2001年06月の記事


蜘蛛の旋律・139
 野草が事故に遭った瞬間、自我を持った7人のキャラクターは、野草の生い立ちや下位世界と現実世界の仕組み、ほかのキャラクター達のすべての物語を知った。野草が彼らを創った神で、その神が自ら死を選ぼうとしていること。そして神の死は自分の死であることを知った。
 その時の混乱と失望は、シーラが語ってくれた。だけど、その混乱が去った時彼らが思ったのは、なんとしても生き延びたい、ということだったのだろう。彼らは自分達が生き延びる手段を求めて、まずは野草の病室に現われた。そして、そこにいた現実世界の人間、巳神信市と会うことになった。
 シーラはオレを黒澤弥生のところに連れて行き、オレが野草の自殺願望を覆すために召喚されたのだと知る。だけど、本当は誰も、オレが野草を救えるなんて信じていなかったんじゃないだろうか。黒澤弥生にしても、ほかのキャラクターにしても。シーラは最初は信じたのかもしれないけど、しばらくオレと行動してみて、オレにその力がないことを見抜いたんじゃないだろうか。
 だって、彼らは知っていたのだ。野草が『蜘蛛の旋律』を書いていたことを。『蜘蛛の旋律』の中では人類は、僅か一握りの人数を残してすべて死滅する。それは百年後の出来事じゃない。数年か数十年後に確実にそのときは訪れ、彼らだって無事に済むはずがなかったのだ。当然野草はなまじな説得には応じないだろうし、万が一応じたところで、数年後にはすべて水泡に帰す。野草の説得というのは、最初から無意味なことだったのだ。
 では、黒澤弥生はなぜ、オレを召喚したのか。少なくとも二度目に会ったシーラとアフルはその理由を悟っていたような気がする。このときアフルは葛城達也と接触していた。シーラも、葛城達也に操られたタケシと一緒にいた。このあたりは推測でしかないけれど、もしかしたら2人は葛城達也にその理由を聞いたのかもしれない。
 黒澤弥生が、役に立たないオレをわざわざ召喚したのはなぜなのか。どうして、召喚されたのがオレだったのか。
 生き延びるために、彼らは野草を見捨てて、新しい神を見つけようとしたのではないだろうか。
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蜘蛛の旋律・138
「メルマガ連載はしばらく休むのか?」
「さすがに疲れたからね。年末年始は仕事も忙しいから、来年頭くらいまではお休みすると思う。今回転勤した職場、前のところの3倍は忙しいんだ」
 黒澤は普通に仕事も持ってたし、オレと知り合ってからも適当に恋愛もしていた。オレは黒澤をかわいいと思うけど、それは自分のキャラクターに対する情みたいなもので、恋愛感情じゃなかった。黒澤もそのあたりは察していたんだろう。彼氏ができたといっては浮かれてオレに話してきたし、ふられたといってはオレに怒りの電話をかけてきた。
 オレもいくつか恋をした。だけど、シーラのような女の子には、未だに出会うことができなかった。
「1ヶ月は休むのか。……次回作、考えてるのか?」
 黒澤はちょっと考えるようにしていた。迷ってるのは判ってる。オレ自身がまだ結論を出してないからだ。
「書きたい小説はあるんだよね。途中のまま放り出してる『シャーマンの祈り』も書き上げたいし、『地這いの一族』の続編も書きたいしね。でも、『シャーマン〜』は長いからできれば避けたいんだ。『地這い〜』はやたら暗くなりそうだし」
「だったらさ、オレが主人公の小説、書いてみないか?」
 黒澤はきょとんとしてオレを見上げた。初めてだったからだ。オレが、黒澤の小説にアイデアめいたものを出したのが。
「オレと、お前が出てくる小説。高校生のオレが主人公なんだ。……昔、オレの部活仲間に野草薫って女の子がいてさ。その子は内気なんだけど、すごく小説が上手だった。もうちょっとあったかい頃だったかな。その子が事故に遭って、生死を彷徨う彼女の夢の中に、オレは紛れ込んじまったんだ ―― 」
 真剣な表情で、黒澤はオレの話す物語を聞いていた。病院に現われたアフルストーンと名乗る少年。シーラという美人の女。オレは黒澤に話しながら、自分があの時体験したその不思議な一夜を詳細に思い出していた。
 あの時は判らなかったことが、今なら判る気がする。10年が経った今、あの時のアフルの不可解な行動も、シーラの恋の理由も、片桐信の不思議な言葉の意味も、すべて解き明かせた気がするのだ。
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蜘蛛の旋律・137
 新都市交通の駅の向こう、昔アフルとドライブした通りに新しくできたカレー屋に落ち着いて、オレは黒澤の話を聞いていた。あの頃の黒澤は嫌味なオバサンにしか見えなかったけど、今見ればそれなりにかわいいと思う。オレの見る目が変わったのかもしれないし、もしかしたら黒澤自身、相手に合わせて違った面を見せてるのかもしれない。
「 ―― 今回は話的には割と楽な方だったんだ。でも、毎日連載はやっぱきついよ。今回からメルマガも始めちゃったしね。HPの時と違って、気軽にお詫び出せないし」
 オレは黒澤に、自分のことはほとんど話していない。だから知らないだろう。黒澤弥生がオレのペンネームだってことは。
「『永遠の一瞬』の最終回、読む?」
 読む必要はないんだ。そこに書いてあるのは、オレが昨日書き上げた小説そのままなのだから。
「いいよ。メルマガの方で楽しみにしとくから」
 黒澤はちょっと残念そうな表情を見せた。
 高校の頃、オレが初めて書いた小説は、シーラが主人公のスパイ小説だった。だけど、その小説は初めて小説を書く人間が完成させられるほど、甘い小説じゃなかったんだ。けっきょく書き上げることができなくて、オレはもっと簡単な小説をいくつか書くことになった。オレ自身のオリジナル小説を何編か完成させたあと、野草の葛城達也が出てくる長編小説を書いた。
 数年後に『地這いの一族』を書き上げて、オレがこの黒澤弥生に出会ったのはちょうどその頃だ。オレが書いた小説を、そっくりそのまま同時に書いている黒澤弥生。この黒澤は、オレの黒澤弥生だった。野草のキャラクターじゃなくて、オレ自身が生み出したキャラクターだったんだ。
 オレの下位世界が、現実世界に影響を与えてできたキャラクター。まだ、葛城達也は実在しないし、このあたりの風景も変わらない。だけど、オレの下位世界は現実世界を変え始めている。黒澤弥生は、オレが一歩野草に近づいた、その証のようなものだったんだ。
 これから先オレがもっと自分の下位世界を広げていけば、やがて世界を変えることができる。シーラを、実体化させることができる。
 オレはシーラに会うことができるんだ。
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蜘蛛の旋律・136
 卒業、進学、就職、恋愛。
 野草がいない時間も順調に過ぎて、あれから既に10年が経とうとしていた。
 オレは今、仕事をしながら、黒澤弥生の名前で小説を書いている。

 仕事帰りのその足で、オレは1人の女性に会うために車を走らせていた。会うのは約2ヶ月ぶりくらいだ。ずっと書き続けてきた小説が昨日やっと上がったから、そのねぎらいの意味も込めていた。
 世間ではクリスマスが近づいて、彼女の家に続く国道傍もなんとなく華やいでいる。大きな橋を渡って、ガソリンスタンドの角を曲がって、次の県道を突っ切る。この道もずいぶん変わったと思う。シーラと走ったあの頃は、あんなに大きな会社はなかったし、あのパチンコ屋もこんなにきれいじゃなかった。
 バス停前のわき道を入ってすぐのところに路上駐車をした。歩いて再びバス停まで戻って、向かいへ渡ると目の前に1つのアパートがある。初めてこのアパートを見つけたのは3、4年前だったか。それまで空き地だったはずの場所に、築10年は経ってるだろうアパートを見つけて、オレは驚いて膝が震えてきたのを覚えている。
 今は、そんなことはない。いつもの通りそのアパートに近づいて、黒澤の表札がかかった部屋の呼び鈴を押した。ややあって飛び出してきたのは、オレより少し年下くらいに見える、1人の女だった。
「やあ、巳神君久しぶり! ちょうどいいタイミングだね。昨日だったらあたし出られなかったよ」
 笑顔で話す黒澤弥生。オレは心の中で苦笑しながら言った。
「小説書き終わったのか?」
「うん、昨日ね。もう、やっと終わったー! って感じ。しばらくは小説なんか書きたくないかな」
「夕飯まだだよな。出られそう?」
「大丈夫。車で待っててくれる?」
 たまに思い出したように黒澤弥生を食事に誘うのが、最近のオレの密やかな楽しみになっていた。
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蜘蛛の旋律・135
