2001年02月の記事


蜘蛛の旋律・28
 黒澤は助手席に座っていて、一度もオレを振り返りはしなかった。どうやらこの女にも、人の目を見て会話する、っていう習慣はないらしい。そのままの姿勢でオレに話し始めたのだ。
「巳神、あんた、シーラから断片的な情報を仕入れすぎて、少し混乱してるね。とりあえず今までのこと全部忘れて聞いてくれる?」
 確かに黒澤の言う通り、オレは少し混乱していた。忘れられるかどうかは判らないけど、オレはひとつうなずいて、だけどそれではそっぽを向いた黒澤に伝わらないことに気付いて、声に出して返事をした。
「判った」
「どっから話すかな。……とりあえず、人間には願望があるよね。夢とか希望とか、後悔とか。何か失敗したりして、こうすればよかったな、なんて、巳神も思うことあるでしょ? 人間にそういう願望っていうか、想像力みたいのがあるのは判るよね」
 オレは今までの流れをすべて忘れるように考えた。確かに、人間には願望がある。あたりまえのことだった。オレは今日、野草と本屋に行った。野草が事故にあった時、今日本屋に行かなければよかったと思ったことを覚えているから。
「ああ、判るよ。人間には願望がある」
「その願望は、その人の心の中に存在しているよね」
「してるだろ? 心の中になら」
「1人1人の人間の心の中に、その人の願望が存在してる。巳神の中にも、あたしの中にも、シーラの中にも、もちろん、薫の中にもね。まず、ここで前提その1。人間の願望は、ちゃんと世界として存在してるんだ。1人に1つ、心の中の世界として、ちゃんと物質を伴った世界としてね」
 ……ちょっと、待て。心の世界が、物質として存在しているっていうのか? 心は心じゃないか。目に見えない。触れることもできない。そんな物質がある訳ないじゃないか。
「これ、否定しないでね。巳神がこれを肯定してくれないと、この小説、1歩も前へ進まなくなるから」
 黒澤は言ったけれど、オレにはそう簡単に肯定することなんかできなかった。
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蜘蛛の旋律・27
「……なんで! どうして弥生が薫を助けられないの!」
 シーラがなぜそう言ったのかも判らないけど、オレはどちらかというと黒澤が野草の死亡時刻をはっきり予言したことの方に驚かされていた。なんでこいつにそんなことが判るんだ? そういえば、アフルも野草が死ぬことを予言していたけれど。
「しょうがないよ。だって、薫が自分で死にたがってるんだから。この世界では誰も薫には勝てないんだ。……たとえ作者のあたしでもさ」
 野草が、自分で死にたがっている? ……確かに、野草にはあまり友達もいなかったし、生きていることをそれほど楽しんでいるようにも見えなかったけど、でも、死にたいと思うほどの悩みがあるようにも見えなかったぞ。……って、オレはそんなに野草のことを知ってた訳じゃないけど。
 意外だったのは、シーラは黒澤の言葉を聞いて、明らかに心当たりがあるように見えたことだ。シーラには判っているのか? 野草がどうして死にたいと思っているのか。
「……あたしは、薫に死んで欲しくなんかないよ。弥生だってそうでしょ? みんな、この世界にいるみんな、薫に死んで欲しくなんかないでしょ?」
「そりゃあね、薫が死んだら、当然この世界もなくなる訳だし、そうなったらあたしも死ぬしかないし」
 ここは野草の夢の中。シーラはそう言っていた。……そうか、ここは野草の夢の中で、この2人は野草の夢の住人。だから、野草が死んだら自分も死ぬ。黒澤はそう言っているんだ。
 だけど……どうしてなんだ? どうして野草の夢がここにあって、夢の住人がいて、その夢の中にオレが迷い込んだりなんかしてるんだ?
 夢なら夢らしく野草の心の中だけに存在していればいいじゃないか!
「ねえ、シーラ。ちょっと時間を割いて巳神に説明してやった方がいいんじゃない?」
 突然話題がこっちに振られたから、オレは少し身構えてしまった。
「……弥生、もしかして、巳神がここにいる理由も知ってるの?」
「知らなかったらこの話は書けないでしょ。あたしがこの小説の作者な訳だし」
 オレには2人の会話の意味は、さっぱり判らなかった。
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蜘蛛の旋律・26
 呼び鈴を押したシーラの後ろから、オレは様子を窺っていた。アパートのドアは薄いらしくて、中からはテレビの音がよく響いてくる。インターフォンを取る気配がして、聞こえた声は年配の女性のものだった。どうやらこれが母親なのだろう。
 シーラが自分の名前と黒澤弥生に会いたい旨を伝えると、しばらくあって顔を出したのは、まるで寝起きのように髪を振り乱してパジャマを着た、20代後半くらいに見える1人の女性だったのだ。
 おそらく、これが黒澤弥生だ。まったく野草に似たところはない。野草は痩せ型でタレ目だったけど、黒澤弥生はぽっちゃり型で、やや釣り目な感じだ。その黒澤は少し機嫌が悪いのか、シーラとオレを探るように覗き込んだ。
「今急がしんだけど。小説書いてる最中だし、あと少しで夕食の時間だし」
 オレは軽い失望を味わっていた。この黒澤には、気力とか意欲とかいうものがあまり感じられなかったのだ。シーラもどうやらそのようで、でも、シーラにとっては糸口は彼女しかなかったのだ。気力をあおって、黒澤に相対した。
「薫を助けたいの。弥生は知ってるの? 薫を助ける方法」
 黒澤はめんどくさそうに頭をぼりぼり掻いて、少し考えるようにしたあと、靴を履いた。
「んまあ、玄関先じゃなんだから、車まで行くよ。あたしの部屋、3人も入れないし」
 そう言って、黒澤はパジャマのまま部屋から出て、アパートの前に停めてあったシーラの車の助手席に乗り込んだのだ。
 オレは後部座席から乗り出して、2人を後ろから覗いていた。シーラはなんとなく勝手が掴めないようで、黒澤が口を開くまで、一言もしゃべらなかった。
「薫を助ける方法ね。……はっきり言って、今の段階では薫を助ける方法ってないんだ。このままだと、薫は明日の朝、5時20分頃に死ぬことになってるから」
 無気力に淡々とした口調で、しかしはっきり言い切るように、黒澤は言った。
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蜘蛛の旋律・25
「……どうして、モノレールが新都市交通になってるんだ……?」
 違う、逆だ。これは最初は新都市交通だったんだ。だけどいつの間にかモノレールに変わっていて、なのにオレは今日まで変わっていたことに気付かなかったんだ。
