桜色迷宮43
 小池先輩が最後にボソボソッと言った言葉はあたしには聞こえなかった。だけど美幸先輩には聞こえたようで、いくぶん顔を赤くして手にしたジュースを一気飲みすると、小池先輩は声を上げて笑った。その声を聞きつけたのかOBの先輩が叫ぶ声がする。
「コラー! 小池ぇ、飲んでるかぁ?」
「飲んでませんよ! だいたいここって酒類の持ち込み禁止なんじゃないんですか? いいんすか、缶ビールなんか持ち込んで」
「いいんだよ。文化祭のOB会じゃここで大宴会をやらかすんだ。持ち込みがダメってこたあねえよ。いいからおまえも付き合え!」
 小池先輩がしぶしぶ腰を上げたとき、美幸先輩の唇が「飲むなよ」って動いたのが判った。小池先輩が判ってるという風に手を上げて行ってしまうと、先輩は足を崩して苦笑を浮かべた。
「意外と話せないな。同じクラスになればもう少し一二三ちゃんと話ができると思ってたんだけど」
「先輩が忙しすぎるんです。裏方と生徒会長の両立なんてたいへんすぎます」
「役員は生徒会に立候補できないって決まり、あれはきっと「両方なんて金輪際やりたくない」っていう役員の気持ちの表われだったんだろうね。 ―― 決めた。生徒会長権限で、これから一二三ちゃんに夜の見回りに付き合ってもらう」
 いきなりそう言った美幸先輩はすでに立ち上がっていて、さっさと河合会長に話をつけるとあたしの手を引いて部屋を出てしまったんだ。あたしはびっくりしてしばらく先輩のあとを歩いていたのだけど、階段を降りかけたところで足を止めてしまった。
「あの、先輩、あたしパジャマで」
 振り返った先輩は一瞬首を傾げたけれど、すぐににっこり笑ってくれた。
「そのパジャマ、かわいいね。ずっと言おうと思ってたんだ。それと昼間のブラウスも。……大丈夫だよ。みんな似たような格好だし、それに校内だから外部の人間に遭うこともないしね。まさか寒い訳じゃないだろう?」
 確かに今は真夏で、まだ夜の10時過ぎだから寒いことはなかった。だけどあたしは子供の頃から身体が弱かったから、夜中にパジャマで出歩くなんて考えたこともなかったんだ。だからこんな小さなことでも勇気が必要で、前を歩く美幸先輩が手を差し伸べて微笑んでくれなかったら、きっとそれ以上足を動かすことはできなかっただろう。