2000年07月の記事


記憶�U・41
「昨日はすまなかったね。話の途中だったのに」
 オレは自分ではそう無愛想な表情をしているつもりはなかったけれど、人の感情に敏感なアフルには、オレが昨日のやりとりを思い出して少し緊張したことが伝わったのだろう。アフルが今でもオレを親友と呼ぶならば、オレはアフルを無条件で信じるだろう。だけど、オレの目を見てそう言えないほどにアフルが変わってしまったのならば、オレ自身、アフルにすべてを委ねてしまうことはできないだろう。
 アフルは、オレの心を読んでいる。1度だけ目を伏せるようにしたあと、今度はしっかりとオレの目を見て、アフルは言った。
「オレは今でも伊佐巳の親友として恥ずべきことは何ひとつしていないつもりだ。オレは葛城達也という人間の命令を受けて行動してる。だけど、その命令は今の伊佐巳を窮地に陥れるようなものじゃない。葛城達也の命令と、オレの伊佐巳に対する友情とは、今のところ矛盾していないよ」
「信じていいんだな」
「オレを信じて欲しい」
「……判った」
 オレの記憶が戻るのならば、アフルにすべてを委ねようと思った。記憶さえ戻ればオレは本当のオレになれる。昨日アフルが語った現在の状況も理解できる。オレが今どういう立場にいて、これから何をするべきかも。
 昨日と同じように、アフルはオレをベッドに座らせた。ミオはテーブルの方に腰掛けて成り行きを見守っている。アフルは両手を差し出して、オレの目の前でいったん止めた。オレが頷くと頭部を包み込むように触れてきた。
「少し脳の内部を探るから、楽にしていて。眠ってしまってもかまわないよ」
 オレは目を閉じてアフルに触れられるに任せていた。以前はアフルに触れられると多少気が散るような、落ち着かないような感じがあったけれど、今回はそういう変化はまったくなくて、アフルがオレの中にいるのだということすら感じなかった。この17年でアフルの感応力は上がっているのだろう。やがてアフルはオレの頭を抱きかかえるような格好になって、オレもアフルの胸に頭の重さを委ねていた。
「……最新のCPUで動く17年前のOSか。記憶の物干し竿の構造。……面白いね。伊佐巳の中に具象化されたイメージがある。……だいたい、見えたよ。これから伊佐巳にも見せる。用意はいい?」
 声を出さずに頭の中だけで、オレは答えていた。
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記憶�U・40
 いつもの起床時刻より早く、オレは目覚めていた。身支度をして、朝の体操をして、ミオを待つ。だけどミオは現われなかった。少し気にはなったけれど、おそらく朝食の時刻までには現われるだろうから、オレは気持ちを切り替えてパソコンのスイッチを入れた。
 そういえば、昨日アフルに会った時、このパソコンについては何も訊くことができなかった。だけど、3年前に地球が壊れてしまったということは、それまで発達してきたパソコンのネットワークというものは既に存在しないのだろう。オレが知らない17年間のうちに、そのネットワークはどれだけ発達していったのか。おそらくオレの想像が及ばないほどの進化を果たしたのだろう。
 昨日できなかった階層の探索をオレは始めた。すると、そこでいくつかの気になるファイルを見つけたのだ。今のオレがファイルをいじることは危険なので、中を確認することはせず、場所だけ覚えて次を探索した。そうしていくつかのファイルをピックアップして、食事の時間が近づいてきた頃、やっとミオが現われていた。
「ごめんなさい、伊佐巳。あたし、寝坊しちゃって」
 ミオはおそらく、昨日まではゆっくり眠ることもできなかったのだろう。
「そんなことだろうと思ってた。おはよう、ミオ」
「おはよう、伊佐巳。とりあえず食事にしましょう」
 ミオがトレイを運んできて、朝食が始まった。食べながら、ミオは少し心配そうな表情で言った。
「朝食が終わったら、あたしがアフルを呼びに行くことになってるの。……それでいい?」
 ミオは何を心配しているのだろう。オレがミオを忘れるかもしれないと? 記憶を思い出したら、オレはミオを好きな気持ちさえ、忘れてしまうのだろうか。
「オレが信じられない?」
 オレが言うと、ミオは笑顔で首を振った。信じていて欲しいと思う。確かにオレは年下だし、頼りないかもしれないし、ミオが信頼するパパとは似ても似つかないかもしれないけど、ミオを好きな気持ちはきっと、誰にも負けないはずだから。
「アフルを呼んでくるわ」
 そうして、トレイを持って部屋を出て行ったミオが再び戻ってきたとき、ミオのうしろには、昨日よりも少し疲れたように見える、アフルの姿があった。
 アフルはオレを見上げ、オレが知る優しそうな笑顔で微笑んだ。
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お詫びです
今日、3週間ぶりに車に乗ったら、ドアミラーの中に蜂さんが巣を作っていました。
そんな精神的ショックのために、今日は小説を書くことができませんでした。
本当にごめんなさい。
明日には立ち直って連載を続けますので、よろしくお願いします。

思えば今年は春から昆虫にたたられています。
毎朝、お風呂で蟻さんとバトルするところから始まり、トイレの天井から這い出てくるシロアリさんたちを退治し、食事中の巨大ゴキブリとの格闘。
それらがやっと落ち着いたと思ったら、ドアミラーの蜂さんたち。
私は前世で何か悪いことでもしたのでしょうか。

そういえば去年はゴキブリさんが大量発生してくださいました。
ゴキブリホイホイを設置して24時間で、1個50匹、4個で200匹もかかりました。
おととしはハエさんでした。
30分で17匹も殺したのは初めてです。

……やはり、私のうちはちょっと異常です。
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記憶�U・39
 オレの無意識は、この男の存在を認めている。その理由はオレには判らなかったけれど、おそらく記憶を消される前のオレには判っていたのだろう。判っていて、それが必要であるという理由で、男にオレの記憶を見張らせている。記憶を失う以前のオレは、記憶が取り戻されることを恐れている。
 本当にオレが戦うべき相手は、32歳のオレ自身だ。だけど、記憶を取り戻せないオレが、32歳のオレ自身と戦うすべなどあるはずがない。糸口が見出せない袋小路にいるのだ。いったいどうすれば、オレはオレ自身を取り戻すことができるだろう。
 1つだけ、理解していた。この男が葛城達也の姿を取るのは、オレが葛城達也に勝てないからだ。オレは今まで1度も葛城達也に勝てたことがなかった。32歳のオレが監視者として葛城達也を選んだのは、オレが奴を看破できないことを知っていたからなのだ。
 あるいはオレは、記憶を取り戻すべきではないのかもしれない。15歳のオレは、32歳のオレに従うべきなのか。
 17年間のオレの記憶は、オレを不幸にするだけなのかもしれない。
「相変わらず情けねえ男だな、黒澤伊佐巳」
 吐き捨てるように葛城達也は言った。その不気味な声がオレを苛立たせる。確かにオレはこいつに勝てないかもしれない。だが、記憶を取り戻さない限り、オレは毎晩こいつの薄笑いに悩まされつづけることになるだろう。
 たとえ32歳のオレがどれだけ熱望しようとも、オレは無意識の中で葛城達也と共存することだけはできないだろう。32歳のオレが、監視者として葛城達也を選んだのだとしても、その判断は間違っていた。オレはいつでも真実の探求だけはやめないだろうから。たとえ勝てないと判っていたとしても、記憶を失ったまま平然と生きていくことなど、オレにはできないのだ。
「葛城達也、オレはお前だけは許さない。17年前にミオを殺したお前だけは」
「殺した? あいつは勝手に死んだんだろ」