 水曜日は中間試験の初日で、3時間の試験をこなしたオレは、駅前で軽い食事をとって電車とバスを乗り継いだ。公団住宅前でバスを降りて、メモを頼りに部屋を探す。部屋は程なく見つかった。誰もいないかもしれないとも思ったけれど、幸い部屋には野草の母親がいて、野草の友人だと名乗るとひどく驚いたようにオレを招きいれてくれた。
 実年齢よりもだいぶ老けた風に見える母親は、野草のことについてはあまり話したくないように口を閉ざしていた。あの時巫女は、野草が母親にさえ恐れられていたのだと語った。オレは形式どおり、仏壇に線香をあげて手を合わせて、出されたお茶を飲む。野草の部活仲間であること、彼女の作品を好きだったことなんかを簡単に話して、野草が生前書いた小説があれば読ませて欲しいと切り出した。
 まだ、なにも片付けてはいないのだと、母親はオレを野草の部屋へ入れてくれた。殺風景で、よけいなものが何ひとつない部屋だった。ワープロは勉強机の上に置いてある。触ってもいいかとそれだけ確認して、オレはデスクに腰掛け、ワープロのスイッチを入れた。
 起動のためのFDを入れ替え、画面の変化を見つめる。ケースにはいくつかのFDが入っていて、番号だけがふられたFDの1番を入れて呼び出してみた。だけど、そのFDはフォーマットされていたのだ。12番まであったけれど、そのすべてがフォーマットされて、中にはなにも入っていなかったのである。
 オレは再び許可を得て、机の引出しや棚に別のFDがないかどうか、丹念に探し始めた。野草がオレたちに読ませてくれた小説はプリントアウトされてたから、その原稿もあわせて探した。だけど、その広くない部屋の中には、野草が書いた小説に関するすべてのものが存在しなかったのだ。メモ用紙の1つも、ノートの片隅にも、小説といえる一切のものは消えてなくなっていたのである。
 野草は、誰かがここにくると思って、小説をすべて処分したのか?
 それとも、野草のキャラクターの誰かが、何かの意図をもって処分したのか ――

 オレはもう、野草の小説を読むことができない。シーラの小説は処分されてしまって、オレの記憶の中にしかないんだ。オレは二度とシーラに会えない。オレが初めて恋をしたあのシーラには、もう二度と会うことができないんだ。
 シーラに会いたかった。二度と会えないことを知ってしまったから、オレはよけいにシーラに会いたくてしかたがなくなってしまったのだ。

 そしてオレは、自分の記憶だけを頼りに、まるで取りつかれたようにシーラの小説を書き始めたのだ。
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蜘蛛の旋律・134
 『蜘蛛の旋律』という物語そのものは、1000年後の社会の政治的問題点や思想を絡めたSF恋愛小説で、雑誌の投稿にあった3人の読者の批評は嘘じゃないと思うくらいにはおもしろかった。だけどそれとは別に、オレは気付いたんだ。その1つ目は、この小説が野草の作品だったということ。
 今まで1年半、オレは毎月野草の作品を読み続けてた。だから野草の言い回しや文章の癖が身についてしまっていたんだ。作者名も違うし、作風そのものもかなり違うのだけど、これが野草の作品に間違いないって自信はある。野草はオレたちには内緒で、出版社と契約してこの本を出していたんだ。
 そして、もう1つオレが気付いたこと。物語の中に出てくる伝説の神ミュー=ファイアは、あの葛城達也だ。もしかしたらオレは、ミュー=ファイアが葛城達也だと気付いたから、この物語が野草の作品だって確信したのかもしれない。
 1000年前に未曾有の災害に襲われ、ほとんどの人間が死滅したあとの1000年後の世界。小説の中には災害がいつ起こったのか明記されてはいないけれど、野草の中ではちゃんと設定されていて、なおかつ葛城達也がこの災害を引き起こすきっかけになっていたのだろう。死ぬ直前、野草が言った「あの小説」とは、この『蜘蛛の旋律』だったのだ。野草は数年後か数十年後かに人類が死滅する小説を書いていたから、自分が死ぬしかなかったんだ。
 今、世界は元に戻っていて、葛城達也もいないし城河財閥も存在しない。葛城達也が存在しない以上、災害が起こることはないのだろう。だけど、野草の作品そのものは残っている。『蜘蛛の旋律』も、野草が文芸部で書き続けていた、たくさんの短編も。
  ―― もしかしたら、野草の作品はまだあるんじゃないのか? オレが読んだシーラやアフルや巫女の小説も、オレがまだ読んだことのない、片桐信やその他の多くの小説も。
 野草はいつも自分のワープロで小説を書いてた。そのワープロの中には、野草の未発表作品が眠っているかもしれないんだ。
 そこまで思って、オレはいてもたってもいられなくなってしまっていた。
 そして、野草の初七日が過ぎる水曜日を待って、再び野草の自宅を訪ねてみることにしたのだ。
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蜘蛛の旋律・133
 生活が日常に戻って、野草の下位世界の影響を受けていた景色も正常化して、オレ自身の記憶も徐々に薄れていった。あの夜の出来事を何度も繰り返し辿っていたけれど、結論が出る訳でもなくて、オレもショックから立ち直りつつあった。オレは野草を救えなかった。もっと時間があったら、オレに知識があったら、何か解決策を考えられたかもしれない。だけどそれもすべて過去のことだった。今のオレがいくら考えたところで、死んだ野草を生き返らせることはできないのだ。
 さすがのオレも考えることに飽きてしまったから、気分転換のつもりで手近な本に手を伸ばした。 ―― 『蜘蛛の旋律』。あの日、野草と本屋に行って、やっとの思いで手に入れた最期の本。
 心を落ち着けて、オレは『蜘蛛の旋律』を読み始めた。

 物語の舞台は、今から約1000年後の架空の都市を設定している。
 1000年前(というからほぼ現代だ)、地球に未曾有の災害が起こり、地球上に生息する人間のほとんどが死滅した。
 何とか生き延びることのできた僅かな人間たちは、それから1000年をかけて、それまでとはまったく違った経路で文明を発達させてゆく。
 その発展の中心になったのが、のちにミュー=ファイアと呼ばれる1人の男だ。
 災害後数100年を生きたとされるミュー=ファイアは、その世界では伝説となり、神と呼ばれている。
 この世界ではヒトゲノムは完全に解析され、人間の性別は4つに分類されている。
 本来男性とされる性別を更に2つに分けてMY型、MX型とし、女性はFY型、FX型とされた。
 そして、その4つの性別が同型でさえなければ、互いに婚姻することが可能なのだ。
 物語は3人の人間を中心に描かれている。
 それぞれMY型、MX型、FY型で、オレの感覚では男性2人に女性1人。
 でも、全員が異性で、この『蜘蛛の旋律』という小説は、3人の異性の恋愛物語だったのだ。
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蜘蛛の旋律・132
 丸1日の検査入院。その日のうちにオレは帰宅を許され、翌日1日だけ学校を休んで、木曜日には普段どおりの電車に乗った。JR駅からバスに乗り換えて20分。バス停の向かい側は空き地になっていて、黒澤弥生が住んでいたアパートそのものが野草の創作だったのだと知った。裏道を通って、新都市交通通学の生徒の列と合流して、長い坂を下る。沼を渡る橋の手前に県立沼南高校入口の看板。タケシの車が激突した校門も、何事もなく元のままだった。
 クラスのみんなはもしかしたらオレにいろいろ訊きたかったのかもしれない。だけど、オレは半分夢の中にいるようにぼんやり考え込んでいたし、声をかけられても満足な受け答えができなかったから、みんなもオレに気を遣ってたんだろうな。そんな調子だったから、オレが野草の彼氏だったっていう噂が、もっともらしく囁かれもしたらしかった。
 そして翌日の金曜日、野草の葬式があった。
 文芸部の顧問に引率されて、オレは初めて野草の自宅近くを訪れた。新都市交通終点の乗換駅からJRで10分、更に15分ほどバスに乗る。葬儀は公団住宅の集会所で執り行われていて、そのときオレは初めて、野草が母子家庭のひとりっ子だと知ったのだ。野草の母親は夜中のビル清掃の仕事をしていたから、病院に駆けつけられなかった。その母親は喪主の席に呆然と座っていて、誰も声をかけることはできなかった。
 遺影の写真は、夏の合宿で撮った集合写真。オレは前から何度もその写真を見ていたのだけれど、今、花に囲まれてぼんやりこちらを見返す野草を見ても、なぜか本人のような気がしなかった。……野草は、本当に生きていたのか? 文芸部で小説を書いていた。長編小説をオレたちに披露してくれた。あの下位世界で野草は確かに生きていたんだ。現実の野草は、果たして本当に生きていたって言えるのか?
