2006年02月の記事


幻想の街最終回
 悲鳴すら、上げることができなかった。

 その間、自分がなにをしていたのか、思い出すことができなかった。気がつくとあたしは車に乗せられていて、隣に見知った人が座っていた。美幸の友人である理恵子さんだった。運転席の柿沼さんと理恵子さんは40代くらいに見える人間の夫婦で、あたしが顔を上げると理恵子さんが気遣うように肩を抱きしめてくれる。
「一二三ちゃん、しっかりして。まだ死んだと決まった訳じゃないわ」
 口の中に血の味を感じた。忘れもしない、美幸の血の味だった。……そうだ、あたし、あの部屋に流れていた血をなめて ――
「一二三ちゃん! 気を確かに持って!」
「落ち着くんだ一二三ちゃん! 美幸の奴がそう簡単に死ぬ訳ないだろ? 大丈夫だから!」
 知らず知らずのうちに意味のない叫び声を上げていた。美幸の血。美幸の血。美幸の血。あの部屋に流れていたのは確かに美幸の血だった。壁にも、床にも、本当に美幸1人で流したのかと思うような大量の血があふれていて。
 美幸が殺されてしまった。吸血鬼は死んでも死体が残らない。美幸はあの部屋で、誰かに殺されてしまったんだ。
「美幸が……美幸……死ん……!」
「死んでないわ! ぜったい死んでない! だってあの部屋には血が流れたあと以外なにもなかったでしょう? 大丈夫、生きてるわ!」
「そうだよ。身体が溶けたらしい痕跡はなかったんだ。つまり誰かが美幸をあの部屋から連れ去ったことになる。そうだろ? 一二三ちゃん。美幸はちゃんと生きた状態で何者かに連れ去られたんだ」
「ね? 最初から殺すつもりなら連れ去ったりしないわ。美幸はどこかで必ず生きてる。一二三ちゃん、お願いだから信じて!」
 口を閉ざしたのは落ち着いたからじゃない。あたしはもう、何も考えられなくなっていた。今目の前にあるのは美幸がいないという事実だけだ。あたしはまだ、美幸のために何もしていないのに。
「もうすぐ屋敷につくわ。明後日にはマギーもきてくれる。だからお願い、自分で自分を追い詰めないで。あたしたちがそばにいるから」
 だけど美幸はいない。理恵子さんに抱きしめられても、あたしの思考はそこから一歩も前に進むことはなかった。

          了
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幻想の街28
 河合先輩、あたしのために苦しめてしまって、ごめんなさい。そして、あたしを覚えていてくれてありがとう。先輩はあたしを見分けてくれた。あたしの名前を呼んでくれた。この街の、どこにもいなかったはずのあたしを、先輩はずっと忘れずにいてくれた。
 先輩の存在であたしが救われたことに、先輩は一生気がつかないだろう。カズ先輩とのことで壊れかけたあたしの中の何かを、先輩は元の通りに作り直してくれたんだ。あたしはこれから先、ぜったいに人間を食料という存在としてのみ扱うことはない。信頼という絆を思い出させてくれたのは、あたしを覚えていてくれた河合先輩のあの呼びかけだったんだ、って。
  ―― 6年前、あたしはあなたが好きでした。気づいたときには終わっていて、ただ校庭のベンチで泣くことしかできなかったけれど、でもあのときの気持ちに嘘はなかったです。もしもあのときのまま月日が流れていたら、あたしは今でもあなたに恋をしていたかもしれません。だけど ――
 美幸、あたし、今すぐ美幸に会いたいよ。
 ずっと知ってたことだったけど、河合先輩にキスしてはっきり判った。今ではあたしの中で、河合先輩よりもずっとずっと美幸の存在の方が大きくなっていたんだ、ってこと。唇を離したあたしは、呆然と見返す河合先輩の目を見つめた。そして願う。河合先輩が、今の出来事をすべて忘れてくれることを。
 その場に倒れかけた先輩を抱えてソファに横たえた。そして、今度こそ先輩たちの家をあとにする。ギリギリ人間に許された速度で走るのももどかしかった。駅の階段を駆け上がって、改札を抜けて、いらいらしながら待ってようやく到着した電車に飛び乗る。
