2003年04月の記事


真・祈りの巫女161
「 ―― 安心してリョウ。あなたのことは必ず守る。そう、約束するから」
 話している間、リョウはほとんど表情を変えなかったから、あたしはリョウがあたしの話をどう受け取ったのか推察することができなかった。話し終わっても、リョウは安心した表情は見せなかった。あたしの言葉を信じられないでいるのかもしれない。
「話はだいたい判った。……食事をもらえるか?」
 リョウの口調はそれまでと変わらなかったのに、リョウのその言葉で重苦しい空気が一気に吹き飛んでいた。
 食事の介助はミイに任せて、あたしはうしろでずっと2人の様子を見守っていた。リョウは昨日よりも遥かによくなっていて、身体を起こすのを手伝ったりお皿を取ってあげたりするほかは、ぜんぶ1人でできるようになっていた。今朝から普通の食事に戻したのに、食べるのもすごく早かったの。この分ならタキの予想よりもずっと早く立って歩けるようになりそうだった。
 食後、あたしは気になっていたことをリョウに尋ねた。
「リョウ、さっき、ミイを見て何かを思い出したの? ミイのことを覚えているの?」
「いや。……ただ、似てる人を知ってたような気がした。それだけだ」
 リョウは話したくないように目をそらしたから、あたしもそれ以上は訊くことができなかった。
 あたしとミイはそれきりリョウの寝室を出て、今度は2人だけで自分たちの食事を摂ったの。リョウの看護についてタキに言われていたことをミイにも伝えて、それが終わると自然に雑談になった。このところあたしはまったく外に出ていなかったから、村の様子についてミイはいろいろ話してくれたんだ。災厄がまだ去っていないから、村の復興はぜんぜん進んでいなかったけど、その代わりに西の森の出口あたりに大きな堀を作る作業を進めているんだって教えてくれた。
 ミイは、リョウの両親のことを気にしていた。リョウの両親はリョウが生きていることを知らないから、今でもリョウが死んだ悲しみに暮れている。ミイはずっとその様子を見てきたから、せめてこっそりとでも会わせてあげたいんだ。それに、両親を見れば、リョウの記憶も戻るかもしれないって。ミイの気持ちはよく判ったけど、神殿でのリョウの立場が決まるまでは誰にも話すことはできなかった。
 食後タキが迎えに来るのを待ちながら、あたしは理由の判らない不安感と戦っていた。
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真・祈りの巫女160
 リョウは少し苛立った様子で、早口に言った。
「それで。俺を殺した影とやらはどうした。まだ村を襲ってるのか?」
「影の1つはリョウが殺して、今は村の草原に死骸があるわ。でも、影はそれ1つだけじゃないの。ここ数日は襲ってきてないけど、運命の巫女は影がまた襲ってくるはずだと言ってた。あたしはしばらく神殿へは行ってないから、そのあとどんな予言がされたのかは知らないのだけど」
 リョウはどこか1点を見つめて、あたしの話を深く考えているように見えた。でも、あたしにはリョウが何を考えているのか、ぜんぜん判らなかったの。タキはリョウが自分を守ることだけ考えているって言ってた。それを思い出したから、あたしは更に付け加えた。
「リョウ、ここは村とはずいぶん離れているし、森の中に1軒だけぽつんと建ててある家だから、また影が襲ってきても安全なはずよ。それに、影はいつも西の森の沼からくるの。だから村の東側ではほとんど被害も出ていないわ」
 あたしの話でリョウが納得できたようには見えなかった。それでも、1つ息をついて、リョウは話題を変えた。
「……俺はどうやって生き返ったんだ。まさか、1度殺された死体が動いた訳じゃないだろ?」
 リョウの質問で、あたしはためらった。それに答えることは、あたしが犯した罪をリョウに知られてしまうことだから。でも、リョウには本当のことを言わなければならないと思ったの。たとえ1度でもあたしがリョウに嘘をついてしまったら、それきりリョウの傍にいる資格をなくしてしまうような気がしたから。
「……あたし、リョウを失ったことに耐えられなかった。これから先ずっとリョウがいない時間を生きていかなければならないって、そのことに耐えられなかったの。だからあたし、神殿の禁を破って、神様に祈ったの。リョウを返して欲しい、って」
「……」
「神様はあたしの願いを聞き入れて、神殿にリョウをつれてきてくださったの。怪我をしていて、記憶もなかったけど、あたしは嬉しかった。だからリョウのためならなんでもするわ。……これからね、あたしは神殿へ行って、このことを守護の巫女と守りの長老に話さなければならないの。あたしは罰を受けるかもしれない。でもリョウには指1本触れさせないわ」
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真・祈りの巫女159
「リョウ、紹介するわ。ミイよ。リョウがまだ子供の頃、両親と一緒に住んでいた家の近くに引っ越してきたの。ランドと夫婦で、あたしたち2人ともずいぶんお世話になったのよ」
 結婚してからずっとミイたち夫婦には子供ができなかったから、子供好きのミイは近所の子供たちにすごく親切にしてくれたんだ。ミイの家の前を通るとときどきいい匂いがして、窓から中を覗くと、笑顔でおやつに招待してくれるの。ランドとミイの夫婦は、リョウにとっては2つ目の家族みたいだった。だから、あたしのことを忘れているリョウでも、ミイのことは覚えているのかもしれない。
「リョウの身体がよくなるまでの間、ミイがリョウの世話をしてくれることになったの。もちろんあたしも頻繁に覗きにくるわ。でも、あたしには仕事があるから、今までのようにずっと一緒にはいられないから」
 あたしがなんとなくリョウに申し訳なくて、それきり口ごもってしまうと、その先をミイが引き継いでくれた。
「あたしではユーナの代わりにはならないかしらね。でも、リョウは忘れてしまっているかもしれないけど、記憶を失う前のリョウは、ユーナが祈りの巫女になったことをとても喜んでたのよ。だからあたしで我慢してちょうだいね。……本当によかった。あたし、リョウが死んだって聞かされてから、まるで自分の弟が死んだような気がして、とても悲しかったの。だからランドにリョウが生き返ったって聞いたときにはすごく嬉しかった。たとえ記憶がなくても、リョウが生き返ってくれて本当によかった ―― 」
 ミイの話を聞きながら、リョウは驚いて表情をかたくした。
「……死んだ……? 俺は1度死んだのか!」
 リョウがそう言ったとき、ミイも自分が口を滑らせてしまったことに気がついて、顔を白くしてあたしを振り返ったの。あたし自身もリョウがそう言うまでは気づいてなかった。今まであたしは1度もリョウにその話をしていなかったし、記憶のないリョウが自分の死を伝えられることがどれほどの衝撃かなんて、まるで考えもしてなかったんだ。
「ユーナ、ごめんなさい。あたし……」
「大丈夫よミイ。心配しないで。……リョウ、あなたが1度死んだのは本当よ。狩人のあなたは村を守って、村を襲ってきた影に殺されてしまったの。でも……リョウは戻ってきてくれた。怪我をしていて、記憶もないけど、でもあたしのところに戻ってきてくれたの」
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真・祈りの巫女158
 翌朝、リョウがまだ眠ってることを確認して、昨日タキが置いていってくれた材料で自分とリョウの朝食を作っていたとき、家の扉がノックされた。手を休めて扉を開けると、そこにはランドの奥さんのミイが、両手にたくさんの荷物を持って立っていたの。
「ミイ、よく来てくれたわ。さ、荷物をちょうだい」
「おはようユーナ。……あら、もう朝食の支度が始まっちゃってるのね。一緒に食べようと思って材料持ってきたのよ」
「ありがとう。こんなに遠くまで、重かったでしょう?」
「ううん。すぐそこまではランドが一緒だったからそうでもないわ。……ランドったらね、ここで一緒に食べようって言ったのに、あたしと一緒に食事をするのが嫌だって言うのよ。あたしのお料理そんなにおいしくないのかしら」