 あの不思議な夜を境に、オレの中での野草の存在は、明らかに変化していたんだ。オレにとっての野草は、文芸部で独り本を読む野草じゃなくて、葛城達也に抱きしめられて満足そうに死んでいった、あの野草なんだ。
 このあとも数日の間、オレは読書も試験勉強もまったくしないで、ひたすらあの夜と野草のことを考え続けていた。
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蜘蛛の旋律・131
 すべてを無に喰い尽くされた空間に、オレは1人浮かんでいた。
 野草と葛城が塵と消え、その残像すら消えてからは、オレの周囲にはなにも存在していなかった。無の空間は限りなく続いていて、今までそこに何かがあったという痕跡も、気配もない。野草の下位世界は消えてしまったのだ。ここは世界が死んだ場所。世界の終わりの姿だった。
 この空間を作ったのは野草だったのだろうか。それとも、別の誰かが用意した場所に、野草が世界を構築したのか。人間が触れることのできない物質で形作られた下位世界。ここにはまた誰かの下位世界が生まれたりするのだろうか。
 オレがぼんやりと考えていた時間は、それほど長くはなかった。間もなく、誰かの呼び声と身体を揺すられるような感覚があって、一瞬の空白のあと、オレは目を覚ましたのだ。
  ―― 眩しさに目を細めると、オレの目の前に誰かが立っているのが見えた。
「巳神君、起きた……?」
 なんだか頭痛がする。オレはいったい何をしていたんだろう。
 しっかりと背筋を伸ばして顔を上げると、目の前にいるのが1人の看護婦だと判った。目に涙をためて、唇をゆがめている。……思い出した。オレは集中治療室で治療を受ける野草が気になって、廊下の長椅子で様子を聞いていたんだ。
「巳神君……ごめんなさい。薫さん、助けられなかった……」
 看護婦はオレの両手を握っていて、その重なり合った手の甲に、彼女の涙が落ちた。……そうか、野草は死んだんだ。野草の最愛のキャラクター、葛城達也に抱きしめられて。
「……看護婦さんが悪いんじゃないです」
 なんとか、それだけを伝えて、立ち上がったオレはそのまま自分の病室に戻った。オレを邪魔する人は誰もいない。アフルも、シーラも、再び現われることはないだろう。
 ベッドに潜り込んだオレは爆睡して、夢を見ることはなかった。
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蜘蛛の旋律・130
 無意識的にではあったのだけど、校舎に入るあたりから、オレは極力シーラのことを考えないようにしていた。あの時はまだ野草にかける言葉のひとつも思いつかなかったし、必死でもあったから、自分自身でセーブしてたのだと思う。野草のことだけで頭を一杯にして、野草にとって一番いい方法を見つけようと思っていた。
 だけど、葛城の指摘は、オレの無意識も意識もすべてさらけ出してしまった。オレは、野草の下位世界を守ることで、もう一度シーラに会いたいと思ってたんだ。野草が葛城達也を忘れたいはずなんかない。他の誰を忘れても、葛城達也を忘れることだけはしたくないはずだ。すべてを忘れることはできても、葛城達也だけ忘れるなんてできないはずだ。
 虚無は既に2人の足先まで迫っている。オレは最後の最後に、野草のことより自分の都合を優先させようとしたのだ。
「巳神君、シーラを好きになってくれて、ありがと」
 オレはもう、野草の表情から何かを読み取ることができなくなっていた。足先から野草も消えようとしている。野草はこの下位世界の物質と一緒に、塵になって消えようとしていたのだ。
「まだ諦めないでくれよ! これから2人で考えようぜ。ぜったい方法は見つかるはずだ!」
 野草の背後にある壁も、ドアも消えてゆく。そのドアの向こうに消えかかる1人の人間を見つけた。もう、上半身はほとんど消えていたのだけど、膝に乗せたワープロを叩きつづけている両手だけが見えた。黒澤弥生 ――
 一番野草に近いこの場所で、黒澤は最期まで小説を書き続けたのか。
「達也もアフルもシーラも、ほかの巳神君が知らないキャラクターも、全員あたしが連れて行くね。だから、巳神君も忘れて。小説のキャラクターは、現実世界に存在しちゃいけないんだ」
 これが、結末か? すべて存在しなかったことになる。野草の下位世界も、あんなに生き生きしていた野草のキャラクター達も。
 黒澤弥生、お前は、こんな小説を書きたかったっていうのか……?
