2001年04月の記事


蜘蛛の旋律・79
 白のレガシィB4。それは、シーラのパートナータケシが乗っている車だった。だけど今は前部が潰れてほとんど判別できなくなっている。すぐに助け起こされたオレは、オレを倒したのが武士で、その前に叫び声を上げたのがシーラだということに気付いていた。
「シーラ!」
 叫んだオレの背後からシーラは駆け寄ってきた。あの車には乗っていなかったのだ。ということは、車を運転していたのはタケシだったのか。
「2人とも早く! タケシを校舎に入れないで!」
 シーラが再び叫んだ時、車の中からタケシが這いずるように出てきたのだ。
 何も考えなかった。オレはシーラに言われたとおり、タケシを校舎に入れまいとだけ考え、行動していた。這い出てきたタケシに取り付いて身体を抑える。だけど、オレの力ではタケシを完全に止めることなんかできなかったんだ。
 そのとき、完璧に体勢を整えてタケシの目の前に立ったのは武士だった。
「あとは俺に任せろ」
 その言葉に心底ほっとしてタケシから離れると、同じ名前を持つ2人の男は、正面から睨みあった。
 似ているのはどうやら名前だけではなかった。年齢も同じ18歳、身長も体型もほぼ同じように見えたし、2人とも格闘技系だ。小説の中でタケシは不細工という形容こそついていないけれど、シーラと合わせて美女と野獣と称されるくらいだからハンサムではない。年齢よりも年嵩に見られるところも、迫力ある物腰も、2人のたけしには共通していた。
 この2人は、もしかしたら野草の中では同一視されたキャラなのかもしれない。完全にキャラクターがかぶってる。それなのに片方が自我を持ち、片方が持たなかったというのは、オレには不思議な現象に見えた。
 そんな、オレが考えをめぐらせたのもほんの一瞬のことで、地這いの仮長武士はスパイチームのリーダータケシに向かって、得意の地這い拳を繰り出し始めたのだ。
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お詫びです
このところ更新できなくてすみません。
実はPCが破壊されてしまいまして;
でも頑張って来週くらいから再開させますので、もうしばらくお待ちくださいませ。
では。
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蜘蛛の旋律・78
「誰もいないらしいな」
 オレがそう言って校門に向かって歩きかけると、武士は片腕を上げて、オレを制するような動作をした。
「巳神、お前には判らねえか。校舎の中にはかなりの人数が潜んでるぞ」
「え?」
 武士の言葉に、オレはもう一度じっくり校舎を見つめてみた。だけどオレには、人の気配はおろか、生き物の気配すらも感じなかったのだ。どこか遠くで虫の鳴く声が聞こえる。だけど校舎はしんと静まり返っていて、怖いくらいの静寂に包まれていたのだ。
「……何人くらいいるんだ?」
「少なく見積もっても20人はいるな。下手をすれば100人超えるかもしれねえ。……巳神、真夜中の校舎に潜んでる人間に心当たりはあるか?」
 心当たりと言われても、オレに判るのはそいつらがすべて野草のキャラクターだろうってことだけだ。自我を持たないキャラクターは誰かに操られていた節がある。もしかしたら、操っている誰かが、キャラクターをここに集めたのかもしれない。
 そうか、武士はオレが経験したことを知らないんだ。アフルや黒澤とばかり話していると、そういうあたりまえのことがだんだん判らなくなってくる。
「野草のキャラクターの中で、自我を持たない人間を操っている奴がいるらしいんだ。もしかしたらここにいるのは操られた人間かもしれない」
「誰かの意識が取り付いてる、ってことか。だとしたら何とかできるかもしれねえな」
 そのとき、不意にオレは気配を感じて振り返った。爆音が近づいてくる。交差点
を凝視していると、やがて白い車がものすごいスピードでオレたちの方に突っ込んできたのだ。
 車はみるみる近づいてくる。オレはその進路にいたんだ!
「巳神! タケシを止めて!!」
 女の声でその叫びを聞いたとき、オレは強い力で横倒しにされた。
 オレを轢きそこなった車は進路を変えて、すさまじい音をさせて校門に激突した
のである。
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蜘蛛の旋律・77
「どうした。ここがお前の高校じゃないのか」
 高校の名前も、地形も変わっている。沼の北にあるはずの高校は沼の南にあって、本当の名前は沼南高校だったんだ。新都市交通の時は列車の形状と名前だけだった。だけど野草は、小説に書くことで、地形すらも実際のものと変えてしまっていたのだ。
「ああ、ここだ。間違いない」
 何のこだわりもなく右折した武士の隣で、オレは自然に背筋をこわばらせていた。野草の小説は現実世界に影響を与えている。その影響は詳細で、その分甚大だ。判っていたはずなのに、オレは改めてその能力に恐怖を感じた。
 オレは本当に野草を救うことができるのか? 黒澤は、オレが野草を救えると本気で思って、オレを召喚したのか?
 まともな神経を持った普通の女の子が、自分がこんなに大きな力を持っていると知って、耐えられるはずがないじゃないか。それとも、それならそれで仕方ないと野草に開き直らせるだけの力が、オレにあるとでも思っているのか?
