蜘蛛の旋律・49
 最初の一撃を何とか避けることができたのは、オレと老人との間に約60年の年齢差があったからだ。バランスを崩して本棚に倒れ込んだ老人を避けて、オレは道路に飛び出した。シーラはオレより早く本屋から出て少し距離を置いたところで身構えてる。振り返って見ると既に老人は立ち上がっていて、開かれたままのドアを出てくるところだった。
 たぶん走ればぜったいオレたちのほうが速い。もしもシーラが駆け出していたのならオレの足も動いてくれてたのかもしれない。だけど、いったん振り返って包丁を振りかざした老人を目にしたら、それだけで足がすくんで動けなくなってしまったのだ。老人はちょっとぎこちない仕草で近づいてきて言った。
「……わしでない異質なものは排除せねばのお……」
 あたりは既に暗くてはっきりとは見えなかったのだけど、街灯の明かりに映し出される老人の様子は明らかに常軌を逸していた。オレを上目遣いに見つめて、意味の判らない薄笑いを浮かべている。オレは本当に恐ろしくて、心の中で見えない誰かに助けを呼びつづけた。ここは黒澤弥生の小説の中で野草薫の下位世界なんだ。誰でもいい、誰かオレを助けてくれる奴を小説に登場させてくれよ黒澤!
 完全に体勢を立て直した老人はもう目の前に迫っていた。包丁はオレの顔面に向かって振り下ろされようとしている。小さな痩せた老人はものすごく巨大な存在に見えた。何のことはない、いつの間にかオレは座り込んでしまっていたんだ。
 その時だった。
 なんだかすさまじく嫌な音がして、老人が苦悶の表情を浮かべて目の前に倒れこんだのは。
 その意味はすぐに判った。シーラがオレと老人との間に割り込んで、老人に当て身を喰らわせたのだ。
「……巳神、立ったら?」
 振り返ったシーラは、心底呆れたようにため息をついた。まだ膝も腰も怪しかったのだけど、これ以上恥をかくのも悔しかったから、何とか平静を装って立ち上がった。……たぶん、たいしたフォローにはならなかっただろうけど。
「……なんかすごい音がしたけど……」
「骨くらい折っとかないと危ないでしょ。しっかりしなよ。相手は普通の年寄りなんだよ」
 身体もそれほど小さくない男が、美人でたおやかな女性に救われたという事実は、それだけでかなり赤面モノだった。