「3年前、東京の人たちを殺した。オレはお前の存在だけは絶対に許さねえ。……必ず消してみせる。たとえ、本物の葛城達也の手を借りたとしても」
 このときオレは決心していた。状況のすべてをアフルに委ねようと。アフルが葛城達也の手先だということは判っている。だけど、今のオレにとって、17年間の記憶以上に大切なものなどないのだ。
 ミオという1人の少女。記憶を取り戻すことで彼女の存在の意味がオレの中で変化したとしても、オレはオレ自身の記憶の方を選んでしまっていたのだ。
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記憶�U・38
 その暗闇はいつも、耳がつんと詰まるような沈黙の世界だ。気がつくといつもオレは漂っている。変化がない間は時間も存在しない。そして、変化と時間を運んでくるのは、いつもその男だった。
 煙のようなもやの中から姿をあらわす。嘲笑のような笑みを浮かべながらしだいにはっきりとしてくる輪郭は、今日はいつもと違って顔だけの化け物ではなかった。オレはこの男を鮮明に思い出した。その、やや長めの不揃いな髪も、沼の底のようににごった色の瞳も。なぜ、オレはこの男が自分にそっくりだなどと思ったのだろう。確かに顔のつくりはよく似ていた。だけど、オレはこんなに不気味な、人の嫌悪感を逐一刺激するような表情はしないはずだ。
 姿を現わした葛城達也は、低く笑いつづけ、静寂を吸収した。
「クックックッ……もったいねえ事をするじゃねえ。ミオを抱かなかったのか? いい味だってのによ。……それとも抱けねえ理由でもあるか」
 勝手に笑っていればいい。オレはもうこいつに惑わされたりはしない。オレがミオの正体を知らないからどうだというのか。こいつだってミオの正体など本当に知りはしないのだ。
「なんだってオレが何も知らねえなんて思えるのかね。オレはずっと知ってるさ。あの女の正体も、てめえがどれだけあくどい事を重ねて生きてきたのかも。……てめえは知りたくねえだけさ。あの女が、絶対にお前を好きになるはずなんかねえってことを」
「黙れ! きさまにミオのことをとやかく言う資格なんかねえ! 2度とミオのことを口にするな!」
 この男がミオのことを口にするたび、オレの身体に悪寒が走った。ミオを「あの女」と言うたびにミオが穢されている気がした。どうすればこいつを消すことができる? こいつはいつもオレを惑わして、本当の記憶からオレを遠ざけている。
「何を思ってんのかねえ。伊佐巳、お前がオレを殺せるわけがねえだろ。オレが人間なら、てめえはただの虫ケラじゃねえかよ。虫ケラが人間にかなう訳がねえじゃんか。……クックックッ、オレは絶対にお前に記憶を渡さねえよ。なんたって、てめえの記憶を消したオレだからなあ」
 こいつはオレが作り出した人格だ。オレの記憶を阻む存在として、オレ自身が生み出した。オレの無意識に存在しているのがその証拠だ。だから、絶対に消す方法はあるはずなんだ。
 オレの記憶を阻む者。そういう存在をオレ自身が認めているから、こいつは存在している。確かにこいつが言う通り、オレは記憶を取り戻すのを恐れているのかもしれない。なぜ、それを恐れるのか。オレに恐れる理由などあるのか。
 オレの心を読んでいるのだろう。ニヤニヤ笑いながら、葛城達也は言った。
「判らねえなら教えてやるさ。てめえはあの女のことを思い出すのが怖いのさ。あの女が、お前を好きになるはずがねえってことをな。……あの女は、お前が愛しちゃいけねえ女なんだよ。他の誰でもねえ。あの女だけが、お前には許されねえ女なのさ」
 どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。
 おそらく、オレが恐れているのがミオに関してなのだという、それだけは真実のような気がした。
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記憶�U・37
 ベッドに両手をついて、オレはミオを見下ろしていた。オレの腕の長さと同じだけの距離にミオの顔があって、オレを見上げたまま表情を硬くしている。押し倒した目的を忘れそうになった。オレは自分で思っているよりもずっと、感情で行動する人間だ。
「あの……な、ミオ。オレは今、ものすごく危険な状態だって自覚がある」
 ミオは目を細めた。その瞳の奥でどんな感情が動いたのか、オレには理解できない。
「このままミオと同じベッドに寝たりしたら、たぶんそういうことになると思う。オレはいつでもミオとそうなりたいと思ってるし、だから、途中でやめることはできないと思う。……もし、ミオがそれを望んでないとしたら、今夜は別の部屋で眠ってくれないかな。……もちろんオレが別の場所で寝てもいいんだけど、それも無理だろうと思うし」
 瞬きをしていないことに気付いたのかもしれない。ミオは目を閉じで、ゆっくりと目を開けた。そんな仕草でさえも誘われているように感じる。何でもいい。どんな結論でもいいから、早く出してくれ。
「……ごめんなさい。あたし、あまりに急だから、何も考えてなかった」
 そう……だろうな。昨日告白して、今日初めてキスをして、そんなに急にいろいろ考えてる訳ない。
「そういうこと、嫌だとか、そういうのではないの。……ただ、心の準備だけ、少し時間をもらえるかな」
 正直言って、オレはほっとしていた。
 ミオの反応は、普通の女の子の普通の反応だと思うから。悪夢の中の葛城達也の言葉なんか信じてない。だけど、もしも今、ミオが許してくれてたとしたら、オレの中で何かが揺らいでしまったかもしれない。
「あたしはここにくる前は親友と同じ部屋で過ごしていたの。彼女のところに泊めてもらうわ。……明日の朝、またくる」
「うん、判った」
 オレは身体を起こして、ミオが起きる動作を助けた。そうして立ち上がると、ミオはやっと笑顔を見せた。
「ありがとう、伊佐巳。……大好きよ」
 ミオの、後姿を見送った。

 今夜はそうすんなりとは眠れそうになかった。
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記憶�U・36
「アフルは帰ったのね。……伊佐巳、何かあったの?」
 あたたまったミオの頬は上気していて、濡れた髪とうなじになぜか艶かしさを感じてしまう。それは昨日までは感じていなかったことで、だから新鮮な驚きだった。呆然と見惚れていた。なんでもない、髪を少し乱暴に拭く動作でさえも今のオレの目には色っぽくて、さっきまで考えていた記憶のことなど一瞬にして吹き飛ばしてしまった。
「あ、うん。……アフルは明日もう1度くる。その時にオレの記憶を戻すって」
 ミオは首をかしげて、上目遣いでオレを見上げた。
「……アフルが記憶を戻すの? それで、伊佐巳はなんて言ったの?」
「何も言ってない。言う前に出て行ったから」
 オレの様子がおかしいことをミオは気付いたのだろう。肩にタオルをかけたまま、オレが腰掛けたままのベッドに近づいて、覗き込んだ。まるで心を覗かれているようだった。だからって、いまさら目をそらすこともできない。
 まずい。絶対にまずい。せめて今夜だけでも、ミオにどこかで寝てもらうわけにはいかないだろうか。例えばミオの親友がいる部屋とか、ミオがもといた部屋とか。監禁室はそれほど快適な部屋ではないかもしれないけれど、隣に狼が寝ているベッドよりはずっとマシなはずだから。
「伊佐巳? アフルに何を言われたの? よかったらあたしに話してみて」
「あの……さ、ミオ。……前に話してくれた親友の女の子、元気にしているの?」
 突然流れに関係のないことを言われて、ミオはちょっと戸惑っているようだった。
「……うん。さっきも会ってきたけれど、特に何も変わってなかったわ。元気よ」
 さっき会ったばかりなら用事なんか何もないだろうな。オレはその先言葉に詰まってしまった。頭がパニックで何の口実も浮かんでこない。
「それがどうかしたの? ……なんだか少し変……」
 ええい、面倒だ!
