようもなかった。車の中にあった運転免許証やカード類はぜんぶ土に埋めて、現金だけは僕の財布に移し変えた。
 ミクの手錠の鍵はどんなに探しても見つからなかった。
 明るくなるころには僕はすっかり眠くなってしまって、その日は昼ごろまでぐっすりと眠っていた。目が覚めるとミクが不思議そうに僕を見ていて、僕がミクの名前を呼ぶと声を出す仕草をして、驚いたように自分の喉に手を当てた。それからきょろきょろ辺りを見回して、昨日と同じように床に文字を書き始めた。そのミクの指が「あなたはだれ」と動いたから、僕も少し驚いてしまった。
 ミクと少しだけ話してみて、僕はミクが昨日の出来事をすべて忘れてしまったことを知った。それどころか、ミクは自分の名前も、年齢も、素性さえもすっかり忘れていたんだ。自分が何も覚えていないことにミクはおびえていた。だから僕は彼女を抱き寄せて、1つ1つ言い聞かせるように話し始めた。
「大丈夫。今は僕がそばにいる。……僕もね、2年以上前だけど、記憶をなくしたんだ。今でもそれ以前のことはほとんど思い出せない。だけど僕は1人でも、ちゃんと生きていられたよ。だから、ミクも大丈夫。怖がらなくても大丈夫だよ」
 初めて、僕に呼びかけてくれたルイ。素性の判らない僕を拾って、世話をして、いろいろな楽しいことを教えてくれた。今度は僕がルイになればいい。あの時、ルイは僕を傷つけたけれど、赤の他人である僕の面倒を見てくれたまごころだけは真実だと思うから。
 僕にはルイのような心はない。だけどルイのまごころと同じものをミクに返すことはできるはずだ。あの時のルイは確かにある意味僕を救ってくれたのだから。
「ミクの不安な気持ち、僕には判るよ。今はまだ、無理だけど、この手錠が外れたら一緒にミクの両親を探しにいこう。きっとミクの両親は心配してる。ミクのこと、血眼で捜しているはずだよ」
 僕は両親に捨てられた。だけどミクは僕みたいなバケモノなんかじゃない。どこかの街へ行って、名前と年齢だけでも交番に届けたら、すぐに迎えに来てくれるはずだ。ぜったい、僕みたいなことにはならないはずだ。
 ミクを慰めながらちらりと思った。昨日僕は、彼女が恐怖の記憶を忘れることを願った。その願いを、誰かがかなえてくれたのかもしれない、って。
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覚醒の森14
 僕はかばんの中から洗濯済みの服を取り出して着替えたあと、少女を手伝って床をきれいにした。そして台所にたくさんあったレトルトのカレーとパックライスをあたためて用意すると、再び少女と向き合った。
「僕は大河。えっと……14歳。君の名前を教えて」
 少女は床に指先で文字を辿った。漢字で「未来」、ひらがなで「みく」、そのあと「12さい」と書いた。
「ミク? いい名前だね。12歳ってことは、中学生かな?」
 ミクは首を横に振ったから、12歳でもまだ小学生ってことらしい。いつからここにいるのかという質問には、ミクはただ首を振っただけだった。ミクはあの男に裸で組み敷かれていた。片足は今でも長い鎖でつながれている。ミクがここであの男に監禁されていたらしいのは、この2年あまりの記憶しかない僕にも判ることだった。
 僕はミクの足の手錠をはずそうと試みたけれど、今の僕の力ではどうすることもできなかった。だけど、今まではずっと気づかなかったけれど、昨日5人の男を殺してはっきり判ったんだ。僕は満月の夜になればふだん考えられないほどの強い力が出せる。だから次の満月にはこの手錠をはずして、ミクを助けてあげられるかもしれない。
 でも、ミクはきっと僕を怖いと思っているだろう。ぼくはミクの目の前であの男を殺した。開け放たれた扉の外での様子はミクにもしっかりと見えていたはずだ。それに、そのあと僕はミクに襲い掛かって、彼女の血を吸ったのだから。
「ミク、あと何日かだけ、ここで待っててくれる? 明日になったら僕が山を降りて、警察を呼んできてあげるから。……その代わり、僕があの男を殺したことを警察には黙ってて欲しい」
 そのとき、ミクは急に目に涙を浮かべて、僕の片腕を抱きしめたんだ。初めてのことで僕は戸惑ってしまった。ミクの腕が震えて、その震えが僕の腕にも伝わっていたから。
「ミク? どうしたの?」
