2001年05月の記事


蜘蛛の旋律・110
 アフルと武士は、いったい何人のキャラクターを殺したのだろう。そしてオレは、いったい何人のキャラクターの死を見、その名前を呼んだのだろう。
 3階の渡り廊下は、今は襲い掛かるキャラクターのすべてが消えて、一瞬の静寂に包まれていた。オレたちの正面には、野草と葛城達也が潜んでいるはずの地理準備室がある。そしてそのドアの前に立つのは片桐信。オレにそっくにな、オレをモデルに作られたキャラクターだった。
 もしも片桐が襲ってきたならば、武士とアフルとが2人がかりで片桐を阻止して、オレも含めた4人のうちの誰かは命を落としたかもしれない。だけど片桐が襲ってくることはなく、武士とアフルもこちらから襲い掛かることはしなかった。
 もはや、野草のキャラクターの中で残っているのは、武士とアフル、シーラと巫女、それに、片桐信と葛城達也だけだった。
 今、片桐はまっすぐな視線に憎悪を込めて、オレを見つめていた。
「……どうして、オレを憎むんだ?」
 初めて野草の病室で会ったときから、オレはずっと気になっていた。恐怖もあったのだけど、今はアフルと武士が守ってくれてもいたから、オレは片桐にそう訊くことができた。自分で見てもよく似ていると思う。ドッペルゲンガーに出会った人間というのは、みんなオレと同じような恐怖を感じたのだろう。
 自分と同じ容姿の人間に憎まれるというのは、それでなくても気持ちのいいものではなかった。
「お前が薫に声をかけたからだ。……どうして、薫に声をかけたんだ」
 オレは片桐の言葉の意味が判らなかった。……奴はいつのことを言ってるんだ? オレは野草とはクラスも違ったし、部活の時以外偶然会うようなこともあまりなかった。移動教室ですれ違えば挨拶くらいはしたけど、片桐が憎しみを持つような変なタイミングで声をかけるようなことはなかったはずだ。
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蜘蛛の旋律・109
 虚無が迫ってくるスピードは、アフルの自宅近くなどとは比べものにならなかった。半径が狭まれば当然速度も速くなる。あまり長い時間ここにこうしている訳にはいかないようだった。
「そろそろ行くぞ。未子、大丈夫か」
「今更私を心配する必要はないよ。ここまできたら死ぬか生きるか2つに1つだからね」
「アフル」
「僕も大丈夫。延髄の一部を破壊してるだけだからね、たいした力は使ってない」
「シーラは」
「……大丈夫。早く薫のところに行きたいだけ」
 武士はオレには何も訊かず、全員の先頭に立って職員室を出る。……まあ、確かにオレは校舎に入ってからは何もしていないのと同じなのだけど。
 再び3階に続く階段を上がると、既に攻防が始まろうとしていた。葛城達也の側近の三杉に如月。突破して更に進むとレイリスト、サーヴァス、アルティナ、ルレイン。3階の渡り廊下の手前では名前の判らない少女が2人。野草の人物描写は詳細だったから、オレが読んだことのある小説の登場人物はほとんど判った。判らないキャラクターはオレが知らない小説の登場人物だからだろう。
 渡り廊下で戦闘を繰り返す武士とアフル。どちらにも疲れが出てきていることを、見守るオレは感じることができた。葛城達也はもうオレの背後にキャラをテレポートさせてくることはなかった。オレは視界に映るキャラの人数を調節しながら、少しずつ、渡り廊下に近づいていった。
 やがて、オレが渡り廊下のすべてを見回すことのできる位置まで来た時、オレは初めて、そこにあの片桐信が立っていることを知ったのである。
 武士とアフルの最後の戦闘を見守りながら、オレはずっと、片桐信の憎悪の視線を頬に感じていた。
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蜘蛛の旋律・108
 武士もアフルも、まるで殺人マシーンのように、次々と襲い掛かるキャラクター達を殺してゆく。アフルの小説のオープニングに現われた5人の子供達は皆ナイフを持っていた。教師のロウ、ミオの部下のバート、友人の麻月直子や白井佑紀、敵の組織の河端倫理。オレの姿を見つけたキャラクターは次々と廊下の向こうから駆け寄ってくる。武士の弟の礼士、礼士の友達の智之、仁、義彦、信吾 ――
 背後にテレポートしてくるキャラを、巫女とシーラが倒していく。一撃で殺す力は彼女達にはないけれど、巫女は地這い拳で操り糸を切り、シーラは体術で重症を負わせていった。九段一族の白髪の長九段、地這い一族の税理士相馬、医師の岡安、長老高階、そして多くの地這い一族の者たち。
 武士の拳の威力は衰えず、勢いはとどまらなかった。葛城達也は手に余るほど多くのキャラクターをテレポートさせてくることはなかった。まるでオレたちを弄って楽しんでいるかのようだ。あるいは本当にそうだったのかもしれない。
 いったい、何がどうなっているというのだろう。オレはなぜここにいるんだ? 奇妙な違和感がオレにへばりついてはなれない。野草のキャラクターが次々と殺されていく様を、オレはただ黙って見ているだけだったのだ。
 やがて、2階にいたキャラクターは、すべて武士とアフルの手にかかり、塵になって消滅していった。同時に、テレポートしてくるキャラクターもいなくなる。戦いつづけた戦士達は呼吸を始め、僅かな休息を許されたのだ。
「巳神、少し休んだら3階へ行く」
 乱れた呼吸を整えながら、武士が言った。3階には野草がいるんだ。オレはまだ野草に伝える言葉を見つけられずにいるというのに。
「巳神君、みんなも、こっちへ来て」
 いつの間にかアフルが職員室の入口にいて、手招きをしていた。オレたちはアフルについて職員室に入り、教師達の事務机をかき分けて窓の外を覗いてみる。
 アフルの自宅から見た虚無。その空の破れ目はほとんど空全体を覆い尽くして、地上の虚無はもう、この高校の名前の由来になったあの沼の近くまでも迫っていたのだ。
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蜘蛛の旋律・107
 階段下に突然現われた人影は、オレの姿を見ると、とたんに階段を駆け上がってきた。さっきまでは確かにいなかった。その出現の仕方は、まるでテレポートしてきたような感じだった。
「シノブ!」
 シーラが叫んで、あわててオレの前に回りこむ。現われたのはシーラの物語に出てくるシノブという名前の男だ。細身で身長も高くなく、メガネをかけた優しそうな青年。シーラに淡い恋心を抱いていたその青年は、今はゾッとするような表情でシーラに向かってくる。
 近づいてくるシノブを待ち受けて、シーラは階段から蹴落とした。シノブはその10数段を転がり落ちてゆく。下まで落ち込んで動かなくなった。
 様子を察したアフルが戻ってきて、落ちたシノブを見て状況を理解したようだった。
「シーラ、怪我は?」
「……大丈夫」
「葛城達也が送り込んできたな。シーラ、後方の守りは頼むよ」
「判ってる。ぜったい巳神には触れさせないから」
「巳神君、2階まで上がってきて」
 なんだかゆっくり考えをまとめる暇もなくて、アフルのあとから階段を上がると、2階の渡り廊下には4人のキャラクターがいた。オレを見て、ほぼ同時に動き出す。一番近くにいたのはたぶんリュウだ。シノブと同じスパイチームのリーダー。待ち構えていた武士が拳を使ってリュウを倒していた。