 実際、方法は2つしかないんだ。野草が小説を書くことをやめるか、自分の力に開き直るか。
 だけど、小説に書かれなかったキャラクターも実体化している。野草は小説を書くことをやめたとしても、空想することまでやめることはできないだろう。だとしたら開き直るしかない。自分の力を受け入れて、世界が変わることを認めていかなければ。
 野草が死を選択したのが、今ならはっきりと判る。認めるよりも死ぬことの方が、遥かに楽だったのだ。
「巳神、おりるぞ」
 武士に促されてオレは車を降りた。目の前には、オレが見慣れた沼南高校がある。周囲を田んぼと森林に囲まれたいなかの高校だから、入口はこの正門しかないんだよな。正門からやや左寄りに2つ並んだ校舎があって、校舎の向こう側には広い校庭と、右手に体育館が立っている。
 ひと通り見た限りでは、この学校に誰かが潜んでいるような気配は、まったく感じられなかった。
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蜘蛛の旋律・76
 「地這いの一族」という物語は、世の中に巣食う魔物を退治する一族の話で、地這いの本家である巫女達は、千年目に顕在化する魔王を倒すために血の浄化というものを進めている。あと2代、つまり巫女の孫の代で浄化は完成して、魔王と対峙できる勇者が誕生する訳だ。巫女は未来を読んで、正しい歴史に人々を導いている。だから巫女はアフルのような超能力者とも少し違うんだ。歴史の筋道をすべて見通せる力や、祈りを神に届ける力はあるけれど、テレポテーションや読心や、いわゆる超能力というものはないと言っていいだろう。
 武士にいたってはその能力すらもない。地這い一族の名前の由来となった「地這い拳」というのを習得していて、魔物に取り付かれた人間から魔を払うことができる。地這い拳はその名の通り地を這うような拳法だ。足技が主体で、足に弱点を持つ魔物を効率よく倒すことに重点を置いて考案されている。
 そんな武士と一緒にいるのは、心を読まれる心配がない分だけアフルよりも気が楽だったのだけど、すぐにそうでもないことに気付くこととなった。心を読めない武士に自分の考えを伝えるためには、アフルの時よりも更に多くの言葉をしゃべらなければならなかったのだ。いつの間にかオレは、超能力者の便利さにすっかり馴らされてしまっていたらしい。
 ともあれ、いくつかの言葉の行き違いの末、武士の運転する車は新都市交通の駅を通過して、野草の通学経路を辿り始めた。坂道を登ってT字路になったところを左折、そのまま細くくねくねした坂道を下りていくと、細い沼が現われる。その沼の橋を渡ってすぐが沼北高校だ。沼の北側にあるからその名前がついたのだと、オレは学校の名前の由来を聞かされていた。
 しかし、オレたちはその橋を渡ることはなかった。橋を渡る前に、既に見慣れた看板が現われていたのだ。右折の交差点で武士は車を停めた。……そうか、アフルがそう言ったとき、オレはなんとなく聞き流してしまっていたけれど、あれはこういう意味だったんだ。
 県立沼南高校入口 ―― 白い看板には、そう文字が書いてあったのだ。
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蜘蛛の旋律・75
 行動の主導権は、いまや完全に武士に握られていた。武士は地這い一族の仮長で、400人以上いる一族を束ねていたりするから、人を従わせることに慣れてもいるのだろう。そんな武士の言動には逆らいがたいものがある。物語の中ではあまりそのリーダーシップを発揮するシーンはなかったけれど、ことが起これば自然に指揮をとってしまう体質というのが、この武士には備わっているみたいだった。
 アフルの自宅前に路上駐車してある黒澤のパルサーに近づいて、武士は自然に運転席に回っていた。オレはまたしても助手席のドアを開けて、それまで黙っていた武士に訪ねた。
「確かめたいことって?」
「未子は薫が潜入するだろう場所をいくつかピックアップしていた。様子を確かめてみるつもりだ」
「運転できるのか?」
「俺は免許を持ってる」
 なるほど、武士は無免許のオレやアフルよりは遥かに信頼できるドライバーらしい。
「で、どこへ向かうつもりなんだ?」
 エンジンをかけてアクセルを踏んだ武士は、反転して来た道を戻って、次の信号を南に曲がった。この道は、オレとアフルとがさっき辿った道だ。しばらく走るとアフルと再会した新都市交通の駅付近の道路に繋がっていく。
「一番確率が高い場所へ行ってみる。薫が通う高校だ。巳神、道案内を頼む」
 アフルと会う前に、オレが向かおうとしていた、オレたちが通う高校。
 やっぱりあの高校は、野草にとってかなり重要な場所なんだ。1日の多くの時間を野草は学校で過ごしていたし、アフルや葛城達也が出てくる物語ではその舞台にもなった。主人公の少女が自殺したのもあの学校だった。野草が死に場所を選ぶとしたら、やっぱり一番確率が高いのはあの高校なんだ。
 オレと野草が通う高校。沼の北側に位置することから名づけられたその名前は、沼北(しょうほく)高校という。