「これが薫の夢の中だって、信じたね。すぐに引き返して今度は黒澤弥生に会わなきゃ」
「待ってくれ! どうして新都市交通がモノレールになってるのか、説明してくれよ。君の言うことが本当なら逆なんだ。あれは昔は新都市交通だった。それが夢の世界で、なんで現実の世界がモノレールになってるんだよ」
 車をターンさせながら、シーラは面倒そうにため息をついた。
「ねえ、巳神って、子供の頃よく大人に『どちて坊や』って言われなかった?」
 ……なんで知ってるんだろう。オレにも意味が判らなかったのに。
「つまりね、新都市交通じゃ通りがよくなかったんだよ。モノレールの方がみんな知ってて、判りやすいでしょ? だから薫は新都市交通をモノレールにしたの。……もういい? とりあえず黒澤弥生に会うのを先にさせて」
 疑問は山積みだったのだけど、そもそもオレはシーラにくっついてきている身分でもあるし、オレのせいでシーラの時間を無駄にしたのも事実だったから、これ以上の質問を差し控えることにした。とにかくオレの周りで何かおかしなことが起こっているのは事実なのだ。当然オレにも関係があるし、おそらく野草が深く関わっている。
 黒澤弥生。野草のペンネームを持つ人間が実在するなら、オレの周りで起こっていることを説明することができるのではないだろうか。もしかしたら、シーラが期待するように、野草の命を救うこともできるのかもしれない。
「そこのアパートだよ。あの1階に母親と一緒に住んでるはずなんだ」
 そう言って、シーラは車を降りた。
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蜘蛛の旋律・24
 オレはSFもサスペンスもハードボイルドも好きだし、たくさんの小説を読みもしたけれど、不幸なことに常識人だった。異世界は書物の中にしか存在しちゃいけないものだった。信号を無視して40キロ道路を時速100キロで飛ばすシーラは恐ろしくて、いつ他の車に激突するか、人をはねるか、ヒヤヒヤしながら見守っていた。周囲には車も通行人もいないんだ。だけどオレはどうしたってそうと信じる気にはなれなかった。
 住宅地を通り過ぎて、その先に新幹線の高架が見え始める。その時、ハンドルを握り締めているシーラが言った。
「あの新幹線の高架の隣に走ってるのって、何?」
 このあたりは昔、それほど交通の便がよくなかった。20年くらい前に新幹線が通ったのだけれど、その高架を利用して、新幹線の脇にモノレールを通したのだ。オレはあまり利用しないけれど、うちの高校の生徒はけっこう利用している。駅のひとつには高校の名前がついているくらいだ。
「モノレールのこと?」
「ちゃんと目を開けて見て。あれがモノレールに見える?」
 シーラがブレーキをかけて、速度がかなりゆっくりになったから、オレははっきりそれを見ることができていた。
 高架の脇に、赤い列車が走っている。駅が近いから速度を落として、やがて駅に吸い込まれて見えなくなったけれど、それはけっしてモノレールなんかじゃなかった。……思い出した。なんでオレはあれがモノレールだなんて思っていたのだろう。あれは新都市交通だ。ゴムタイヤの両輪が、高架の脇にあるコンクリートの上を走る電車。
 その車体には見覚えがある。だけど……オレが今日の午後まで教室の窓から見ていたのは、間違いなくモノレールだったんだ。車体は同じように赤かったけれど、1本のレールを噛むように走るモノレールに間違いはなかったんだ。
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蜘蛛の旋律・23
「知ってるけど、それがなにか?」
「彼女はこの先のアパートに住んでるの。とりあえず行ってみるからね」
 シーラはそれがまるであたりまえなのだという風に、そう言った。まさか、黒澤弥生が実在するのか? だとしたら……もしかしてゴーストライター? 野草が今まで書いていた小説は、野草が書いたのではなくて、その人が書いたものだったのか?
「黒澤弥生って、野草のペンネームだろ? なんでペンネームが実在するんだよ!」
 ちょうど信号で停止していたから、シーラはオレを振り返って、呆れたような表情をした。
「巳神……。あなた、まるっきりあたしの話を聞いてないでしょ。あたしはさっき、ここは薫の夢の中だ、って言ったはずだよ。実際は夢っていうのもちょっと違うんだけど。……薫の夢の中に、薫のペンネームを持つ人が実在して、何かおかしいことある?」
 確かに、夢の中なら何が起こってもおかしくはないけど……。
 だけど、今が夢だなんて、オレにはどうしたって思えないんだ。夢だったらもっとあやふやだったり、つじつまがおかしかったり、時間が飛んでたり、もっと変なはずだろ? なのに今オレが体験していることは、夢と言い切ってしまうにはあまりに正常すぎる。微妙な違和感があるだけで、夢よりは遥かに現実の方に近いんだ。
「なあ、シーラ。もしも君なら信じるのか? 初めて会った人に突然、今が夢の中だとか言われて」
 そのとたん、信号が変わって、シーラは思いっきりアクセルを踏み込んだ。油断していたオレはひっくり返るようにシートに押し付けられた。もしかしたらシーラを怒らせたかもしれない。
「判った! ものすごく面倒だけど、証拠を見せてあげる。ほんとは寄り道してる暇なんかないんだからね!」
 それからのシーラは、恐ろしいことに、赤信号を無視して車を飛ばし始めたのだ。
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蜘蛛の旋律・22
 野草が書いた小説の中のシーラは、スパイ組織の工作員で、タケシというパートナーと一緒に仕事をしている。身体が大きくてごつくて、シーラと並ぶとまるで美女と野獣といった感じだ。年齢はシーラと同じ18歳なのに、きちんとした服装をすると、30より下には見えない。2人は夫婦のように振舞いながら、各地のホテルを転々として、仕事をこなしている。
 オレが読んだ小説の中では、車の運転をするのはいつもタケシだった。だからオレはシーラに運転が出来るなんて、思っていなかったんだ。それだけではないけど、オレはここにタケシがいないことが不思議でならなかったのだ。単にオレを騙すのにタケシにぴったりくる知り合いがいなかっただけなのかもしれないけれど。
 駐車場を出て一般道を走りながら、シーラは答えた。
「タケシはあんまり敏感じゃないみたい。だから、眠ってもらったんだ」
 シーラの答えはオレにはまったく理解できなかった。
「意味が判らないよ。鈍感だとなんなんだ?」