 ミイのノロケ話はいつもとまったく変わりがなくて、ほっとしたあたしは自然に顔がほころんでいた。と同時に、ランドに申し訳ない気持ちにもなってたの。たぶんランドはすごくミイのことが心配で、でもあんまりあからさまに心配するとあたしが気にすると思って、ここに顔を出すことができなかったんだ。ランドはミイにもすべては打ち明けてないはずだから、ミイにはランドがどうして心配するのかも、それどころか自分を心配していることさえ、何も判らないのだろう。
 ミイは、両親を失ったあたしを心配して、できるだけ明るく振舞っているみたいだった。ミイのおかげでずいぶん豊かになった朝食を作り終えたあと、リョウの寝室を覗いてみる。リョウは既に目覚めてたから、あたしは笑顔のまま部屋に入っていったの。
「リョウ、おはよう。身体の具合はどう? お薬ちゃんと飲んだ?」
「……よく効く薬だな。ほとんど痛みを感じない」
「代々の神官たちがずっと研究してきた成果だもの。この薬が欲しくて村にくる人たちも多いんだって聞いたわ。でも、あんまり長く続けると逆によくないんだって。……朝食が出来たのだけど、ここに運んできてもいい?」
 リョウがうなずいたのを確認して、あたしは再び台所に戻った。今度はミイもつれて寝室に入る。ミイの姿を見て、リョウはまた少し驚いたように目を見開いたの。その様子はまるで、ミイのことを思い出したようにも見えたんだ。
 ミイの方もリョウを見て驚いたようだったけれど、それを表情に表すことはほとんどしなかった。
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真・祈りの巫女157
 あたしが進まない食事をようやく終えたあと、タキはまた数回分の薬の調合を始めた。リョウが目覚めたら少し話をしたいとランドは言ってたけど、リョウはしばらく目覚める気配がなかったから、その日はけっきょく会わないままで帰っていったの。ランドが帰るときにあたしは家の外まで見送りに出た。坂道につけた階段の前で、ランドは思い出したように振り返って言った。
「ミイがな、リョウの持ち物を入れた箱から変な音がするって不気味がってる。オレは直接聞いてないんだが」
「変な音? 生き物がいるようなの?」
「いや、生き物の気配がある訳じゃない。ミイが言うには、トコルが作った1番高い音の出る笛の音をもっと高くしたような音で、とつぜん鳴り出して、しばらく鳴ったあとまたとつぜん静かになったらしい。音楽のようだとも耳鳴りのようだとも言ってたな。気味が悪かったから中身は確かめなかったらしいが」
 その場ではあたしは何も答えることができなくて、ランドもそれ以上は何も言わずに、明日ミイをよこすとだけ言って帰っていった。
 タキも薬を作り終わったあとは宿舎に帰ってしまったから、あたしは1人でリョウの目覚めを待っていた。何度目かに部屋を覗いた時、目覚めたリョウが身体を起こそうとしているのを見て、あたしは手伝ったの。リョウはもうあたしの手を振り払うことはしなかった。
「リョウ、目が覚めたのね。よかった。今、食事を温めるわ」
「……いや、このままでいい」
 あたしは既に冷たくなってしまったおかゆをすくって、リョウの口元に持っていった。リョウは何も言わずに食べてくれる。リョウが食事をしている間はあたしも黙ったままで、時々水を飲ませるときに声をかけるくらいだった。ずいぶん時間をかけたけど、用意した食事をリョウはぜんぶ平らげてくれたの。人心地ついたリョウはまたベッドに横たわって、静かに目を閉じた。
「明かりを消してくれ。朝まで眠る」
「判ったわ。……あたしは隣の部屋にいるから、なにかあったら声をかけてね。ここに薬を置いていくわ」
「ああ。……ここは静かだな ―― 」
 あたしはできるだけ音を立てないように、リョウの眠りを妨げないように、寝室を出た。
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真・祈りの巫女156
 タキの表情は穏やかで、微笑さえ浮かべていたけれど、あたしはその顔に哀れみのようなものを感じた。タキは、リョウを影の手先だとは思っていないけど、あのリョウが本物だとも思ってないんだ。でも、タキはリョウのことをあまり知らないんだもん。あたしがリョウにかつての面影を感じるほどには、タキにはリョウの思い出がない。だから別人のように見えてしまってもしょうがないんだ。
 リョウの記憶は必ず戻る。記憶が戻れば、誰もリョウが別人だなんて思わないよ。あたしは1日も早くリョウの記憶を戻さなければならないんだ。それがリョウを守ることにもつながるんだから。
「……なるほどな。それが今のおまえにできることか」
 そのランドの言葉はタキに向けたものだった。タキも神妙に答える。
「祈りの巫女が死んだら村は終わりだ。少なくともオレはそう思ってる。だからこそ、神様が遣わしたあのリョウが、祈りの巫女に災いをなす者だとも思えないんだよ。
 ランド、あなたも信じて欲しい。リョウは記憶を失っているけど、間違いなく祈りの巫女の婚約者だ。……オレたちはそれを信じるしかないんだ」
 ランドの中でどんな感情が動いたのか、あたしには判らなかった。やがて顔を上げたとき、ランドの表情には明らかに覚悟のようなものが浮かんでいたの。
「……明日の朝早くミイをここによこす。リョウの世話はミイに任せておけば大丈夫だ。ユーナ、おまえはミイと入れ替わりに神殿に戻って、その報告とやらを済ませろ」
 思いがけないことを言われて、あたしの動きは止まってしまった。
「ランド、ミイというのは確かあなたの……」
「ああ! もったいないがこの際しかたがないだろ! オレは自分の仕事で手一杯だし、おまえもユーナも神殿のことでリョウの世話どころじゃないだろうし、ほかに信用できる人間はいねえ。……それに、万が一リョウと名乗ったあいつがミイになにかするような人間だったら、近いうちに村全体が滅びるのは間違いなさそうだからな。同じことだ」
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真・祈りの巫女155
 ランドに異論がないことを確認するように、タキも1回うなずいて、話を続けたの。
「今の段階でリョウは、祈りの巫女や村の人間に危害を加える気はないと明言していた。これは信じていいと思う。なぜなら、リョウは今動くことができないし、ここでオレたちがリョウを見捨てたら、悪くすれば近い将来餓死する可能性もあるからね。リョウにとって今は身体を治すことが第1のはずだ。ということは、身体が治るまでのリョウはこの村で1番安全な人間だということになる」
「……リョウはいつ治るんだ。あれはそんなに長患いをするような怪我じゃないぞ」
「3日もすれば動けるようになるだろうね。だけど、その3日間が祈りの巫女にとって重要な時期になる。実際、リョウのことはもう隠しようがないんだ。明日には守護の巫女に報告しなければ、祈りの巫女の立場はかなり悪くなると思っていいよ」
 タキはここと神殿との間を行き来しているから、神殿が今どんな状態か、あたしたちの中では1番よく判ってるんだ。……あたしの立場なんかほんとはどうでもいいの。だけど、あたしの立場が悪くなればなるほど、リョウが疑われる確率も上がってしまう。
「そんなに切羽詰ってるのか? なんとか時間を稼げないのかよ。せめて奴の正体が判るまで」
「報告をあとに延ばすのは限界だ。だからこうなったらもう、リョウの正体については神殿全体で考えていく方がいい。リョウが万が一、村に対して悪事を働くような人間だとしたら、むしろ神殿に任せてしまった方が祈りの巫女の立場を守るには有利なんだ。神殿が最終的にどんな結論を出すにしても、その決定までの時間を稼げば稼ぐほど、事態は祈りの巫女の手を離れてくれる。……だからそのためにも、今のリョウには記憶を失った狩人のリョウでいてもらった方がいいんだ」
 その時あたしは、タキがこの話を始めてから1度もあたしの顔を見ていないことに気がついた。
 タキ、もしかしてあなたも、リョウが本物だってことを信じていないの……?