 ポケットの中にはミチル先輩から回収した大河の種。握り締めながらさっきまでの時間を振り返った。あたしの初めての力がうまく作用したかどうか、それは判らない。でもみんなには本当に迷惑をかけてしまったんだ。今のあたしにできるのは、これから先の先輩たちが普通の幸せを掴んでくれるのを祈ることだけだった。
 電車を降りて必死でアパートまでの道を走り続ける。廊下を抜けて、その扉を開けた瞬間、あたしを迎えたのは最近ようやく見慣れてきたあの部屋なんかじゃなかった。頭の中が真っ白になった。知らず知らずのうちにその場に崩れ落ちる。
 部屋の中に美幸の姿はなかった。その代わり、おびただしい量の真っ赤な血が、部屋中いたるところに飛び散っていたんだ。
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幻想の街27
 玄関からリビングに続く扉はカズ先輩によって開け放たれたままで、背を向けたあたしにも近づいてくる気配がはっきりと感じられた。小さく「ただいま。……誰もいないのか?」と声が聞こえて、ドアを入ったところで立ち止まる。あたしはその場に座り込んだまま動くことができなかった。だけどそのとき、信じられない言葉が背後から聞こえたんだ。
「……一二三、ちゃん……?」
 ぴんと張り詰めた空気に心臓が止まるかと思った。その懐かしい声の響きに耐えられなくてゆっくりと振り返ると、面に驚愕の表情を貼り付けたその人が立っていた。
 6年の年月を経て、高校3年生だった彼は大人の男の人になっていた。グレーのスーツにネクタイ。持っていた黒の書類かばんは足元に滑り落ちている。張り詰めた空気はあたしが振り返ったことで消えていた。目の前の人は、血管の浮き出た顔に少しの微笑を浮かべて大きく息を吐いたから。
「……まさか、そんなはずはない、よね。でも驚いたよ。……君は、もしかしてカズの自慢の彼女かな? だとしたら驚かせてすまなかったね。あんまりその、うしろ姿がオレの知ってる子に似ていたものだから」
 知らず知らずのうちにあたしは立ち上がっていた。 ―― 河合先輩はあたしを覚えていてくれた。それが信じられなくて、でも嬉しくて、あたしは少し涙ぐんでいたのだと思う。無言で近づいていくあたしに河合先輩は少し戸惑っていたみたいで ――
「気に障ったのなら謝るよ。オレもちょっと動揺しちゃってて。その子、実はもう何年も前に事故で死んじゃった子でね。君を見て一瞬彼女の幽霊じゃないかと思っちゃって。いや、顔はぜんぜん似てないんだよ。って、そんなことは君には関係ないことだったね、ごめん」
 焦ったように言い訳を重ねていた河合先輩の首に腕を絡ませた。 ―― 先輩、さっきあたし、あなたの弟を食べました。
「……あの、君、いったいなにを ―― 」
「……ありがとう、ございました」
「……え……?」
 おそらく昔のまま変わらないあたしの声に驚いたのだろう。先輩がそれ以上何も言わないように、あたしは先輩の唇をキスでふさいだ。
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幻想の街26
 あたし自身が我に返るのに、いったいどのくらいの時間がかかったのだろう。
 たぶんそんなに長い時間じゃなかったと思う。ふと見回すと、壁にかかった時計の針は夜の7時を回ったことを示していた。あたしの目の前にはぐったり横たわる人間が2人。互いに折り重なるようにソファに崩れ落ちていた。
  ―― 理性が飛んだのは満月のせいだと思いたかった。たぶん、半分以上はその通りだったんだろう。だから残りの半分未満も満月のせいだと思いたかったんだ。あたしはけっしてカズ先輩を食べることなんか望んでいなかったはずだから。
 もしもこの2人がまったくの他人同士だったら、今起こったことを夢だと信じさせるのは難しくないだろう。でも、2人が互いの記憶を照らし合わせてしまったら、非現実は一気に現実になってしまう。記憶を消すしかないんだ。美幸を頼ることができない今、あたしが2人の記憶を消さなきゃならない。