「……巳神、あなた、面倒だよ。意味が判らないんだったら質問しないでくれる?」
 まるでオレが悪いみたいだった。文句はあったのだけど、正直美人に嫌われるのはあんまり気分がいいものでもなかったから、オレはその質問はあきらめて、別のことを言った。
「今、どこに向かってるんだ?」
 野草が運ばれた病院は爆発した古本屋の近くで、駅近くの救急病院だったから、言ってみればオレにとっては庭のようなものだ。シーラの運転する車は、病院を出てからはほぼ西の方角に向かって走っている。このまま走ると国道に突き当たって、その先をごちゃごちゃ行くとオレたちが通っている高校があるのだ。そういえばさっきから対向車も通行人もさっぱり見かけない。車内の時刻表示は、そろそろ8時になろうという、まだ宵の口であるというのに。
「糸口がね、あたしにはひとつしか思い当たらないんだ。……巳神は黒澤弥生って知ってる?」
 シーラが言った名前は、部の中で小説を書くのに使っている、野草のペンネームだった。
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蜘蛛の旋律・21
「行くって、どこへ?」
 シーラは既に立ち上がっていて、半歩足を踏み出してもいた。気が急いているのだろう。それでもアフルとは違って、オレの返事を待つだけの余裕は見せていた。
「あたしは薫を助けたい。だから、その方法を探しに行くの」
「だから、どこへ行くんだ?」
「そんなの判んないよ! でもここにいたら薫は間違いなく死んじゃうもん!」
 そう言い捨てるようにして、シーラは病室を出て行った。今度はオレも呆然と見送るようなことはしなかった。後を追って廊下を足早に歩くシーラについて階段を下りた。
「オレも行く。一緒に連れてってくれ」
「薫を助けたい?」
 彼女の声色は、違うと言えば即座に平手が飛んできかねないようなものだった。
「ああ、助けたいよ。野草は同じ文芸部の仲間だ」
「判った。巳神も協力して」
 それからのシーラはもう気軽に話し掛けられるような雰囲気ではなくて、オレは黙ったまま、シーラのあとについて歩き続けていった。シーラは廊下を抜け、地下の駐車場に入った。並んでいる車の中からひとつを選び出して、手馴れた仕草でキーのロックを解き、オレを助手席に招き入れる。白のレガシィB4。小説の中でシーラのパートナーが乗っている車だった。
 エンジンをかけると、ようやく人心地ついたのか、シーラの表情が緩んでいた。
「シーラ、ちょっと訊くけど……」
「タケシのこと?」
 オレの質問を先回りするように、シーラは言った。
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蜘蛛の旋律・20
 オレはもちろん、シーラの言ったことを信じなかった。オレがいるこの場所が野草の夢の中だなんて、そんな言葉はあまりに突拍子がなさ過ぎたから、それより遥かに現実的な解釈はいくらでも思いつくことができた。例えば、あの時長椅子で居眠っているオレを見て、アフルと名乗ったあいつがオレにいたずらを仕掛けたんだ。別の階の似たような廊下にオレを運んで、集中治療室と札を付け替えた空き部屋にオレを案内して見せ、適当な筋書きをでっち上げて、オレをかついで。
 腕時計の針なんか簡単に動かせる。今が真夜中なら病院の中が静かなのも納得がいく。ベッドに寝ている野草は、たぶん人形なんだ。すごく精巧に作られた、呼吸しているように見せることができる蝋人形。
 そうじゃなかったら、あの爆発すらオレを騙すためのニセモノだったのかもしれない。あの場所にいたのは野草じゃなくて、精巧な野草の人形で、今ここに寝ているのが本当の野草なんだ。
  ―― 言い訳を考えて、考え続けて、オレはどんどん深みにはまっていった。どんなに考えても、何かがちぐはぐで、歯車が合わない。……勝てないのだ。シーラが言った、「ここは野草の夢の中」という言葉に。どれだけ考えたところで、それ以上この状況にぴったりくる解釈なんて、思いつくことができないのだ。
 唯一対抗できる解釈は、ここがオレ自身の夢の中なのだ、ということだった。オレは眠っているのかもしれない。眠っていて、野草の夢の中にいる夢を見ている。
「……巳神、少しは落ち着いた?」
 シーラが言って、我に返ったオレは、どうやら自分が今までうろうろと病室を歩き回っていたのだということに気付いた。声に振り返ると、シーラはオレを見て少し微笑んで、やがて表情を引き締めた。
「あたし、これで行くけど、巳神はどうする?」
 シーラの様子は、オレの中で、さっきのアフルの行動と重なった。
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蜘蛛の旋律・19
 オレは、とりあえずシーラに椅子を譲って、さっきのアフルとの出来事を簡単にシーラに説明した。簡単に、とは言ったけれど、そもそもアフルとの出来事はそれほど複雑でも長時間でもなかったから、ほとんど全部と言えるだろう。廊下の長椅子のところでアフルと会話して、鍵を開けてもらって、病室に入った。アフルは野草の様子を見て、すぐに帰ってしまった。言葉にすればたったこれだけの出来事なのだ。
 シーラは途中口をはさむことはしなかったけれど、オレの話が終わったと見るや、今まで黙っていたことを吐き出すように質問してきたのだ。
「アフルが来たのは判った。でも、それじゃ巳神がどうしてここにいるのかの説明になってないよ。だって、アフルが来たのは、巳神がここに来たあとだってことでしょ?」
 ちょっと待てよ。シーラは本当にオレの話を聞いていたのか?
「オレが病室に入ったのは、アフルが鍵を開けてくれたからだ。それのどこがおかしいんだ?」
 オレが言うと、シーラはやっと納得したという風に苦笑いをもらした。だけど、彼女が次に言った言葉は、オレの想像とはまるでかけ離れたものだったのだ。
「ごめん……。なんか根本的に噛み合ってなかったみたい。あたしが聞きたかったのは、『どうして巳神がこの世界にいるのか』ってことだったんだ。……巳神は判ってなかったんだね。ここ、今あたしたちがいるの、巳神が今までいた世界と違うんだよ」
 シーラがそう言った瞬間は、オレはいったい何を言われているのか、さっぱり判らなかった。
 ……そうだ。オレはずっと感じていたじゃないか。違和感、非現実、全身火傷の野草はきれい過ぎて、病院の中はあまりに静か過ぎる。常識的には考えられない状況。医者も看護婦も、入院患者もいない。いるのは静かに眠る野草と、アフルと、シーラとオレだけ。
 異次元。パラレルワールド。 ―― 冗談じゃない。SF用語じゃないか!