「リョウの記憶を戻すわ! そうすればみんな信じてくれる。だってリョウは本物のリョウなんだもん。リョウはぜったい影の手先なんかじゃないわ!」
 あたしの声に2人はハッとして振り返った。あたしは、自分が大きな声を出してしまったことにすら気づかなかった。
「祈りの巫女、オレもリョウが影の手先だとは思ってないよ。……むしろ心の底から、彼が本物のリョウであって欲しいと願ってる」
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真・祈りの巫女154
「疑わしいこと? ランド、リョウはおかしなことは何も言ってないよ。自分を守るために当然のことを言ってただけだ」
「だったらどうして恋人のユーナに対してそれほど警戒するんだよ」
「祈りの巫女が自分の恋人だったことを忘れてるんだ。初めて見る人間を警戒して何がおかしいんだ?」
「そりゃあな、初めて見たのがオレやおまえだったら、確かに警戒したかもしれねえ。だけどユーナだぞ? おまえ、もしも自分が記憶喪失になって、目の前にユーナがいたとしたら、おまえならこいつを警戒できるか? こう言っちゃなんだが、ユーナは非力で無害な普通の女だ。しかもリョウのことを本気で心配してる。いくら記憶がないからって、どうしてそういう奴を警戒したりできるんだよ」
「身体が万全の状態なら警戒するほどのことはないだろうね。だけどリョウは怪我をして動けないでいる。万が一にでも祈りの巫女がリョウに危害を加えようとしたらできないことはないよ」
「理屈を言えば確かにそうだろうよ。だがユーナが無害だってことは本能的に判るだろ! たとえ記憶がなくたってなあ、リョウがユーナを警戒するなんてことは万が一にも……」
「お願いやめて! リョウが目を覚ましちゃう」
 あたし、とうとう耐え切れなくて、2人の口論に口を挟んでいた。しゃべっているうちにランドはどんどん興奮してきて、声が大きくなっていたから。リョウの眠りを妨げることも心配だったけど、話してる内容が内容だったから、リョウに聞かれるのも嫌だったの。あたし、ずいぶん心配そうな顔をしてたのかな。振り返ったランドはハッとしていくぶんうろたえていた。
「ああ、悪かった。つい声が大きくなっちまった」
「ごめん、祈りの巫女。オレも興奮しちゃって」
 2人はそれきり少しの間沈黙していたけど、やがてタキの方が口を開いた。
「ランド、見解の違いばかり指摘しあっててもしょうがないな。ひとまず共通項を見つけよう。……オレは、祈りの巫女の立場を守りたいと思ってる。それに異論はないか?」
 ランドはまだ突然の話題の変化についていけないようで、声に出さずうなずくだけにとどめた。
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真・祈りの巫女153
 ランド、リョウが記憶喪失だって、信じていないの? だって、あの人はリョウなの。そのリョウがあたしのことを判らないんだから、記憶がないに決まってるよ。もしも記憶があったら、リョウはぜったいあたしをあんな目で見たりしないもの。
 あたしの困惑をよそに、タキはランドに不自然なほどの笑顔を向けていった。
「あのリョウが別人だとでも言うのか? そんなはずはないよ。どこから見てもあれはリョウ本人だし、少なくともオレたちを見て誰だか判らないのだとしたら、記憶喪失になったとでも思うしかない」
「どうして本人だって言えるんだ! まったくの別人ならオレたちが誰か判らなくてあたりまえだろうが!」
「忘れたのか? リョウは神殿で祈りの巫女を見たとき、彼女の名前を呼んだんだ。それに、オレが彼に名前を尋ねた時、はっきりと自分はリョウだと言った。これ以上の確かな証拠はないよ」
 ランドは神殿での事を忘れてたみたい。とっさに反論できなくて、黙り込んでしまった。神殿で最初にリョウを見つけたあの時、あたしは自分の名前を名乗ったりしなかったもの。あの時のリョウにはちゃんと記憶があったんだ。少なくとも、あたしを見てユーナだと判るだけの記憶は持っていたの。そのあとの高熱ですべてを忘れてしまったのだとしても。
「記憶喪失にもいろいろある。本当に何もかも忘れて言葉すらしゃべれなくなることもあるだろうし、なにか特定の記憶だけをなくすこともあるし、リョウのように言葉や判断力を残したまま、それ以外の事をすべて忘れてしまう場合もあるだろう。今のリョウは自分を守る意識だけが強く出ていて、そのためだけに行動しているように見える。それはもしかしたら、リョウが狩人だったことが関係あるのかもしれないよ。リョウが言ってた「俺は人間と戦う気はない」っていう言葉も、リョウがふだん動物たちと戦う立場だったから出た言葉のように思えるしね」
 あたしはタキの言葉に改めて納得していたけれど、ランドは違ったみたい。更に表情を硬くして言ったんだ。
「……やっぱり、神殿の人間は信用できねえな。おまえはリョウが本人だって、その前提に事実をこじつけてるだけだ。確かにリョウが最初にユーナの名前を呼んだことは認める。そいつも疑えばきりがないが、まあ、ユーナがそうだと言うんだから事実なんだろう。だけど目が覚めてからの奴の行動は疑わしいことだらけだ。それに気づかないおまえじゃないだろう!」
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真・祈りの巫女152
 リョウの痛みと緊張はほとんど極限状態だったみたい。タキはランドを連れて部屋を出て行って、あたしは食事を持ってきて、リョウに水と薬を飲ませたけど、それ以上身体を起こしている気力がリョウにはなかったの。目を閉じてぐったりしてしまったリョウに声をかけると、さっきまでよりはずっと穏やかな口調で答えが返ってきた。
「目が覚めたら食べる。そこに置いて部屋を出て行ってくれないか」
「……判ったわ。でも、何かあったら遠慮しないですぐに呼んでね。真夜中でも飛んでくるわ。……灯りは?」
「このままでいい」
 名残惜しくて何度も振り返りながらドアの前まで行ったけど、リョウはそれきり少しも動かなかったから、あたしも諦めて部屋を出た。食卓ではタキとランドが声を潜めて話をしていて、どうやら今までの経緯を簡単に報告してたみたい。あたしの姿に気づいてタキは席を立った。
「あれ? リョウは食事しないでいいの?」
 そう言いながらあたしの分のお茶を用意してくれる。あたしは自分の食事が用意された席に腰掛けながら答えた。
「痛みが引くまでは無理みたい。一眠りするって追い出されちゃった」
「そう……。でもま、眠る気になったのなら少しは進歩したね。祈りの巫女の真心が通じたんだよ」
「ううん、あたしの力じゃないわ。……あたしはタキのようにリョウに話をさせることすらできなかったんだもの」
 あたしはリョウのために何もできなかった。リョウが心を開いたのだとしたら、タキが冷静にリョウの話を聞いたからだ。リョウと対等の立場にたって、リョウの質問を引き出して、それに答えてあげたから。
「祈りの巫女はそのままでいいんだよ。婚約者なんだから。リョウの記憶が1日でも早く戻るようにいろいろ話し掛けてあげて」
 その時、今までずっと顔を伏せていたランドが、ちょっと怒ったような表情で顔を上げたの。
「おい、タキ。おまえ、ユーナの言うことを本当に信じてるのか? さっきのリョウを見て記憶喪失だと本気で思うのか?」
 ランドの言葉に驚いて、あたしは食事の手を止めてしまった。
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真・祈りの巫女151
 2人のやり取りを聞きながら、あたしはだんだん背筋が寒くなってきたような気がした。2人の会話はすごく静かで、受け答えも穏やかなのに、しだいに空気が張り詰めてくるの。それはまるで、以前リョウが話してくれた、獲物と狩人の真剣勝負を思わせる。静寂の中にも緊張感があって、あたしには2人が会話をしながら戦っているように見えたんだ。
 不意にうしろから肩を叩かれて、あたしは悲鳴を上げそうになったの。あたしのうしろにはいつの間にかランドが立っていて、リョウとタキの様子をじっと見つめていたから。
「 ―― これはリョウにとってもオレたちにとっても、1番重要なことだ。将来、現状の変化で君の意思は変わるかもしれないけど、ひとまずそのことは考えに入れなくていい。現時点で、リョウがオレたちに危害を加える意思があるかどうか、それを教えて欲しいんだ。もしも教える意思がないならそう答えてくれればいい」
 リョウはしばらく沈黙していた。タキのことを睨みつけるように見て、まるで呼吸も、瞬きすらしていないみたい。そのまま表情を崩さずに、リョウは口を開いた。
「そっちはどうなんだ。俺をどうするつもりだ」
「リョウの答えによるね。リョウにその意思がなければオレは、少なくともオレ個人としては、リョウに一切の危害を加える気はない。村の神官としてリョウの傷を癒す手助けをする用意もある。ただ、もし万が一リョウにその意思があるならばその限りじゃない」
 また、少しの間睨み合いが続いたけど、今度はそれほど長い時間は待たずに、リョウが溜めていた息を吐いた。
「俺は人間と戦う気はない。だが、そっちから手を出してくるなら話は別だ。自分の身は守らせてもらう」
「判った。 ―― リョウ、君が正直な人間でよかったよ」
 タキが椅子から立ち上がって、いくぶん場の緊張が解けたから、うしろで見ていたあたしもほっとしていた。その時、リョウが痛みをこらえながらもタキに右手を差し出したの。タキはちょっとだけ戸惑った様子を見せて、でも同じようにリョウに右手を差し出して握手したんだ。その握手のあと、リョウの表情にも明らかに安堵の色が見えた。
「さ、祈りの巫女。ひとまず彼に水と、食事をあげてくれないか? 聞きたいことはまだたくさんあるけど、残りは明日に回そう」
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真・祈りの巫女150
 その部屋のドアをタキがノックしても、中からの返事はなかった。タキはそれほど気にならないみたいで、ごく普通の動作でドアを開けて、部屋に入ったの。ベッドのリョウはさっきまでとまったく同じ姿勢で横たわっていた。視線はこちらに向けたままで、タキを見て少しだけ警戒を強めたみたい。