 リュウはうめいて倒れ、姿を消す。武士が拳を使ったのを見るのは初めてだった。地這い拳では人を殺すことができないからだろう。次にタケシの拳の餌食になったのはリュウの仲間のナナ。武士は相手が女の子でもまったく容赦はしなかった。
 武士と同時に、アフルは2人の超能力者、金髪のユーカリストとすらりとした美少女レギーナの命を奪っていた。どちらもアフルと同じ組織の仲間だった。
 武士に手招きされて渡り廊下に出ると、視界が開けて更に7、8人のキャラクターがオレの前に姿を現わしていた。
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蜘蛛の旋律・106
 アフルはもしかしたらずっと以前から覚悟していたのかもしれない。操られていたタケシが校舎に飛び込もうとしたことを知ったときから、葛城達也がキャラクターを校舎に集めていることも、やがてそのキャラクターと戦わなければならないことも予知していたのだと思う。アフルは伊佐巳の死にほんの少しの動揺を見せたけれど、取り乱したり気力を失うようなことはなかった。どちらかといえば見ていただけのオレの方がうろたえていた気がする。
「巳神、大丈夫?」
 シーラに声をかけられて、オレは武士とアフルが再び歩き始めていることを知った。あわててオレもあとを追う。言ってみればオレはマネキンを動かすスイッチのようなものだから、武士やアフルの指示どおりに動かないと、彼らに負担をかけることになるんだ。
 伊佐巳がいた階段を再び上がっていく2人を目にして、オレは気付いて横にいるシーラに話し掛けた。
「自我を持たないキャラクターは、オレが近づかなければ動かないんだよな。だったら、オレは近づかないでいた方が、あの2人も倒しやすいんじゃないのか?」
 シーラは少しの間、オレの言葉が判らないような表情をしていた。だけど、それが判った時、明らかに怒ったような声で言ったのだ。
「動かないキャラを殺せってこと? ……なんか、巳神って時々信じらんない!」
 ……そうか? どうせ殺さなければならないんだったら、動かない相手の方が遥かに楽だし、体力の消耗も少なくなるはずだ。
「少なくとも武士には無理だね。っていうか、薫のキャラにはそれは不可能だよ。考えつきもしないんだ。……薫の中にそういう要素が存在しないから、キャラクターにも存在しようがないんだ」
 巫女の方が言葉は穏やかだったけれど、オレの考えに嫌悪感を抱いたのはシーラと同じようだった。
「自我がないキャラクターだって、私たちと同じだ。薫には私たちを殺す権利があるけど、私たちにだって生きる権利はある。そしてその権利は、自我がないキャラだって同じように持ってるんだ。生きるチャンスを与えずに殺すことなんか、私たちにはできないよ」
 巫女の言葉によってオレは自分の利己的な考えを恥じいっていた。その頃には、オレと巫女とシーラの3人は1階と2階の間の踊り場あたりまできていた。
 そのときいきなり、背後に人影が出現したのである。
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蜘蛛の旋律・105
「巳神、保健室まで下がってろ! 未子!」
「判ってる」
 伊佐巳がまっすぐにオレを目指して階段を下りてくるところ、オレはシーラと巫女に手を引かれて、あわてて保健室前まで戻ってきていた。武士とアフルは渡り廊下の中ほどまで下がって伊佐巳を待つ。オレが振り返ると、伊佐巳は既に渡り廊下まできていて、そのままスピードを落とさずにオレに向かってこようとしていた。間に立ちはだかるアフルと武士の姿などまるで見えていないみたいだった。
 その勢いを止めるように武士が体当たりを喰らわす。伊佐巳が僅かにふらついたそのとき、アフルが言った。
「武士、僕に任せてくれ」
 そうして武士がいったん身を引くと、アフルは伊佐巳の頭を両手で包み込むようにしたのだ。
  ―― いったい何が起こったのか、オレには判らなかった。
 伊佐巳は小さなうめきを残して、静かにその場に崩れ落ちた。アフルが抱きとめる。アフルの親友、葛城達也の息子の15歳の伊佐巳は、アフルの腕の中でやがて動かなくなり、気配を消した。そして、身体全体の細胞が吸引力を失うように、静かに崩れ、塵になり、あっという間に消えてしまったのだ。アフルはその様子をじっと見守っていた。残されたのは、抱きとめた形のままとどまる、アフルの姿だけだった。
「伊佐巳……ごめん……」
 伊佐巳は消えてしまった。……アフルは伊佐巳を殺したのだ。見守っていたオレにも、おそらく他のキャラクターにも、それは判ったはずだった。
 野草が生きることだけを考えたアフルは、10年来の親友をその手で殺したのだ。
 たぶんアフルは、親友を他のキャラクターの手に委ねたくはなかったのだろう。
「アフル……」
 オレが声をかけると、やっとアフルは立ち上がった。
「いろいろ判ったね。操られたキャラクターは、巳神君を見た瞬間に動き始めて、死ぬと塵になる。同時にたくさんのキャラに巳神君の姿を見せないようにすれば、何とかなりそうだね」
 そう言って振り返ったアフルの表情には、強引な作り笑いだけが貼り付いていた。
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蜘蛛の旋律・104
 目の前のまっすぐ続く廊下の左手には、保健室と3年生の教室がずらりと並んでいる。入口から10メートルも歩くと右手にHの横棒にあたる渡り廊下があって、校舎と渡り廊下に囲まれたところに中庭がある。右手の渡り廊下を突き当りまで行ったところが、Hの左肩にあたる生徒会室だ。階段はその生徒会室の前にある。アフルと武士は周囲を警戒しながら、まずはその階段を目指して歩いていった。
 2人から5メートルほど遅れてオレとシーラと巫女も後を追う。と、階段を上がりかけたところで、武士とアフルが足を止めたのだ。武士は手でオレに止まるよう合図を送ってきた。その緊張感は10秒以上も続いたから、オレは自然に足が震えてくるのを感じていた。
 オレの位置からでは階段の先に何があるのか見ることができない。やがて、まったく変化が起きる気配がないことを察したのか、武士がアフルに話し掛けていた。
「あいつは誰だ。お前の知ってる奴か?」
「僕の親友の伊佐巳だよ。物語の最後で葛城達也に記憶を奪われたんだ」
「動かねえのは記憶がないからか」
「いや、たぶん違うと思う」
 どうやら、階段の踊り場あたりに、野草のキャラクターの伊佐巳がいるらしい。伊佐巳はアフルの小説の主人公で葛城達也の息子だ。アフルと武士が近づいているのに何の反応もないのか。
 武士は何かを思いついたのか、オレに言った。
「巳神、ちょっとこっちにきてくれ」
 言われた通りオレは武士のところまで歩いていった。その位置まで行くと、踊り場で立ち尽くしている伊佐巳を見ることができた。だけど、オレがその場所に行った瞬間、今まで動きのなかったはずの伊佐巳はまるで息を吹き返したマネキンのようにいきなり動き始めたのだ。
「オレではない、異質なもの……」
 伊佐巳は、明らかにオレの存在に反応したのだ!