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蜘蛛の旋律・74
 後部座席に巫女と武士、助手席にオレを乗せて、アフルが運転するパルサーは来た道を戻っていった。グレーの街並みから文字のない架空の町を通り過ぎてしばらく。黒澤の車にはなぜか助手席用のルームミラーがついていて、その中に映る巫女はみるみる様子を変えていった。疲れたようにぐったりして武士にもたれかかって、武士が抱き寄せると目を閉じてそのまま動かなくなったのだ。やがてアフルの自宅に到着する頃には、自力で立つこともできないようで、2階のアフルの部屋へは武士が抱きかかえて運んでいった。
 あまり片付いていないとのアフルの言葉はどうやら謙遜だったらしい。オレの部屋よりは遥かにさっぱり片付いている部屋のベッドに巫女を寝かせると、武士はアフルを振り返って言った。
「すまない。このまま1時間くらい寝かせてやってくれ」
「そんなもんでいいの? ずいぶん疲れてるみたいだけど」
「それ以上休んでは来た意味がないだろう。未子が休んでいる間に俺はちょっと確かめたいことがある。アフル、その間未子を頼む」
 アフルはちょっと驚いたように武士を見上げた。
「僕なら大丈夫だよ。あと8時間くらいノンストップで動けるって」
「休むべきところで休むのも戦士の仕事だ。どうやらお前よりは巳神の方が体力はありそうだからな」
 そういえば、アフルは葛城達也との空中戦で、かなり体力を消耗しているはずなんだ。アフルが平然としていたからぜんぜん気付かなかった。これから先、葛城達也と超能力戦でもやる羽目になるのなら、アフルにはちゃんと体力を回復させておいてもらわないと大変なんだ。
 武士はそのあたりのことをちゃんと判って、アフルの体力を気遣っているんだ。
「巳神、一緒に来てくれ」
 だけど武士は、駅から黒澤のアパートまで自力で走りぬいたオレの体力を気遣う気はないようだった。
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蜘蛛の旋律・73
 オレは巫女に訊きたいことがたくさんあって、だけど頭の整理がつかずに視線を泳がせていた。巫女もオレのそんな様子を察したのだろう。オレが話し始めるのを、微笑みながら待っていてくれた。だけどオレはけっきょく巫女に何も訊くことができなかった。後ろに立っていた武士がオレと巫女との間に割り込んで、待ったをかけるように肩に手を乗せたからだった。
「未子は竜を操って疲れている。話はあとにして、どこか休む場所を貸してくれないか」
「いいよ、武士。それより早く薫のところに行かなきゃ」
「駄目だ。……巳神信市、未子が休める場所に心当たりはないか」
 武士の存在感は圧倒的で、オレはすっかり気圧されてしまっていた。……確かに、巫女がずっとあの竜を操っていたのなら、かなり疲れてもいるのだろう。休める場所を手配できるのならしてあげたいところだ。だけど、オレはもともと地元の人間でもないし、心当たりといえば黒澤弥生のアパートくらいしかないんだ。……無理だろうな。あそこでは今黒澤が小説を書いているし、奴の部屋には3人の人間すら入れないと言っていたくらいだから、そうそう片付いてるとも思えないし。身体を休めるどころの話じゃないだろう。
 オレが答えられないでいると、横からアフルが口をはさんだ。
「もしよかったら、僕の部屋に行かないかい? それほど片付いてはいないけど、父も母もそろそろ眠ってる時間だから、ひと休みすることくらいならできると思うよ」
 アフルの言葉に、武士はオレの肩から手を離して、身体ごとアフルに振り返っていた。
「そうさせてくれるなら助かる」
「決まりだね。さあ、2人とも車に乗って。巳神君も」
 まるで自分の車に誘うような言い方だ。この車を調達して、倒れていたアフルを拾ったのはオレなんだけど。
 この場をアフルにさらわれて、主役のはずのオレはすっかり脇役に回されてしまっていた。
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蜘蛛の旋律・72
「どうもありがとう。無理なお願いをして悪かったね」
 巫女がそう言ってドラゴンを仰ぐと、ドラゴンは1つ鼻息を吐いて、また上空の破れ目に向かって発っていった。……それにしてもすごいセンスの生き物だ。オレはあのドラゴンが出てくる小説を読んだことはなかったけれど、あんなのが出てくるとしたら童話かファンタジーといったところで、現実をモチーフにしたSF小説を専門にした野草の小説にはまったく不釣合いだったことだろう。
 空中から視線を戻すと、地上では巫女とアフルが相対していた。巫女の後ろにいるのは、巫女の父親違いの弟、武士だ。2人ともシーラが教えてくれた自我を持ったキャラクターで、子供の葛城達也も含めて、これでオレはすべてのキャラクターを見たということになる。
「パラレルワールドを移動する能力を持った竜、か。そんなキャラクターまで実体化していたとはね」
「私の屋敷の周辺以外はほとんど『無』に浸食されていたからね。車や乗り物を使うよりも、彼女に頼むのが一番安全で早かったんだ。私の呼ぶ声に答えてくれるまで、ちょっと時間もかかったんだけどね」