 目の前に中腰になってオレを覗き込んでいたミオの両肩を掴んで、ベッドに押し倒していた。抵抗感はほとんどなかった。ミオは声を失って、目を丸くしたまま硬直してしまった。
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記憶�U・35
 失望を感じていたから、アフルの最後の言葉は意外で、オレには複雑だった。確かにアフルにならできるのかもしれない。葛城達也は有数の精神感応者だったけれど、アフルの接触感応の能力には及ばなかった。アフルになら、葛城達也が消したオレの記憶を蘇らせることができるかもしれない。
 だけど、オレは本当にアフルを信じていいのだろうか。アフルはオレの本当の記憶を戻してくれるのだろうか。記憶を取り戻すと言って、オレを洗脳したりはしないだろうか。
 少し、整理してみようと思う。葛城達也はオレの記憶を消してこの部屋に監禁した。そして、ミオを雇ってオレの記憶を取り戻そうとした。ミオが言った理由は、オレの記憶障害を直すためだ。オレは15歳のときに1度記憶を塗り替えられていて、その時の記憶障害が今のオレの精神の破綻を招きかねなかったからだった。
 オレが15歳のときに記憶を塗り替えたのは葛城達也。その時のオレは、愛する少女「ミオ」を失った悲しみから立ち直れなかった。葛城達也はオレを立ち直らせるためにその記憶を消した。1日前、オレが15歳までの記憶を思い出すことができたのは、別の女の子を好きになって、本当の意味で「ミオ」を失った衝撃から立ち直ったからだ。新しく現われたミオを好きにならなければ、15歳までの記憶を取り戻したとき、同じ悲しみに耐えられなかっただろう。
 葛城達也がミオを雇ったのは、オレに、彼女に恋をさせるためだ。そして、葛城達也の思惑通り彼女に恋をしたオレに、過去の記憶を封鎖させておく理由はない。あとは残ったすべての記憶を思い出させればいい。そのためにアフルを使おうとしていたとしても矛盾はない。
 だけど問題は、なぜ葛城達也がそれをするか、だ。オレの記憶障害が葛城達也にどんな意味を持つのか。オレが精神の破綻を招いたとして、葛城達也にどんな不利益があるというのか。オレはいつでも奴を殺そうとしていた。そのことについてオレは自分を疑っていない。たとえ記憶がなかったとしても、オレが奴を殺そうとしていたのは、絶対に間違いのないことなのだ。
 自分を殺そうとする人間。その人間の精神破綻は、葛城達也にとっての利益ではないのだろうか。オレは奴の中に、オレに対する愛情があるとは絶対に思えない。オレの精神破綻を食い止めるためにこれだけ大掛かりなことをする理由が、葛城達也にあるのだろうか。
 そうして、オレが考えつづけていると、ミオは風呂から出てきた。
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記憶�U・34
 オレを好きだと言ったミオの気持ちは、嘘ではないと思う。だけど、そこにいたるまでにいったいどんな葛藤があったのだろう。そうだ。ミオは、葛城達也のことも許していた。すべては過去のことだったのだと、オレを諭した。
 ミオの3年間は、いったいどのようなものだったのか。人質として葛城達也に監禁された彼女にとって、オレの記憶を取り戻すことは、チャンスだったのだ。監禁生活から逃れるための、愛する父親に再び会うための。
 なぜ、彼女は葛城達也を許せるんだ? どうしてオレを好きになれる? オレだったらできない。死んだミオを自殺に追い込んだ葛城達也を許すことができない。
「アフル……。お前はどうして止めなかったんだ。あいつが東京の人間を殺しているとき、どうして止めなかった」
 うっすらと、アフルは微笑んだ。やはりアフルは変わってしまったのかもしれない。
「皇帝が正しいからだよ。オレはそう思うから」
「どうして人を殺すのが正しいんだ! 人の命より優先する正義なんかあるわけねえだろ!」
「それがお前だな、伊佐巳。お前は変わってないよ。32歳のお前も同じ考えを持っていた。そして、それがお前の限界だ」
「お前は変わった! オレが知ってるアフルは絶対にそんなことは言わなかった。葛城達也に洗脳されたのか」
「お前が知ってる17歳のオレは世の中のことをあまりに知らな過ぎた。葛城達也という人に出会って、オレはそれを知った。洗脳されたという言葉とは少し違うよ伊佐巳。オレには葛城達也という存在の正しさが判ったんだ」
「それが洗脳だって言うんだ!」
 誰もが、葛城達也の味方をする。オレと奴とが対立したとき、必ず奴を選ぶ。オレは間違っているか? 東京の人間を殺したことに怒りを感じるオレは間違っているか? 間違っているはずはない。だけど、親友のアフルでさえ、オレを選ばないのだ。
 アフルはため息をついて、少し悲しそうな表情で、言った。
「お前の感情が高ぶりすぎてる。今日はこれ以上は無理だな。また明日くる」
 アフルはオレの味方にはならない。少しの失望。だけど、少しだけだ。オレはいつも同じ失望を味わいつづけていたから。
「明日、お前の記憶を戻してみる。オレにできるかどうかは判らないけど」
 そう言って、アフルは部屋を出て行った。
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記憶�U・33
「いろいろなことがあったんだ。……日本もかなりの打撃を受けて、東京は壊滅状態。他の、海岸部に位置する都市や、山間部の町もかなりの被害を受けた。1番被害が少なかったのが、城河財閥、つまり、葛城達也の本拠地埼玉だった。災害の1ヵ月後には、葛城達也は日本の皇帝として名乗りをあげて、生き残った人々の救出を始めたんだ。医薬品や食糧、流通の確保。人々に完全な分業をさせて、それによって日本は復興の第1歩を踏み出した」
 アフルによって語られるそれは、淡々としていたけれど、すさまじいものだった。オレは黙って聞いていた。どのようなものだったのだろう。オレにその記憶はなかったけれど、絶望に打ちひしがれる人々を想像することはできた。その想像は、実際の絶望とは、おそらく程遠いものであっただろうけれど。
「ただ、東京だけは、復興の対象にはならなかった。皇帝は東京を軍隊で閉鎖して、生き残っている人間を地上から一掃したんだ」
「……なんだって!」
 東京の人々を救助しなかったのか? それだけでも許せない。なのに葛城達也は、それだけでは飽き足らず、東京の人間を殺したというのか?
 オレは感情のままにアフルに掴みかかろうとして、すんでのところでとどまった。アフルは、触れることをしなくても、いつもある程度人の感情を読んでいる。感情のままにオレがアフルに触れれば、アフルが受ける衝撃は計り知れないものになるだろうから。そのくらいの理性は残っていた。
 以前から、葛城達也は冷徹で人の命など顧みない悪魔のような男だと思っていた。しかし、そんなオレが想像もできないことを、奴はしていたのだ。災害にあった人々に何の罪があるだろう。東京は被害が大きかった。そんな中に残っていたわずかな人間たちを、葛城達也は何の理由もなく殺したのだ。
 アフルは、オレの感情が落ち着くのを待っていたのだろう。やがて、オレが深呼吸をすると、再び話し始めた。
「ミオの父親は、ミオとともに、隔離された東京の地下にいた。そして、葛城達也を倒すために戦った。だけど、その戦いは彼らの敗北で、オレたち皇帝軍の勝利で終わった。……ミオは、人質なんだ。東京が再び決起しないための」
 戦いに傷つけられ、戦いに馴らされていたミオ。彼女が仲間と呼ぶ人々。この建物に監禁されているミオの仲間は、災害で生き残り、3年前の決戦で人質になっている人々だった。
 ミオにとってオレは、東京を隔離した葛城達也、その人の息子なのだ。
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記憶�U・32
 ミオは椅子のほうに腰掛けて、成り行きを見守っていた。オレとアフルとは、例の巨大なベッドに腰掛けて、互いを見つめていた。
 アフルは接触感応能力者だった。触れただけで相手の心の中を即座に読み取ってしまう。だから、アフルに触れるということは、すべてを見抜かれてしまうということだった。オレはそれでもかまわなかった。いつでもオレは、アフルに触れられることによって、自分の心の中、自分でも気付かなかった感情を知ることができたから。アフルはある意味オレのカウンセラーのようなものだったのだ。