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蜘蛛の旋律・103
 沼南高校の2つ並んだ校舎は上空から見ると、ローマ字のHを縦に長くして、横棒をもう1本追加したような形をしている。2本の横棒のところに階段があって、校舎のどこからでも割に最短距離で移動できるんだ。それは学生生活を送る分にはすごく便利な構造なのだけれど、敵しか存在しない校舎内に少人数で攻め込むには、すごく厄介な構造だった。
 敵はどこからでもやってくることができる。オレたちを挟み撃ちにしようと思ったら簡単なんだ。そして、いったん多人数に囲まれてしまうと、オレという弱点を抱えるオレたちはほとんど終わりなんだ。これが将棋なら、オレたちは金銀飛車角のみのハンデ戦で、他ぜんぶの駒が配置された敵の陣に攻め込もうとしているようなものだった。
 オレと4人のキャラは、その2つの校舎のうち人の気配が多い校舎の様子を探るために、校庭の方に回ってみた。武士とアフルの意見は一致していて、一番人口密度が多いのは3階の地理準備室付近で、4、5階と1階にはほとんど気配はない。様子を見ながらまずは1階から侵入するのが最適だろうというのが2人の意見だった。
 そのまま校庭を周り、Hの文字の右肩付近までくる。3階の地理室はちょうどこの右肩の飛び出した部分で、そのすぐ下の横棒が交差するあたりが準備室だ。地理室の位置は1階では保健室の部分になる。武士が侵入場所に選んだのが、この保健室脇の非常口だったのだ。
 もしも最短距離を取ることができれば、地理準備室までは階段を2つ上がるだけだ。アフルは非常口のドアに近づいて、鍵の部分を見つめる。それだけでは結界が邪魔して鍵をあけることができなかったのか、一度手を触れるようにすると、やがてカチッと音がして鍵が開いたことが判った。
 まるで声を聞かれるのを恐れるかのように、戦士達に言葉はなかった。アフルが頷いて開いたドアを、まずは武士がくぐってゆく。そのあとアフルが、巫女が、シーラが入る。オレは中の様子を窺って、非常灯のみの薄暗い校舎の中にとりあえず誰もいないことだけを確認して、中に入り、ドアを閉めた。
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蜘蛛の旋律・102
 武士の言うことが本当なら、オレは校舎の中にいる操られたキャラクター全員の標的になっていることになる。オレが校舎に入ったとたん、中にいる全員がオレをめがけて殺到してくる。……考えただけでもゾッとする状況だ。オレにはケンカの経験はなかったし、たった1人の老人にだってあわや殺されそうになったのだから、老人よりも遥かにケンカ慣れしたキャラクター達にならあっという間に殺されるだろう。
「……オレが中に入らない、ってのは無理なんだよな」
「当然だ。お前が薫に会わなければ意味がねえ」
 このとき口をはさんだのはシーラだった。
「全員で巳神を守るしかないでしょ? 巳神のことはあたしが守る。ここまで来て怖気づいてないでよ」
 ……そうだ、オレは今までシーラや武士に守られっぱなしだったんだ。ここでオレが奮起しなければ、この小説のオレの立場って、ものすごく情けないものになるんじゃないのか? オレは小説のハッピーエンドのために召喚された勇者なんだ。何もしない傍観者のままで終わる訳にはいかないだろ。
 そんなオレの決心を読んでか、アフルが言った。
「まあ、けっきょくは巳神君をおとりにして、僕と武士が1人ずつ人数を減らしていくしかないだろうね。僕達が倒せなかったキャラは、申し訳ないけど巫女とシーラに何とかしてもらう」
「申し訳ないなんて言う必要はないよ。私も地這い拳は習得してるからね」
「あたしだって体術くらい習ってるよ。スターシップをあんまり見くびらないで」
 巫女とシーラの答えに、武士がまとめるように言った。
「決まりだな。俺とアフルが先発で道を作る。そのあとをシーラと未子が巳神を守りながらついてくる。俺たちが取りこぼした奴は2人で何とかしてくれ。巳神、お前は2人から離れるなよ」
 ……けっきょく、勇者のオレは一番勇者らしくない立場に甘んじるしかないようだった。
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蜘蛛の旋律・101
 オレに気になることはたくさんあった。さっき片桐が言った「お前達は本当は既に目的を果たしたんだろ?」という言葉の意味。それをオレに気付かせまいと、いきなり片桐に攻撃を仕掛けていった武士のこと。まるでオレの考えを邪魔するかのように話題を変えてきたアフルの態度。シーラはオレに演技の恋を語り、巫女は彼らの中ではもっとも自然な仕草でオレの思考を操った。
 オレはずっとそんなキャラクター達に翻弄されてきた。誰もが野草を救おうと言う。だけど、オレが野草を救う方法を知るための手助けは、誰もしてはくれなかったのだ。オレはいつでもこのキャラクター達に振り回されて、自分自身を見失っていた。
 黒澤弥生は、野草の居場所を見つけることがこの小説のすべてなのだと言った。野草の居場所を見つけて、オレが野草と会話するということが、黒澤が書いている小説の目的なのだと。
 黒澤が脳裏に描いている小説の結末は、オレが野草の生きる希望を見出し、野草の命を助けることだ。それなのにオレは未だに野草にかける言葉の1つも見つけられずにいる。これが見つからなければ黒澤の小説は終わらない。オレは必死だった。必死で、その言葉を探そうとしていたのだ。
 誰もオレに教えてくれない。その異常さに気付かないくらい、オレは必死だったんだ。
「 ―― だいたい判った。つまりその爺さんは、巳神が薫の下位世界では異質な人間だってことを目印に襲ってきたんだな?」
「そう。たぶんあの時に葛城達也が与えていた暗示は、巳神だけを見分けて襲え、ってものだったんだと思う」
「だとしたら、今校舎の中にいる人間も、同じ暗示を与えられてる確率は高いな」
 野草のキャラクター達は、武士を中心に作戦会議を開いていた。もちろんオレも参加している。野草がいるおおよその位置は判っていたから、そこに辿り着くための作戦を立てていたのだ。武士とアフルが感じているもっとも人の気配の多い場所は、文芸部の活動場所になっている地理準備室だった。
「つまり、操られた人間のほとんどは、巳神、お前に襲い掛かってくるってことだ」
 武士に正面から見つめられて、オレは背筋を震わせた。
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蜘蛛の旋律・100
「 ―― どうやら平行線らしいな」
 しばらくの沈黙のあと武士が言って、片桐もいくぶん肉体の緊張を解いた。
「どうしても薫に会いたいならしょうがねえ。達也は迎え撃つだろうよ。武士、お前は薫が今までに小説に書いたキャラクターが、いったい何人いるのか知ってるのか?」
「……葛城達也はここに全員集めたのか」
「さあな。自分の目で確かめればいいさ」
 片桐はそう言って、再び校舎の中に駈け戻っていった。武士は一瞬追いかけるようなそぶりを見せたけれど、おそらく誘い込まれることを警戒したのだろう、1つ息をついて、オレたちを振り返った。
 武士の目は明らかに変わっていた。まるで戦いに赴く戦士のような強さを持っていた。それだけじゃない。武士の目は、その戦いがほとんど勝ち目のない死への旅立ちであるかのような覚悟に満ちていたのだ。
 葛城達也は、おそらく野草のキャラクターの中では一番強い。野草が最も愛情を注いで作り上げたキャラクター。その存在の強さは、もしかしたらここにいるキャラクターすべてを合わせたよりも強いかもしれないんだ。
「武士、なんて顔をしてるんだ。みんなを緊張させてどうするんだよ」
 そう言ったのは巫女だった。オレも、武士も、シーラもアフルも、ほとんど同時に巫女を見る。巫女の表情は声から想像するよりずっと明るかった。だけど、どこか諦めたような雰囲気も漂わせていた。
「私たちを作ったのは薫だ。だから薫には私たちを消す権利がある。私たちのために薫を死なせちゃいけないんだ。たとえ私たちが消えることになっても、薫を死なせちゃいけない」
 たぶん巫女は、野草を生かすために自分達が消えることまで覚悟していたのだろう。
「武士、薫が生きることだけ考えな。それでなければ葛城達也には絶対勝てないよ」
  ―― このときの巫女の言葉が持つ本当の意味をオレが理解したのは、実際に校舎に侵入した直後のことだった。
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蜘蛛の旋律・99
 野草は本当に死にたいのだろうか。それとも、僅かな希望を欲しがっているのだろうか。
「薫は中にいるんだな?」
 もう隠す必要はないと思っているのだろう。武士の問いに、片桐信はほとんど答えを迷わなかった。
「ああ、いるさ。ほかのどこに薫の居場所がある?」
「今は葛城達也と一緒か」
「達也の居場所も薫のところだけだからな。達也を理解できるのは薫だけだ」
「葛城達也にだけでも会わせてもらえないか? 俺たちは奴と話がしたい」
「達也はお前達と会いたいなんて思ってない。達也はオレと同じだ。ただ、薫を守りたい、それだけなんだ」
 武士も片桐も、野草薫という同じ土壌で生まれたキャラクターだった。どちらも野草のことを好きで、野草のためを思って行動している。
 このとき、片桐は少し様子を変えた。武士から目を逸らして、シーラや、アフルや、巫女のことを探るような目つきで見回したのだ。
「もう、十分じゃないのか。お前達は本当は既に目的を果たしたんだろ?」
 オレは片桐のその言葉をはっきりと聞いていた。だけどその意味を追求しようとするよりも早く、いきなり武士が片桐に攻撃を仕掛けようとしたのだ!