 タキは部屋にあった椅子を引いてきて、リョウの枕もとに腰掛けた。
「オレが誰だか判る?」
 リョウは口を閉ざしていたけれど、それでもタキが辛抱強く待っていると、やがて低い声でボソッと言った。
「誰だ」
「この村の神官で、今は祈りの巫女の世話係でもあるタキ。あなたは? 名前はなんていうんだ?」
「……リョウだ」
 あたしは少なからず驚いていた。リョウは警戒は解いてなかったけど、タキの質問にはちゃんと答えていたから。あたしにはぜんぜん答えてくれなかったのに。
「それじゃ、リョウと呼ばせてもらうよ。オレのことはタキでかまわない。これからいくつか質問するけど、答えられる質問には正直に答えて欲しい。リョウの方から質問があればオレも正直に答えると約束するよ」
「……ここはどこだ」
 リョウは、あたしにしたのと同じ質問を繰り返した。
「ここ? ここは山間にあるオレたちの村の、東の山の中腹にある神殿から少し下った森の中にある、狩人のリョウが建てた家の寝室だ。いずれは婚約者である祈りの巫女ユーナが彼と一緒に住むことになる。これで質問の答えになったかな」
「……」
「なら、今度はこちらの番だ。……リョウ、君はそこにいる祈りの巫女、彼女はユーナと名乗ったと思うけど、その彼女に危害を加える意思があるか? もしくは、彼女以外の村の人間に危害を加える意思があるか?」
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真・祈りの巫女149
 タキと二人で台所に立って、リョウとあたしの夕食を作りながら、あたしはリョウが目覚めてからの大まかなことをタキに話し終えていた。リョウが記憶を失ってしまったこと。リョウがあたしを警戒していて、今は一言もしゃべってくれないこと。薬も水も飲むのを拒否して、そうとう痛みがあるらしいこと。リョウのためのおかゆを作り終えたタキは、少し冷ますためにそのままテーブルに置いた。
「その話だけではまだはっきり判らないね。リョウにどの程度の記憶があるのか、すべての記憶がないのならいったいどの程度の理解力があるのか。祈りの巫女は子供のような印象を受けたって言ったけど、頭の中身まで子供なのかな。それによって神殿の対応もずいぶん変わってくるけど」
 タキはランドとは違って、リョウが偽者だとか、影の手先だとかって可能性はあまり考えてないみたい。さっきも、薬が切れるのが判ってたのに、あたしとリョウを2人っきりにしてくれたんだ。もしあの場にランドがいたら、きっとなにがなんでもリョウが目覚める瞬間に立ち会おうとしていただろう。もしかしたらあたしを遠ざけようとすらしたかもしれない。
「リョウの話し方には子供っぽさは感じなかったわ。ただ、大人になってからのリョウはあんな風に人を警戒したりしなかったの」
「そう? オレはごく最近でもかなりリョウに警戒されてた気がするけどね。たまに関所で顔を合わせることもあったけど、けっこう無愛想だったよ」
 タキの話し振りで、あたしはタキがリョウに持っている印象がずいぶんあたしと違うことに気がついた。あたしだったら、間違ってもリョウに無愛想だなんて形容はつけないもの。もしかしたらリョウって、あたしが思ってた以上にタキに嫉妬してたのかもしれない。
「まあ、とりあえずリョウと話してみよう。早いうちに確かめておかなければならないこともあるし。祈りの巫女、もしよかったら夕食を食べながら待っててもいいよ」
「そんなの……あたしも一緒にいるわ。話の邪魔だっていうんだったらぜったいしゃべらないから。お願い、立ち会わせて」
「邪魔ってことはないよ。でも、できるなら口を挟まないでくれる? 話の持って行き方によっては、祈りの巫女には不本意に思えることがあるかもしれないから」
 タキがそう言って表情を引き締めたから、あたしは無心でうなずくしかなかった。
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真・祈りの巫女148
 リョウは何もしゃべらなかった。ずっとあたしを睨んだままで、口元に水差しを近づけても飲もうとしなかった。まるで野生のリグの子供みたい。時々身体に痛みが走るのか、眉を寄せて息を止めていたけれど、薬を差し出しても顔を背けるだけだった。
「これ、すごい匂いがするけど、けっして毒じゃないのよ。タキが調合してくれて、実はリョウ、眠ってる間に何回か飲んでるの。身体の痛みを取るのと、あと傷が化膿するのを防いでくれるんだって。だから飲まないと元気になるのが遅くなっちゃうのよ」
 あたし、なんとなく子供を扱うみたいにリョウに話し掛けていた。リョウがあんまりかたくなに拒絶するから、まるで反抗期の子供を相手にしているような気がするの。そんなリョウを見ていてふっと思った。ずっと前に母さまやマイラが話してくれた小さな頃のリョウって、こんな感じだったのかもしれない。
 もちろんリョウは大人だから、そうしてずっと睨まれたままでいるとすごく怖かった。でも、あたしなんかよりもリョウの方がずっと怖い思いをしてるの。だから、あたしはできるだけリョウを怯えさせないように、笑顔で優しく話し続けていた。
「そうだ、リョウが眠ってる間ね、あたしとタキとランドで勝手に家に入っちゃったの。台所も使っちゃった。あたし、リョウの目が覚めたら真っ先にそれを謝ろうと思ってたのよ。ごめんなさいね、リョウ。でも、もちろんあたしはリョウの狩りの道具には触れてないから安心して。ランドがきれいに整備してくれたけど、ランドだったらリョウも許してくれるよね ―― 」
 少しでもリョウが記憶を思い出しす手助けがしたくて、あたしはしばらくの間、リョウにいろいろなことを聞かせていた。ランドの話から、夏の狩りの話。それから秋の結婚の話になって、神殿の結婚式の話から守護の巫女や運命の巫女が結婚した時の話。そのあたりまで話したとき、入口の扉がノックされたの。リョウの顔に緊張が走るのを見て、できるだけ穏やかな仕草で言い置いて部屋を出ると、外からタキが入ってくるのが見えた。
「祈りの巫女、リョウは?」
「目は覚めてるわ。だからあんまり大きな声は出さないで。ちょっと話しておかなければならないことがあるの」
「とりあえず安全なんだね。……判った。たぶんもうすぐランドもくると思うけど、先に聞かせてもらおうか」
 タキは持ってきた荷物をテーブルに置いて、中身を広げ始めた。
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真・祈りの巫女147
 今のリョウは、小さな頃のあたし。シュウが死んでしまって、怖くて、6歳のあたしは記憶を閉ざした。リョウは影と戦って死ぬほどの目にあったんだもん。その時の恐怖の記憶と一緒に、あたしの記憶を失ったとしたってぜんぜん不思議じゃない。むしろ1度死んだ人が平然と生き返ることの方が不自然だよ。だってリョウは死んだんだから。その瞬間の恐怖って、きっと普通に生きてきたあたしたちには想像もできないものだろうから。
 リョウ、あたしのことを知らないって言った。あたしの名前を聞いても思い出さなかった。自分が建てた家のことも、自分の名前すらも覚えてない。……どんなに不安だろう。誰が味方なのかも判らなくて、まわりのすべてに怯えて、身体に触れられることを恐れてもあたりまえなんだ。それに、リョウは今動けないの。なにも判らない状況に放り出されて、それだけでも不安なのに、安全なところへ逃げることすらできないと思い知らされるのは、この上なく不安なことに違いないよ。
 こんなところで泣いてる場合じゃない。あたしなんかより、リョウの方がずっと辛いんだ。小さな頃のことはもうほとんど覚えてないけど、記憶がなかったあたしはきっと、リョウがいたから生きてこられた。リョウが優しくしてくれたから耐えられたの。だったら、今度はあたしがリョウに優しくしてあげる番だ。
 さっきのリョウ、あたしが14歳の時に1度見たリョウに似てるって気づいた。あの時、あたしを睨みつけて、大きな声で怒鳴って、あたしが怖くて逃げ出してしまったあのリョウに。でも、そんなリョウだってリョウの一部だもん。今度は逃げないよ。リョウの記憶が戻るまで、あたしはずっとリョウの傍にいて、リョウを守ってあげる。
 いつの間にか完全に日が落ちてしまったから、あたしは台所に灯りを入れて、顔を洗った。それから小さくリョウの寝室をノックする。返事はなくて、できるだけ音を立てないようにドアを開けると、ベッドの方から視線を感じた。
「リョウ、起きてたのね。……ごめんなさい。薬を飲まなかったから痛みで眠れなかったわよね」
 手にしてきた灯りをリョウの枕もとに置くと、少し眩しかったのか、リョウが目を細めた。
「のどが渇いたよね。今、水をあげるわ。それと、夕食も作ってあげる。なにか食べたいものはある?」
 リョウは片時もあたしから目を離そうとしなくて、それだけでもあたしを警戒していることが判ったの。
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真・祈りの巫女146
 リョウの目が驚きに見開かれていた。まるで、あたしのことを初めて見る人のように見るの。嘘だよね、リョウ。今は混乱してるだけで、すぐにあたしのことを思い出してくれるよね。
「そうだ、リョウ。傷がまだ痛むんでしょう? さっき痛み止めを調合してもらったの。これを飲んで少し休むといいわ」
 ベッドに寝たままでは薬を飲めないから、少しだけリョウの身体を起こしてあげようと思って手を伸ばした。でもその手がいきなりリョウに弾かれてしまったの。
「さわるな!」
 まさかそんな反応がかえってくるなんて思いもしなかった。だからあたしは呆然として、手を元に戻すことすら思いつかなかった。
「俺に触るな! おまえはなんだ! 俺はおまえのことなんか知らない! 俺をこんなところに閉じ込めてどうするつもりだ!」
 急に身体を動かしたせいで、リョウの息は荒くて、苦痛に眉を寄せていた。……怯えている? どうして? どうしてリョウはこんなに激しくあたしを拒絶するの……?
