2001年03月の記事


蜘蛛の旋律・59
 野草の精神が、世界を支えきれなくなってきている。その影響は風景だけにとどまる訳じゃない。このままいったら、野草のキャラクター達だってだんだんおかしくなっていくかもしれないんだ。
「黒澤、オレに足を貸してくれ」
「自転車? 車?」
「できれば両方」
 免許は持ってないけど動かすことくらいならできる。ただしオートマに限るけど。
「駐車場は向かいのタバコ屋裏で46番にあるグレーのパルサー。アパート西の自転車置き場にマウンテンバイクがある。どっちもあと5年は乗るんだから壊さないでよ」
 そう言って黒澤は鍵をよこした。世界が壊れるって時に何をのんきなことを言っているんだろう。
「あと1つだけ教えてくれ。オレがさっき本屋の爺さんに襲われたの、あれは誰かが爺さんを操ってたってことなのか?」
「巳神はそう感じたんでしょ? だったらそれが真実なんだよ。巳神は今までの小説の流れと人生経験からその答えを導き出した。当然片桐信の行動も伏線になってる。読者が納得できるうちは、その答えで十分なんだよ。あんたは登場人物なんだからあんま小説のストーリーにまで口出さないでくれる?」
 なるほど、黒澤はいろいろ先のことも考えて伏線張りながら小説を書いているってことか。
 たぶん、オレがここまで自力で走らされたことにも、それなりの意味はあったんだ。
「判ったよ。基本方針は野草を捜す、これで間違いないんだな?」
「それがすべてだと言っても過言じゃない」
「判った。何とかしてやる」
 そう言って、オレは黒澤のアパートを出た。
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蜘蛛の旋律・58
 野草の精神が、世界を支えきれなくなってきている。その影響は風景だけにとどまる訳じゃない。このままいったら、野草のキャラクター達だってだんだんおかしくなっていくかもしれないんだ。
「黒澤、オレに足を貸してくれ」
「自転車? 車?」
「できれば両方」
 免許は持ってないけど動かすことくらいならできる。ただしオートマに限るけど。
「駐車場は向かいのタバコ屋裏で46番にあるグレーのパルサー。アパート西の自転車置き場にマウンテンバイクがある。どっちもあと5年は乗るんだから壊さないでよ」
 そう言って黒澤は鍵をよこした。世界が壊れるって時に何をのんきなことを言っているんだろう。
「あと1つだけ教えてくれ。オレがさっき本屋の爺さんに襲われたの、あれは誰かが爺さんを操ってたってことなのか?」
「巳神はそう感じたんでしょ? だったらそれが真実なんだよ。巳神は今までの小説の流れと人生経験からその答えを導き出した。当然片桐信の行動も伏線になってる。読者が納得できるうちは、その答えで十分なんだよ。あんたは登場人物なんだからあんま小説のストーリーにまで口出さないでくれる?」
 なるほど、黒澤はいろいろ先のことも考えて伏線張りながら小説を書いているってことか。
 たぶん、オレがここまで自力で走らされたことにも、それなりの意味はあったんだ。
「判ったよ。基本方針は野草を捜す、これで間違いないんだな?」
「それがすべてだと言っても過言じゃない」
「判った。何とかしてやる」
 そう言って、オレは黒澤のアパートを出た。
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蜘蛛の旋律・57
「てことは、小説書きってのは、キャラクターが自分の意志で動かなけりゃ何もできないってことなのか?」
「そ。あたしができるのは、実際に動いてるあんた達の暴走を止めることだけなの。小説のキャラクターは、普通に生きてる人間と何ひとつ違わない。それは巳神にも判るでしょう? シーラも巳神も、あたしの意志で簡単に動かせる程度の人間じゃないんだ」
 なんとなく判った。黒澤の小説のキャラクターが、まるで生きて動いているような臨場感を持って読者に訴えかけてきていた理由が。小説書きは、キャラクターを造って舞台と筋を設定する。そのあとはすべてキャラクターしだいなんだ。小説を書くってことは、作者とキャラクターが真剣勝負で戦っているのと同じことなんだ。
「判ったよ。これからまた動くからその前に答えてくれ。……駅のバス停で会った女、あれはいったい誰だったんだ?」
「あんたって……なんでそうやって小説の常識を平気で破ってくれちゃうのかね」
 黒澤は呆れたようにため息をついて、それでも質問には答えてくれた。
「あの人は巳神と同じ上位世界の人間だよ。だけど、あたしが召喚したんじゃない。勝手に迷い込んだの」
「どうして」
「薫の下位世界に歪みっていうか、ほころびが出来はじめてるから。もともと薫の下位世界は上位世界と同調することでかなり安定していたんだけど、事故の衝撃でムリヤリ引っぺがされちゃったから、あちこちおかしくなり始めてるの。それでも最初は形を保ってたんだけどね。たぶんこれからもっとおかしくなるよ」
 ……あれ? この世界は野草の精神が支えている世界なんだろ? それがおかしくなり始めているってことは、もしかしたら野草の精神が影響を与えているってことじゃないのか?
「巳神、いいところに気付いてくれたね。あんたが察した通りだよ。だんだん少しずつ、薫の精神が世界を支えられなくなってきてるんだ」
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蜘蛛の旋律・56
 以前学校まで走ったときも遠いと思ったけど、やっぱり駅から黒澤のアパートまではかなり遠かった。
 たぶん3、4キロはあったと思う。周りに車がいないことだけが唯一の慰めで、オレは信号も無視して約15分ほど駈け通し駈けていった。
 それでやっと、アパートの玄関前まで辿り着く。呼び鈴を押して黒澤を呼び出している間、オレは乱れた息を何とか整えた。やがて顔を出した黒澤に話し掛けようとしたところ、タッチの差で先を越されたんだ。
「あたしはどこぞの占い師みたいに、困ったときはいつでもおいで、なんて言った覚えはないんだけど」
 オレはなんだか本気で腹が立って、上目遣いに睨みつけている黒澤に負けじと睨み返して言ったんだ。
「あんたが書いてる小説だろ! 放置自転車の1つも置いとくとか、誰かに迎えに来させるとか、何とかできなかったのかよ!」
「うるさいね。あたしはいつでも真剣勝負で小説書いてるんだよ。こっちだってあんた達に振り回されっぱなしなんだ。シーラだってほんとはもう少し物語の中に留まってて欲しかったのに勝手に消えちゃうし。巳神は薫の居場所突き止められそうな気配はぜんぜんないし」
 一言怒鳴りつけたせいか、黒澤の言葉を聞いたせいかは判らないけれど、オレはずいぶん落ち着いてきた。
「黒澤、あんたの小説って、そんなに自分の思い通りにならないのか?」
「ならないよ。っていうか、小説って実際にキャラが動いてくれないと、細かいストーリーが決まらないんだ。最後にどうしたいかくらいの目標はあるけど、そこに到達させるために作者がやることって、あっちにニンジン吊るしたり、こっちで野犬に吠え立てさせたり、要するにそんなことなの。あんたが自分で動かなかったら、この小説いつまでたっても終わらないんだから」
 つまり黒澤は、オレが行動したことを小説に書きとめているだけの、いわゆるただのワープロだってことらしい。
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蜘蛛の旋律・55
「次は9時半ですけど……私、もう30分くらい待ってるのに、前のバスも来なかったんですよ。9時にくるはずだったのに」
 女性は受け答えもちゃんとしていたし、言っていることもおかしなことはない。もしかして……この人は野草のキャラクターじゃないのか? だけど普通の何の関係もない部外者が、野草の下位世界に存在したりするのか?