「……シーラ、ここはいったいどこなんだ……?」
「薫の夢の中。……ていうのが、一番近いのかな」
 シーラは、少し哀れむようにオレを見て、そう言った。
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蜘蛛の旋律・18
 目の前の女性はシーラと名乗った。オレは、野草の関係者で、シーラという名前の女を知っている。だけど、オレが知っているシーラは、野草の小説に出てきた登場人物だ。美人で、強力な変装能力と演技力を持つ、スパイ組織のチームの1人。
「シーラ、って……あの、スパイ小説の……?」
 言ってしまってから焦った。オレが知っているシーラは小説の登場人物だ。彼女がシーラという名前で、野草の友人なら、野草が彼女の名前と容貌を拝借して小説を書いたと考える方が自然なのだから。もしかしたら野草は彼女に内緒であの小説を書いたのかもしれない。たとえそうじゃなくても、オレがそうと口にすることで、彼女が気を悪くする可能性はあるのだから。
 だけど、シーラはオレの言葉をそう悪く解釈するようなことはなかった。むしろ、オレがそう言ったことを喜んでいる風にさえ見えたのだ。
「そう、そのシーラ。あたしのことはシーラで構わないよ」
 瞳がすごく綺麗で、素顔の彼女はどちらかというとかわいい感じの美人。動作も言葉も少し男勝りな感じがある。野草の小説のシーラはそんな風に描写されていて、目の前のシーラはまさに野草の小説のシーラそのものだった。年齢は18歳というからオレよりひとつ年上なだけだ。最初に見たときはもっと大人っぽく見えたけれど、今の彼女は年齢に即した子供っぽさも併せ持っている。
 オレが野草だったとしても、彼女が主人公の小説を書きたいと思っただろう。オレたちの知らないところで、野草はちゃんと友人関係を築いていたんだな。さっきのアフルもだし、このシーラも、野草のことを本当に心配しているのだから。
「巳神、さっきの質問の続きだけど、どうしてあなたがここにいるの?」
 どうやらシーラは、オレをそう呼ぶことに決めたようだった。
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蜘蛛の旋律・17
 アフルが現われてからこっち、判らないことばかりだ。突然現われた女には誰かと間違えられるし、しかも彼女はオレの名前も知っている。彼女が野草の友人なら、オレの名前や顔を知っていたとしても不思議はない。夏には文芸部の合宿もあったし、写真も撮ったから、頭のいい人間ならオレの名前や容貌を記憶にとどめていることだってあるかもしれない。
 だけど、それでなんで、オレとその片桐信とかいう奴とを間違えたりするんだ? さっきの彼女の様子からして、その片桐とかいう奴と彼女とは、よく知った仲みたいじゃないか。そんなによく知っている片桐と、1度も会ったことのないオレと、そんなに簡単に間違えたりするものなのか?
「どうなの? あなた、巳神信市なの?」
 オレが黙っていたせいで、彼女はずいぶん苛立っているみたいだった。オレがうなずくと、彼女はひとつため息をついて、視線を外した。
「……ごめんなさい。間違えたりして。……ところで、どうしてあなたがここにいるの?」
 そう、彼女に訊かれて、オレは答えようとしたのだけれど、どう説明していいものかも判らなかったし、それに、オレの質問に彼女がまだ答えていないことを思い出したから、半分少し苛立った表情を作るようにして、オレは言ったのだ。
「あの、オレは巳神信市で、あなたがその片桐とかいう奴とオレを間違えたのは判りましたけど、オレはまだあなたの名前を知らないんですけど」
 ちょっと高飛車な雰囲気を持つ美人は、オレのそんな言葉に怒り出すのかと思ったけれど、そうはならなかった。たぶん、彼女は普段はそんなに高飛車でも、失礼な女性でもないんだ。ちょっと照れたような笑いを見せたから、オレの心臓はかなりの勢いで反応した。
「そう、か。あたし、まだ名乗ってなかったんだ。……シーラ。あたし、シーラっていうの」
 野草の関係者で、シーラという名前の女性を、オレは1人だけ知っていた。
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蜘蛛の旋律・16
 足音はオレの予想を大きく上回る速度でこの部屋に近づいてきていた。だからオレは何の心の準備もできなかった。突然に部屋のドアが開いて、驚いてドアを見ると、飛び込んできたのは思わず目を見張るほどの美人の女だったのだ。
 年は20歳くらい、綺麗に化粧したその表情はいくぶん憔悴して見えはしたけれど、その目の美しさがすべて帳消しにしている感じだった。女の方もオレを見て少し驚いたようだった。だけどさほど表情を変えず、少し怒ったような口調で言ったのだ。
「信、あなただけなの?」
 オレはあっけに取られて何も言えなかった。オレはこの女性に会ったことがあったか? まさか、過去にこんな美人と会っていたらぜったいに忘れたりしない。まして、オレのことを「信」なんて親しげに呼ぶような、そんな関係であるはずがない。
 オレが返事をしなかったことはそれほど気にならないらしかった。すぐに女は視線を外して、野草が寝ているベッドへと近づいていった。
「薫……どうしてこんなこと……」
 まるでさっきの出来事の再現を見ているみたいだ。さっき、アフルが同じように野草に呼びかけた。だけど、彼女は野草に触れたり、涙を流すようなことはなかった。しばらくじっと見つめていたけれど、やがて表情を硬くして、オレに振り返った。
「信! あなたは知っているの? 薫はどうしたら助かるの?」
 ……まただ。オレはその質問がかなり間抜けであることは判っていたのだけれど、それ以外の言葉を見つけることはできなかった。
「あの……あなたはいったい……」
 その質問が彼女に与えた衝撃も、そうとうなものだったらしい。しばらくオレを見つめたまま絶句したのだ。
「……もしかして……巳神、信市……? 片桐信じゃないの?」
 オレはまた彼女に驚かされていたけれど、どうやら彼女がオレと誰かを間違えたのだということだけは判った。
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蜘蛛の旋律・15
 正直、オレは混乱しちまっていたし、どこか落ち着かないような気分はずっと抱えていた。夢の中にいるような非現実的な感覚はずっと続いている。どう考えても病院の中は静か過ぎて、アフルが去ってからは誰の気配も足音も、何も感じられなかったのだ。その中で、野草の小さな呼吸音だけが聞こえて、それがより重苦しい雰囲気を増長させている気がする。
 病院の医師も看護婦も現われない。オレは夢を見ているのかと疑ってみるけれど、多少頭がぼうっとしているのはたぶん頭を打ったせいで、その他はぜんぜん普段と違うところはない。ふと、時計を見ると、時刻は7時30分を過ぎたところだ。アフルが現われたときは7時20分過ぎだった。時間は順調に流れているし、オレの感覚と客観的な時間の流れとはまったく食い違うところはなかった。