「なんにしても助かったよ。巫女、君がいてくれるのとくれないのとでは戦力が違いすぎるから」
 巫女の話では、どうやら宮城の方はほとんどの風景が破壊されてしまっているみたいだった。アフルと少しの会話を交わしたあと、巫女はオレを振り返り、近づいてくる。小説の設定では、武士の方はかなり不細工で醜い顔をしていて、18歳の年齢に見合わないほど老けてもいた。同じ母親を持つ巫女の方はそこまでではなかったけれど、やや三白眼な十人並みで、間違っても美人とは言いがたかった。
「初めまして、非村未子です。後ろにいるのが弟の武士で、地這い一族の仮長です。小説を読んだことはあるよね」
「あ、はい」
 この小説、実はかなり複雑で難しかったんだ。基本的には世の中に巣食う魔物を退治する、その準備をする話で、地這い一族は約千年も血の浄化を進めている。巫女はその一族の代々の巫女の中に転生を繰り返して、一族を正しい流れに導いてきたんだ。彼女は未来を読むことができる。だから、彼女は野草を救う一番正しい方法を知っているかもしれないんだ。
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蜘蛛の旋律・71
 それまでまったく気配のなかった野草の下位世界。灰色の風景は無音で、なのにその時、異様な音がオレの鼓膜に届いてきたのだ。低く響くような、まるで何か生き物の咆哮のような音。それはだんだん近づいてくる。オレはアフルと顔を見合わせて、音のする方角を見つめていた。
 空に開いた巨大な破れ目から聞こえてくる。ややあって、破れ目に姿を現わしたのは巨大な生き物だったのだ。
「ウオーン!」
 一声鳴いてギロリとこちらを伺う。破れ目を乗り越えるようにこちらにやってくる。いきなり灰色の世界に現われたのは、パステルカラーの不思議な色合いをした、まるで童話の中に出てくるようなドラゴンだったのである。
 オレは魅せられたかのように動くことができなかった。ドラゴンは空中を舞いながらオレたちに近づいてくる。怖かったのだけど……それよりも感動の方がはるかに大きかった。キラキラと色を変えるウロコは神秘的なまでに美しくて、オレに逃げることを忘れさせた。隣に立っていたアフルもどうやら同じことを感じていたらしい。あまりに綺麗過ぎて、もしも襲われて命を失うのだとしても、その寸前まで目を離したくないと思ってしまっていたのだ。
 ドラゴンは、オレとアフルを襲いはしなかった。寸前で近づくのを止めて地上に降りてくる。周りの建物の屋根よりもはるかに高いところにドラゴンの顔はあった。その顔は、どこかやさしい雰囲気を醸し出していた。
「……巫女、君も来てくれたんだね」
 オレの隣でアフルが言った。驚いて更にドラゴンを凝視する。まさか、このドラゴンが巫女なのか? 巫女の外見は普通の20歳の女性で、オレが読んだ「地這いの一族」という小説にはそんな設定はなかったはずだ。野草の下位世界にいるのだから、このドラゴンも野草のキャラクターには間違いないのだろうけれど。
 オレが訳の判らない出来事に必死で解釈をつけていると、上空から女性の声が響いてきた。
「遅くなって悪かったね。これでもできる限り早い方法を使ったつもりなんだけど」
 そうして、頭を下げたドラゴンの背中から下りてきたのは、巫女の衣装をまとった1人の女性と、強靭な肉体を持った1人の男だったのである。
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蜘蛛の旋律・70
 街はいつの間にか色を失って、濃淡の異なるグレーに染められている。白黒写真か墨絵のようだ。文庫小説の挿絵のようにも見える。下手な漫画家の背景のように、生活感というものもまったくなく、もちろん人影も一切なかった。
 紙に描かれた風景に見えるのは空に破れ目があるせいでもあるだろう。街並みはかろうじて立体感を保っていたけれど、背景の空は舞台装置の書き割りに見える。まるで喰い千切られたかのように破れて、端が捲れ上がった穴の向こうには何もなかった。見ているものを上手く表現することができないけれど、その破れ目の向こう側には、無の雰囲気が無限に存在しているのだ。
 アフルが車を停めてドアから下りる気配につられて、オレも車の外に出ていた。野草の下位世界にほころびができ始めている。黒澤が言ったその言葉の意味を、オレはここで知ることになったのだ。
「どうやらこの先には行けそうにないね」
 アフルが言った。……たぶん、行けないということはないだろう。ただ、この先車を進めたとして、無事に帰れる保証は限りなくゼロに近い。
「野草の下位世界はここでおしまい、ってことかな」
「僕には判らないよ。でも、薫はもっと北の方も小説に書いてる。君も知ってる『地這いの一族』という小説には宮城県まで描かれているんだ。青森で税理士をしている脇役も出てくる。その場所が薫の下位世界に存在している以上、北に向かえばいつかは辿り着けるはずだよ」