 少し確かめてみたくて、オレは更に女性に話し掛けた。
「夕方、向こうの路地で爆発事故があったの、知ってます?」
 バスを待っている間の退屈しのぎに世間話を始めたと思ったのだろう。女性は少し表情を緩ませた。
「夜のニュースで見たよ。なんだか怖いよね。高校生の女の子が重態とか言ってたけど」
「その子、オレの同級生なんですよ。テレビで名前言ってました?」
「言ってたけど覚えてないな。……そう、君、その子の同級生なんだ。心配だね」
 野草のことでもまったく反応を見せなかった。たぶん、この人はシーラのような、すべてに気付いた野草のキャラクターじゃない。オレが知らない野草のキャラクターなのか、それとも本当に無関係な人なのか。それは判らないけれど、この人は本当に何も知らないんだ。
 よく考えればオレだって無関係な人間なんだ。オレを野草の下位世界に呼んだのは黒澤弥生。この人も黒澤が呼んだのだろうか。どちらにしても、オレはもう一度黒澤に会う必要がありそうだった。
「あの、たぶん、ここで待っててももうバスきませんよ。オレ、走って帰ることにします。あなたも諦めて歩いた方がいいかもしれないですね」
 たとえ無事に帰り着いたとしても、彼女の家族はこの世界には存在しないだろうけど。
 オレは彼女の返事は待たずに、バス通りを西へ向かって走り始めていた。
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蜘蛛の旋律・54
 本屋の前はほとんど路地と言っていいほど細い道で、たまに思い出したように街灯が立っている。今はその下に老人が気を失って横たわっていて、少し離れたところには例の包丁が落ちていた。はっきりした位置は判らないけれど、ここはオレが通学に使っている駅だから、方角くらいならば何とか判る。たぶん5分も歩けば駅のロータリーに出るはずだ。終バスは10時。ただし、動いていればだけど。
 前に財布を忘れて根性で走ったことがあったっけ。確か学校までノンストップで30分近くかかったんだ。なんだか本気でシーラを恨みたくなってきた。オレに足がないのは判ってたことなんだ。せめて野草の病院まででも送り届けて欲しかったよ。
 そこにそうしていても仕方なかったから、オレはたぶん駅だと思う方角に向かって歩き始めた。しばらく歩くと見慣れた景色が現われて、オレは念のため、毎朝乗っているバスの停留所に向かった。当然誰もいないだろうと思ったのに、バス停にはバスを待っているらしい人影があったのだ。近づいていくと、それが会社帰りのOLらしい1人の女性であることが判った。
 誰だろう。ここにいるのだから、彼女も野草の小説の登場人物だろうか。だけど、オレが今まで読んだ小説の中には、OLなんて出てこなかったんだ。野草の話は空想小説、どちらかといえばSFに近いもので、普通のOLが出てくるチャンスなんてめったになかったから。
「あの、すみません」
 本屋の爺さんの例もあったから、オレはかなり警戒しながら声をかけた。振り返った女性はオレを見たけれど、特におかしな反応は見せなかった。
「はい、なんですか?」
「バスを待ってるんですよね。次のバスは何時ですか?」
 少し顔を赤くした女性はどうやら職場の飲み会帰りといった感じで、ちょっと不審そうにオレを見上げているほかは、普通と変わった様子はまったくなかった。
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蜘蛛の旋律・53
「巳神には判らないよ。……人を好きになったことのない巳神には、ぜったい判らない」
 シーラはオレを見つめたまま、諦めたような、オレを哀れんでいるような声色でそう言った。オレは何も言うことができなかった。確かにオレは、現実の人間に恋をしたことなんて、今までなかったから。
「巳神が言ってること、理屈では判るよ。今あたしがタケシの傍に行ったところで、なにもできないしなにも変わらない。でも、理屈では判ってても、あたしは今タケシのところに行きたいの。……だってあたし、タケシにまだ何も言ってないんだ」
 オレが読んだシーラの物語。2人は互いの気持ちを確かめられないままで、物語は終わっていた。たぶん野草は続編を書くつもりでいたのだろう。読んでいるオレには2人の気持ちははっきり判っていたのに、2人だけが、互いの気持ちを知らなかった。
 もしもオレに好きな人がいて、あと数時間で世界が終わるとしたら、オレも最期の時をその人と過ごしたいと思うのだろうか。
 オレは今、シーラと一緒にその時を過ごしたいと思い始めている。
「巳神には判らない」
 シーラは再び言って、オレから離れた。
「あたしの気持ちも……あたしにそんな苦しみを与えた薫の気持ちも」
 けっきょく一言の反論も許さないまま、シーラは駆け出していった。うしろ姿を見送る。オレはタケシに負けたのかもしれない。胸がチクチクと痛んで、その情けなさに涙が出そうだった。
 だけど、心を落ち着けて冷静にあたりを見回したとき、オレは自分がとんでもないところに置き去りにされたことに気付いたのだ。
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蜘蛛の旋律・52
「それじゃ、あたしこれで行くから」
 そう、シーラが言ってくるりと背を向けて歩き始めたから、オレは驚いてシーラの前に立ちはだかった。
「ち、ちょっと待ってくれ。どうしていきなり」
 言ってしまってから気付いた。今のオレはあまりに情けない姿をシーラに見せてしまったから、呆れられたとしてもしょうがないんだ。こんな奴といっしょに行動しても、先行きの展望は見えないだろうから。
 だけど、シーラがそう言った理由はそれだけではないようだった。
「タケシが心配なの。……巳神は、あのお爺さんが誰かに操られてるように見えなかった? あたしはタケシを眠らせてきた。眠ってる身体の方が操りやすいってことだってあるでしょう? とにかくタケシの様子を確かめたいの」
 そう言ってまたシーラはオレを追い越していこうとしたから、オレも再びシーラの前に回り込む。本音は、シーラとこれからもずっと一緒にいたかったんだ。だけどそうとは言わずに必死になって言い訳を考えていた。
「たとえタケシが操られてたとして、シーラ、君にどうにかできるのか? それより野草を捜す方が先だろ。野草の自殺願望がなくならない限り、この世界は明日の5時20分に消滅しちまうんだ。タケシだって助けられないじゃないか」
 オレの言っていることは真実で、理にかなっていた。たぶんシーラも判ってくれる。だけど……シーラはちょっと諦めたような笑いを見せて、立ちはだかったオレに近づいて、頬に触れてきたんだ。間近になってしまったシーラの表情にドキドキした。その綺麗な瞳には、見ていて切なくなるような表情が浮かんでいたから。
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蜘蛛の旋律・51
 これがゲームなら、コンティニュー画面が出てYESを選ぶと、セーブポイントから再び始められたりするのだろう。
 だけど、ここは野草の下位世界で、黒澤弥生の小説の中で、オレにとっては現実だ。もしも他人の下位世界で死んだらどうなるのだろう。現実の世界でも死んでしまったりするのだろうか。
 オレにのしかかっていたシーラは、ゆっくりと身体を起こして、少し呆れた感じでそれでも微笑んで見せた。手に持っていた包丁を遠くに投げ捨てる。オレは自分の胸を見て、血の一滴も流れておらず、1つの怪我もないことを確認した。驚いてもう一度シーラを見上げると、彼女は、いたずらが成功した子供のような表情で、倒れたオレに手を差し伸べた。