 人間の精神を操る力は、もともと吸血鬼が生まれながらにして持っている能力。それは人間がまばたきをするくらい自然なことのはずだった。今まであたしが力を使えなかったのは、人の記憶を消すことが悪いことだって、あたし自身が信じていたから。でも今の2人にとって、あたしの記憶は残っていてはいけない記憶なんだ。記憶を消してあげることしかこの2人を救える手段はない。
 眠っているカズ先輩に手を触れた。 ―― お願い、あたしのことをすべて忘れて。
 あたしと出会ったこと。あたしに惹かれた気持ち。あたしの顔も、仕草も、声も、言葉も。生徒会室で一緒に過ごした時間も、ミチル先輩と3人で歩いた帰り道も。今日、この部屋で、あたしに食べられたことも ――
 本当に消えてくれたのかどうかは判らなかった。でも確かめる手段がない以上は美幸に教えてもらったやり方を信じるしかない。同じように今度はミチル先輩に触れる。もう、2度とあなたの前には現われないから、すべてを忘れて幸せになって欲しい、って。
 あたしは忘れていた。美幸が引き止めてくれたのは、午後には帰っている予定の両親だけだったんだってことを。種の回収だけでこんなに時間をかけるつもりはなかったから、最後の1人が帰ってくる時刻までにはすべてを終わらせるつもりでいたんだ。
 再び玄関の扉が開いたとき、あたしの呼吸は止まっていた。
 靴を脱いで入ってくるその足音が近づくのに合わせて、あたしの心臓の動きも徐々に早くなっていった。
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幻想の街25
「ミチ! どうした? いるのか!」
 聞こえたのはカズ先輩の声で、あたしがうろたえている間に血相を変えたカズ先輩がリビングに飛び込んできたんだ。息を切らせたカズ先輩はあたしを見つめたままピタッと動作を止めた。きっとあたしがここにいる理由が理解できなかったんだろう。
「ミチ……。サエコちゃん、どうしてここに……?」
 あたしが何も答えずにいると、カズ先輩はソファに倒れているミチル先輩に駆け寄って肩を揺り動かした。
「ミチ、ミチ! しっかりしろミチ!  ―― サエコちゃん、いったいなにがあった!」
 あたしを振り返ったカズ先輩の顔がみるみるうちに変わっていった。驚きの表情から、怒りを含んだ顔に。
「サエコちゃん、ミチになにをしたんだ。……ミチになにをしたんだ! 答えろよサエコちゃん!」
 そうか、さっきあたしが切った電話。1度取られた電話がいきなり切れたから、カズ先輩はすぐにミチル先輩になにかがあったって気づいたんだ。だからあたしとの待ち合わせを蹴って戻ってきた。なんてバカな計算違いをしたんだろう。カズ先輩にとって、ミチル先輩はあたしとの約束よりもはるかに優先すべき存在だったんだ。
 カズ先輩は、倒れたミチル先輩のそばにあたしが立っていたことで、真っ先にあたしを疑った。カズ先輩はあたしを信じてはくれなかった。それは、カズ先輩にとってあたしの存在がけっきょくその程度だったってこと。あたしを好きだって言ってくれたのも、けっきょくあたしの外見しか見てくれていなかったんだ。
  ―― 真っ赤に膨れ上がった血管。今、あたしの目の前にいるのは、おいしそうな血を持った人間という名の食料。若くて、健康で、いくぶん動きの早い心臓が全身を激しい鼓動で覆っている ――
 悔しさとか、悲しみとか、食料だと思えば感じる必要なんかなかった。食料に信頼を求める意味なんかなかった。ただ、今目の前にあるものを食べる、それだけ。
「 ―― おなか、空いた……」
 片腕にミチ先輩を抱きかかえた食料を捕まえて、あたしは欲望の赴くまま、空腹を満たした。
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幻想の街24
 日曜日の夕方、あたしはちょっと目にはバレない程度の変装をして、再びコンビニで雑誌を物色していた。満月期のあたしには宿主の気配がはっきりと感じられる。6時少し前の今、ミチル先輩はどうやら自宅にいるらしかった。ふと、目の前の道をカズ先輩が通り過ぎようとしたから、あたしは持っていた雑誌で顔を隠した。