 ミクは何度も首を振って僕を放さなかった。……そうか、ミクは本当に怖い思いをしたんだ。あの男に監禁されて、鎖につながれたまま何度も組み敷かれて、おそらく声すらも失ってしまうほど。
 僕は自由になる片手で何度もミクの髪と背中をなでた。彼女が1日も早く、恐怖の記憶を忘れてしまうことを願いながら。
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覚醒の森13
 次に目覚めたときには、外は既に暗くなっていた。目を開けると僕の前には見知らぬ少女がいて、僕の肩を揺り動かしていた。僕は何か言葉を言おうとして声が出ないことに気づいた。少女もそれに気づいたのか、僕の目の前にコップの水を差し出してくれた。
 身体を起こして夢中で水を飲んだ。そして、改めて目の前の少女を見る。少女は僕に対する態度を決めかねているような不安な目をして僕を見つめていた。安心させようと少しだけ微笑むと、少女もほんの少し微笑んで、指で小屋の奥を指し示した。
「……なに……?」
 急に僕は思い出して肩口を押さえてみた。傷は既にふさがっていたけれど、よほど深い傷だったのか完全に治った訳ではなかった。僕の様子を見ていた少女が再び小屋の奥を指差す。そのあと僕を立ち上がらせるように手を取ったから、仕草に合わせて立ち上がると、少女は僕の手を引いて歩き始めた。
 それで初めて気が付いた。少女の片足には手錠がかけてあって、その先の長い鎖を引きずって彼女は歩いていたんだ。
「それ……」
 少女は首を振ると、気遣うそぶりの僕を強引に風呂場へと案内していった。大き目のバスタオルを押し付けられてピシャッとドアを閉められてしまう。木製の湯船にはしっかりとお湯が張ってあった。
 僕は血まみれの服を脱いでまずは湯船に浸かった。息を止めてお湯にもぐると、身体中に染みついていた血がいくらか落ちて、お湯が赤く染まるのが判った。僕はかなりの時間をかけて自分と自分以外の人間が流した血をすべて洗い落とした。ようやくバスタオルを巻いて部屋に戻ると、少女が板の間に流れた血を雑巾で拭いている姿が目に入った。
 気配に振り返った少女に僕は、この2年で覚えた笑顔を見せて言った。
「お風呂、ありがとう。……君、名前は?」
 少女は喉を指で抑えて、僕に視線で訴えかけるような仕草をした。
「……もしかして、口がきけないの? ……耳は? 僕の言葉は判る?」
 少女が2回うなずいたから、僕には彼女が僕の2つの質問の両方に肯定したことが判った。
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覚醒の森12
 どのくらい、僕は歩き続けていただろう。受けた傷はすぐにふさがって、それ以上失血することはなかったけれど、痛みまで消えてくれはしなかった。いったい僕はどんな山奥に連れてこられたというのか。既に山の稜線が明るくなり始めているのに、集落どころか山小屋1つ見つけることができなかった。
 森の中を歩いていたら、初めて僕の名前を呼んでくれたルイのことを思い出した。初めて僕を好きだと言ってくれた人だった。あれから僕はいろいろな人に出会って、それなりにたくさんのことを覚えてきたけれど、ルイのことだけは今でも判らなかった。本当に僕を好きでいてくれたのか、それとも独りでいる寂しさを紛らわしたくて僕に触れたのか。僕をバケモノと罵ったルイが、あのあとほんの少しでもその言葉を後悔してくれたのか。
 今、ルイと再会できたのなら、彼は僕になんて言うのだろう。ひどいことを言って悪かったと僕に謝ってくれるだろうか。それとも、人を殺した僕を見て、やっぱりおまえはバケモノだったと僕を罵るのだろうか。
 今の僕に、誰か1人でも「愛している」と言ってくれる人がいるのだろうか。……いるはずがない。僕は紛れもなくバケモノで、4人もの人間を殺した殺人者なんだから。
 唐突に目の前に現われた山小屋には、夜明け間近だというのに明かりが灯っていた。人がいる。無意識のうちに唾を飲み込んだ僕は、少しためらいながらも誘惑には勝てずその扉をノックもせずに開けていた。中では、中年の男と小さな女の子が裸で重なり合っていた。
「てめえ……見やがったな!」
 男は裸のまま僕に向かって襲い掛かってきた。その表情は狂気に支配されていて、触発された僕もどこかおかしくなっていた。いや、僕はあの4人の男たちを殺した時から既に狂い始めていたんだ。斧を手にした男は僕の肩口に得物をめり込ませて、返り血を浴びて更に鬼のような形相になっていた。