「達也、あたし、やっとあなたを殺せる……」
「薫、お前が俺の神だ」
 抱き合ったまま静かに塵になる2人の顔には、なぜか満足そうな微笑みが浮かんでいた。
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蜘蛛の旋律・129
 周囲を無の空間に囲まれた小さな世界。ゆかはちょうど丸い形に残っていて、天井は既になかった。地理室へ続くドアの前に、葛城達也と野草がいる。まるで、舞台装置の前でスポットライトを浴びている、主役の恋人同士のようだった。
 オレの中の言葉は既に使い果たされてしまっていて、ひとつも残ってはいなかった。……判っちまったんだ。野草が書いていた葛城達也の未来の小説。その世界で、おそらく葛城達也は不特定多数の人間の命を奪っていたんだ。
 すべてを破壊に導く葛城達也というキャラクター。彼も野草の願望の一部だ。野草はすべての現実を破壊したかった。その願いは幼い葛城達也を生み、少しずつ育てて、やがて世界を破壊できるまでに成長させてしまっていたのだ。
「ようやく判ったみてえだな。最初から貴様に勝ち目なんかねえんだよ」
 これから先、野草が生きているだけで、現実世界は破壊されてしまう。野草にとってはどちらも同じことだったのだ。自分が死ぬことで現実世界を救えるのなら、その方がいくらかでもマシだったのかもしれない。
 最初から、オレに勝ち目はなかったんだ。
「野草、本当に、なんにも、方法はないのか? 例えばお前の葛城達也に関する記憶だけを消すとか」
「おい、巳神。今それができるのは俺だけだぜ。なんで俺が自分だけ死ななきゃならねえんだよ」
 諦めかけていたオレの言葉に答えたのは葛城だった。そして、その言葉こそがオレに新たなインスピレーションを与えてくれたのだ。
「アフルならできるんじゃないのか? 野草! 今だけ生きてくれよ! そうしたら現実世界のアフルも復活できる。お前が死ななくても葛城達也を消すことができるかもしれないじゃないか!」
 アフルはタケシの記憶を蘇らせる能力があると言った。アフルの感応力はもしかしたら葛城を凌ぐかもしれない。野草の下位世界は野草の記憶と願望に依存してるんだ。記憶さえ消えてしまえば、現実世界への影響だって消えるはずなんだ。
「往生際の悪い男だな。そんなにシーラに会いてえのかよ」
 葛城達也に図星を突かれて、オレは硬直してしまった。
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蜘蛛の旋律・128
 虚無は既にアフルを塵に変え始めていた。だけどオレはアフルから目を逸らすように野草を振り返った。今まで、まるで夢の中にいるように虚ろだった野草の顔。だけど今、野草はしっかりと目を開けて、今まさに塵に変わろうとしているアフルを見つめていたのだ。
「野草、まだ間に合う! お前が一言生きるって言ってくれたらすべて元に戻せるんだ! アフルを救うことができるんだ!」
 オレ自身、自分の言葉を100パーセント信じることはできなかった。理屈では野草の下位世界が元に戻ればキャラクターも生き返ることは判ってる。だけど、目の前で見たシーラの死は、オレに1パーセントの不安を植え付けてしまっていた。
「葛城に惑わされるな! お前が死ななきゃならない理由なんか全然ないんだ!」
「4人」
「野草!」
 アフルの死を一部始終見守ったのだろう。野草はゆっくりと視線を移動させて、まっすぐにオレを見つめた。野草は必ず生きると言ってくれる。まるで祈るような気持ちでそう信じたオレに、少しの時間を置いて、野草は言ったのだ。
「……もう、遅いんだ。あたしは、あの小説を書き上げちゃったんだ」
 言葉の意味を掴み切れなかった。絶句したオレに野草は続けた。
「あたしは達也を作っちゃったんだ。……だから、達也を殺さなきゃいけない。達也と一緒に死なないといけないの」
 葛城達也が人を殺し続けることを言ってるのか? 野草が書いた小説の中で、葛城達也はこれからも更に多くの人間を殺すのか。
「そんな小説書き直せよ! お前が小説を書いてこいつを殺せばいいんだ! なにもお前まで一緒に死ぬことはねえだろ?」
「5人!」
 葛城の言葉に反射的に振り返ると、既に片桐の姿は影すらもなくて、虚無の同心円は半径2メートルのところまで迫ってきていた。
「ダメ、なんだ。……あたしが一度書いた小説は、ぜんぶ現実世界に残る。たとえ書き直してもパラレルワールドが増えるだけなんだ」
 野草の言葉は真実だった。シーラには、現実の記憶だけではなく、パラレルワールドの記憶も残っていたのだから。
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蜘蛛の旋律・127
 虚無は、野草を中心とした同心円を描くように、部屋の中に侵攻している。巫女と武士は一番野草から遠いところにいたんだ。2人とも、野草が生きる希望を持つことを願って、こんなに遠くまでやってきた。オレは実際のところかなりのショックを受けていたのだけど、この2人のために泣いてやる時間も、死を悼むだけの時間もなかった。
 虚無は部屋の隅から触手を伸ばして、壁伝いに広がってゆく。その両側にいるのはアフルとシーラ。葛城は見えない力で2人を壁に押し付け、身体の動きも声すらも奪っていた。
「野草! 今だけでもいい、頼むから生きるって言ってくれ! オレにはお前のその一言が必要なんだ!」
「薫、お前は俺だけがいればいいんだろ? お前の人生には巳神は必要ねえよな」
 シーラが、虚無に飲み込まれる ――
「野草、目を醒ませよ! お前が小説に書いたんじゃねえか! 葛城達也はぜったい人を愛したりなんかしない。こいつはただ自分が死にたいだけなんだ! お前は利用されてるんだ!」
 目の前で展開されている光景に、オレの目は釘付けになっていた。
 シーラの綺麗な顔は、今や恐怖一色に染められていた。虚無は資料棚を食いつくし、シーラの指先から肘に向かって、音もなく塵へと変えてゆく。肩へ、長い髪へ、そして、その綺麗な頬までも。
 声にならないシーラの叫び。震える唇はひとつの名前を形作る。やがてその唇さえも塵と化してゆく。オレに微笑んだ唇。オレに、キスした唇。
 オレは彼女の名前を呼ぶことができなかった。 ―― 死の直前、シーラが口にしたのは、タケシの名前だった。
 ……ああ、そうか。タケシは間に合わなかったんだ。シーラはたぶんずっと待っていた。タケシがシーラを救いに現われるその時を。
「3人」
 脱力して呆然としたままのオレを我に返したのは、人の嫌悪感を逐一刺激するような、葛城のその声だった。
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蜘蛛の旋律・126
 オレは、オレの身体がなぎ倒したテーブルを乗り越えて、再び野草の傍にしゃがみこんだ。このキャラクター達が虚無の彼方に消えても、野草さえ生きていればまたすぐに実体化することができる。残された僅かな時間にオレができるのは、野草を説得することだけだった。
「野草、頼む! 時間がないんだ! オレと一緒に生きるって言ってくれよ。これから先、お前の話を毎日聞く。一緒に本屋にも図書館にも行くし、お前が知らない現実も教えてやる。現実の人間には物語の人間とは違ったおもしろさもあるんだ、って。なあ、野草! お前と戦えるのはオレだけだろ? お前と同じくらい小説が好きで、毎日死ぬほど本を読んでて、お前の物語の世界がなくなることをこれだけ必死で食い止めようとしてるのは」
 野草はオレを嫌いだと言った。それは本当なのだと思う。だけど、だからこそ、野草を現実に引き止められるのはオレだけなんだ。おそらくオレは野草が初めて感情をあらわにした人間だったのだから。
 野草はゆっくりと首をもたげて、このとき初めてオレの顔を見た。笑った……ように見えたのはあるいは錯覚だったのか。
「あたしが、知らない現実……?」
 そのとき、背後にゾッとするような気配があった。
