2000年09月の記事


あとがき(先に最終回を読んでね)
 お、お、お、終わりました。終わったんです。終わったんですよ「記憶」が。毎日毎日毎日毎日私を悩ませ、苦しめ、血反吐を吐かせながらキーボードに向かわせたあの「記憶」が。1日の仕事が終わりに近づくと、毎日「今日の記憶はどうしよう」と考えつづけ、帰り道自転車をこぎながら伊佐巳のセリフを考え、帰ってからはまずパソコンのスイッチを入れて平均1時間、ひたすら書きつづけた「記憶」が。やっと、約7ヶ月の時を経て、やっと終わってくれたんです!!
 はあ、はあ、……失礼いたしました。まあ、何はともあれ終わってくれました。いえ、本当によく書いたと思います。�Tと�U合わせて197話ですか。とりあえず200話以内で終わってくれたので、今はほんとにほっとしたというか、終わってくれてありがとうという気持ちでいっぱいです。
 今から約8ヶ月前の2月6日、パソコン初心者の私が初めてHPなるものを立ち上げたのが、こちらのサイトでした。右も左も、タグもスタイルシートも何にも知らない私でも簡単に作れるHPを発見して、おっかなびっくり登録したのが始まりです。日記をつけ始めたのですが、1ヶ月も経たないうちに挫折しまして。日記の代わりに始めた連載小説が「記憶」でした。
 何でも、始める時というのはけっこう簡単なんですよね。ウキウキルンルンしてますから、キーボードを叩く指も快調です。身体が慣れてしまうと、維持するのもそれほどむずかしくはないです。2人の会話の行方なんかまったく気にしないで書き進めてました。ところが、これを終わらせようと思ったときから、私の地獄は始まったんです。1度始めたことを終わらせるのって、ものすごいエネルギーを必要としたんです。
 まるで離婚を決意した専業主婦のようなものです。それまで書き散らしたエピソードをかき集め、整理分類して、必要な要素を書き加え、それぞれの要素に結論を無理矢理当てはめてゆく。うっかり書いてしまった一言も、既に発表されているのだから消すことなんかできません。そんなこんなで、決意から離婚まで2ヶ月以上もかかるようなありさまでした。何しろ早く終わってもらいたくて、1日の執筆量が2倍近くなってしまって、結果ガイアックスの日記ページが月末が近づくほどに重くなってしまったのはお読みになってた方の知る通りです。
 でも、とにかく私は離婚に成功しました。今はもう2度と結婚なんかするものかという心境……だったらいいのですけれど。
 やっぱり、ダメですねえ。あの、幸せな結婚生活をしていた頃の、あのときの気持ちが忘れられません。
 読んでくださっていた方が時折り書いてくださる「おもしろいです」の一言。そこから広がってゆく同じ趣味を持つ人たちとの交流。そういうものの味をしめてしまうと、離婚の苦しさなんか、すぐに忘れてしまうんです。もう1度結婚したい! 幸せな結婚生活よカムバーック!!
 ってなもんで、あっさり簡単に、私は2度目の結婚をすることにいたしました。(あ、ちなみに私は独身で、結婚のケの字もない生活を送ってます)2つ目の連載小説は「永遠の一瞬」というタイトルで、たぶんすぐに始めると思います。まったく懲りない奴だと笑ってくださいませ。でも、せめて100話以内では終わりにさせたいですね。
 そんな訳で、連載小説「記憶」を読んでくださっていた数少ない隣人の皆様。もしもよろしかったら、どうか一言だけでも私に声をかけてやってください。「読んでました」でも「終わってよかったね」でも、何でもいいです。このあとがきからコピー&ペーストしてBBSに貼り付けてやってください。その一言が、私の明日の活力になります。次の離婚のエネルギーになるんです。(いいかげん離婚から離れんかい!)
 何はともあれ、読んでくださって、本当にありがとうございました。もしも気に入ってくださいましたら、次の連載もぜひよろしくお願いします。

黒澤弥生
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記憶�U・97/最終回
 ミオは泣いていた。
 片手でオレのシャツを握り締めて、声を張り上げ、手放しで泣いていた。一気に子供に戻ってしまったようだった。無防備に身体中を震わせて、泣きじゃくる、という言葉がピッタリの泣き方だった。
 正直オレは戸惑ってしまって、ミオの肩を抱いたまま見守っていることしかできなかった。彼女がこんな泣き方をするような何を、オレは言ったのだろう。そんなにショックだったのだろうか。オレが幼い頃からのミオに恋をしていたかもしれないというのは。
 ミオはありったけの声を張り上げて、泣き止む気配は見せない。それどころか、どんどん感情が高ぶってきてきているようで、オレの胸に顔をうずめた。守るように抱きしめながら思う。もしかしたらオレの言葉はきっかけに過ぎなくて、泣いているうちに湧き上がってきたさまざまな思いがミオの中にはあるのかもしれないと。
 3年もの間、ミオの革命は続いていたのだ。オレたちが葛城達也のもとに人質を残して東京に戻ったあと、ミオはずっと皇帝とコロニーの掛け橋だった。おそらく緊張の連続だったことだろう。オレには想像のつかない苦労があったのだと思う。ミオの代わりは誰にもできず、誰に頼ることもできなかったのだから。
 ミオの革命は、今この瞬間に終わったのだ。
  ―― たまらなくなって、オレはミオをきつく抱きしめた。
 好きなだけ、気の済むまで泣けばいい。誰にも何も言わせない。ミオにはその権利がある。ミオの今の涙は誰にも判らない、ミオにしか判らない涙なのだから。ミオが背負ってきたものの重さはミオにしか判らないのだから。
 今夜のミオは、一生忘れられないだろう。

 ねえ、ミオ。オレは君の最高の恋人になれるか?
 君がオレの最高のパートナーになると言ったように、オレは君の最高のパートナーになれるか?
 いつも君を見守っていたい。傷つき涙を流す君を。
 いつか、最高の笑顔で笑えるように。

 君はいつしか大人になって、今日の涙を忘れてしまうのかもしれない。日々の忙しさにかまけて、少女の頃の一瞬は記憶の引き出しにしまわれてしまうのかもしれない。それでも、オレは忘れない。今日も、明日も、君の小さな毎日を、少しずつ大人に近づいてゆく心の揺らぎを忘れない。君のすべてを、心のパーツに刻み付けて。
 やがて、オレの心のハードディスクは、君の記憶でいっぱいになることだろう。

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記憶�U・96
「実、ちょっと来て」
 サヤカがボスの腕を引いて、オレとボスの会話は中断した。サヤカは少し不機嫌そうだ。さっきまではおとなしく星を見ていたというのに。
「サヤカ、私はもう少し伊佐巳と話をしていたいんですが」
「昼間できる話を今することはないでしょう? あたしは夜しかできない話をしたいの」
「……何を言い出すんでしょう、このお嬢さんは」
「伊佐巳、ごめんね。話の続きは明日にして」
 そう言って、サヤカはボスを引っ張って、遠く離れた見えない場所まで連れて行ってしまった。最近の女の子は積極的だ。ボスが堕ちるのも時間の問題だろう。いや、もう既に堕ちているのかもしれない。
「伊佐巳、いつまでサヤカのことを考えてるの?」
 声に振り返ると、ミオが少しすねたような表情で見上げている。……あたりまえのことに気付いた。あちらが2人きりなのだから、こっちもそうなのだ。
「もう考えてないよ。だからそんな顔しないで」
「ボスと伊佐巳とだったらぜったい伊佐巳の方がハンサムだけど、あたしとサヤカはサヤカの方が美人だもの。あたしも嫉妬深いのよ。あんまりサヤカに見惚れないで」
 見惚れるもなにも、月明かりのない夜によほど近づきでもしなければ顔の造作など判別できるものじゃない。しかしそんなことを言ってもミオを刺激するだけなので、オレはミオの肩を抱き寄せた。
「大丈夫。オレは他人のものに興味はないから。オレは最初からミオしか見てない」
「そーお?」
「昨日ボスに言われた。3年前から、オレのミオを見る目は娘に対するものじゃなかったって。……たぶんオレは、ずっと昔からミオに恋をしていたんだと思う」
 その告白は、ミオにとっては信じられないものだったのか。目を見開いて、時間を止めてしまった。……どうなんだろう。自分の父親がずっと自分をそういう目で見ていたと知る娘の気持ちというのは。あまり楽しいものではないのかもしれない。事実には違いないのだけれど。
「ショックだった?」
 オレが訊くと、ミオは表情を変えないまま、オレを見上げた。
「片思いじゃ……なかったの?」
「うん、そうらしい」
「15歳の伊佐巳があたしを好きになったから、今の伊佐巳があたしを好きになってくれたんじゃないの? 伊佐巳は前から……ううん、29歳の伊佐巳も、その前も、ずっと好きでいてくれたの?」
「そう、なんだと思う」
 ミオの表情が、少しずつ変わっていった。込み上げてくるものを抑えるように、口を歪めたかと思うと、やがて、声を上げて泣き出したのだ。
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記憶�U・95
 ボスは3時間と言ったけれど、実際は1時間余りで、オレたちは食料を調達することができていた。この食料は、以前ボスが駄蒙に指示して隠させたものだ。駄蒙は判っていてボスをあの場所に追放したのだろうか。
「 ―― 星が綺麗ね」
「うん、そうね」
 ミオとサヤカは寝転んで、頭上に輝く星を見ていた。災害のあと地下に閉じ込められ、最初の革命の後ずっとあの建物に監禁されていた2人にとって、地上で星を見るのは久しぶりのことだった。東京の空は以前とは違う。空気もきれいになったし、空は広く、地上に無駄な明かりもない。夜空の星はことのほか綺麗で、少女たちの心を和ませるには十分だったことだろう。
「駄蒙は本当に裏切ったのか?」
 事実は、明らかにそうだった。オレが聞きたかったのは、ボスがあのとき駄蒙に感じた真実だった。
「そう思って間違いないでしょうね。これから先、たとえ私たちが皇帝を倒し、彼に戻って欲しいと懇願したとしても、おそらく彼は戻りません。永久に私たちの敵として振舞うと思います。駄蒙はそういう道を選んだのです」
「葛城達也に感化されたのか?」
 振り返ったボスの表情は明るく、牢の中で見せたような迷いはなかった。ボスは間違いなく見つけたのだ。あの時見つけられなかった真実を。
「以前、葛城達也のことを2人で話していたとき、駄蒙は言っていました。葛城達也は敵を必要としていると。そのためにコロニーを迫害しているのだろうと。駄蒙は葛城達也を自分に置き換えてそう言いました。戦う者の闘争本能は、敵を必要としていると。
 駄蒙は戦う者なんですよ、伊佐巳。3年前、コロニーのセレモニーであなたは駄蒙と戦いましたよね。おそらく同じ闘争本能はあなたにもあるのでしょう。……だから、なのだと思います。駄蒙は、私とあなたを、敵に回したかったんですよ」
「……そんな理由なのか? それだけの理由で、駄蒙は親友を、コロニーを裏切ったのか?」
「駄蒙と皇帝との詳しい経緯は判らないので、果たしてそれだけかどうか、私に知る術はありません。でも、私はそれだけの理由で、十分納得できるんです。……私と駄蒙は、相協力してさまざまなことをしてきましたけれど、互いに刺激しあって互いを高めてきたことも事実です。切磋琢磨という言葉を使いましたね。今回のことは、その延長に過ぎない。私はそんな風に思えるんですよ。駄蒙が1番心配しているのが、私の身の安全です。私は肉体的にはそれほど強靭ではないのに、敵ばかりがむやみやたらと多くなるような生き方をしていますからね。これまでは、駄蒙が傍にいて守っているのが1番安全でした。……でも、今はあなたがいる。駄蒙に匹敵する強靭さを持ったあなたが。
 駄蒙は、私と戦いたかった。今まで片時も離れず傍にいて、互いを補い合っていた私と。……それを知った時、私も思いました。私もおそらく、いずれは駄蒙と戦いたいと思っていたのだろうと」
 オレには、ボスの言葉を実感として理解することはできなかった。
 だが、そういう友情の形もありうるのかもしれないと、ボスの晴れやかな表情を察した。
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記憶�U・94
「じゃあ、約束もしてもらったし、そろそろボスを探しに行こうか」
「……その必要はないみたい。あれ、たぶんボスとサヤカでしょ」
 ミオが指差した方を振り返ると、確かに2人が歩いてくる姿が見えていた。あたりはかなり暗くなっている。声をかけずにいたところを見ると、彼らもオレたちに遠慮する気持ちがあったのかもしれない。
「サヤカ!」