 病院が用意してくれた、オレの病室。オレはそこに戻って、ベッドに潜り込んで眠ってしまうべきだった。だけど、そうしてしまう気にだけはどうしてもならなかった。アフルが言っていたことが気になって仕方がなかった。野草はまだ生きている。だけど、死ぬのもたぶん、時間の問題だと。
 アフルはいったいなんだったのだろう。野草の彼氏で、野草の小説のモデルになった。それは別におかしなことじゃない。超能力を持っていて、オレの心を読み、ドアの鍵をあけてくれた。だけどオレは、この部屋に本当に鍵がかかってたかどうか、確認した訳じゃない。心を読んでいるように見えたけれど、単にオレの表情から気持ちを推測しただけなのかもしれない。
 オレは、この非現実感を単なる現実に置き換えてしまいたくて、無意識のうちに状況を常識に当てはめようとしていたのだと思う。判らない、理由の付けられないものは、極力見ないようにしていた。なぜ、野草はこんなにきれいなのか。ほんの30分前まであれほど多くの医者や看護婦が行き交っていたというのに、なぜ、1人も姿を見せなくなっているのか。
 そうして、考え続けていたオレの感覚に、不意に割り込んでくる音があった。
 それはこの部屋に徐々に近づいてくる、早い歩調の足音だった。
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蜘蛛の旋律・14
 入って左に、野草の寝ているベッドはあった。不思議と、生命維持に必要な装置の1つも置いてはなかったし、野草の身体は、全身火傷というにはきれいすぎた。制服をきちんと着て、やすらかに眠っていたのだ。あの爆発のさなかで、こんなにきれいでいられるはずはなかった。でも、人形やなにかでないことは、規則的に上下する胸の様子で明らかに判った。
 アフルはゆっくりと野草に近づいて、いたわるように、そっと、頬に触れた。
「薫……」
 オレは見えない何かに阻まれるように、その場から動くことさえできなくなっていた。非現実のベールに包まれているかのように、静かで、アフルの声しか聞こえない。
「……僕が、悪かったのかな……」
 アフルの表情は、静かだったのだけど、すごく辛そうに見えていた。アフルの言葉の意味はオレには判らなかった。もしかして、アフルは野草の彼氏なのかもしれない。そうでなければ、こんなに優しくいたわるように言葉をかけたり、眠る野草をこんなに辛い表情で見たりはしないだろう。
 今のアフルはオレの存在をまったく忘れ去っているかのようだった。
「……薫、僕は君を助けたいよ。君に死んで欲しくはないんだ。……君は、僕の命なんだよ」
 アフルの頬に一筋、涙が伝って、オレが胸を衝かれるように息を呑んだとき、アフルは不意に我に返るように表情を引き締めたのだ。
「巳神君、悪いけど僕は引き上げさせてもらう」
 そう、オレの名前を呼びはしたけれど、アフルはオレを見ることはしなかった。そして、まるで何事もなかったかのように、野草の病室を足早に出て行く。オレはしばらくあっけに取られて立ち尽くしていた。いったい何が起こったっていうんだ?
 独り病室に取り残されてしまって、どうすることもできないまま、オレは病室にひとつだけあった丸椅子に腰掛けた。
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蜘蛛の旋律・13
 治療室の前は静かだった。あれほど医者や看護婦がたくさんいたというのに、その気配はこれっぽっちも感じられなくなっている。オレは心のなかで身震いを1つした。まさか、死んじまったとか、そんな事はないだろうな。
「ああ、巳神君。薫はまだ生きてるから、そんなに心配しないでいいよ。だけど死ぬのもたぶん、時間の問題だと思うけど」
「なんだって!」
「大きな声を出すなよ。ここは病院だよ。まあ、気持ちは判るけどね。僕もまだ、薫に死んで欲しくないから。……あ、鍵がかかってる。ちょっと待ってね」
 野草が死ぬ。そんな、こんなに若くて、まだ高校生で、小説の才能を持った野草が……。どうしてそんなことが、こいつに判るんだ。
 アフルはオレの見ている前で、鍵穴を覗きこんだ。手を触れてもいないというのに、鍵の開く音がして、それがあまりに静かな廊下に不気味だった。
 オレはまさかと思った。まさか、超能力 ――
「そのまさかだよ、巳神君。僕には超能力がある。あの小説の僕そっくりにね。さ、ドアが開いた。入るよ」
 オレの心を覗いている。そんな……。こんな現実はおかしいのだ。これは現実じゃない。こんな夢物語のようなことが、本当に起こってたまるもんか。だけど……アフルストーンは現実に存在していた。目の前に、何の疑いもなく。
「入らないのかい? 入らなければ、生きた薫は2度と見れないよ」
 オレは覚悟を決めて、アフルが開けてくれたドアの中へと、足をふみいれたのだ。
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蜘蛛の旋律・12
「それは、あだ名か……?」
そんなオレの質問に、アフルは少し笑って答える。
「まあ、そうだろうね。もちろん本名もあるはずなんだ。昔は本名で呼ばれていたらしいし。だけど、薫は僕の本名まで考えてはくれなかったんだ。自己紹介するたびに聞かれるんだけど、その時はもう、笑ってごまかすしかない。気にしないで、アフルって呼んでくれないか。あんまり僕を困らせないでね」
 その彼の、少しかすれぎみの優しい声は、やんわりとだけどオレの質問を拒絶していた。そして、そんな彼は、オレにデジャヴュを感じさせた。彼に会ったことはない。だけど、彼を見たことはある。絶対にある。
 病院の廊下は静かだった。アフルは立ったまま、オレを見下ろしていた。
「巳神君、こんな話を知っているかい? ある、15歳の少年がいた。彼は今まで、その白い建物から一歩も外へ出たことがなかった。そしてその日、彼は自らの父親に呼ばれ、命令される。この研究所を出て、ローエングリンとレオポルドに会うようにと。そして彼は、レオポルドと共に暮らし始める」
 アフルの始めた話は、オレはよく知っていた。その話は夢中になって読んだ。野草の書いた、長い小説の話だった。
「レオポルド ―― ミオは、河端という青年に恋をしていた。少年 ―― 伊佐巳は、河端が敵対する組織の工作員であることを知り、それをミオに教えるんだけど、その時、調べてくれた友人と会って、まとめ役の人間の名前を聞くシーンがあるだろう。その友人の名前を、覚えている?」
 話の途中から、オレは少しずつ思い出していった。あの話の中で、接触感応の能力を持つ、優しそうな青年がいた。その青年の名前が、アフルストーンだった。
「あんたは、そのアフルストーンのモデルか……?」
