蜘蛛の旋律・45
 1年半前、入学と同時に文芸部に入部したオレは初めて野草に会って、その数日後、初めて野草の短編小説を読んだ。毎月発行している文芸部の会誌にはすぐに野草の枠が作られて、6ページを割り当てられた野草は、毎月正確に6ページの短編を書き続けた。野草が長編小説の原稿を持ってきたのはそれから半年くらい経った頃だ。題名のついていないその小説で、オレは初めてシーラに出会った。
 小説の中のシーラは間違いなく生きていた。短編よりも遥かに詳細に人物設定されたその小説の中で、オレはシーラとタケシの生き方を追体験しながら、彼女に恋をしていた。オレはシーラにあこがれていた。シーラと一緒に生きることのできるタケシを羨ましく思った。
 オレは今野草の、黒澤弥生の小説の中にいる。オレは今、あの時羨んだタケシと同じ場所にいるんだ。
「巳神、9時を過ぎたよ。薫が死ぬ時刻まであと8時間しかない。これからどうするの?」
 シーラがオレを頼っているのは、黒澤弥生がオレをこの小説に招いた事実があるからだ。もしもオレに野草を救う力がなければ、彼女はあっさりこの場から去っていくだろう。
「シーラ、君は確か、自我を持ったキャラクターが誰なのか判る、って言ったよね。それを教えてくれるか?」
 シーラは少しだけ考えて、言った。
「あたしの小説のキャラではあたしだけだね。信の小説も信だけみたい。あと、『地這いの一族』って仮題のついた小説に出てくる巫女と武士でしょ、それから、アフルの小説ではアフルと葛城達也。それと、作者の黒澤弥生、かな」
 シーラが言った小説の中で、オレが知らないのは片桐信が出てくる小説だけだ。他の小説は全部読んだことがある。……そうだ、さっき空に舞っていたあの子供。シーラが言ったキャラクターの中に子供はいなかったし、子供と見間違うほど身体の小さな人間もいない。だいたい野草の小説に子供が出てきたことはないんだ。シーラの知り得た情報に間違いがないなら、あの子供はいったい誰だったんだろう。