 どうしたらいいのか判らなかった。涙がにじんで、知らず知らずのうちにあたしは部屋を飛び出していた。食卓の椅子に崩れ落ちるように腰掛けて、テーブルに突っ伏して泣いたの。息が詰まって、だから小さなうめき声しか出せなくて。
 そのまま声を上げずに泣き続けた。一瞬の驚きが去ってしまってからも、あたしの涙は止まらなかった。あたし、いったいどうして泣いているの? リョウに手を弾かれたから? リョウにおまえなんか知らないって言われたから……?
 リョウ。優しくて、やきもちやきで、あたしが何度も大好きだって言ってるのにいつも不安がってた。傍にいて欲しいって、あたしを抱きしめてくれた。あたしまさかリョウに、俺に触るな、って、そんなこと言われるなんて思ってなかったよ。
 リョウに拒絶されるって、こんなに辛いことだったんだ。こんな、声も出せないくらいに。
 泣き続けているうちに、あたしはたぶん少しだけ落ち着いてきた。リョウの目がさめて、あたしは元のままのリョウが戻ってきてくれた気がしたけど、でもリョウは記憶を失ってたんだ。昨日の夜あたしはランドと話したの。もしもリョウが影の手先だったら、って。
 少なくとも今のリョウは影の手先なんかじゃない。たとえ記憶がなくたって、あたしはそのことの方を喜ぶべきなんだ。
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真・祈りの巫女145
 あたし、枕もとにおいてあった水差しを傾けて、リョウの口をほんの少し湿らせてあげた。リョウはゆっくりと唇を動かして、それだけでずいぶん渇きが癒されたみたい。目の焦点も少しずつ合ってきているようで、さっきよりもずっとしっかりした目線であたりを見回していたの。
「俺の……家……?」
「そうよ。リョウの家のリョウの寝室よ。リョウ、あなたは自分の家に戻ってきたのよ」
 このとき、リョウはやっとあたしの存在に気がついたみたい。あたしの顔に目の焦点を合わせて、まだ希薄な表情で、そう言った。
「……誰だ、おまえ」
「え……?」
 一瞬、あたしはなにを言われたのか判らなかった。でも、きっとよく見えないだけなんだって、ほとんど反射的にそう思ったの。
「ユーナよ、リョウ。よく見て。リョウの婚約者のユーナよ。まだ目がちゃんと見えてないの?」
 その時、急にリョウの表情が変わったんだ。今までの希薄な表情から、何かに驚いているような顔に。それとほぼ同時にリョウは突然身体を起こそうとした。でもリョウは全身傷だらけだったから、すぐに苦痛の表情を浮かべてベッドに倒れてしまったの。
「リョウ! 急に動いちゃダメよ! 身体に怪我をしてるのよ。傷が開いちゃうわ!」
「おまえは誰だ! どうして俺のことをその名前で呼ぶ! いったい俺をどこに連れてきたんだ!」
  ―― リョウの目は、真っ直ぐにあたしを見ていた。驚いたような、怯えたような、怒っているような表情で。リョウの目は見えない訳じゃない。ちゃんとあたしのことを見て、それなのにあたしのことが判らない。まさか ――
「リョウ……記憶をなくしてしまったの……?」
 目を見開いたまま、リョウは言葉を失った。
「あたしのことが判らないの? ユーナだよリョウ。リョウが20歳になったら結婚するって約束した、婚約者のユーナ。忘れてなんかいないよね。だってあたしたち、あんなに固く約束したんだもん。リョウがあたしのことを忘れるはずなんかないよね!」
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真・祈りの巫女144
 食後、タキは薬の調合をして、リョウの目が覚めたら飲ませるようにとあたしに託した。
「目が覚めるまで待ってていいの? その前に薬が切れるかもしれないわ」
「薬が切れたら痛くて到底眠ってなんかいられないよ。眠ってる人間に薬を飲ませるのって、すごい重労働なんだ。だから目が覚めてからの方がいい」
「そんな……。リョウがかわいそうよ!」
「祈りの巫女がそう言うなら挑戦してみてもいいけど、たぶん薬が無駄になるだけだよ。それに……早く目を覚まして欲しいんだろ?」
 あたしが反論できなくなると、タキはちょっと意地悪そうに笑って神殿へ帰っていった。……タキって、リョウになにか恨みでもあるのかな。リョウはタキのことをあまりよく思ってないけど、タキの方もリョウのことをそれほど好きじゃないのかもしれない。
 タキが帰ってしまってからは1人でリョウの様子を見守りながら、あたしは家の埃を掃除したり、リョウの着替えを用意したりしていたの。そうして、そろそろ日が沈みかけてきた頃、薬が切れてリョウが苦しみ始めたんだ。
「リョウ、リョウ」
 あたしはそうリョウに声をかけながら、額ににじんだ汗をぬぐいつづけた。薬が切れたせいだって判ってたから、早く飲ませてあげたかったけど、でもタキは飲ませ方を教えてくれなかったんだもん。とにかく目を覚まして欲しくて、あたしはずっと声をかけ続けていた。
「リョウ、リョウ! お願い、目を覚まして!」
 その時、ようやくリョウが薄く目を開けたの。あたしは嬉しくて、まだ視線をさまよわせているリョウに言ったんだ。
「リョウ! 目が覚めたのね、リョウ!」
 声に反応して、リョウはあたしを見た。でも焦点は定まってないみたいで、ゆっくりとあたりを見回していった。
「……ここは……」
 リョウの声はかすれていてほとんど声になっていなかった。それでもあたしは嬉しかったから、喜びで自然に顔が緩んでいた。
「ここ? ここはリョウの家だよ。リョウが自分で建てた森の家に戻ってきたんだよ」
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真・祈りの巫女143
 昨日の朝以来何も口にしてなかったあたしは、しばらくの間はただ食べることに熱中していた。あたしはタキと食事をしたことってほとんどなくて、リョウとはたまに一緒に食べることもあったのだけど、一緒に食べ始めてもたいていはリョウの方が早く食べ終わってあたしを待っていたの。でも、今日は本当にお腹がすいてたみたい。一気に食べ終えて向かいを見ると、タキの前にはまだおかずが残っていたんだ。
「早かったね。お腹すいてたの?」
「そうみたい。昨日の夜は食事どころじゃなかったし、今朝も遅かったから、考えてみると3食も抜いちゃってたんだわ」
「身体に悪いよそれは。……オレ、今日は夕食当番だから夕方には帰らなくちゃいけないんだけど、自分で作って食べれる?」
「大丈夫よ! 今はカーヤに任せちゃってるけど、共同宿舎にいた頃は当番だってやってたもの。これからはちゃんとリョウの食事も作るわ!」
 ちょっとムキになってそう言うと、タキは微笑ましそうに笑った。でもその表情の中にほんの少しだけ切なさのようなものを感じて、あたしは戸惑ってしまったの。……そうか、タキだってリョウのことではいろいろ思うことがあるんだ。タキはランドよりもずっと神殿のことを知っていて、だからそのぶん心配事だって多いはずだから。
「まあね。祈りの巫女に任せておけば安心だとは思うけど。君もいつまでもここにいられる訳じゃないから、明日からのことはまた相談しないといけないね。ランドにも自分の生活があるし」
「……やっぱり、神殿へ帰らなければダメ?」
「リョウのことはいつまでも隠し通せないよ。リョウの目が覚めなければ今の段階ではなんとも言えないけど、彼が死ぬ前とまったく同じリョウなら、君の祈りのことを守護の巫女に説明しない訳にはいかない。そうなると、今後の君の行動はすごく重要な意味を持ってくるんだ。守護の巫女を説得することも必要だし、村の祈りを今まで以上に行う必要も出てくる」
 タキの言うことは間違ってなかった。あたしがみんなを必死になって説得しなければ、自分の命もリョウの命も危うくなる。それにはみんなのためによりたくさんの時間を祈りに捧げることも必要になってくるんだ。
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真・祈りの巫女142
「君はそう言うと思ったよ。……それじゃ、オレは台所にいるから、なにかあったら声をかけて」
 あたしが振り返ってうなずくと、タキはにっこり笑って部屋を出て行った。タキに迷惑をかけていることも判ってたけど、今はリョウのことの方が心配で、あたしは再びベッドの脇にひざまずいてリョウの様子を注意深く観察していたの。リョウの眠りは安らかで、ランドが言っていたような命を落とすほどの危険はないみたい。全身の包帯は痛々しかったけど、それも徐々に回復に向かっているんだって信じることができた。