 それから10分ほど待ってミチル先輩の家まで行って、門の前で髪を解いてサングラスをはずす。ショートパンツ姿のあたしはいつもとずいぶんイメージが違うだろうけれど、美幸が言ったとおり非日常的な方があとでミチル先輩の記憶を惑わすにはいいと思ったんだ。呼び鈴を押すと出てきたのは思ったとおりミチル先輩で、あたしの顔を見るとちょっと驚いたように目を見張った。
「サエコちゃんじゃない。……カズなら今さっき出て行ったよ。いったいどうしたの? もしかしてカズと行き違っちゃった?」
「そうじゃないんです。すいません、先にミチル先輩に話したいことがあって。すぐに済みますから少しだけ聞いてもらえませんか?」
「いいけど。……怖い顔して、なんか深刻そうだね。とりあえず上がりなよ」
 そうして無事にリビングに通されたあと、すぐにミチル先輩のケータイが鳴ったんだ。先輩が「カズからだ」とつぶやいて取ろうとした電話をあたしが奪い取って通話を切ってしまった。その非常識な行動に驚いた先輩が目を丸くしてあたしを見る。あたしは涙目で先輩を睨むようにして、1歩前に踏み出した。
「あたし、カズ先輩と付き合えばミチル先輩に近づけると思ってました。でもミチル先輩は横地先輩と……。あたし、本当はミチル先輩が好きだったんです。ミチル先輩、お願いします。あたしと付き合ってください」
 絶句したミチル先輩に抱きついて唇を重ねた。驚いて暴れる身体を押さえつけて、リビングのソファに押し倒してしまう。普通の人間であるミチル先輩が、満月期の吸血鬼の力にかなうはずはなかった。あたしは少し乱暴なくらいに激しい仕草でミチル先輩の種を口内に集めて、そのうちに先輩が意識を失って身体から力が抜けるまでずっとキスを続けていた。
 ぐったりしたミチル先輩の口の中から大河の種を取り出す。これで1番の目的は達成されたから、思わず大きな溜息をついていた。すぐにこの家を出て、もっとおとなしい服装で普通にカズ先輩と会えば、ミチル先輩はきっとこれが夢だったと思ってくれるだろう。
 あたしがきた痕跡が残ってないことを確認して家を出ようとしていたそのときだった。不意に玄関の方から扉が開く音が聞こえたんだ。
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幻想の街23
 その週が終わるまで、あたしはミチル先輩のスケジュールを探り続けた。でも、毎日横地先輩と帰り始めたミチル先輩とはなかなか個人的な会話をする機会がなくて、金曜日になってもぜんぜん判らなかったんだ。今週の土曜日はうちの学校もお休みになる。そんな金曜日の帰り道、ちょっと言いづらそうにカズ先輩が言った。
「あの、明日さ、もしよかったらどこかへ行かない? 映画の新作も始まるし……ほら、天気もさ、よさそうだし」
「明日はちょっと……。このところお洗濯サボってて、明日しかあいてなくて」
「そ、そうだよね。サエコちゃんは主婦代わりなのに毎日生徒会につき合わせちゃってるのはオレの方だし。……それじゃ、明後日は?」
「兄と美術館に行く約束があるんです。先週からの約束なので……すみません」
 カズ先輩は落胆したようでしおれてしまった。その仕草がなんだかすごくかわいらしく見える。……とうぜんかもしれない。この人は、あたしが普通に成長していれば4歳も年下になっているはずなんだから。
「あ、でも、もし先輩さえよければ夜ならあいてます。はっきり確約できないんですけど、たぶん6時前には戻ってこられますから」
「……本当?」
「はい。よろしかったらお夕食、一緒に食べませんか?」
 振り返ったカズ先輩の顔がパーッと輝いたのが判って、わき上がってきた罪悪感がちくりと胸を刺す。あたしはミチル先輩からカズ先輩を引き離すためにこの約束をしているんだ。そして万事うまくいったあとは、カズ先輩と夕食を食べながらあたしが再び転校することを話すつもりでいる。
 カズ先輩とは日曜の夕方6時に駅で待ち合わせて、翌日の土曜日は予告どおりの洗濯と掃除をした。軽く荷物もまとめておく。日を追うごとに美幸はどんどん落ち着きをなくしていったから、明日ちゃんと決められなければ美幸が本当に壊れてしまうような気がした。