 たぶん、野草の下位世界が形を留めていさえすれば、この灰色の道は宮城にも青森にも通じているのだろう。だけど世界は壊れ始めている。今はこの破れ目が広がる気配はないけれど、弱い部分から徐々に破壊は進んで、いずれは世界全体を飲み込んでいくのかもしれない。
 黒澤が予言した5時20分頃には、いったいどれだけの世界が残っているのだろうか。
「巳神君」
 アフルが言って、オレは顔を上げた。アフルの顔に緊張が走る。その緊張は、すぐにオレにも伝染した。
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蜘蛛の旋律・69
 オレたちが今走っている道路というのは、市町村の境にあたる県道で、両側に民家と店が並んでいる。交差点付近以外は個人経営の店が多いんだ。田舎でもあるから、たまに畑や田んぼも見ることができる。
 信号を過ぎてからも同じような風景が続いていた。だけど、街灯に浮かび上がる風景はどこかが違う。アフルは車をゆっくりと走らせていたから、オレはきょろきょろと道の両側を見ながら、何が違うのかを見極めようとした。そして気付いたのだ。店だと思われる建物に掲げられた看板、それらは色はついているけれど、肝心の文字が一切書いていなかったのだ。
「……看板に文字がないね。表札も真っ白だ」
 そう口にしたアフルはどうやらかなり目がいい方らしい。オレの視力では暗闇の表札まで読み取ることはできなかった。
「架空の街、ってことか?」
「そう考えていいね。僕は現実の世界でもこの道を辿ったことがあるけど、さっきの信号から100メートルくらいくるとT字路に突き当たって、その先に道はないんだ。なのにここではずっとまっすぐの道が続いてる。薫は本当の道を知らないから、自分の頭の中でこの街道を作り上げてしまっているんだね」
 アフルはずっとゆっくり走り続けていたから、オレはしばらくの間、その異様な風景を眺めていた。道は時々カーブしながら延々と続いている。特徴のない風景の繰り返しはオレに、もうもとの場所には戻れないかもしれないというような不安を抱かせた。
 いったいいくつの信号を過ぎただろう。ふと顔を上げて空を見上げると、そこには現実にはありえない情景が浮かび上がっていた。
「アフル、あれ……!」
「……ああ、僕も見てるよ」
 空に、まるでそこだけ喰い千切られたかのような、巨大な破れ目が口を開けていたのだ。
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蜘蛛の旋律・68
 もしも、野草の前に現われた最初のキャラクターがアフルだったら、結果は違っていたかもしれない。
 それとも、誰が最初であろうと、最終的には野草は葛城達也の言うことをすべて信じたのだろうか。
「……それで、葛城達也が本屋を爆発させて、野草を殺そうとしたのか」
 そう口にしてから、この一見筋が通っている風に見える理屈にも、大きな矛盾があることに気が付いていた。
 なぜなら、野草があの小説を完成させたのは、今から1ヶ月も前だったんだ。その時に野草が死にたいと本気で思ったのならば、すぐに葛城達也に殺してもらうことだってできただろう。葛城達也は人の命の重さを感じない冷徹な超能力者だ。野草を苦しめずに殺すことだってできたんじゃないだろうか。
 そりゃあ、野草はまだ高校生で、夢や希望もたぶんたくさんあって、将来書きたい小説も山ほどあっただろう。プロの小説家になりたいと思ってたかもしれない。でも、野草が小説を書くことは現実を小説の通りに塗り替えてしまうことで、それが野草の自殺願望の元凶なのだとしたら、野草が生きることは苦しみを生み出す以外に何もないんだ。できるだけ早くこの苦しみから逃れようとするのが当然なんじゃないだろうか。
 それとも、野草にはまだ、現実に未練があったのだろうか。書き続けることで生まれる苦しみをも凌ぐほどの、大きな未練が。
 もしかしたら、それを探ることは、野草を救うことに繋がるのかもしれない。
 アフルはどうやらオレの表層意識を読み取っているようだった。だけど何も言わずに運転を続けている。僅かに苦味の含まれた笑顔を頬に貼り付けたまま。
 オレが話し掛けようとする気配を感じたのか、それをさえぎるようにアフルは言った。
「そろそろ左側に見えてくるよ。あの家が薫の友達の家、小説の中では主人公の親友の家だ。……ここから先が、薫の下位世界には存在しない風景になる」
 オレにはアフルが言ったその家を特定することができなかったけれど、次の信号を通り過ぎた時、風景は明らかに変貌を見せ始めたのだ。
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蜘蛛の旋律・67
「僕は、薫に会えなかった。薫は近くの高校に通っていて、自転車で20分も走れば簡単に会うことができる。どんな想いで僕という人間を創造したのか、あるいは僕の未来はどうなるのか、それを確かめることができる。自分の運命、宿命、すべてを知ることができる。……本当に怖かったよ。僕の運命を握っている人がいるっていう事実はね。だけどもしかしたら、あの時薫を訪ねていれば、薫の運命は違っていたかもしれない」
 アフルは自分がアクセルを踏み込んでいることに気付いていないように見えた。