 オレがそういうと、アフルは少し、自嘲のような笑いを漏らした。
「モデル、ね。それでもいいけど」
 アフルはきびすを返すように、集中治療室の方に歩いて行こうとした。オレがびっくりして立ち上がると、アフルは振り返って言った。
「巳神君もおいで。薫に会わせてあげるよ」
 オレは働かない頭を抱えたまま、アフルに従って歩き始めた。
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蜘蛛の旋律・11
 オレはどうやら、少し眠ってしまったらしかった。頭を打つと、ぼうっとして、眠くなるらしい。時計を見ると、まだ7時20分だった。うとうとしただけのようだ。
 見回すと、病院の様子は少し変だった。何だか妙に薄暗かった。それに、あれだけ騒がしかった集中治療室の喧騒が、嘘のように消え去っていた。オレはおかしいと思った。だけど、ぼうっとしたままのオレの頭は、それがどうしてなのか、考えるのを執拗に拒みつづけていた。
 そうしてオレが、その役立たずの脳細胞と格闘していると、階段のある方から人が歩いてくる足音を聞いた。オレがその足音のする方を凝視していると、やがて遠くに、1人の男が姿を現した。
 年はオレと同じくらいだった。少し長めの髪。身長は高くなかった。オレが175くらいだったから、たぶんそれよりは低い。170前後だろうか。それなりに均整のとれた体つきに、GパンとTシャツ、それにクリーム色のジャケットを羽織っていた。
 そいつはオレに近づいてくると、オレの目の前で立ち止まった。優しそうな瞳に、少しの愁いを浮かべながら。
「君は……。巳神……信市君……?」
 オレは驚いて彼を凝視した。オレは彼に会ったことはなかったはずだ。一度でも会ってたら、こんなに印象的な人間を忘れるはずはない。
 オレが黙っていると、彼は微笑を浮かべて言った。
「ああ、驚かないで。僕には薫の関係者は判るんだ。薫はよく、君のことを考えていたから。……僕はアフルストーン。アフルって呼んでくれればいい」
 オレは少し、頭の中がパニックぎみだった。少し整理をつけてみよう。彼は野草の友人かなんかなんだな。彼氏かもしれない。オレのことを知っていたとしたら、たぶん、野草から聞いたんだろう。見るからに日本人なのにアフルストーンなんて名前なのは気になるけど、きっとあだ名かなんかで、別に深い意味はないんだ。だけど、アフルストーンていう名前は、どこかで聞いた。
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蜘蛛の旋律・10
 野草が運ばれた病院の集中治療室の前には、たくさんの医者や看護婦が行き交っているようだった。もちろんオレは、その部屋の前で待っていることは出来なかった。集中治療室の前には、長椅子などないのだ。オレは同じ階の少し離れた椅子にこしを下ろして、野草の様子を盗み聞きしていた。
 断片的に聞いた話では、全身に火傷がひどく、今夜が峠だという話だった。でも、まだ生きている。オレは野草のクラスメイトではなかったから、もちろん野草の家など知らないし、電話番号も何もかも判らなかった。家族構成も、果たして両親がいるのかさえ、それすら聞いたことがなかったのだ。1年半も同じ部活で一緒にやってきたってのに。
 オレは改めて思った。オレは野草のことなんて、少しも知っちゃいなかったって事を。病院の方から家には連絡が行っているはずだった。だけど、家族の人間は誰もこなかった。時間は既に、7時を回っていた。
 そしてもう1つ、オレが不思議に思ったこと。誰も、あの老人については、一言も話さなかった。病院に運ばれた形跡はなかったから、もしかしたら死んだのかもしれない。それにしても、警察も言わなかったし、遺体が運ばれた形跡すらなかったのだ。逃げたのだろうか。いや、その可能性はない。オレが見た爆発の瞬間の映像では、爆発したのは老人のまうしろだったのだから。
 オレの身体も無事じゃなかった。コンクリートに打ちつけられた身体は打ち身で鈍く痛んだし、その時に頭も打ったので、精密検査が必要だった。今日は入院して明日検査をする予定だけど、オレは今、野草から離れる気はしなかった。病院が用意してくれたベッドを抜け出して、廊下の長椅子に座っていた。看護婦も、野草の彼氏だとでも思ったのか、オレの行動を黙認してくれていた。オレはこれでもけっこう気にしていたのだ。野草がこんな目にあったのは、半分はオレのせいじゃないかってことを。オレが今日、本屋に行きたいと言わなければ、こんな爆発に巻き込まれることなんて、なかったんじゃないかって。もしかしたら野草は、オレの代わりに死にそうなんじゃないかって。
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蜘蛛の旋律・9
 それにしても、野草に悪いことをしてしまったな。野草が外にでたかどうか、オレは見てなかったけど、老人がそう言うんだったら外にいるんだろう。今日は野草は本を探すつもりはなかったんだろうから、野草の貴重な時間をオレの老人との会話でかなりつぶしてしまったことになる。一言謝らなければと思って、オレは外に出た。
 外は既に薄暗かった。大分日が短くなっている。オレはキョロキョロと野草を探したが、その姿は付近に見当らなかった。まさかオレを置いて帰った訳でもあるまいから、きっとどこかにいるだろうと思って、近くの店や路地を丹念に探した。だけど、野草の姿はどこにもなかった。
 オレと入れ違いに本屋に戻ったのかもしれない。そう思って、また本屋の前まで戻ってくる。すると野草は、あの本屋の中で、老人と話をしているところだったのだ。
 オレはもう一度本屋に戻ろうとした。その時野草はオレを振り返り、そして、驚愕の表情を浮かべたのだ。
 そしてそのつぎの瞬間。
 どーんという大音響。オレは強い風によってふき飛ばされた。本屋が爆発したのだということを悟ったのは、約2秒の後だった。身体をしたたか地面に打ちつけられ、クラクラする頭で見上げた風景は、木造の古本屋がごうごうと炎を上げて焼けている姿だった。
 逢魔が時。オレが最後に見た野草は、オレを見つめ、驚きに目を見開いた表情。あまりオレが見たことのない、野草のまっすぐな視線だった。
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蜘蛛の旋律・8
「嬢ちゃんが高校に上がったころ集めた本じゃ。あのころの嬢ちゃんは神の存在に興味を持っててな。ここにあるような本を読みたがった。これはギリシャ神話に関する本じゃ。これは日本神話じゃな。これはロシアの格言集。嬢ちゃんはここの本は買わんからな。あの子は立ち読み専門じゃ。ここの商売は成り立たんよ」
 オレはけっこう困っていた。老人てのはとかく愚痴が多い。何とかしてオレのペースに乗せて、さっさと会計を済ませてしまいたかった。
「あ、あの」
「何じゃね」