「 ―― 大丈夫。ちょっとだけ、いらいらするだけだから。……なにかあったら連絡して。万が一、回収に失敗しても、僕が夜中に忍び込んであげるから大丈夫だよ。だからけっして無理はしないで」
 そう、笑顔で告げる美幸が痛々しくて、あたしは美幸が眠りにつくまでずっと彼の手を握っていた。
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幻想の街22
「 ―― 大河が山の中にいたというのも不思議だね。今までは人の多い繁華街にいたのに。どの山かは聞けたの?」
「そこまでは訊けなかった。あんまり追求するのも不自然だったから」
「そうだね」
 その日の夕食のとき、あたしが帰り道でのカズ先輩との話を聞かせたあと、美幸はちょっと難しい顔をして考え込んでいた。
「で、問題は当日の夜にミチルちゃんと2人きりになれるかどうかか。日曜日の夜なら両親も家にいるだろうし、日が落ちたあとに女の子を呼び出すことは難しいだろうな」
「ただね、昼間はみんな仕事で出かけて留守らしいんだ。河合先輩はご両親とは同系列の別の会社にいるんだけど、月曜定休で日曜日は普通に出社してるの。両親の方はいつも午後には帰ってきているみたいだけど」
「それじゃ、両親の方は僕に任せて。あの会社があるあたりならおそらく僕の知り合いはいないだろうから。一二三は日が完全に落ちた6時以降、ほんの数分間でもあの家でミチルちゃんと2人きりになる方法を考えればいいよ。そのあとはどうにでもなるから」
 もしもミチル先輩が自宅で過ごしているのなら、2人きりになるのはそれほど難しくはないと思う。カズ先輩を呼び出して外で待ち合わせの約束をしてしまえばいいんだ。ミチル先輩がどこか別の場所へ出かけてしまっていたらちょっと面倒になるかもしれないけど、満月の夜なら宿主の気配を追跡するのはさほど難しいことじゃない。問題があるとすればそのあとだ。
「どうにでもなるってどういうこと? あたし、ミチル先輩の記憶を消したりできないんだよ? もしも疑われたら……」
「日常ではありえない、非日常的な出来事は、目覚めたあと本人が勝手に「あれは夢だった」と解釈する確率が高いからね。だから当日彼女の前では一二三もできるだけ非日常的な行動を取る方が効果的だよ。まあ、自宅以外の場所だとその効果も薄れるけど」
「……ミチル先輩が外で横地先輩とデートしてたら?」
「そのときはしょうがない、女子トイレで背後から襲って気絶させるしかないだろうな。……逆にこれじゃ事件に発展しちゃうか」
 さらっと答えた美幸にあたしは溜息をついた。でも、悪いのは美幸じゃなくて、人間の精神を操ることができないあたしの方だ。吸血鬼と出会った記憶なんか残っていない方がいい。美幸が言うとおり、この力は人間と吸血鬼、双方のために必要不可欠な力なのだろう。
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幻想の街21
「ミチはあんな見かけだから誤解されやすいんだけど、意外に繊細だったりするんだ。前に軽い記憶喪失になったことがあって、しばらくはちょっとした物音にも敏感に反応したりしてね。だからよけいに心配になるんだ。って、別に横地の奴がどうとか思う訳じゃないんだけど。……ごめん、こんな話、聞きたくないよね」
「そんなことないです。あたしもミチル先輩のことは大好きだし。……カズ先輩とミチル先輩がいつも一緒にいるの、すごくいいって思ってました。ちょっとうらやましいかな、って」
「サエコちゃんにもお兄さんがいるんだよね?」
「はい。でも、中学も高校もずっと別だったし、今になって一緒に暮らしていてもなんだかギクシャクしちゃって。あの、よかったらもっと話してください、ミチル先輩のこと。……差し支えなければ、その記憶喪失のこととか」