 我慢できずに振り返ると、虚無が教室の一部を浸食し始めているのが見えて、その壁の近くには武士と巫女が貼り付けられていたのだ。
 声を出すこともできず、顔を引きつらせたままの2人に虚無が迫る。目を離すことができなかった。最初に武士。そして、巫女 ――
 身体中が震えていた。音もなく崩れてゆく2人を、オレはただ見守ることしかできなかったのだ。
「まずは2人。薫、もうすぐ終わりだ」
「葛城! みんなを自由にしろ! 野草!」
 葛城はニヤニヤ笑いを顔に貼り付けたまま答えなかった。
 虚無は、次なるターゲット、シーラとアフルに向かって静かに侵攻していた。
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蜘蛛の旋律・125
「薫、こんな奴の言葉なんか真に受けるなよ。こいつは偽善者だ。お前と戦う資格もねえクズ男だぞ」
「本当にそうかどうか野草が自分で確かめればいいじゃないか。オレが偽善者なら勝負はお前の勝ちだ。確かめもしないで試合放棄するつもりか?」
「薫のことを本当に判ってやれるのは俺だけだ。俺は薫と一緒に死んでやることができるんだぜ。巳神信市、てめえは薫のために死ねるのかよ」
「オレは野草と一緒に生きることができるんだ。お前は死ぬことしかできないじゃないか。野草のために生きることもできねえで、何が判ってやれるだ。偽善者はいったいどっちだよ!」
 口げんかなら葛城達也にだって負けない自信はある。言葉に詰まった葛城達也は、いきなりオレたちに衝撃波を浴びせてきたんだ。その部屋にいたキャラクターは、全員オレと一緒に後方に吹き飛ばされた。オレの身体はテーブルさえなぎ倒して、資料がおさまった本棚に打ち付けられたのだ。
 一瞬、目から火花が散って、ちょっと高い位置から落ちるような感覚があった。痛みを振り払うように周囲を見ると、オレは棚の前に座り込んでいて、同じ棚の地上1メートルくらいのところに誰かの足が見えた。オレが最初に見た足はシーラのもので、シーラの身体は棚に打ち付けられたままの状態で貼り付いていたのだ。少し廊下寄りにタケシと巫女が貼り付いていて、ドアの位置にアフルが、ドアから少しずれた壁のところには、あの片桐信までもが貼り付けになっていたのである。
「きさま……葛城達也! てめえは仲間にまで……!」
 全員吊り下げられたまま声もなくもがいている。そうとう苦しいはずだ。早く解放してやらなければ。
「放っておけよ。どうせ全員すぐに死ぬんだ。虚無は隣の教室まで破壊したところだからな。もうじきここにもくるぜ」
「……なんだって!」
「時間切れのゲームオーバー。俺の勝ちだ」
 時間がない。このままでは奴の言う通り、野草を救うことはできないだろう。
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蜘蛛の旋律・124
 オレは、その小さな声を聞き逃すまいと、息さえ潜めて見守っていた。
「巳神君も、シーラも、達也も嫌い。……あたしの思った通りになる世界なんかいらない。許してくれなくてもいいよ。あたしが悪かったんだから。達也を作ったあたしが悪かったんだ……」
 そう言って野草が葛城を抱きしめるようにすると、葛城はちょっと驚いたように野草を覗き込んだ。
「薫……? お前は俺を愛してるんじゃないのか? 巳神よりも俺を選んで、一緒に死のうと言ったんじゃねえのか?」
「達也が好き。あたしには、達也だけいればいいよ。巳神君なんか嫌いだもん。世界で一番嫌いなんだから」
 自分の下位世界にいる野草は、普段とはぜんぜん違って支離滅裂だった。これはもしかしたら野草が自分の夢の中にいるからなのかもしれない。野草は今、事故で生死を彷徨いながら、夢を見ているんだ。
「嫌いでもいいよ野草。だけど、葛城と一緒に死ぬなんて言うな。オレはもっとお前と話したいことがたくさんあるし、読みたい小説も山ほどあるんだ。……なあ、野草。お前はオレにそっくりな片桐信を作って、オレと戦おうとしたんじゃないのか? 片桐が出てくる小説を書いて、片桐の個性とぶつかりあって、物語を作ることでオレと勝負したかったんだ。その勝負でオレに勝って、オレをねじ伏せて、自分を守って。……だけどさ、そんなことしなくたって、お前はいつでもオレと戦えるんだ。現実にオレは生きていて、お前が挑んできたらいつだって受けて立ってやる。どっちが勝つかなんかまだ判らないけど、それが判らないままでお前は死んでもいいのか? オレだったらぜったいごめんだ! 勝敗が判らないのに自分から勝負を投げ出すなんて、ぜったいしたくないぜ」
 本当に野草がオレと戦いたかったのか、確信はなかったのだけど、オレには野草が片桐を作った理由を他に思いつくことができなかったんだ。どこかぼんやりと儚い野草は、葛城達也の腕の中で少し身じろぎした。そして、ともすれば聞き逃してしまいそうな細い声で、そう言ったんだ。
「本当に……? 巳神君は、あたしと戦ってくれるの……?」
 野草からその言葉を引き出せたから、オレはこの葛城達也との戦いに勝機が見えた気がした。
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蜘蛛の旋律・123
「薫、聞きたくねえなら聞く必要はねえぞ。もうすぐお前は死ねる。煩わしい現実から逃げられるんだ」
 葛城達也が茶々を入れてきたけど、オレはかまわず話し続けた。
「現実世界はぜんぶ許してるんだ。野草の存在も、野草の小説も。どんなに風景を変えたって、どんなキャラクターを作ったって、上位世界はそのたびにお前の下位世界の影響を受け入れてきた。オレたち人間だってそうだ。お前が変えた風景を現実のものとして生活してきたんだ。これからお前の下位世界がどれだけ風景を変えても、オレたちはぜんぶ受け入れるだろう。なあ、野草、オレはお前の書く小説が本当に好きなんだ。風景なんかどんなに変わってもいい。キャラクターの分だけ日本の人口や会社が増えたってかまわねえよ。お前が死んで、お前の小説が読めなくなるくらいなら、世界が変わることくらいオレが許していくよ」
 このときオレは、自分が今まで思ってきたこと、今自分が思っていることを、嘘偽りなく正直に野草に話していた。オレは本当に野草の小説を好きだったし、小説家黒澤弥生の大ファンだったし、これから先野草の小説が読めなくなるよりは風景の変化を我慢した方がマシだと思った。野草は生きていればぜったいにすごい小説家になる。オレはたまたま野草の部活仲間だったけど、これから野草が書く小説を待っている読者は、未来にたくさんいるはずなんだ。
「誰かが何か言っても、オレが味方になる。今までオレはお前のこと知ろうともしなかったけど、だからオレのこと信じられないかもしれないけど、今はオレ、お前のことをもっと知りたいと思ってる。……オレと、本屋に行きたいと思ってくれたんだろ? これから先また何度だって行ける。まだお前の好きな作家が誰なのかも聞いてなかったよな。お前が好きだと思ってることも、嫌いだと思うこともぜんぶ、オレに教えてくれないか?」
 野草が身じろぎをして、口の中で呟くような小さな声で言った。もちろん部屋の中にいたすべての人間にその声は届いていた。シーラはオレを見て必死で首を振り、葛城は満足そうに野草を抱き寄せる。
「巳神君が嫌い」
 野草のその言葉が意外だとは、オレは思わなかった。
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蜘蛛の旋律・122
 野草が何を考えているのか、今のオレにはまったく判らなかった。野草は何も語ろうとはしない。だけど、世界の崩壊は既にすぐ傍まで迫っていたから、野草が語り始める時間を待つだけの余裕はオレたちにはなかった。
 野草の様子を注意深く観察しながら、オレは野草の背中に話し掛けた。