「あの、さっき……オレが欲しがってる本がこれだって、どうして判ったんですか」
「ああ、そのことかね。簡単じゃ。先刻学生が16冊の本を売りにきたんじゃが、わしはその本をあの棚に並べたんじゃ。それでじゃよ」
 オレにはもちろん、老人の言うことは判らなかった。だけどそれきり、老人は話をしようとせず、レジに向かって歩き出したので、オレはそれ以上追及しなかった。
 金を払って見回すと、野草の姿が見えなかった。
「外を探してみなされ」
 老人は言うと、意味ありげに笑った。やっぱりオレには、この老人は好きになれなかった。軽く会釈して出口に向かう。
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蜘蛛の旋律・7
「この本棚を探してみなされ」
 オレは何か言わなければならないと思った。それは今の場合、本の題名だ。題名も判らずになぜ老人はここへ案内したのだろう。だから、オレは言いたかった。だけど、老人にさからうことは出来なかった。
 しかたなく、オレは本棚を探した。少し探して、ここにはないと言おうと思ったんだ。そうして本棚を見回して……オレは自分の目が信じられなかった。『蜘蛛の旋律』は、この本棚にあった。
「ありましたじゃろ。ここにはたいていの本はあるからの。特に、探している本はな。珍しい本、古い本。どの本屋にも置いてない本だけを集めてあるんじゃよ。薫嬢ちゃんの趣味のような本屋じゃからねぇ」
 老人はふぉっふぉっふぉっと笑って、オレに背を向けて歩いていった。オレは本棚から『蜘蛛の旋律』を取り出して、老人の後について歩いた。老人は隣の本棚で足を止めると、本の埃を払いながら話し始めた。
「このあたりの本は嬢ちゃんが中学生のころに欲しがってなあ。あのころは客が多かった。あんたは嬢ちゃんの友達かね」
 尋ねられて、オレはどきりとした。1テンポ遅れたが、うなずいてみる。
「そうです」
「そうかね。友達かね。嬢ちゃんが友達をつれてくるのは初めてじゃ。そうかい友達かね」
もう一度、ふぉっふぉっと笑って、老人は隣の棚に行った。オレは金を払わないかぎり帰れないから、しかたなくついて行く。本当はこのじいさんの話なんかにつきあいたくはなかった。早く帰って、『蜘蛛の旋律』を読みたかった。
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蜘蛛の旋律・6
 野草の案内で、オレはどうやらその本屋に向かっているようだった。場所は駅の近くらしい。でもこの駅なら、オレが書店回りをするときによく来る駅だ。5つの本屋と1つの古本屋を知っている。すっかり開発しきったと思っていたのに、まだもう1つ古本屋があっただなんて、オレには信じられなかった。それでも、野草には慣れた道らしい。
 オレの斜め前を歩きながら、迷いもせずに歩いて行く。細い路地や私道をくねくね入っていくと、確かに、古本の看板と共に、その本屋は存在していた。野草は看板を確かめるように見上げたあと、一度オレを振り返ってから、中に入っていった。
 本屋の中は古臭いがけっこう広かった。本の壁は5つあったし、2階もあるようだ。漫画はない。この全てを探すのは、骨が折れそうだ。オレは野草にうしろから声をかけた。
「どのへんにありそうか、判るか?」
 野草はあごで奥のレジを指した。
「あたしよりあの人の方が知ってる」
 オレはちょっとむかついたが、ここまでつれてきてくれたのは野草なのだ。オレは黙って、レジに座っていた老人のところまで歩いていった。
 古本屋にいかにも似合いというような、痩せた老人だった。オレが近づいて行くと、ゆっくりと顔を上げ、眼鏡をそっと押し上げた。何故か非現実的な、不思議な気分がした。老人の雰囲気は、まるで生まれたときから老いていて、もう何百年もこの椅子に座って古本を見つめている、そんな感じがあった。その老人が、オレを見て何故か、にやっと笑った。
「本をお求めかね?」
 こんな、当たり前の言葉なのに、オレはどきっとした。そうだ、オレは本屋に来たんだ。本以外に何の用があるだろう。
「ええ、そうです」
「じゃあ、こちらへ」
 オレはこの老人の雰囲気にのまれていた。老人は立ち上がって、ゆっくりと歩いていく。オレは本の題名を言っていなかった。
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蜘蛛の旋律・5
 部長がなあなあのまま、今日の部活の終了宣言をしようとしたとき、オレは今日の本当の目的をみんなに発言した。
「くらがね書房の『蜘蛛の旋律』って本なんだけど、知らない?」
「名前は聞いたことあるな。 ―― 雑誌の投稿欄にあった」
「そう、それ。オレ読みたくてさ。誰か知らない?」
「さぁ、判らないな」
 やっぱり、みんな知らなかった。オレも相当探したもんな。諦めるしかないか。なんて思って、帰ろうと思ったら、ふいに、うしろから呼び止められたのだ。
「なに? 野草」
 野草はあんまり人と視線を合わせようとしなかった。ちょっと横を向きながら、ぼそっと、言ったのだ。
「あるかもしれない」
オレはびっくりした。
「え? ほんと?」
「期待しない方がいいけど、あたしがよく行く古本屋は、変な本ばっか置いてある。そんなに欲しい本なら、置いてあるかも」
 野草の言葉は、少し変だった。だけどオレには気付かなかった。あの本があるかもしれない。そのことで、オレの頭は一杯だった。
「それ、どこにあるんだ? 場所を教えてくれる?」
「教えてもいいけど、たぶん行けないと思う。奥まったところにあるから。案内してあげるよ」
 オレは、オレの欲しい本のために野草の時間をつぶすのは悪い気がしていた。野草には読みかけの本がある。早く帰って読みたいに決まっているのだから。
「いいのか?」
「一度案内しとけば、次のときは1人で行けるだろうから」
 一応、これは野草なりの優しさの表現なんだろう。オレが気を使わないように、こんな科白を言ってみる。でもオレに言わせれば、ぜんぜんフォローになってないんだけどね。
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蜘蛛の旋律・4
 野草は無口な女だった。部活中もあんまり人と話をしようとしなかったし、いつもこうやって本を読んでいるか、自分の小説をもくもくと書いていた。自分専用のワープロを持ち込んで、ただキーボードを打ち続けている。文芸部の中でも、彼女を好きな人は、ほとんどと言っていいほどいなかった。
 だけど、彼女は小説が上手だった。短編小説は毎月の会誌でもかならず載せている。センスがいいし、登場人物が生き生きとしていて、まるで生きて動いているかのようなのだ。顧問の先生も絶賛している。雑誌に投稿もしているって噂だ。だけど、彼女のペンネームの載った雑誌はまだ見たことがないから、こんなにうまい小説でも、まだまだプロには程遠いってことなんだろうか。