「それはどういう意味だ? 野草が事故に遭わなかったかもしれないのか?」
「僕は会いに行けなかった。だけど、葛城達也は行ったんだ。新都市交通がモノレールに変わって、高校の名前が変わって、地形も街並みもすべて変わってしまった事に絶望した、薫のところに。病院で眠る薫に手を触れた時、何が起こったのか、知ることができたよ。薫の心は既にあの身体の中にはなかったけど、薫の記憶は身体に残されてた。……書き上がったばかりの小説を文芸部の仲間に渡して、風景の変化に気付いたのは学校からの帰り道だった。訳が判らなくて、自宅に戻って布団をかぶったまま薫は心の中で呼びつづけた。『達也、どうしたらいい?』って。 ―― 傷ついた時の癖だったんだ。まさか、本当に葛城達也が実在していて、この呼びかけに応じてくれるなんて、薫は思ってもみなかったんだ」
 オレは覚えている。野草があの長編小説を持ってきた1ヶ月前、完徹した時のように憔悴していて、だけどあまり変化の現われないその表情にも、達成感のようなものが浮かんでいたんだ。
「葛城達也が、野草に死ねって言ったのか?」
 奴なら言いかねない。人の命の重さを理解することのない葛城達也ならば。
「それに近いことをね。葛城達也は、『薫を殺してやる』って言ったんだ。世界を元に戻すためにはそれしかない、って」
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蜘蛛の旋律・66
 道はほぼ北に向かって一直線で伸びている。オレは地元の人間ではなかったから、このあたりになるとさっぱり判らなくなってくる。野草の小説に出ていた公園が右手に見えて、同じ交差点には東高校入口の表示がある。アフルが初めて小説に登場した場所だ。この東高校が、アフルの通う高校として設定されている。
 アフルは割に真面目な性格なのかもしれないな。きちんと法廷速度を守っていて、信号でもちゃんと止まっていた。少し先の信号で止まった時、アフルは言った。
「ここを右に折れると、僕の家があるよ。小さなラーメン屋をやってるんだ」
 アフルは小説の中では脇役だったから、もちろん家業なんか一切出てこなかった。本当に野草の小説の設定は緻密だ。ほんのチョイ役の自宅まで設定してあったのだから。
「初めてオレと会った時、野草に言ってたな。僕が悪かった、って。どういう意味だったんだ?」
 再び信号が変わっていたから、アフルはオレを振り返らずに答えていた。
「シーラがこの世界の構造を知ったのは、薫が事故に遭ったあの瞬間だったみたいだね。でも、実は僕はもっと前から知ってたんだ。……たぶん、あの小説が完成した、9月半ばあたりからね」
 オレは驚いて運転席に身体を乗り出した。オレの気配に、アフルはちょっと視線を向けて、苦笑いのような表情を作る。
「知ってたって……。自分が小説の登場人物だって事をか? それを知ってて平気で生活してたのか?」
 信じられなかった。シーラはそれを知った瞬間、自分の存在にものすごい失望を覚えたんだ。オレでも失望すると思う。なのにアフルは、それから約1ヶ月間も、平静に生活していたっていうのか?
「もちろん平気ではなかったよ。いろいろ考えたし、失望もした。僕は超能力者だったから、世界の構造は自然に見えてしまうんだ。たぶん、超能力者として作られたキャラクターは、みんな知っていたと思う。
 巳神君、もしも自分が作られたキャラクターだと知って、手を伸ばせば自分を作った人間に届くとしたら、君ならどうする? 創造主に会いたいと思うかい?」
 その問いかけに、オレは沈黙で答えるよりなかった。
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蜘蛛の旋律・65
 葛城達也は、爆発事故のあの瞬間、子供の姿で自我を持った。それは、野草の中では子供時代の葛城達也が一番印象深かったからだ。野草の下位世界を上位世界の時間に当てはめると、アフルが出てくる小説が一番現代に近い。現代の時間では、葛城達也は27歳で、シーラは15歳だということになる。
 オレは、それまで一番気になっていたことを、アフルに訊いてみた。
「アフル、あんたはどうして葛城達也を追ってたりしたんだ?」
 アフルに関しては、謎はそれだけじゃないんだ。野草の病室に最初に現われた時口にした「僕が悪かったのかな」という言葉の意味も。
「あのさ、巳神君。まさか君は信じてないよね。火の気のまったくない普通の古本屋がいきなり爆発を起こしたのが、単なる過失か偶然だ、なんてことは」
 ……確かにそうだ。レストランやガソリンスタンドや、いわゆる火の気の多い場所で過失で爆発が起こることはあるかもしれない。だけど、古本屋がそう簡単に爆発するなんて、誰かが意図的にやったとしか思えないじゃないか。
 自分の下位世界が現実世界に影響を与えたと知って、野草は自殺願望を持った。すでに実体化していた野草のキャラクターがその願いをかなえようとしたところで不思議はない。現在に実在していた葛城達也は27歳で城河財閥の総裁だ。本屋に爆発物を仕掛けるよう手を回すことくらい、簡単にできはしないか?
