蜘蛛の旋律・87
 初めてシーラに出会ったときから、オレは恋をしていた。
 1年前、野草の小説を読んで、その華麗な演技力と瞳の美しさに魅了された。
 シーラは小説の登場人物だった。だけど今、彼女はオレの目の前にいて、オレを見つめ、オレにキスをした。それも彼女の演技だったのかもしれない。彼女の恋の演技は完璧で、誰にも、あのタケシにさえ、見破ることはできなかったんだ。
 今、彼女と同じ小説の登場人物であるオレには、彼女の本当の心は判らない。おそらくタケシも同じ想いでシーラを見つめていたのだろう。
 演技の愛に、オレたちは翻弄されていた。
「この小説がハッピーエンドになったら、君はまた小説の中に戻ってしまうんだろ?」
 もしも野草が生きることを選んだら、またシーラとタケシの物語の続編を書くのだろう。オレは二度とシーラと触れ合うことはできなくなる。
「そうだね。……たぶん、この夜のことは忘れちゃうと思う」
 だから、彼女はオレに触れたのだろうか。たった一夜だけの関係だったから。
「オレは忘れたくないよ。君のことも、この物語のことも」
「巳神は忘れないでいて。……ここにはあたしがいる。巳神に恋したあたしがいるって……」
 嘘……なのだと思う。だけど、今ここにいるシーラは、オレの想いにこたえてくれた。オレに恋してくれるシーラは、確かに野草の下位世界に存在しているんだ。
 シーラにも、オレを覚えていてほしかった。明日になれば忘れてしまうのだとしても、せめて今夜、オレがこの世界に存在する間だけは。
「シーラ、もしかしたらタケシは自我を持つことができるかもしれない」
 シーラは何も言わなかったけれど、薄闇でもはっきりと判るくらい、瞳の輝きを増した。
「君が持っている、パラレルワールドの物語の記憶。その記憶を思い出させることができたら ―― 」
 いずれ消えてしまう記憶であっても、オレは彼女の中で、タケシと堂々と渡り合うことが出来る男になりたかったんだ。