 気付いたとき、目の前には腹を割かれた男が既に息絶えていて、扉の向こうでシーツを握り締めた女の子が呆然と僕を見つめていた。
 最期の力を振り絞るように、僕は小屋の中へと歩いていく。溢れ出る血液は僕の体力を奪って、ほんの少しでも少女が逃げる仕草をしたらもう辿りつくことはできそうになかった。だけど……少女は凍りついたようにそのままで、僕の行動を受け入れてくれたんだ。
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覚醒の森11
 手首と足首を拘束していたテープはずいぶんきつかったようで、解放されてからも手足がしびれてうまく歩くことができなかった。それでもよたよたしながら逃げ始めると、男たちはニヤニヤ笑いながら僕のむき出しの腕や足を狙ってナイフで傷をつけた。痛みと貧血、空腹と恐怖。木漏れ日のように降り注ぐ月の光を浴びて、僕はしだいに正常な意識を保つことができなくなっていった。
 中の1人に押し倒されたのは森の比較的平らな場所で、目の前にピンク色に染まった満月がくっきりと見えた。
「やっぱ野郎は面白くねえな。キャーキャー悲鳴上げて逃げ回れよ。てめえは人間狩りの獲物なんだぜ」
 しゃべりながら男は僕の服を脱がせ始める。このとき僕の中で何かが弾けたような気がしたんだ。頭の中がすっと澄んだようになって、気が付くと僕の右手は男の胸にめり込んでいて、指先からぽたぽたと滴り落ちた血液が僕のはだけた胸をもぬらしていた。
「おい、マッツン、急にどうしたよ」
 指先にぴくぴく当たっているのは男の心臓みたいだった。更に指を突き刺すと、心臓は僕の指をきゅっと締め付けてすぐに動かなくなる。覆いかぶさる男の身体を脇によけながら、からかうように覗き込んだ別の男の胸にも抜いたばかりの指を挿してみた。薄手のTシャツを突き破って、僕の指はすぐに2人目の心臓にめり込んでいた。
 それからのことはあまり覚えていない。気が付くと4人いた男はすべてその場に倒れていて、我に返った僕は初めて、自分が人間を殺すほどの力を持っているのだと知ったんだ。
  ―― さすがの僕も、4人もの人間を殺してしまったことはそれなりにショックだった。こいつらは僕を殺そうとした。だけど、だからといって、僕が同じように人間を殺していいはずがない。いくらこいつらが過去に同じような殺人ゲームをしていたからといって、見も知らない他人の命の罪を僕が罰していいはすがない。
 おそらく僕を殺したあとで一緒に埋めるつもりだったんだろう。最初に彼らに奪われた僕の荷物はすぐ近くに落ちていた。拾い上げようとして気づいた。いつの間にか僕の脇腹にもナイフが刺さっていて、思わず引き抜くと血が噴き出して身体がぶるぶると震えてきた。
 これから自分がどうすべきなのか、理性の部分では判らなかった。だけど本能は知っていた。すぐにここを離れて人間を見つけなければならないんだ。早く人間を見つけて、人間の生き血を吸わなければ。ここで倒れたら僕は本当に死んでしまうことになるのだから。
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覚醒の森10
「ぅひゃーっ、激マブ!」
「初めてじゃねえ? こんな上モノはよ」
 後部座席で2人に挟まれた僕は、すぐに口と手足を粘着テープでぐるぐる巻きにされてしまった。カーステレオからは激しい音楽が大音量で垂れ流されている。両隣の2人は僕の身体を撫で回して、走り出してすぐに気づいていた。
「おい、こいつ男だ! 女装野郎だよ!」
「マジかよ! カーッ、だまされたー!」
 4人は僕を小突きながら卑猥な言葉を交えて僕を罵った。僕は半分涙目になりながら視線で解放を訴える。最初の盛り上がりは失せてしまったのだけど、静かになったところで1人が言ったんだ。
「おい、おまえら、男ヤッたことあるか?」
「……ねえ」
「……ねえかも。けど別に女とそう変わらねえよな」
「だな。ま、オレとしちゃはっきり言って男でも女でもかまわねえし」
「そんじゃ、今日は変わった趣向で、ってことで。いまさら戻って別の獲物探すのもタルいしな」
 助手席から振り返って僕を覗き込んだ男がにやりと笑った。その顔に恐怖を感じて僕の背筋が凍る。今までだって僕の身体にひどいことをする男は何人もいたんだ。だけど目の前の男の顔は、僕が今まで出会った人間とは比べ物にならないくらい残忍に見えた。