「本屋を爆発させたのは、葛城達也だったのか?」
「僕はそう思ったんだ。だから葛城達也を探して、11歳の姿で実体化していた彼を見つけた。たぶん彼自身は自分が子供に戻ってしまうなんて思っていなかったんだろうね。必死で僕の追跡から逃げ回って、とうとう自分を成長させる術を見つけてしまった。僕の力では14歳の葛城達也にも勝つことができなかったんだよ」
 どうやら、この葛城達也という人物が、この世界の様々な鍵を握っていることは確かなようだった。
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蜘蛛の旋律・64
「薫の小説にはその物語が西暦何年の話なのか、割にはっきり書いてあることが多いんだ。もちろんそうじゃないこともあって、割合としては半々くらいになるのかな。僕やシーラは大雑把に言えば同じシリーズの登場人物だ。このシリーズにはだいたい葛城達也が登場するか、しないにしても名前くらいは出てくるから、彼のその時の年齢から物語の年代を推測することができる。当然登場人物の年齢も計算できるね。その計算でいくと、僕はシーラよりも2歳年上になるんだ」
 アフルの話でオレが思い出したのは、アフルの小説の中でのある事件が、シーラの小説の中では3年前の出来事として語られていたことだった。アフルは17歳。シーラは18歳。その計算だと、確かにシーラの方が年下なんだ。それなのに、今この野草の下位世界では、物語当時の年齢で2人とも存在していることになる。
「野草のキャラクターは現実世界では成長してなかったって事なのか?」
「それが違うんだ。僕たちは確かに『その時代』に存在していた。僕が出てくる話にはもう1つ、近未来の話もあるんだけど、その時僕は34歳で、風景は確かに今より未来の世界だったよ。僕たちは、君達がいる上位世界の中で、時間を超えて存在していたんだ」
 要するに、野草のキャラクターは、未来や過去にタイムスリップしていたって事なんだ。
 そして、野草の下位世界は、そのすべての時間に影響を与え続けてきたことになる。
 野草は人の記憶や過去だけではなく、未来すらも操っていたんだ。
「で、葛城達也の話に戻るけど、薫は彼の物語を、10歳から11歳まで、14歳、27歳、30歳、40歳、44歳、50歳……その後もずっと、数え切れないほど書いてるんだ。だから、葛城達也は物語が書かれるたびに、まったく違った年齢で、時代で、場所で、数え切れないほど実体化していたということになる。葛城達也は薫の下位世界が現実世界と分離した時、11歳の姿で現われたんだ。理由は簡単だ。薫は11歳の葛城達也の物語をまだ完成させていなくて、事故に遭う前日までその物語の続きを書いていたんだ」
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蜘蛛の旋律・63
 アフルが出てくる小説は、主人公が伊佐巳という15歳の少年で、相手役の少女が16歳のミオだった。伊佐巳とミオは義理の姉弟にあたる。その2人の義理の父親として出てくるのが、27歳の葛城達也だった。
 物語は、ずっと2人の少年少女を追っている。葛城達也は時々画面に登場して、物語をかき回してゆく。絶大な力を持った超能力者で、一言で言えば異常な人間だった。人を人とも思わない冷徹さと異常な暴力、性行。彼の存在ゆえに主人公の2人は人格を歪められてゆく。葛城達也率いる反社会的な組織に関わって、ほぼ日常的に犯罪を犯していた。
 アフルも同じ組織の一員だ。小説のラストシーンでアフルは、ミオの自殺を見届けた1人になった。だけど、アフル自身は単なる脇役なんだ。アフルもだし、それに、葛城達也だって完璧な脇役だったんだ。
 シーラに教えられたあのときには気付かなかった。他の物語はすべて主人公が自我を持ったのに、この物語に限ってだけは、主人公ではなく脇役の2人が自我を持ったのだ。
 自我を持つか持たないかが野草がどれだけ感情移入できたかで決まるのなら、なぜ伊佐巳ではなくアフルや葛城達也だったのだろう。
「……ああ、そうか。巳神君は、薫が書いた小説を全部知ってる訳じゃないんだね」
 アフルが言って、オレは理解した気がした。27歳の青年ではなく子供の姿をしていた葛城達也。野草はおそらく、葛城達也が子供時代の小説を書いていたのだ。
 ……そうだよな。作者にものすごく気に入ったキャラクターがいたとしたら、いろいろな小説の中で何回も登場させることだってあるんだ。続編とか、シリーズとか。その中では子供だったり大人だったりすることだってある。葛城達也は、オレが読んだ小説の中で、たまたま脇役だったに過ぎなかったんだ。
「葛城達也は今は子供の姿をしていたってことか? それとも、たくさんの葛城達也が存在するのか?」
「1人しかいないよ。自我を持った瞬間は、彼は子供だったんだ。……やっぱり最初から話してあげないとダメみたいだね」
 そう言ったアフルは、前にシーラがオレを「どちて坊や」と呼んだ時と、同じ表情をしていた。
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蜘蛛の旋律・62
 アフルはオレの心を読んでいて、どうやらオレが今まで体験したシーラや黒澤弥生との会話も、片桐信や古本屋の老人との経緯なんかも、ぜんぶ承知しているようだった。だけどオレの方はもちろんそうはいかなかった。アフルが言った場所まではかなり距離もあったから、オレはその時間を利用して、気になることをアフルに訊いてみることにした。
「さっき、どうして道路で倒れてたりしたんだ?」
 思い出してみると、オレがアフルを見つけたとき、アフルは既にあそこで倒れていたんだ。