 オレは驚いて武士の行動を追った。武士は片桐に地這い拳を仕掛けて、だけど片桐にひょいと避けられて武士の蹴りは空を切る。どちらの動きも速くてオレにはほとんど何が起こったのか判らなかった。武士の攻撃はその一撃だけで、少し遠くに離れた片桐は、ゾッとするような笑みを武士とオレに向けたのだ。
「悪いな。オレは空手二段を持ってるんだ。オヤサシイ手加減の入った攻撃は効かねえよ」
 空手二段? ……最初に病室で会ったときこいつと争いにならなくてほんとによかった。何もかもオレとそっくりに見えるのに、オレにはないそんな特技を野草は片桐に付け加えてたのか。
 そんなオレのささやかな思いは、武士と片桐の間の緊張にほとんど存在感を持たなかった。
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蜘蛛の旋律・98
 最初にこの男に会った時の恐怖を、オレは忘れてはいない。
 オレにそっくりな顔と、姿と、声と癖を持っていた。野草がオレをモデルに作り上げたキャラクター。初めて野草の病室で会ったとき、こいつは野草の首に手をかけ、殺そうとしていた。シーラが間違えるほどオレによく似た、片桐信という名前の男だった。
 近づいてくる片桐からオレは目が離せなかった。……たいしたことじゃない。こいつだって野草のキャラクターで、今ここにいる4人と何ひとつ変わらない。超能力者でもない。普通の恋愛小説の登場人物で、オレと同じ高校2年生だ。
 オレがこいつを恐れる気持ちはいったいどこからくるのか。こいつの物語を、オレが知らないからか? 普通の出会いなら初対面で相手のことなんか判らない。オレがこいつを恐れる必要なんて、まったくないんだ。
 近づいてきた片桐信は、オレを見て憎しみを表情にした。そして、ひと通りオレたちを見回したあと、武士に向かって言った。
「薫に近づかないでくれないか」
 言葉はオレが想像したよりもはるかに穏やかで、恐怖を感じていた分、オレは拍子抜けしてしまっていた。
「折衝にきたのか。……あいにくだが、そういう訳にはいかねえよ。俺はまだ世界を失いたくねえ」
「薫はもう誰にも会いたくないんだ。静かに、自分が死ぬ時を待ちたいと思ってる。死に向かって穏やかな気持ちでいる人間をわざわざ乱す必要はないだろ。黙って逝かせてやってくれないか」
 武士に向かって話す片桐は、オレに見せたような憎しみは微塵もなくて、むしろ悲しみを多く宿したような表情をしていた。……たぶん、シーラが言ってた通りなんだ。片桐も野草のことを愛していて、野草の希望をかなえてやりたいと思ってる。野草が死にたいのなら静かに死なせてやりたいと思ってる。ここにいる4人のキャラとまったく同じなんだ。片方は生きる希望を持たせようとし、片方は死を守ろうとしている。
 野草が本当に望んでいるのは、いったいどちらなのだろう。それとも、野草自身、今戦っているところなのかもしれない。
 このキャラクター達の戦いは、そのまま野草の心の戦いなのかもしれない。
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蜘蛛の旋律・97
 オレと巫女、タケシとアフルの4人が車から降りると、少し緊張した面持ちでシーラがオレたちに近づいてきた。オレたちの到着を待ちながら、中の様子を窺っていたのかもしれない。その表情に笑顔はなかったけれど、やっぱりシーラは綺麗で、振り返った瞬間オレの胸は高鳴った。
「どんな様子だ」
「すごく静か。まるで誰もいないみたい」
 武士の問いかけにシーラが答えたあと、武士は様子を見ながら校門近くまで歩いていった。門のところにはまだタケシのレガシィB4がさっきと同じ形で潰れている。オレたちも近づいて、判らないなりに中の様子を見定めようと目を凝らした。
「少し移動したな。手前の校舎にはあんまり気配がねえ」
「そうだね、奥の校舎の方にいるみたいだ。3階の付近に気配が集中してる」
「アフル、お前も判るのか?」
「一応僕も超能力者のはしくれだからね。でも、校舎の中は今は葛城達也の結界が張られてるから、僕の力では突破するのは無理みたいだ。全員でテレポート、っていうのが理想的だったんだけどね。地道に歩いて近づくしかないらしいね」
 武士とアフルが交わしている会話の内容を、オレはまったく実感することはできなかった。だって、本当に校舎は静かなんだ。それとも、葛城達也が張っている結界が、オレに気配を感じさせていないのか。
「巳神君、超能力者の結界は、そうでない人の五感には影響ないよ。僕はちょっと乱されてるけどね。その証拠に、武士はちゃんと気配を感じてるだろ?」
 オレの心を読んでアフルが言った。……悪かったな。オレはどうせ鈍いよ。だけどよりによってシーラの前でそんなこと言うことないじゃないか!
 そんなオレの悪態も読んだのだろう。アフルは少し苦笑いを浮かべてまた校舎を振り返った。
 その時だった。
 手前の校舎、受付に続く2階の扉から1人の男が現われて、外階段をゆっくりと降りてきたのだ。
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蜘蛛の旋律・96
 巫女は少しの間オレを見つめていたけれど、ふっと、緊張を解くように微笑んだ。こういう間の取り方は野草のキャラクターに共通している。全員まったく違うようでいて、彼らはやっぱり野草という同じ土壌から生まれているんだ。
「巳神、あなたの考え方はおもしろいね。今、黒澤弥生が書いている同じ小説の中にいて、あなただけが違うってことがよく判る。……私は薫を超えられないよ。超えられない」
「どうして? やってもみないうちから諦めるのか?」
「物語もキャラクターも、作者が成長すれば一緒に成長する。どちらも作者の下位世界の中にしか存在しないからだ。巳神、薫はね、私たちにとっては神と同じなんだ。世界を作り、人間を作り、運命を紡ぐ」
 ああ、そうだ。この世界を作ったのは野草なんだ。ここにいるキャラクターにとって、世界を作った野草は神に等しいんだ。
「……あなたは、あなたの世界の神を超えることができる?」
 正直、オレは漠然としか考えたことがなかった。オレは自分の世界の神の姿を知らないんだ。存在するような気はしているけれど、見たことも会ったこともない。どんな姿なのか想像もできない。ましてそれを超えるなんて、とうていできるとは思えない。
 巫女は、野草の事故によって、自分の神の姿を知った。神が死ぬことを知って、世界の崩壊を知って、神を救おうと足掻いた。
 やっと、オレはすべてが繋がった気がした。彼女達にとっては野草は高校生の女の子なんかじゃないんだ。自分達のすべてを司るもの。まさに、神としか言いようがないんだ。
 オレの世界にもオレを作ったものはいる。オレにとっての神はいったいなんだろう。オレや野草にとっての神も、ふたを開ければ高校生の女の子だったりするのだろうか。
 オレも、誰かの小説の登場人物だったりするのだろうか。
「あ、運がいいね、巳神。シーラはどうやら待ちくたびれなかったみたいだよ」
 巫女に言われて窓の外を見ると、車は既に沼南高校前の交差点を曲がるところだった。
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蜘蛛の旋律・95
 巫女のたとえ話で、オレは巫女が持つ「運命の守り手」という役割の意味を、ほんの少しだけ理解した気がした。