 やがて、台所の方から食欲をそそるいい匂いが漂ってくるのを感じて、それであたしは初めて気がついたの。タキが、台所でいったいなにをしていたのか。タキはあたしが目を覚ましたから、あたしのために食事を作ってくれていたんだ。
「ごめんなさいタキ! あたしも手伝うわ」
 そう叫びながら台所に駆け込んだあたしに振り返ったタキは、既に盛り付けが終わったお皿を手に持っていた。
「今呼びに行こうと思ってたところだよ。そうだね、お茶を入れてくれる?」
「ええ、判ったわ。任せて」
 そうして、タキに仕事をもらって少しだけ恥ずかしさを消化したあたしは、どうやらタキが持参してきたらしい茶葉を使って2人分のお茶を入れたの。タキがテーブルに並べた食事に、カーヤの料理を見慣れていたあたしはちょっと驚いた。数種類の野菜がたっぷり入ったスープと、ソーセージとほうれん草を一緒に炒めたおかず。なにしろ野菜の切り方がすごく大きくて不揃いで、量もたっぷりで、カーヤの洗練された料理とはぜんぜん違っていたから。
 タキは独身で神官の共同宿舎に住んでるから、きっと当番の時にはこんな食事を作ってるんだ。初めて男の人の料理を見たあたしは、その食事に上手な感想を述べることができなかった。
「お腹すいただろう? 祈りの巫女。口に合うかどうか判らないけど、ゆっくり食べよう」
「ありがとうタキ。気を遣わせちゃってごめんなさい」
 食事は、見かけ通り味付けもぞんざいだったけど、それでもすごくおいしかった。
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真・祈りの巫女141
 リョウがなんであろうと運命をともにすると誓ったその夜、リョウの寝室のゆかの上に座って、ランドに勧められるままお酒を飲んだあたしは、いつの間にかつぶされてしまっていた。目が覚めたときには既に昼近くで、リョウの寝室の隣にある部屋でベッドに横になっていたの。お酒の名残の頭痛が少しだけ残っていて、のどの渇きを覚えて台所へ行くと、そこにはタキがいたんだ。
「おはよう、祈りの巫女。よく眠ってたね」
 あたしはうまく声が出せなくて、タキに水を1杯もらって飲み干したあと、やっと少しだけ落ち着いて言った。
「おはようタキ。……ランドは?」
「夜が明ける前に村へ帰ったよ。このところ災厄騒ぎでまともに仕事してなかったから、少しでもその分を取り戻すんだって張り切ってた。今年は田畑の収穫も多く見込めないからね、食糧難も深刻なんだ。危険を察知した動物たちも今は村の近くにはいないし」
 タキの話を聞いて、あたしは影が村に与えた影響の大きさを初めて知ったの。影は村の人を殺したり、家を壊しただけじゃないんだ。田畑を蹂躙して、付近から食料になる動物を追い払って、村に長期的な打撃を与えていった。運命の巫女はあと数日影が現われないって言ったけど、この数日はけっして休息の時間じゃないんだ。
「神殿はどう? カーヤは心配していた?」
「そりゃあ、心配してない訳はないよ。君も1度顔を出しておいた方がいいと思うけどね。だいたい昨日から食事もしてないだろう」
「ううん、まだ帰れないわ。リョウの目が覚めるまでは」
 そう言い置いて、あたしは思い出したようにリョウの部屋に向かった。ベッドの上のリョウは昨日と同じ姿で眠っていて、たぶんタキが調合した薬が効いているのだろう、痛みもほとんど感じていないみたいだった。
「ひとまず熱の方は下がったよ。早ければ今日にも意識が戻ると思うけど、意外に長引くかもしれない。祈りの巫女、本当に1度宿舎へ戻らないか? オレもそんなに長い間ごまかせないし、いつまでも顔を見せないでいると変に勘ぐられることもある」
「……もう少しだけ待って。せめてあと1日。リョウの目が覚めるまで傍にいたいの」
 タキの言うことはすごくよく判った。でも、あたしは自分がしたことの結末を、この目でちゃんと見届けたかったんだ。
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真・祈りの巫女140
 睨み合いの緊張感はしばらくの間続いた。でも、やがて大きく息をついて、ランドが視線を外した。
「……たかが男1人に命なんか張るな、バカ」
 そのままランドは立ち上がって、部屋を出て行ったの。戻った時にはお酒を瓶ごと持ち込んでいた。
「リョウはたかが男じゃないもん!」
「気に入らねえなら言い直す。 ―― 恋人のために命をかけるのは男の仕事だ。女は見掛けだけでもか弱いフリをしてろ。……でねえと、男の度胸のなさが目立っちまうじゃねえか」
 言いながら、ランドはコップにお酒を注いで、言葉が終わった時にほとんど1口で飲み干したの。そして、少し潤んだ目をあたしに向けて、にやりと笑った。その笑顔はすごくアンバランスで、あたしも思わず頬が緩んでいたの。
「あたしはリョウを守りたいの。だから、みんながあたしを信じてくれるまで、何度だって説得する。それでも信じてもらえなかったら、その時はしょうがないわ。素直に殺されるわ。でも、リョウだけはなんとしても守りたいの」
「もしもリョウが今までのリョウとは別のものだったらどうする。村を滅ぼすために現われた、影の手先だったら」
「その時は……あたしがリョウを殺すわ。約束する」
 リョウに聞かれるのを恐れて少し声を潜めて言うと、おもむろにランドは無言であたしのコップにお酒を注いだ。そのあと自分のコップにも同じだけ注いで、軽く縁をぶつけてくる。仕草で飲むように言われて、あたしはほんの1口だけコップに口をつけた。
「判った。……ユーナ、おまえのことは、オレが守ってやる。おまえが神殿に殺された時にはオレがリョウを守ってやる。そして……おまえがリョウに殺された時には、おまえの代わりにオレがリョウを殺してやる」
 ランドの言葉に、あたしは一瞬身体を震わせた。怖かったけど……でも、ランドはリョウを殺すって言ってるんじゃない。ランドはあたしの味方についてくれたんだ。あたしと一緒にリョウを守ってくれるって、そう言ってくれてるんだ。
 心を憎しみで満たしたあの時、あたしは誰も頼れないって、そう思った。あたしの気持ちは誰にも判らないんだ、って。
 1度孤独に落ちたあたしには、ランドの言葉はすごく心強く響いたの。
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真・祈りの巫女139
 たぶんランドは、あたしが祈りの巫女になってからもずっと、あたしのことは小さな女の子として認識してきたのだろう。近所に住んでいて、いつもリョウのことを追いかけてた、小さな女の子。それからまだ何年も経ってないんだもん。あたしがそう祈ることで人を生き返らせたり、村を滅ぼしたりできるなんて、きっと思ってもみなかったんだ。
 もちろんあたし自身だって思ってなかったよ。自分にリョウを生き返らせる力があるだなんてこと。でも、あたしはリョウを生き返らせてしまったの。この事実だって、これから先ぜったいに消しようがないんだ。
「神殿が巫女を殺したなんて話は聞いたことがねえ。それは本当にありうることなのか?」
「今までの巫女は禁忌を犯したりしなかったもの。……あたしもね、考えてた。たとえ守護の巫女が神殿からあたしを追放したとしても、あたしの祈りの巫女としての力が消える訳じゃない。この力はあたしが生まれたときに神様が与えてくださったもので、神殿はあたしに名前を与えただけだから、名前だけを奪っても力は消えないの。もしもあたしの力を恐れて消そうとするなら、あたしを殺すしかない」
 ランドはしばらくの間、一点を見つめて何かを考えているようだった。やがて、残りのお酒をぜんぶ飲み干したランドは、コップをベッドの枕もとに叩きつけるように置いて、言ったの。
「つまり、今のままじゃ遠からずユーナが殺される可能性がある訳だな。神殿がリョウのことを知ったときには」
「あたしは村を滅ぼそうなんて考えてないわ。でも、みんながそう信じてくれなかったら、そういうこともあるかもしれない」
「要はおまえが自分のことを祈ったのが問題なんだな。……だったら、その証拠を消しちまえばいい」
 ランドがそう言って、ベッドの上のリョウに視線を向けたとき、あたしは背筋がゾクッとした。
 まさか……ランドはリョウを殺そうとしているの? リョウを殺して、あたしの命を救おうと言うの?