「驚かせたね。とりあえずあたしは正常だから安心して」
 そう聞いて、オレは心の底からほっとしたと同時に、今更ながら心臓がバクバク鼓動しているのを感じた。立ち上がって、深呼吸をして、落ち着ける。シーラは正常なんだ。シーラは自我を持ったキャラクターだから、何かに操られてオレを襲ったりはしないんだ。
 だけど、それならなんで、シーラはこんなことをしたのだろう。
「シーラ、どうして」
 それしか言わなかったけど、オレが言いたいことは伝わったらしかった。
「巳神、勝負の基本は先制攻撃。相手に攻撃する隙を与えないことね。それと、攻撃には適正距離っていうのがあって、もちろん遠すぎてもダメだし、逆に近すぎてもダメなの。例えばパンチングマシーンでいい成績を出そうと思ったら、それほど近くない位置で打つでしょう? だから、あんまりケンカに自信がないんだったら、先制攻撃で胸に頭突きを食らわすのがいいの」
 そう、まくし立てながら、シーラはオレの胸に頭突きを食らわす仕草をした。そして、オレが返事を返す間もなく、再び続けた。
「ここまで懐に深く入られたら、相手はそう簡単には攻撃できないよ。もちろん慣れてる相手には効かないけどね。でも、少なくとも相手を驚かせることはできるはず。さっき、あたしが巳神を驚かせたみたいにね」
 どうやらシーラは、それをオレに教えるために、ああいう行動を取って見せたらしかった。
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蜘蛛の旋律・50
 それにしても、この老人はどうしていきなり襲ってきたりしたのだろう。シーラによれば、自我を持たなかったキャラクターは小説の通りに行動していたはずだ。この老人が小説に書かれたことはなかったけれど、野草の持つ古本屋の主人のイメージが、突然包丁で襲い掛かるなどというものではないことくらいは想像できる。老人は明らかに様子がおかしかった。まるで誰かに操られてでもいるみたいに。
 倒れている老人から目を離して、少し遠くに立っているシーラに視線を戻した。その時シーラは目を伏せて、何かを考えているように見えた。
「シーラ、あの……」
 そして、オレは見たのだ。振り返ったシーラが、あの老人とまったく同じ雰囲気を醸し出している。上目遣いでオレを見据え、奇妙な薄笑いを浮かべているところを。
「シーラ……?」
 ぎこちない仕草で、シーラはオレに近づいてきた。心臓がドクドク鼓動を伝えてくる。まさか、シーラも老人と同じになってしまったのか? 見えない誰かに操られて、オレを殺そうとしているのか……?
 知らず知らずのうちに、オレはあとずさっていた。さっきまでオレの足元にあった、老人の包丁。距離を詰めてきたシーラは、ゆっくりとした動作で包丁を拾って、刃先を動かす。狙っているのは、オレの心臓。
「……あたしでない異質なものは、排除しないと……」
 にやりと笑って突っ込んでくる。包丁をオレの心臓に合わせて、機敏な動作で。
 逃げられる訳がない。彼女の方が動作も素早く、明らかにこういうシチュエーションに慣れているのだから。

 懐に飛び込んできたやわらかい身体に押されて、オレはうしろに倒れこんだ。
 オレは、殺されてしまった。
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蜘蛛の旋律・49
 最初の一撃を何とか避けることができたのは、オレと老人との間に約60年の年齢差があったからだ。バランスを崩して本棚に倒れ込んだ老人を避けて、オレは道路に飛び出した。シーラはオレより早く本屋から出て少し距離を置いたところで身構えてる。振り返って見ると既に老人は立ち上がっていて、開かれたままのドアを出てくるところだった。
 たぶん走ればぜったいオレたちのほうが速い。もしもシーラが駆け出していたのならオレの足も動いてくれてたのかもしれない。だけど、いったん振り返って包丁を振りかざした老人を目にしたら、それだけで足がすくんで動けなくなってしまったのだ。老人はちょっとぎこちない仕草で近づいてきて言った。
「……わしでない異質なものは排除せねばのお……」
 あたりは既に暗くてはっきりとは見えなかったのだけど、街灯の明かりに映し出される老人の様子は明らかに常軌を逸していた。オレを上目遣いに見つめて、意味の判らない薄笑いを浮かべている。オレは本当に恐ろしくて、心の中で見えない誰かに助けを呼びつづけた。ここは黒澤弥生の小説の中で野草薫の下位世界なんだ。誰でもいい、誰かオレを助けてくれる奴を小説に登場させてくれよ黒澤!
 完全に体勢を立て直した老人はもう目の前に迫っていた。包丁はオレの顔面に向かって振り下ろされようとしている。小さな痩せた老人はものすごく巨大な存在に見えた。何のことはない、いつの間にかオレは座り込んでしまっていたんだ。
 その時だった。
 なんだかすさまじく嫌な音がして、老人が苦悶の表情を浮かべて目の前に倒れこんだのは。
 その意味はすぐに判った。シーラがオレと老人との間に割り込んで、老人に当て身を喰らわせたのだ。
「……巳神、立ったら?」
 振り返ったシーラは、心底呆れたようにため息をついた。まだ膝も腰も怪しかったのだけど、これ以上恥をかくのも悔しかったから、何とか平静を装って立ち上がった。……たぶん、たいしたフォローにはならなかっただろうけど。
「……なんかすごい音がしたけど……」
「骨くらい折っとかないと危ないでしょ。しっかりしなよ。相手は普通の年寄りなんだよ」
 身体もそれほど小さくない男が、美人でたおやかな女性に救われたという事実は、それだけでかなり赤面モノだった。
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蜘蛛の旋律・48
 爆発で炎に包まれた古本屋。
 オレはシーラと黒澤に、ここが野草の下位世界であると証明されたけれど、たとえそうじゃなくてもこの本屋を見た瞬間に信じただろう。
 古本屋は、何事もなかったかのように、その場所にあった。
「てことは、シーラ、ここの爺さんはタケシと同じで、今は自我を持ってないんだな?」
「たぶんね。……ただ、この人は薫の小説の登場人物じゃないから、あたしにもはっきりしたことは判らないよ」
 シーラは、本屋が爆発した瞬間に、野草の下位世界と現実世界が分離したのだと言った。正確には野草が意識を失った瞬間、ということになるだろう。あの時、一緒に爆発に巻き込まれたはずのあの老人は、既に現場には存在しなかったんだ。だから病院に運ばれた形跡もなかったし、死体も発見されなかった。
 古本屋がここに無傷で存在するということは、老人だって無傷で存在するはずだ。野草の下位世界の人間はタケシもシーラも区別なく存在している。存在しているか否かは、自我を持ったか否かとは無関係なんだ。
 オレは覚悟を決めて、その本屋の入口をくぐった。うしろからシーラもついてきている。薄暗い店内の、正面のレジのところに、あの老人は座っていた。
 オレが近づいて行くと、ゆっくりと顔を上げ、眼鏡をそっと押し上げた。非現実的な不思議な気分。オレを見て何故かにやっと笑った。同じだった。数時間前にオレがここを訪れたときと、まったく同じように老人は行動しているのだ。
「本をお求めかね?」
 同じセリフを言った老人に、オレは必死になってあのときの会話を思い出そうとした。確かあの時オレは ――
「ええ、そうです」
「じゃあ、これを持っていくといい」
 そして、老人が言ったセリフがその時のものとは違うことにオレが気付いた瞬間、老人はいきなり立ち上がって、手に持っていた包丁を振り上げてオレに襲い掛かってきたのだ!