「今のオレには教えないことの方が大切なんだな?」
「人の運命はね、知らなくていい場合の方が遥かに多いんだ。私にはすべてが見えるけど、悪い運命を人に教えることなんてほとんどできないよ。見えなければいいのにと思ったこともある。……薫はいったい、何を思って私を作ったんだろうね。薫は何が見たかったのかな」
 最後の方はほとんど独白のようで、オレは黙って聞いていることしかできなかった。「地這いの一族」という小説の中には、巫女の悲しみや2人の弟に対する愛情が切々とつづられていた。野草には運命を見ることの切なさも理解できていたのだろう。もしかしたら、巫女というキャラクターを通して、初めて理解したのかもしれない。
 そうか、作者は小説を書くことで、キャラクターと一緒に成長することができるんだ。巫女を理解しようとすることで、野草は様々なことを知ったのだろう。運命の意味も、それを守ることの大切さも、守り手の苦しみや悲しみも。
 今の野草はたぶん巫女と同じだ。自分の小説が風景を変え、歴史を変え、人の運命を変えている。たぶん野草は巫女と同じように苦しんでいる。だとしたら、巫女がこの苦しみから逃れる方法を見つけたら、それを野草に伝えることができたら、野草の自殺願望を消すこともできるんじゃないだろうか。
「巫女、君はその苦しみを乗り越えることはできない?」
 オレの口調が変わったからだろう。巫女はちょっと驚いたようにオレを見つめた。
「人の運命を変える自分を正当化する理由は見つけられないのか? 誰のためとか、誰のせいとか、そういうんじゃなくて、ここに自分が存在するのが一番正しいことなんだ、って、そう思うことはできないのか?」
 野草に作られ、野草に育まれたキャラクター。野草と一緒に成長してきたキャラ。すべてのキャラは野草の心の中に存在する。だから、野草よりも進んだ考えをもつことはできない。
 オレが巫女に要求していたのは、キャラクターが作者を超えるという、ほとんど不可能だと思えることだった。
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蜘蛛の旋律・94
 タケシをベッドに縛り付けて、オレは武士とアフルを伴って黒澤のパルサーに乗り込んだ。運転席に武士、助手席にアフルで、オレは後部座席を半分空けて巫女を待つ。間もなく現われた巫女は、それまでの巫女の衣装を脱いで、長袖TシャツとGパンというラフな格好に変わっていた。
「待たせたね。武士、いいよ」
 小説にもあったのだけど、こうしてラフな服装をした巫女というのは、どこか目のやり場に困るような雰囲気がある。長い髪はきっちりとうしろで縛っていて、表情も姿勢もごく普通の女性のものだったのだけど、どういう訳か官能的で誘われているような感じがあるんだ。文字で読んでいる時には「そういう人」で済ませてしまえても、こうして隣に座っているとなかなかそういう訳にはいかない。車の中は沈黙していたから、そんな気分を払拭すべく、オレは巫女に話し掛けていた。
「巫女は、これからオレたちがどういう運命を辿るか、知ってるのか?」
 振り返って、ちょっと悲しみの混じった笑顔で、巫女は答えた。
「判ってるよ。これから何が起こって、巳神がどう行動して、そのあとどういう結末になるのか、あたしにはぜんぶ見えるんだ」
「それは教えてはもらえないのか?」
「難しいところだね。人の運命には時々分岐点があって、生きていく過程で運命を選択して、ひとつの軌跡を形作る。1人1人の人生にも数え切れないくらいの分岐点があるし、それがすべての人間の数だけ存在して、1人の人間の選択が他の人間の人生に影響を与えたりもしてる。私はそのすべてを見ることができる。それって、どういうものだか想像できる?」
 もちろんオレには想像なんかできなかった。もっと簡単な迷路やジグソーパズルだって、オレは混乱してまともに解くことができないんだ。たぶん巫女が見ている運命は、すごく複雑な迷路がものすごく大量にあるような状態なのだろう。
「塞翁が馬って話を知ってる?」
「ああ、確か塞翁って人の馬が逃げ出すところから始まる話だよな」
「さすが、巳神は物語には詳しいね。塞翁の馬が逃げ出して落胆していると、逃げた馬はとてもいい馬を連れて戻ってきた。息子がその馬から落ちて怪我をしてしまう。だけどそのおかげで戦争に行かずに済んだ。……もしも運命を知る人がいて、息子が落馬することを塞翁に教えたとするよ。たぶん塞翁は息子を馬に乗せないようにするね。だけど、落馬しない代わり、息子は戦争に行って命を落としてしまったかもしれないんだ」
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蜘蛛の旋律・93
「判ってないのはお前の方だよ、武士」
 突然、巫女が会話に割り込んできていた。オレも武士もアフルも、ほとんど同時に巫女を振り返っていた。
「未子」
「いかにも男どもが考えそうなことだね。女はね、そんなややこしいことは考えてないんだ。……いいか、シーラはああは言ってたけど、ほんとはタケシの記憶が戻ることを望んでるよ。心の底からね。だけどね、それは他人の力を借りたんじゃ、意味がないんだ。タケシが本当に自分を好きで、自分のために命を張る覚悟があるなら、たとえ地獄の底にいたって自分のために駆けつけて欲しい。誰に操られてたって、誰に記憶を封じられてたってね。何もかも撥ね退けて自力で来て欲しいんだよシーラは。それができない男なら、女は必要ないんだ。塵になって消えてくれた方がいいんだ」
 オレも武士もアフルも、巫女の言葉に何も言うことができなかった。
「アフル、あなたのことだってそう。シーラはあなたが何者であってもかまわないよ。ただ余計なことをして欲しくないだけ。……タケシは縄抜けくらいできるね? だったら、さっさとタケシをベッドに縛り付けて、私達もシーラを追いかけるよ。あまり長いことシーラを1人にしておいたら、待ちくたびれて勝手に校舎に飛び込んじゃうかもしれないからね」
 巫女は……けっして美人じゃない。武士の姉だけあってあまり造作がいいとはいえなかったし、目つきは三白眼で言葉も女性らしくない。だけど今のオレには、巫女は誰よりも美しい女性に見えた。……思い出した。野草の書いた小説の中で巫女は、しばらく言葉を交わし、その魂に触れると、この世の誰よりも美しく見えると描写されていたんだ。
 人の運命を司り、その責任をこの小さな身体に背負っている1人の女性。この人の存在感は、たったこれだけの言葉だけで、オレの中に深く刻み込まれていた。
「巳神、シーラは賭けをしたんだ。もしもタケシが自我を取り戻せたら、必ずシーラのところに戻ってくる。その希望をシーラに与えることができたのはあなたのおかげだよ」
 巫女はそう言って、すべてを判っているのだというような笑顔をオレに向けた。
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蜘蛛の旋律・92
 2階の窓からは、シーラがバイクに乗って走り去る姿を見ることができた。おそらく一足先に沼南高校に向かったのだろう。できるだけ早く追いかけなければならないと思うのだけれど、残されたオレたちにはまだ考えなければならないことがあった。
 ベッドに眠ったままのタケシ。シーラはここに置いてゆくように言った。だけど、本当にそれでいいのか? シーラは本当に、タケシが消えてしまうことを望んでいるというのか?