 だからアフルはオレの知識もすべて自分のものにしていたし、オレに与えられたコンピュータのパスワードも知っていた。他人の知識を余すところなく自分のものにできるアフルは優秀だった。逆に、他人の苦しみにも感応してしまうアフルは、いつも優しく、そして孤独だった。
「ミオ、ちょっと、席を外してもらえるかい?」
 アフルはそう言ってミオを振り返った。椅子に腰掛けてこちらを見ていたミオは、少し微笑んでうなずいた。
「お風呂に入ってきてもいい?」
「いいよ。でも、下着姿でうろうろしないように」
 ミオは苦笑いで返して、風呂場に消えていった。
 ミオが完全に部屋からいなくなると、アフルは言った。
「彼女とは3年前に知り合って、それ以来の付き合いになる。オレは彼女の世話係だったんだ」
 3年前。それは、ミオが父親と別れた、父親に置いていかれたのだと口にした、同じ時期だった。
「ミオの父親がここにミオを置いて、行方不明になったのか? 葛城達也のところにミオを置いて」
「まあ、そうなるね」
「3年前にいったい何があったんだ」
 答えてもらえるかどうか、オレには判らなかった。しかし、アフルはミオよりもはるかに多くの権限を与えられているようだった。あるいはミオには判断がつかない微妙な部分の判断力を、葛城達也に信頼されていたのかもしれない。
「地球が壊れたんだよ。3年前、1999年7月、大きな災害が起こって、地球上のほとんどの地域が壊滅的な打撃を受けたんだ」
 それは、オレがまるで想像もしていなかった、大きな転換だったのだ。
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記憶�U・31
 この部屋で目覚めてから、ミオ以外の人間と会うのは初めてだった。だから、ミオが食器を片付けにドアを出ると、それだけで少し緊張した。オレにとっては数日前に会ったばかりの友人だ。だけど、客観的にはその間に17年の年月が流れている、
 ミオはすぐに戻ってきた。そして、ミオの後ろから1人の男が入ってきたのだ。
 ……確かに、時間は流れていた。男はオレを見て微笑を浮かべた。その微笑みはオレが覚えているのと変わらない優しさを含んでいて、その男が確かにオレの知っているアフルだと判ったのだけれど……。なんと言うのだろう。年をとるというのは、その顔に内面の人間性を刻み付けてしまうことなのかもしれない。それまで生きてきたアフルの軌跡をおぼろげにでも察することができる。彼の17年は平坦ではなかった。そう思わせるような複雑さが、その顔に滲み出ていたのだ。
「……アフルか?」
「ああ」
「……老けたな」
 オレがそう言うと、アフルはもっとはっきりした表情で笑った。
「お前ねえ。自分の顔を鏡で見てから言いなよ。老けたのはオレだけじゃないだろ?」
 アフルは昔と変わっていなかったけれど、でも確実に変わっていた。どこがどうとはっきり言うことはできないけれど。
 17年前に親友だったこの男は、今オレの味方になってくれる人間なのだろうか。
「見たけどさ。オレはさっぱりわからねえよ。自分がいきなり32だとか言われても、あれから17年経ってるって言われてもさ。……オレはアフルにいろいろ訊きたいんだ。オレが知らない17年の間に、いったい何があったんだ?」
「そう訊きたい気持ちは判るよ。でも、とりあえず座らないか? 立ったままだとオレが大変だ」
 アフルはひょっとしたら10センチ以上もオレより小さかった。
 ミオに視線で合図をした後、アフルはオレをベッドまで誘導して、縁に腰掛けた。
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記憶�U・30
 風呂から上がったオレは、髪を乾かすもそっちのけで、パソコンのスイッチを入れた。あれから5時間経った。ということは、葛城達也がセキュリティの設定を変更していない限り、回線は繋がるはずだ。
 起動している合間に寝巻きを着て髪を拭く。オレは自然乾燥で十分なくらい短い髪をしていたから、しっかり拭いておけば部屋を水浸しにするようなことはないだろう。
 ミオはたぶんすぐに帰ってくる。その前に、できる限りの情報を引き出しておきたかった。セキュリティを解除しない限りあの先へは進めないから、そのシステムがある場所を調べる。電子ロック式のキーを無力化する方法と、建物の内部構造も調べておきたいところだ。
 キーボードを叩きながら、回線を接続してまた片っ端から調べてゆく。17年前と同じ場所にあればおそらくそれほど手間取りはしないだろう。そう思って探したが、あいにくとオレが知る階層にはそれらしきファイルはなくて、ディスプレイの表示はむなしくさまようこととなった。
 17年分の進化がオレを阻む。自分が過去の人間であることを、改めて思い知らされた気がした。確かミオは以前、オレがパソコンをやっていたのは15歳までだったと言っていた。オレは、32歳の記憶を持っていたとしても、この進化にはついていけないのだ。
 それでもできうる限り、オレは階層を調べつづけた。そうして、しばらく経った頃、ミオは夕食を持って帰ってきていた。
「ただいま、伊佐巳。夕ごはんにしましょう」
 ミオは穏やかにそう言って、テーブルに食事を並べた。
 食事中は、ミオは何も言わなかった。オレも何も聞かずに、黙々と食べつづけた。食事は焼肉と付け合せのサラダ。味付けも少し濃い目で、死んだミオの薄い味付けとは違っていた。これは誰の味付けなのだろう。この食事で葛城達也が思い出させたいのは、いったい誰なのだろう。
 やがて食事が済むと、今までずっと黙っていたミオは言った。
「伊佐巳、あのね。……あたしの雇い主の人は、アフルのことについては何も言わなかった。会わせていいとも、いけないとも、何とも言わなかったの。だからあたし、アフルにもそう言った。そうしたらアフルは、いつでも呼んで欲しいって、そう言ったの」
 ミオの言葉は歯切れが悪くて、だから葛城達也の様子に不安を覚えたのだろうと、オレは解釈した。奴の沈黙の不気味さは知っている。おそらくミオも葛城達也にその不気味さを感じたのだろう。
「すぐにでも会いたい。……ミオ、呼んでもらえるかな」
 おびえるミオを無視するように、オレは言った。
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記憶�U・29
 オレは時間を忘れていた。だから、ミオが戻ってきた時に反射的に時計を見て驚いた。時刻は既にオレの風呂の時間近くになっていたのだ。丸々4時間くらいは掃除をしていた計算になる。
「伊佐巳は何にでも夢中になると、時間を忘れるみたいね」
 ミオはほんの少し呆れているように見えた。だけど、どうもそれどころではないようで、オレが手を洗って部屋に戻ると、いくぶん表情を引き締めた。
「あたし、これからすぐに雇い主の人に会ってくる。だけど、その前に伊佐巳に話しておかないといけないと思って」
「アフルストーンのこと?」
「うん。さっきアフルに……アフルストーンに会ってきたの。伊佐巳に会ってもらえるかどうか、訊いてきた」
「アフルでかまわないよ。君はずっとそう呼んでいたんだろ?」
 オレはミオの前ではアフルのことをその愛称で呼んだことはなかった。彼女はたぶん、アフルと個人的に知り合っているんだ。どの程度の付き合いかは知らない。少し前のオレならば、アフルこそがミオの恋人なのではないかと疑ったと思うけれど。
 ミオとアフルとは、少しだけれど、どこか共通する雰囲気をもっていたから。
「そうよね、もう伊佐巳に隠しても仕方がないわ。……アフルはね、あたしがここにきてから、ずっと面倒を見てくれたの。あたし、ほとんど毎日アフルにいろいろなことを教えてもらった。それは今はいいのだけど、そのアフルが言ったの。雇い主の彼は、たぶん伊佐巳がアフルに会うことは反対しないだろう、って」
 ミオも、雇い主が葛城達也だとははっきりと言葉にしない。たぶん、直接的な言葉でそうオレに伝えることを、葛城達也に禁じられているのだろう。
 それにしても妙な話だった。葛城達也がオレとアフルを会わせるということは、アフルが持つ情報をオレに流すことを了承しているということだ。もちろんすべて聞くことはできないだろう。それにしても、かなりの情報はオレに流れるはずだ。
「それで、ミオはどうするの? 雇い主に話してみるの?」
「ええ。おもいきってぶつかってみる。……もしも雇い主の人が許してくれなかったとしても、早ければ今夜中に、あたしはアフルをこの部屋に連れてこられると思うわ」
 ミオはそれだけをオレに伝えて、再び部屋を出て行った。