 僕を乗せた車は街を離れ、どうやら山道に入ったようだった。舗装さえ満足にされていない森の中の道を走り続けていく。やがて車が止まって、僕は後部座席の1人に車から引きずり落とされた。手足を拘束された僕は堆積する木の葉と枯枝の上に落ちるしかなかった。
 車はそこに置いたまま、男たちは僕を担いで更に山の奥へと入っていった。ようやく下ろされて顔のテープをはがされたときには、僕は空腹で半分おかしくなっていたのだと思う。1人が話した言葉の意味もぜんぶ理解できたとはいえないから。
「 ―― 安心しな。泣こうが叫ぼうが声は誰にも届かねえし、どこまで逃げても必ず捕まえてやる。何気にオレたち、死体の処理も完璧だったりするんだぜ。もちろんオレたち4人から逃げ切ったらおまえの勝ちだ。……んじゃ、そろそろ始めようぜ、人間狩りゲーム」
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覚醒の森9
 同じことを何度か繰り返せば、たとえ記憶がなくても学習はする。どうやら僕は自分の身体をお金に換えることができるらしい。僕がこの街で覚えたことは多かった。駅のどの辺りにいれば声をかけてもらえるのか。どんな表情をすれば男の心拍数を上げられるのか。なにをすればより多くのお金をもらえて、どう振舞えば補導されずにいられるのか。
 おおよそ1ヶ月に1度、僕の身体は人間の血液を欲しがった。いつしかその変調が月の満ち欠けに支配されていることも理解した。満月の夜、僕の身体は狂ったように敏感になって、同時に血に餓えた。少しだけ利口になった僕は、男が行為に及ぶ前、僕が本当は男でバケモノだと気づかれないうちに血をもらうことも覚えていた。
 数ヶ月に1度、場所を変えながら僕はずっとさまよっていた。男ならとうぜんあるはずの声変わりを迎えることもなく、ルイの女友達にもらった洋服が窮屈になることもなく、いつまでたっても14歳の身体のままで。
 あれから2年以上は経っていただろう。僕はある程度人間の感情というものを理解していた。それは感覚としての理解ではなく、言葉や他人の行動を通しての理解だ。僕はいつものように駅近くの出会いスポットをうろついて血の犠牲者を探していた。金銭目的の援助交際とは別の場所を選ぶことにしていた。数週間前にテリトリーを変えたばかりで、だからこのスポットにくるのは今回が初めてだった。
 それまでの2年間、ルイほどの情熱を持って僕に執着した人間はいなかった。ルイほど僕を傷つけた人間もいなかった。だから僕は忘れていたんだ。人間というのは、とても残酷で恐ろしい生き物なのだということを。
「ねえ、カノジョ。よかったらオレたちと遊ばない?」
 人の多い場所をひと回りしたあと、人気のない路地に入ったときに声をかけられた。僕の外見はどう見ても中学生、ギリギリ高校生くらいにしか見えないから、人の多いところではなかなか声をかけてもらえない。だけど今日はそんな計算があだになった。振り返ると若い男が2人いて、近くに停めてある車にも最低1人はいることが判った。
「……遠慮します。だって人数合わないし」
「そんなの平気だよ。オレたちこういうの慣れてるし。それに、1対4ならお小遣いだって4倍もらえるんだよ」
 しゃべっている1人の目つきが怖くて逃げようとしたのだけど、車から出てきた2人も加わって手足と口を押さえられて、僕はあっという間に車の中に押し込まれてしまったんだ。
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覚醒の森8
 なんのあてもなかったし、頼れる人もいなかった。本来なら1番頼りになるはずの自分自身の経験すらも、僕にはなかった。ルイのお金で買い食いしながら半日かけて駅まで辿りついて、そのあと電車に乗って大きな駅まで行ったらお金はほとんど残らなかった。ルイが激貧なのはどうやら本当だったらしい。
 想像以上ににぎやかな駅の繁華街で呆然としていた。夜だというのにあたりはものすごく明るかったし、人も店も車も今まで見たことがないほど多かった。目がチカチカして頭痛までしてくるような気がした。そのまま駅前通りを歩いていくと、少しずつだけど明かりは少なくなっていって、こころなしか通る人も減ってきていた。