 ミオが駆けてゆくと、サヤカの方もボスの隣を離れて同じように駆けてきていた。オレもそちらの方に歩いていく。2人はちょうど中間点で合流した。
「ミオ、どうだった?」
 ミオが親指を立てると、サヤカは笑顔でミオの肩を叩く。
「やったね」
「サヤカは?」
「うーん、まあ、とりあえず」
 そう言ってサヤカは親指と人差し指で小さな丸を作った。
「よかったね!」
「うん! ありがとう」
 そうして笑い合う2人はまだまださっぱり子供のままだ。いったい何の話をしているのか。想像がつくだけに、妙に気恥ずかしいような、ほほえましいような気分になる。
 向こうから歩いてくるボスの方もどうやらそのようで、苦笑いを浮かべながらオレに近づいてきていた。
「彼女たちには先々の不安とかはないんでしょうかね」
「信頼されてるんだろうよ。せいぜい期待を裏切らないようにしないとな」
「伊佐巳、どうしました? 怪我ですか?」
 オレの腹を見て心配そうに言う。まあ、これだけ派手に穴が開いて大量の血がついていれば、誰でも心配するだろう。
「あとで詳しく話すが、とりあえず身体の方は問題ない。あるとすれば胃袋の方だけだ」
 オレは昨日の昼を最後に、食料も水も口にしてはいないのだ。
「ここにくるときに車を使いましたので、だいたいの現在位置は判っていますよ。あと3時間ほど我慢してください。おそらく調達できると思いますので」
 なるほど。葛城達也はオレを無造作に飛ばしてくれたけれど、ボスにはちゃんと車を使って、現在位置を把握できるようにしていた訳だ。
「地上を歩くのか? 皇帝軍は」
「ご存知ではなかったですか。皇帝は東京の厳戒命令を解除しましたよ。これからは地上を歩いても戦闘機で殺されることはないはずです。もちろん、東京から出ることはできませんが」
 ボスの言葉を聞いて、少なくともオレたちがしてきたことは、まるっきりの無駄ではなかったのだと知った。これも、1つの時代の終わりだ。東京はまだ解放されない。それは、これからのオレたちが勝ち取らなければならないものなのだろう。
「さあ、お嬢さん方。そろそろ少し歩きますよ。遅れないでついてきてください」
 そう、すっかり遠足気分の2人を促して、ボスは目指す方角に歩き始めた。
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記憶�U・93
 告白されて、うなずくのも変な気がしたし、よろしくお願いしますとか頭を下げるのも間が抜けてる気がして、オレはミオの髪をかきあげて額にキスをした。このまま時間が止まっても悪くないと思う。ミオの傍にいるだけでオレは幸せだし、ミオもたぶん同じ気持ちでいてくれると思うから。
 この、たった1人の女の子に出会うために、オレはどれだけ長い時間を過ごしただろう。好きになった女の子はオレに振り向かなかった。1人は自殺して、もう1人は殺されてしまって ――
 正直、怖いと思った。もしもミオが死んでしまったらどうしよう。この子が死んだら、オレは絶対に生きていられないし、自分を許せないだろう。オレがもし、そんな悪運を背負っている人間なのだとしたら。
「伊佐巳?」
 オレは少し表情を変えていたのだろう。ミオは心配そうに覗き込んで言った。
「そうだ、伊佐巳、どこか怪我をしたんでしょ? 痛いの?」
 血染めの穴の開いた服を引いて、ミオはオレの腹部を探るようにした。……あんまりそういうことはしないで欲しいのだけど。そろそろ日は完全に落ちそうだし、本当ならボスとサヤカを再び探しに行かなければならない。
 半ばごまかすように、オレはミオを抱きしめた。
「ねえ、ミオ。これから先、オレたちはすごく危険な目に合うかもしれない。怪我をしそうになったり、食べるものがなくなって死にそうになるかもしれない。だからミオ、約束して欲しい。これからどんなことがあっても、君は自分だけを守る、って。オレの事を守ろうとしたりしないって。オレは自分のことは自分で守れる。君のことも守れるけど、君が自分の事を守ってくれないと、守りきれなくなるかもしれないから。……君が安全なところにいなかったら、オレは安心して行動できない。だから約束して。ぜったい、無茶なことはしない、って」
 筋が違うのは判ってる。ミオの安全を願うならば、オレはミオを葛城達也のところに置いてくるべきだったし、そもそも革命に参加すべきじゃなかった。今、ミオを失いたくないという気持ちに負けたら、オレは何もできなくなる。みたび革命を起こすことも、葛城達也を殺すことも。
「約束するわ、伊佐巳。……あたしがなりたいのはね、伊佐巳のお荷物でも、伊佐巳の弱点でもない。あたしはまだすごく弱くて、子供で、伊佐巳のパートナーには程遠いもの。だけど、いつか必ずあたしは伊佐巳の最高のパートナーになるから。伊佐巳に信頼されて、ミオに任せておけば大丈夫だって、言ってもらえるようになるの」
 この子は判っている。オレが不安に思っていることも、オレという人間の弱さも。
「あたしは自分が子供だって事、ちゃんと判っているのよ。だから伊佐巳のことを守ろうなんてぜったい思わないから安心して。天井から石が落ちてきたら真っ先に逃げるし、皇帝軍と会ったら隠れるし、伊佐巳がよそを向いた隙に伊佐巳の食べ物を横取りするかもしれないわ。だから、伊佐巳が心配しなければならないのは、あたしに食べ物を横取りされないことだけよ」
「……そうか。それだけでいいならずいぶん気が楽だ」
「そうでしょう? あたしより安心で、たくましい女の子は他にいないと思うわ」
 ミオが言うオレの最高のパートナー。この子がそうなるのは、それほど先のことではないのかもしれない。
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記憶�U・92
 この、広い東京の瓦礫の中で、小さなオレと、小さなミオとが出会う確率は、いったいどのくらいなのだろう。
 向かう方角の正しさなど判らない。オレはミオに近づいているのか、あるいは遠ざかっているのかもしれない。おそらくミオもオレを探しているだろう。もちろん不安もあった。だけど、ここでミオを見つけられないはずなどないと、オレは自分の運命を信じていた。
 何度も声を張り上げてミオの名前を呼んだ。答えてくれ。オレの、たった1人の少女。
  ―― やがて、沈む夕日を背にして、小さな人影が見えた。
「ミオ!」
 あまりに小さくて、声も届かないくらい遠い。いったいどんな特徴が見て取れるというのか。それでもオレは確信して駆け出していた。人影も気付いて駆けてくる。足場の悪い瓦礫の海を、必死な足取りで駆けてくる。
「パパ!」
 声が聞こえて、不安そうな表情が喜びに変わる瞬間を見る。表情がはっきりと見て取れる位置まで近づいたとき、ミオは一瞬足を止めた。そのあと血相を変えてつまずきながら走ってくる。そんなミオを支えるように腕を伸ばした。その腕にしがみつくようにしたあと、ミオはオレを見上げて言った。
「パパ! どうしたの? 怪我をしたの? 誰にやられたのパパ! 達也がパパに怪我をさせたの!!」
 オレの服に大量に付着した血液を見て、ミオはまくし立てた。だけど、オレの方はミオがそう言うたびに無性に腹が立って、ミオの心配をやわらげてあげようという心の余裕を持つことができなくなっていた。理不尽な感情だったけれど、自分ではどうすることもできなかった。2度と聞きたくなかった。ミオの口から「パパ」という言葉を。
 ほとんど強引にミオを抱きしめてキスした。ミオは驚いて少し抵抗したけれど構わなかった。オレのミオだ。オレだけの、たった1人の、オレだけの女の子だから。
 絶対に放したくない。これから先、ミオが誰に恋をすることも許さない。2度と、オレをパパなんて呼ばせない。
 唇が離れたとき、ミオはいくぶん驚いた風にオレを見上げていた。
「オレはわがままだし、強引だし、たぶん乱暴だと思う。あんまり優しくないし、すごく嫉妬深い。ぜんぜん心なんか広くない。ミオが他の男の話をすればすごく腹が立つ。オレだけを見てなかったら、すごく悔しくて、強引だろうがなんだろうが絶対オレの方を向かせると思う」
 言いながら、オレはたぶん少し我に返るような感覚になってきたのだろう。自分が何を言っているのか、何を言おうとしていたのか、見失ってしまっていた。ミオの表情も変わっていた。少し目を細めて、微笑を浮かべて。
「……だから、つまり……よく判らないけど」
「 ―― 伊佐巳」
 名前を呼んで、オレの首にしがみつくようにして、キスをした。ほんの何秒か前にキスをしたばかりなのに、まるで初めてするみたいにドキドキして、自分で自分が判らなくなってしまった。唇を離したミオは、いたずらっぽい目をしていた。まるで年下の男の子を見ているように。
「どんな伊佐巳でも、あたしにはおんなじよ。……伊佐巳、あたしの恋人になってくれる?」
 なんだか、これから先、オレは絶対ミオには勝てないような、そんな気がした。
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記憶�U・91
「 ―― 理由は、聞かせていただけないのですか? 駄蒙」
 ボスのよく通る声は、距離を置いているオレの耳にも届いていた。駄蒙と、後ろに従う皇帝軍は、微動だにせずボスに銃を突きつけている。
「俺は命が惜しい。それじゃ理由にならねえか」
「他の人間は納得できるでしょうね。でも、私は無理です。あなたにとっては、私の傍にいることが生きていることですから。私から離れてまで生きることを望む訳がないでしょう」
「そこまでうぬぼれているとはな。めでてえ男だお前は。こんな男のそばに30年もいたのかと思うと反吐が出るぜ」
「30年、ですか。そんなにも長い時間傍にいたのですね。私はあなたのことでしたらなんでも知っているつもりですよ。あなたが嘘をつくとき、どんな表情をするのか、もね」
 オレの視界にサヤカが飛び込んできていた。まだ、距離は遠い。彼女はボスの姿を見つけて、足場の悪い瓦礫の海を必死に駆けてくるところだった。
「俺には皇帝陛下がお前を超えた指導者だってことが判った。俺が今までお前の傍にいたのは、お前が俺の求める男だと思ってたからだ。だけど俺は間違ってた。俺が求めていた男は、皇帝葛城達也だったんだ。だからお前に見切りをつけた。そういうことだ」
 ボスはおそらく何かを察したのだろう。それ以上、駄蒙に何も言わなかった。しばらく沈黙があって、その間に、サヤカが2人の間に割り込んでいた。彼女はボスに突き付けられていた多くの銃口をものともしなかった。
「駄蒙! 実を殺さないで。あなたを殺したのはあたしだわ。あたしを殺しなさい!」
「サヤカ、どきなさい」
「実はなにも悪くないの。実はあなたを裏切ったりしてないわ。裏切ったのはあたしなの。だから恨むんならあたしを恨んで」
 ボスの制止を無視して、サヤカは駄蒙に迫っていた。だが、駄蒙の方はほぼ完全にサヤカを無視していた。もしかしたら、駄蒙はそうせずにいられなかったのかもしれない。
「コロニーのボス」
 それまで、絶対に呼ばなかった呼び方で、駄蒙はボスを呼んだ。
「お前がみたび皇帝陛下に楯突くというのなら、俺はお前の敵になる。お前の敵になってお前を殺す」
「……判りました。肝に銘じておくことにします」
 何か言おうとするサヤカの肩を掴んで制し、ボスは立ち去ってゆく駄蒙を見送っていた。そうして駄蒙と皇帝軍が見えなくなると、サヤカはボスを振り返り、いきなり抱きついて口付けしたのだ。ボスも応じていた。オレが後ろにいることを知っていたら、おそらくそういう姿を見せはしなかっただろう。
 恋人同士の邪魔をするのも無粋なので、オレはサヤカが来たのと逆の方角に歩き始めた。サヤカとボス、そして、オレがいる。おそらく近くにミオもいるはずだ。ミオはオレを探している。今、オレが探さなければいけないのは彼女だ。
 夕日の沈む方角に向かって、オレは歩いていった。
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記憶�U・90
 息を吐いて、そのあと大きく息を吸って気付いた。呼吸ができる。オレは無意識に腹筋に力を入れて身体を起こそうとした。身体はオレの意思に従って動いたし、痛みを感じることもなかった。腹を探る。突き破られた血染めの服をめくってみても、オレの身体には傷も、それが確かに存在したという痕跡も、ひとつもなかったのだ。
 まさか、あれは幻覚だったというのか? いや、流れた血は本物だった。口内にはまだ血の味が生々しく残っているし、服の前後に開いた穴も、真っ赤に染めているまだ乾ききらない血液も、すべて本物なのだ。
 奴はオレの身体を貫いて、また元に戻し、オレをこの場所に飛ばしたのだ。
 いったい何が起こった。奴はなぜオレを殺さなかった。奴は本当にオレを殺そうとしたのか? オレは奴を殺すことができない。もしかして、奴もオレを殺せないのか?