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蜘蛛の旋律・47
「巳神、ここにこうしてても仕方ないよ。あたしは薫を探しに行く。巳神はどうする?」
 シーラはもしかしたら、オレに失望しかけてるのかもしれない。いつもシーラの隣にいたのはタケシで、タケシはオレよりもずっと冷静で有能だったから、それと比べればオレはずいぶん頼りなく思えたことだろう。だけど、オレだって黒澤に召喚された勇者なんだ。シーラに失望されるのは悔しかったし、タケシよりも劣ると思われるのは無性に腹が立った。
 肉体的にはタケシにかなう訳がないけど、頭脳労働ならぜったいタケシには負けたくないんだ。
「オレはもう一度例の本屋に行ってみたいと思ってる。シーラは? つきあってくれる?」
 オレの言葉にシーラは子供のような笑顔を見せた。
「つきあうよ。巳神は足がないもんね。ここから本屋まで歩いたら20分近くかかりそうだし」
 果たしてシーラの信頼を繋ぎとめられたのかどうかは判らなかったけれど、オレたちはまたシーラの車で、野草が爆発事故に巻き込まれた、あの本屋に向かったのだ。
 本屋の周辺の道路は狭く、運転にあまり自信がないというシーラの言葉もあって、オレたちは手前の大通りに車を停めて歩いて本屋に向かった。
 ごちゃごちゃした本屋までの道のりをオレはあまり覚えてはいなかった。たぶん、野草が事故に遭ったショックで、前後の記憶が飛んじまったんだ。代わりにシーラが道案内をしてくれる。来たことがあるのかとのオレの問いに、シーラは答えた。
「この本屋も薫の下位世界が生み出したんだよ。たぶん薫自身は気付いてなかったと思うけどね。まだ中学生だった薫が、自分が欲しい本を何でも置いてくれる本屋を望んで、それで生まれたの。「蜘蛛の旋律」がここにあったのも、巳神が欲しいと思う本を、薫が望んだから。……気付いてなかったんだね」
 なるほど、それであの本屋の老人は、古本屋の主人をやるために生まれてきたような不思議な雰囲気があったのか。
 どうやら野草の古本屋に対するイメージは、オレ自身のイメージと多くの共通点を持っていたのだ。
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蜘蛛の旋律・46
「さっき見た、あれは誰なんだ? 空中でアフルに追いかけられてたあいつは」
「はっきり見えなかったからあたしにも判らない。たぶん、今あたしが言ったうちの誰かだとは思うんだけど」
「野草本人てことは?」
「それはないよ。もしも薫だったら、どんな遠目だって、どれだけ姿形が変わってたって、ぜったい判ると思う」
 シーラの言うことが真実か否か、オレに確かめる術はない。だけど今のオレはシーラから情報を仕入れることしかできないんだ。もっと他のキャラクターとも話せたらいい。そうすれば、シーラの言葉の裏づけを取ることだってできるのだから。
 野草の長編小説には題名がついていないことが多い。シーラが言ったキャラの中で、オレが会っていないのは巫女と武士と葛城達也だ。
 まずは巫女に会いたいと思った。武士は必ず巫女と一緒にいる。『地這いの一族』という小説の中で、巫女は人の運命を過去も未来もすべて見通すことができるんだ。
 だけど、巫女と会うためには、オレはいったいどうすればいいだろう。
「なあ、シーラ、巫女は確か、仙台に住んでるんだよな」
 巫女の物語は、野草の小説にしては珍しく、舞台が関東じゃなかったんだよな。最初山口県から始まって、宮城県に飛んで、最後少し東京に来たあと宮城に戻って終わる。巫女が住んでいたのは最寄駅からバスで1時間、更に徒歩1時間もかかるような奥地だ。彼女はテレポテーションができるような超能力者ではなかったから、こちらに向かうとしてもおそらく自家用車で、急いでも4時間以上はかかるだろう。
「巫女に会いたいならこっちで動くことはないと思うよ。だって、巫女は人の運命を司っているんだから。必要だと思ったら、巫女の方から会いに来てくれると思う」
 シーラの指摘はもっともだった。オレは、そんなに簡単なことさえ見逃してしまっていたのだ。
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蜘蛛の旋律・45
 1年半前、入学と同時に文芸部に入部したオレは初めて野草に会って、その数日後、初めて野草の短編小説を読んだ。毎月発行している文芸部の会誌にはすぐに野草の枠が作られて、6ページを割り当てられた野草は、毎月正確に6ページの短編を書き続けた。野草が長編小説の原稿を持ってきたのはそれから半年くらい経った頃だ。題名のついていないその小説で、オレは初めてシーラに出会った。
 小説の中のシーラは間違いなく生きていた。短編よりも遥かに詳細に人物設定されたその小説の中で、オレはシーラとタケシの生き方を追体験しながら、彼女に恋をしていた。オレはシーラにあこがれていた。シーラと一緒に生きることのできるタケシを羨ましく思った。
 オレは今野草の、黒澤弥生の小説の中にいる。オレは今、あの時羨んだタケシと同じ場所にいるんだ。
「巳神、9時を過ぎたよ。薫が死ぬ時刻まであと8時間しかない。これからどうするの?」
 シーラがオレを頼っているのは、黒澤弥生がオレをこの小説に招いた事実があるからだ。もしもオレに野草を救う力がなければ、彼女はあっさりこの場から去っていくだろう。
「シーラ、君は確か、自我を持ったキャラクターが誰なのか判る、って言ったよね。それを教えてくれるか?」
 シーラは少しだけ考えて、言った。
「あたしの小説のキャラではあたしだけだね。信の小説も信だけみたい。あと、『地這いの一族』って仮題のついた小説に出てくる巫女と武士でしょ、それから、アフルの小説ではアフルと葛城達也。それと、作者の黒澤弥生、かな」
 シーラが言った小説の中で、オレが知らないのは片桐信が出てくる小説だけだ。他の小説は全部読んだことがある。……そうだ、さっき空に舞っていたあの子供。シーラが言ったキャラクターの中に子供はいなかったし、子供と見間違うほど身体の小さな人間もいない。だいたい野草の小説に子供が出てきたことはないんだ。シーラの知り得た情報に間違いがないなら、あの子供はいったい誰だったんだろう。
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蜘蛛の旋律・44
 野草がなぜ死にたがっているのか、オレはなんとなく納得していた。野草は自分の下位世界が現実に影響を与えていることを知って、そのことに絶望したんだ。だけど、例えばオレが思った通りだとして、オレは野草に生きる希望を与えることができるのか? 野草が小説を書くことをやめない限り、野草の下位世界は現実に影響を与え続けるのではないのか?