 どこか、眠る場所を探さなければならなかった。ここが最初に目覚めた森の中ならどこでも寝られた。それでも僕が人の多い場所に来たのは、身体の中に眠る本能のようなものに導かれたからだ。最初に森を出て、ルイと出会ったあのときと同じように。
「ねえ、彼女。聞こえてるんだろ? 無視しないでよ」
 急にうしろから腕を掴まれて、それまで物思いに沈んでいた意識を引き戻された。振り返ると少し驚いた風に見える若い男が僕を見下ろしている。
「なにか?」
 周囲に人影はちらほらと見えたけれど、僕たちに注目している人はいなかった。僕の答えに男は目線を泳がせながら言う。
「あ、いや、さっきから何度も声かけてるんだけど。自分で言うのもなんだけど、そこそこイケてる方だと思うんだよね、オレ。君くらいかわいい子なら額も弾んじゃうし。オレにしておきなよ、お嬢さん」
 言葉の1つ1つの意味は判るのだけど、この人がなにを言いたいのかが判らなかった。だけど彼が誤解しているのだけは判った。
「僕、男だから。彼女じゃ振り向きようがないし、お嬢さんは気持ち悪い」
 男はしばらく絶句していたけれど、僕が離れようと向きを変えると急に引き寄せて車に乗せた。耳元に唇を寄せてささやく。
「家出して困ってるんだろ? 黙っててくれれば今夜寝るところも用意するし、お金もやる。おとなしくオレの言う通りにするんだ」
 男は僕を落ち着きのないホテルに連れて行って、夕食とシャワーとベッド、それに数枚のお札をくれた。
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覚醒の森7
 このとき僕はいったいどんな表情をしていたというのだろう。恐怖に顔を引きつらせたルイは、僕の腕の重みから必死の形相で逃れて、そのあとじりじりと後ずさりを始めた。
「い、嫌だ、やめろ。……た、助けてくれ、バケモノ。おまえはバケモノだ!」
 その言葉を聞いた瞬間、僕の中から僕自身の記憶が呼び覚まされた。……そうだ、僕は以前、そう呼ばれていたことがある。そう呼ばれるのが嫌でずっと顔を隠していた。両親ですら愛することをためらうほどに僕の顔はバケモノだったから。
「……愛してるんじゃ、なかったの?」
 再びルイの肩を押さえつける。体格差では僕がルイにかなうはずなんかなかったのに、なぜかルイは僕から逃れることができなかった。
「僕が好きだから抱いたんだよね。ルイはそう言ったよね。……僕も、ルイが好きだから血が欲しいんだよ」
「最初から、人間じゃねえって知ってたら拾ってなんかねえ。抱いてなんかねえよ! ……寄るな、出てけ。こっから出てけよー!」
 きっと僕は、このとき初めて傷ついたんだと思う。もう何も考えたくなくて無理やりルイの首筋に吸い付いた。小刻みに震える身体を押さえつけて、口内に流れ込む血の味の甘さを舌の内側で感じる。僕が初めて感じた「満たされる」という感覚。いつしかルイは暴れるのをやめていて、気が付くと僕はベッドに座り込んだまま、死んだように眠るルイを見下ろしていた。
 身体は、満たされていた。だけど胸の真ん中にある大きな空洞はなんだろう。少し考えて、これが悲しみという感覚なのだと知った。僕はルイを失った。僕はルイを失ったことを悲しいと感じているのだと。
 悲しみを感じて初めて判った。ルイと過ごした時間が楽しかったのだということ。悲しみを知ったから、僕はなにが楽しいことなのかも理解できたんだ。ルイを失ったから、僕は楽しさと悲しさを理解した。
 ルイの旅行かばんを空にして僕のために買ってもらった衣服をつめる。ルイの財布の中から現金も失敬して、夜が明ける前に僕はルイの部屋を出た。駅までの道は遠くて考える時間はたっぷりあった。今までのことを1つ1つ思い返してみる。
  ―― 捜索願い、山を越えた隣の県で1件出てるらしいんだけどな。おまえの写真を見た両親が、息子とは別人だって言ったらしい。
 名前や当日着ていた服が同じことには気づいていただろう。それなのに確かめにすら来なかった両親に、僕は捨てられてしまったんだ。
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覚醒の森6
 ルイは毎晩僕を裸にした。いつも痛みはあって、ときどき血が滴り落ちるほど傷つくこともあったけど、それを嫌だと思うことは1度もなかった。何度か身体を重ねたとき、ルイは僕を不感症だと言った。ルイに触れられて僕自身が変化するということはなかった。