「やめてランド! リョウはなにも悪くないわ! リョウを殺すなんて言わないで!」
「今なら知っているのはタキだけだ。証拠を消しちまえば、おまえが禁忌を犯したことは誰にも知られないで済むはずだ」
「リョウを殺したらあたしも死ぬから! ……もしも死ねなくても、その時は本当に村を滅ぼす祈りの巫女になるわ!」
 表情を変えずに、ランドはあたしを振り返った。視線の駆け引きには負けないって、あたしはランドを正面から睨みつけた。
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真・祈りの巫女138
 ランドはふいっと部屋を出て行って、帰ってきたときにはコップを2つ手にしていた。その1つをあたしに手渡してくれる。
「茶葉が見つからねえからただの白湯だ。酒の方がよければそうしてやるが」
「……ううん、ありがとう」
 少しぬるくなった白湯を一気に飲み干してランドを見ると、どうやらランドはお酒にしたみたい。半分くらい飲んで、そのままリョウの様子を見つめている。たぶん、あたしが話し始めるのを待っていてくれてるんだ。リョウの様子を注意深く観察しながら、あたしは静かに話し始めたの。
「祈りの巫女はね、自分のことは祈っちゃいけないことになってるの。自分のことは強い想いになる。そんな強い想いで祈るのはよくないことだから、神殿ではあたしが自分の願いを祈るのを禁じているの」
 あたしはさっき神様に、リョウを返して欲しいって、そう祈った。あたしの願いを神様に伝えてしまった。その祈りはとてつもなく強くて、だからリョウが甦ってしまったんだ。あたしの祈りが今までよりもずっと強かったから、初めて神様はあたしに神様の声を聞かせてくれたんだ。
「オレにはよく判らねえ。つまり、おまえは悪いことをしたんだな。それなのになんで神様はおまえの願いをかなえたりするんだ? 神様は悪い願いでもかなえてくれたりするのか?」
「神様はね、善と悪を区別したりしないの。それを決めるのは人間で、神様はただ祈りの巫女の祈りを聞き届けてくれるだけ。例えば、あたしが村を滅ぼす祈りをして、その祈りが神様に届いたとしたら、村は滅んでしまう。だから祈りの巫女は、常に正しい心を持っていなければいけないの」
 ランドはあたしを見て、少しあとずさるような仕草をした。今までランドは神殿とはほとんどかかわらずに生きてきた人だった。もしかしたら、あたしに対して恐れの感情を抱いたのかもしれない。
「祈りの巫女は、村に幸せをもたらすけど、同時に村にとって危険な存在でもあるの。あたしは禁忌を破ることで、神殿の信頼を失ってしまったかもしれない。だから、このことが神殿に知られたら、あたしは殺されてしまうかもしれないの」
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真・祈りの巫女137
 また、ほんの少しだけ、リョウに会うのが怖い気がした。リョウが消えてしまってるとか、あるいは、明るい光の下で見たら、リョウがリョウとは似ても似つかない別人だったりとか。でもランドはずんずん部屋の中へ入っていってしまって、だからあたしも遅れないようについていったから、あまり考える暇もなくその怖さは氷解していったの。覗き込んだあたしの目に映ったのは、それはあたしが2年前に1度しか見たことがない眠るリョウの姿だったけど、その時目に焼き付けた顔と何ひとつ変わっていなかったから。
 もし、たとえほんの少しでもリョウの様子が違っていたら、たぶんランドはもっとはっきり「これはリョウじゃない」と主張したのだろう。情報としてではなく証拠として数々の不自然さを挙げ連ねて、あたしを説得しようとしたのだろう。でも、たとえ着ていた服がいつものリョウと違っていたとしても、ほんの少し髪形が違っていて、少しだけ肌の日焼けが少ない気がしたとしても、ここにいるのは紛れもなくあたしのリョウだったんだ。まつげも、唇も、首筋のほくろも、生きていた時のリョウと何ひとつ違うところなんてなかったんだから。
「リョウ……ほんとに帰ってきてくれた……」
 ベッドの脇に膝をついたあたしは、リョウの頬に手を伸ばして、その熱さに気がついた。呼吸も少し荒いみたい。たぶんタキが言ってたように熱が出始めてるんだ。
「ランド。リョウ、熱があるわ」
「これだけ派手に獣に噛まれれば熱も出るさ。すぐに引けば問題はない。ただ……長く続いたら危険だな」
「危険? 死ぬかもしれないってこと?」
「そうだ。ごく稀にだか、獣に噛まれた傷口から悪い風が入って、時には命を落とすこともある。だがそれはもうそいつが持って生まれた運の強さがものを言う世界の話だからな。リョウほどの体力があれば、よほど運が悪くない限り大丈夫だ」
 あたしは、枕もとに用意してあった桶で手拭を絞って、リョウの額に乗せた。その作業を見守ったあと、ランドが言ったの。
「ユーナ、これからどうするつもりだ。……さっきタキに聞いたんだが、おまえは祈りの巫女がやっちゃいけねえことをしたそうだな」
 そう問われて、あたしは言葉に詰まった。
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真・祈りの巫女136
 リョウの服と、持ち物。
 あの時、ただでさえ神殿の中は真っ暗で、しかもリョウは身体にたくさんの怪我をしていて、着ていた服はボロボロだった。だからリョウがどんな服を着てたかなんて、あたしは覚えてない。覚えてなかったけど ――
 なんだかすごく嫌な予感がした。あたしは考えちゃいけない。……ランドはすごく正直で公平な人だ。あたしがなにを恐れているのか、ちゃんと判ってくれている。
「ランド、お願い、あなたが保管していて。誰の目にも触れないところへ」
「処分するんじゃないのか? 保管しておいていいのか?」
「判らない。判らないけど、それはあたしの自由にしちゃいけないような気がするの。せめて、リョウの目が覚めるまでは、そのままにしておいて。……ランドには迷惑かもしれないけど」
「……判った。オレが自宅に隠しておく。ミイには中身については内緒にしておくが、おまえかリョウのどちらかが取りに来た時にはすぐに渡せるように話しておく。……それでいいか?」
「ええ、ありがとう」
 少しの間、2人に沈黙が流れていた。その時に家の中で気配がして、タキの足音が近づいてきたの。タキは扉を開けて、あたしを見ると少し複雑な表情で微笑んだ。それだけでタキが、ランドと同じようにリョウについて疑っているらしいことは感じられたから、あたしも曖昧に微笑み返すことで答えた。
「祈りの巫女、ランドに聞いたと思うけど、リョウは命には別状ないから安心するといいよ。オレはこれから戻って薬を調合してくる。君も宿舎に戻るなら一緒に行こう」
「ううん、あたしはリョウの傍についてるわ。カーヤにはタキがうまく言っておいて」
「そう言うと思った。判ったよ。カーヤにはなんとかごまかしておく。少し熱が出るかもしれないから、額を冷やしてあげてくれる?」
 あたしがうなずくと、タキは神殿へ戻っていった。そのうしろ姿を見送ったあと、あたしとランドは再び家の中に入ったの。
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真・祈りの巫女135
「リョウの傷は獣に噛まれた傷がほとんどだ。おそらくリグか、それに似た獣の群れに襲われたんだろう。群れに囲まれて、あれほどの傷を負って、それで自力で逃げられたのだとしたら奇跡に近いな。普通はあそこまで怪我をしたらそのまま喰われちまうもんだが」
 深く考えたら、リョウがリグに襲われた怪我をしているのは、すごく不思議なことだった。でも、あたしはそれほど深く考えたりしなかった。それを考えるのは危険だって、心の底で警告が発せられているように。
「リョウは強いもん。リグの群れなんかに殺されたりしないわ」
「そうだな。だからこそ、ふだんのリョウならリグ相手にあれほどの怪我を負ったりもしねえんだ。……あのな、ユーナ。オレは今はおまえの説得を諦めてる。今のおまえには何を言っても無駄だ。だから、これは説得じゃなくて、単なる情報として聞いておけ。……リョウは、本来のリョウは、リグ相手にあれほどの怪我を負うことはぜったいにない」
 ランドがいったい何を言いたいのか、あたしには判らなかった。