 オレは、事態が変わり始めていることに少しの興奮を感じながら、いつものように風呂に入っていた。
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記憶�U・28
 ミオの洋服や下着の入った引き出しを除いて、まずは箪笥の中身をすべて空けた。例の紙束が入っていた引き出しには、大量の紙と鉛筆が1ダースほど入っていた以外は何もない。その他の引き出しに大小のタオルと、ティッシュペーパーの替えが入っている。オレが期待していた鉛筆を削るためのナイフや、ドライバーなど、破壊工作ができそうなものはさすがに置いてはいなかった。
 洗面台下の開き戸にはトイレットペーパー、袋入りの粉石鹸、洗濯物を入れて運ぶためのビニール袋が入っている。この部屋の収納はそのくらいだ。オレはさらに、床に敷いてあった絨毯を剥がしてみたが、多少埃がたまっていただけで、ピンの一本も落ちていなかった。
 ゼムクリップが1本あるだけでもずいぶんいろいろなことができるのだけど。ついでと言うか、ちょっと考えを整理する間、オレはタオルを1枚絞って、部屋の掃除を始めた。あとこの部屋にあるのはパソコンと、目覚し時計だ。どちらも分解すればかなりいろいろなことができるけれど、それをするためのドライバーの代わりになるものがない。やはり、自分ひとりで脱出の手はずを整えるのは難しそうだ。ミオがうまくやって、アフルを味方に引き入れることができると、かなり違うのだけれど。
 考えを整理しながら、オレはずっと掃除をしつづけた。ミオと一緒にここを脱出する、その目標ができたから、オレの精神状態はかなりよくなっていた。少なくともミオの前ではオレはミオの言葉を忘れていなければならないから、こうしてゆっくり考えられる時間はそれほどないだろう。そうだ。ベッドのスプリングは外せるだろうか。そう思ってベッドを動かそうとしたけれど、この巨大なベッドは人間1人の力などではピクリとも動かなかった。
 部屋の内部にあるものはだいたい判った。要するに葛城達也は、オレが脱出に使えそうだと思うものは、この部屋に何1一つ用意してはいないのだ。それはつまり、オレの脱走を予期していたということになり、オレに脱走されては困るということだった。
 ミオはなかなか戻らなかった。オレはその間ずっと、この広い部屋を1人で掃除しつづけていたのである。
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記憶�U・27
 ミオが出かけてしまうと、オレはなんだか無性に心が騒いだ。ミオとキスをしてしまった。たったそれだけのことなのかもしれないけれど、妙に恥ずかしくて、嬉しくて、叫びながら転げまわりたい衝動に駆られた。誰も見ていないのだから実際そうしたところで問題はなかったのだけれど、そういう行動をとることにもかなりの抵抗があって、だけどニタついてしまう表情を抑えることだけはできずに、拳を握り締めながら1人、唇を固く結んでいた。
 1人になってから実感するというのも、ものすごく不思議な気がした。オレには恋人がいるんだ。オレだけの、たった1人の、オレだけの女の子だ。絶対に誰にも渡したくない。彼女の事をたくさん知りたいし、彼女を世界一幸せな女の子にしてあげたい。
 オレは勢いよく飛び上がった。そして、洗面所に駆け込んだ。目の前の鏡を覗く。……これが、今のオレだ。32歳のオレはどう見たってオジサンで、ミオの隣にいても恋人同士には見えないかもしれない。それでもって中身は15歳の子供だ。逆ならよかったな。外見が15歳で、中身が32歳のほうが、少しはミオの恋人としてふさわしく見えたかもしれないのに。
 時間が失われていることを、すごく悔しく思った。
 今までの、自分の記憶がないことに対する苛立ちとは、まったく違うものだった。オレが本来持っているはずの、17年分の経験。その経験がないことが、すごく悔しく思えるのだ。ついていけないコンピュータも、オレには想像がつかない外の状況も、もしも知っていたとしたらオレは今よりずっとミオを幸せにしてあげることができるだろう。どうしたら女の子を喜ばせることができるのか。そういう知識だって持っているかもしれない。失われた17年間の記憶があれば、その中にはミオを幸せにできるたくさんの経験があるかもしれないのだから。
 オレの、オレだけの女の子を、幸せにしてあげたい。彼女の望みをすべてかなえてあげたい。コンピュータの回線は閉じられてしまった。再び開くまでの5時間の間に、オレができることは他にあるだろうか。
 洗面台から部屋に戻って、オレはほとんど初めて、部屋の中の大捜索を開始したのである。
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記憶�U・26
  ―― デジャ・ヴュ。
 オレは以前、こんな別れを経験したことがある。
 だけど、それは15歳までのオレの記憶ではなかった。今のオレにはその記憶はない。だとしたら、この記憶は、オレの未来の記憶だ。
 誰だろう。オレは確かに、1人の少女を置き去りにしたことがある。
「大丈夫だよ。ミオのことは絶対においていったりしないから」
 オレにはかつて恋人がいたのかもしれない。だけど、なぜ恋人を置き去りにするんだ、このオレが。今のオレが未来のオレならば、恋人とは絶対に離れたりしないはずだ。
 オレは、変わってしまうのだろうか。記憶を取り戻したら、オレは今のオレとは違う、恋人を平気で置き去りにできる人間になってしまうのだろうか。
 オレが探している未来は、今のオレにとって、どんな意味を持つのだろう。
「……アフルストーンに会いたいのね」
 ミオは、絡めていた腕を解いて、オレの目の前に立ち上がった。
「あたしが何とかするわ。最悪、雇い主の人に隠れてでも、伊佐巳をアフルストーンに会わせてあげる。……もう、伊佐巳に隠し事をするのはいやだもの。伊佐巳がしたいと思うこと、邪魔したくないもの」
 さっきの、永遠の一瞬のようなキスは、確かにミオを変えていた。彼女を好きになったオレは間違っていない。そして、彼女にも間違いではなかったと、感じて欲しい。
 部屋を出て行くミオの後姿を見送りながら、オレはドアを開けるミオの手元を記憶していた。
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記憶�U・25
 逃げてしまおうか。ミオと一緒に、この部屋から。そして、この建物から。
 葛城達也が支配する世界なんか、もうごめんだ。
「判った、ミオ。……もう忘れた」
「……ありがとう」
 この部屋のドアを開けるための暗証番号は、今度じっくりミオの手元を観察すればわかるだろう。そのあと、この建物の構造をどれだけミオが知っているか。ミオですら外に出る方法は知らないかもしれない。どうすれば調べられるだろう。アフルに会うことができたら、ある程度探り出すことができるだろうか。
 それより確実なのは、この建物のメインコンピュータに割り込むことだ。この部屋のドアに電子キーが使われているということは、建物全体が同じシステムを採用している確率は高い。あのパソコンから割り込めるだろうか。無理だったとしたら、どうにかしてメインコンピュータにアクセスする方法を考えなければ。
 視線を感じて見ると、ミオが少し不安そうな表情をして、オレを見上げていた。
「どうしたの?」
「……ねえ、伊佐巳。伊佐巳はどこにも行かないわよね。ずっと、あたしのそばにいるわよね」
 どうしてそんなことを思うのだろう。オレがミオのそばから離れるわけがないのに。
「行かないよ。どうしてそんなこと思うんだ?」
「……怖いの。あたしのパパは、あたしを置いていった。……もう、置いていかれるのはいやなの」
 ミオがそう言った瞬間、オレはミオに、誰かの面影を重ねていた。
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記憶�U・24
 いつも、オレはどんな顔をしていたんだろう。ミオとキスする前に自分がどういう表情をしていたのか、思い出せない。
「……あの、さ……。つまり、オレはやっぱりミオがいいんだ」
 ミオは、言っている意味がわからないというような表情をした。オレの方はかなり興奮状態で、自分が何を口にしたのかすら、よく把握していなかった。
「死んだミオのことも覚えてるし、これから何を思い出すか判らないけど、オレが今キスしたいと思ったのはミオで、それはミオがどんな名前でも関係ない。……やっぱりオレ、ミオの本当の名前が知りたい」