 ミチル先輩の記憶喪失。カズ先輩のその言葉があたしの意識を切り替えさせた。あたしの顔を見てミチル先輩が大河のことを思い出さないのは、大河がミチル先輩の記憶を消したからなのかもしれないんだ。今ここでカズ先輩から聞きださなければ、こんなチャンスは2度と巡ってこないかもしれない。そう思って必死で話題を戻したあたしに、幸いカズ先輩は少しの疑いも持たなかったみたいだった。
「記憶喪失とは言ったけどね、実際たいしたことではないんだ。丸1日分くらい記憶が抜け落ちていただけだから。中学の頃、3年の遠足で山登りに行ったことがあってね。ミチは例の有り余る好奇心でか列を離れてしまって、どうやら道に迷ったらしい。その日はもう一晩中大騒ぎだったよ。朝になってから斜面で倒れているところを発見されたんだけど、病院で目覚めたときには自分が遠足に行ったことすら覚えてなかった。……たぶんよほど心細かったんだろうね。それまではオレとミチとが別々に夜を過ごしたことなんてなかったから」
「……たいへんだったんですね。それでミチ先輩、怪我とかはなかったんですか?」
「まあ、多少の擦り傷やアザはあったみたいだけど、さほど衰弱もしてなかったし、すぐに退院できたよ。……ミチがいない間、いろんなことを考えちゃってね。このままミチが死んじゃったらどうしようとか、子供の頃のことを次々思い出したりして。夜の間中ずっと家族に囲まれてたオレですらそうだったんだ。独りだったミチはきっと、オレの何倍も怖かったと思う。記憶をなくすくらいに ―― 」
 間違いなかった。それまで1度もカズ先輩と離れたことのなかったミチル先輩に大河が種を植え付けたのは、この遠足の夜だったんだ。
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幻想の街20
「けいあい? それって愛してるってこと?」
「愛してます! ミチル先輩はオレらの生徒会にはなくてはならない大輪の薔薇っす!」
 それまで横地先輩を睨みつけていたミチル先輩は、このときやっと笑顔を見せた。息を詰めて成り行きを見守っていたみんなにも安堵の溜息が漏れる。でも次の瞬間、ミチル先輩は横地先輩の胸倉から手を放して、背後から首根っこを片腕で締め上げたんだ。
「よっしゃ! よく言ったヒロポン! 決ーまりっ。今日からヒロポンがあたしのこと家まで送ってって」
「え……? だってミチル先輩は会長と……」
「あたしがオジャマ虫してどうすんだって。若いモンは若いモン同士! ヒロポンだって愛するあたしと帰れて嬉しいでしょ?」
「だからヒロポンはやめてって ―― ぎゃーっ! 判りました、判りましたよぉー! 送っていきますから殺さないでくださーい!!」
 うしろから首を絞められてじたばたしながら横地先輩が言って、ミチル先輩はようやく力を緩めて横地先輩を解放した。息を整えながら上目遣いで様子を伺う横地先輩に、ミチル先輩は彼の頭をこぶしで叩いて答える。なんとなく納得した。この2人、たぶん両想いだ。
 でも微笑ましいばかりじゃいられなかった。種の宿主はミチル先輩なんだ。あたしが恐れていたように、このままではカズ先輩との距離が縮まった分だけミチル先輩との距離がどんどん離れていってしまうから。満月は次の日曜日。それまでにどうにかしてミチル先輩に近づかなきゃいけないのに。
 その日の帰り道はカズ先輩と2人きりだった。校門を出るとミチル先輩は横地先輩の腕を引いて、帰り道とは別の方向へ歩き始めてしまったんだ。少しの間遠い視線で見送ったカズ先輩は、あたしを促したときには微笑みを見せてくれたけど、明らかに様子がおかしかった。帰り道を歩き始めてからも、その前、生徒会室にいるときからもずっと。
「カズ先輩……?」
 あたしの声に振り返った先輩はやっぱり微笑を浮かべていた。
「ごめんね、サエコちゃん。……考えてみたらオレ、ミチと離れていることってあんまりなくてさ。もちろんクラスが違ってたことは何度もあるんだけど」
 ミチル先輩が横地先輩と帰ると言い出したことで、カズ先輩が想像以上にショックを受けていたことがあたしにも判った。
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