「ちょっとね、子供だと思って一瞬油断したんだ。そうしたらいきなり成長して、それに伴って力も上がった。思い切り衝撃波を喰らっちゃったよ。それで、落ちたところがあの場所だったらしい」
 どうも、野草のキャラクターというのは、総じて説明が下手な傾向にあるらしい。今思えば、黒澤はかなり判りやすい説明をしてくれたんだ。シーラもアフルも、相手がどの程度理解しているのか、そのあたりを見誤っている気がする。
「もっと最初から噛み砕いて判りやすく話してくれないか?」
 オレが言うと、アフルは苦笑いのような表情を見せた。
「ええっと、巳神君の最初はどこだろう。……ここが薫の下位世界なのは知ってる。僕が薫が書いた小説のキャラクターだって事も判ってる。そのキャラクターの中で、誰が自我を持ったのかも知ってるね。ああ、そうか。判らないのは僕が追いかけていた人間がその中の誰だったのか、ってことか」
 まどろっこしい男だな。超能力者ならもっと、スパッと理解してくれてもいいじゃないか。
「あのね、巳神君。僕は接触感応が専門で、相手に触れていないときの感応力はそれほど強くないんだ。表層心理くらいなら何とか読めるんだけどね」
「何でもいいから教えてくれよ。あんたが追いかけてた子供、あれはいったい誰だったんだよ」
 もしかしたら、オレはアフルにからかわれていたのかもしれない。
「葛城達也。城河財閥の総裁にして、僕が所属する組織の総元締め。そして、薫が一番愛情を注いで作り上げたキャラクターだよ」
 オレはそのアフルの言葉を即座に信じることができなかった。
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蜘蛛の旋律・61
「ええっと、この車は黒澤弥生のものか。僕も同行して構わないかな」
 相変わらずオレの心を読んでいるらしく、アフルは返事を待たずに運転席のドアを開け、勝手に乗り込んでいた。運転席を陣取られてしまったから、オレは仕方なく助手席の方に回る。助手席の鍵が開いた音がしたけれど、アフルが手を触れた様子はなかった。たぶん超能力だったのだろう。ちょっと不気味ではあったのだけれど、オートロックだと思うことにしてオレは助手席に乗り込んだ。
「運転できるのか?」
 アフルだってオレと同じ17歳だ。無免許なのは間違いない。
「研究所のドライビングシュミレータで慣らしてあるからね。たぶん巳神君より多少マシだと思うよ」
 確かに、高速道路の渋滞中におじさんのベンツの運転を代わったことがあるだけのオレとは、それこそ天と地ほどの差がありそうだった。
 慣れた手つきでギアを変えると、アフルは車を発進させた。そのまま高架沿いをまっすぐ進むと、オレや野草が通う高校と同じ名前の新都市交通駅がある。最終は確か夜11時台まであったから、駅にはまだ煌々と明かりがついていて、いつ列車が来てもおかしくない感じだ。だけどここには駅員の姿も、人の気配もまったくない。それだけ確認してアフルはまた車を動かした。
「巳神君、ちょっと確かめたいことがあるんだけど、つきあってもらってもいいかな」
 このあとオレは高校の方に行ってみるつもりだったのだ。たぶんそれを判っていて、アフルはそう訊いてきたのだろう。
「どこへ行くつもりなんだ?」
「ここから北の方に行くと、僕が通っている高校があるんだ。その先には僕の家があって、更に向こうには薫のクラスメイトの家がある。僕が出てくる小説の設定だと、その家は主人公ミオの親友、白井佑紀の家ということになってるんだけどね。……で、その先については何の設定もしてない。だから確かめたいんだ。薫が小説に設定しなかった場所、正確に言うと、薫が今まで行ったことのない場所が、今どうなっているのかをね」
 確かにオレにも興味がある。野草は現実の風景を正確に描写して、ところどころで小説の設定と入れ替えていた。そのどちらにもあてはまらない、野草が見たこともなく小説にも書かれなかった場所が、野草の下位世界で今どうなっているのか。
 言葉で返事をすることはしなかったけれど、アフルは進路を変えて、まっすぐ北へ向かっていた。
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蜘蛛の旋律・60
 暗闇の中の人影は、車の前に回るとうずくまるようにそこにいた。バンパーから約1メートルくらいのところだ。たぶん轢いてはいないはずだけど、その人は動く気配を見せなかった。
 すぐに駆け寄って助け起こす。どうやら気を失ってたらしいな。仰向けにさせると、直接あたるヘッドライトの眩しさを感じたのか、うめきながら身体を動かした。
「おい、大丈夫か?」
 目を開けて、それでオレはおそばせながら気がついたんだ。倒れていたのが、オレが最初に野草の病室で会って、そのあと病院近くの空中で誰かを追いかけていた様子を目撃した、あのアフルストーンであるということに。
「ああ、……油断した……」
「どうした? オレ、当てちまってたか?」
「……あれ? ……巳神君……?」
 アフルもオレの存在に気付いたようで、割にしっかりした動作で起き上がった。その様子で、どうやらオレも初の単独無免許運転でいきなり交通事故という、不名誉な記憶は残さずに済んだらしいことを知った。立ち上がった後、一瞬バランスが取れないようなふらつき方をしたけれど、本当に一瞬だけですぐに歩き出した。とりあえず、ヘッドライトが当たらない運転席のドアの前まで。
「いったい何があったんだ? ……少し前、空中で追いかけてたあれはなんだったんだ?」
「……見てたのかい? ぜんぜん気付かなかったけど」
「ちょうど野草の病院の上空だった。……あの子供はどうしたんだ?」
 アフルはすぐには答えなかった。
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