 野草に書くことをやめろと言うのは、死ねと言っているのと同じ事じゃないか。
「……そうか、野草のキャラクターの中には、野草を助けたい奴と、野草を殺したい奴とがいるんだな」
 そして、そのどちらも、野草を好きな気持ちはまったく同じなんだ。
「信だって本当は薫に死んで欲しいなんて思ってないよ。だから、あたし達が薫を説得できる材料を持ってれば、必ず味方になってくれる。巳神が薫を説得してくれさえすれば」
「説得、ね。たとえ今オレが野草と話せても、説得するところまでは無理そうだな」
「諦めるつもり?」
 シーラの口調がきつくなって、オレが顔を上げると、シーラはまるで挑発するような目でオレを見つめていたのだ。
 すごく綺麗な瞳だった。完璧なまでに整った顔立ちの美人が、宝石のような瞳でオレを見つめていて、唇の端が微笑むように僅かにつり上がっている。野草が生み出したキャラクターは、オレの精神の核を貫くような魅力を持っている。
 彼女が存在するのは小説の中だ。だけどオレは、そんな小説の世界に魅了されてきた。子供の頃から、作者が描くフィクションの世界に入り込んで。
 シーラは存在している。現実に生きる誰よりも鮮明に、存在し、生きている。
「まだ諦めてないよ」
 オレはそう返答するのが精一杯だった。
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蜘蛛の旋律・43
 オレが期待していた小説の偶然性は、確かに偶然を運んできてくれた。オレの予想はある意味当たっていたんだ。だけど、それを素直に喜ぶ気にはなれなかった。
 片桐信が病室から出た後、シーラは一度野草の様子を見て、変わりないことを知ったのか、オレに椅子を勧めてくれた。
「少し落ち着いた方がいいみたいだね」
 シーラはそう言って、野草のベッドに腰掛けた。
 椅子に身体を落ち着けると、オレはしゃべる気力が戻ってくるのを待った。片桐信は、まさにオレそのものだった。容姿も、仕草も、声もしゃべり方も。野草はこれほどオレにそっくりなキャラクターを造ることができたんだ。野草は天才だ。そして野草は、こんなにもオレを観察して、オレを研究していたんだ。
 なぜ、そんなことをしたのか、本当の理由は判らないけれど。
「シーラ……君はあいつにいろいろ教えていたな。どうしてだ?」
 シーラはなぜオレがそう言ったのか判らないように首をかしげた。
「あの男は、どうして野草を殺そうとするんだ? そしてシーラ、君はどうしてそんな奴に荷担するんだ?」
 意味が判ったのだろう。シーラは少しオレを哀れんでいるように見えた。
「信はあたしたちと同じだよ。薫に愛されて、薫の感情に同調して、物語からはみ出す自我を持つことができた。あたしや弥生や、アフルなんかと同じくらい、薫のことを愛してる。……判らない? 薫は今、死にたがってるの。あたしは薫を好きだから、薫に生きる希望を持って欲しいと思う。だけど信は、薫のことが好きだから、薫の希望をかなえてあげたいと思っているの」
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蜘蛛の旋律・42
 片桐信は野草のベッドから降りて、オレたちに近づいてきた。オレが読んだ野草の小説の中には、片桐信という名前の登場人物はいない。たぶん野草はその物語を文芸部では披露しなかったんだ。その理由もなんとなく判る。片桐信は、オレをモデルに作られたキャラクターだったんだ。
 物語を知らないから、野草がどの程度片桐信にオレを反映させたのかも判らない。姿形だけなのか、性格や能力もオレそっくりに作ったのか。オレと同じ容姿だからそんなに強そうには見えないけど、もしかしたら武芸の達人なのかもしれない。自分とそっくりだからこそ余計に恐ろしくて不気味だった。
 なぜ、片桐信は野草の首を締めたのか。こいつは野草を殺そうとしたんだ。野草のキャラクターが、どうして野草を殺そうとするんだ?
「シーラ、薫がどこにいるのか知ってるのか?」
 片桐の声やしゃべり方には違和感があった。以前、初めて自分が映ったビデオテープを再生したときに感じた違和感、それと同じものだ。オレのしゃべり方の癖、仕草の癖、目の前の片桐はオレとそっくり同じ癖を持っている。オレは背筋が寒くて、がたがた震えながら2人を見守ることしかできなかった。
「あたしが知ってるのは、信が知ってることと同じだよ。薫がどこにいるのかなんか知らない。だけど、弥生は言ってた。薫の下位世界がこれだけしっかり存在してるって事は、薫の意識はこの世界のどこかにあるはずだ、って」
 片桐はほとんどオレを見なかった。
「それじゃ判らないだろ。どこに行ったら薫を殺せるんだよ」
「弥生は薫が死ぬのは明日の朝5時20分だとも言ってたよ。薫に死んで欲しいならそれまで待っててもいいんじゃない?」
「……こいつがいなければそうしてたよ」
 そう言って、片桐は結局オレを見ることはなく、病室を出て行った。
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蜘蛛の旋律・41
 まだまだシーラに訊きたいことはあったのだけど、目的地が近づいていたから、オレはそれ以上シーラに話し掛けなかった。シーラも察したようで、足早に廊下を歩いて、病室のドアの前に立つ。そのドアを開けたのはオレだった。だから、中の様子を最初に見たのもオレだった。
 病室のベッドには野草が横たわっていた。だけど、そこにいたのは野草1人ではなかった。その男は、野草の眠るベッドに乗っかって、両手を野草の首にかけていたのだ。
「お前! いったいなにしてるんだ!」
 とっさに声を出せたのはほとんど奇跡だった。怖くて足がすくんでる。オレはスポーツも人並みに出来るし、それほど身体も小さな方ではないけど、腕っ節に自信が持てるほどケンカの経験はないんだ。もしも男が襲ってきたとしたら返り討ちにあう危険性の方が遥かに高い。
 オレの声を聞いて男は振り返った。その顔を見て、オレは背筋が凍るほどの衝撃を受けた。男は、信じられないのだけれど、オレだった。無表情に野草の首を締めているのは、まさしくオレだったのだ。
 息を呑むオレの隣で叫んだのはシーラだった。
「あなた、片桐信!」
 片桐信。これが片桐信? ……初めてシーラとオレが顔を合わせたとき、シーラが間違えたのも無理はない。そいつはオレにそっくりで、オレ自身でさえ自分と違う何かを見つけることはできなかったのだから。
 ……しいて言うなら、奴の髪型は少し前のオレの髪型で、着ている服がオレが休日に着るようなボタンダウンのシャツだ、というだけだった。
「信、そんなことをしても無駄だよ! 薫の心はそこにはないんだから」
 シーラが言った言葉の意味には、奴も気付いていたようだった。
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蜘蛛の旋律・40
「タケシがシャワーしてる間、あたし、考えてた。どうしてあたしだけ物語から取り残されちゃったのか。……考えてるとね、自然に答えが頭の中に浮かんでくるの。冷静になるとすごく不思議なことなんだけど、あたしはそういう状況を全部自然に受け入れてた。ほら、薫って、もともとが女の子でしょ? だから、物語を作るときにも、自然と女の子に感情移入するんだよね。あたしが主人公のこの小説で、薫はあんまりタケシに感情移入してなかったんだ。だから、薫の下位世界が現実世界と切り離されたとき、タケシに自我が芽生えることはなかったの」
 オレはこのとき初めてシーラに言葉を返していた。