 オレには奴を殺す力がないことを、葛城達也は知ったはずだった。葛城達也が本当に死を望んでいるのならば、オレは奴にとって何の価値もない人間だ。ならばあのまま殺しているのが当然だ。あのときの奴は、おそらくオレを殺すつもりだった。だけど気を変えた。いったい奴はオレの中に何を見たのだろう。
 ……もう、考えても仕方ない。とりあえず今考えるべきことはそんなことじゃなかった。オレと奴とは近いうちに会うことはないだろう。オレはおそらく追放になったのだから。
 周囲に目を向けると、そこはオレが見慣れた風景だった。とはいっても、場所を特定できるわけではない。そろそろ夕日が沈もうとしている。四方八方、見渡す限り広がっているのは、この3年間放置され雨風に浸食された東京の瓦礫の海だったのだ。
 オレだけが追放されたのか、それともミオや、ボスとサヤカも同時にここに送り込まれたのか、そのあたりのことはよく判らない。だけどこのままこうしていても確実に餓死するだけだったから、オレは歩き始めた。人の気配を求めてどのくらい歩いただろう。オレは遠くに幾人かの人影を見つけて、少し警戒しながら近づいていった。
 向かい風が人の声を運んでくる。後ろ姿で立ち尽くしているのは、コロニーの指導者ボスだった。そして、その向こうに立ち、ボスに銃を突きつけているのは、ボスの側近、幼い頃からの親友であるはずの、駄蒙だったのだ。
 駄蒙はうしろに何人かの皇帝軍を従えている。やはり駄蒙は裏切っていたのか。実際にその光景を目にしてはいたのだけれど、オレはかなり意外で、信じられない気持ちでいた。
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記憶�U・89
 頭が凍りついたように痺れ、オレは一切の思考を失っていた。一呼吸おいて込み上げてきたものを咳と一緒に吐き出す。目の前の葛城達也の頬に鮮血が張り付いた。一瞬なのだ。ほんの一瞬の間に、オレは葛城達也に殺されていた。
 今のオレの力で奴の攻撃から逃げられただろうか。いや、たとえオレの体調が万全だったとしても、攻撃の筋やタイミングがあらかじめ判っていたとしても、オレはこの攻撃から逃れることはできなかっただろう。
 俺の完敗だった。
「ヤワな腹だな。32年鍛えてこの程度かよ」
 オレの腹に腕を突っ込んだまま、ぐるりと捩じった。すぐにオレの口から再び鮮血が溢れ、その一部が葛城達也の頬に飛び散る。痛みに注意を向けたらその瞬間に発狂しそうな予感がした。呼吸は既に止まっている。
 倒れてしまうことすら許されなかった。
「苦しいだろ? 死にてえか? 伊佐巳。死にてえなら殺してやるぜ。腹に穴あけたまま生きてるのは苦しいよな。死にてえって、そう言えよ。言やあ殺してやってもいいぜ。これ以上苦しまねえうちにあっさり殺してやるよ」
 膝はがくがく震えて立っていることが辛かった。だが葛城達也は倒れることを許さなかった。腕一本でオレの身体を支えていてオレが体重をかけると内蔵に衝撃が走る。ここにはオレの怪我を治せる医者はいない。もしも奴が腕を抜いたら、オレはそのまま絶命するだろう。万が一死ななかったとしても余計に長く苦しむだけで結果は同じだ。
 結果は同じだ。オレは既に死んでいるのと同じなのだ。だけど、それでも、オレは今死ぬわけにいかない。たとえ何分でも、何秒でも、生きている限りオレは生きていたい。
 オレの人生はくだらないか、葛城達也。お前を殺すためだけに生きているオレは。
 貴様にとってオレの抵抗なんか虫に刺されたようなものかもしれない。それでも、オレは生きている限りお前を殺す。お前を殺せないまま死を選ぶことは、もう絶対にしない。
 痛みに霞む目で見据えた奴の表情は変わっていた。どう変わったのかはっきりは判らない。ただ、奴はもうオレを嘲笑してはいなかった。
「くだらねえよ。俺が引いたレールの上で踊ってるだけだ。俺はいつだっててめえなんか殺せる」
 今のオレの身体で、この状態で、葛城達也を殺す手はあるのだろうか。
 せめて1つくらい守りたい。ミオ、君との約束を ――
 葛城達也、貴様はいったい誰が引いたレールの上にいる。
「……てめえに俺は殺せねえ」
 その時、葛城達也は一気にオレの腹の中から腕を抜いて、内臓を撒き散らした。激しい痛みにオレは叫び声を上げた気がする。後ろ向きに倒れるように崩れ落ちた。しかし、再び目を見張ったとき、オレが見た風景の中に葛城達也はいなかった。
 いつの間にかオレのいる場所は、牢の中ではなくなっていたのだ。
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記憶�U・88
「てめえの空手じゃ俺は殺せねえよ」
 そう言って、馬鹿にしたように指先でオレを招く。何も言わずにオレは奴の顔面めがけて拳を繰り出した。それをひらりと避けて、また殴り返してくる。そうしてオレと奴とは本格的に殴り合いを始めていた。
 奴には格闘技を習得した経験はない。だけど、オレの拳の筋を予測できるらしく、5発中4発は確実に避けていた。オレは経験によって奴の拳を見極めていたけれど、時々秩序のない動きに翻弄されて、やはり同じくらいはくらっていた。オレと葛城達也はほとんど互角に戦っていたのだ。奇妙な光景だった。奴はオレを殺そうと思えばいつでも殺せるだけの能力を秘めているというのに。
 オレと、本気で殴り合っている。もちろんオレに余裕はなかったけれど、奴の方も必死だった。奴と殴り合わなければならない理由はオレには判らなかった。
 しかし、何度も殴り合っているうちに、オレは目の前の男が葛城達也なのだということを少しずつ忘れていった。相手を倒すことだけに集中して、肉体を駆使して技を繰り出した。オレはいつの間にか空手の試合をしていたのだ。日本の独裁者、コロニーを隔離した極悪人、殺すか殺されるかしか存在しないはずの、既に冷え切った関係を続けていたオレの父親と。
 やがて、蹴りと突きとの連続技が決まり、葛城達也は倒れた。当然の結果だった。空手のルールの中でならば、オレが葛城達也に負けるはずがないのだから。
「……てめえ、いったい何のつもりだ」
 倒れた葛城達也に、オレは言った。オレも奴もかなり呼吸が乱れている。
「たかが伊佐巳にも勝てねえのか。……俺はけんかは強くねえな」
 ……なんだ……? こいつはただ単にオレとケンカがしたかっただけなのか?
 オレが今まで見てきた葛城達也。ミオが、ボスが見ている葛城達也。今のこいつは、そのどれにあてはまるのだろう。それとも、この男はオレたちの理解力では計ることができない、狂った存在なのだろうか。
 なぜ、こんな男がいるのだろう。この男がなぜ、オレの父親なのか。
「伊佐巳、オレを殺してえか」
 仰向けに倒れたまま、葛城達也は言う。葛城達也は容易に死なない身体をしている。通常の方法で奴の命を奪うことはできないだろう。
「ああ、殺したいね」
「……それだけの人生か。てめえの命はくだらねえ」
 奴の言葉に怒りを意識した次の瞬間、葛城達也の拳はオレの腹を打ち、突き破り、背中をも破って反対側へ突き出ていた。
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記憶�U・87
 首を、締められた。
 もがきながら目を開けると、目の前にいたのは、まるでオレ自身を鏡に映したかのような、オレにそっくりな男。
  ―― 葛城達也!
「……生きてえかよ」
 息が苦しくて答えることができない。耳の奥が痛んで、必死に抵抗するのだけれど、一瞬一瞬、オレは死に近づいていた。オレは、殺される。葛城達也に殺される。
(……生きてえよ!)
 心の中で叫ぶ。叫んでも、葛城達也は手を緩めなかった。オレの声は届いているはずだ。本気なのかもしれない。オレを殺して、すべての禍根を断つつもりなのか。
「死にたくねえか? 伊佐巳」
 頭の中が痺れるように痛んで、頚動脈で押しとどめられた血液が、行き場を失ってもがいている。脳が酸素を求めて喘ぐ。視界が真っ赤に染まる。
(死にたくねえよ! 当然だろ!)
「当然、なのか? なんでてめえはそう思っているんだ。ミオが死んだとき、てめえは死んでたじゃねえか。ミオが死んだのは変わってねえ。それなのに、なんでてめえは命に執着してやがるんだ」
 ……何を、言ってるんだ? こいつは。ミオが死んだのは17年も前だ。その時オレの記憶を奪って、オレを立ち直らせようとしていたのは、間違いなくこいつのはずじゃないのか。
 こいつはいったい何がしたいんだ。オレを殺したいのか? ミオを愛するように仕向けて、記憶を取り戻させて、それでなぜオレを殺そうとするんだ?
