蜘蛛の旋律・90
 シーラは幼い頃、大切な人をアフルの所属する組織に殺されたことがある。その恨みが彼女を支えていた。シーラが優秀なスパイとして生きているのは、その人を殺した人間に復讐するためだった。
 葛城達也は、彼女にとっては仇なんだ。そして、葛城達也の下で働くアフルも、彼女の復讐の対象になる。
 たぶんシーラは頭では判っているのだろう。だけど、今まで生きてきた物語の設定というのは、そう簡単に彼女を解放してくれるものじゃないのか。今は敵とか味方とか言っている時じゃない。オレたちが仲違いをしていては、野草を救うことだってできないかもしれないんだ。
 シーラはアフルから目をそらすように、オレに振り返って言った。
「巳神、タケシに自我を持たせる方法を教えてくれてありがとう。だけど、あたし、タケシの記憶を戻したくないの」
 シーラの目は明らかに悲しみをたたえていて、オレはそんなシーラから目を離すことができなくなってしまった。……そうか、タケシの記憶は永遠に実らない恋をしていた記憶。シーラはそんな悲しい記憶をタケシに蘇らせたくないんだ。
 見ていたアフルにもシーラの心の動きは判ったようだった。おそらく、人の運命を司る巫女にも、シーラの心は理解できたのだろう。
「タケシはたぶん、物語の中にいたほうが幸せなんだね。……あたしもタケシと同じ場所にいたかったよ」
 もしかしたら、シーラの言葉は、ここにいる自我を持ったキャラクター全員の気持ちだったのかもしれない。
 野草の物語の中には、幸せな恋をしているキャラクターもたくさん存在していたことだろう。シーラだって、もう1つの物語の記憶がなければ、最後にはタケシと幸せになっていたはずだった。ここにいるキャラクター達は、自分の物語に満足できなかったキャラなんだ。永久に幸せになれない物語の中にいることが耐えられなくて、ただ幸せになりたくて、彼らは自我を持ってしまったのかもしれない。
「シーラ、ここにタケシを縛り付けておくのは危険だよ。君は見なかったかい? そろそろこのあたりも、世界の崩壊に巻き込まれそうなんだ」
 オレはこのアフルの言葉で、さっき自分の目で見た空の破れ目を思い出した。
 偶然だったのだろうか、そのおかげで、オレは今まで自分が考えていたことを忘れてしまっていたのだ。