 ルイは「愛してる」と言いながら僕に触れて、あとで泣きながら僕に謝った。そのうちに「おまえが男のくせに綺麗すぎるからいけないんだ」とののしるようになって、泣きながら僕の顔を何度も殴りつけた。僕は何も変わらなかったのに、ルイはどんどん壊れていった。殴られた僕の顔は翌日には綺麗に治ってしまうのに、僕を殴ったルイの心の傷はどんどん深くなっていった。
 日に日に壊れていくルイを、僕ではどうしてあげることもできなかった。むしろ僕も一緒に壊れてあげられたらその方がずっと良かったのかもしれない。
 ルイが触れるようになってから半月、出会ってから4週間近く経ったときだった。僕の身体に初めて変化が起こっていた。全身が熱く脈打つようで、呼吸が速くなった。ルイに触れられていると頭が混乱して何も考えられなくなっていった。いつの間にか閉じていた目を薄く開けたとき、僕に触れるルイの表情が久しぶりの笑顔に変わっているのに気が付いた。
「大河、おまえ……やっとオレのこと、受け入れてくれたんだな」
 そう言って僕を抱き寄せるルイの腕は優しかった。だけど僕は半分上の空で、ルイの首筋に浮かぶ血管をじっと見つめていた。いつもよりも更にはっきりと浮かび上がる赤い血管。 ―― 今、僕が欲しているのはルイの身体じゃない。ルイの血管だ。
 抱き寄せるルイを強引に引き離して体勢を入れ替えた。僕に押し倒されたルイの目にかすかな驚きがある。
「欲しい、ルイ……」
 僕は夢中でルイの首筋に唇を押し当てた。おそらく痛みを感じたのだろうルイがあわてて僕を押しのけると、僕の唇から滴り落ちた赤い血がルイの胸元に落ちた。
 ルイの目の表情が驚きから徐々に恐怖に変わっていく。
「なん、で……。大河、おまえ……!」
「ルイが欲しいんだ。……お願い。ルイの血、僕にちょうだい」
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覚醒の森5
 交番に行ったときの出来事を、ルイは詳しくは話してくれなかった。どうやら僕のことはルイがしばらく預かってくれることになったらしい。ルイはアルバイトをしながら写真家を目指しているのだと言った。そして、今までに撮った写真をたくさん僕に見せてくれた。
「オレはどこでどの写真を撮ったのかぜんぶ覚えてるからな。もし見覚えがある景色があったらすぐに言うんだぞ」
 ルイが出かけている間、僕は写真を見たりテレビを見たりして1人で過ごしていた。そのうちにルイの部屋に友達が遊びにくるようになって、彼らと一緒に僕を遊びに連れ出してくれるようにもなった。僕の中の言葉が増えて、断片的な記憶もいくつか思い出すことができた。だけど情緒の面では僕はほとんど発達しなかった。
「 ―― 大河おまえ、カラオケ楽しくなかったか?」
 楽しい、って言葉は知っている。その意味も判るけど、ルイにそう訊かれても僕は満足に言葉を返すことができなかった。僕には楽しいという状態がどういうものなのかが判らなかった。自分の感情というものに言葉を当てはめることができなかった。
 ルイはきっと、僕のそういうところをどうにかしたいと思ってくれたのだろう。仕事で出かけるとき以外は必ず僕を連れて行ってくれたし、撮影で遠出するときには合間に僕の写真を撮ってくれたりもした。ルイが楽しいと思うことを僕にたくさん経験させてくれた。でも僕はずっと変わらないままで、悩みながらも自分のどこが悪いのか理解しないままでいた。
 だんだん、ルイが僕を見つめる表情から笑みが消えていった。僕が気づいて振り返ると視線をそらされることが多くなっていった。
 その日の夜、テレビを見ていた僕はルイの視線に気づいて振り返った。でもルイが目をそらすことはなくて、逆に僕に近づいてきた。
「……オレ、もう限界だ、大河。……嫌だと思ったらちゃんと抵抗しろよ ―― 」
 ルイは僕の顔を上げさせると、互いの唇同志を触れさせた。この行為の言葉は「キス」だ。 ―― 嫌だとは、思わなかった。
 僕の服を脱がせたルイは、布団の上に僕を寝かせると、自分も裸になった。僕の身体に触れて、まるで人形でも扱うかのように僕の身体を動かした。僕が痛いと思うこともした。だけど、ルイが身体に触れていることを、僕は嫌だとは思わなかった。
「おまえが好きだ、大河」