 オレはたぶん、奴が本気でオレを殺そうとしているのではないと、無意識に感じていたのかもしれない。そうでなければ殺される瞬間にこんなことを考えたりはしなかっただろう。オレが考えていることが判ったのか、葛城達也は手の力を緩めて、オレの首を解放した。何度か、むせるような咳をして、ようやく呼吸を整えたとき、奴はいきなりオレの頬を拳で殴ったのだ。
 ニヤニヤ笑いながら、葛城達也はオレを見ていた。オレの中にふつふつと怒りが湧き上がってくる。オレは立ち上がって、満身の力で奴を殴った。奴はよけなかった。だけど、すぐに報復の拳が飛んでくる。
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記憶�U・86
 小さなミオに別れを告げた。
 オレの娘はオレの手の届かないところにいる。
 オレの恋人は、今でもオレを待っていてくれるのだろうか。

 湿った地下牢の中で目を覚ましたオレは、ボスに会うために再び牢を抜け出すつもりだった。サヤカはまだ来ない。当然扉の鍵は開いているはずだった。
 しかし、鍵はかかっていた。サヤカがオレに黙って鍵をかけたとは考えられない。サヤカが来たのならば、いくらオレが眠っていたとしても気付かないはずがないのだ。
 誰かが、鍵をかけた。音もなく忍び寄り、オレに気配を悟られずに。
(葛城達也、か……)
 それ以外考えられなかった。奴は、オレが牢を抜け出したことに気付いていたのだろう。それを承知でオレはサヤカに頼んだのだ。ひとたびは見逃しておきながら今鍵をかける理由を、オレは思いつくことができなかった。
 いったい何を考えているのか。
 もしかしたら、サヤカがここにくることは、2度とないのかもしれない。
 1人地下牢の中に閉じ込められていると、時間の感覚というのはなくなっていく。起きている時間を計ることはできても、眠っている時間を計ることはできないからだ。今はいったいいつなのか。朝か、昼か、それとも、既に夕刻に近いのだろうか。
 オレはそのまま何をすることもできず、数時間を過ごした。サヤカの言っていた食事を運んでくる人間も現われなかった。もしも、このまま食事も水も与えられずにいたら、オレはどのくらいの間生きられるのだろう。正気をどのくらい保つことができるのか。発狂と死と、いったいどちらが先に訪れるのだろう。
 喉の渇きと空腹。耐えられなくなったら、オレは壁に滴る水を舐め、蠢く昆虫を食うのかもしれない。生命欲とプライド。オレの中に最後に残るのは、いったいどちらなのだろうか。
 時間の感覚がなくなる。思考が失われてゆく。昆虫の蠢くかすかな音が別の音に聞こえる。誰かが笑っている。 ―― あの声だ。オレの夢の中に存在していた、葛城達也の仮面をかぶった亡霊。
 眠ることしかないと思った。狂気を忘れるにはそれしかないと。
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記憶�U・85
 地下牢の暗闇で目を開けてからも、オレはしばらく呆然としていた。得体の知れない昆虫は相変わらずざわざわと蠢いていたし、染み出した地下水が滴り落ちる規則的な音も聞こえていた。心臓の高鳴りは続いていた。いったいなんて夢を見たのだろう。
 しだいに思考力が戻ってくる。夢の内容を辿って、オレは愕然とした。そこにはオレのすべてがあった。オレがずっとこだわってきたことも、オレの心の叫びも。
 これが、オレの本音だ。ミオを誰にも渡したくない。誰を好きになって欲しくもない。いつまでもオレの傍にいて、オレのものでいて欲しい。もしもミオが他の誰かを好きになっても、絶対に渡したくない。たとえミオが不幸になっても。
 オレはもう、あの子の父親じゃない。あるいは以前からずっとそうだったのか。ミオが他の誰かに目を向けることがなかったから、そうと気付かなかっただけなのか。……今、初めて、オレは自分に出会ったのだ。恐れていた自分自身に。
 夢の中では、オレが不安に思っていることが、すべて実現していた。
 オレはミオが去ってゆくことを恐れている。離れていた3年間を、ミオに責められることを恐れている。記憶を取り戻したあの時、オレは15歳の伊佐巳を切り捨てた。そのことでミオに恨まれるのを、オレは恐れている。
 もう、遅いのだと、ミオは言った。オレは既に遅いのだろうか。今からでは間に合わないのだろうか。ミオはもう、オレを見限ってしまっているのだろうか。
 そうは思いたくない。まだ間に合うのだと信じたい。ミオの心は変わっていないのだと。
 周囲を見回して、オレはさっき自分の牢に戻ってきて眠ったのだということを思い出した。いったいどのくらいの時間、オレは眠ったのだろう。地下室の何の変化もない場所でいったん眠ってしまうと、時刻というものがまったく判らなくなってしまう。既に朝になっているのだろうか。もしもそうなら、ボスと話の続きをしたいのだけれど。
 眠っているボスを起こすことになっては気の毒なので、結局オレはそのまま再び眠ろうとした。
 しかし、そう簡単に眠ることはできなかった。だから自然にオレはミオのことを考えていた。15歳のオレが好きになった、ミオという少女。小さいのに強くて、しっかりしているようでどこか鈍くて、どんな表情をしてもそのたびにオレを惹きつけた。健気な女戦士のような、1つ年上の少女。
 16年前に抱き上げた小さな命。赤ん坊のミオはとても人間のようには見えなくて、だけどオレがいなければ生きられない小さな生物に、オレは夢中だった。赤ん坊は少しずつ子供になって、人間になって、言葉を覚え、自我を持った。友達とケンカをして泣いて帰ってくることもあった。わがままを言って叱ったこともあった。なんでもオレに相談する子だったけれど、いつの頃からか秘密を持つようになって、自分の世界を持った。オレの知らない世界を知っていった。
 オレは普通の父親がどういうものなのか知らない。だけど、今思うことは、父親というのは結局子供の人生を一定期間預かっているだけなのだということだ。オレは13年間、ミオの人生を預かった。オレは彼女の父親として、できることのすべてをしてきたはずだ。
(……10分だけ、会わせてもらえるかな。そのあとはあたし、伊佐巳の傍にいたい)
 オレは、娘に捨てられたのだろうと思う。彼女が伊佐巳という15歳の少年に恋をした瞬間に、彼女の中から父親は消えたのだ。本当にオレが殺すべきだったのは彼女の父親としての黒澤伊佐巳だ。15歳の伊佐巳でも、32歳の伊佐巳でもなく、ミオの父親である黒澤伊佐巳なのだ。
 オレは再び眠ってしまった。次に目覚めるまで、夢を見ることはなかった。
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記憶�U・84
  ―― 暗闇に目を凝らすと、ミオが立っているのが見えた。
「ミオ……?」
 ミオは微笑んでいる。その表情ははっきりとは判らないのだけど、ミオが微笑んでいることだけは判った。
「パパ、……パパはあたしの保護者、なのよね」
「ああ、そうだよ。パパはミオの保護者だ」
「ミオは16歳だから、保護者の承諾があれば結婚できるって、サヤカに聞いたの。だからパパに許してもらおうと思って。あたし、結婚したい人がいるの」
 ミオは微笑んでいた。オレは、今ミオがいった言葉に半ば呆然として、ミオを見つめていた。
「紹介するね、パパ。あたしの婚約者よ」
 ミオの隣に現われたのは、アフルだった。ミオはアフルの手を引いて、彼を見上げると微笑んだ。……ミオは、アフルと結婚したいというのか? オレの親友で、オレよりも2歳年上のアフルと。
「どうしてだ? どうしてアフルと」
「アフルはもう長くないの。だから少しでも一緒にいて、気遣ってあげたい。この3年間ずっと助けてくれたから、今度はあたしがアフルを助けてあげるの。それに ―― 」
 ミオは笑っている。だけどオレには表情が見えない。
「 ―― あたしが好きだった伊佐巳はもういないし」
 そうだ。オレは15歳の伊佐巳を殺してしまった。ミオが好きだった伊佐巳は、もうこの世にはいないんだ。
 ミオがアフルのものになる。オレのミオが、オレの傍からいなくなってしまう。
「……だめだ。許さない。アフルと結婚なんてオレが許さない。オレはお前の父親だ。オレが許さない」
「パパはあたしを3年間も放っておいたのよ。いまさらどうして父親だなんていうの? あたしの父親は、もう達也だわ。達也は許してくれた。あたしにはもうパパは必要ないのに」
 ミオの言葉はオレの胸にぐさりと突き刺さった。
「パパはあたしの伊佐巳を殺した。あたしは伊佐巳のことが好きだったのに、パパが殺したの。もう、恨んではいないわ。あたしにはアフルがいるから。アフルがあたしの少年だから」
 ミオはアフルの手を取って、オレに背を向けて遠ざかってゆく。オレは叫んでいた。何も考えずに叫んでいた。
「ミオ! ダメだ! オレから離れていくな! ……オレはミオのことが好きだ! オレにはお前が必要なんだ!!」
「もう、遅いのよ。何もかも……」
 誰よりもお前のことが ――
「ミオー!!」
 そう、オレが叫んだその時。

 オレは目を覚ましていた。
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記憶�U・83
「……それは、本当か?」
「私が嘘を言って何の得があるんです。それに、人間観察は私の趣味のようなものですからね。信じるに足る話だと思いますよ。ミオのことでは、よくかおるにからかわれていましたよね。「娘の尻ばっかり追いかけてる変態」なんて言われて」
 返す言葉もなかったから、オレは黙って、自分の中の感情を見出そうとしていた。オレはずっとミオを娘だと思い、そう接していたつもりだった。だけどボスに言わせればオレはあの頃からずっと、ミオを娘として見てはいなかったのだ。オレはいつからミオをそういう目で見ていたのだろう。もしかしたら、初めて抱き上げたあの時から、オレはミオを娘と思っていなかったのだろうか。
「伊佐巳、あなたはずっと、葛城達也のようにはなるまいとして生きてきました。でも、たとえあなたが葛城達也のように生きようとしていたとしても、絶対に葛城達也のようにはなれませんよ。それはあなたが人間だからです。あなたと葛城達也とは、決定的に違うんですよ。……これから先、葛城達也の影を感じることがあったら、呪文のように唱えるといいですよ。オレは人間だ。オレは葛城達也とは違う。奴のようになろうとしても絶対に奴のようになることはありえない、とでもね」

 ボスは葛城達也に神を感じ、オレは悪魔を感じる。
 だけどオレは人間だ。奴になろうとしても、なるまいとしても、絶対に奴と同じになることはありえない。
 それは、オレが生きることを大切に思う気持ちを持っているからだ。
 理不尽な死を与えるものに対する怒りを持っているからだ。

「……ミオのことは、幸せにしたいと思っている。だけどオレには自信がない。オレと一緒にいてミオが幸せになれるかどうか、それが判らない」
「私に言わせればそんな自信を持っている人の方が怖いですけどね。まあでも、ミオが伊佐巳といて幸せだと言っているのなら、きっとそうなんですよ。私にだって判りません。しょせん他人の気持ちですからね。自分の気持ちだってよく把握できないのに、他人の気持ちなんてそう簡単に判りませんよ」
 おそらくボスはサヤカのことを言っているのだろう。人間観察は得意だというようなことを言いながら、やはり自分のことはよく判らないのだ。それが妙におかしくて、オレは久しぶりに笑った。
「サヤカがボスを好きなのは本当らしいな。さっきサヤカと話していて判ったことだけど」
「あの年頃の女の子ですからね。恋をするなという方が残酷ですよ」
「で、どうなんだ? 惚れられてる方としては」
「彼女には3年前に言ってあるんです。私はコロニーを解放するまでは、自分の幸せを追求することはできないと。……まあ、コロニーの大部分の人たちは葛城達也の庇護を受けられることになりましたから、解放されたといって語弊はないのですけれど。まだ、時間が必要ですね。自分のことを考えるには」
 サヤカの恋もなかなか前途多難らしい。オレはあのきつい目をした美少女を思い浮かべて、また少し笑った。
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記憶�U・82
