記憶�U・85
 地下牢の暗闇で目を開けてからも、オレはしばらく呆然としていた。得体の知れない昆虫は相変わらずざわざわと蠢いていたし、染み出した地下水が滴り落ちる規則的な音も聞こえていた。心臓の高鳴りは続いていた。いったいなんて夢を見たのだろう。
 しだいに思考力が戻ってくる。夢の内容を辿って、オレは愕然とした。そこにはオレのすべてがあった。オレがずっとこだわってきたことも、オレの心の叫びも。
 これが、オレの本音だ。ミオを誰にも渡したくない。誰を好きになって欲しくもない。いつまでもオレの傍にいて、オレのものでいて欲しい。もしもミオが他の誰かを好きになっても、絶対に渡したくない。たとえミオが不幸になっても。
 オレはもう、あの子の父親じゃない。あるいは以前からずっとそうだったのか。ミオが他の誰かに目を向けることがなかったから、そうと気付かなかっただけなのか。……今、初めて、オレは自分に出会ったのだ。恐れていた自分自身に。
 夢の中では、オレが不安に思っていることが、すべて実現していた。
 オレはミオが去ってゆくことを恐れている。離れていた3年間を、ミオに責められることを恐れている。記憶を取り戻したあの時、オレは15歳の伊佐巳を切り捨てた。そのことでミオに恨まれるのを、オレは恐れている。
 もう、遅いのだと、ミオは言った。オレは既に遅いのだろうか。今からでは間に合わないのだろうか。ミオはもう、オレを見限ってしまっているのだろうか。
 そうは思いたくない。まだ間に合うのだと信じたい。ミオの心は変わっていないのだと。
 周囲を見回して、オレはさっき自分の牢に戻ってきて眠ったのだということを思い出した。いったいどのくらいの時間、オレは眠ったのだろう。地下室の何の変化もない場所でいったん眠ってしまうと、時刻というものがまったく判らなくなってしまう。既に朝になっているのだろうか。もしもそうなら、ボスと話の続きをしたいのだけれど。
 眠っているボスを起こすことになっては気の毒なので、結局オレはそのまま再び眠ろうとした。
 しかし、そう簡単に眠ることはできなかった。だから自然にオレはミオのことを考えていた。15歳のオレが好きになった、ミオという少女。小さいのに強くて、しっかりしているようでどこか鈍くて、どんな表情をしてもそのたびにオレを惹きつけた。健気な女戦士のような、1つ年上の少女。
 16年前に抱き上げた小さな命。赤ん坊のミオはとても人間のようには見えなくて、だけどオレがいなければ生きられない小さな生物に、オレは夢中だった。赤ん坊は少しずつ子供になって、人間になって、言葉を覚え、自我を持った。友達とケンカをして泣いて帰ってくることもあった。わがままを言って叱ったこともあった。なんでもオレに相談する子だったけれど、いつの頃からか秘密を持つようになって、自分の世界を持った。オレの知らない世界を知っていった。
 オレは普通の父親がどういうものなのか知らない。だけど、今思うことは、父親というのは結局子供の人生を一定期間預かっているだけなのだということだ。オレは13年間、ミオの人生を預かった。オレは彼女の父親として、できることのすべてをしてきたはずだ。
(……10分だけ、会わせてもらえるかな。そのあとはあたし、伊佐巳の傍にいたい)
 オレは、娘に捨てられたのだろうと思う。彼女が伊佐巳という15歳の少年に恋をした瞬間に、彼女の中から父親は消えたのだ。本当にオレが殺すべきだったのは彼女の父親としての黒澤伊佐巳だ。15歳の伊佐巳でも、32歳の伊佐巳でもなく、ミオの父親である黒澤伊佐巳なのだ。
 オレは再び眠ってしまった。次に目覚めるまで、夢を見ることはなかった。