蜘蛛の旋律・29
「あのね、巳神。人間の五感なんて、それほど広い範囲を知覚してる訳じゃないんだよ。耳や鼻は犬の方が遥かに優秀だし、コウモリやイルカは超音波も知覚してる。人間が見たり触れたりできないってだけで存在を否定しないで欲しいな。電波なんて、誰も感じないのにすごく広範囲で利用されてるじゃない」
 そう言われてしまうと、オレに返す言葉はなかった。……人間の願望が心の中に存在しているのは確かだ。それが、人間が知覚できない物質として存在している可能性だって、ゼロじゃないんだ。
「判った。認めるよ。人間の願望は、人間が知覚できない物質として存在している」
「普通の状態ではね。だけど、自分の願望の世界を自分で知覚する方法はあるんだ。それが、寝ているときに見る夢なの。夢の中では、心の世界の物質は触れることができるし、音を聞くことも、その世界の人間と関わることもできる。……シーラが巳神に、ここが薫の夢の中だ、って説明したのは、今、巳神がこうしてその物質を知覚しているのが、夢の中の状態によく似ているからなんだ。要するに、巳神が今いるこの世界は、普通の状態では知覚できない、薫の心の物質が形作っている世界なんだ」
 ここは、野草の心が物質化した世界。
 だからシーラがいる。黒澤弥生もいる。野草の小説の登場人物であるアフルや、会ってはいないけどタケシがいる。ここにいるシーラは小説のモデルなんかじゃない。本物なんだ。この世界で、シーラは優秀なスパイとして生きているんだ。
 だけど……それならなんで、オレがここにいるんだ? オレがオレの心の世界を自分の夢として知覚できるのは判る。だけど、なんでオレが野草の心の世界を知覚しているんだ?
「野草の心の世界が存在していることは判ったよ。黒澤、あんたはオレがなぜここにいるのか、それも判るのか?」
 その時黒澤は、初めてオレを振り返った。
「それも説明するよ。だけど、その前に知りたくない? どうして新都市交通がモノレールだったのか」
 確かに、それもオレが知りたいことのひとつではあった。