「ところで、あなたの方の話も聞かせてください。記憶をなくしてミオと過ごしていたのでしょう?」
 オレはあの頃のことを思い出して、少し顔を赤くしていた。ボスもサヤカを通じて大まかなところは聞いているのだろう。32歳のオレしか知らない人間に15歳のオレのことを話すのは、さすがにかなり赤面ものだった。
「ボスはオレの記憶障害に気付いていたのか?」
「そうですね。気付かなかったと言えば嘘になります。あまり甚大な被害を及ぼすほどではなかったので黙っていましたけど」
「いつからだ?」
「最初からですよ。あなたがコロニーに現われて自分の経歴について話していたときもですし。誰かに記憶を封じられているような印象を受けました。それからも時々記憶が抜けているようでしたね。伊佐巳自身は気付いていなかったのですか?」
「……そんなに前からとは思わなかった」
「表面的にはさして支障がないくらいでしたよ。ところで、そんなことでは私はごまかされませんよ。記憶をなくして、あなたは15歳のあなたに戻って、ミオに恋をしたそうですね。そのあたりを詳しく話してください。私はあなたに会ったらまずこれを訊こうとうずうずしていたんですから」
 そうだった。ボスにはこういう人の悪い一面もあったのだ。
「詳しくも何も今ボスが言った通りだ。……最初、まったく記憶がなかったとき、オレは最初に見たミオを母親のように思って慕った。そのあと15歳までの記憶が戻ってからも、オレはミオが自分の娘だなんて思わなかったから、ずっと恋人として大切にしていけると思ってた。……だけど、今はミオはオレの娘だ。娘だと思って愛してる」
「恋人ではダメなんですか? 確か血のつながりはないはずですけど」
「赤ん坊の頃から育ててきたんだ。血のつながりなんかなくたって娘だろう。オレはあの子の父親だ」
「……なんとなく判りました。あなたはまだ、葛城達也を意識しているんですね。あなたは葛城達也と同じものになりたくはないんです。葛城達也が自分の養女であるミオを女性として愛した。その前例があるから、自分の本当の気持ちを認めることができないんです」
 確かに、オレは奴が自分の娘を愛していたことに対して嫌悪感を抱いたことを覚えている。だけど、それとこれとは別なはずだ。ミオは確かにオレの娘で、その記憶は今でも鮮明に残っているのだから。
「葛城達也は関係ない」
「そうですか? ……私は3年前からあなたもミオも知っています。その頃から私はあなたとミオの親子関係に違和感を持っていましたよ。だいたいあなたのミオを見る目は娘に対するものとは明らかに違っていました。ミオの方もです。本当に気付いていなかったのですか?」
 ボスの新たな指摘に、オレは自分の耳を疑いたくなった。
「……なに?」
「ミオはずっとあなたに恋をしていたし、あなたもミオを娘だなんて思っていなかったんですよ。だからもう自分をごまかすのはやめなさい。少なくとも、私の前では」
 ボスの言葉は、オレの中にかなりの衝撃を持って迎えられていた。
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記憶�U・81
「私は、あの災害によって、葛城達也は妹に殺されたかったのだと思います。しかし妹は彼を殺しませんでした。そして災害後の日本を見たとき、彼は人々が指導者を求めていることを知ったのです。その求めに突き動かされて彼は皇帝になりました。しかし、自分を殺せる人間を求めているという彼の欲望のために、東京だけを隔離して、いずれ自分を倒す人物がその中から現われてくることを望んだのです。もちろんあなたの存在も頭に置いていたでしょう。事実、コロニーは2度の革命を起こし、葛城達也を殺そうとしました。……私は彼との会談で、彼の言葉を聞きました。たった一言だけです。「今でも俺を殺したいか」と」
 自分の命を存えさせたいと思わない人間に、他人の命の重さは判らない。生きたいという欲望のない人間に、他人が生きたいと思う気持ちは判らない。葛城達也には生きることのすばらしさも、魅力も判らない。欲望を持たない指導者。そういうことだったのだ。
 ボスの言う通りだった。葛城達也は今まで、他人の欲望に動かされ、自分の「死にたい」という欲望を満たそうとしていたのだ。オレが抱いていた葛城達也に対するさまざまな矛盾が、ボスによって解き明かされていた。なぜ、オレを殺さないのか。なぜボスを、ミオを殺さないのか。それはミオを愛しているからではない。オレたちが葛城達也を殺す可能性があるからなのだ。
 ミオの言うことが間違っているわけではない。ミオは確かに葛城達也の一面を捉えたのだろう。ミオが言う通り、今妹が奴の前に現われ、一緒に暮らしたいと言えば、彼は簡単に日本を見捨てる。だが、もしも彼女が一緒に死のうと言ったとしても、奴は言う通りにするのだろう。それは妹への愛情というよりも、妹が自分を殺せる人間だからなのだ。
「伊佐巳、葛城達也を殺すことは、本当に正しいのでしょうか」
 オレはボスの言葉に驚いて顔を上げた。
「正しくないとでも思うのか?」
「それが判らなくなりました。……駄蒙が、私を見捨てて葛城達也についたのだとしましょう。彼はなぜ、葛城達也を選んだのだと思いますか? 私には見出せない可能性を、葛城達也に見出したのではないでしょうか」
 ボスはやはり、駄蒙のことでかなりショックを受けているのだ。それでなければこんな迷いを表に出すようなボスではない。以前、ボスは言っていたことがある。駄蒙という人間でいるということは、どういうことなのだろうと。幼い頃から本名で呼ばれることを拒否し、駄蒙という名前を自分でつけてボスというキャラクターに尽くすというのは、いったいどういうことなのだろうかと。
「駄蒙がボスを捨てて奴につくことなんか、本当だと思うのか?」
「ありうることだと思いました。……葛城達也という人は、既に人間のことわりを超えています。私は彼に神を感じるのですよ。その力も、魅力も、残酷さも。人々はみな彼に神を感じているような気がします。ですから彼を崇拝し、彼のもとでは安堵と畏怖とを感じる。私は自分の中にそういった感情が芽生えていることを知って、愕然としました。伊佐巳、あなたは感じませんか?」
「オレは最初からあいつのことは悪魔にしか見えねえよ」
 ボスはほっとしたような、なんとも形容しがたい表情をした。
「……やっぱり、私はあなたのそういうところが好きです。判りました。私も駄蒙を信じることにします。私は彼が皇帝側につくよりは、死んで欲しいと考える人間です。駄蒙もそういうことは判っているでしょう」
 1つ間違えば、ボスは間違いなく独裁者になる。今の彼の言葉には、オレにそう思わせるものがあった。
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記憶�U・80
「子供で、すら、ないのか?」
 子供だ、というのならあるいは判ったかもしれない。奴が自分の欲望に正直な子供だというのならば。
「そうです。私は以前からずっと、葛城達也と自分とを比較し続けてきました。私は自分が指導者として生まれついたのだと知っています。そのことは時々あなたにも話してきたことですから、理解していただいてると思います。私という人間は、ごく普通に生きている人間よりも、強い欲望を持っているのです。平凡な幸せでは満足できない。何もかもが欲しい。何もなくしたくはない。私は駄蒙の親友であることも、あなたの同志であることも、コロニーの人たちの指導者であることも、すべてを望んでいます。私にはすべてが大切で、すべてを欲し、すべてを選びます。ですからすべてを得るために行動してきました。コロニーの誰1人として不幸にならないように、誰もが平凡な幸せを享受できるように、それを阻む葛城達也という人間を滅ぼそうとしてきたんです。
 私は、葛城達也は独裁者なのだと思っていました。独裁者というのは、私と同じく強い欲望を持っていて、しかしひとたび得たものを維持する方法を間違えた人なのだと思います。人間は自分を幸せに導いてくれる人を指導者とあがめることはあっても、自分を押さえつける人間をいつまでも指導者にしておくことはありません。いずれ関係は破綻していきます。それを理解していないのが独裁者なのでしょう。
 でも、葛城達也は違います。彼は私や独裁者が持つ強い欲望というものを持っていないのです。それどころか、普通の人間が抱く平凡な欲望すらも、彼は持っていないのです」
 オレにはボスの言葉と葛城達也とを結びつけることができなかった。葛城達也は欲望を持たない、そんな言葉を信じられるはずがないのだ。奴はいつも自分のために人々を押さえつけてきた独裁者だったのだから。
「判りませんか。たぶん伊佐巳には判らないでしょうね。ミオは葛城達也は自分の欲望に正直に生きている人だと言っていたそうですが、それは正解のようでいて実は違っています。葛城達也は自分の欲望で動いているのではなく、人々の欲望によって動かされているんです。……ちょっと判りづらいですね。最初から説明しましょう。
 葛城達也という人は、幼少期は施設で暮らしていたということですが、その生活は普通の子供と何ら変わることはなかったといいます。確かに天才的に頭は良かったようですが。しかし10歳のときに自分の能力に目覚め、11歳で自分が死ぬことのできない身体だと知りました。そのときから、彼の中からは根本的な欲望がなくなったのです。それは「生きたい」という欲望です。自分の生命に対する執着を、彼は失ったんです。
 その後、彼は相次いで2人の兄弟と離別します。それからの彼は、私が先ほど言ったとおり、周囲の求めにしたがって生きているのです。彼の父である城河財閥の総帥が亡くなったとき、城河財閥に跡取はおらず、内部は混乱しました。それを治めることができるのは彼だけでした。彼はそのことを敏感に察知して、半ば乗っ取るような形で城河財閥の総裁になったのです。……伊佐巳、あなたは不可解だと思ったことはありませんか? 彼はなぜ地球が災害に襲われることを黙って見過ごしたのでしょう。この災害は葛城達也の妹が起こしたものです。ミオが言っていたことなのですが、おそらく間違いないはずです。その時、葛城達也には妹の行動を止めることもできたはずではないですか? それなのに彼は妹に災害を起こさせ、今は妹のためと称して日本を作り直そうとしている。ミオは納得しているようですけれど、私には余計に矛盾が見えてしまうのですよ。……私には、彼が死にたがっているようにしか見えません。彼に今欲望があるとすれば、「死にたい」ということ、ただ1つなのだと思うのです」
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記憶�U・79
「最初の3日間、葛城達也に呼び出しを受けるまでですけれど、それまではアフルストーンという人物が私を尋問していました。尋問という言葉が正しいのかはわかりませんが。ほとんど雑談に毛が生えた程度のものでしたから」
 それだけきいても、アフルが葛城達也に信頼されているのだということは判る。アフルはボスと雑談しながら、ボスの心の動きを観察していたのだろう。
「アフルはオレの親友だった男なんだ。奴はボスに触れたか?」
「いいえ。……そうですか。それでなんとなく納得しました。彼は私に対して興味と好意を抱いているように思えましたので」
「接触感応者で、身体の一部に触れていれば心の隅々まで読み取ることができる。その能力は葛城達也よりも強いかもしれない。触れてなくてもある程度は判るはずだ」
「なるほどね。彼は察しがよすぎたので、私も疑ってはいました。会話の内容はどちらかといえば私の思想に関しての話が多かったですね。宗教を尋ねられたりもしましたから。まあ、私は無心論者なのですけれど。駄蒙のことや伊佐巳のこと、そのほかコロニーの人間に関してもさまざまな質問を受けましたよ。そのあたりもあなたと以前から打ち合わせていた通り、嘘は一切つきませんでした。……そう言えば、ブルーという人間のことも訊かれました。あなたにも話したことがあったと思いますけれど」
 ブルーは、ボスがアフリカを旅していたときに出会ったという日本人のことだった。40歳くらいに見えるその男はオレによく似ていたという。その時オレはボスに、その男は葛城達也の弟だと説明したのだ。
 そうか、葛城達也は弟の消息を知らなかったのだ。妹の今の居場所が判らないと同じように、弟の居場所も突き止めることができなかったのか。