「なあ、野草。オレ、お前の短編が書き上がるたびに、真っ先に読んでお前と話したよな。最初に読んだのは確かトリスとかいうロボットの話だった。オレはあの時からずっとお前のファンを自認してるんだ。シーラの話を読んでからは、オレはお前の大ファンになった。シーラもタケシも、その他の登場人物もすごい臨場感で、どこかで生きてたとしてもぜんぜん違和感がなくて、むしろ本当に生きてなけりゃおかしいくらいに思ってた。あの時も伝えたよな。オレはほんとに物語の中に入り込んで、本気でタケシに嫉妬してたんだ。オレは今までもたくさんの小説を読んだけど、あの臨場感だけは、どんなプロの作家にもぜんぜん遜色ないと思ってたんだ」
 野草は葛城達也にしがみついたまま、まったく反応を見せない。葛城達也はぜったいに野草を眠らせないだろう確信があったから、オレは自分のその確信を信じて、野草に話し続けていた。
「オレは最初にこの小説の世界に迷い込んだ時は、お前のキャラが実体化するなんで嘘だと思った。だけど、黒澤に証明された時からは、そうあるのが当然なんだって、むしろそんな風に思えるんだ。お前の小説がこれだけ生き生きしてるのに、その世界がどこにも存在しないなんて嘘だ、って。人間の下位世界が現実世界に影響を与えているのはごく普通のことだろ? お前の小説の世界が現実に影響を与えたって、世界はすべてを受け入れて、お前がそれを悩んだり苦しんだりする必要はないんだ。
 お前のキャラクターもお前が描写した風景も、世界はすべて受け入れて許してる。そうあることを知らないのは人間だけだ。その世界の仕組みを、お前が自分で許していけばいいんじゃないのか? 野草、お前だけが特別なんじゃない。だけどお前は、世界をこれだけ変えることができるくらい、特別な小説を書くこともできるすごい人間でもあるんだ」
 野草はオレの言葉を聞いていた。その証拠に、葛城達也にしがみつく腕に徐々に力を入れていったのだ。
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蜘蛛の旋律・121
「薫!」
 そのシーラの声を皮切りに、今まで無言で成り行きを見ていた野草のキャラクター達が、次々に野草の名前を呼んだ。片桐信の声も聞こえる。オレは振り返ることはしないで、野草の様子をじっと見守っていた。
 野草はゆっくりと身体を起こして、顔を上げる。最初に目に入ったらしいシーラを見て、声を出さずに口の中だけでシーラの名前を呼ぶと、視線を移動させてオレの存在を確認した。野草はオレとは目を合わせず、周囲のキャラクターをひと通り見回す。そこまでの動作を見守ったあと、オレは野草に声をかけていた。
「野草」
 その声を聞いたとたん、野草は再び葛城達也の胸にしがみついたのだ。
「達也……!」
 野草は明らかに怯えていた。正直驚いた。今まで野草がオレに対して怯えるような仕草を見せたことはなかったから。
「ああ、傍にいる。俺はずっとお前の傍にいるぞ」
「怖いよ。眠りたい。達也、早くあたしを眠らせてよ」
 遮ったのはシーラだった。
「待って、薫! 巳神がきてるんだよ。巳神が薫と話したいって、わざわざ来てくれたんだ。話を聞いてよ。このまま死ぬなんて言わないでよ!」
 野草は少しだけしがみつく腕の力を緩めたように見えたけど、顔を上げることはしなかった。
「野草、オレはお前の話を聞きに来たんだ。……話してくれないか? お前が思ってること、ぜんぶ」
「そんな奴に話すことはねえぞ。お前の気持ちを判るのは俺だけだ。俺が傍にいる。現実のことなんか忘れちまえ」
「巳神と話して薫! 巳神は薫のことを判ってくれるよ。巳神は、薫のことを本気で助けたいと思ってるんだ」
 野草はその誰の声にも反応しないように、ただ、葛城達也にしがみついているだけだった。
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蜘蛛の旋律・120
 たぶん葛城達也はオレの心を読んでいて、オレが持っている自信の根拠も、オレがなにを狙っているのかも、すべて読み取っていたことだろう。覗き込むようにオレを見つめ、微笑さえ浮かべた葛城は、綺麗なのだけどすごく無気味に思えた。オレには時間がない。虚無は既に校舎近くまで迫っているのだろう。もう窓の外を見て確かめている余裕はなかったけれど、それほど遠くない未来にこの校舎ごと塵と化してしまうことは間違いないのだ。
 早く野草を目覚めさせなければならない。見えない虚無に急かされていたのだけど、オレはできるだけ落ち着くように自分に言い聞かせて、最大の敵、葛城達也に対峙した。
「薫はお前を選ばねえよ。お前の言葉なんか聞かねえさ、偽善者巳神信市の言葉なんかな。……薫には俺しかいねえ。薫を本当に理解できるのはこの俺だけなんだよ」
「本気でそう信じてるならオレと戦えるはずだ。葛城、あんたは不安なんだ。もしかしたら野草がオレを選ぶかもしれないから、不安で、野草を目覚めさせることができないんだ。お前は野草に見捨てられるのが怖いんだ。野草が、下位世界のお前よりも現実世界のオレを選ぶのが」
 葛城はオレから目をそらして、低く笑った。感覚にチクチク触るような笑い声。まるで、人が一番不快に思う音の波長をあらかじめ知っていて、それに合わせて声を出しているようだ。恐怖はないけど嫌悪があった。
「クックックッ……。巳神信市、お前は何にも判ってねえな。薫は端から現実に期待なんかしてねえんだよ。薫が書く小説は薫にすべてを与えてくれた。理想の友達も、理想の恋人も、理想の父親もな。薫はこの世界だけで満足してたんだ。現実になんか何の興味もなかったのさ」
「それは違うぞ葛城! 野草はオレたちに小説を読ませてくれたじゃないか。野草は小説を通じて、現実世界と関わろうとしてたんだ!」
「そいつはまた、笑っちまう勘違いだな。……ま、いいさ。そこまで馬鹿をさらしたご褒美に、薫と話をさせてやるよ」
 葛城がそう口にして数秒後。
 野草は、目を覚ました。
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蜘蛛の旋律・119
 オレたちの行動に、葛城達也は低い笑いで答えていた。
「俺は薫を殺してえんだよ。薫が死ねば、薫は俺のものだ。俺は神を手に入れることができるんだ」
 葛城達也は、死ぬことのない化け物だった。自分が死ぬことができないから、人の命を簡単に奪うこともできる。葛城達也は死に魅力を感じている。もしかしたらこいつは野草を殺すことで自分が死にたいのかもしれない。
 そうだ。野草のキャラクターの中には、葛城達也がいたんだ。自分の死にあこがれ、他人を殺しつづける冷血漢が。
 そして、この男こそが、野草が最も愛したキャラクターだったんだ。
「野草を眠らせておいて手に入れるも何もないだろ! お前も野草のキャラクターなら、オレと戦えよ。オレとお前のどっちを野草が選ぶのか、正々堂々証明してみろよ」
 オレは、焦ってはいたのだけれど、なぜか葛城達也を恐れてはいなかった。この男はオレを殺せる。指の1本も動かさず、眉の1つも動かさずに、ほんの少し能力を発揮するだけでいとも簡単にオレの心臓を止めることだってできるんだ。
 だけどオレは、この男に恐怖を感じることはなかったんだ。たぶんさっき巫女が言っていたことがあてはまるのだろう。恐怖の感情は、理解できないものに対して生まれるのだということ。
 オレは、葛城達也を理解していたんだ。野草の小説にたびたび登場して、物語をかき回してゆく脇役。主人公達は葛城達也をあらゆる角度から分析して、物語の中でオレに教えてくれた。その異常さも、生い立ちも、何を考え何を楽しんでいたのかも。オレは小説を読むことで、葛城達也を理解していたのだ。
 野草の詳細な設定と描写が、今オレを助けている。葛城達也がオレを殺さないと判る。奴は奴の人生をおもしろがらせてくれる人間は殺さないんだ。奴の退屈を紛らわすことができるオレを、葛城達也は殺すことができない筈だ。
「薫がお前を選ぶとでもいうのかよ」
「選ぶかもしれないだろ。そんな可能性を残したまま野草が死んでも、お前は神を手に入れたことにはならねえよ」
 他人に負けることが嫌いな葛城達也ならぜったいに乗ってくる。オレにはその確信があった。
