記憶�U・86
 小さなミオに別れを告げた。
 オレの娘はオレの手の届かないところにいる。
 オレの恋人は、今でもオレを待っていてくれるのだろうか。

 湿った地下牢の中で目を覚ましたオレは、ボスに会うために再び牢を抜け出すつもりだった。サヤカはまだ来ない。当然扉の鍵は開いているはずだった。
 しかし、鍵はかかっていた。サヤカがオレに黙って鍵をかけたとは考えられない。サヤカが来たのならば、いくらオレが眠っていたとしても気付かないはずがないのだ。
 誰かが、鍵をかけた。音もなく忍び寄り、オレに気配を悟られずに。
(葛城達也、か……)
 それ以外考えられなかった。奴は、オレが牢を抜け出したことに気付いていたのだろう。それを承知でオレはサヤカに頼んだのだ。ひとたびは見逃しておきながら今鍵をかける理由を、オレは思いつくことができなかった。
 いったい何を考えているのか。
 もしかしたら、サヤカがここにくることは、2度とないのかもしれない。
 1人地下牢の中に閉じ込められていると、時間の感覚というのはなくなっていく。起きている時間を計ることはできても、眠っている時間を計ることはできないからだ。今はいったいいつなのか。朝か、昼か、それとも、既に夕刻に近いのだろうか。
 オレはそのまま何をすることもできず、数時間を過ごした。サヤカの言っていた食事を運んでくる人間も現われなかった。もしも、このまま食事も水も与えられずにいたら、オレはどのくらいの間生きられるのだろう。正気をどのくらい保つことができるのか。発狂と死と、いったいどちらが先に訪れるのだろう。
 喉の渇きと空腹。耐えられなくなったら、オレは壁に滴る水を舐め、蠢く昆虫を食うのかもしれない。生命欲とプライド。オレの中に最後に残るのは、いったいどちらなのだろうか。
 時間の感覚がなくなる。思考が失われてゆく。昆虫の蠢くかすかな音が別の音に聞こえる。誰かが笑っている。 ―― あの声だ。オレの夢の中に存在していた、葛城達也の仮面をかぶった亡霊。
 眠ることしかないと思った。狂気を忘れるにはそれしかないと。