「私が葛城達也と直接会ってからは、彼はここに現われてはいません。葛城達也との会談は2日前だったと思いますが、いきなりめまいのような感覚になりまして、目を開けるとここではない部屋の中にいました。葛城達也が私との会談を望んでいるということはアフルストーンから知らされていましたので、私はすぐに目の前の葛城達也を観察しました。すると、葛城達也はその能力を使って私を縛り、おそらく私の頭の中を覗いたのでしょう。掻き回されるような嫌な感じがありました」
「アフルの接触感応ならそういう感じはないけどな。あいつはそこまで人に気を遣うような性格じゃないんだろう」
「相変わらずですね、伊佐巳。あなたは葛城達也のことになるとすぐに冷静な観察を忘れてしまう。他のことでは非の打ち所がないほど優秀なだけに残念ですよ」
 ボスに言われて気付いた。オレはまだ完全に奴の影を追い払うことができずにいるのだ。
「まあ、それはいいですよ。私はあなたに頼らずとも、彼を観察することができましたから。……伊佐巳、私は葛城達也を、少なくとも葛城達也の中にある人格の1つを理解しましたよ。彼は私が考えていた人物像とはまったく違っていました。……彼は、彼の本質は、日本の指導者などにはまったく向いていない、純粋な子供ですらないんですね」
 オレは、ボスの言葉に、かなりの違和感を禁じえなかった。
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記憶�U・78
 カギの音が響いて、サヤカが歩き去る足音が聞こえていた。それからどのくらい待っただろう。おそらく2時間くらいは経っていたと思う。
 オレはすっかり空腹だったし、眠くなりつつもあったのだけど、そっと立ち上がってドアノブを回してみた。音を立てないように外開きの扉を押す。サヤカは約束を守って、ドアのカギをかけずにいてくれたのだ。
 扉を出たオレは、よく音の響く廊下を、できるだけ足音を立てないように歩いていった。その廊下の両側にはオレが出てきたと同じようなドアがいくつも並んでいる。しばらく歩くと「く」の字に曲がっていて、上りの階段が見えていた。
 この階段を上がれば、ミオがいる部屋や、オレが前に過ごしていた部屋などもあるのだろう。しかしその階段は無視して更に先に進む。と、また同じように曲がっていて、その両側にはドアが並び、どうやらその地下室が階段のあたりを中心にシンメトリの構造になっていることがうかがえた。
 オレはほぼ確信して、1番奥、オレがいた部屋からちょうど線対称の位置にある部屋の前で足を止めた。そして、ゆっくりとノブを回してみる。思ったとおりカギはかかっておらず、顔を覗かせると、不審げにこちらを見つめていたボスの視線と合った。
「……伊佐巳?」
「ああ。久しぶりだな。入ってもいいか?」
「ええ、どうぞ」
 ボスはオレよりも2歳年下で、今年30歳のはずだった。オレが覚えているよりもかなりやつれた顔をしていた。もともとそれほど身体も大きくはなかったし、コロニーの中で太ることなどできるはずもなかったから棒のように痩せてもいたのだけれど、この5日間で更に小さく細くなったようだった。だけどその知的で意志の強い目の表情は失われていない。オレが知らない5日間に多くのことがあったのだろうけれど、それはほんの少ししか表に現われてはいなかった。
「サヤカはカギをかけなかったんですね。私には何も言っていませんでしたけれど」
 ボスは誰に対してもそうした丁寧語で話していた。それはどれだけ気心が知れていたとしても変わらない。オレはそんなボスの物言いに、何となく安心感のようなものを感じていた。
「オレが頼んだんだ。今までボスは駄蒙と話そうと思わなかったのか?」
「サヤカが来られるようになったのが3日目でしたし、その前後は皇帝に呼び出されたり、この牢の中も落ち着きがなかったですからね。ようやく昨日あたりから落ち着き始めたんですよ。それまでは危険でとても牢を抜け出すことなんかできませんでした」
 あるいは、その頃の状況をオレが知っていたのなら、もう何日か様子を見ていたのかもしれない。ボスに言わせればオレの行動はかなり大胆だったのだろう。苦笑交じりの笑顔で、オレを見ていた。
「とにかく直接話せることは喜ばしいですね。願うのは邪魔が入らないことです」
「まあ、大丈夫だろう。そろそろ地上は眠る時間だ」
 それから、ボスは自分の5日間について、オレに話してくれた。
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記憶�U・77
 あるいは、駄蒙は牢の中から逃げたか、それとも、葛城達也の側についたというのか。
 いや、たとえどんな条件を出されようと、駄蒙がボスを裏切ることなどありえない。あの駄蒙という男は、ボスを裏切るくらいなら命を捨てる方を選ぶ人間だ。
「サヤカ、君はどう思う?」
「正直判らないわ。でも、もしかしたら駄蒙は裏切ったかもしれないと思うわ」
「それはどうして?」
「たとえ裏切っていたとしても、駄蒙が生きている方がボスは楽だもの。駄蒙にはそういう選択肢もあったと思うわ。皇帝が国民の心を掴むためには、駄蒙を殺すよりもコロニーを裏切った駄蒙の存在を知らしめる方が、ある意味効果的かもしれない。駄蒙はコロニーのボスの側近だもの。……どちらにしても、あたしたちはもう駄蒙を取り戻すことはできないし、駄蒙のことを気に病む必要もないんだわ。この先、3回目の革命を起こしたとき、駄蒙があたしたちの前に立ちはだかるまで」
 この少女は駄蒙を嫌っていた訳ではない。むしろ大切に思っていたことだろう。駄蒙は無愛想で、感情を表に出すことはなかったけれど、サヤカのことを大切にしていたのは間違いなかったから。
 この子は今でも、駄蒙を殺したのは自分なのだと思い、償いをしようとしている。
「それについてボスはなんて言ってる?」
「伊佐巳の意見を聞きたい、って。葛城達也は駄蒙の裏切りを認めるような人間なのかどうか」
「……認めるさ、奴なら」
 むしろ奴の方から持ち出した話なのかもしれない。もしもそうだとしたら、駄蒙が裏切るまでの心の葛藤はすさまじいものがあっただろう。駄蒙の裏切りが事実なのだとしたら、オレはその裏切りが駄蒙の方からの話であることを祈りたかった。
「ボスは2日前に葛城達也と話しているの。でも、交渉なんて言えるものじゃなかったって、ボスは言ってたわ。見えない力で身体を拘束されて、頭の中を覗かれたの。まるで内臓に手を突っ込まれてかき回されてるみたいだったって」
 サヤカは自分の肩を抱きしめて身震いした。オレにも覚えがある。葛城達也のやり方はアフルとは違って、相手がどう感じるかなどまるで構わないのだ。
 奴はボスの駄蒙へのこだわりを見抜いたのだろう。だから駄蒙を殺すことにした。
「サヤカ、頼みがある」
 オレは、サヤカの手を握って、彼女を見つめた。その手には牢のカギが握られている。
「……判ったわ。任せて」
「ここには皇帝側の人間は来るのか?」
「地上の時間にしてお昼くらいかしら。1日に1度、食事を運んでくる人間がいるわ。あとは地下への通路に見張りが1人いるだけよ。このフロアの中で見張ってる人間はいないの」
「君はいつもどのくらいの頻度で来ているの?」
「1日2回、午前と午後に」
「好都合だ。助かるよ」
 サヤカは微笑んで、ドアを出て行った。
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記憶�U・76
 今日のうちにもう一度来ると言い置いて、サヤカはあわただしく牢を出て行った。これからボスやミオに事の顛末を話すのだろう。静かになってしまった牢の中に座っていると、まるでこれまで長い間ずっとそうしていたような、奇妙な感覚に囚われる。記憶を失っていた5日間を除けば、オレの人生の時間はひどく忙しく、めまぐるしい。特にこの3年間はものをゆっくり考える暇もなかった。毎日ボスと語り合い、どうやって皇帝を倒すか、倒せた後はどう日本を動かすか、倒せなかった場合は皇帝とどんな交渉を進めるか、詳細を話した。
 今、何もできない状況に追い込まれて、正直オレは何をすればいいのか判らなかった。情報は何も入ってこない。ボスの考えを聞くこともできない。オレはこの3年間、ボスの理想を実現するという立場でしか思考せず、生きてこなかったのだ。
 オレの中には何もない。ボスというよりどころを失ったオレは、自分自身で考えることも、行動することもできないのだ。
 オレは今という瞬間に、いったい何をすればいいのだろう。オレが今コロニーのためにできることは何だ。この牢の中で、サヤカとしゃべることしかできない今の状況で、オレはオレのために何かができるのだろうか。
 オレのために。オレ自身のために。オレが今本当に大切に思っていることのために。
  ―― オレは今、ミオの近くにいることができないけれど、やっぱりオレにとっての1番は、ミオが幸せでいることだ。
 幸せの前提は、まずは心の平穏だ。心が平穏でなければ幸せとはいえない。それにはミオの心を乱すものをひとつひとつ取り除いていくことだ。まずはオレ自身。オレが安定していることが、ミオの心を安定させる。
 駄蒙のことも、コロニーの今後のことも、ミオには心配の種だろう。それは本来ミオが背負うべきことではないけれど、今ミオが背負わされているのは事実だ。だけどこの状況でミオが背負うものを軽くすることはできない。ミオはこれ以上何も背負えない。オレが動けないのだから、この状況を打破するためには、誰かに動いてもらうほかはない。
 16歳の女の子には、確かに荷が重いかもしれない。だけど、ここで彼女にがんばってもらわなければ。
 牢の中を行き来できるだけのサヤカには、いったい何ができるだろう。オレとボスとの連絡役のほかにできることはあるだろうか。
 オレが考えていた時間は、客観的な時間にすればかなり長かったらしい。足音が近づいてきて、オレにはサヤカが来たことが判った。ドアを開けて入ってくる。何の挨拶もなく、突然サヤカは言った。
「伝言をもらってきたわ。誰から聞きたい?」
 当然のようにオレは答えた。
「まずはミオから頼む」
「ミオは伊佐巳の居場所が判ったことでかなりほっとしていたわ。牢の中だから心配もしていたけど、伊佐巳には、自分のことは心配しないように伝えて欲しい、って。葛城達也はコロニーの人間を全員保護する方向で決断したわ。もちろん、伊佐巳とボスだけは例外だけど」
「……てことは、奴は駄蒙も保護するのか?」
「ミオもそれには疑問を持って、訊いてみたわ。葛城達也は言ったそうよ。……駄蒙は既にコロニーの人間ではない、って」
 まさか、駄蒙は既に葛城達也によって殺されてしまっているというのだろうか。
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記憶�U・75
「逆なのよ、伊佐巳。あたしはミオがいなかったら今日まで生きていられたかどうか判らない。ミオがいたから生きていられたの。ミオが辛い役目を全部引き受けていたの」
 サヤカの目が輝いて、オレは胸を打たれた。おそらくミオも同じことを言うのだろう。サヤカがいなければ生きていられなかったと。
「あたしは伊佐巳に感謝しているわ。ミオを生んでくれたこと、ミオを育ててくれたこと、ミオを連れて東京にきてくれたこと。そのことでミオは1番辛い立場に立たされてしまったから、あたしはミオに幸せになってもらいたい。……伊佐巳、ミオはあなたのことが好きよ。判っている?」
 この少女に嘘はつけないな。観念して、オレは笑顔で答えた。
「……ああ、判ってる」
「あたしたちはいつ死ぬか判らない。常識も何もかもすべて壊れてしまっているし、コロニーの人間に戸籍なんかとっくにないわ。血の繋がりがない以上、あたしたちはただの人間で、男で、女だもの。あたしは絶対に後悔なんかしたくないし、ミオに後悔もさせたくない。伊佐巳が何にこだわるのか判らなくはないけど、ミオに後悔だけはさせないで。あたしたちには一瞬一瞬がすべてなんだから」
 サヤカの言葉はオレには重く、心に鋭く突き刺さった。この少女は自分の言葉でオレに語りかけている。3年前から、この少女はコロニーの希望だった。今でもそうだ。誰の心にも響く言葉を、この少女は持っている。
 オレは彼女にかなわない。おそらく、ボスもこの子にはかなわないだろうな。
「今度ミオに会うときまでじっくり考えるよ。ところで、ボスもこの近くにいるのか?」