「ちょっと整理してもいいか? ……野草が事故に遭うまで、野草の下位世界はオレたちが住んでる現実世界と同じものだったんだな?」
「そう言っていいと思う。あたしは現実世界の人たちと関わっていたし、自分が下位世界の人間だなんてこと、まるで思ってもみなかったし」
「それで、野草が事故に遭ったその瞬間に、野草の下位世界はオレたちが住んでる現実世界と分離した」
「そうだと思う」
「野草のキャラクターにはシーラみたいにはっきり自我を持っている人と、タケシみたいに物語の中でしか生きられない人間がいる訳だ。その区別は、野草がどれだけ感情移入できたかでラインが引かれてる。シーラ、それを君は、考えるだけで知ることができたのか?」
「それだけじゃないよ。あたしは野草薫が今までどういう人生を歩んだのかも、薫のほかのキャラクターがどれだけいて、その中で誰が自我を持って誰が持たなかったのか、それも知ることができたの。だからあたし、物語の通りに行動して、タケシが飲むはずだったお茶に睡眠薬を入れて眠らせた。それから、薫が運ばれてきたこの病院に来て巳神に会ったの」
 そこまで話した頃、オレたちは再び野草の眠る病室があるフロアまで辿り着いていた。
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蜘蛛の旋律・39
「巳神はあたしのこと、小説の登場人物としてしか知らないでしょ? でも、薫が事故に遭うまで、あたしは巳神と同じ現実の世界で、小説の設定の通りに生きていたの」
 車は病院に到着して、オレとシーラは車から降りて、病院の中を移動していた。その間にシーラは話し続けていた。まるで今までの沈黙の時間を取り戻すように。
「パートナーのタケシと一緒にホテルにいたの。そうしたら突然、空気が変わった。その時あたしはシャワーを浴びてたんだけど、それでもはっきり判るくらいの変化だった。……その瞬間、あたしはすべてを知ったの。あたしが生きている世界は「野草薫」って名前の女の子の下位世界で、あたし自身は薫の小説のキャラクターなんだ、って」
 遠くを見ながら、まるで独白のようにシーラはしゃべりつづけている。しゃべっている間、シーラはオレを振り返ることはしなかった。
「どう、表現したらいいのかな。まるで今まで騙されてたみたいで、すごく大きな失望感があった。あたしが今まで持ってた自分の存在に対する自信ていうか、そういうものがすべて覆されたみたい。……それからあたし、シャワー室から出て、タケシのところへ行ったの」
 このときシーラは言葉を切って、初めてオレを振り返った。ドキッとした。その表情は、まるで泣き出す寸前みたいだったから。
「タケシはね、あたしが何て声をかけても、同じ言葉を繰り返すだけだった。何を言っても、どんな言葉をかけても、ただ『先に使えよ』って。……あたし、このときものすごくパニックで、タケシの顔を叩いたり、訳の判らない言葉をわめき散らしてた。だけど、少しだけ落ち着いてきて、判ったの。タケシが言ってる『先に使えよ』って、あたしがシャワーを浴びる前にあたしに言った、タケシの最後のセリフだったの。
 それであたし、思い出した。シャワー室から出てきた自分のセリフ。『おまたせ。タケシもシャワーしてきたら? 汗っかきなんだから』 ―― そう、あたしが言ったら、やっと物語が動き出したの。『そうだな』ってタケシが返事をして、そのままシャワー室に歩いていったの」
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蜘蛛の旋律・38
 オレは呆然と空を見上げていた。空中には2人の人間が浮かんでいたのだ。それはぜったい見間違いなんかじゃなかった。2人のうちの1人は、オレがこの世界で最初に出会ったアフルストーン、通称アフルだったのだ。
 目を凝らしてみると、宙に浮いた1人はひたすら逃げていて、もう1人のアフルがそれを追いかけているように見えた。逃げている人間が誰なのかはよく判らない。ただ、アフルとの対比から、かなり身体の小さな人間であることだけは判った。
 性別もよく判らないけれど、逃げているのはもしかしたら子供なのかもしれない。一瞬野草本人かとも思ったけど、どう見ても野草より小さかったし、アフルの追撃を軽やかにかわしていく身のこなしは、普段の野草とはあまりにかけ離れていた。野草は文科系で、同じクラスになったことはないけど、体育の成績が振るわないだろうってくらいは想像できる。ここが野草の夢の中ならどんなことが起こってもおかしくはないだろうけど。
 追いかけるアフルと、追いかけられている子供のような人間は、しばらく攻防を繰り返してやがて建物の陰に隠れて見えなくなった。少しの間、再び現われないかと見守ってみたけれど、どちらにしても空中にいる人間相手にオレが何かできる訳もなかったから、オレはシーラを促して、病院の駐車場に車を移動させた。
 意味の判らない光景。今、この世界にいるのだから、あの子供も野草のキャラクターの1人なのだろう。判らないことは考えても仕方がなかった。隣のシーラもどうやらそう思ったらしかった。
 気分を変えるように息をつくと、シーラは言った。
「弥生が言ってた下位世界の話ね、あたしがそれに気付いたのって、薫が事故に遭ったあの時だったの」
 オレはちょっと驚いて、シーラの言葉に耳をそばだてた。
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蜘蛛の旋律・37
 病院までの道のり、シーラは何かを考えているように沈黙していたから、オレも自分の考えに沈んでいた。
 オレが今いるのは、小説の中だ。小説と現実との違いは、ひとつは始まりと終わりが明確化していることだ。そのほかにも小説が持つ独特な法律というのがある。例えば、小説には偶然が起きる確率が現実よりも遥かに高いということ。
 旅先で初めて出会って恋をした男女が実は同じ会社に勤めていたり、落とした生徒手帳を偶然拾ったのが主人公の恋する相手だったり。偶然は物語の進行を容易にするから、作者はよく使いたがるんだよな。野草の小説の中にも偶然で処理されている場面はあった。まあ、数はそれほど多くはなかったけど。
 それから、小説には傾向というのがある。ジャンルと言い換えてもいい。オレが今いる小説は、SFアドベンチャーだ。ゲームで言うところのRPGに近い。少しずつ手がかりを手に入れて、最後に魔王を倒してハッピーエンドというあれだ。オレが倒さなければならない魔王は、野草の自殺願望。作者の黒澤弥生はハッピーエンドを望んでいる。
 今、オレが手がかりを手に入れられるとしたら、野草の病室が一番確率が高いんだ。なぜなら、アフルもシーラも、野草の小説のキャラクターは、まずあの場所を訪れたから。他のキャラクターだって同じ行動を取る確率は高い。そして、小説特有の偶然が、オレたちの行動を助けてくれる。
 車が再び病院の駐車場に吸い込まれる直前、それまで黙っていたシーラが言った。
「あれ、なに?」
 ブレーキをかけてシーラが指差した方角、そちらをオレが見上げると、空中には信じられない光景が浮かび上がっていたのだ。
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蜘蛛の旋律・36
 このままでは、野草は確実に死ぬ。
 黒澤が予言した死亡時刻は午前5時20分頃で、それがオレのタイムリミットだ。
 それまでにオレは野草の命を救う。
 黒澤はオレにその役をやらせるために、この小説に召喚したんだ。