  ―― その日以来、ルイの友達が遊びにくることは2度となかったし、ルイが僕を外に出すこともなくなった。
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覚醒の森4
 翌日、ルイがどこかへ電話をしてしばらくしたあと、2人の女の人がルイの部屋にやってきた。この2人も顔や手に血管が見える。そういえば昨日見せてもらったルイの昔の写真には見えなかった。もしかしたら、僕の血管が見えないのは僕が子供だからなのかもしれない。
 ルイが2人に僕を紹介すると、2人は耳障りな高い声を上げて僕に近づいてきた。
「キャー! かわいー! ねえ、この子ほんとに男の子なのぉ? ぜんぜん美少女じゃないよぉ」
「ああ。昨日この目で確かめたからな、間違いねえよ」
「なにそれぇ! ルイ、まさかこの子が美少年だからって、なにかよからぬことでもしたんじゃないでしょうねぇ」
「するか! 男だぞこいつは! ……そんなことより着替え、持ってきたのか?」
「持ってきたよぉ。でもこんなに美少年なの判ってたら弟の古着なんか借りてこなかったよ。ねえ、着替え終わったらさ、この子ブティックにつれてっていい? もちろんルイが激貧なのは知ってるからお金はあたしが出すし」
「……好きにしろよ。じゃ、大河、しばらくこいつらのおもちゃになっててくれ。オレは交番行ってくるから」
 僕が答えるまもなくルイは部屋を出て行ってしまった。残った2人はすぐに僕の服を脱がせて着替えさせたあと、アパートの前に止めてあった車で僕を駅前の繁華街へと連れ出したんだ。
 その日1日、僕はルイが言ったとおり、この2人のおもちゃになっていた。あたりが暗くなった頃にようやくルイのアパートで解放されて、2人は荷物を置いて帰っていった。僕は最初の店の試着室で買った服に着替えていたのだけど、そんな僕を見てルイが溜息をついた。
「ちょっと見ボーイッシュな美少女だな、それじゃ。……おまえもおまえだ。嫌なら嫌だって言えよ」
 今僕が着ているのは、ごく普通のショートパンツとポロシャツだ。だからルイがどうしてそんなことを言うのかが判らなかった。
「着心地は悪くないよ。……下着の前があいてないからちょっとトイレで困るくらいで」
「馬鹿野郎! おまえの服、ぜんぶ女モノだ! 男が婦人服売り場になんか平気でついていくんじゃない! ……前があいてないって、これから誰が洗濯すると思ってんだあいつら ―― 」
 ルイはめまいがした時のように頭を抑えて、パタッとその場に寝転がってしまった。
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覚醒の森3
 僕はしばらく鏡の中の自分を見つめていたけれど、けっきょくそれが誰の名前なのかは思い出せなかった。
「なんか言ったか?」
 背後からルイが鏡を覗いてくる。隣に映ったルイの顔には、僕にはない無数の血管が見えた。よく見るとその血管はルイの首や手足にも見られる。僕の身体には一切なくて、それが僕には不思議だった。
「僕……なんだか気持ち悪くない? 全身真っ白で」
「……そうか? オレは別に気持ち悪いとは思わないぜ。っつーか普通思わねえだろ、ほくろも傷跡もない完璧な美少年目の前にして」
 どうやら僕はルイから見てもとくにおかしい外見をしている訳じゃないらしい。それを聞いて少しだけ安心した。
「とにかく服、さっさと着ろよ。風邪引くぞ。そうそうおまえの服、なんか血の跡らしいのがついてたけど、見たところ怪我はしてないみたいだな。なにかあったのか?」
 差し出された服を着ながら考えた。でも、自分で思い出そうとすると僕のジグソーパズルはとたんに薄情になって、なにも僕に教えてくれようとはしないんだ。僕はすぐにあきらめてしまった。
「思い出せないんだ。ルイに会う少し前よりも前のことは」
「記憶喪失、ってヤツか?」
「うん、たぶんそうなんだと思う」
「いったいどうしてそんなことになったんだ?」
 僕が答えずにいると、すぐにルイは自分がした質問の無意味さに気づいたんだろう。大きく溜息をついてから言った。
「まあ、きっと親は心配してるだろうからな。明日交番行って届けてくるか。捜索願いが出てるかもしれないし。大河、おまえ年は?」
「14歳」
「中学生か。……オレより6歳も年下なのに、かわいそうにな」