 オレが言うと、それ以上ミオの話を蒸し返すことはなく、気持ちを切り替えるようにサヤカは言った。
「同じフロアの1番離れた牢に入れられてるわ。ここからでは声も届かないの」
「様子は?」
「駄蒙のことでかなり痛手は受けているけど、もともと表に出す人じゃないから、表面的には変わらないわ。本当だったら自分が殺されるはずだったのだから当然だと思う。何もできないことが1番辛いの。理屈では判っているから、余計」
 ボスと駄蒙の心の結びつきは、3年間共に革命を背負ってきたオレにはよく判っていた。駄蒙を殺すことに関する心の葛藤は、オレなどとは比べ物にならないだろう。
「実にとっては伊佐巳の存在の意味も大きいわ。駄蒙は心の支えだったけど、伊佐巳は駄蒙以上に革命の柱だったもの。ボスはむしろ伊佐巳が殺されなかったことに希望をもっているの。だから伊佐巳には期待にこたえて欲しい。あたしたちの3回目の革命のために」
「それはサヤカ、君の希望なのか?」
「そうよ。あたしは実を早く責任の重圧から解き放ってあげたいの。実は革命を成功させなければ幸せにはなれない。そして、実が幸せにならなかったら、あたしも幸せにはなれないから」
 今のサヤカには、矛盾もためらいもない。
 ミオはサヤカを見ていて、それで思うのだろうと判った。自分の幸せを追求する生き方が正しく、そういう人間には矛盾がなくて、そうでない人間よりもはるかに優しくなれるのだと。
 オレはサヤカの希望をかなえたいと思った。誰のためでもなく、オレ自身のために。
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記憶�U・74
 牢の中の独特の臭いも、昆虫の大群も、サヤカはまるで気にならないようだった。オレの前に膝を立てて座り、顔を覗き込む。こうして近づけばサヤカの顔も少しは見ることができた。年齢よりも少し大人っぽく見える、ほっそりとした美少女だった。
 3年前の面影は見つけることができなかったけれど、ミオとは違って髪を短くしていたことだけが、オレに13歳だったサヤカの名残を感じさせた。
「ミオと葛城達也とは何かあったのか?」
 オレが訊くと、サヤカはにこりともせず答えていた。
「何もなかったわ。ミオがいつもと同じように伊佐巳の様子を皇帝に伝えて、伊佐巳の部屋に戻ったらあなたは姿を消してたの。一瞬逃げたのかと疑ったみたいだけど、パソコンがつけっぱなしになってたから、きっと何かあったんだって、すぐにあたしのところに駆け込んできた。あたしはミオのように自由にあちこち移動できるわけじゃないのだけど、この牢屋にくることだけは許されてるの。だからあたしがここにきて、あなたを見つけたんだわ」
「ミオはここにこられないんだな?」
「ええ。葛城達也が許さなかったの。あたしがボスに会うために許しをもらうことはできたけれど」
 なるほど。オレが記憶を失っている間の5日間に、サヤカはボスに会って指示を受け、それをミオに伝えてミオがコロニーのみなに知らせるというようなネットワークを、この2人は作り上げてきたのだ。
「さっき、オレを駄蒙と間違えたね。やっぱり駄蒙はここにいたのか?」
「昨日まではね。今日の午前中にあたしが来たときにはもういなかったの。他の牢もくまなく探したけど、駄蒙はいなかったわ。……もう殺されてしまったのだと思う?」
「いや、おそらくまだだろう。オレたちに何も知らせずに殺すとは考えにくい」
「伊佐巳がそう言うならそうかもしれないわ。……この場所よ。この場所であたしは駄蒙に言ったの。実のために死んで欲しい、って」
 目をそらさず、迷いも見せずに、サヤカは言った。ミオの言う通りだ。サヤカは強い。ミオに話を聞いていなかったとしたら、オレは彼女の中に多くの葛藤があっただろうことを見逃してしまっていたかもしれない。
「それで、駄蒙はなんて」
「憎らしいくらい駄蒙は無口な人よ。「判った」としか言わなかったわ。……あたし、絶対に皇帝を許さない。必ず皇帝を殺すわ」
 怒りの中に悲しみがある。だけどその悲しみを1つとして表面に見せることはなかった。もしも記憶を失ったオレの前に現われたのがミオでなく彼女だったら、オレは彼女に恋をしただろうか。おそらくオレは見抜くことができなかっただろう。この少女の優しさも、強さに隠された悲しみも。
「すぐにミオに伝えるわ。伊佐巳がここにいること。だけどその前に伊佐巳が訊きたいことや伝えたいことを全部話しておいて。次はいつ来られるか判らないから」
 オレは、とりあえず1番伝えたかった一言を、目の前の少女に言った。
「サヤカ、この3年間、ずっとミオの傍にいてくれてありがとう。ミオを助けてくれて」
 この時、サヤカはやっと笑顔を見せた。
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記憶�U・73
 地下室の気温は暑くもなく寒くもなく、オレは今の季節が春なのだということを思い出した。窓はなく、木製のドアに小さな覗き窓のようなものがついていて、内側からは開けることができない。空気はかなりよどんでいた。染み出した地下水がたえず流れ込んでいて、それらが結露となって壁や天井、床をも濡らしている。おかげで衣服はすぐに湿っぽくなったし、得体の知れない苔や昆虫が繁殖していて、うっかりしていると全身うじ虫に纏わりつかれてしまいそうだった。
 必要以上に昆虫を恐れたり嫌ったりしている訳ではないけれど、とりたてて友好的に付き合いたいとも思っていないから、できることならそちらに近づきたくはなかったし、そちらから近づいて欲しくもなかった。オレは床のできるだけ湿っていない、おうとつの少ない場所を決めて腰掛けた。今のオレには考えることと待つこと以外許されていないようだった。
 ミオは、いったいどうしているだろう。オレがここに飛ばされたことを知っているのだろうか。おそらく知っているのだろう。オレが葛城達也によって瞬間移動させられた時刻は、ちょうどミオが奴と会っている時だったのだから。だけどミオをこんな場所に連れてきたいとは思わなかった。
 オレはもうミオに会えないのかもしれない。
 少なくとも、オレの処遇が決まり、追放になるまでは。
 おそらくこのまま餓死させるつもりはないだろうから、そのうち食事を運んでくるなり何かしらの動きがあるだろう。オレはその変化を待ちながら、さっきパソコンの画面にあった「処分」の意味を考えようとした。
 葛城達也が駄蒙を殺すことは奴の中では決定事項なのかもしれないけれど、それは本来みせしめでなければ意味がない。オレたちコロニーに対してと、民衆に対してだ。民衆はオレたちが呼びかけたこともあって、事の顛末を知っている者が多い。駄蒙を殺すことで民衆の決起を抑えることを、葛城達也は望んでいるはずなのだ。
 それでなければ駄蒙が死ぬことに意味はない。こっそり処分されたのでは、誰も死ななかったのと同じなのだ。だから今の段階で駄蒙が死んでいるはずはない。オレは駄蒙を救う手立てを考えることができるだろうか。
 オレはまた何か間違いを犯しているのかもしれない。オレの浅い考えでは、葛城達也を見抜くことができないのかもしれない。
 どのくらい考えつづけていただろう。自分に沈み込んでいたオレは、その足音を聞いて現実に引き戻された。足音はまっすぐこの牢を目指している。やがてドアの前で足音は止まり、その声がしんとした牢の中に響いてきた。
「……誰かいるの? ……駄蒙? 駄蒙なの!」
 声は廊下に反響して聞き分けることができなかった。だけどそれが若い女の声なのだということは判った。
「誰だ? ミオか?」
「……もしかして、伊佐巳パパ?」
 声の主はどうやらカギを持っているらしく、ガチャガチャ音を立ててやがてドアを開けた。伊佐巳パパと呼びかけられた時から声の主の見当はついていた。姿を現わしたのは、暗闇でよくは見えなかったが、少なくともミオではなかった。
「伊佐巳、伊佐巳ね!」
「……サヤカか?」
「そうよ。……ああ、ここにいたのね。ミオが半狂乱になって探してたからもしかしてと思って来てみたの。ここにいてくれてよかった」
 ミオよりも背の高い、すらっとした少女は、なんのためらいもなく牢の中に飛び込んできていた。
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記憶�U・72
 油断していた訳ではない。自分の今の状況を忘れていた訳でもない。ただ、オレはまた奴を常識で計ろうとしていた。奴に常識など通用するはずがないのに。

 風呂から出て、オレは思いついてパソコンのスイッチを入れた。メインコンピュータに接続して、例の要注意人物が並べられた画面を呼び出す。記憶が完全に戻ってからこれを見るのは初めてだった。うかつに開けばまた回線を切られることは判っていたから、オレはそのローマ字の人物をひとつひとつ記憶と照らし合わせていった。
 オレの名前は上から3番目にあって、その前に2つの名前がある。最初が「Minoru」、次が「Damo」。実(みのる)はオレたちがボスと呼んでいるコロニーの指導者だ。駄蒙は実の幼馴染でボスの影のように付き従っていた側近。その次にオレの名前があるということは、この名簿はコロニーの人名禄ということになる。
「Kaoru」「Makoto」「Tomoyuki」「Kisara」「Yuji」……。下の方に行くと、「Mio_k」「Sayaka」とあって、人質になっていた人たちの名前が続いている。オレはもう1度最初に戻って、思い切って「Damo」の項目を開いてみることにした。また回線を切られるかと思ったけれども、回線が切れることはなく、変化した画面の最初にたった1つの言葉が記されていた。
 オレの心臓と思考が一瞬止まる。画面の上の方に、小さく「処分」とだけあった。
 まさか、既に駄蒙は殺されてしまっているというのか? 誰にも会わせず、別れの言葉も残させずに。
  ―― その時だった。
 急にオレはめまいのような感覚に襲われていた。たまらずに目を閉じると、座っていた椅子が突然消失したようになって、投げ出されたオレは固い床に背中と頭を打ち付けていた。何が起こったのかはまったく判らなかった。やがて痛みにうめきながら身体を起こし、目を開けると、周りの風景は今までオレがいた部屋とはまるで違っていたのである。
 ほぼ真っ暗に近く、床は湿り気の多いコンクリートだった。乗り物に酔った時のようなめまいの感覚と吐き気が身体に残っている。この感覚は覚えがあった。オレは葛城達也に瞬間移動させられたのだ。
 なるほど、葛城達也はこれ以上オレに探られるのは嫌らしい。それだけが理由ではないのだろうけれど、このやり方はいかにも葛城達也らしかった。
 しだいに目が慣れてくる。元いた部屋とさほど変わらない広さを持つその場所は、剥き出しのコンクリートが半ば瓦礫のように波打ったままの状態でそれでも何とか部屋の形をとどめている。おそらく地下室なのだろう。割れたコンクリートの隙間から地下水が染み出していて、苔と虫がわいている。ここが、ミオが言っていた牢なのかもしれないと思った。というのは、誰かがここにいただろう痕跡が、そこかしこに残っていたからだった。
 残っていたものが放つ臭いは耐えがたいというほどではなかったが、オレの気分を滅入らせるには十分だった。と同時に気付いていた。オレは本来、ここに入れられるべきだったのだ。記憶障害さえなかったら、オレはコロニーの重要人物として、捕らえられたと同時にここに送り込まれていたのだろう。おそらくボスも、駄蒙も、今までの5日間、ここと同じような場所で過ごしていたのだ。
 記憶を消されて、オレは幸運だったのかもしれない。おかげでミオと語り合うことができた。成長したミオと、良い環境で共に過ごすことができた。
 オレはこの環境のギャップに戸惑いつつも、現実を受け入れていた。
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記憶�U・71
 ミオの唇がオレを求めていることが判ったけれど、オレは反応できなかった。ミオを愛しいと思う、15歳のオレ。ミオを愛する32歳のオレ。その2つの心がせめぎあい、形を無くした。自分の心が判らなかった。
 この子は、いったい誰だ? オレの娘である記憶と、オレの恋人だった記憶を持つこの子は……
 ミオはどう思っただろう。キスをやめて、オレの目を覗き込んだミオの表情は、先ほどまでとほとんど変化はなかった。