 好きだから。
 好きだからミオの名前も知りたいし、ほかのこと、ミオがオレに言えずにいることも全部、知りたいと思う。何も隠して欲しくないし、無理して欲しくもない。判ったから。ミオはちゃんとオレのことを好きでいてくれるってこと。そして、今でもやっぱり無理をしているんだってことも。
 好きな人の前で自分を偽ることが、どれほどミオの心に負担をかけているだろう。
「伊佐巳……」
 ミオは目を伏せて、でも、唇に何ともいえないような、抑えきれない喜びを噛みしめているような表情を浮かべて、オレの腕に自分の腕を絡ませた。オレはなんだか緊張してしまって、腕に余計な力が入っているのが判る。この緊張はそっくりミオにも伝わっているだろう。
「なんかあたし、どうでもよくなってきちゃった。ねえ、これからあたしが言うこと、すぐに忘れてね。……あたしね、伊佐巳の記憶が戻らなくてもいい。このままの伊佐巳で、何も知らないままの伊佐巳と一緒にいたい。この部屋から一緒に逃げちゃいたいよ」
 オレは、今初めて、ミオの本音が聞けた気がした。
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記憶�U・23
 客観的な時間の流れというのはオレには掴めなかった。ミオはオレの隣に座っていて、オレと話すためにこころもち上を向いていたから、オレはベッドに手をついて、直接、唇だけ触れた。ミオが応えてくれるかどうかは半信半疑で、だから逃げることもできるように、身体のどこにも触れずにいた。近づいた瞬間のミオの目はいくぶん見開かれていて、でも、少しもその場から動かずに、触れるに任せていた。
 オレが覚えている限りでは女の子とキスをするのはこれが初めてだった。一瞬、触れて、でもそれからどうすればいいのか、オレには判らなかった。やわらかくて生暖かい不思議な感触があった。人の唇というのはこんなにやわらかいものなのだ。ミオも戸惑っていた。でも、逃げることも、動くこともしないで、硬直したようにそのままだった。
 オレの呼吸は止まっていて、なのに心臓だけが異常な鼓動を響かせていて、頚動脈を通過する血液の流れさえわかるような気がした。客観的な時間にしたらたぶん一瞬だった。だけどその一瞬はオレにとってはものすごく密度の濃い一瞬で、さまざまな感情が通り過ぎてゆく。愛しさとか、恥ずかしさとか、プライドとか、焦りとか。ミオが逃げずにいてくれた嬉しさが一瞬で通り過ぎて、そのあと、初めて感じたさまざまな思いに揺さぶられて、オレの頭は混乱した。
 ほんの一瞬のキス。だけど、唇が離れたあと、オレの中で起こった変化を感じた。たった一瞬だったけれど、オレとミオとは今、少し、変わったのだ。キスする前とはまったく違う2人がそこにはいた。ミオの目を見つめて、オレは同じ変化がミオにも起こったことを感じたのだ。
「ミオ……」
 名前を呼んだとき、ミオはほんの少し、目を細めた。唇は微笑んでいた。本当の名前を呼べないことが悔しかった。
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記憶�U・22
「ミオ、君の本当の名前が知りたい」
 前にも話したこと。一度はミオに拒否されたこと。オレはもう1度言って、ミオを見つめた。
「ミオではダメなの?」
 判っているのだろうに、ミオはごまかそうとしている。オレが知りたいのはミオの本当の名前だ。本当の名前で、彼女を呼びたいのだ。
「今、思い出した。……あたしね、伊佐巳が最初にミオという名前を付けてくれたとき、すごく嬉しかった。ミオは伊佐巳が1番好きな女の子の名前だから。そう、雇い主の人に聞いたから、嬉しかったの。たぶん、伊佐巳にとって、ミオは特別な名前なんだな、って」
 ……ミオは最初から嬉しかったのか? オレが彼女に告白するずっと前から。オレが、目覚めて間もなかった、まだ、彼女がオレのことを好きかどうかも判らなかった、あのときから。
「もしもね、伊佐巳が違う名前を付けてくれるのなら、それでもいいよ。あたしのことを違う名前で呼びたいのなら、今、別の名前を付けて。……あたしの名前は、伊佐巳が付けてくれる名前だから。それがあたしの本名なの。そう思ってるから」
 ミオ、それじゃ判らないよ。まるで君には名前がないみたいじゃないか。オレがつけた名前を本名だと思うなんて、ものすごく不自然なことじゃないのか?
 オレはだんだん、自分の精神とか、自分が見ているものに、自信を失ってきていた。ミオという人間は、本当にここにいるのか? 彼女はオレが見ている幻ではないのか? オレは今、現実にいるのではなく、空想の、夢の中にいて、その中で自ら作り上げた1人の女の子と語り合っているのではないのか?
 確かめたかった……というのともちょっと違う。ミオは、やっぱりかわいい女の子で、オレが好きな女の子で、ちょっと、さっきみたいに狂暴にもなるけれど、基本的には小さくてか弱い女の子だった。オレは理論的な人間だったけれど、行動が理屈で解明できなかったこともこれまでの経験で山ほどあった。オレは、ベッドの隣に腰掛けたミオに近づいて、唇を、触れた。
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記憶�U・21
 あのリストは、葛城達也が危険人物に指定した人間のリストだ。つまり、葛城達也に関わる人間ということになる。その中に、ミオという人間が2人いる。そして、そのうちの1人を、オレは知っている。
 オレが見つけた名前は、その2人のうちのどちらかだ。オレはそのミオを知っているかもしれないし、知らないかもしれない。
 オレはミオの腕を握るのをいつの間にかやめていた。ミオがベッドに腰掛けたから、オレも隣に座る。その方が少しは話しやすいだろう。
「頭文字は? どっちが「K」なの?」
「それはどっちも同じよ。偶然だけど」
「名前も? 同じ名前なのも偶然なのか?」
「確かなことは言えないけど、たぶんそれは偶然ではないと思うわ。死んだミオがもしも違う名前だったら、その2人も違う名前だったかもしれない」
 人の名前を付けることができるのは親だ。オレが知っている葛城達也の子供は、オレを含めて3人。その2人のうちの1人がミオで、もう一人は確か勝美といった。ミオが死んだあと、葛城達也はまた子供を得たかもしれない。その子にミオという名前をつけるというのは、十分ありうる話だった。
 ミオが言った2人の「Mio_K」のうち、1人は葛城ミオなのかもしれない。それは葛城達也の子供で、もしかしたら、目の前にいるミオがその本人なのかもしれない。
 それは、ミオが本名を明かさない限り、判らないことなのだけれど。
 あ、だけど、ミオは言ったじゃないか。自分の父親はまだ30台だ、って。その父親は雇い主に監禁されていて会うことができなくて、オレの記憶が戻ったときに自由にしてもらえるんだ。葛城達也は44歳だ。それに、ミオが語る父親像と、葛城達也とは一致しない。
 やっぱりミオはあのリストにあった「Mio_K」とは、別人なのかもしれない。
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記憶�U・20
 逃げ回るのは限界だった。完全に追い詰められる前に、オレはミオの拳を捕まえた。
 ミオが動きを止めた。
「ミオ、オレが悪かったんなら謝るから、話してくれる? いったい何を怒ってるんだ?」
 ミオはじっと、オレを見上げていた。ミオは女の子としても少し小さい方なのかもしれない。こうして立っていると、ずいぶんオレとでは身長差があって、首が疲れるのではないかと思った。死んだミオも小さかった。体重は、たぶんあの頃のオレと同じくらいあったけれど、
「……そんなの、あたしにもわからないわよ。……伊佐巳に無視されてるような気がしたの」
 無視、していただろうか。なんとなくわずらわしくて、不信感があって、何も話さなかった。話しても答えてもらえないと思った。オレはミオが答えられないだろう疑問ばかりを持っていて、だから無駄な質問はしないでおこうと黙っていた。
 たとえ無駄な質問であっても、何も言わなければミオには判らない。オレが何を考えているのかが伝わらなくて、だからミオはいろいろ想像してしまうのだろう。たとえ答えてもらえなくても、オレはミオに質問しなければならないんだ。ミオの本当の名前は何というのか。ミオは32歳のオレにとってどんな存在なのか。