 オレが読んだことある話は、長編では3つほどあった。美人の女のでてくる(確かシーラとかいった)スパイ物と、前世の記憶の残った巫女が魔と戦うのと、もう1つ、やたらと長いので読むのに苦労した、最初のスパイ物の組織と敵対する組織の話で、これはきっと、文庫本にして2冊分くらいはあっただろう。これはけっこう読みごたえがあった。全部が全部印象的な話で、特に、主人公の女が魅力的だった。本人があんまり魅力的でない分だけ、よけいにオレの気を引いたのだ。
 野草は本を読んでいる。オレは自分の読書中に話しかけられるのは好きじゃなかったから、野草もそうだろうと思って、話しかけることはしなかった。オレは暇だったので、野草の真剣そうな顔を見ながら、タレ目だなあとか、こんなに前髪長くて、目が悪くなったりしないんかなあとか、そんなことを考えていた。暫くすると部長やら副部長やら主だった連中が集まってきたので、野草も読書をやめて、今日は6人で部活が始まった。
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蜘蛛の旋律・3
 オレは高校2年生の巳神信市。子供のころからの本好きがたたって、今は文芸部に所属している。なにしろ本が好きで、週に5冊は読んでいる。手元に読んでいない本が最低1冊はないと耐えられない、だけど、読んでいない本が1冊でもあると読んじゃわないと気が済まないっていう、どうしようもない性格なんだ。
 小学校のころの愛読書は百科事典だった。中学のころから小説に手を出し、部屋の中には既に千冊を超える小説がある。足繁く図書室に通い、友達に言わせると、まるで彼女にでも会いにいくかのように図書館に通うんだそうだ。だからと言って友達が少ない訳ではないと思う。運動だって人並みにできるし、だから、青白い顔をした内気な少年をイメージしてもらっては困るかな。見かけはごく普通のやんちゃな高校生だし、よく笑い、誰にでも声をかける。一般的な、ただの高校生なんだから。
 2学期の中間試験が近いころだった。明日から部活が休みになってしまうので、今日は出ないとならないと思った。もちろん、例の本のことをみんなに聞いてみたかったからだ。文芸部の奴らはみんな本が好きで、オレの知らないことでも知っていることが多い。もしかしたらあの本のことも……なんて思ったら、けっこう気分が乗ってきて、放課後一番に活動場所である地理準備室に駆け込んだ。
 オレがトップかと思ったら、部室には既に、同じ2年の野草薫が座っていた。
「ちわ」
 オレが声をかけると、野草は振り返って会釈をしただけだった。
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蜘蛛の旋律・2
 最近のオレの最大の愛読書は、読書関係の雑誌だった。内容のほとんどを読者の投稿で占めているという、金のかかってなさそうな雑誌だ。投稿の短編小説や、ある本についての討論、それから、最近読んだ本でおもしろかった本の感想を募集して、掲載していたりする。3度の飯より読書が好きっていうオレには、まったくもって堪えられない雑誌だった。
 その雑誌の中に、オレはやたらと興味を引く本を見つけたのだ。題名は『蜘蛛の旋律』。たまたまその本について、3人の読者からの批評が載っていた。
―― 主人公の持つ愛情の深さ、崇高さに心から感嘆しました。自分のこれからの生き方の指針として行こうと思います。(神奈川県 大三)
―― 虚構の世界を見事に描ききった、質の高い作品だと思う。未来の現実社会と精神社会とを暗示した、すぐれた作品。(熊本県 会社員)
―― 人間の進化に関する本で、新しい説を示唆してくれました。もしかしたら学会で噂になるのでは。(香川県 大学院)
 オレはものすごく、この本が欲しくなった。なぜってそれは、3人の書いていることがまるっきり食い違っていたから。愛情、虚構の未来、進化、この3つを合わせ持つ作品ていうのは、一体どんな本なのだろう。オレは久しぶりに、わくわくしていた。
 休み時間に友達に聞いて回った。知っている本屋全部回って、出版社に問いあわせてもらおうとしたけど、もともと無名の出版社で、知っている本屋は1つもなかった。近くで最大の本屋にも行ったのに、結局捜し当てることは出来なかった。
 こうなるとオレも負けずぎらい。絶対に読んでやるといきまいて、投稿雑誌の出版社にも問い合わせたが、返事は散々なものだった。その本を出してすぐに、その出版社は倒産しているというのだ。それが半年も前のことで、経営者の行方も判らず、もちろん本の行方も判らない。作者もどこの誰なのか判らない。オレはこの本を諦めざるを得なかった。
 だからオレは、火曜日の部活の日を待って、オレの所属するクラブ、文芸部の仲間に、最後の望みを賭けてみようと思ったのだ。
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蜘蛛の旋律・1
『世界は誰が造ったのか』
 子供のころ、親戚のおじさんがオレに聞いた。オレは子供だったから、自分の持っている知識を総動員させて、なにしろ負けたくなかったものだから、一生懸命になって反論していた。
「宇宙の大爆発で空気とかちりとかが出来て、それが集まって生き物になったんだよ。それが進化して恐竜になって、絶滅してからは小さい生き物が進化して、それで人間になったんだ。人間はそうやってできたんだって、本で読んだよ」
 オレはまだ小学生だった。自分ではあんまり意識していなかったけど、たぶんインテリを気取っていた。みんなが知らないことでも、オレはたくさん知っていたから。だからオレは、中学しか出ていないようなおじさんに、討論で負けたくはなかったんだ。
「それじゃあ信市に聞くけど、その爆発するまえの宇宙を作ったのは、一体誰だったんだろう。生き物を進化させたのは? 人間の魂はどこからきたんだい?」
 オレは言葉に詰まった。そんなオレを見て、おじさんは更につづけた。
「時間を作ったのは誰だろう。空間を作ったのは。おじさんは全て、神様のしたことだと思うんだ」
 オレは必死で反論した。知っている言葉と本で読んだことを思い出しながら懸命に。だけど、絶対に詰まってしまうのだ。『始まりを造ったのは誰か』というところで。そして、もう一言も反論出来なくなったころ、おじさんは静かに言ったのだ。
「どんなに考えても、神様の存在を否定することは人間を超えないかぎり、出来はしないことなんだよ。そして、人間である以上、人間を超えることは出来ないんだ。そのうち信市にも判るよ」
 今思えば、あのときおじさんは、オレの驕りをたしなめようとしていたんだろう。それからのオレは、自分の知識を友達にひけらかしたりはしないようになっていた。
 あのころの思い出は今でも、オレの中にくっきりとした輪郭で残っていた。
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