「パパ、……パパはどっちがいいの? あたしが娘の方がいい? それとも、恋人の方がいい?」
 ミオの気持ちを知る前なら、あるいは答えは決まっていたかもしれない。
「……ごめん、ミオ。オレには判らない。ミオの気持ちは判ったけど、自分の気持ちが判らないんだ」
 オレは少し混乱していた。一気にいろいろなことを聞きすぎて、考えることが多すぎて、メモリが足りなくなっている。オレには時間が必要だった。自分を構築しなおす時間が必要だった。
「あたしの気持ちを判ってくれたのならいい。……あたしね、今が1番幸せなの。パパがあたしの傍にいてくれて、あたしのことを愛してくれて、あたしはパパのことが1番好きなんだって、素直に言える。パパがあたしの気持ちを判ってくれる。……15歳の伊佐巳は、あたしが誰の娘でも、あたしがどんな名前でも関係なく、あたしだけを見て好きになってくれた。そんな15歳の伊佐巳もパパの一部だもの。パパがこれからどちらを選んでも、あたしは変わらない。約束したから。15歳の伊佐巳を、あたしは忘れないわ」
 ……たぶん、オレの中でも答えは出ているのだ。だけどオレはそれをミオに告げる決心がつかなかった。初めて、オレを選んでくれた女の子。オレはこの子に恋をして、1つになりたいと思った。オレ自身がこだわるもの。そのすべてを排除することができたら、オレは素直にこの子を受け止めることができるだろう。
「……オレも、忘れてないよ、ミオ。これからも絶対に忘れない」
「本当に?」
「オレがこれから恋をする女の子は、ミオ以外にはいない」
「……じゃあ、信じてあげる」
 そう言って、ミオはオレから離れた。

 いろいろなことを思う。
 オレが抱く常識は、偽の記憶を植え付けられて偽の人生を歩き始めたときから、少しずつ育まれてきた。
 オレはさまざまなものに歪められて、自分の真実を見極めることさえできずにいる。
 記憶のないことに苛立っていたあの頃が1番、オレはオレの真実に忠実に生きていたのかもしれない。

 ミオが部屋を出て行って、オレは風呂に入った。
 いよいよ、オレのこれからが、葛城達也によって決定される。
 オレとコロニーの運命が決まるのだ。
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記憶�U・70
「でもね、それからしばらく経って、気付いたの。うちには確かにママはいない。でも、パパの中にはちゃんとママがいるんだって。パパはずっとママのことを好きなんだ、って。……ほんとにたまにだったけど、パパはあたしを見て、ママに似てるって言った。顔つきが似てきたとか、ちょっとした表情がそっくりだとか。今ならあたりまえなんだって思うけど、その頃のあたしは、ママに似ているのが嫌だった。……知らなかったよね」
 ミオの話す昔話は、オレには心当たりのないことばかりだった。ミオがオレの言葉で傷ついていたことも知らなかった。この子が勝美に似ているのはあたりまえなんだ。勝美の遺伝子をそっくり受け継いだ、勝美のクローンなのだから。
「オレはそんなに勝美のことをミオに話していたのか?」
「ううん。あんまり話さなかった方だと思うわ。でも、たまには話してくれて、勝美はいつも髪を短くしていたとか、あんまり女の子らしい服装をしなかったとか。そんなことを聞くたびにあたし、髪を伸ばしたり、スカートをはいたり、できるだけママに似ないようにしていたの。パパがママを思い出さないように、あたしとママを比べないように。あたし自身を見て欲しかったのかな。いつからか、そんなことをしてもパパのお嫁さんにはなれないんだって、判ったけど」
 ミオの幼い頃の心の動きは、もしかしたら小さな女の子にはよくあることだったのかもしれない。ミオを育てているうちに、オレの中の勝美の輪郭は、少しずつ失われていった。そもそも勝美はたった2週間しか傍にいなかったのだし、オレは勝美の恋人ですらなかった。たった一度、キスをして、怒られたけど、勝美はたぶん恋も知らないくらい幼くて、ぼんやりしていて、自分の回りの環境を受け入れることだけで精一杯だった。
 記憶が戻ったとき、オレはミオを思い出した。だけどオレは本当のミオを半分も知らなかったのかもしれない。ミオが勝美と違う人間なのだと頭では判っていたはずなのに、オレはミオを1人の人間として見ていなかったような気がする。オレはミオを育てていたのではなく、勝美の子を育てていたのだ。
 幼いミオは無意識に感じていたのだろう。勝美の亡霊がミオを縛っている。そうさせてしまったのはオレなんだ。
「ミオ、お前は勝美には似てないよ。確かに顔はよく似ているけど、オレは今ミオを見て勝美を思い出すことはない。オレにとって、この顔をした16歳の女の子は、勝美じゃなくてミオなんだ」
 オレの気持ちが伝わったのだろうか。ミオは腕を放して、オレの首に腕を絡ませた。
 間近になってしまったミオの表情は、既にオレの娘の顔をしてはいなかった。
「あたし、15歳の伊佐巳に、ほんの少しだけ嘘をついたかもしれない。……あたしは伊佐巳をパパと切り離して見ようとしてたけど、そのつもりだったけど、やっぱりどこかでパパを重ねてた。小さい頃にパパのお嫁さんになりたかったこと、忘れてなかった。15歳の伊佐巳の恋人になったら、32歳のパパの恋人にもなれるかもしれないと思ったの」
 オレの中で、15歳のオレが叫んでいる。ミオが好きだと。ミオを抱きしめたいと。
 15歳の伊佐巳は死んではいない。むしろ15歳のオレの方が、32歳のオレよりも純粋な気持ちでミオを愛していた。
「パパでも、伊佐巳でも同じ。黒澤伊佐巳があたしの少年だから」
 そう言って、ミオは唇を重ねた。
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記憶�U・69
「……美人、なんだ、サヤカは」
 ミオは半ば呆れたようにため息をついて、苦笑いで返した。
「なんとなく知ってたけど、改めて確認。パパって、女の子の顔に興味ないでしょ」
 ……言われてみて思い出すと、オレが過去に恋をした女の子は、みんな世間並みかそれ以下だった気がする。一般に美人と言われる女性と知り合ったことがない訳じゃなかったけれど、オレはその人が美人だということが周りに言われるまで気がつかないのだ。子育てに必死になっている頃、あとから思えばお見合いだったかもしれないような席に引っ張り出されたことが何度かあった。紹介してくれる知人はその人を美人だと褒めそやすのだけど、オレの方はそう言われて初めて気がつくようなありさまだった。
「あたし、よく連れて行かれたのよね、パパのお見合いに。隣のおばさんとか、ハンサムのパパに似合うようにきれいな人ばっかり連れてきたのに、パパは全然興味がないみたいで、おばさんよくあたしに愚痴をこぼしてたもの。……思い出した。あたし、パパのお見合い相手を葬り去る天才だったのよ。あることないこと相手の人に吹き込んで、諦めさせちゃうの」
 どうやらオレが気付かないところで、オレを再婚させる動きはかなり活発に展開されてたらしい。再婚とは言ってもオレは勝美と結婚していたわけじゃないのだけれど。
「オレはそうとう鈍かったらしいな」
「そういうところも伊佐巳の魅力の1つだと思うのよね」
  ―― そう、言葉が発せられた瞬間は、言ったミオも、言われたオレも、気付かなかった。
 そうだ、いつからだ? オレはいつからミオに対して「パパ」と言わずに「オレ」と言っていた……?
 オレの沈黙に、ミオも気付いていた。自分が父親のことを「伊佐巳」と呼んでいたことに。
 2人の間に緊張が流れていた。触れることを恐れていた。15歳の伊佐巳を封じ込めたあの時から。
「……ミオ」
 オレが声をかけると、ミオは少し緊張を解いて、微笑を浮かべた。
「ミオは、そう呼びたいのか?」
 ミオの微笑みは、けっして父親に対するものではなかった。オレが恋をした少女の、オレのことを好きになると言った時から少しずつ変化してきた、たった1人の男に対する微笑。
「……どちらでもいいわ。あたしには同じだから。パパも、伊佐巳も」
 オレは何も答えることができなかった。呆然と見守る前で、ミオは絡ませた腕に力を入れた。
「……子供の頃、ね。まだ小学生になったばかりくらいの頃、ハルちゃんに打ち明けたことがあるの。あたしは大きくなったらパパのお嫁さんになるんだ、って。ハルちゃんは「パパのお嫁さんにはなれないんだよ」って言った。でも、それがどうしてなのかはハルちゃんにも判らなくて、2人で一生懸命考えたのよ。そのうちハルちゃんが「パパにはママがいるからだよ」って言ったの。だからあたし、安心した。うちにはママがいないからハルちゃんとは違う。あたしはパパのお嫁さんになれるはずだ、って」
 ミオはずっと微笑みながら話していたのだけれど、その声はオレには切なく響いた。
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記憶�U・68
 ミオと話さなければ、オレは罪を罪と知らないまま、駄蒙を死なせていたのかもしれない。今回のことだけではなく、オレは今までの32年間で、多くの罪を犯してきた。罪は償われなければならない。オレがそうと認識できなかった罪は、これまで償われてこなかった。罪を償うということは、罪を罪と認識するところから始まるのだ。
 ミオは既にオレを必要としていないのかもしれない。ミオがオレを必要だと言い、未だオレを自慢のパパと呼ぶそのことこそが、ミオの背負うオレの影なのだろうか。
 ミオは、頼りにならない父親を見下す、あるいは見放す自分を恐れているのだろうか。
「お待たせ、パパ」
 呼び声に顔を上げると、ミオは満面の笑顔で部屋に戻ってきた。オレが微笑み返すと、ベッドのオレの隣に腰をかけて、自然な動作で腕を絡ませた。
「ついでにみんなの様子を見てきたら遅くなっちゃった。ごめんなさい」
「みんな? コロニーのか?」
「ええ。……コロニーが達也に勝てなかったから、みんな不安なの。自分たちがどうなるのか気になるのね。ほんとはあたしじゃ力不足なんだけど、少しでも元気付けてあげたかったから。達也はみんなの命を助けるつもりみたいだって、話してきたの」
 この子は今までもずっとそうしてみんなを励ましつづけてきたのだろう。この3年間、コロニーの人たちが閉じ込められてきた軟禁室を行き来できるのはミオだけだったのだ。
「オレたちの力が足りなかったばっかりに、みんなを不安にさせてしまったな」
「誰もパパたちを悪く思ってないわ。パパもボスも精一杯やったんだって、みんな判ってる。だからパパが落ち込む必要はないのよ。過去は過去。みんなが今考えているのは、自分の未来のことだもの」
 オレが考えなければならないのも未来か。そうだな。オレは未来を手に入れるために、過去の記憶を取り戻したんだ。
「オレの未来はどうなるのかな。皇帝はお前に話しているのか?」
「パパが記憶を取り戻してからは、あたしまだ達也と話してないから。でも、前に言ってたの。パパが記憶を取り戻したら、あたしとパパを解放してくれる、って。だから、たぶん追放になると思うわ。パパとボスと、コロニーの希望者は」
「追放か。……東京にかな」
「東京にはまだ生き残ってる人もいるかもしれないわ。あたしとパパと、ボスとサヤカの4人で東京に入れば、生き残っている人たちと協力してまた違う道が開けるかもしれないもの」
 オレはミオの言葉に驚いた。
「サヤカはオレたちと一緒に来るのか?」
 ミオの方もオレの言葉に驚いたようだった。
「どうして驚くの? とうぜん一緒に来るわよ。サヤカがボスと離れる訳ないもの」
 ……そういえばミオは言ってなかったか? サヤカはボスのことを好きだから、皇帝はボスを殺せないのだと。オレは3年前のサヤカを思い出そうとした。ミオと同年で13歳だったサヤカは、オレの記憶の中ではミオの友達の小さな子供のままだった。
「……ええっと、いつからそういうことになったんだ? ボスとサヤカは」
「さあ、サヤカの中では3年前から決まってたみたい。ボスの方はよく判らないけど、サヤカは美人だし、頭もいいし、すごくお似合いだと思うわよ」
 ミオはそう言ったけれど、オレはサヤカが美人だったかどうか、それすら詳細にイメージすることはできなかった。
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