「そろそろ夕食できてるかな。シーラ、巳神、あたし、これからごはん食べて小説の続き書くから」
 そう言って黒澤が車のドアを開けて出て行こうとしたから、シーラはあわてて呼び止めた。
「待って、弥生。巳神が薫を救えるかもしれないのは判った。でも、これからいったい何をすればいいの? どうしたら薫を救えるの?」
 黒澤は構わず車を降りて、でもそのまま去るのはあんまりだとでも思ったのか、開いたドアから顔を覗かせてシーラに答えていた。
「とりあえず、薫と直接話をする方法を考えてくれる? 要は薫の自殺願望がなくなればハッピーエンドになる訳だから」
「無茶言わないでよ! 薫は意識不明の重態じゃない!」
「現実の上位世界ではね。だけど、ここは薫の下位世界で、薫の心の物質は今でもしっかり存在してる。薫の意識はこの世界のどこかに必ずあるはずだよ」
「弥生!」
 それきりもうシーラの言葉には答えず、黒澤はさっさとアパートに戻っていってしまった。オレは後部座席を下りて、再びシーラの隣の助手席に戻った。
「……巳神、どうしよう。……これからどうすればいいの?」
 シーラには判らないのだろうけれど、オレには少しだけ判ったのだ。この小説の傾向っていうか、これからオレが何をしなければならないのか。
 心が高揚してくるのが判る。黒澤のことは今でも好きになれないけど、やっぱりオレは彼女の書いた小説を好きだったんだ。
「とにかく一度野草の病室に戻らないか? オレの考えに間違いなければ、次の糸口があるかもしれない」
 シーラは少し驚いたように見えたけれど、今は何も言わず、アクセルを踏んだ。
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蜘蛛の旋律・35
 黒澤弥生は、この小説の作者なのだ。
 この小説、野草が本屋の爆発事故で生死を彷徨い、居合わせたオレが野草の夢の中に迷い込んで、アフルやシーラや黒澤と会話するこの小説の。
 黒澤弥生が小説を書いて、野草の下位世界を動かしている。シーラもアフルもオレも、黒澤弥生の小説の登場人物なんだ。
「巳神が理解してくれて助かったよ。ここで理解してもらわないと、あたし、延々しゃべり続けなくちゃならないからね。いいかげん読者も疲れてきてるはずだし」
 オレは今、黒澤弥生の小説の中にいる。これはオレにとっては現実だ。だけど、上位世界から見れば、オレは小説の登場人物として存在していることになる。黒澤がオレを小説に登場させたのは、オレにそれが理解できると確信していたからだ。今まで数多くの小説を読んできたオレだから、今が小説のワンシーンであることを理解できると。
「……で、オレはいったい何のためにあんたの小説に引っ張り出されることになった訳?」
 小説が現実と違うのは、始まりと終わりが明確にあることだ。小説の登場人物は作者が設定した終わりに向かってのみ行動することになる。
「決まってる。……薫を助けて欲しい。この小説を、ハッピーエンドで終わらせて欲しいんだ」
 ……なんでだよ。自分が書いている小説だろ? 自分でハッピーエンドにすればいいじゃんか。
「そんな不満そうな顔するなよ。さっき言ったでしょ? この世界は薫が支配していて、誰も薫に勝てないんだ。たとえ小説の作者でも、薫の下位世界で薫の望まない結末は書けないの。自分でできれば巳神になんか頼まないよ」
 そうか、野草が自分で死を望む限り、黒澤弥生はこの小説をハッピーエンドで終わらせることはできないんだ。
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蜘蛛の旋律・34
 野草の下位世界が、現実の新都市交通をモノレールに変えてしまった。
 もちろん信じられる訳がない。だけど、オレは見てしまったのだ。いつから変わっていたのか、それは判らないけど、いつの間にか新都市交通はモノレールに姿を変えて、しかもそれをオレたち他の人間に気付かせなかった。
 下位世界が与える影響は、他の人間の記憶までも操作してしまうようなものなのか?
 もしかしたら他にもあるのかもしれない。野草の下位世界が変えてしまった風景が。……だとしたら、オレは自分の記憶すら疑わなければならないんだ。
 オレが今まで信じてきた現実は、こんなにも信用できないものだったのか……?
「巳神」
 その時、運転席から心配そうに声をかけてきたのはシーラだった。
「……ああ……うん、大丈夫だシーラ。……ちょっとしたカルチャーショック受けただけだから」
 そうだ。この世の中に不変でいられるものなんてありえない。人間の記憶もそうだ。歴史的事実が固定したまま変化しないと考える方が不自然なんだ。未来が変化する以上、過去だって変化しない訳がない。そんな題材を扱った小説をオレは山ほど読んでるんだ。
「どうやら大まかなところは理解してもらえたみたいだね」
 黒澤が助手席から振り返って、今度こそはっきりオレの目を見て言った。やっと、オレの中で噛み合うものが生まれてくる。なぜ、オレが野草の下位世界に迷い込まなければならなかったのか。なんでオレが黒澤にこんな話を聞かされたのか。
「判ったよ、黒澤。オレがどうしてここにいるのか。……オレは、あんたに呼ばれたんだ」
 黒澤は、オレの言葉ににやりと笑った。
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蜘蛛の旋律・33
 確かに、野草の小説にはモノレールが登場していた。例のアフルストーンが出てくる小説だ。舞台の中心はオレたちが通っている高校で、近所のいろいろな施設がそこかしこに登場していたっけ。そのへんでもオレはずいぶん楽しませてもらったんだ。その小説の中で、主人公がアフルに会う前のくだりで、モノレールの終点まで車を走らせる描写がある。
 野草の下位世界。まさか、野草の小説の世界が、現実に影響を与えたとでもいうのか?
「ねえ、巳神、薫は小説書きなんだ。あたしは自分が小説書きだから判るけどね、小説書きの精神世界への執着って、異常なの。先に言っておくけど、普通の人間の下位世界は、今あたしたちがいる薫の下位世界みたいに詳細じゃないよ。もっとぼやけてるし、つじつまは合ってないし、1分もいたらすぐに夢の中だって判るくらい。あたしやシーラみたいな人格のはっきりした人間も住んでないしね」
 今オレがいる世界は、ともすれば野草の夢の中だということを忘れてしまうくらい、現実に近い。シーラも黒澤も、現実の人間と何ひとつ変わらない。
「普通はさ、好きな人と両想いになればいいな、とか、宝くじ当たんないかな、とか、そんな願望が下位世界を支配していて、たとえその願望が上位世界に影響を与えたとしても、偶然やラッキーで処理されちゃうんだ。でも、薫の下位世界は異常だった。詳細な風景描写と詳細な人物描写。その中から生まれた下位世界はものすごく詳細で、だから上位世界に与えた影響もものすごく詳細だった。普通だったら偶然で処理されるくらいの小さな影響しか与えないはずなのに、薫の下位世界は、偶然では絶対に処理できないほどの甚大な影響を、上位世界に与えちゃったんだ」
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蜘蛛の旋律・32
 黒澤弥生はオバサンだ。外見は20代後半くらいに見えるし、もしかしたらもっと若いのかもしれない。いってたとしても32〜3がいいとこだ。だけど、この女はオバサンだ。
 シーラの小説を書いたのは本当にこいつなのか? この女が、あんなに魅力的なシーラを書くことができたのか?