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蜘蛛の旋律・118
 野草は葛城達也の腕の中にいて、胸に顔を埋め、表情は見えなかった。制服を着たままの野草を葛城達也が抱きしめている。姿は既に27歳まで成長していて、あの時アフルに追いかけられていた子供の面影は微塵もない。
 片桐は廊下側の壁際に立っていた。オレが振り返ってももうオレを見ようとはせずに、視線は葛城達也に抱きしめられた野草の上に固定されていた。
 オレは野草に近づいていった。ゆかに膝をつけて、野草に触れようと手を伸ばす。その手は見えない何かに弾かれていた。
「挨拶くらいしたらどうだ。ノックもしねえでいきなり入ってきてオレの女に触るんじゃねえよ」
 葛城達也はそう言って、オレにゾッとするような笑みを向けた。……誰をも惹きつける美貌の、絶大な力を持った超能力者。野草のキャラクターの中でこの男に敵う人間はいないだろう。もちろんオレだって敵わない。もしもこいつがオレを殺そうとしたなら、あっという間に殺されてしまうことだろう。
「野草、聞こえてるか? 巳神信市だ。お前と同じ文芸部の」
 野草に反応はなかった。ここに来さえすれば野草と話すことが出来ると思ってたオレは、思惑が外れて焦りが出始めていた。
「無駄だ。薫はもう何も見たくねえんだ。俺と一緒に死ぬことだけ考えてるのさ。もう少しで薫は死ねるんだ。判ったらさっさと出て行けよ」
「野草と話をさせてくれ。オレは野草を救いたい。あんただって、野草が生きてる方がいいんじゃないのか?」
 そのとき、ジリジリしながらオレたちを見守っていただろうシーラが、野草に駆け寄ってきていきなり身体をゆすり始めたのだ。
「薫! お願い起きてよ! 巳神がきてるんだよ。巳神が、薫と話したいって言ってるんだよ!」
 野草は一瞬ピクリと動いたように見えた。だけど、その瞬間、葛城達也の見えない手が、シーラをテーブルに跳ね飛ばしたのだ。
「シーラ!」
 テーブルの足に背中を打ち付けたシーラは、それでも心配ないという風にオレに手を上げて見せた。オレは再び野草を振り返る。野草はシーラの乱暴な扱いにも目覚めた様子はなかった。
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蜘蛛の旋律・117
 人間は単純じゃない。野草の心の中にも様々な感情があって、戦いを繰り返している。ここにいるキャラクター達は、すべて野草の心の象徴なんだ。オレを憎悪する片桐信も、オレに恋するシーラも。世界を死にいざなう葛城達也も、最後まで小説を書き続けようとする黒澤弥生も。
 ここにいるキャラクター達が生きようとしているのだから、野草の中にその気持ちがないはずがない。野草の中では死にたい気持ちと生きたい気持ちが戦ってるはずなんだ。
「片桐、頼む。道をあけてくれないか?」
 片桐の表情には、今は憎しみよりも諦めの方が色濃く浮かび上がっていた。
「お前のような偽善者は二度と薫に近づかせたくない」
 偽善者、か。そう見られても仕方がないんだろうな。オレは今日まで野草と本気で関わろうなんて思ってなかったんだ。
「それでも、あけてくれ。頼む」
 片桐はもう言葉を返しては来なかった。
 すべてを諦めたように目を伏せて、片桐は背後のドアを自分で開け、中に消えていった。ドアは再び閉ざされてしまったけど、オレがこのドアを開けるための障害は、もうないんだ。オレは後ろを振り返った。アフル、武士、シーラ、巫女。全員の目が言っていた。このドアをあけるのはオレ自身なのだと。
 中には片桐と葛城達也、そして野草がいる。オレは覚悟を決めてそのドアを開けた。
  ―― 地理準備室は、けっして広くはなかった。
 正面には校庭を見下ろすことができる窓。右の壁には棚があって、たくさんの資料が置いてある。真ん中にテーブルといくつかの椅子。今はそこには誰もいなくて、左の、地理室に続くドアの方に視線を移動させる。
 そのドアの前、柱を背にしてゆかに座る葛城達也に守られるように、野草はうずくまっていたのだ。
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蜘蛛の旋律・116
 アフルはオレを悪くないと言い、片桐はオレが悪いのだと言う。どちらの言葉も正しかったんだ。オレは、野草の前に姿を現わしたことで、野草を傷つけてしまったんだ。
 今ならもっと野草を理解できる気がする。野草は普通の高校生の女の子で、小説を書く天才だ。詳細な設定によって世界を変えることもできるし、内気で人との会話に躊躇することもある。オレが壊してしまった野草の「特別」を作り直すことができそうな気がする。野草はぜんぜん「特別」でもないし、他の誰とも違う「特別」な人間でもあるのだ。
 キャラクターとしての片桐信は、オレへの挑戦だったんだ。野草はオレをねじ伏せて自分を守りたかった。その反面、オレにねじ伏せられたくもあったのかもしれない。
 誰でも自分と戦ってる。野草の戦いは、自分の存在価値との戦いだ。オレは野草の価値を唯一認めなかった人間だった。そして、野草の価値を唯一認めた人間でもあるんだ。
「もしも薫の下位世界が現実世界に影響を与えなければ、巳神のことは薫の人生の小さな分岐点として吸収されてしまったと思う。だけど薫の小説は現実を変えてしまった。ショックを受けて呼びつづけた葛城達也という名前の人間は実在していて、薫の前に現われ、望み通りに殺してくれると言った。それから1ヶ月、薫が現実に残していた未練があなたのことだよ、巳神。……薫はね、あなたと歩きたいと思ったんだ。あなたと本屋に行きたい、ってね」
 ……そうか、それで判ったよ。野草が1ヶ月も死ぬ時を待っていた理由が。
「野草がオレと本屋に行くために、葛城達也が根回ししたんだな。雑誌の投稿欄にオレが興味を惹かれそうな本の情報を載せて」
 それで野草は満足しようとしたんだ。野草には時間がなかったから、せめてオレを野草の最期に立ち会った人間にすることで、オレの特別になろうとしたんだ。
「そう。そして、その状況を黒澤弥生が利用したんだ。自分が最後の小説を書くために。できることなら、薫に再び生きる希望を持たせるために」
 散りばめられていた様々なピース。その多くが、巫女の言葉によってあるべき位置に填まろうとしていた。
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蜘蛛の旋律・115
「誰も薫を理解できない。理解できないから恐怖する。人間の恐怖という感情は、理解できないものに対して生まれるものだからだ。理解してしまえばそんな恐怖はなくなるのだけど、薫を理解して恐怖を克服しようと思う人間は、薫の周りにはいなかったんだ。……でもね、薫の視点から見れば、それは普通のことだったんだ。薫は理解されないのが普通で、人に怖がられるのが普通で、話し掛けてもらえないのが普通だった。ほかの人間たちが互いにコミュニケーションを取っているのは知ってるから、自分は特別なのだと思っていた。特別なのが自分で、人に特別視されることが、薫の唯一の自己主張でもあったんだ」
 巫女の話を、オレは黙って聞いていることしかできなかった。……オレ以外の人間であれば、巫女の話を理解できたのかもしれない。野草に対する恐怖の感情を持っていた誰かであったなら。
「中にはおせっかいな人間もいて、友達のいない薫に近づいて「付き合ってあげる」気分に浸っていた人間もいたけどね。そういう人はぜったいに薫を理解できないから、すぐに離れていった。
 そんな時、薫はあなたに会ったんだ。薫をまったく恐れず、対等な立場で薫を評価して、薫を「普通の人間」として扱ったあなたにね」
 巫女は、静かな口調で話していたのだけれど、この時まっすぐにオレを見た。
 オレはゾッとした。巫女の目には、明らかに片桐信と同じ憎悪が混じっていたのだから。
 確かにオレは野草を特別とは思わなかった。だけど、それがなぜ憎悪になるんだ? オレはいったい何が悪かったんだ?