「オレは、さっき、画面の中にミオの名前を見つけた」
 ミオはほんの少し眉を動かして、表情を微妙に変えた。
「その名前がオレに関わる人間の名前なのか、それもよく判らない。ねえ、ミオ。オレにはミオという名前の知り合いがいるのか? それは君と関係があるのか? 苗字の頭文字の「K」は、いったい何の略なんだ?」
 どう答えるべきか、ミオは迷っているようだった。おそらくミオにも判ったのだろう。ミオに答えてもらえない質問だから、オレが今まで黙っていたのだということが。
「……あたしが知っている限りでは、葛城達也に関わる人間で、ミオという名前の人は3人いるわ。そのうちの1人は、17年前に死んでしまったミオ。そして、あとの2人のうちの1人を、伊佐巳は知っているの」
 ミオの答えはそれほど具体的ではなかったけれど、オレのイライラを少しだけ解消する効果はあった。
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記憶�U・19
 オレが鶴にイライラをぶつけて、それで何とか自分を落ち着けようとしていると、不意にミオが立ち上がっていた。テーブルに手をついて、顔を上げたオレを正面から睨みつけた。
「伊佐巳、あなた暗いわ」
 そういうと、驚くオレのほうにつかつかと歩いてきて、いきなり拳で突いてきたのだ。
 折りかけの鶴を放り出して、オレは腕を上げた。ミオの拳の進路を変えながらよける。それはほとんど無意識の動作だ。オレの身体が覚えている、空手の防御だった。
「いきなり何するんだよ」
「思い通りにいかないからって鶴に当たらないで。千羽鶴は願いを込めなきゃ意味がないのよ。イライラするんだったら身体を動かしなさいよ」
 そのあとはかなり本格的にミオはオレに攻撃を仕掛けてきたから、オレもそれ以上椅子に座っていることができなかった。ミオのまわし蹴りを腕を交差させてよけ、椅子を盾にとって間合いを開けたあと、テーブルを回ってミオの攻撃から逃げていった。まさかミオに攻撃できるわけない。それに、オレは身体が動きを覚えているというだけで、空手を正式に習った経験はないんだ。逃げることは無意識にできても、攻撃が無意識にできるかどうかは判らない。
「待てよ、ミオ! いったい何を怒ってるんだ」
「伊佐巳が暗いとあたしまでストレスがたまるの! こら! 逃げてばっかりいないで戦いなさいよ!」
「女の子相手に攻撃できるわけないだろ。ちょ……ミオ、ほんとに危ない」
 部屋の中はかなり広かったけれど、このままではどちらかが怪我をするかもしれない。実際オレはベッドの方へに追い詰められていた。
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記憶�U・18
 折鶴に集中しているとずいぶんと気分が穏やかになってくる。さっきの自分の心の動きを理解していた。オレがなぜ、自分の過去を知るのを恐れているのか。
 オレはミオに不信感を持っていた。それはずっとオレの中にあったけれど、さっきのリストの名前に「Mio_K」という文字を見て、その不信感はさらに深まった。32歳のオレは彼女のことを知っていて、無意識にその名前をつけたのではないのか。
 彼女に、葛城ミオという名前を。
  ―― いや、まだ判らない。頭文字が「K」になる苗字なんて腐るほどあるし、それが本当にミオの名前かどうかも判らない。偶然だって、起こりえないほど珍しい名前じゃない。
「……伊佐巳? どうかしたの? ……何か怒ってる?」
 気がつくとオレはずいぶん乱暴な手つきで鶴を折っていた。折り目が奇妙に歪んで反り返ってる。
「……なんでもないよ。何も怒ってない。ごめん、心配させた」
「どうして黙っているの? あたしには話してくれないの?」
 オレの、ミオに対する不信感を、どう話したらいいだろう。こういうとき、記憶を取り戻す前のオレなら、心の中を素直に全部話していただろう。ミオを母親のように頼って、すべての不安をミオに消し去ってもらいたくて。
 ミオも戸惑っているのかもしれない。オレはやっぱり昨日までとはずいぶん変わってしまっていたから。
「……なんだか、宙ぶらりんでイライラするんだ。オレの知らないところで時間だけが経ってて、周りの状況も何もかもぜんぜん把握できない。早く全部の記憶を取り戻したいよ」
「そうよね。何かきっかけさえあれば一気に思い出せるかもしれないわ。昨日みたいに」
 今はそのきっかけすら見えない。15歳の時記憶を失ったあと、オレはいったいどんな人生を歩んだのだろう。オレは誰かに恋をしたのだろうか。死んだミオのことを忘れて、だけど、恋する気持ちだけはずっと消えずに。
 以前ミオが言った、もう1人の女の子。2度目の引越しのあとに出会った女の子にも、オレは恋をしたのかもしれない。
 それは十分ありうる話だった。なぜなら、絶望したオレを立ち直らせたのは、今目の前にいるミオに対する恋なのだから。同じような心の動きが17年前にもあったのではないだろうか。
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記憶�U・17
「どうしたの? 壊れちゃった?」
 一瞬、オレのことを言われたのかと思った。真っ暗になった画面を呆然と眺めているオレは、傍からは壊れたロボットのように見えただろうから。ミオが言ったのは、突然文字が消えてしまったパソコンのことだった。
「いや、たぶん大丈夫だと思う。回線を切られただけだから」
「切られた? 誰かが切ったの?」
「メインコンピュータに付属してる安全装置が働いた。どうやらオレのことをハッカーだと思ってるらしいよ、このキカイは」
 なかなか一筋縄ではいかないな。次は付属の安全装置を切るところから始めなければならないらしい。
「なんだか気が抜けた。ねえ、ミオ。ここって禁煙?」
 オレの質問に、ミオは驚いたようだった。15歳のオレはわりと日常的にタバコを吸っていた。ミオはそのことも知っているはずだ。
「伊佐巳、タバコを吸うの?」
「ここ最近……って、15歳のオレにとっての最近だけど、けっこうな本数吸ってるよ。それも思い出したからさ、なんとなく」
「……訊いてみるけど、たぶん許可は下りないと思うわ」
 怪訝な顔をして、ミオはオレを見た。もしかしたらミオはタバコを吸う男をあまり好きではないのかもしれない。
「ならいいよ。しょうがない、鶴でも折るか」
「パソコンは? もう見ないの?」
「この状態になっちゃうと5時間は動かないよ」
 たぶんオレは、画面にあったミオの名前に反応して、少しおかしくなっているのだろう。なんとなくすべてがわずらわしくて、ミオにいろいろ説明するのも面倒だった。ミオもオレのそんな態度を察したのだろう。テーブルに椅子を戻して鶴を折り始めたオレの向かいで、ミオも鶴を折り始めた。
 15歳のオレの中にも、折鶴というものの記憶はなかった。ミオの感覚で言うならば、15歳のオレもかなり日本人として恥ずかしい人生を送っていたらしい。そのくらいオレの15年間は特殊だったのだ。
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記憶�U・16
 真っ先に自分の項目を開かなかったのは、もしかしたらこのたくさんの名前の中に、オレの記憶を喚起する名前があるかもしれないと思ったからだ。名前はすべてローマ字で書かれてあって、オレの名前は上から3番目に「Isami_K」とある。姓のイニシャルがないものの方が多い。中には外国人かと思うような名前もあった。
 ひとつひとつ、オレは見つめながら、自分の記憶と照らし合わせた。いったいどのくらい読み進んだか。不意に、オレはその名前を見つけたのだ。
 Mio_K ――  ミオ ―― 。
 思わず振り返って後ろにミオがいることを確かめた。今ここにいるミオは、オレが勝手に名づけたミオだ。彼女の本名をオレは知らない。
 ミオという名前は日本人に多い名前だろうか。いや、けっして多い名前とはいえないだろう。オレが知る17年前に死んだミオは、苗字のイニシャルは「Y」だ。あのミオでもない。もしかしたらオレは、この「Mio_K」という人物を知っているのだろうか。
 だから、最初に目覚めたとき、彼女にミオの名前をつけたのだろうか。
「伊佐巳、どうかした?」
 このリストの人物をオレが知っているとは限らない。葛城達也にとって邪魔な人間を集めただけのリストだ。オレ自身が知っている人物が一人もいない可能性だってある。「Mio_K」はただの偶然の一致かもしれない。