 オレの心境を知ってか知らずか、黒澤はフロントガラスの向こうを見つめながら話し続けた。
「ムッとしてんじゃねえよ。まあ、好きな人がいないんだったらしょうがないか。巳神、ちょっと想像力を働かせてよ。例えば巳神に好きな女の子がいたとして、その子に振り向いてもらいたいな、自分を好きになってもらいたいな、と思ってたとするよ。だけどそれなりの行動したり、告白したりはしていない。その状況で、もしも相手も自分を好きなんだってことが判ったら、どう思う?」
 オレはすっかりやる気をなくしていたのだけれど、そう尋ねられたから、しかたなしに答えていた。
「偶然だ、よかったな、ラッキー、……じゃないの? やっぱ」
「それが普通だね。宝くじを買って、引き出しにしまい忘れてたんだけど、ある日ふと見たら100万円当たってたとしたら?」
「オレってついてるじゃん。で、本屋に走って全集買いまくる」
「全集か、らしいね。電車に遅れそうで必死に走ってたところ、電車の到着が2分遅れてたとしたら?」
「きっと神様がオレのために電車を遅らせてくれたんだな」
「それじゃあさ、……小説に登場させる電車が新都市交通なんて名前で知名度がなくて、モノレールの方が判りやすいからそう書いたら、次の日現実の新都市交通がモノレールに変わってたとしたら?」
 ……なんだって……!
 オレは絶句したまま、何も答えられなかった。
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蜘蛛の旋律・31
「正確に言えば上位世界からの影響もあるんだけど、とりあえずそれは置いておこう。まあ、今までの話を簡単に言うと、要するに、人間ていうのは精神の生き物なの。精神が肉体に影響を与えて、風景を変えて、世界を作ってる。極端な話、上位世界はさまざまな人間の下位世界を集めてできてると言っても過言じゃない訳」
 確かに言ってることは間違ってない。風景も世界も人間が作ったもので、「それを作ろう!」って意欲は、精神世界から端を発してる。だからまあ、人間の精神が世界を作ったと言い換えてもいい訳だ。間違いはないんだ。だけど ――
 オレはどうも、この黒澤という小説書きに、反発を覚えてならないんだ。断定的な物言い。強引な理論の展開。人の目を見てしゃべらない自己中心性。人を見下して、自分の頭のよさを披瀝しているような物腰が鼻をついて、すごく嫌な気分にさせられる。野草も人と視線を合わせないけれど、一緒にいてこれほど嫌な気分にはならないもんな。オレが読んだいくつかの小説をこいつが書いているのかと思うと、それだけで気分が萎えてくる気がする。
「ここまでの話、理解できた?」
 黒澤が訊いてくる。まあ、とりあえず話は理解できた。
「ああ」
「ところでさ、巳神は好きな女の子とか、いる?」
 突然話題が変わって、オレは呆然としてしまった。そんなこと、今の話に関係あるのか!
「……いないけど? それがなんなんだよ」
「若いくせにずいぶん潤いのない人生だね」
 余計なお世話だ!
 オレはだんだん、この世界のことも、野草のことも、どうでもいいような気分になってきていた。
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蜘蛛の旋律・30
 さっき、シーラに見せられた新都市交通は、乗って15分ほど走ると県内最大の駅に到着する。バスのような車輪で走るから揺れが少なく、時速も60キロと遅い。入学の頃からオレが見てきたのは、そういう赤い小さな列車だった。
「上位、って言葉を使うんだけどね、例えば、薫の心の世界のあたしたちは、薫が存在しなければ存在することができない。そんなあたしたちにとって、薫は上位の世界の人間なんだ。薫から見ればあたしたちは下位の世界の人間てことになる」
 黒澤はまたオレから目をそらして、正面を向いて話し始めていた。
「こう聞くと巳神は、あたしたち下位の人間が上位の世界に影響を与えることができないように思うかもしれないけど、実はそうでもなくてね。けっこう強い影響を上位世界に与えてるんだ。もともとは人間の心の世界だからね。1人の人間の心が世界に影響を与える、って言い換えれば、それほど突拍子もない話にはならないでしょ」
 確かに、1人の人間の決断が世界を動かすようなことはあるよな。強い力を持つ政治家の決断によっては、世界中を巻き込む戦争が起きることだってあるし。エジソンやベルが発明家じゃなかったら、今ある風景もかなり変わっていたかもしれない。
「話はなんとなく判るんだけど、それと新都市交通とどんな関係があるんだ?」
「巳神、あんた、小説好きな割にはあんまり想像力ないね」
 ……悪かったな。オレは文芸部にいるけど、実は自分で小説を書いたことってほとんどないんだ。
「世の中には理屈で説明できないことって、すごく多いでしょ。虫の知らせから始まって、UFOやミステリーサークルまで。この間双子を特集したテレビを見たけど、片方が怪我をしたらもう1人が痛みを感じたり。そんなの、理屈じゃ絶対に説明できない。ごく普通に生活していても数え上げるとけっこうあるんだよね、この手の話は。そういうの全部、下位世界が上位世界に影響を与えているんだって、仮定してみてよ」
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蜘蛛の旋律・29
「あのね、巳神。人間の五感なんて、それほど広い範囲を知覚してる訳じゃないんだよ。耳や鼻は犬の方が遥かに優秀だし、コウモリやイルカは超音波も知覚してる。人間が見たり触れたりできないってだけで存在を否定しないで欲しいな。電波なんて、誰も感じないのにすごく広範囲で利用されてるじゃない」
 そう言われてしまうと、オレに返す言葉はなかった。……人間の願望が心の中に存在しているのは確かだ。それが、人間が知覚できない物質として存在している可能性だって、ゼロじゃないんだ。
「判った。認めるよ。人間の願望は、人間が知覚できない物質として存在している」
「普通の状態ではね。だけど、自分の願望の世界を自分で知覚する方法はあるんだ。それが、寝ているときに見る夢なの。夢の中では、心の世界の物質は触れることができるし、音を聞くことも、その世界の人間と関わることもできる。……シーラが巳神に、ここが薫の夢の中だ、って説明したのは、今、巳神がこうしてその物質を知覚しているのが、夢の中の状態によく似ているからなんだ。要するに、巳神が今いるこの世界は、普通の状態では知覚できない、薫の心の物質が形作っている世界なんだ」
 ここは、野草の心が物質化した世界。
 だからシーラがいる。黒澤弥生もいる。野草の小説の登場人物であるアフルや、会ってはいないけどタケシがいる。ここにいるシーラは小説のモデルなんかじゃない。本物なんだ。この世界で、シーラは優秀なスパイとして生きているんだ。
 だけど……それならなんで、オレがここにいるんだ? オレがオレの心の世界を自分の夢として知覚できるのは判る。だけど、なんでオレが野草の心の世界を知覚しているんだ?
「野草の心の世界が存在していることは判ったよ。黒澤、あんたはオレがなぜここにいるのか、それも判るのか?」
 その時黒澤は、初めてオレを振り返った。
「それも説明するよ。だけど、その前に知りたくない? どうして新都市交通がモノレールだったのか」
 確かに、それもオレが知りたいことのひとつではあった。
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