 ルイはそう言ったけど、僕は自分の何がかわいそうなのか、よく判らずにいた。
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覚醒の森2
 たとえて言うなら、このときの僕はジグソーパズルだった。パーツはすべて揃っているのに、それらがぜんぶバラバラになっているから、全体像が見えてこない。1つ1つのパーツが何を意味しているのかも判らない。だけどルイと会話することで、そのとき必要な部分に当てはまるパーツだけが選び出されて、ほんの少しずつだけどパズルが組みあがっていくのが判った。
 雨が降り始めて少ししたとき、ルイは1つのアパートの前で車を止めた。僕の腕を掴んで部屋まで連れて行ってくれる。玄関でためらう僕の靴を脱がせて部屋へとあげてくれた。そして、僕はすぐに風呂場に押し込まれた。
「とにかくシャワーで泥を落とせ。その間になんか着られそうなもの、用意しといてやるから」
「……着替え、貸してくれるの?」
「スウェットくらいしかないけどな。サイズがデカすぎるとか文句言うなよ」
「言わない。……ありがとう、ルイ」
 服の脱ぎ方も、シャワーの使い方も、それほど戸惑うことなく判った。僕はそのへんにあったシャンプーや石鹸で勝手に身体を洗って、用意してあったバスタオルで身体を拭いたあと、髪を拭きながら部屋に戻った。振り返ったルイが僕を見て立ち上がったまま固まる。
「……天使、だな、まるで。……畜生、なんで男なんだよ」
「僕、どこか変?」
「変?って。……おまえ、カガミ見たことないのか? これだけ見た目が完璧な野郎なんてそうはいないぞ。悔しいが男の身体を綺麗だと思ったのなんか初めてだオレは」
「カガミ、見せてくれる?」
 ルイがそっけない仕草で指差したところに、壁に立てかけられた鏡があった。床にしゃがんで覗き込んでみる。……違う。これ、僕の顔じゃない。この顔は ――
「……一二三……」
 鏡に映った顔に向かって、僕はその名前をつぶやいていた。
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覚醒の森1
 目覚めたのはたぶん、どこか深い森の河原だったと思う。思うというのは、僕は目覚めたあと意識がはっきりしないまま、かなり長い時間を移動のために費やしてしまったからだ。このときの僕にはまだ、自我というものすらなかったような気がする。ただ歩いて、歩いて、これ以上歩けないと感じたときに眠って、また歩いた。
 自分が言葉というものを知っていると気づいたのは、初めて人間に話しかけられたときだった。おそらく僕が本当の意味で目覚めたのはこの瞬間だったのだろう。いつの間にか森は途切れていて、僕は灰色に伸びる下り坂を延々と辿っていた。それまで僕のすぐそばを通り越していくだけだった車。その1つが止まって、中から1人の人間が出てきたんだ。
「どうしたんだ? ……そんなに汚れて、道にでも迷ってるのか?」
 言葉を理解したとき、僕の時間は動き始めた。言葉がなければ時間も存在しなかった。今、現在、そして一瞬ごとに通り過ぎていく過去。目覚めて最初に僕の中に生まれたのは「時」だった。
「汚れて……? 僕は、汚れているの……?」
 その人が驚いた表情をしているのが判った。僕の中の「言葉」が、僕にそれを教えてくれた。
「……ああ。汚れてるな。……この先の集落までだってまだかなりあるぞ。ずっと歩いていくつもりなのか?」
 そう訊ねられたとき、僕の中に「未来」という言葉が生まれた。ううん、本当は、僕が最初から知っていたのだろう言葉をこの人が思い出させてくれたんだ。僕はこれからどうすればいいんだろう。僕は今までどうして歩いていたんだろう。
「まあいっか。とにかく乗れ。話は車の中で聞くから。近くの駅までなら送ってやるよ」
 背中を押されてその人の車に乗り込んだ。走り始めてしばらく。長い沈黙のあと、その人は言った。
「おまえ、名前は?」
「大河」
 あまりにすんなり答えられたことが自分でも意外だった。そうか、僕の名前は大河っていうんだ。
「オレはルイ。この先のふもとの町に住んでる。……とりあえず、雨が降り出す前にオレは1度帰るからな」
 ルイはそれだけ言うと、なぜか次に車が止まるまで一言もしゃべらなかった。
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