 シーラを見送ったあと、オレはほかの3人を振り返った。武士はタケシの枕元で見下ろしていた。自分によく似たキャラクターを、彼はいったいどう思っているのだろう。
「武士、本当にタケシをここに置いて行くのか?」
 武士はタケシを見下ろしたまま、オレの問いに答えるでもなく、言った。
「あの女は判ってねえな。……惚れた女のためだったら、たとえどんな悲しい記憶だってぜんぶ受け止めるだろう。一番悔しい思いをしているのはこいつだ。……もしも俺がこいつだったら、心の中で記憶を戻してくれって叫んでるだろう。あの女を守りたい、あの女の苦しみをぜんぶ俺が背負ってやる、って」
 ……たぶん、武士の言う通りだと思う。タケシは小説の中で、いつもシーラを守ろうとしてきた。守れない自分を一番悔しいと思ってるのはタケシだ。そんな武士の独白に答えたのはアフルだった。
「そうは言うけどね。もしも僕がタケシの記憶を戻したら、たぶんシーラに恨まれるよ。シーラは僕のことをあまりよく思っていないようだしね」
「戻そうと思えば戻せるのか?」
「少し時間はかかるけど、何とかなると思うよ。僕は別の小説で人の記憶を戻したことがあるから。薫の人物設定ではその能力があることになってるんだ」
 もしもタケシの記憶を戻せば、オレたちはかなり強力な味方を得ることになる。だけどオレは、できることならタケシとシーラのツーショットなんか見たくはなかった。
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蜘蛛の旋律・91
 アフルの家は通りから少し奥まっていたから、周辺には田んぼが多くて視界を遮るものがない。だからアフルの部屋の窓からは、さっき通りで見たよりもはっきりと、世界が崩壊する様子を見ることができた。
 拡大してゆく空の破れ目。その下に広がる街並みは、3ブロック先くらいまででいきなり途切れてしまっている。その向こうに広がるのは虚無だ。しばらく見ていると、虚無がゆっくりと建物を飲み込んで、塵のように崩してゆく姿が見て取れた。
 おおよその見当で、1分間に1つずつの建物が飲み込まれている。この速度がこのまま変わらなかったとすると、約1時間後にはこの家も塵になってしまうだろう。今、この家で寝ているアフルの両親も。オレがこの考えに行き当たってアフルを見た時、アフルは何も言わず、切なそうに1つ頷いただけだった。
 ここにタケシを置いておけばやがてタケシも塵になる。だけど、たとえどこにいたところで、完璧な安全などありはしないんだ。野草の下位世界が崩壊を続ける限り、やがてすべてが塵に帰ってしまうのだから。
 それを喰い止めるためには、オレが野草に会って生きる希望を取り戻してやるしかないんだ。
「巫女、薫は間違いなく沼南高校にいるよね」
 シーラの言葉に、巫女は力強く頷いた。
「さっき武士に確認してきてもらったからね、間違いないと思う。あの場所には、薫と葛城達也、それに片桐信と、葛城達也に操られたたくさんのキャラクター達がいる。世界の崩壊もすべてあの場所を中心にして進んでる。私たちが行かなければならないのは、あの場所だよ」
 シーラは、今までオレが見た中で一番強い目をして、オレたち全員を振り返った。
「タケシはここに置いて行く。塵になっても、葛城達也の手下になるより遥かにマシだから」
 そう、言い放ったあと、シーラはもう振り返らずにアフルの部屋を出て行った。
 シーラの中でどんな葛藤があったのか、オレはとうとう察することができなかった。
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蜘蛛の旋律・90
 シーラは幼い頃、大切な人をアフルの所属する組織に殺されたことがある。その恨みが彼女を支えていた。シーラが優秀なスパイとして生きているのは、その人を殺した人間に復讐するためだった。
 葛城達也は、彼女にとっては仇なんだ。そして、葛城達也の下で働くアフルも、彼女の復讐の対象になる。
 たぶんシーラは頭では判っているのだろう。だけど、今まで生きてきた物語の設定というのは、そう簡単に彼女を解放してくれるものじゃないのか。今は敵とか味方とか言っている時じゃない。オレたちが仲違いをしていては、野草を救うことだってできないかもしれないんだ。
 シーラはアフルから目をそらすように、オレに振り返って言った。
「巳神、タケシに自我を持たせる方法を教えてくれてありがとう。だけど、あたし、タケシの記憶を戻したくないの」
 シーラの目は明らかに悲しみをたたえていて、オレはそんなシーラから目を離すことができなくなってしまった。……そうか、タケシの記憶は永遠に実らない恋をしていた記憶。シーラはそんな悲しい記憶をタケシに蘇らせたくないんだ。
 見ていたアフルにもシーラの心の動きは判ったようだった。おそらく、人の運命を司る巫女にも、シーラの心は理解できたのだろう。
「タケシはたぶん、物語の中にいたほうが幸せなんだね。……あたしもタケシと同じ場所にいたかったよ」
 もしかしたら、シーラの言葉は、ここにいる自我を持ったキャラクター全員の気持ちだったのかもしれない。
 野草の物語の中には、幸せな恋をしているキャラクターもたくさん存在していたことだろう。シーラだって、もう1つの物語の記憶がなければ、最後にはタケシと幸せになっていたはずだった。ここにいるキャラクター達は、自分の物語に満足できなかったキャラなんだ。永久に幸せになれない物語の中にいることが耐えられなくて、ただ幸せになりたくて、彼らは自我を持ってしまったのかもしれない。
「シーラ、ここにタケシを縛り付けておくのは危険だよ。君は見なかったかい? そろそろこのあたりも、世界の崩壊に巻き込まれそうなんだ」
 オレはこのアフルの言葉で、さっき自分の目で見た空の破れ目を思い出した。
 偶然だったのだろうか、そのおかげで、オレは今まで自分が考えていたことを忘れてしまっていたのだ。
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蜘蛛の旋律・89
 パルサーの隣にバイクを止めて、シーラを伴ってアフルの部屋への階段を上がると、ベッドの上にはタケシが横たえられていた。巫女はだいぶ回復したらしく、ベッドの脇に腰掛けている。その隣に武士がいて、タケシの頭にあたるところにアフルが座っていた。
 3人はオレたちの到着を待っていたようだった。
「シーラ、初めまして」
 そう、最初に言ったのはアフルだった。シーラは一言「こんにちわ」と挨拶をしたけれど、それだけで、すぐにタケシの傍らに近づいていった。それが、なぜかアフルを無視しているような気がして、オレは少し引っかかるものを感じていた。
「巫女、タケシの様子はどう?」
 シーラの態度は少しこの場を緊張させているようだった。そんな空気を察したのだろう。巫女は苦笑いを浮かべて、シーラの問いに答えていた。
「普通に眠っているのと変わらないね。操り糸が切れているから、シーラが飲ませた睡眠薬が効いている状態なんだと思う」
「だったら、このままベッドに縛り付けておけば、あと数時間くらい持たせられるかな」
 オレはシーラの言葉に正直驚いていた。さっき、オレはシーラに告げたんだ。タケシの記憶を戻せば、もしかしたら自我を持つことができるかもしれないって。
 ここには精神感応者のアフルがいる。アフルにならタケシの記憶を戻すことができるかもしれないじゃないか。
 そんな、オレの心を読んだのだろう。口をはさんだのはアフルだった。
「シーラ、もしかして、僕のことが信用できない?」
 このときシーラはアフルを振り返ったから、オレはシーラの表情をはっきり見ることができていた。驚いた。シーラはまるで怒ったような顔でアフルを睨みつけていたから。
「敵だとか味方だとか、そんな小さなことにこだわってる訳ないでしょう! 薫が生きるか死ぬかしかないんだよ! あたし達全員、運命共同体なんだから」
 シーラはそう言ったけれど、オレには彼女の言葉はまったく逆の意味に聞こえた。
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蜘蛛の旋律・88
 史跡の細い道を出て、上り坂を根性で上がると、やっと新都市交通の高架が見えてくる。その下をくぐったところがアフルの家の前まで続く長い直線だ。バイクのエンジンをかけるのにオレが戸惑っていると、シーラが代わりにかけてくれて、そのまま、彼女はバイクにまたがっていた。
「オレがやるよ。オレだって君とたいして変わらないんだ」
「そうかもね。でも、教えるよりあたしが乗っちゃった方が早いから」