「万が一、リョウがリグに襲われてあの怪我をしたのだとしたら、その時はもう自力では逃げられねえ。誰かに助けてもらったか、リグたちが別の危険を察知してリョウを喰うのを諦めたか、そのどちらかだ。ユーナ、リョウは神殿へはどうやってきたんだ?」
「神様が連れてきてくださったのよ。突然神殿が光に包まれて、気がついたらリョウがあの場所にいたの」
「光……? オレはあの時ずっと神殿を見ていたが、光なんか漏れてこなかったぜ」
 え? あの巨大な光は神殿の外からでは見えなかったの? ……それより、ランドはどうしてあの時あんなところにいたの? だってランドは村の、あたしの実家近くに住んでいて、家は影の襲撃からは逃れてたはずなのに。
「もしかして……あたしのことを見張ってたの……?」
「しかたねえだろ。あの時のおまえは普通じゃなかったんだ。同じことをタキの奴も考えてたらしくて、途中からは交代で見張ることにして……。まあ、そんなことはどうだっていいんだ。ユーナ、リョウには今はこの家にあった服を着せてあるが、さっきまでのリョウの服と、身につけていたものをどうする? おまえが望むんならオレが処分してやってもいいが」
 話を聞いているうちに、あたしの足元からは震えが伝わってきていた。
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真・祈りの巫女134
 タキが持ってきていたランプをかざして、あたしは担架を持った2人をリョウの家まで先導した。リョウはずっと意識を失ったままで、ベッドに寝かせたときに多少のうめき声は上げたものの、目を覚ますことはなかった。家の中を灯りで満たしたあと、あたしはランドとタキに家を追い出されたの。リョウはほとんど全身に渡って怪我をしていて、治療のためには服をぜんぶ脱がさなければならなかったから、独身の女の子が見るものじゃないっていうのがその理由だった。
 ランドは狩人だから、怪我の応急処置には慣れていた。タキも神官だったから、ローグほど本格的じゃなくても怪我や病気の治療には精通している。だから2人に任せておけば安心だったのだけど、家の扉の前で待っているあいだ、あたしはものすごく不安だった。だって、あたしは1度リョウが死んだときの絶望を味わったんだもん。リョウが生き返ってすごく嬉しかったのに、もしもまたリョウが死んでしまったら、その時自分がどうなるのか判らなかったから。
 もう2度と、あんな想いはたくさんだよ。もしも今度リョウが死んじゃったらあたしも一緒に死のう。誰に止められたって、誰が悲しんだって、あたしはリョウと一緒にいるんだ。だって、リョウがいないあの時のあたしは、もう祈りの巫女じゃなかったんだから。
 ううん、禁忌を破った時点で、今でもあたしは祈りの巫女じゃなくなってるのかもしれない。殺されるのか、追放されるのか、神殿が与える罰がどんなものかは判らないけど、あたしはリョウを生き返らせたことを後悔はしないよ。たとえ村を追い出されることになったって、リョウと一緒ならその方がずっと幸せだと思うから。
 リョウ、お願い、助かって。神様、もしもあたしにまだ祈りの巫女の力があるなら、リョウの命を助けて。
 そうして、あたしが心の中で祈りを捧げていたその時、不意に人の気配があって扉が中から開いたの。
「ランド! リョウは? リョウは大丈夫?」
 ランドは1人きりで、外に出たあと後ろ手に扉を閉めた。まるで、会話を中にいるタキに聞かれまいとするかのように。
「ああ、怪我の方は大丈夫だ。さっきも言った通り、数は多いが1つ1つはそれほど深い傷じゃないからな。あれが本当にリョウなら、鍛えてるから心配することはない」
 その言い方から察するに、ランドはまだ少しリョウのことを疑っているみたいだった。
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真・祈りの巫女133
 しばらく考え込んでいたランドは、やがて顔を上げた。
「……判った。どっちにしろこのまま放っておく訳にはいかねえ。ユーナ、こいつをどこに連れて行くつもりだ」
 それについては、ランドが黙っていた間にあたしもいろいろ考えていたの。あたしの宿舎に運び込めたら1番よかったけど、今はオミもいるし、それにあたしの宿舎にいたら神殿のみんなにリョウのことを隠すことなんかできない。いずれ判ってしまうことだったけど、今は少しでも時間を稼ぎたかったの。せめてリョウの意識が戻って、リョウが自分でみんなを説得することができるようになるまで。
「リョウの家に連れて行って。そこなら神殿から遠くないし、あたしも看病に通えるから」
「リョウの家、か。村へ運ぶよりはマシだな。だがリョウはオレよりでかいし……。ユーナ、少しだけここで待ってろ」
 あたしが不安な気持ちでランドを見送って、しばらくリョウの苦しそうな顔を見つめてじりじりしながら待っていると、かなり時間を置いて再びランドが戻ってきたの。その時ランドは手に担架を持って、うしろにはタキを従えていたんだ。
「タキ……」
「祈りの巫女! リョウが生き返ったっていったい……」
「怪我をしてるの! お願いタキ、リョウを助けて!」
 どうしてランドがタキを連れてきたのかは判らなかったけど、今はそんなことを追求する気はなかった。タキは横たわるリョウを覗き込んで、そのあと信じられないような顔であたしを見つめる。そしてやがて、気づいたように目を見開いたの。
「まさか、君は祈ったのか? リョウの復活を神様に祈ったのか!」
 自分が戒めを破ったことをタキに責められているのが判って、あたしはそのうしろめたさに答えることができなかった。
「なんでそんなことを……! このことがみんなに知れたら、君はどうなるか……」
「あたしのことなんかいいの! それよりリョウを助けて! リョウを助けるために力を貸して!」
「ユーナ、見た目はひどいがリョウの傷はそれほど深くねえ。心配するな。タキ、リョウを運ぶのを手伝ってくれ」
 いつの間にかリョウを担架に移し終えていたランドがそう言って、まだ心を決めかねていたタキを促した。
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真・祈りの巫女132
 無言で倒れた人影に近づいて、そのまま倒れずにあったろうそくをかざして顔を覗き込んだランドは、一瞬息を飲んだ。
「……まさか。……そんなバカな! リョウは死んだはずだ!」
「怪我をしてるの! お願いランド、リョウを部屋に運んで! あたし1人じゃリョウを助けてあげられないの!」
 勢いよく振り返ったランドは、あたしの肩をきつく掴んで言った。
「ユーナ! いったい何があった! どうしてリョウがここにいるんだ!」
「神様が……神様があたしにリョウを返してくれたの! あたしがリョウを生き返らせて欲しいって祈ったから、神様が奇跡を起こしてくださったの!」
 ランドに言いながらあたし、その言葉をだんだん自分でも信じるようになっていったの。これはあたしを哀れんだ神様が、あたしのために起こしてくれた奇跡なんだって。
「オレはリョウが死ぬところを見たんだ! バラバラになったリョウの亡骸を集めて、草原と森の間に穴を掘って埋めるところも手伝った。おまえがいくら祈ったところであんな状態の人間が生き返る訳がねえだろ!」
「だったらランドはこれがリョウじゃないって言うの? よく見てよ! どう見たってこれはリョウだよ! リョウ以外の人だなんてこと絶対にありえないよ!」
「……ああ、確かにリョウだ。リョウに見える。だけど、これがリョウじゃない可能性だってまったくない訳じゃない」
「リョウだよ! だって、今は気を失ってるけど、さっきほんの少しだけ意識があったの。その時あたしの顔を見て“ユーナ”って言ったんだから! ……ねえ、ランド。今あたしをユーナって呼ぶ人はすごく少ないんだよ。神殿ではカーヤだけで、村ではランドや小さな頃からあたしを知ってる人たちだけで、あとの人はみんなあたしを祈りの巫女って呼ぶんだもん。あたしのことをユーナって呼んだだけで、この人はリョウなの。お願い信じて! リョウを助けてよ!」
「おまえの、名前を呼んだのか……? おまえのことをユーナって……」
 ランドはあたしとリョウを交互に見て、しばらく絶句していた。あたしも黙ったまま、ランドが信じてくれるのを辛抱強く待っていた。
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