 おそらく、オレは恐れている。オレはミオの正体を知るのを恐れている。
「なんでもないよ」
 そうミオに言って、オレはそれ以上リストを見るのをやめて、「Isami_K」の画面を開こうとした。そのときだった。やや長めのエラーサインが鳴って、ディスプレイに一瞬文字が表示されたあと、いきなり回線が閉じてしまったのである。
 真っ暗になってしまった画面を眺めながら、緊張が解けたオレはかなりほっとしている自分に気付いていた。
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記憶�U・15
 アフルストーンは、唯一と言っていい、オレの親友だった。オレと同じ研究所で7歳から16歳までを過ごして、オレの感覚ではほぼ1年前、研究所から出て両親の待つ自宅に戻っていった。研究所では遺伝子の研究ともう1つ、超能力の研究も行われていた。その超能力部門にいたのがアフルストーン、通称アフルだった。
 本名というのもあるのだけれど、オレはずっとアフルで通してきたし、あいつもそう呼ばれる方がいいと言っていたことがあったから、オレはそう呼んでいた。もちろん日本人で、年齢はオレよりも2歳ほど年上だった。
「……アフルストーンが、ここにいると思うの?」
 慎重にミオは言った。オレはミオの嘘を簡単に見破れる自分に今更ながら気付いていた。
「理論的考察。このプログラムを組めるのはアフル以外に考えられないからね。彼は今でも葛城達也の手先なんだな」
 ミオは、オレの言葉にどう反応していいのか、判らないようだった。
「判った。ミオにはそれを答える権限はないんだね。いいよ、雇い主の人に訊いてからで。いつ返事をもらえるかな」
「……今日の夜には、たぶん答えられるわ」
「ならそれまで待つよ。……ここも行き止まりか。いったいどこにあるんだ、オレの人生の奇跡のデータは」
 組織の事件、統計データ、工作員のデータ、それらの項目のほとんどは行き止まりになっている。以前のオレの記憶では、オレのデータは葛城達也と関わりのある人物のデータの中にあった。しかしそこも行き止まりだ。オレはずっと画面を移動させて、要注意人物の項目のところを開いてみた。
 そこは行き止まりではない。なるほど、オレはこの17年のうちにこちらのフォルダに移されていたわけだ。
 そこにあったのは、オレの名前だけではなかった。ちょっと見ただけで50人はいる。操作の指を止めて、オレはその名前を1つずつ、舐めるように見つめていった。
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記憶�U・14
 もしもこのコンピュータが、研究所のメインコンピュータにそっくりに作られた偽物だったとしたら、いったい誰が作ったのだろう。葛城達也にプログラムの知識はない。いや、オレには17年のブランクがあるのだから、オレが知らない間に奴がプログラムの知識を身に付けている可能性はある。だけど、オレはあいつを知っている。あいつがプログラムを組むなどという単純な作業を何ヶ月も続けてこれを作り上げたなどとは到底思えなかった。
 葛城達也は腹心の部下にこの作業をやらせたのだろう。17年前のメインコンピュータの内部を詳しく知っていて、プログラムの知識がある人間。オレのほかにそんな人間がいるのならば、オレは絶対にその人間に会ったことがあるはずだ。
 オレは、内部にしまわれている機密文書がある場所に繋ごうと、画面を変えた。その先はパスワードを入力しなければ進めない。オレはいつも打ち込んでいる長ったらしいパスワードを打ち込み始めた。行数にして15行はあるとてつもなく長いパスワードを。
 ミオは後ろでじっと見ている。まるで、オレを邪魔するまいとするように、呼吸を止めている。このパスワードを与えられているのは組織の中でも10人に満たなかったはずだ。しかし、オレの独自のパスワードを知っていたのは、オレと葛城達也のほかにはたった一人だけ。
 入力を済ませて送信すると、画面が変わった。その時点でほぼ確信していた。17年前のメインコンピュータの内部を熟知していて、コンピュータのプログラムの知識を持ち、オレの打ち込んだパスワードが合っていることを知る人物が、彼であると。
「ミオ」
 急に声をかけられて、ミオはずいぶん驚いたようだった。
「なに?」
「アフルストーンに会うことはできる?」
 瞬間的に反応できなかったミオの様子で、オレはオレの親友がこの建物の中にいることを知ったのだ。
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記憶�U・13
 接続が終わった後に現われた画面は、オレが見慣れたものだった。研究所の地下に眠っていたメインコンピュータの初期画面だ。イメージが少し違うと感じられるのは画面の解像度が変わっているせいだろう。うしろに立っているミオに、オレは言った。
「葛城達也の幼馴染の名前を入れたらこの画面になったんだ。黒人兵士とのハーフで、白人兵士に育てられた、日本国籍の男。J・K・Cが潰そうとしていたのは、この男を殺した人間が支配していた組織だ」
「藤井嵯峨がキーワードだったのね」
「知っているの?」
「あたしはほんとにいろいろ聞いてるのよ。葛城達也が生まれる前のこともね」
 ミオが葛城達也に雇われたのは、オレが思っているほど最近のことではないのかもしれない。もしかしたら数年も前から、葛城達也と親交があったのか。
 彼女の知識には、付け焼刃でない、身に染み込んでいるような雰囲気がある。
 オレは初期画面から、慣れた方法で画面を切り替えていった。こうして同じ画面で比べているとよく判る。17年前とは比べ物にならないくらい、コンピュータの世界は進化しているのだ。オレはさまざまに探りながら、時々行き止まりがあることに気付いていた。これはどういうことだろう。オレに探られまいとロックしているのか。それとも、もしかしたらこれはただそっくりに作ってあるだけで、オレがなじんできたメインコンピュータの内部とはまったく別のものなのだろうか。
 そうかもしれない。17年前にオレが知っていたものと、今現在のメインコンピュータとが同じであるほうがおかしいのだ。本物であればこんなに17年前の原形をとどめているはずがない。これはおそらく、オレの記憶を取り戻すためだけに作られたコンピュータなのだ。
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記憶�U・12
 このパスワードを設定したのは葛城達也だ。オレは今まで、自分を中心にしてあらゆる言葉を打ち込んでいた。オレの頭の中にある、オレに関わる言葉や人名を探していた。だけど、これを打ち込んだのは葛城達也なんだ。オレの知る、自己中心的で他人に関心を持たないあいつが、オレが思いつく言葉を設定していると考えるほうが間違いなんだ。
 食事を摂るのももどかしかった。掻き込むように昼食を終えると、オレは再びパソコンに向き合い、画面を呼び出した。ミオはオレの食事の早さについてこられなかったらしく、テーブルで食事しながらオレの背中を見守っていた。
 オレの頭の中には、葛城達也という人格がコピーされている。オレ自身が今まで接してきて、オレの目を通して形作られた葛城達也だ。オレは奴が生まれた44年前から17年前までの葛城達也の人生を思い浮かべた。生まれたのはオレと同じ城河総合研究所。しかし生後まもなく、山梨県のある孤児院に、2人の兄弟と一緒に捨てられた。
 10歳までをその孤児院で過ごした後、奴は今の能力に目覚めた。いわゆる超能力と呼ばれるものだった。それを知った城河基規に研究所に呼び戻され、少しの間超能力の訓練を受ける。研究所にいた期間はわずかだった。すぐに研究所を飛び出して、他の2人の兄弟とともに、城河基規が所有する東京のマンションで暮らし始めた。
 やがて城河財閥の総帥、城河基規が死亡する。2年後、13歳のときに城河財閥を乗っ取り、それ以後は財閥の総裁として闇の組織J・K・Cを作った。そこまで葛城達也を突き動かしていたのは復讐心だ。ともに孤児院で過ごし、19歳の若さで殺されてしまった、奴が心に描く英雄の……
 オレはその英雄の名前と、死んだときの年齢を打ち込んだ。しばらくあって、接続が完了した旨のメッセージが画面に現われていた。
「繋がったの?」
 いつの間にか後ろにきていたミオが言って、集中していたオレを驚かせた。
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