 たぶんシーラは、1秒でも早くタケシに会いたかったのだろう。オレのメンツを考えてくれる余裕はないみたいだった。オレも諦めて、シーラの後ろにまたがった。
「しっかりつかまっててね。カーブの時だけ、あたしの身体の動きに合わせてくれる?」
「判った」
 そう答えて、オレがシーラの胴に巻きつくようにつかまると、シーラはアクセルを握って一気に加速していった。
 恐ろしいぐらいのGと風圧だった。彼女の身体にできるだけ負担をかけないようにするのが精一杯で、だけどそれだってちゃんとできたかどうか判らない。判ってたけど、シーラはものすごく無謀な女の子だった。彼女の言葉は正しい。オレだったらぜったいここまでスピードを上げることはできなかったから、シーラが運転した方が確実に10分は早く到着することができただろう。
 どのあたりを走っているのか見失って、あわてて顔を上げると、目印の曲がり角は100メートル先まで近づいていた。あわてて右折の合図を送る。そのとき、オレは前方に、それを見たのだ。
 アフルの家よりは遥か向こうにあった空の破れ目。その空の穴が、街並みのすぐ向こうまで近づいている。シーラはすぐに右折してしまったからどのくらい先まで迫っているのか見定められなかったけれど、オレが瞬間に見た風景は、野草の下位世界の崩壊がすぐ傍まで進んでいることを物語っていたのだ。
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蜘蛛の旋律・87
 初めてシーラに出会ったときから、オレは恋をしていた。
 1年前、野草の小説を読んで、その華麗な演技力と瞳の美しさに魅了された。
 シーラは小説の登場人物だった。だけど今、彼女はオレの目の前にいて、オレを見つめ、オレにキスをした。それも彼女の演技だったのかもしれない。彼女の恋の演技は完璧で、誰にも、あのタケシにさえ、見破ることはできなかったんだ。
 今、彼女と同じ小説の登場人物であるオレには、彼女の本当の心は判らない。おそらくタケシも同じ想いでシーラを見つめていたのだろう。
 演技の愛に、オレたちは翻弄されていた。
「この小説がハッピーエンドになったら、君はまた小説の中に戻ってしまうんだろ?」
 もしも野草が生きることを選んだら、またシーラとタケシの物語の続編を書くのだろう。オレは二度とシーラと触れ合うことはできなくなる。
「そうだね。……たぶん、この夜のことは忘れちゃうと思う」
 だから、彼女はオレに触れたのだろうか。たった一夜だけの関係だったから。
「オレは忘れたくないよ。君のことも、この物語のことも」
「巳神は忘れないでいて。……ここにはあたしがいる。巳神に恋したあたしがいるって……」
 嘘……なのだと思う。だけど、今ここにいるシーラは、オレの想いにこたえてくれた。オレに恋してくれるシーラは、確かに野草の下位世界に存在しているんだ。
 シーラにも、オレを覚えていてほしかった。明日になれば忘れてしまうのだとしても、せめて今夜、オレがこの世界に存在する間だけは。
「シーラ、もしかしたらタケシは自我を持つことができるかもしれない」
 シーラは何も言わなかったけれど、薄闇でもはっきりと判るくらい、瞳の輝きを増した。
「君が持っている、パラレルワールドの物語の記憶。その記憶を思い出させることができたら ―― 」
 いずれ消えてしまう記憶であっても、オレは彼女の中で、タケシと堂々と渡り合うことが出来る男になりたかったんだ。
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蜘蛛の旋律・86
 オレは卑怯者だ。
 タケシの自我が生まれれば、シーラは完全にタケシのものになる。オレは、そんな2人を見たくはなかった。いつまでもこうしてシーラと話していたかった。
 シーラが本当に望んでいるのは、タケシに自我が生まれて、心に秘めてきた想いを告白することだったのに。
「……どうしたの? 何かあたしに言おうとしたんじゃないの?」
 オレが黙ってしまったから、シーラは少し不安そうな表情でオレを見上げた。シーラは、たとえどんな表情をしても、その目の美しさで人を惹きつける魅力を持っている。
「ごめん。オレ、これは君に言いたくない」
 シーラはずいぶん驚いたようだった。
「……どうして? 何かひらめいたんじゃないの? それって薫を助けるために役立つことじゃないの?」
「野草を助ける役に立つかどうかは判らない。それよりも、これを言ったら、君はもうオレを見てくれなくなる」
 シーラはしばらく驚いたようにオレを見上げていたけれど、やがて表情を変えて、微笑んだ。
 オレの心臓が高鳴る。……たぶんシーラはオレの言葉を理解したんだろう。立ち尽くしたオレに、バイクを避けるように近づいてきた。そして、さりげなくスタンドを立てる。バイクから手を離したオレの、頬に触れた。
「見てるよ、ちゃんと……」
 髪に指を絡めて近づいてくる。少し屈んだオレの唇に、シーラの唇が重なった。
 シーラのキスはどこか秘密めいていて、オレはほんの少しだけ罪の意識を感じた。
 唇が離れた時、シーラは少しいたずらっぽい目をして、オレに言った。
「どうしてキスしたのか、判る?」
「……君のすることはいつもよく判らないよ」
「この小説がハッピーエンドになったら、たぶん判るよ」
 これが、オレのファーストキスだった。
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蜘蛛の旋律・85
 自我を持ったキャラクターは、すべて実らない恋をしていた。シーラも、アフルも、武士も、あの片桐信も。
 そういえば、アフルはいつも悲しい微笑を浮かべていた。シーラもそうだ。こんな悲しいキャラクター達に、野草はもっとも感情移入していたんだ。もしかしたら野草も、ぜったいに叶わない恋をしていたのかもしれない。
 隣を歩くシーラは、やはり悲しい微笑でオレを見つめていた。オレはこのとき、野草の恋よりもシーラの恋を思っていた。シーラが永遠に実らない恋をしていたのは、いったいどんな男だったのだろう。あのタケシよりも更にシーラを惹きつけた男というのは。
 たぶん、オレはその知らない男に嫉妬していたのだと思う。
 シーラの実の兄は、いったいどんな想いでシーラを見つめていたのだろう。
「君のもう1つの話はオレが読んでいない話なんだ。それって、あの話の続編だったのか?」
「ううん、続編じゃなくて、パラレルワールド。もしもその人がいたら、っていう前提で薫が書いた話だったの。だから、今のあたしとはぜんぜん性格が違った」
 つまり、本当ならシーラというキャラクターは2人いたんだ。もしかして、野草の下位世界が分離した時、こっちのシーラじゃなくてもう1人のシーラが出てくる可能性もあったんじゃないのか? ……ああ、だけど葛城達也の例もある。野草の現実に近かったのは、やっぱりこっちのシーラの方だったんだ。
 このシーラにパラレルワールドのシーラの記憶があるのなら、たぶん葛城達也にもすべての記憶がある。……もしかしたら、タケシにだってその記憶はあるんじゃないだろうか。
 もしもタケシがパラレルワールドでもシーラに恋をしていたのなら、タケシだって実らない恋をしていた記憶を持ってるはずだ。
 タケシのその人格を呼び覚ますことができれば、タケシに自我を持たせることだってできる!
「シーラ! もしかしたら ―― 」
 このとき、オレは不意に我に返ったように言葉を切っていた。
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蜘蛛の旋律・84
 何かが引っかかった。
 シーラはおそらく、その理由を知っている。だけど、何かをためらうようにしばらく沈黙したまま、オレに微笑んでいた。……思い出した。オレはアフルに一度ごまかされたことがあるんだ。野草が1ヶ月間この世に残していた未練、その話をしようとしたとき、アフルは話題を変えたんだ。
 今のシーラには同じ雰囲気がある。シーラもまた、何かをごまかそうとしているのか。
 そんなオレの不信感を拭い去るように、シーラは悲しみの混じった微笑みを浮かべながら話し始めたのだ。
「自我を持ったキャラクターには、みんな共通点があるの。巳神は気付かなかった?」
 共通点? 野草が感情移入していたという以外に、このメンバーに共通点なんかあるのか?
 シーラも武士も巫女もアフルも葛城達也も、片桐信のことはよく知らないけど、作者の黒澤弥生だって、ぜんぜん共通するものなんかないじゃないか。
 一番近いのは武士とタケシだ。だけどタケシは自我を持たなかった。外見や能力や性格以外に、自我を持った7人に共通するものがあるのか?
