蜘蛛の旋律・39
「巳神はあたしのこと、小説の登場人物としてしか知らないでしょ? でも、薫が事故に遭うまで、あたしは巳神と同じ現実の世界で、小説の設定の通りに生きていたの」
 車は病院に到着して、オレとシーラは車から降りて、病院の中を移動していた。その間にシーラは話し続けていた。まるで今までの沈黙の時間を取り戻すように。
「パートナーのタケシと一緒にホテルにいたの。そうしたら突然、空気が変わった。その時あたしはシャワーを浴びてたんだけど、それでもはっきり判るくらいの変化だった。……その瞬間、あたしはすべてを知ったの。あたしが生きている世界は「野草薫」って名前の女の子の下位世界で、あたし自身は薫の小説のキャラクターなんだ、って」
 遠くを見ながら、まるで独白のようにシーラはしゃべりつづけている。しゃべっている間、シーラはオレを振り返ることはしなかった。
「どう、表現したらいいのかな。まるで今まで騙されてたみたいで、すごく大きな失望感があった。あたしが今まで持ってた自分の存在に対する自信ていうか、そういうものがすべて覆されたみたい。……それからあたし、シャワー室から出て、タケシのところへ行ったの」
 このときシーラは言葉を切って、初めてオレを振り返った。ドキッとした。その表情は、まるで泣き出す寸前みたいだったから。
「タケシはね、あたしが何て声をかけても、同じ言葉を繰り返すだけだった。何を言っても、どんな言葉をかけても、ただ『先に使えよ』って。……あたし、このときものすごくパニックで、タケシの顔を叩いたり、訳の判らない言葉をわめき散らしてた。だけど、少しだけ落ち着いてきて、判ったの。タケシが言ってる『先に使えよ』って、あたしがシャワーを浴びる前にあたしに言った、タケシの最後のセリフだったの。
 それであたし、思い出した。シャワー室から出てきた自分のセリフ。『おまたせ。タケシもシャワーしてきたら? 汗っかきなんだから』 ―― そう、あたしが言ったら、やっと物語が動き出したの。『そうだな』ってタケシが返事をして、そのままシャワー室に歩いていったの」