「巳神には判らないね。薫があなたの存在でどれだけ戸惑って、世界を崩されて、自分を見失ったのか。嬉しい、って気持ちはあったんだ。だけど、自分を特別視しない人間は、それまで薫の唯一の自己主張だった「特別」という価値観を、根底から崩してしまったんだ。……もしもね、巳神が薫だけに対等だったのなら、薫の「特別」は守られていたと思う。でも、巳神は薫だけに対等だったんじゃなかった。誰にでも対等で、薫は巳神の中にある人間関係のひとつにしか過ぎなかった。……苦しかったんだ。薫にとっては、既に巳神は特別になってしまっていたから」
 ……なぜ、オレが彼らに憎悪を向けられるのか。なぜ、黒澤弥生がオレを召喚したのか。
 彼らにとって、オレは野草の世界を壊している張本人だったのだ。
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蜘蛛の旋律・114
 アフルは目を見開いたまま成り行きを見守っている。このアフルが、オレには一番理解できない。表立って邪魔をすることはなかったけれど、野草を救いたいと口にし、その通り行動してもいたのに、アフルの反応は言葉や行動とは微妙にずれていたのだ。だけどオレにはアフルを問い詰めるだけの時間も心の余裕もなかった。すぐに巫女がオレに話し始めたから。
「巳神、あなたは薫が変わった女の子だと思う?」
 いきなりそう訊ねられて、オレは戸惑ってもいたのだけれど、この期に及んで何を隠すこともないだろうと開き直った。確かに野草は少し変わってると思う。内気なのは間違いないけれど、それだけじゃなくて、小説の中でのものの考え方とかも。
「んまあ、一般的な高校生の女の子とはちょっと違うとは思うけど」
「巳神はせいぜいその程度なんだよね。普通の女の子とはちょっと違うけど、自分の方から付き合い方を変えなければならないほどじゃない。……だけどさ、巳神以外の人間が見ると、薫はかなり異色で、近寄りがたい人間に見えるんだ」
 そうか? 確かに少し変わってはいるけど、近寄りがたいとか異色とか、そんな風にはオレには思えなかったけど。
 ……ああ、だけど、オレは文芸部のメンバーに言われたことがあるんだ。「よく野草と普通に話せるな」って。そいつが野草を怖がってるようにも見えて、オレは不思議だった。そいつにそう言われたからって、オレの野草を見る目が変わることはなかったけど。
「薫は子供の頃からすごく異色で、怖がられてて、誰も薫と友達になろうとはしなかったんだ。薫に声をかけることもしなかった。大人も子供も、母親ですら、薫を恐れていたんだ。薫も周りのそんな空気を敏感に感じててね。もともと内気で敏感な子供だったから、薫の方から積極的に声をかけることもなかった。そんな薫が空想にはまっていったのは判るよね。空想の友達を持って、空想の日常と空想の人間関係を築いていって、やがて小説を書くようになったのは」
 巫女の言うことは、なんとなく判るような気はした。日常で他人と関われなければ、満たされない人間関係を自分の中に求めるしかないだろう。空想の友達を作るだろうことは判る。やがてその空想が小説を書くという行為に発展していったのだろうということも。
「薫は自分の空想の友達をより現実に近づけるために、周りの人間たちを観察し始めた。その観察という視点が、より周囲の人間の恐怖を増長させていったんだ。あなたに会うまで、薫の周りには、薫を恐れる人間しかいなかったんだよ」
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蜘蛛の旋律・113
 巫女に視線を移したとき、隣に立っていたシーラをも目にすることになった。シーラはしっかりと唇を結んで、自分と戦っているような表情でじっと耐えていた。シーラはおそらく一瞬でも早く野草に会うことを望んでいる。崩壊していく世界から野草を救いたくて、野草を救うことで世界を取り戻したくて。
 ドアの前に立ちはだかる片桐信が、オレたちの最後の関門だった。
「こいつが薫の気持ちを判るはずがない」
 片桐の言葉に反論したいことは多かったのだけど、オレは何も言わずに成り行きを見守った。片桐の中では、オレが知らずに野草を傷つけてきたのは事実なのだ。今、オレが野草を救いたいと思っていることをどれだけ語ったところで、この男は信じないだろう。
「少なくとも巳神は判ろうとしてるよ。そのくらいは信じてもいいんじゃないのか?」
「オレには薫でないものを信じることなんかできねえよ」
「私はすべてを信じろなんて言わない。ただ、巳神の可能性を信じて欲しいんだ。巳神は薫じゃない。だから、薫である私たちにはできないことが、巳神にはできるかもしれないんだ。
 葛城達也があなたに何を言ったのか、私は知ってる。だけど、その言葉にあなたが納得しているとは、私には思えないんだ。……巳神が持ってる可能性に賭けてみることはできないか?」
 オレには、巫女が言う葛城達也の言葉などもちろん判らなかったけれど、巫女の言葉が少しずつ片桐の心を溶かしていったことだけは、手に取るように判った。片桐の心の動きがオレには判る。片桐は外見だけではなくて、思考パターンもオレによく似ていたんだ。
 片桐はこの時初めて、自分の死を認めたのだと思う。野草を道連れにする死ではなくて、自分だけの死というものを。
「……巫女、あんたの話の方がオレより通じそうだ」
 片桐の言葉はまわりくどくはあったのだけど、巫女の意見を了承していた。
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蜘蛛の旋律・112
 オレは野草のことを何も知らない。1年半、同じ部活でやってきて、すごく上手な小説を書くことだけしか知らない。野草が書いた小説のキャラクターの方がよく知っているくらいなんだ。シーラが今までどんな想いで生きてきたのかを知っているのに、野草がどんな想いでいたのか、オレは何ひとつ語ることができない。
 オレは今まで野草とどんな話をしただろう。毎月の短編小説を読んだあと野草に感想を伝えて、長編小説読破のあとは登場人物や背景について思ったことを語り、質問を浴びせた。野草は言葉が少なくて、答えを言いよどむことも多かったし、明確な答えを得ることもあまりなかった。だから言葉のキャッチボールにはならなくて、会話が弾むということもなかった。
 野草の中にあるたくさんの言葉は、すべて小説を書くことだけに注がれていたような気がする。ワープロの中でならあんなに饒舌で魅力的な野草は、現実では人と会話することさえ厭うていたのだ。オレは、野草の心は現実にはないような気がしていた。野草の心は小説の中にだけ存在する。オレはそんな風に思っていたのかもしれない。
「野草は、現実の中では、どんなことを思っていたんだ?」
 ここにいるキャラクター達は、野草の下位世界が現実と分離した瞬間、野草のことをすべて知ることができた。オレには判らない野草の現実を語ることができるのは、下位世界に存在する彼らなのだ。
 アフルと片桐は何も言わなかった。少しの沈黙のあと、アフルが突然驚愕の表情で巫女を見たのだ。
「私が話そうか」
 巫女の言葉はアフルの表情が変わった一瞬あとだった。……超能力者の反応というのは、常人のオレたちには少し不気味に思えるときがある。
「この男に話せば薫は救われるのか?」
「今は薫のことよりあなたのことだよ、信。……どうするんだ? ここまで来て、あなたはまだ薫の死を守りたいと思うのか?」
 巫女は人の運命を司るもの。彼女が見ている未来には、オレたちはいったいどう映っているのだろうか。
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蜘蛛の旋律・111
「信、その言い方では巳神君には判らないよ」
 アフルが口をはさんだから、オレと片桐の間の緊張状態は少しだけ緩和されていた。
「僕達の常識は巳神君には通じないんだ。言いたいことがあるなら、ぜんぶ順を追って話してあげないと」
 まるでオレに常識がないような言い方だった。たぶん以前オレに説明を求められた時の煩わしかった記憶を覚えているんだろう。オレに言わせれば、アフルやシーラの方がよほど非常識だったのだけど。
 片桐はむちゃくちゃ面倒な出来事に出会った時のようなため息をついた。
「アフル、こいつは自分がどれだけ残酷なことをしたのか、それも判ってないっていうのか?」
「まったく判ってないね。たぶん、説明してもぜったい判らないと思う」
「……だったら話しても意味はないな」
 残酷、って……。オレはいったい野草に何をしたんだ? オレが野草に声をかけて、何か残酷なことを言ったのなら、オレがそれを知らないままでいられる訳ないじゃないか! もしもそれが野草の自殺願望の一端を担ったのなら、オレが心から謝らなければ野草を救うことなんかできないじゃないか!
「ちょっと待てよ! ちゃんとオレに話してくれ! オレは何をしたんだ? いつ、オレは野草が傷つくようなことを言ったんだ?」
 オレの言葉に振り返ったアフルは、諦めたような、少し悲しそうな表情をしていた。
「別に傷つくようなことも言ってないし、巳神君は悪くないよ。ぜんぶ薫の心の問題なんだ」
「違うな。お前が薫を傷つけた。悪いのはお前だ。薫は悪くない」
 アフルと片桐の言葉は真っ向から反発していて、オレにはどちらが正しいのか判らなくなってしまっていた。
「……頼む、教えてくれ。誰が悪いんでもいい。そのときに野草に何が起こったのか、それを教えてくれないか」
 2人の意見は反発していたけれど、オレに事実を語ることをためらう気持ちだけは違わないようだった。
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