「巳神は薫の全部の物語を知ってる訳じゃないから判らないかな。……信はね、片桐信は、生涯に2回の恋をするの。1人は不良仲間のヒロって女の子で、もう1人は従妹の聖。でも、その2人にはちゃんと運命の相手がいて、信は聖を想い続けながら一生独身で通すの。葛城達也は、死んでしまったミオと実の妹を愛している。アフルが好きだったのも死んだミオ。武士は姉の巫女を愛しているし、巫女も武士を愛してる。……そして、あたしは、巳神が知らない物語で、実の兄に恋をするの」
 ……そうだった。野草の物語には、登場人物が兄弟に恋をする設定が多く使われていたんだ。
「つまりね、自我を持った薫のキャラクターはみんな、永遠に実らない恋をしていたの。絶対叶うことのない恋を」
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蜘蛛の旋律・83
 けっきょく、オレとシーラは、バイクを引いて少し歩くことにした。ここから12、3分歩くと例のまっすぐな通りに出る。そこまで行けば交差点を曲がる必要がないから、もしかしたらオレでも何とかできるかもしれないんだよな。オレも男だし、女の子に不慣れなバイクの2人乗りを運転させるよりは、できる範囲で肉体労働を引き受けたかったんだ。
 オレと武士は学校前の交差点を右折してきたのだけれど、その道は長い上り坂になっていたから、オレはシーラのバイクを引いて右に曲がった。その道は少し行くと江戸時代の屋敷跡で細くなる。しばらくはクランクが続いて、あの通りのやや北寄りに出られるんだ。この道は体育の授業でのロードコースにもなっているから、野草の下位世界にもちゃんと存在しているはずだった。
 かなり暗くて不気味な道を、オレとシーラは辿っていった。シーラと歩くのはずいぶん久しぶりな気がする。あれからまだ2時間も経っていないはずなんだ。不思議に思いながら、オレはシーラに、さっき疑問に思ったことを訊いてみた。
「野草の下位世界にはたけしが2人いるじゃないか。もしかしたらこの2人は元は同じキャラクターだったのか?」
 バイクをはさんで反対側を歩くシーラは、暗闇の中でオレに少し微笑んだ。
「薫が最初に作ったタケシは、あたしのパートナーのタケシだったの。そのあと、巫女の弟のキャラクターを作ったんだけど、2人の弟のうち下の弟の名前が先に決まったんだよね。そうしたら、上の弟はもう武士にするしかなかったの」
 そういえば、巫女にはもう1人弟がいたんだ。名前は確か礼士といった。先に礼士の名前が決まってしまったから、あと1人が自然に武士になったということか。
「キャラクターのイメージもタケシに似てたから、薫はもうそれ以外の名前を思いつけなかったみたい。でも、小説を書き進むうちに、武士には武士独自の設定が生まれてきて、今では外見以外はそれほど似てはいないかな。あたしにはぜんぜん違うキャラクターに見えるよ」
 たぶんシーラにとっては、どんなにタケシに似ているキャラがいたとしても、パートナーのタケシとはまったく違った人間に見えるのだろう。
「要するに巫女の弟の方があとから生まれた人格なんだな。その武士が自我を持ってて、どうして君のタケシが自我を持てなかったんだ? その理由をシーラは知っているの?」
 シーラは、少し悲しそうな瞳をして、オレに微笑んでいた。
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蜘蛛の旋律・82
 オレとシーラは学校の前に取り残されてしまっていた。校門のところにはタケシのレガシィB4が煙を上げて潰れている。オレはここまで黒澤の車で来たんだ。武士が乗っていってしまった以上、オレに足はない。
 そうだ、シーラはここまでどうやってタケシを追ってきたんだろう。そう思って振り返ると、シーラは倒れたバイクを引き起こして調子を見ているところだったのだ。
 白のCB400。……これに乗ってきたらしいな。シーラはこんなものまで動かすことができるのか。
 どうやら武士は、シーラがバイクに乗ってきたことを知っていて、オレを置き去りにしてくれたらしかった。
「壊れたのか?」
 必死でタケシを追いかけてきたシーラ。バイクは無造作に放り出したのだろう。だけど、シーラがエンジンをかけると、CBは力強く応えてくれた。
「大丈夫みたい。何とか動いてくれそう」
「2人乗りできる?」
「できるかな。あたし、バイク乗ったのって、今日が初めてなんだよね。自転車なら乗れるんだけど」
 オレは驚いてシーラを見つめた。……確かに、シーラは運動神経がいい設定だから、少し練習すればバイクだって乗れるかもしれない。だけど、初めてバイクに乗って、ここまでタケシの運転するレガシィB4に引き離されずに追いかけてきたっていうのか?
 本当にシーラは必死だったんだ。タケシを奪われたくなくて、自分の命すら顧みないで。
 シーラの恋は切なくて、オレは胸が痛くなった。その痛みの半分はタケシに対する嫉妬だったのかもしれない。
「アフルの家までは歩いて行ける距離じゃないからな。どうするか」
「いいよ、やってみる。1人でも何とか乗れたんだもん、2人でも何とかなるよ」
 シーラは言って、オレに向かってウィンクして見せた。
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蜘蛛の旋律・81
 オレはなんとなく、武士に親しみのようなものを感じ始めていた。それは武士が超能力者でも、物語の作者でもなかったこともあるのだろう。リーダーシップを取って有言実行している態度も、オレに過大な期待を抱いていないことも、好感が持てる要因の1つだった。
 それで気付いた。どうやらオレは、アフルや黒澤のような人間は、基本的に苦手なんだ。武士はオレを1人の人間として扱ってる。オレが肉体的にそれほど強靭ではないことも、オレの個性として認めてくれている。
 野草の下位世界で初めて、オレは普通の人間と会話している気分になれたんだ。
「ねえ、ちょっと! タケシはどうなったの? 元に戻ったの?」
 シーラがそう言って振り返ったから、オレと武士はそちらに近づいていった。
「操り糸は切れたはずだ。だが、これから先も自我を持つことができないなら、こいつは再び操られることになる」
「どうにかできないの?」
「方法は2つしかない。操っていた奴を倒すか、こいつが自我を持つかだ」
 タケシが自我を持つ。そんなことができるのだろうか。今まで物語の中でしか生きられなかった人間が、自我を持つなんて。
 野草の下位世界はこれからますますおかしくなる。どちらかといえば、シーラや武士の自我が消える方がよほどありえる話なんだ。
「……とにかくタケシを学校から引き離さなきゃ。また目覚めて飛び込まれたら、今度こそ救えないかもしれない」
 そう、シーラが口にした後、武士はいきなりタケシを肩に担いだ。そして何も言わずに車の方に歩いていく。驚いたのはシーラも同じだった。
「ちょっと! タケシをどうするの?」
「アフルの家に連れて行く。場所は判るか」
「なんとなくしか判らないよ」
「巳神、案内してやれ」
 そう告げたあとは何も言わず、後部座席にタケシを放り込んで、武士が運転する車はあっという間に走り去ってしまったのだ。
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蜘蛛の旋律・80
 地這い拳の基本形は重心を低くとって後ろ足に重心を置き、前足で攻撃と防御を使い分ける。両腕はバランスを取る以外ほとんど使わないのが特徴だ。野草の小説にはそう記述してあって、オレもなんとなく想像しながら読んでいたのだけれど、実際に見るとそれはかなり奇妙な拳法だった。
 まず、オレが想像していたよりも、地這い拳はかなり身軽だった。タケシはどうやら本当に操られているようで、必死で学校の中に入ろうとそれだけを目標に動いている。そのタケシに向かって攻撃する武士は、両足をこまめに動かして膝から下に重点的に蹴りを繰り出している。武士の動きだけを見るならば、まるでコミカルなダンスを踊っているかのようなのだ。これでタケシの攻撃があれば武士の地這い拳にも防御の動きが加わって、少しは戦いらしく見えるのかもしれない。
 その戦いは、割に早い段階で武士の勝利に終わった。タケシの全身から力がすうっと抜けるようにその場に倒れこんだのだ。地這い拳は、人の身体に取り付いた魔を払う拳。もしかしたらタケシを操っていた力を、武士の地這い拳が払うことに成功したのかもしれない。
「タケシ!」
 その場に倒れたタケシにシーラが駆け寄ってゆく。オレはちょっと嫉妬のような感情を覚えたけれど、それを振り払って武士に近づいていった。
「武士、ありがとう、助けてくれて」
 武士が助けてくれなければ、オレはタケシが運転する車に轢かれて、命がなかったかもしれないんだ。
「いや、たいしたことじゃねえ。……それよりこれからどうするかだ。この男をこのまま置いとくわけにもいかねえ」
 確かに、気絶したタケシをここに置き去りにすることはできないだろう。タケシのレガシィB4は潰れてしまったから、黒澤のパルサーでどこかに連れて行くしかない。
「一度アフルの家に戻るか?」
「あいつがこのまま気絶しててくれるならいい。だが、また目覚めて操られると厄介だ。できれば敵に回したくねえ」
 どうやら今の戦いには、武士も大いに思うところがあったらしい。
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